2025-10

唐津系 椎の峯窯

焼山上窯~値抜け

【原文】焼山上窯 次に川原を過ぎて焼山上窯(此邊戸數十四五戸あり)を探れば、奮縣道より堤塘を辿二丁斗りの谷間に上りて、松の切株の間に窯趾の破片が轉がつてゐる。それは飴釉にて突底形六寸の深鉢や、灰色釉の茶碗又は同釉にて濃茶釉流掛けの茶碗があり...
唐津系 椎の峯窯

畑島の窯の谷~一若の阿蘭陀墓

【原文】畑島の窯の谷 畑島は元波多の家臣畑島主膳之政(四百石)の采邑にて、此處の古窯趾は鬼塚驛より一里西方の山麓なる水車小屋の右手より分け入る窯の谷といふ山林である。朽葉を漁れば窯具の中より稀に見出すものに、白琺瑯釉小氷裂の破片があり、或は...
唐津系 椎の峯窯

佛の谷~高麗餅

【原文】佛の谷 椎の峯の古窯には、上多々良の佛の谷、中多々良の中村、下多々良の菰谷及び古椎新窯の四ヶ處がある。佛の谷は一番奥なる山畑にて兩脇が谷間となり、全く謎へ向の築窯丘と勾配の地勢をなしてゐる。此處の古窯品は皆糸切底にて施釉薄さも地質は...
唐津系 椎の峯窯

唐津焼の各原料~人別帳除き

【原文】唐津焼の各原料 是より記事はまた元に帰る、偖從來唐津焼原料の粘土は専ら鐵分多きもののみであつた。其使用さる重なる原料としては、有浦村の牟形の土(青小米白)名護屋村の加部島の土(白)北波多村徳須恵の稗田の土(赤)同野村山彥の土(白)相...
唐津系 椎の峯窯

白紋雲鶴~中野霓林

【原文】白紋雲鶴 壹岐守忠知は豊後國杵築及吉田を領し、其子長矩の代より長祜、長庸まで遠州掛川六萬石を食み、長恭の代より奥州棚倉六萬石に移封された。長昌は領地に於いて製陶を督せし経験あるを以て頗る斯道を獎勵し、そして御茶碗窯に於いて、高麗を模...
唐津系 椎の峯窯

岳野山~小笠原長昌代る

【原文】岳野山 岳野山は此處の向ひ合せにて、古窯品は牟田の原と相似たるも概して口物を焼きしもゝの如く、それ等の種類には褐色地にて線彫文様の八寸の壺や、黒天目にて大胴形五寸の花瓶及茶褐色釉に鐵釉飛点ある同形の花瓶があり。又黒天目涙痕にて大胴形...
唐津系 椎の峯窯

阿房の谷~牟田の原

【原文】阿房の谷 藤の川内は戸數五十七戸の山間地にて、此處には阿房の谷と阿房谷下の芽の谷との古窯趾がある。茅の谷の背山を登りて五六丁、堤れば笠椎路の左方に阿房の谷の窯趾がある。殘缺には灰色釉の隅折四角皿に、鐵猫にて稚拙なるの如きものを描きし...
唐津系 椎の峯窯

肥前瓦の條~堅高の陶業奨勵

【原文】肥前瓦の條 肥前丸の條には、天正十九年名護屋天守瓦注文に預り、小川惣右工門小城郡江津にて之を焼き、文祿元年正月名護屋城普請奉行蒔田十之助より天守閣普請の総代を命ぜられ、其竣工の速かなりし賞として、九州九ヶ國家造を進達すべき旨秀吉の朱...
唐津系 椎の峯窯

波多鎭の相續~川原屋敷

【原文】波多鎭の相續 斯くて鬼子嶽城は有馬の藤重丸を迎へて後嗣となし、太郎二郎鎮と稱せしが後三河守と改めたのである。然るに鎮は嚮きに已れが相續に反對せし波多家の同族を膺懲せんと欲し、大川野(西松浦郡大川村)日在の城主鶴田勝を攻めたるも、鎮敗...
唐津系 椎の峯窯

鬼子嶽窯~大和を毒殺す

【原文】鬼子嶽窯 持は前記小次郎官者の子孫を招き、鬼子嶽城下の山中なる飯洞甕(北波多村鮎歸)に於て開窯せしめしとの説があり、又此折韓土の陶工渡來せしさの口碑あるも詳でない。そして後年此飯洞甕にありし一部の陶工を古椎(南波多村椎の峯の舊名)に...
唐津系 椎の峯窯

唐津焼 椎の峯窯~波多持

【原文】唐津焼 椎の峯窯 神代に天日槍の歸化ありて、其時從へる者近江の鏡谷製陶せし由傳へらるゝも、太古の事蹟は茫漠として定むるに由なく、故に我邦に於ける韓系の製陶として最古の歴史を有するものは、肥前國上松浦の唐津焼を以て始祖とすべきである。...
肥前陶磁史 外編

本多牧仙~各領主の縁類關係

【原文】本多牧仙 其後庄屋元に於いて本多牧仙(親基)が木場の粘土に雲仙土を加味し、自己の趣味的なる一種の陶器を製作した。それは赤味の白釉にて重なる製品は火鉢及瓶掛であつた。是は工人の手に依って成形され、それに牧仙自ら古今の詩歌や先の箴言等を...
肥前陶磁史 外編

小曾根焼~小濱焼

【原文】小曾根焼 小曾根焼は長崎市内にて、今の小曾根町せらるゝに至りし當時の長者小曾根六三郎の男新太郎が、明治二十五年開窯せしものにて、天草原料を以て染附磁器を製作せしものである。種類は花瓶 茶器 皿、丼、徳利等多種類にて、有田、大川内、小...
肥前陶磁史 外編

日の池焼~蓮田焼

【原文】日の池焼 此外佐賀郡小關村の日池に於て、大正六・七年頃製陶を開始せしが、原料良好ならざし爲幾許もなく廢窯したのである。佐賀縣管内の外編製陶は之を以て終りとし、次に長崎縣管内を記述することする。古賀人形 古賀人形の製作地は、北高來郡古...
肥前陶磁史 外編

大願寺焼~松ヶ谷開窯考

【原文】大願寺焼 大願寺焼と稱するは、前記の横馬場より半里許りを隔てし墓地の奥にて、往古は布目瓦を焼きし傅へらる。曾て北條時頼行脚して此地に来り病を得て頗る重かりしかば、平愈の大祈願を立てしより、後年此處の五社神祠(仲哀、神功、應神、姫大神...
肥前陶磁史 外編

曲淵和右エ門~今山の維新後製陶

【原文】曲淵和右エ門 文化の末(1818年邑主鍋島河内(直高)の御藏方曲淵和右工門は、自ら陶窯を築き密に有田の工人を招きて又白罅焼を製造した。それは此地の粘土のみを胎質として焼かれしものにて、染附楓散らし模様や縁描リンボウ廻しなどの菓子碗が...
肥前陶磁史 外編

肥前陶史外編

【原文】肥前陶史の本編は、朝鮮直系の開窯地を主とせしものなるを以て、それに係はりなき製陶地や、又關はり薄き處や、或は其何れも不明の陶山を一括して、別に外編として掲載することゝしたのである。 肥前の製陶は、頗る古くより行はれものゝ如く、今佐賀...
秀吉の朝鮮出兵史

高取焼~大川内子爵の陶系大別

【原文】高取焼 黒田長政に從ひりし朝鮮慶尚南道韋登の人八山と、同時に加藤清正に從ひ來りし八山の舅新九郎は、共に長政の命に依り領内に製土を探見して、筑前國鞍手郡高取村に開窯し之を高取焼した。そして八山は井土八臓と改めて七十人扶持を給與されたの...