【原文】[Original text]
縮緬肌
鍋島焼の素地に、縮緬肌と稱するのがある。それは釉薬の派手なる光澤を止め、地肌の發色を頗る重厚に焼き上げしものにて、之は焼きにくい有田泉山の原料にあらざれば出来ぬ色相である。而して此色合までに、器物を焼き抜ぐことは非常の難事にて、最初より多くの廢物が出来ることを覺悟の上にて焼成せねばならぬ。故に大名的道楽の外出来ない製品であるといはれてゐる。
斯くの如く何れの作品も、技術の眞核に入りし精巧なる製器にて、氣品頗る高く、流石に御大名道具として、精練されし、美の極致を現はしてゐる。洵に此鍋島焼こそ、廣い天地に生きる藝術品として誇るに足る可く、そして我が有田焼製品中の冠絶せるものである。
色鍋島の起原
此絢爛たる色鍋島の圖案なるものは、果していづれの時代に創始されしか詳でない。最初上繪附を要せし分は、柿右工門に用命せしが如きも、それは繪附の様式が全然異つてゐる。御細工屋が大川内へ移轉せしより此處に於い上繪附が開始され、全く南川原とは没交渉とな結果、柿右工門よりの歎願切なるものありしを以て、彼には臨時注文の一部中、特に染附のみ用命せしても、或は錦附のみ用命せしてもいはれてゐるが、要するに今の色鍋島と稱するものは、別途の株式であらう。
而して大川内の藩窯にては、上繪附をなぜしこあらざる説をなす者あるも、當時柿右工門への用命絶えし貞享二年(1685年)より、享保八年(1723年)迄三十九ヶ年間を鍋島焼が全然上繪附のみを中止せしと見るは余りに非常識である。
鍋島藩費の節約
當時鍋島宗藩が、外國黒船に對する長崎防備(筑前黒田藩と交代)の重任に就いて、經費の消耗甚しきより、屢藩費節約の改革を行ひしことは周知の事柄である。殊に八代藩主肥前守治茂に至つて、彌々其窮乏を來せしより諸般の節費を断行した。九代肥前守齊直に及びては、備砲十一門なりし長崎砲臺が、更に百二十四門に増加され、其經費莫大なるものがあつた。故に文政六年(1825年)八月には、藩士一般に對して相續米渡しの制度を設け、家祿千石以上は八割、五十石以上は四割以上の上納を命ぜられたのである。
有田へ赤繪の用命
此藩費の節約主意に因り、既に明和 安永時代(1764-1781年)に於いても諸般の整理行はれ従つて御細工屋職人數の如きも減員されて、上檜附部を廢し、之に代ふるに有田十六軒中の、優秀なる赤繪屋を選みて用命することゝ成りしにあらざるか、或は又何かの理由を以て之を有田に移せしものであらう。 猶此際御細工屋の職工割当数を改めしものゝ如く、前述せる割當の、細工兩部十五人に對し、九人の畫工にては上繪附まで製作せしとは受取れない。
斯くの如く窮乏せし宗藩なれども、外様大名中大藩の資格として、幕府への進献は勿論他藩へ贈答品の必要があり、殊に我邦唯一の名産白磁製造地の藩主として、大名食はざるも、高御膳主義たるの止むを得ざる場合なりしを察せらる。蓋し一面には、又此美術的製品を、我國產の精華として遺さんとの希望の下に、かゝる窮乏の中にも継續されしことが、模範品として後代の斯業者にとり大いに感謝すべき事柄なりしは申すまでもない。
斯くて此赤繪附のみは、有田赤繪町なる十六軒の金績業者の一戶、今泉家に用命さるゝことゝなりしが、それは五代平兵衛よりか、六代覺左工門よりかは詳でない。要するに有田へ上繪附が移されてより、色鍋島の繪附が完成せしと見る可きであらう。今泉家の略系左の如くである。
今泉略系
今泉今右工門 初代 寛文五年八月廿一日卒
今右工門 二代 元條二年六月十日卒
今右工門 三代 享保二年二月十五日卒
喜太夫 四代 寶曆八年三月七日卒
平兵衛 五代 安永四年七月十一日卒
覺左工門 六代 文化十三年八月十四日卒
平兵衛 七代 天保十四年二月七日卒
助五郎 八代 嘉永七年七月廿七日卒
今工門 九代 明治六年六月十六日卒
藤太 十代 昭和二年九月二十七日卒
今右工門 十一代 明治六年六月十六日生
平兵衛 明治三十年八月八日生
特種の彩釉
今泉家は之より代々宗藩の御用赤繪屋と成り、色鍋島の繪附に従事したのである。而して此優秀なる技能に於いては、現代と雖も猶他の追従を赦さぬものがある。殊に彩釉の調製が燒成火度頗る高く、窯出しの後籾殻にて磨察されて、始めて光澤を現はす程にて、全く鉛分なく食器としても理想的といはれてゐる。
御用赤繪窯の火入
當時大川内の藩窯にて焼成されし素地を、長持に封じ、御細工屋の役人附添の上有田へ運ばれ、今泉家に於いて、一切の上繪附が施された。此赤繪窯火入の節は、役人又出張して監視をなしが、窯の前面には、鍋島宗藩の定紋杏葉(俗に訛りてギヨーエといふ銀杏の葉なり、抱茗荷といふは誤り也)の高張を燈して、注連縄を張り、猥りに女などの近づくことを禁じられたのである。斯くて燒上がれば、役人一々是を點檢し、損じ品まで悉く長持に封じて、又大川内の御細工役所へ引取られたのである。
今泉家の中興と稱せらるゝ六代覺左エ門は、斯技殊に勝れ、傍ら俳諧を好んで樂中坊砂合と號した。七代平兵衛又父に劣らぬ名匠であり、近代に於いては十代藤太、特に出藍の譽があつた。今十一代今右工門(前名熊一)良く父祖の技術を継承し東京市麴町區三宅坂に其出張所を設けてゐる。
帖佐の赤繪
薩摩の帖佐焼の赤繪史を書けるものに、薩藩より鍋島藩に交渉して諒解を得、大川内藩窯より赤繪法を傅習せしの記事あるも、當時最秘にせし鍋島藩が、決して應ず可き筈がない。況んや有田に於ける十六軒の赤繪業者は、假令藩命たりとも、一應故障を申立つ可き結束振であった。彼長子より出でし支藩小城領主が、松ヶ谷焼繪附の件に於てさへ、此赤繪師(赤繪業者)の云々ありしこさが、同藩の古記録中にある。
一、寶永五年(1708年)正月赤繪師之事日記ノ内(朱書)
故に薩摩藩の赤繪附傳習は、恐らく何かの方法を以て斯法が會得されして見るべきであらう。
砧手青磁
青磁の大別に三種ありて、一を碪手(宋の龍泉窯にて焼きし砧形の花器の發色より名づく)と云ひ、雨過天青稱せらる、之が鍋島青磁の色相である。
天龍寺青磁
一は天龍寺(明の龍泉窯に出來し香爐が嵯峨の天龍寺にありし發色より名づく)と云ひ、千峯翠色と稱せらる、乃ち攝州三田焼の青磁色相にて、碪手よりは稍黄色を帯び、肥前山何にも製せられてゐる。(之が黄緑と稱すべきものか、尚灰緑なるものがあり、其他南京青磁の粉青や豆青、又は朝鮮青磁の晦澁なる高麗翡色や李朝の淡青があり、近代は又クローム料の青磁などもある)
七官手青磁
一は七官手(東山時代支那の第七番目なる官人の船にて始めて輸入せしより名づく)と稱するものにて、色相は砧手も天龍寺もあり、又白釉もある。之は陶質に軟釉を施し、窯出しの際素地の膨脹に依って、釉面に龜裂を生しめ、其折濃き墨汁を塗りて龜裂内に喰込ませしものであり、即ち俗にいふ罅焼である。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
「縮緬肌」は、鍋島焼の素地で釉の強い光沢を抑え、地肌の色をどっしりと深く出した仕上げを指す。有田・泉山の扱いが難しい原料でなければ出せない色調で、歩留まりが低く廃品が多く出ることを承知で焼く必要があるため、大名道具ならではの贅沢な製品とされた。どの作も技の核心に達した精巧さと高い品位を備え、鍋島焼は有田の中でも群を抜く藝術として誇れる。
色鍋島の図案がいつ始まったかは不詳。初期の上絵付は柿右工門に頼んだとみられるが、作風は別系統である。御細工屋が大川内へ移ってから上絵付が本格化し、南川原とは切り離され、柿右工門には臨時で染付のみ・あるいは錦付のみを委ねたと伝わる。したがって今日いう「色鍋島」は独立の枠組みと考えるのが妥当で、貞享二年(1685)から享保八年(1723)の長期間、上絵付を完全に止めたと見るのは不自然である。
当時、鍋島藩は長崎警備の負担で財政が逼迫し、たびたび経費節減を断行した。八代・治茂の時に緊縮が進み、九代・齊直の時には長崎砲台の砲門が十一から百二十四に増強され、文政六年(1825)には家禄の上納制度まで施行された。
この節約方針のもと、明和・安永期には人員整理が進み、上絵部門を縮小して有田・赤絵町の有力工房へ委託したと考えられる。職工割当(細工十五に対し画工九)から見ても、上絵まで一貫で賄ったとは取りにくい。藩は困窮しつつも外様大名としての進献・贈答の体面を保ち、国産美術の精華を残す意図から制作を継続した。上絵付は有田十六軒の一つ今泉家に命じられ、これにより色鍋島の絵付が完成へ向かった。
今泉家は以後、代々の御用赤絵屋として活躍。高温焼成に耐える彩釉を用い、窯出し後に籾殻で磨いて光沢を出す無鉛の仕立ては、食器としても理想的と評された。素地は大川内で焼かれ、長持に封じて役人の付き添いで今泉家へ運ばれ、上絵付と赤絵窯の火入れも役人の監督下で行われた。窯前には鍋島家の定紋「杏葉」の高張が掲げられ、注連縄で結界し、無用の立入りを禁じた。
帖佐焼の赤絵が鍋島から伝習を受けたとする説もあるが、当時の秘匿性から公式の教授は考えにくい。何らかの別経路で会得したとみるのが穏当である。
青磁は大別して三系。砧手青磁(龍泉由来、雨過天青の色)は鍋島青磁の基調色。天龍寺青磁(龍泉香炉の発色にちなみ千峰翠色と称する)はやや黄味の緑で、肥前各地にも作例がある。七官手は軟釉を施した陶質で、焼成時の膨張で貫入を生じ、濃墨を擦り込むいわゆる「罅焼」で、砧手・天龍寺系の色も白釉も見られる。
【英語訳】[English translation]
“Chirimen-hada” (“crepe-skin”) denotes a Nabeshima body finish that suppresses flashy glaze shine to bring out a deep, weighty ground tone. It requires the difficult Izumiyama raw stone of Arita; yields are low and many rejects must be accepted, making it a luxury feasible only for lordly wares. The results—refined to the core of technique—carry noble poise and represent the pinnacle of Arita, worthy as living works of art.
The origin of Iro-Nabeshima patterns is unclear. Early overglaze work seems to have been entrusted to Kakiemon, yet in a distinct style. After the O-saiku-ya moved to Ōkawachi, overglaze painting started there independently; Kakiemon was later asked only for specific lots (sometsuke or kinrande). It is unreasonable to assume overglaze ceased entirely from 1685 to 1723.
Financial pressure from Nagasaki coastal defense forced repeated austerity. Under Harushige (8th lord) and Sanaonao (9th), expenses mounted—e.g., the Nagasaki battery expanded from 11 to 124 guns—leading to a levy on stipends in 1825. In the Meiwa–An’ei era the workforce was trimmed and overglaze work likely outsourced to leading Arita red-enamel shops; the staffing ratios suggest finishing all overglaze in-house was unlikely. Despite hardship, the domain maintained presentation wares as a national artistic exemplar. The Imaizumi family in Arita became the official overglaze atelier, completing the maturation of Iro-Nabeshima decoration.
Imaizumi’s high-temperature, lead-free colored glazes were burnished with rice husks after firing to reveal luster—ideal for tableware. Biscuit bodies from Ōkawachi were sealed in long chests and escorted to Arita; firing was supervised under the clan crest banner (Gyōyō/“ginkgo leaf”), with a ritual cord barring entry.
Claims that Satsuma’s Chōsa red overglaze was formally learned from Nabeshima are doubtful given strict secrecy; some indirect acquisition is more plausible.
Celadon divides broadly into three: Kinda-de (Longquan lineage; “rain-washed sky blue”), the base tone of Nabeshima celadon; Tenryū-ji celadon (“thousand-peaks green”), a slightly yellow-green seen in Hizen works; and Shichikan-de, a soft-glazed earthen body intentionally crazed and ink-rubbed (crackle ware), found in both Kinda-de and Tenryū-ji hues as well as white-glazed examples.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
“缩緬肌”是指抑制强烈釉光、让胎土本色沉稳显出的鍋岛烧肌理。须用有田泉山的难烧原料,成品率低、废品多,属大名器的豪奢之作。成品技艺入微、格调高雅,是有田众窑之冠。
色鍋岛的图案肇始不详。上绘初期与柿右卫门有委托但属异系。御细工屋迁至大川内后,上绘在此独立开展,柿右卫门仅承接部分染付或锦手。1685—1723年完全停上绘的说法难以成立。
长崎警备致财政拮据,明和—安永间裁员并将上绘外包予有田赤绘町的名家。即便困窘,藩为体面与文化使命仍持续制作。上绘由今泉家承当,采用高火度无铅彩釉,出窑后以稻壳打磨出光。素地自大川内封箱押送至有田,火入受役人监视并悬杏叶家纹。
帖佐赤绘直接得自鍋岛的说法可信度低,应为旁通获得。
青瓷大别三系:砧手(雨过天青)、天龙寺(千峰翠色,微带黄绿),以及七官手(软釉陶胎,出窑生贯入并擦墨的“裂纹烧”),其色可见砧手、天龙寺系,亦有白釉。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
「縮緬肌」指抑制強烈釉光、使胎土本色沉著顯現之鍋島肌理。須用有田泉山難燒原料,成品率低、廢品多,屬大名器之豪奢。成品技入毫芒、格調高雅,為有田諸窯之冠。
色鍋島圖案創始未詳。上繪初期雖有委柿右衛門,然屬別系。御細工屋遷大川內後,上繪在此獨立展開,柿右衛門僅承部分染付或錦手。1685—1723年全停上繪之說難立。
長崎警備使財政窘迫,明和—安永間裁編並外包上繪於有田赤繪町名家。雖困乏,藩為體面與文化使命仍續作。上繪由今泉家承擔,採高火度無鉛彩釉,出窯以稻殼磨光。素地自大川內封箱押送至有田,火入受役人監視並懸杏葉家紋。
帖佐赤繪直承鍋島之說可信度低,應為旁路習得。
青瓷三系:砧手(雨過天青)、天龍寺(千峰翠色,微黃綠),及七官手(軟釉陶胎,出窯生貫入並拭墨之「罅燒」),其色兼見砧手、天龍寺,亦有白釉。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
“缩绵肌”是抑制强烈釉光、突出厚重地色的鍋岛工艺,依赖有田泉山的难烧石料,低良率使其成奢侈的大名器。成品精炼高雅,堪称有田之冠。
色鍋岛的开端未明。御细工屋迁大川内后,上绘在此独立推进;不可能在1685—1723年间完全停做上绘。财政为长崎防务所累,明和—安永期或将上绘外包予有田名家。今泉家以高温无铅彩釉、稻壳抛光成就名品;素坯由大川内密封押送,火入悬杏叶家纹并受监。帖佐赤绘更可能经旁路学得。
青瓷分三:砧手(雨过天青)、天龙寺(千峰翠色,微黄绿)、七官手(软釉陶胎、开片后擦墨的裂纹烧),并有白釉例。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
「縮綿肌」抑釉光而重地色,賴有田泉山難燒石料,良率低,屬奢侈大名器。其精煉高雅,為有田翹楚。
色鍋島濫觴未明。御細工屋遷大川內後,上繪在此獨立推進;1685—1723 年不可能全停上繪。長崎防務致財政拮据,明和—安永期或外包上繪於有田名家。今泉家以高溫無鉛彩釉、稻殼拋光著稱;素坯自大川內封運,火入懸杏葉家紋受監。帖佐赤繪更可能旁路習得。
青瓷三類:砧手(雨過天青)、天龍寺(千峰翠色,微黃綠)、七官手(軟釉陶胎、開片後拭墨之裂紋燒),並見白釉例。

