【原文】[Original text]
多久系 有田窯
李参平の路案内
朝鮮の役鍋島の軍勢が、間道より進みて山路に差かりたるに、岐路ありて行手に迷べる折柄、遙かに一軒家を見つけ、其家にあり三人の韓人をして路案内すべく厳命した。其中の一人二十五六才の男にて、李参平といへる者此時より引續き案内役となり、なほ糧秣の徴發や牛車の雇入などに至るまで、我軍の爲めに便宜を計り少ならざるものがあつた。
李参平の渡来
慶長三年(1598年)十二月直茂歸陣の際、参謀多久長門守安順(此時は龍造寺六郎次郎家久と稱す)に命して李参平を我邦へ帯同せしむる事となった。それは今若し多くの財物を賞興するよしても此儘彼を韓土に残し置かば、日本軍に援助せし者とて、如何なる危害を加へらんも斗り難しとの恩命であつた。是より李参平は多久の軍勢と共に同船して我邦へ渡來することなったのである。
多久安順
小城郡多久の邑主長門守安順は、始め家久と稱し、水ヶ江龍造寺家兼入道剛忠の孫長信の長子にて、隆信の甥である。天資英俊、武勇勝れしのみならず、宗藩の参政役として治國の政務に鞅掌し、彼の成富兵庫助茂安と共に當時の雙柱と稱せられた。殊に我有田焼の發祥に就いては安順以来、多久氏代々の管掌に負ふさころ少なくない。
舊多久氏
肥前多久の莊は、源頼朝の時津久井義高の男多久太郎平宗直の領地となり、建久二年(1191年)其子平太宗盆は、家の子郎黨三百余人を率ゐ來りて此地に梶峯城を築き、代々其城主として、杵島の横邊田界隈に至るまで十二萬石を領有し、以で三百年相傅の地域であつた。
然るに永祿七年(1564年)多久上野介宗利に至り、龍造寺隆信と戰ひ敗れて梶峯城陥落し、愛に舊多久氏は滅亡したのである。而して隆信の舎弟和泉守長信此地を領して一萬余石を知行し、後年龍造寺姓を多久氏に改めたのである。
新多久氏
斯くて長信は、慶長十八年(1613年)十月二十六日七十六才を以て卒去した。此處は唐津線多久驛(元莇原驛)より一里を隔て、戸數元二百戸以上ありし由なるも、今は其半ばに過ぎないやうである。
茲に多久氏の本系龍造寺氏の系圖を示して、鍋島氏の縁戚關係と、及び各系との關係をも知る可き参考とする。(龍造寺系圖参照)
金ヶ江三兵衛
李参平は、同勢と共に佐嘉城に伴はれしが、茲に彌々歸化することゝなり、彼が郷里忠清南道鶏籠山の金江島を姓となして金ヶ江と改め、参平を三兵衛と通稱することゝなった。
さて何かの役目に就かしめんも、言語は勿論習慣の異なれる者とて何等の用を爲さず、さりとて彼は特に功勞多き者なれば、他の多くの韓人同様に放住せしむるも本意なしとて、城中大いに其措置に窮し、種々協議の上幸ひ多久勢と同船渡來せし縁もあり、依て参政多久安順に預けなば、何か良き分別もある可し一決し、人を附して三兵術を多久へ送ったのである。
三兵衛多久に来る
斯くて三兵衛は多久に来りしも、此處も亦佐嘉に於けると同じく、何等の用途も出来ざれば、追々言語通するまで食客分となし、適々徒然の折など呼出して、邑主の問はれ相手にされたのである。或時安順の問ひけるは、汝元来韓國にて、何業を営み居りしぞのことに、彼はサークイ(焼物)を造り居りし由答へたのである。
金ヶ江古文書には、朝鮮にて直茂が「汝何々業を以て世を渡り候哉被相間候右の者共申上候者二人共農業仕も其内李参平と申唐人我者古より専ら陶器を仕立候由申上候處御成の上」云々とあるは三兵衛子孫の者が、當時の事情を斯く忖度して多久家へ申立たるものにて、決してそれは事實として首肯されない。
三兵衛由緒書
此邊の消息に就いては、文化二年(1805年)の多久家古文書中に、金ヶ江三兵衛の由緒書なるものがある。
金ヶ江三兵衛由緒之事
金ヶ江三兵衛と申者元來朝鮮人にて往昔日峯様(直茂)朝鮮御陣之節三兵衛儀於彼國御道御案内申上於御陣中身命を擲抽忠節候故歸朝之節被口□御聞候者彼の國之御導等仕候未口付て者高麗人共より害に逢候も難斗之御供被□召具由被口仰出其節長門守安順同勢內々召連渡海仕候右之者李氏にて御座候得共金江島の者に付在名字相唱へ金江三兵術と被召出候然處言語をも不通萬事御國風に不移合一同勢內召連候由綠有之長門守へ被相預於此方も同然之振合に付彼國に於て何の産業を仕罷在候哉相尋候處焼物相營罷在候由申述候に付先以て私領女山と申所にて焼方試させ候成程相應の焼物致來候付て所々にて焼方相整候へ共十分の土其外辨利無之候に付て長門守より請御意燒物試之濛御免許候故御國中燒物土見巡り於所々燒方相整候內於有田鄉最上の土見出候に付同郷上白川と申所へ致住居焼物仕立段々繁昌仕唯今には所々皿山と相成御國產之随一と相成候儀金ヶ江三兵衛動功に御座候右釜焼開基之由緒を以て車御運上被差免置堺土代々干今子孫之者持來罷在候扨又三兵衛子供孫共代々□□繁昌數人に罷成候に付美作守茂矩代々に至り小扶持申由緒之者共に付て其節兩人より判物等をも相渡し置き持傅罷在候右之通以前より格別之筋目に付三兵衛子孫之者共今以て厚く申附置き候 右之通御座候 以上
唐人古場
安順之を聞いて然らば早速其製作を試むべしと命じ、字岡の一角(大峠の上り口尾越墓地の下手なり。後年此所を唐人古場といふ)に窯を築きて試燒せしめしに、兎も角種々の焼物が出来上った。今其殘缺を見るに青茶暗色釉にて繰淵の小皿や、同釉になほ黒味ある物にて、之に鐵猫を施しものなど何れも高台無釉である。中には軟質土を強度に焼成せし爲めに、光澤ある色となりて無惨に歪んでゐるのもある。
高麗谷と大山古窯
次に彼は檀の木場の側なる高麗谷(山の口所謂皿屋)に移窯せしが、此處の殘缺には徑二寸位の鐵色茶碗があり、又赤き胎土にて無釉物の縁反にて、五寸徑に高さ三寸位の器がある。次に又彼は藤の川内の大山(西多久村にて大山古窯さいふ)にて製陶せしも、邃に良器を得るに至らなかったのである。
三兵衛の探見出發
多久藩にては相應の焼物と認めしも、三兵衛は甚だ満足せず、只管良土探見を申出でしより、然らばとて安順より佐嘉領内に良土を見出し、そして至る處にて勝手に試せしめられんことを宗藩に請願し、其許可を得るに及んで、三兵衛が單身多久を出立せしは慶長の晩年らしく、彼が此地に開窯せしより十五、六年目であらう。
保四郎
而して彼が此間に於ける多久製陶中、門人や手傳ひとなりし邦人中には其技法を習練せし者少からず、故に三兵衛が立去りし跡に於てもなほ陶業を継承せしものゝ如く、多久地内道祖の元溜池の上手なる保四郎窯などは、其後年の開窯に成れるものにて、現在十三間登の窯趾があり、右手には堆積されたる物原がある。
此古窯品には、濃茶釉に白茶の波刷毛目を施し底は同じ渦刷毛目を文せし七寸の淺丼や、鶯釉に白の霧刷毛目を施せし四寸丼があり、或は濃茶釉に卵色にて波刷毛目を文飾し、底は渦刷毛目を施せし七寸丼や、又鶯茶釉に白刷毛目を文せし小皿にて、底にて四つ目積せしものなどがある。
藤の川内磁器焼の交渉
之より三兵衛出立後の晩年に於ける多久領にて、磁器製造を企畫せし顚末を概略せんに、茲に西多久山中なる藤の川内の大山窯は、享保年間(1716-1736年)廢窯せしを其窯跡を修理して伊萬里郷市の瀬山の窯焼原傳兵衛(多久氏の被官か)を迎へて再興せしめんと目論んだのであつた。それが舊來の陶器にあらずして、天草石を以て白磁を製作せんとの希望なりしを以て、此起業に就いては有田なる金ヶ江一統の者や、其他の窯焼に對し頗る憚りしものゝ如く、當時の内相談と有田代官等へ交渉の次第など、多久古文書に就い重なるものを摘録して之を示さん。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
朝鮮出兵の際、鍋島勢は山道で道に迷い、近くの家にいた三人の韓人に道案内を命じた。その一人で二十五六歳の李参平が以後も案内役を務め、兵糧の徴発や牛車の手配まで取り計らい、大いに軍を助けた。
慶長三年(1598)十二月、直茂が帰還するにあたり、参謀の多久長門守安順(当時は龍造寺六郎次郎家久)に命じて、李参平を日本へ連れてくることになった。彼を朝鮮に残せば、日本軍に協力した者として害を受けかねないという配慮からで、李参平は多久勢と同船して渡来した。
多久長門守安順は小城郡多久の領主で、初名は家久。水ヶ江龍造寺家兼入道剛忠の孫・長信の長男で、隆信の甥。才気と武勇に優れ、宗藩の政務を担い、成富兵庫助茂安と並ぶ両柱と称された。有田焼の成立についても、安順以降の多久氏が深く関わった。
肥前多久の荘は、源頼朝の時に津久井義高の子・多久太郎平宗直の所領となり、建久二年(1191)に子の平太宗盆が梶峯城を築いて代々支配し、杵島の横辺田周辺まで十二万石を領して三百年続いた。だが永禄七年(1564)、多久上野介宗利が龍造寺隆信に敗れて城は落ち、旧多久氏は滅亡。のちに隆信の弟・和泉守長信が一万余石を領し、後年龍造寺姓を多久氏に改めた。
長信は慶長十八年(1613)十月二十六日に七十六歳で没した。多久は唐津線多久駅(旧莇原駅)から一里の地で、かつて二百戸以上あったが、今は半ばほどという。ここに龍造寺本系の系図を示し、鍋島氏との縁戚や各系の関係を知る手がかりとする(龍造寺系図参照)。
李参平は佐嘉城に伴われ、やがて帰化し、故郷の忠清南道鶏籠山・金江島にちなみ「金ヶ江」を姓とし、通称を三兵衛とした。しかし言葉や習慣が通じず職務に就けない。とはいえ功労者を他の韓人同様に放置するのも忍びないため、同船渡来の縁もあって参政・多久安順に預けられ、付人を付けて多久へ送られた。
多久でも当初は用がなく、言葉が通じるまで客分として召し置かれ、ときどき主君の話し相手となった。あるとき安順が本国での業を問い、彼は「サークイ(焼物)」を作っていたと答えた。なお金ヶ江家文書に見える「直茂が朝鮮で業を尋ねた」という記事は、後世の子孫の推量で、事実とは断定できない。
文化二年(1805)の多久家古文書には、金ヶ江三兵衛の由緒書があり、道案内の忠功で渡来し、言語不通ながら長門守預かりとなり、まず私領の女山で試し焼きを行ったが、土と条件が十分でなく、許可を得て国中で陶土を探し、有田郷で最良の土を見いだし、上白川に住んで焼物を興し、やがて各地が皿山となって国産随一に至った、という趣旨が記される。
安順は早速、字岡の一角(大峠の登り口・尾越墓地下、のちの「唐人古場」)に窯を築かせ試焼させた。青茶~暗色の釉を掛けた繰り口の小皿や、黒味のある同釉に鉄絵を施したものなどができ、高台は無釉。軟らかい土を高火度で焼いたため、光沢はあるが歪んだ失敗品もある。
次に檀の木場そばの高麗谷(山の口の皿屋)へ移り、径二寸ほどの鉄色の茶碗、赤い胎土の無釉で反り縁の器(径五寸・高さ三寸ほど)などが残る。さらに藤の川内の大山(西多久村の大山古窯)でも作ったが、ついに満足な器は得られなかった。
多久藩は相応の出来と見たが、三兵衛は満足せず、良土の探索を願い出た。安順は佐嘉領内で土を自由に試す許可を宗藩に請い、許されると、三兵衛は慶長末ごろ、多久開窯から十五六年を経て単身出立したらしい。
この間、彼に学んだ邦人も多く、彼が去ったのちも陶業は継承された。道祖の元溜池上手の保四郎窯はその後年の開窯で、十三間の登り窯址と右手に物原の堆積が残る。遺品には、濃茶釉に白茶の波刷毛目、底に渦刷毛目の七寸浅丼、鶯釉に白の霧刷毛目の四寸丼、濃茶釉に卵色の波刷毛目で底渦刷毛目の七寸丼、鶯茶釉に白刷毛目の小皿で、底に四ツ目積みの跡があるものなどが見られる。
さらに後年、西多久山中の藤の川内・大山窯(享保年間に廃窯)を修理し、伊万里郷市・瀬山の窯焼・原傳兵衛(多久氏の被官か)を招いて再興し、天草石で白磁を作ろうと企てた。これは従来の陶器ではなく磁器であったため、有田の金ヶ江一統や他窯に遠慮が生じ、当時の内々の相談や有田代官への交渉の経緯が、多久古文書に残されている。
【英語訳】[English translation]
During the Korean campaigns, the Nabeshima troops lost their way in the mountains and ordered three Koreans at a nearby house to guide them. One, a man about twenty-five or six named Ri Sampyeong, continued as their guide thereafter and even arranged provisions and ox-carts, rendering significant service.
In December 1598 (Keichō 3), as Nabeshima Naoshige returned, strategist Taku Nagato-no-kami Yasuyuki (then called Ryūzōji Rokurōjirō Iehisa) was instructed to bring Ri Sampyeong to Japan. Leaving him in Korea might expose him to reprisals for aiding the Japanese, so he crossed with the Taku forces.
Taku Yasuyuki, lord of Taku in Ogī District, first bore the name Iehisa. He was the eldest son of Chōshin—grandson of Ryūzōji Iekane (Nyūdō Gōchū)—and nephew of Ryūzōji Takanobu. Gifted in talent and valor, he handled domain governance and, with Naritomi Hyōgosuke Shigeyasu, was hailed as one of the two pillars. The Taku line from his time onward played a major role in the rise of Arita ware.
The Taku estate in Hizen became the fief of Taku Tarō Taira Munenao (son of Tsukui Yoshitaka) under Minamoto no Yoritomo. In 1191, his son Heita Sōbon built Kajimine Castle, ruling some 120,000 koku across the Yokobeta area of Kishima for about three centuries. In 1564, however, Taku Ueno-no-suke Munetoshi was defeated by Ryūzōji Takanobu, Kajimine fell, and the old Taku house perished. Takanobu’s brother Izumi-no-kami Chōshin then governed over 10,000 koku and later changed the family name from Ryūzōji to Taku.
Chōshin died on October 26, 1613, aged 76. Taku lies about one ri from today’s Taku Station on the Karatsu Line (formerly Azowara), once with over 200 households, now roughly half. A Ryūzōji genealogy clarifies ties with the Nabeshima and other branches (see genealogy).
Ri Sampyeong, brought to Saga Castle, naturalized. Taking “Kanagae” from Kin’e-jima at Mt. Gyeryong in Chungcheongnam-do, he became Kanagae Sanbē. Language and customs hindered any appointment, yet his merit forbade neglect; thus, because he had crossed with the Taku men, he was entrusted to Councillor Taku Yasuyuki and sent to Taku with attendants.
At Taku he first lived as a guest until the language barrier eased, occasionally summoned to converse with the lord. Asked what trade he had pursued in Korea, he replied: “sākui (pottery).” A Kanagae family paper saying Naoshige asked him this in Korea is a later descendant’s conjecture and not reliable as fact.
An 1805 Taku record (the Kanagae Sanbē pedigree) relates that he tested firing first at Onago’s quarter, but suitable clay and conditions were lacking; with permission to search throughout the domain, he discovered the best clay in Arita-gō, settled at Kamishirakawa, and built up production, leading many sites to become sarayama (kiln villages) and making the province’s wares pre-eminent.
On Yasuyuki’s order, a trial kiln was built at a spot in Aza-oka (below the Ogoe cemetery at the Daitōge ascent; later called Tōjin-koba). Products included small dishes with bluish-brown to dark glazes and iron-painting; all had unglazed footrings. Some pieces, made of soft clay fired at high temperature, warped despite a glossy surface.
He then moved to Kōraidani near Dannokoba (Yamanokuchi’s “sarayashiki”), where remains include iron-colored tea bowls about two sun across and red-bodied unglazed flared-rim vessels about five sun in diameter and three sun high. Afterward he worked at Ōyama in Fujinokawachi (the Ōyama ancient kiln in Nishi-Taku), yet still failed to obtain truly fine wares.
Although the Taku clan deemed the results acceptable, Sanbē was unsatisfied and requested to seek better clay. With approval to test freely across Saga, he likely set out alone from Taku in the late Keichō years, roughly fifteen or sixteen years after opening his first kiln there.
Meanwhile, many locals trained under him, and pottery continued after his departure. The Hoshirō kiln upstream of the Moto reservoir at Dōso opened later; traces show a thirteen-ken climbing kiln and a heap of wasters to the right. Surviving pieces include seven-sun shallow bowls with dark-brown glaze and white-tea wave brushwork (spiral brushes on the base), four-sun bowls with uguisu (green-brown) glaze and white mist-brushwork, and small plates with uguisu-brown glaze and white brushwork bearing four stacking marks on the base.
In later years, plans arose in the Taku territory to revive Ōyama kiln in Fujinokawachi (abandoned in the Kyōhō era, 1716–1736) by repairing the site and inviting Seyama Denbē, a potter of Goichi, Imari, to produce white porcelain using Amakusa stone. Because this aimed at porcelain rather than traditional earthenware, there was considerable deference to the Kanagae group at Arita and other kilns. Taku archives preserve notes of internal consultations and negotiations with the Arita magistrates.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
在朝鲜出兵时,鍋島军在山路迷失方向,命附近民宅中的三名韩人带路。其中一人约二十五六岁的李参平,此后持续充当向导,甚至负责征集军粮与雇用牛车,为军势提供了不少便利。
慶长三年(1598)十二月,直茂回国时,参谋多久长门守安顺(当时名为龙造寺六郎次郎家久)奉命护送李参平来日。若留在朝鲜,他可能因协助日本军而遭祸,故随多久势同船渡来。
安顺是小城郡多久的领主,初名家久,为水ヶ江龙造寺家兼入道剛忠之孙・长信之长子,隆信之侄。才智与武勇兼备,掌理政务,与成富兵库助茂安并称“两柱”。自安顺以来,多久氏在有田烧的起源上负有重要职责。
肥前多久之庄,源赖朝时为津久井义高之子多久太郎平宗直领地。建久二年(1191),其子平太宗盆筑梶峯城,历代为城主,领有杵岛横边田一带至十二万石,延续三百年。永禄七年(1564),多久上野介宗利败于龙造寺隆信,城陷旧多久氏灭。后隆信之弟和泉守长信领地一万余石,改姓为多久。
长信于慶长十八年(1613)十月二十六日卒,享年七十六。多久距唐津线多久站(旧莇原站)一里,昔有二百余户,今减半。此处并示龙造寺本系系谱,以明与鍋島氏等之关系(参见系图)。
李参平被带至佐嘉城,旋即归化,取故乡忠清南道鶏籠山金江岛为姓,改称“金ヶ江”,通称三兵卫。因语言习俗不通,难以任用,但其功劳显著,不可任其漂泊,遂以随船之缘,交由参政多久安顺收管,遣人护送至多久。
在多久,初为客分,间或召见与主君谈话。被问及本业时,他答“烧物”。金ヶ江家文书所载“直茂于朝鲜询业”系后裔推测,难以据为事实。
文化二年(1805)之古文书载,三兵卫先于女山试烧,因土与条件不足,获准巡视国中寻土,于有田郷得最良之土,居上白川制陶,诸处遂成皿山,国产冠群,此皆三兵卫之功。
安顺又令于字冈一隅(大峠上口尾越墓地下,后称“唐人古场”)筑窑试烧。所遗有青茶至暗色釉之小皿,黑味釉上施铁绘者等,皆高台无釉。亦有因软胎高温烧成而光泽虽在却扭曲之品。
继而迁至檀之木场旁之高丽谷(山之口所谓皿屋),残物有径二寸的铁色茶碗,亦有赤胎无釉反口器(径五寸、高三寸)。再于藤之川内之大山(西多久村“大山古窑”)制陶,终未得佳器。
虽为多久藩所称可用,三兵卫仍不满足,请求探访良土。得准在佐嘉领内自由试烧后,疑于慶长末年自多久单身启程,距初窑约十五六年。
其间所授之邦人甚多,故其去后陶业仍续。道祖元溜池上手之保四郎窑为后开之窑,尚存十三间登窑址与右侧物原堆积。遗品见有:浓茶釉配白茶波刷毛目、底施涡刷毛目之七寸浅丼;鶯釉配白色“雾刷毛目”之四寸丼;浓茶釉配蛋黄色波刷毛目、底为涡刷毛目的七寸丼;以及鶯茶釉配白刷毛目之小皿,底有“四目积”痕。
其后又谋修复西多久山中的藤之川内・大山窑(享保年间废),迎伊万里郷市瀬山之窑烧・原傳兵卫(或为多久氏被官)再兴,欲以天草石制白瓷。因改为瓷器而非旧陶器,顾及有田之金ヶ江一统与他窑,遂与有田代官等有多番内议与交涉,皆见诸多久古文书。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
在朝鮮出兵時,鍋島軍在山路迷失方向,命附近民宅中的三名韓人帶路。其中一人約二十五六歲的李參平,此後持續充當嚮導,甚至負責徵集軍糧與雇用牛車,對軍勢助益良多。
慶長三年(1598)十二月,直茂返國時,參謀多久長門守安順(當時名為龍造寺六郎次郎家久)奉命護送李參平來日。倘留於朝鮮,恐因協助日本軍而遭禍,故隨多久勢同船渡來。
安順為小城郡多久之領主,初名家久,係水ヶ江龍造寺家兼入道剛忠之孫・長信之長子,隆信之姪。才智與武勇兼備,掌理政務,與成富兵庫助茂安並稱「兩柱」。自安順以來,多久氏於有田燒之肇興負有重要責任。
肥前多久之莊,源賴朝時為津久井義高之子多久太郎平宗直領地。建久二年(1191),其子平太宗盆築梶峯城,歷代為城主,領有杵島橫邊田一帶至十二萬石,延續三百年。永祿七年(1564),多久上野介宗利敗於龍造寺隆信,城陷舊多久氏滅。後隆信之弟和泉守長信領地一萬餘石,改姓為多久。
長信於慶長十八年(1613)十月二十六日卒,享年七十六。多久距唐津線多久站(舊莇原站)一里,昔有二百餘戶,今減半。此處並示龍造寺本系系譜,以明與鍋島氏等之關係(參見系圖)。
李參平被帶至佐嘉城,旋即歸化,取故鄉忠清南道鶏籠山金江島為姓,改稱「金ヶ江」,通稱三兵衛。因語言習俗不通,難以任用,然其功勞顯著,不可置之不理,遂以同船之緣,交由參政多久安順收管,遣人護送至多久。
在多久,初為客分,時或召見與主君談話。被問及本業時,答「燒物」。金ヶ江家文書所載「直茂於朝鮮詢業」為後裔臆測,不足為據。
文化二年(1805)之古文書載,三兵衛先於女山試燒,因土與條件不足,獲准巡視國中尋土,於有田郷得最良之土,居上白川製陶,諸處遂成皿山,國產稱首,皆三兵衛之功。
安順又令於字岡一隅(大峠上口尾越墓地下,後稱「唐人古場」)築窯試燒。遺存有青茶至暗色釉之小皿,黑味釉上施鐵繪者等,皆高台無釉。亦有因軟胎高溫燒成而雖有光澤卻扭曲之品。
繼而遷至檀之木場旁之高麗谷(山之口所謂皿屋),殘物有徑二寸之鐵色茶碗,亦有赤胎無釉反口器(徑五寸、高三寸)。再於藤之川內之大山(西多久村「大山古窯」)製陶,終未得佳器。
雖為多久藩所稱可用,三兵衛仍不滿足,請求探訪良土。得准於佐嘉領內自由試燒後,疑於慶長末年自多久單身啟程,距初窯約十五六年。
其間所授之邦人甚多,故其去後陶業仍續。道祖元溜池上手之保四郎窯為後開之窯,尚存十三間登窯址與右側物原堆積。遺品見有:濃茶釉配白茶波刷毛目、底施渦刷毛目之七寸淺丼;鶯釉配白色「霧刷毛目」之四寸丼;濃茶釉配蛋黃色波刷毛目、底為渦刷毛目之七寸丼;以及鶯茶釉配白刷毛目之小皿,底有「四目積」痕。
其後又謀修復西多久山中的藤之川內・大山窯(享保年間廢),迎伊萬里郷市瀨山之窯燒・原傳兵衛(或為多久氏被官)再興,欲以天草石製白瓷。因改為瓷器而非舊陶器,顧及有田之金ヶ江一統與他窯,遂與有田代官等多番內議與交涉,皆見諸多久古文書。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
在朝鲜战役中,鍋島军在山中迷路,命附近民宅的三名韩国人带路。其中一人约二十五六岁的李参平,此后持续担任向导,并安排军粮与牛车,贡献甚大。
1598年12月(庆长三年),鍋島直茂返国时,参谋多久长门守安顺(时名龙造寺六郎次郎家久)奉命将李参平带到日本,避免他因协助日本军而在朝鲜遭报复,遂与多久势同船渡日。
安顺为小城郡多久领主,初名家久,为龙造寺家系之长子、隆信之侄。才武兼备,与成富兵库助茂安并称两柱。自其时起,多久氏深度参与有田烧之兴起。
肥前多久自源赖朝时为多久太郎平宗直领地,建久二年(1191)筑梶峯城,统治约十二万石逾三百年。1564年,多久上野介宗利败于龙造寺隆信,旧多久氏灭。后隆信之弟和泉守长信领地一万余石,改姓为多久。
长信于1613年10月26日卒。多久距今之唐津线多久站一里,旧有二百余户,今约其半。并有龙造寺系谱说明与鍋島氏等之关系。
李参平至佐嘉城后归化,取“金ヶ江”为姓(源自鶏籠山金江岛),通称三兵卫。因语言风俗不通未能任用,然以功劳卓著,遂托付于参政多久安顺,送至多久。
在多久,他先为座上宾,偶被召见。被问本业,则言“烧陶”。有家文称直茂在朝鲜即询问其业,属后人臆测,不足据。
1805年文书称:先在女山试烧,因土与条件不足;后获许遍寻良土,于有田郷得上佳之土,居上白川兴业,诸处遂成皿山,国中名列前茅。
奉命于字冈(后称唐人古场)筑窑试烧,出品含青褐至暗色釉小皿与铁绘器,皆高台无釉;亦有软胎高温烧成而变形之品。其后迁高丽谷与藤之川内之大山古窑,仍未得佳器。
虽为多久藩认可,三兵卫仍求良土。获准后,于庆长末年大约在最初开窑十五六年后单身启程。此间所授之人延续其业;保四郎窑遗址尚存,器物多见刷毛目装饰。
再后来,谋以天草石在藤之川内・大山窑制白瓷,邀伊万里之瀬山窑工原傳兵卫再兴。因转作瓷器,顾及有田金ヶ江一党及他窑,遂与有田代官周旋,其事载于多久古文书。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
在朝鮮戰役中,鍋島軍於山中迷路,命附近民宅的三名韓國人帶路。其中一人約二十五六歲的李參平,此後持續擔任嚮導,並安排軍糧與牛車,功勞甚著。
1598年12月(慶長三年),鍋島直茂返國時,參謀多久長門守安順(時名龍造寺六郎次郎家久)奉命將李參平帶至日本,免其因協助日本軍而在朝鮮遭報復,遂與多久勢同船來日。
安順為小城郡多久領主,初名家久,為龍造寺家系長子、隆信之姪。才武兼備,與成富兵庫助茂安並稱兩柱。自其時起,多久氏深度參與有田燒之興起。
肥前多久自源賴朝時為多久太郎平宗直領地,建久二年(1191)築梶峯城,統治約十二萬石三百餘年。1564年,多久上野介宗利敗於龍造寺隆信,舊多久氏亡。後隆信之弟和泉守長信領地一萬餘石,改姓為多久。
長信於1613年10月26日卒。多久距今之唐津線多久站一里,昔有二百餘戶,今約其半。並有龍造寺系譜以明與鍋島氏等之關係。
李參平至佐嘉城後歸化,取「金ヶ江」為姓(源自鶏籠山金江島),通稱三兵衛。因語言風俗不通未能任用,然以功勞卓著,遂託付於參政多久安順,送至多久。
在多久,先為座上賓,間或召見。問其本業,曰「燒陶」。家文所載直茂於朝鮮即問其業者,為後人臆測,不足據。
1805年文書稱:先於女山試燒,因土與條件不足;後獲准遍尋良土,於有田郷得上佳之土,居上白川興業,諸處遂成皿山,列國中翹楚。
奉命於字岡(後稱唐人古場)築窯試燒,產物有青褐至暗色釉小皿與鐵繪器,皆高台無釉;亦有軟胎高溫燒成而變形之品。其後遷高麗谷與藤之川內之大山古窯,仍未得佳器。
雖為多久藩認可,三兵衛仍求良土。獲准後,於慶長末年約在初窯十五六年後單身啟程。其間所授之人延續其業;保四郎窯遺址尚存,器物多見刷毛目裝飾。
再後來,謀以天草石於藤之川內・大山窯製白瓷,邀伊萬里之瀨山窯工原傳兵衛再興。因轉為瓷器而顧及有田金ヶ江一黨及他窯,遂與有田代官交涉,其事見於多久古文書。

