尾張・三河外の展開―美濃(みの)須衛窯と東濃の諸窯

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美濃では、各務原(かがみがはら)市から岐阜市へ続く木曽川北岸の丘陵に美濃須衛(すえ)窯が広がり、現在百三十基余の須恵器〔注:高火度焼成の灰色無釉陶〕・瓷(し)器窯が知られ、うち瓷器窯は約二十基とされます。
これらは須恵器廃絶後の10世紀に尾北や猿投の影響下で復活しましたが、12世紀以降は東海各地のように一斉に山茶碗化せず、その一部が細く生産を継続しました。
無釉ながら古瀬戸と同形の四耳壺を焼いた窯(稲田山背後)があり、鎌倉中期過ぎまで操業したことがわかっています。
中世美濃の重心は多治見(たじみ)・土岐(とき)など東濃で、古瀬戸的施釉陶の窯と山茶碗窯が併存し、近年の発掘で膨大な山茶碗窯が確認され、15世紀末に始まる大窯へ連続する様相が明らかになりました。

要約(300–500字)
美濃須衛窯は須恵器・瓷器を母体に10世紀ごろ復活し、12世紀以降も一部は山茶碗化せず生産を継続しました。無釉で古瀬戸同形の四耳壺を焼く窯も確認され、鎌倉中期の操業が推定されます。中世の中心は東濃の多治見・土岐で、古瀬戸系の施釉窯と山茶碗窯が並走し、発掘成果から15世紀末の大窯体制へ技術・生産が接続したことが見えてきます。結果的に、美濃は瀬戸と呼応しつつ独自の器種と生産構造を育てました。

【関連用語】

  • 美濃:東濃を核とする陶郷。のちに志野・織部・黄瀬戸を生む。
  • 瀬戸:施釉陶の先進地として美濃と相互影響。
  • 灰釉:中世初期の施釉基盤技術。
  • 猿投・常滑:美濃復興期に影響を与えた周辺古窯圏。