藤津系 嬉野窯

藤津系 嬉野窯

冬野の土器~藤津郡陶磁器工業組合

【原文】冬野の土器 此地は既に王朝時代より植物を焼きしが如く、又近年冬野の池畔よりも土器を發掘せしが、それは少くも千年以前の作品といはれてゐる。志田東山 久間の創始せられしは、明暦年間(1655-1658)韓人の子孫來りて陶器を作りし由傳説...
藤津系 嬉野窯

大音製~敷浪

【原文】大音製 而して朝鮮向き好況時代に於ける吉田山製品の三分の一産額(約二十餘萬圓)は、大串音松に依って製造されしいはれてゐる。當時美濃や尾張の製品も、亦朝鮮向として彼地に輸出せられしが、それが皆大音製の銘を記入して販賣されし如きは、如何...
藤津系 嬉野窯

吉田下窯築造~朝鮮輸出一手問屋定款

【原文】吉田下窯築造 其後斯業の發展と共に、十六人の窯焼の次男以下營業用の名義を以て、藩の許可を得ることゝなり、資本家副島彌左工門が、新たに下窯を築造せしは、文化年間(1804-1818)であった。而して窯焼は少しく資金を要する場合にも、永...
藤津系 嬉野窯

海江田侍從御差遣~窯焼の兼業權

【原文】海江田侍從御差遣 同十五年肥筑平野に於ける大演習舉行の際、總帥閑院宮載仁親王殿下には、産業御奨の思召を以て、特に海江田侍従を源六燒工場へ御差遣遊ばされたのである。 昭和四年十月には、又源六燒株式會社の組織に変更し、今や別府市流川通、...
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西田市兵衛の下宿焼から二代源六

【原文】西田市兵衛の下宿焼 西田市兵衛は嬉野下宿(戸數五十戸)の舊家市郎右工門の男にて、當時下宿焼と稱させられしもの、實は此地にて製造し物にてはなく、此處の管谷といへる谷山より粘土を採掘し、そして小田志山に運びて黒物を製せしものにて。今同家...
藤津系 嬉野窯

隆信有馬軍を破る~大船

【原文】隆信有馬軍を破る 同年二月六日龍造寺隆信は杵島の須古城を根城として藤津の有馬軍を進撃し先づ横造城を陥れ深町尾張守、岩永和泉守等を田備前守純晴、吉田、久間及嬉野一統の諸將を降討取り、そして原越後守家盛(尚家の長子倫行)永し、森の岡に一...
藤津系 嬉野窯

樫木山~有馬氏の勢威

【原文】隆信有馬軍を破る 同年二月六日龍造寺隆信は杵島の須古城を根城として藤津の有馬軍を進撃し先づ横造城を陥れ深町尾張守、岩永和泉守等を田備前守純晴、吉田、久間及嬉野一統の諸將を降討取り、そして原越後守家盛(尚家の長子倫行)永し、森の岡に一...
藤津系 嬉野窯

弓野人形~白木原

【原文】弓野人形 明治二十年龜次郎は、江口友三郎の養子となりて江口姓を嗣き其子又次郎と稱してゐる。爾來此地は全く土偶の製造地となり、龜次郎の外六戸の同業者がある。近來此技漸く世に現はるゝに至り、本縣蓮池出身なる江崎利一の大阪グリコ製菓より大...
藤津系 嬉野窯

藤津系 嬉野窯~江口龜次郎

【原文】藤津系 嬉野窯嬉野氏 藤津の莊嬉野は、正曆五年(995年)大村直澄が彼杵、高木、藤津の三莊を支配せし當時の領地にて、以前は其支族の大村氏を能古見に配し、嬉野氏を嬉野に居らしめて東西の兩鎮とした。抑も嬉野氏の祖先は、藤原鎌足十三世摂政...