【原文】[Original text]
多久藩の苦心
右は金ヶ江三兵衛が、有田の白磁臓を發見して磁器製作を創始せるより、百数十年後の出来事である。右の文書を見れば、若し多久領の陶器山が、愛に磁器山として復興することは、有田窯焼の好まざる事とて、畢竟彼等より異議を提出するか、或は又妨害の運動を起すべしとの氣分見え、多久藩に於いて頗る苦心せし様子がある。
蓋し三兵衛をして、有田の磁礦を發見せしめ、且製作事業の監督者たる多久氏の立場としては頼るデリケートにありし事は察するに余りある。
大山新窯
斯くて此企業問題は漸く解決して、磁器製造の手順にまで運びたりしが、數年の後又廢窯するに至りしものにて、之が藤の川内の大山新窯である。(西松浦郡松浦村の藤の川内は別なり)
而して文政元年四月(1818年)の多久古文に依れば、陶器山仕興しの件として「仕入元尾形三右工門並多久川只吉ヨリ舊冬仕入方御斷願差上候末山元興廢ノ振合木村又四郎見渡之處」云々といふのがある。之は同所の大山古窯を、木村又四郎に依って再び復興せしものゝ如く、斯くて之れも天保年間に至つて經營難に陥り、遂に廢滅に歸したのである。
此外同系にて杵島郡北方村西浦甕星の谷は、萬延元年(1860年)頃磁器を焼きし跡であり、なほ同地より南七八丁山越しに、唐人原と稱せら窯跡あるも、之は韓人系統のものにてはなく古来よりの日本式土器を焼きし跡である。以上を以て多久窯を終り、是より記事は立ち返りて金ヶ江三兵衛が有田鄉入を記述する。
三兵衛南川原方面へ下る
鍋島宗藩より、陶土探求の願を許されし三兵衛は、其頃下松浦有田鄉なる南川原邊に、韓人の製陶盛んなる由を聞き傳へ、一と先づ此地を目ざして、杵島街道を南下するうち、板野川内といへる處にて、同郷韓人の製陶せる山に差かりしが、此地に滞留せしや否やは不明なるも、通路のこととて必ず立寄りには相違ない。それより彼は隠れ道より小樽に入り、大神宮山金山を右手に仰ぎつゝ、大谷道より岩谷川内に出で、そして南川原の邊り、亂れ橋(今三代橋といふ)に旅装を解いたのである。
深山の有田
當時の有田郷とせられしは、今大山村より曲川村及有田村までをさせしものにて、それが大山村唐船城主有田氏の支配地であつた。其頃大木の宿が主驛なりしが如く、そして吉野、山谷黒川など、夫れぐれ一集落をなせしも、現今の有田町は當時全く深山幽谷にて、僅に樵者の徑路ありし位なる可く、唯隠れ道より小樽あたりへは五六の農家疎らに散在せしを、田中村など稱へしものであらう。故に陶山としても黒牟田や南川原地方が夙に開窯され、今の有田山の中にては、通路に面せる小樽と岩谷川内のみが、韓人最初の開窯地であつた。
百間窯説と亂橋説
偖三兵衛が最初何地にて開窯せしかにつき、従来の亂橋説に反し、板野川内の百間窯なりいふ論者もある。而して彼が多久に於いての製品と、百間窯の製品を比較して、技術の風格と其多種なる百間窯の様式とが、余りに相應はしからざる觀あるも、蹴れ橋の製品に至つては、或は多久製作の連系と見るも全く首肯されぬことはない。
或は又百間窯の古窯品が、一面相似たるものあるを以て之を武内系となすものあるも、此處は全く別系にて、三兵衛と同郷なる金江嶋出身の韓人なることは、後段に於いて之を説くであらう。此機會を以て板野川内系の各窯を記述して、記事の混雑を避くる事にする。
板野川内系
板野川内は今の杵島郡住吉村の小字にて、有田皿山より十五六町の東方に當り、山間に入りし現今十二三戸の小村落である。此處は寛永十四年(1637年)制定されし、十三皿山の一にして、當時泉山の原料を用ひて製陶盛んなりし頃は、多くの戶敷ありしものゝ如きも、今全く廢滅して抑いつ頃よりの開窯なるか、又何れの時代に廢山に歸せしかは不明である。此處の古窯趾は四ヶ所ありて、入口の左が空山であり、右が檀場切次が窯の辻、そして谷奥の堤のりが有名なる百間窯である。
百間窯とは、百個の室を連鎖せし故ではなく、特に長き登窯なりしより抽象的に呼稱せしものゝ如く、後年小樽にて三兵衛が改築せしものにも、百間窯の名が用ひられてゐる。
ゼーゲル發掘
此板野川内百間窯にては、當時の韓人が青磁釉薬の耐火抗度を試焼するに、ゼーゲル(粘土耐火檢定)を使用し居りしことは、有田郵便局長原鳥臓が、殘缺發掘中收得せしもので判断することができる。
此立体式ゼーゲルの外に、宗傅の内田窯にては橋の如く掛け渡し、共たるみ加減に依って測定する、横架式ゼーゲルを使用しつゝありしことが發見された。我が斯業界に普くゼイゲルコーンを使用し始めしは、明治二十三年ワゲネルが中途歸國の際齎らせしものなるに、彼等は既に二百七十年以前に於て此れを工夫して試みしものであつた。
百間窯
百間窯の古窯品には、飴色釉に精巧な花三島手象嵌の皿や、鶯茶釉の剣先三島手に、底菊花刷毛目文節の皿があり、或は天目涙痕にて下部光澤なしの耳附五寸花立や、飴釉にて曲線万筋文の櫛目を掻き、化粧掛の上に呉洲にて山水を描きし大皿があり、又海鼠流しの花瓶や、刑皮釉及立浪刷毛目皿がある。
其他卵色釉印花壺、建盞天目の筒茶碗 灰色釉のどろけ物や蛇蝎釉や桃色釉茶碗、黄瀬戸に鐵描文様、油滴天目の花瓶、化粧掛に李朝風の威描物又は朝鮮式薄青瓷があり、中には型紙を使用して地肌の上に浮上文飾を顕はしたのがある。其技術の優秀なるは勿論、後代の白磁、青磁、瑠璃、窯變物に至るまで多種多様なることに於いて、肥前古窯中最たるものといはれてゐる。
百間窯の磁器
又磁器に於いては、彼等が従来の作風なる小高台にて、大皿などを焼いてゐるがそれは勿論泉山の硬質原料にあらざれば、不可能の製作である。中にも尺三寸鉢の高台が、僅に二寸五分徑の太さにて焼かれてゐる、それは桔梗緑の染附にて、縁猫は牡丹唐草を文し、底には狩野風の楼閣山水を書きたるが、其唐松の筆法雄健なると、雅致なるは眞に勁抜である。
其他の染附には、地文繪六角形の香焚や、内紋機描にて、外青磁の丸碗があり。突立形三寸の火入には、松粕、竹粉、梅繪、菊繪等があり、或は千段卷形に、横書福壽繋ぎの香焚がある。又突底の茶碗には、洒脱な吳洲畫や文字書ものがあり、中には磁州窯物に見る如き、健筆な花鳥の散文がある。其外雲嗇詰の大皿や、底菊紋畫の五寸皿等がある。
檀場切
檀場切の古窯品には、黒天目の茶碗や色釉に黒斑点の突六寸皿の底目積があり、又青茶釉の氷裂文出し茶碗がある。染附磁器には底に角福銘を書き、脇に松葉を散文せし小皿があり、ギリ書の煎茶々碗にて、恰好良き厚高台のものもある。又附高台の角皿に、古印の押文を現はして、緑紅を施せし細工の巧みなものがあり、或は葉文浮出の上に薄吳洲を掛けし中皿や、菊に雲散文繪の四寸皿などもある。
板野川内窯の辻
窯の辻の古窯品には、染附磁器にて粗拙な芦邊舟畫の中皿や赤繪地の縁梅畫外誼染にて、廣底内牡丹文様の八角四寸皿がある。又鎬形の煎茶々碗に、壽の字を三方書せるもの、或は内青磁外吳洲にて、古雅な柳を描きし同物などがあり、此處は多く煎茶々碗を焼いてる。斯くの如く製陶盛んなりし板野川内も、今や全く廢滅して農家疎らに点在するのみ。見渡せは打拓かれたる畑一面へ、磁器の破片が秋光に輝きつゝ、往時の名残を留めてゐる。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
多久藩の苦心
これは金ヶ江三兵衛が有田で白磁の鉱脈を見つけ、磁器づくりを始めてから百数十年後の出来事である。文書によれば、もし多久領の陶器山を磁器の窯場として再興すれば、有田の窯元が快く思わず、異議や妨害が起こりかねないとの空気があり、多久藩は大いに苦労した。
三兵衛に磁石(原料)を発見させ、製作事業を監督してきた多久氏の立場が、きわめてデリケートであったことは察せられる。
大山新窯
この企業計画はいったんまとまり、磁器生産へ進んだが、数年でまた廃窯となった。これが藤の川内の大山新窯である(西松浦郡松浦村の藤の川内とは別)。文政元年(1818)四月の多久古文書には、「仕入元の尾形三右工門・多久川只吉から、昨冬の仕入れ断り願い、山元の興廃につき木村又四郎が見分した」旨が見える。大山古窯を木村又四郎が再興したが、天保期に経営難となり、ついに廃絶した。
同系では杵島郡北方村西浦の甕星の谷に万延元年(1860)頃の磁器焼成跡があり、その南七八丁の山越えに「唐人原」と称する窯跡もあるが、これは韓人系ではなく、日本古来の土器窯跡である。以上で多久窯の記述を終え、ここから金ヶ江三兵衛の有田入りに話を戻す。
三兵衛、南川原へ
鍋島宗藩から陶土探索の許可を得た三兵衛は、下松浦の有田郷・南川原で韓人の製陶が盛んと聞き、まずそこを目指して杵島街道を南下した。途中、板野川内で同郷の韓人が営む窯に行き当たり、立ち寄ったとみられる。その後、隠れ道から小樽に入り、大神宮山金山を右手に見て大谷道から岩谷川内へ抜け、南川原の乱れ橋(今の三代橋)で荷を解いた。
深山の有田
当時「有田郷」と呼ばれたのは、大山村から曲川村・有田村に至る一帯で、大山村の唐船城主・有田氏の支配地であった。大木の宿が主駅で、吉野・山谷・黒川などがそれぞれ小集落を成していたが、現在の有田町の地は当時ほとんど深山で、薪取りの小径がある程度。隠れ道沿いの小樽付近に五六戸の農家が散在し、田中村などと称したらしい。陶山としては黒牟田や南川原が早く開かれ、今の有田山では通路に面した小樽と岩谷川内だけが韓人の最初の開窯地だった。
百間窯説と乱橋説
三兵衛の初窯地について、従来の乱橋説に対し、板野川内の百間窯とする説もある。多久での製品と百間窯の多様な様式は風格がやや合わないが、蹴れ橋(乱橋)製品は多久作の系統と見ても不自然ではない。
また百間窯の古品に似通う点から武内系とする説もあるが、ここは別系で、三兵衛と同郷の金江嶋出身の韓人が関与する。混乱を避けるため、ここで板野川内系の各窯を示す。
板野川内系
板野川内は杵島郡住吉村の小字で、有田皿山の東十五六町、山間の小村(現十二三戸)。寛永十四年(1637)制定の十三皿山の一つで、泉山原料で盛んに製陶した時期もあったが、今は廃絶。開窯・廃山の時期は不詳。古窯跡は四か所で、入口左が空山、右が檀場切、次が窯の辻、谷奥の堤のりが有名な百間窯である。
百間窯の名は「百室連結」ではなく、特に長い登窯を抽象的に呼んだもので、後年小樽で三兵衛が改築した窯にも同名が用いられた。
ゼーゲルの発掘
板野川内の百間窯では、当時の韓人が青磁釉の耐火度試験にゼーゲル(耐火検定)を用いていたことが、有田郵便局長・原鳥臓の出土品から判明した。宗傅の内田窯では、橋状に渡してたるみ具合で測る横架式ゼーゲルも使われていたという。我が業界でゼーゲルコーンの普及は明治二十三年にワゲネルが持ち込んだのが嚆矢だが、彼らは実に二百七十年前に工夫して試していたのである。
百間窯の古品
飴釉の花三島象嵌皿、鶯茶釉の剣先三島に底菊刷毛目の皿、天目涙痕で下部無光沢の耳付五寸花立、飴釉に櫛目で曲線万筋を掻き、化粧掛の上に呉洲で山水を描く大皿、海鼠流しの花瓶、犰皮釉や立浪刷毛目皿などがある。
このほか、卵色釉の印花壺、建盞天目の筒茶碗、灰釉のどろけ物、蛇蝎釉・桃色釉の茶碗、黄瀬戸に鉄描文、油滴天目の花瓶、化粧掛に李朝風の意匠や朝鮮式薄青磁など。型紙で地肌に浮文を出した作も見られる。技術の高さと、多彩さにおいて、肥前古窯随一とされる。
百間窯の磁器
磁器では、小さな高台という従来の様式で大皿を焼く。これは泉山の硬質原料なくしては不可能である。たとえば尺三寸鉢で高台径がわずか二寸五分の作があり、桔梗緑の染付で、縁は牡丹唐草、見込みには狩野派風の楼閣山水。唐松の筆法は雄健で、品格がある。
ほかに地文入り六角香炉、内に紋機描、外青磁の丸碗、突立形三寸の火入に松・竹・梅・菊図、千段巻形に横書「福寿」繋ぎの香炉、突底茶碗の洒脱な呉洲画や文字書、磁州窯風の花鳥散文、大皿の雲地詰や底菊文の五寸皿など。
檀場切
黒天目の茶碗、色釉に黒斑の突六寸皿の三ツ目積痕、青茶釉の氷裂文出し茶碗など。染付では底に角福銘、脇に松葉散らしの小皿、桐書の煎茶碗で厚手高台の佳品。附高台の角皿に古印押文・緑紅彩の精巧作、葉文浮出に薄呉洲を掛けた中皿、菊に雲散文の四寸皿もある。
板野川内・窯の辻
染付中皿で粗い芦辺舟図、赤絵地に縁梅・外側染付、広底に内牡丹文の八角四寸皿。鎬形の煎茶碗に「壽」を三方に書くもの、内青磁・外呉洲で古雅な柳図の同作など。煎茶碗の産が多い。いまは全く廃れ、開墾畑一面に磁器片が秋光にきらめき、往時を偲ばせる。
【英語訳】[English translation]
Taku Domain’s Struggle
These events occurred a century and more after Kanagae Sanbē discovered white-porcelain stone in Arita and launched porcelain making. Records suggest that reviving Taku’s earthenware hills as porcelain kilns would displease the Arita kilns, likely provoking objections or interference; Taku therefore had to proceed with great care. As the house that set Sanbē to find Arita’s stone and oversaw production, the Taku clan’s position was exceedingly delicate.
Ōyama New Kiln
The venture was settled and advanced to porcelain manufacture, but within a few years the kiln was abandoned—the Ōyama new kiln at Fujinokawachi (not the one in Matsuura Village, Nishimatsuura District). A Taku document dated April 1818 notes a petition about procurement and an inspection by Kimura Yashirō, indicating that the old Ōyama kiln there was revived by him; yet by Tenpō times it fell into financial difficulty and perished. Related sites include a porcelain-firing trace at Nishiura, Kitatakata Village (c. 1860), and, seven or eight chō to the south over the ridge, a site called “Tōjinbara,” which, however, is a Japanese earthenware kiln, not Korean-related. With this, the Taku kilns section ends; the narrative returns to Sanbē’s entry into Arita.
Sanbē Heads to Minamigawara
Authorized by the Nabeshima domain to search for clay, Sanbē heard that Korean potters were active at Minamigawara in Arita. He moved south along the Kishima road, stopped at Itanogawachi where compatriots were firing, then slipped via hidden paths into Kotaru, passed Ōmiyama Kanayama on his right, went through Ōtani to Iwayagawachi, and finally unpacked at Midare-bashi (today’s Sandai-bashi) near Minamigawara.
Arita in the Deep Hills
“Arita-gō” then covered from Ōyama Village through Magarikawa and Arita Village under the Arita clan of Tōsen Castle. Ōki post was the main station; Yoshino, Yamadani, and Kurokawa were small hamlets. The present Arita town area was deep backcountry with only woodcutters’ paths; around Kotaru along the hidden way, five or six farmhouses stood sparsely (called Tanaka Village, etc.). As kiln lands, Kuromuta and Minamigawara opened early; within today’s Arita Mountain, only Kotaru and Iwayagawachi—fronting the routes—were the first Korean kiln sites.
Hyakken-gama vs. Midare-bashi
On Sanbē’s first kiln site, some oppose the conventional Midare-bashi view and argue for Itanogawachi’s Hyakken-gama. Comparing Taku-made wares with Hyakken-gama’s rich variety suggests some mismatch, though pieces from Kere-bashi (Midare-bashi) can be seen as linked to Taku products. Others label Hyakken-gama as Takeuchi-line due to similarities; yet it is a different line, tied to Koreans from Kōe-jima, Sanbē’s homeland. To avoid confusion, the Itanogawachi-line kilns are outlined here.
Itanogawachi Line
Itanogawachi, a small section of Sumiyoshi Village, lies 15–16 chō east of Arita Sarayama, today a mountain hamlet of 12–13 households. It was one of the thirteen Sarayama designated in 1637. It prospered using Izumiyama materials, later vanished; opening and closure dates are unknown. Four kiln sites remain: Sora-yama (left at the entrance), Danbagiri (right), Kama-no-Tsuji, and, deep in the valley, the famed Hyakken-gama at the embankment. The name “Hyakken” (hundred spans) refers not to a hundred chambers but to an exceptionally long climbing kiln; Sanbē later used the same name for a rebuilt kiln at Kotaru.
Discovery of Seger Tests
At Hyakken-gama, Koreans tested celadon glaze refractoriness using Seger-type devices, as deduced from finds collected by Haratorizō, Arita’s postmaster. At Uchidagama of Sōden, a bridge-like horizontal Seger bar that sags under heat was also used. Although Seger cones became common in Japan only after 1890 (brought by Wagner), these potters had devised such methods some 270 years earlier.
Hyakken-gama Wares
Finds include: amber-glazed plates with fine Hana-Mishima inlay; bush warbler-brown Mishima with chrysanthemum-brushed bases; a 5-sun eared vase with temmoku “tear marks” and dull lower sheen; a large plate combed with myriad curved lines under amber glaze and painted with landscapes in gosu over slip; sea-cucumber-flow vases; “animal-hide” glazes; and wave-brush plates.
Also: pale-egg glazed stamped jars; Jian-type temmoku cups; gray-glazed rustic pieces; bowls with snake-skin or pink glazes; yellow Seto with iron painting; oil-spot temmoku vases; slip-coated wares with Joseon-style motifs and Korean pale celadon. Some show stencils creating raised designs—technically superb and remarkably diverse, ranking among Hizen’s finest ancient kilns.
Hyakken-gama Porcelain
Porcelain pieces keep the small-foot style even on large dishes—possible only with hard Izumiyama materials. One 1 shaku 3 sun bowl has a foot only 2 sun 5 bu across, in bluish-green sometsuke: peony arabesque on the rim and a Kano-school pavilion landscape in the center; the karamatsu brushwork is vigorous yet elegant. Other sometsuke include hexagonal incense burners with ground patterns, round bowls celadon outside and patterned within; 3-sun upright braziers with pine, bamboo, plum, and chrysanthemum; thousand-band forms with horizontal “fuku-ju” links; punted tea bowls with free gosu calligraphy and lively huaniao in the Cizhou manner; cloud-filled chargers; and 5-sun dishes with chrysanthemum bases.
Danbagiri
Finds: black temmoku bowls; six-sun pressed dishes with black flecks on colored glaze (three-point stacking marks on the base); bluish-brown crackle bowls. Sometsuke small plates bear a square “fuku” mark and scattered pine needles; elegant sencha cups with bold thick feet; square plates with applied old-seal stamps and green/red enamels; medium plates with raised leaf patterns under thin gosu; 4-sun plates with chrysanthemum-and-cloud designs.
Kama-no-Tsuji (Itanogawachi)
Sometsuke medium plates with crude reed-boat scenes; 4-sun octagonal plates: red-ground rims with plum, wide bases with internal peony; ridged sencha cups with “ju (longevity)” on three sides; pieces celadon inside, gosu outside, with archaic willows. Sencha cups dominate. Today, the area is desolate; shards glitter across the reclaimed fields, recalling its heyday.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
多久藩的苦心
此事发生在金ヶ江三兵卫发现有田白瓷矿并开创制瓷之后百余年。文书显示,若将多久领的陶器山改作瓷器窑场重兴,恐招致有田窑的不满与异议甚至阻挠,故多久藩行事极为艰难。三兵卫发见磁石、多久氏又长期督理制造,其立场极其敏感。
大山新窑
计划一度成形并推进到制瓷,但数年后仍告废窑,即藤之川内的大山新窑(与西松浦郡松浦村者异)。文政元年(1818)四月文书记有:就采购事宜与山元兴废,木村又四郎曾勘看。大山古窑由其再兴,至天保期陷入经营难而终废。又,杵岛郡北方村西浦“甕星之谷”约万延元年(1860)亦有烧瓷遗迹;其南七八丁之“唐人原”为日本古式土器窑,非韩人系。至此毕,复述三兵卫入有田。
三兵卫下向南川原
获鍋島宗藩许可探土的三兵卫,闻下松浦有田郷南川原韩人制陶繁盛,遂南下杵岛街道,经板野川内拜访同乡窑场,继由隐径入小樽,经大谷道出岩谷川内,至南川原“乱桥”(今三代桥)解装。
深山之有田
彼时所谓“有田郷”,自大山村至曲川村与有田村,属唐船城主有田氏所辖。大木为主驿,吉野、山谷、黒川各成小聚。今之有田町所在,当时几为深山,仅有樵径;唯隐径沿线小樽附近散在五六农户,称田中村等。陶山中以黒牟田与南川原最早开窑;今之有田山内,唯临通路的小樽与岩谷川内为韩人最初开窑地。
百间窑说与乱桥说
三兵卫首窑地,除旧说之乱桥,亦有主张板野川内“百间窑”。与多久制品相比,百间窑风格多样,略不相称;然乱桥器物与多久系相承亦说得通。亦有人因相似而判为武内系,然此处属别系,为金江嶋出身之韩人参与。为避混乱,兹述板野川内系诸窑。
板野川内系
板野川内为杵岛郡住吉村小字,距有田皿山东十五六町,今仅十二三户之山村。为寛永十四年(1637)“十三皿山”之一。昔以泉山原料兴盛,今全废,开闭窑年代未详。古窑迹四:入口左“空山”、右“檀场切”,次“窑之辻”,谷奥堤上为名窑“百间窑”。“百间”非百室相连,乃指登窑特长;三兵卫后在小樽改建之窑亦用此名。
“泽格尔”试验之发掘
在百间窑,韩人以“泽格尔”(耐火检定)试验青瓷釉耐火度,为原鸟臓(有田邮局长)所出土器物所证。宗傅之内田窑还见桥式横架泽格尔,以下垂量热。我国业内普用泽格尔锥始于明治二十三年,然其人早在二百七十年前已自为发明试用。
百间窑古品与瓷器
出土有:飴釉花三岛象嵌皿、鶯茶釉剑先三岛与底菊刷毛目皿、天目泪痕耳付花立、飴釉櫛目万筋并在化妆土上以呉洲绘山水之大皿、海鼠流花瓶、犰皮釉、立浪刷毛目皿等;又有卵色釉印花壶、建盏天目筒碗、灰釉粗器、蛇蝎釉与桃色釉茶碗、黄濑户铁绘、油滴天目花瓶、李朝风意匠与朝鲜式薄青瓷,及用型纸作浮饰者。技艺高、品类繁,称肥前古窑翘楚。
瓷器方面,以小高台样式烧大盘,非泉山硬质料不可。一例:尺三寸钵,高台径仅二寸五分,桔梗绿染付,缘牡丹唐草,见中狩野风楼阁山水,笔法雄健而雅。又有地文六角香炉、内机描外青瓷之丸碗、三寸直立火入(松竹梅菊)、千段卷体横书“福寿”连纹、突底碗之洒脱呉洲书画、磁州窑风花鸟散文、云地詰大盘、底菊文五寸皿等。
檀场切与窑之辻
檀场切:黑天目碗、色釉黑斑之突六寸皿(三点支烧痕)、青茶釉冰裂出纹碗;染付小皿底书角福,旁散松叶;桐书煎茶碗厚高台佳品;附高台角皿押古印并施绿红彩;叶文浮出覆以薄呉洲之中皿、菊与云散文四寸皿。
窑之辻:染付中皿芦边舟图粗、赤绘地缘梅与外侧染付、广底内牡丹之八角四寸皿;鎬形煎茶碗三面书“壽”;内青瓷外呉洲柳图等。今仅农家星散,开垦畑间碎瓷在秋光中闪烁,追忆昔盛。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
多久藩的苦心
此事發生於金ヶ江三兵衛在有田發現白瓷礦並創始製瓷後百餘年。文書顯示,若將多久領之陶器山改為瓷器窯場重興,恐招致有田窯不悅,或興異議與阻撓,故多久藩處置殊為艱難。三兵衛發見磁石、多久氏監督製作,其立場極為敏感。
大山新窯
計畫一度成形並推進至製瓷,然數年後仍廢窯,即藤之川內之大山新窯(與西松浦郡松浦村者別)。文政元年(1818)四月文書記載:就採購與山元興廢,木村又四郎曾勘看。其復興大山古窯,至天保期陷經營難而終廢。又,杵島郡北方村西浦「甕星之谷」約萬延元年(1860)亦有燒瓷遺跡;其南七八丁之「唐人原」乃日本古式土器窯,非韓人系。至此畢,復述三兵衛入有田。
三兵衛南下南川原
得鍋島宗藩許可探土之三兵衛,聞下松浦有田郷南川原韓人製陶繁盛,遂南下杵島街道,經板野川內探同鄉窯,繼由隱徑入小樽,經大谷道出岩谷川內,至南川原亂橋(今三代橋)解裝。
深山之有田
時稱「有田郷」者,自大山村至曲川村及有田村,屬唐船城主有田氏所轄。大木為主驛,吉野、山谷、黑川為小聚。今之有田町所在,當時幾為深山,僅有樵徑;隱徑沿線小樽附近寥落五六農戶,稱田中村等。陶山之中,以黑牟田與南川原早啟;今之有田山內,僅臨通路之小樽與岩谷川內為韓人最初開窯地。
百間窯說與亂橋說
三兵衛首窯地,舊說為亂橋,亦有主張板野川內百間窯者。與多久製品相較,百間窯之多樣風格略不相稱;然亂橋器物承多久系亦可通。亦有因相似而歸之武內系者,然此為別系,係金江嶋出身韓人所涉。為避紊亂,兹述板野川內系諸窯。
板野川內系
板野川內為杵島郡住吉村小字,距有田皿山東十五六町,今僅十二三戶之山村。為寛永十四年(1637)「十三皿山」之一。昔以泉山原料興盛,今已廢,開閉窯年代不詳。古窯跡四:入左空山、右檀場切、次窯之辻,谷奧堤上為名窯百間窯。「百間」非百室連結,乃登窯特長之稱;三兵衛後於小樽改建之窯亦用其名。
澤格爾試驗之發掘
在百間窯,韓人以「澤格爾」(耐火檢定)試青瓷釉耐火度,為原鳥臟出土所證。宗傅內田窯亦見橫架式澤格爾,以下垂測熱。我國普用澤格爾錐自明治二十三年始,然彼等早於二百七十年前自為發明試用。
百間窯古品與瓷器
出土:飴釉花三島象嵌皿、鶯茶釉劍先三島與底菊刷毛目皿、天目淚痕耳付花立、飴釉櫛目萬筋並於化妝土上呉洲山水大皿、海鼠流花瓶、犰皮釉、立浪刷毛目皿等;又有卵色釉印花壺、建盞天目筒碗、灰釉粗器、蛇蝎釉與桃色釉茶碗、黃瀨戶鐵繪、油滴天目花瓶、李朝風意匠與朝鮮式薄青瓷,及用型紙作浮飾者。技藝高、品類繁,稱肥前古窯翹楚。
瓷器方面,以小高臺樣式燒大盤,非泉山硬質料不可。一例尺三寸鉢,高臺徑僅二寸五分,桔梗綠染付,緣牡丹唐草,見中狩野風樓閣山水,筆勢雄健而雅。亦有地文六角香爐、內機描外青瓷丸碗、三寸直立火入(松竹梅菊)、千段卷體橫書「福壽」連紋、突底碗之灑脫呉洲書畫、磁州窯風花鳥散文、雲地詰大盤、底菊文五寸皿等。
檀場切與窯之辻
檀場切:黑天目碗、色釉黑斑之突六寸皿(三點支燒痕)、青茶釉冰裂出紋碗;染付小皿底書角福,旁散松葉;桐書煎茶碗厚高臺佳品;附高臺角皿押古印并施綠紅彩;葉文浮出覆以薄呉洲之中皿、菊與雲散文四寸皿。
窯之辻:染付中皿蘆邊舟圖粗、赤繪地緣梅與外側染付、廣底內牡丹之八角四寸皿;鎬形煎茶碗三面書「壽」;內青瓷外呉洲柳圖等。今僅農家星散,畦間瓷片在秋光中熠熠,追憶舊時。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
多久藩的应对
此事在金ヶ江三兵卫于有田发现白瓷石并开创制瓷后一百多年发生。记录显示:若将多久领的陶器山改为瓷器窑,或将引发有田窑的不满与阻挠;作为推动发现与监制的一方,多久氏处境微妙。
大山新窑
项目一度推进到制瓷,但数年后废弃,即藤之川内的大山新窑(非西松浦郡者)。1818年文书载:木村又四郎复兴当地旧窑,至天保年间因经营困难而废。另有北方村西浦“甕星之谷”约1860年的烧瓷遗迹;南侧“唐人原”为日本古式土器窑。至此转入三兵卫入有田的叙述。
南下至南川原
三兵卫获准探土,闻南川原韩人制陶盛,南下经板野川内至同乡窑,再由隐径赴小樽、经岩谷川内,至乱桥(今三代桥)落脚。
深山中的有田
当时“有田郷”由大山村至曲川村与有田村,属有田氏领。今之市街当年为深山,仅见樵径;小樽沿线稀疏农户。作为窑地,黒牟田与南川原最早开窑;今之有田山内,唯小樽与岩谷川内为韩人最初窑址。
首窑之争:百间窑或乱桥
除乱桥说外,亦有百间窑说。与多久器对比,百间窑多样风格略不相称;然乱桥器与多久系相关可通。百间窑非武内系,而与金江嶋出身韩人相关。兹述板野川内系以免混淆。
板野川内系与“泽格尔”
板野川内为“十三皿山”(1637)之一,古窑四处,谷奥为著名百间窑,名指窑体特长。出土表明彼时韩人已用“泽格尔”检验青瓷釉耐火度;宗傅内田窑还见横架式下垂测热。日本业内普及泽格尔锥在1890年后,但其法早在二百七十年前已被自创采用。
百间窑器物
有飴釉花三岛、鶯茶釉剑先三岛、天目泪痕耳付花立、飴釉櫛目万筋并呉洲山水大皿、海鼠流花瓶、犰皮釉、立浪刷毛目等;亦有卵色釉印花壶、建盏天目筒碗、灰釉粗器、蛇蝎釉/桃色釉茶碗、黄濑户铁绘、油滴天目花瓶、李朝风与朝鲜式薄青瓷、模板浮饰等,技艺与多样性冠于肥前古窑。
瓷器保留小高台风格烧大盘,赖泉山硬质料。一例:1尺3寸钵,高台径仅2寸5分,桔梗绿染付,缘牡丹唐草,中绘狩野派楼阁山水,笔力劲健。另有六角香炉、内机描外青瓷丸碗、三寸火入(松竹梅菊)、千段卷“福寿”连纹、突底碗书画、磁州风花鸟、云地詰大盘与底菊文五寸皿。
檀场切与窑之辻
檀场切出黑天目、色釉黑斑之六寸皿(三点支烧)、青茶釉冰裂;染付小皿角福款、松叶散;厚高台桐书煎茶碗;附高台角皿古印押文并绿红彩;叶文浮出覆薄呉洲之中皿、菊与云散文四寸皿。
窑之辻见粗拙芦舟图中皿、赤绘地缘梅与外侧染付、广底内牡丹之八角四寸皿;鎬形煎茶碗三面写“寿”;内青瓷外呉洲柳图。今仅散户存,陶片在田畴闪耀,追忆旧观。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
多久藩的應對
此事在金ヶ江三兵衛於有田發現白瓷石並創製瓷器後百餘年。記錄示:若將多久領陶器山改為瓷器窯,或致有田窯不滿與阻撓;作為推動發現與監製者,多久氏處境微妙。
大山新窯
計畫一度推進至製瓷,然數年後廢棄,即藤之川內大山新窯(非西松浦郡者)。1818年文書載:木村又四郎復興舊窯,至天保年間因經營困難而廢。另北方村西浦「甕星之谷」約1860年有燒瓷跡;南側「唐人原」為日本古式土器窯。至此轉述三兵衛入有田。
南下至南川原
三兵衛得許探土,聞南川原韓人製陶盛,南下經板野川內至同鄉窯,復由隱徑赴小樽、經岩谷川內,至亂橋(今三代橋)落腳。
深山中的有田
時稱「有田郷」自大山村至曲川村與有田村,屬有田氏。今之市街當年為深山;小樽沿線僅稀疏農戶。陶山中黑牟田與南川原最早開窯;今之有田山內唯小樽與岩谷川內為韓人最初窯址。
首窯爭議:百間窯或亂橋
除亂橋說外,亦有百間窯說。與多久器對比,百間窯多樣風格略不相稱;然亂橋器承多久系可通。百間窯非武內系,而關涉金江嶋出身韓人。爰述板野川內系以免混淆。
板野川內系與「澤格爾」
板野川內為「十三皿山」(1637)之一,古窯四處,谷奧為名窯百間窯,名指窯體特長。出土證明彼時韓人已用「澤格爾」檢驗青瓷釉耐火度;宗傅內田窯亦見橫架式下垂測熱。日本普用澤格爾錐自1890年後,然其法早在二百七十年前已被自創採用。
百間窯器物
有飴釉花三島、鶯茶釉劍先三島、天目淚痕耳付花立、飴釉櫛目萬筋與呉洲山水大皿、海鼠流花瓶、犰皮釉、立浪刷毛目等;亦有卵色釉印花壺、建盞天目筒碗、灰釉粗器、蛇蝎釉/桃色釉茶碗、黃瀨戶鐵繪、油滴天目花瓶、李朝風與朝鮮式薄青瓷、模板浮飾等,技藝與多樣性冠於肥前古窯。
瓷器保持小高臺風格燒大盤,賴泉山硬質料。一例:一尺三寸鉢,高臺徑僅二寸五分,桔梗綠染付,緣牡丹唐草,中繪狩野派樓閣山水,筆力勁健。另有六角香爐、內機描外青瓷丸碗、三寸火入(松竹梅菊)、千段卷「福壽」連紋、突底碗書畫、磁州風花鳥、雲地詰大盤與底菊文五寸皿。
檀場切與窯之辻
檀場切:黑天目、色釉黑斑六寸皿(三點支燒)、青茶釉冰裂;染付小皿角福款、松葉散;厚高臺桐書煎茶碗;附高臺角皿古印押文與綠紅彩;葉文浮出覆薄呉洲之中皿、菊與雲散文四寸皿。
窯之辻:粗拙蘆舟圖中皿、赤繪地緣梅與外側染付、廣底內牡丹之八角四寸皿;鎬形煎茶碗三面書「壽」;內青瓷外呉洲柳圖。今僅散戶,田間瓷片閃耀,憶舊時風華。

