2026-01

伊万里系 南川原窯

支那赤繪の起原~有田の赤繪屋

【原文】支那赤繪の起原 抑陶器の上繪附法は、古く唐宋時代より創始されしも、當時彩色の種類としては、赤と黒となりしが如く、元代の景徳鎮に於いて、始めて戧金五彩花の文字があり。而してそれが完成せられしは明代にて、永樂の五彩、宣徳の青花させられた...
伊万里系 南川原窯

濁し手製造~泉山の原石使用許可

【原文】濁し手製造 此外に往年柿右工門邸の前面に、南京焼と稱して美事なる濁し手を焼き居りし由なるも、今其邊は人家や畑地となりて、遺跡は全く湮滅に歸してゐる。察するに當時柿右工門の貿易盛んなりし頃、別に此處に築窯して製造せしと見られぬこともな...
伊万里系 南川原窯

南川原方面の古窯~無患子谷

【原文】南川原方面の古窯 次は川向ひなる南川原方面にて、其古窯趾には清六窯一、清六窯二、清六窯三、小物成、天神の森上窯、天神の森下窯、窯の辻、柿右工門古窯、柿右工門上の窯、樋口の窯、天目山源左工門林、太右エ門窯 無患子谷等がある。 亂れ橋の...
伊万里系 南川原窯

梶原忠藏~小溝右窯

【原文】梶原忠藏 當山の窯焼頭なる梶原忠臓は、宗藩の許可を得て、豊後國杵築(速見郡)の藩主松平家(三萬二千石)の、藩用品を製作せし優秀の陶家であつた。今其子孫に、當時の御用表札が三枚保存されてゐるが、長さ二尺二寸巾が五寸あり、表面には献上壺...
伊万里系 南川原窯

頓六さん~黒牟田の大鉢

【原文】頓六さん 黒牟田の一小丘には、頓六さんと稱して高麗神を祀ってあるが、此韓人は此の製陶者中第一の貢献者なりしと見へ、麓の小字まで頓六といふ地名を以て呼ばれてゐる。而して慶長年間(1596-1615年)巨闘と共に、平戸へ上陸せし韓人陶工...
伊万里系 南川原窯

廣瀬の小森谷~韓人最初の来朝期

【原文】廣瀬の小森谷 最初二の瀬に来りし韓人の一行は、別れて廣瀬の山の口なる小森谷に開窯せしといはれてゐる。此處は今俗に要左エ門山といへる杉の木谷にて、今に多くの破片が轉がつてゐる。それは例の灰色釉や飴釉の中に、白化粧を施せる茶碗などで、何...
伊万里系 南川原窯

伊萬里系 南川原窯~甘酒と生團子

【原文】伊萬里系 南川原窯伊萬里灣 西松浦郡の伊萬里沿岸は、九州西北部の一端にて、古代大陸民族の渡せし、土地なることは、其地理的にも考察さるゝところである今遺跡として東山代村の日尾崎と、西山代村の波瀬の小島には、高句麗式の横穴古墳があり、そ...
諫早系と矢上窯

鬼木窯元全滅~現川と木原

11-03-01-01鬼木窯元全滅~現川と木原【原文】鬼木窯元全滅 此時誰かが鬼木の窯元へと聲揚げしかば、それ行けと斗り一同は、濁酒の酔狂に乗じて、どつと押寄せ來るより、韓人等は事の不意に驚き狼狽するを、一人も餘さず十二人悉く打殺し、なほ其...
諫早系と矢上窯

有馬氏と韓人渡来説~尾崎の惨劇

【原文】有馬氏と韓人渡来説 朝鮮役の當時は、此地に鍋島氏の配下に属し、諫早氏の初代龍造寺家晴の栄邑なりしを以て、有馬氏帶同の韓人が、此地方に來住せしといふ説はなほ考ふ可きである。而して戦役當時に於いて、唐津、佐嘉、平戸、大村等肥前に於ける各...
諫早系と矢上窯

諫早系 矢上窯~現川

【原文】諫早系 矢上窯諫早町 長崎縣北高來郡諫早町は、平坦線なる長崎への上下通路と、佐世保線及島原線への各通路の要地として、人口二万二千餘を有してゐる。往時は伊佐早と書かれ、始め南高來なる有馬氏の領地であり、西郷氏の采邑なりしが、龍造寺氏に...
大村系 波佐見窯

近藤憲一~太田工場の研究

【原文】近藤憲一 目下所長近藤憲一(瀬戸の人)の外技手一名、助手一名、職工一名を擁し、講習所を開催して意匠、圖案配布、新種製品、考案幇助、石膏型製作配布、窯道具製造配給等を行ひつゝある。此全豫算七千二百三拾圓にて、所長希望の三分一の額にもせ...
大村系 波佐見窯

現在の稗木場山~窯業指導所

【原文】現在の稗木場山 此處の製品も、食器類殊に茶潰茶碗を主として製造され、斯業頗る活気を呈してゐる。然も行通頗る便利にして、三河内驛より一里の道程にあり、近來又道路改築され定期のタキシーは、同驛より内海、中尾方面へ往復しつゝある。好況時代...
大村系 波佐見窯

中尾山製産額の地位~松尾慶太郎

【原文】中尾庄右衛門尉 按するに、此中尾庄右工門尉は、代々此處の支配者たりし邑主の後裔にて、中尾山の開山に盡瘁せし一人を見る可く、彼は正保二年七月十三日(1616年)行年六十有餘にして卒去し、墓碑は寺屋敷の墓地にあるが、二段臺石の上に、珍ら...
大村系 波佐見窯

中尾庄右衛門尉~武村萬次郎の銅板轉寫

【原文】中尾庄右衛門尉 按するに、此中尾庄右工門尉は、代々此處の支配者たりし邑主の後裔にて、中尾山の開山に盡瘁せし一人を見る可く、彼は正保二年七月十三日(1616年)行年六十有餘にして卒去し、墓碑は寺屋敷の墓地にあるが、二段臺石の上に、珍ら...
大村系 波佐見窯

製陶系の本家争ひ~廣川原

【原文】製陶系の本家争ひ 一体此本家争ひなるものは正確なる文献があり、なほそれを現實と對照して推極せし上にあらざれば、決定すること不可能であるが、考究の材料に乏しき陶山に於いては、ただ口碑と推測の理由に依る外ない。それが長き星霜を經る間に、...
大村系 波佐見窯

三の股皿山役所~皿屋谷と波佐見青磁

【原文】三の股皿山役所 皿山役所は三の股山にありて三皿山の中央部に當る地位であつた。此の役所趾には今の永尾山へ行く廣き村道が走ってゐる。當時此役所は製陶一切の獎勵監督の外、製造材料の如きも仕入れ置きて、窯焼へ配給せしもの如く買入につき左の如...
大村系 波佐見窯

波佐見皿山役所~三の股職人の賃錢極

【原文】波佐見皿山役所 寛文五年(1665年)藩主大村因幡守純長は、皿山役所を三の股に設け、當時押役として岩永七郎右工門勤務することゝなり、其下に皿山取締として三の股山、中尾山、永尾山又稗木場山へ役人を配置せしが、後に押役は皿山奉行と改め、...