【原文】[Original text]
鍋島藩窯の始
鍋島藩用の焼物は、是迄南川原山の重なる窯焼へ用命せしが、有田の副田喜左工門事、勝れたる窯焼なる由、佐嘉表へ聞こへしかば、寛永五年(1628年前)初代藩主信濃守勝茂は、命じて喜工門を御陶器方主任となし、茲に始めて鍋島藩の御道具山が創始さることなった。
高麗山窯
共處は有田山の岩谷川内にて、元韓人の開窯跡なる、高麗山といふ處(今雪竹工場の上部)であつた。蓋し當時の製品が、それ程に優秀ならざりしことは、今發掘せる殘缺に依って察せらる。而して喜左エ門が最難作とせしは、靑磁の製造であつた。彼は泉山石場の前面英山の麓より、青磁の原料を發掘して試用せしも、其の製法に就いては頗る不案内であつた。(此青磁原石は、石場發見後に於いて、某韓人の見出せしものど稱せらる)
喜左衛門五郎七を聘す
或時喜左工門は、善兵衞と打連れて、養父郡の寒水(中原村)といへるところへ往き、其處の土燒製作を見物せし折、當時斯道の名匠髙原五郎七が、今藤津郡の内野山にゐる由を聞き傳へしかば、幸ひ此處にて手蔓を得て、五郎七を内野山に訪ね、懇ろに来聘を求めしかば、寛永七年(1630年)五郎七は、岩谷川内の藩窯に来り茲に始めて完全なる青磁が焼成さること成った。斯くて喜左工門は、御陶器方手傳ひ役として切米十石を知行し、善兵衛は手傳ひ補助となり、五郎七は特待の賓師として厚遇されたのである。
五郎七出奔す
之より喜左工門は、五郎七に就いて大いに研鑽の功を積みしも、青磁釉薬の極意のみは、堅く之を秘して数へなかつたのである。
然るに此頃切支丹信徒の詮義厳しく、五郎七こと邪宗徒の疑ありて、召捕へらる可き風聞たちしかば、彼は門人平兵衛、左内及び家來茂吉を連れて一夜卒然逐電した。これ實に寛永十年(1633年)にて、彼は一旦四國に渡りて、土佐に潜みしが、後郷里大阪に踊り、寛永十二年高齢を以て歿せしといはれてゐる。
切支丹宗徒及韓人説
彼五郎七が、果して切支丹宗徒なりしや否や不明なるも、甞て大阪落城の時の残黨とて、常に身の警戒を怠らず、門戸の出入さへ、必ず大戸を選みて潜りを避けしといはれてゐる。而して又五郎七を韓人なりといふ説あるも、彼が経歴と舉動より考察して、矢張世を憚る浪士たるに相應はしく、故に公然と藩窯へも仕へざりし者にて、それが又一面嫌疑を深めし原因とも見るべきであらう。
兎も角我邦の白磁創作が、韓人の手に依つてのみ試みられ中に、たとひ多くのヒントを得たりとするも、當時短時日にて製磁に成功せしは、如何に五郎七が稀世の名匠たりしかを證すべきである。なほ彼よりも早く、天神の森韓人が白磁に成功せしも、矢張李参平の技法を窺ひ識りし結果なる可く、それは有田編に於いて述ぶるであらう。
豫て五郎七の工作場へは、何たるも出入を厳禁せしが、出奔の際彼は工場の諸道具を、跡方もなく谷底へ打捨て去った。後にて喜左エ門は、善兵衛と二人にて拾ひ集め、様々研究せし結果、漸く青磁の釉法を会得したのである。之より喜左工門は十五石を給せられ、別に一吏員を其下に置くことゝ成り、善兵衛は職工監督役となった。
而して五郎七が、稀代の技術者として推賞さるべき手腕ありながら、猶其技法を秘せんが爲め、その用具を放棄して、之を紹晦せんせしが如きは、余りに器字の小量なるを難する者がある。蓋し當時秘傳秘法と稱するものゝ如きは、猥りに公開せざることが、共通せる社會的風潮であつた。
故に彼れ五郎七を責むるにあたり、先づ時代的精神を考慮して、相當割引すべきであらう。
有田御細工屋
此藩の御用燒製作所を御細工屋(有田にてはおじやーふやと訛り、大川内にてはおしやくやというてゐた)と稱せられた。そして御用窯火入の際には御祈禱があり、それは有田赤繪町の法元寺(日蓮宗)に命ぜられた。是より他の民窯も皆法元寺に依って、窯祈禱をする事となつた。斯くて初代の副田喜左工門(日清)は承應三年(1654年)十月五日此地岩谷川内に於て卒去したのである。
鍋島勝茂卒す
明暦三年(1657年)三月二十四日、初代宗藩主鍋島信濃守勝茂卒去した。行年七十八歳であつた。彼れ天資英邁勇武、又父に譲らず、再度の朝鮮役には、未だ年少なりしも切に乞うて初陣し、海陸共に勇名を馳せたのである。闘ヶ原の役には西軍に属せしも、島原切支丹の攻城には特に偉功を奏したのであつた。嘗て治國興業に留意すること深く、領内製陶の保護亦大いに努めたのである。
南川原へ藩窯移轉
副田喜左工門歿するや、二代喜左工門清貞(日我初菊吉稱す)嗣ぎ、爾来十余年を経て、寛文の初年(1661年)此處の御細工屋を、南川原に移すこと成った。蓋し有田の地は陶業の繁栄と共に、人家益多きを加へ、藩窯特技の秘密を保つに不便とせしもの如く、此際岩谷川内住民へ別離の餞として、此處の協同墓地の區域擴張を願はしめ、許可せられしいはれてゐる。
而して南川原の御細工屋敷は、其何地なりしか不明なるも、乏しき殘缺と、赤繪獨技の柿右工門窯の隣接より推考して、年木山なる上窯が、それならざりしやと察せらる。二代喜左工門は、寛文七年(1667年)九月二十七日此地に於いて卒し、三代藤次郎清長(日性改め藤次兵衛)其職を嗣いた。
大川内へ藩窯再轉
然るに此地も亦大村及平戸領に近く、殊に當時他國人の出入頻繁なりしを以て、十余年の後延寶三年(1675年)再び之を大川内山に移轉することゝ成つたのである。
蓋し大川内には、六本柳に優秀なる青磁釉の原料が産出することも、移轉の一因と見る可きであらう。三代藤次郎は、延寶六年(1678年)三月十一日大川内に於て卒し、初代日清の次男喜左工門政宣(日進)四代を嗣いで就職した。
報身寺へ祈禱所を命ず
而して藩窯火入の御祈禱所は、有田の法元寺が遠く隔りしを以て、大川内より程近き平尾の報身寺に命ぜらるゝこと成った。此所は黒髪山大智院第五世阿尊退隱後、建立の眞言宗である。
大川内山は、伊萬里より行程一里余、元松浦黨鶴田氏の傍系より出でし、河原左工門尉茂連の居城せし處にて、其後慶長頃までは、田雜大隅守長廣の男同五郎右工門廣次、其子久五郎廣方相傳の地行所なりしも、元和年間没祿後、御蔵入の地と成ったのである。
大川内の幽景
地勢街道を隔つること遠く、背面は玄武岩の奇峰巍峨として黒髪山に連なり、有田の白川谷を経て廣瀬の龍門に通じてゐる。西天を仰げば青螺山屹立し、屏風なす山顚より落下する瀑布は、岳神社の洞門に響きて夏猶寒き幽遂の地である。以て静かに考を練り、圖を案するに適處たるのみならず、藩窯技術の秘密を保つに甚だ恰好の桃源地であつた。
大川内御細工屋
此處の二本柳に、御細工屋を建設し、出入人の警戒を厳にすべく、山の入口大石といふ所に關門を設けて、之より内へは藩窯闘係者の外、猥りに通行を禁じられた。故に魚屋にても野菜賣にても、此大石關門まで持参して、用済みの上は門番役がひたと閉門したのである。
(道路改築の爲め今大石は取除けられしも猶其一小部が残されてある)
第二代の宗藩主は、勝茂の子肥前守忠直なるべきも、二十三才の時部屋住のまゝ卒去(叙位の如きは卒後に成りしもの如く、未亡人は舎弟甲斐守直澄に再嫁す)したのである。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
鍋島藩の御用焼物は、それまで南川原山の主要な窯に発注していたが、有田の副田喜左工門が優れた窯焼であると佐嘉に伝わり、寛永五年(1628年ごろ)初代藩主・信濃守勝茂は彼を御陶器方の主任に任じ、ここに初めて鍋島藩の「御道具山」(藩専用窯)が創設された。
その場所は有田山の岩谷川内、朝鮮人が開いた窯跡とされる高麗山(現・雪竹工場の上部)である。出土片から見て当時の製品はまだ洗練途上で、喜左衛門が最も苦心したのは青磁の製造だった。泉山石場の前にある英山の麓で青磁の原料を掘り試したが、製法には不慣れだった(この青磁原石は石場発見後にある韓人が見出したとも伝わる)。
あるとき喜左工門は善兵衛とともに養父郡・寒水(中原村)へ行き土焼を見学し、その折、当代随一の名手・髙原五郎七が藤津郡・内野山にいると聞く。手引きを得て内野山に訪ね、丁重に招聘を願うと、寛永七年(1630)五郎七は岩谷川内の藩窯に来り、ここで初めて完全な青磁が焼成された。喜左工門は御陶器方手伝として切米十石を与えられ、善兵衛は補助、五郎七は賓師として厚遇された。
以後、喜左工門は五郎七に学び精進したが、青磁釉の極意だけは固く秘され、伝えられなかった。折しも切支丹取締りが厳しく、五郎七に邪宗の嫌疑がかかり逮捕の風聞が立つ。彼は門人の平兵衛・左内、家来の茂吉を伴い、寛永十年(1633)一夜にして逐電。いったん四国の土佐に潜み、のち故郷の大阪に戻り、寛永十二年に高齢で没したという。
五郎七が本当に切支丹かは不明だが、大阪落城の残党として常に用心深く、出入口も潜りを避け大戸を選んだと伝わる。彼を韓人とする説もあるが、経歴と行動からは、公然と藩窯に仕えない世をはばかる浪士像が妥当で、それが嫌疑を深めた要因とも見られる。いずれにせよ、白磁創作が主に韓人の試みの中で進む時代に、短期間で磁器化に成功した事実は、五郎七が稀代の名匠であった証左である。天神の森の韓人が白磁に先行して成功したともいうが、李参平の技法を学び取った結果であろう(詳しくは有田編)。
五郎七の工場は出入り厳禁であったが、出奔の際に道具一切を谷に投棄した。後に喜左エ門と善兵衛が拾い集めて研究し、ついに青磁釉の法を会得。以後、喜左工門は十五石を給され配下に吏員が付き、善兵衛は職工監督となった。秘伝秘法を秘し道具を捨てて痕跡を断つのは「器が小さい」とも評されるが、当時は秘法の公開を慎む風潮が強く、時代精神を斟酌すべきである。
藩の御用焼工房は「御細工屋」(有田では「おじゃーふや」、大川内では「おしやくや」)と呼ばれ、火入れには祈祷が行われ、有田・赤絵町の法元寺(日蓮宗)が任じられた。他の民窯も法元寺で窯祈祷を行う慣行となる。初代・副田喜左工門(日清)は承応三年(1654)十月五日、岩谷川内で没。
明暦三年(1657)三月二十四日、初代宗藩主・鍋島信濃守勝茂が七十八歳で死去。英邁剛勇で、二度の朝鮮出兵では若年ながら出陣を願い出て武名を挙げ、関ヶ原(闘ヶ原)では西軍に属したが、島原の乱の攻城では功績が大きかった。治国興業に努め、製陶保護にも力を尽くした。
喜左工門の没後、二代・喜左工門清貞(日我・初菊吉)が継ぎ、十余年を経て寛文初年(1661)に御細工屋は南川原へ移転。陶業繁栄で人家が増え、藩窯の秘技保持が難しくなったためとされる。この際、岩谷川内の住民には離別の餞として共同墓地の拡張が許されたという。南川原の御細工屋敷の所在は不詳だが、わずかな残欠と、赤絵独技の柿右工門窯に隣接する関係から、年木山の「上窯」がそれではないかと推される。二代は寛文七年(1667)九月二十七日没、三代・藤次郎清長(日性改め藤次兵衛)が継職。
しかし南川原も大村・平戸領に近く、他国人の出入りが多かったため、十余年後の延宝三年(1675)に再び大川内山へ移転した。大川内の六本柳で優れた青磁釉原料が採れることも一因であろう。三代・藤次郎は延宝六年(1678)三月十一日に大川内で没し、初代日清の次男・喜左工門政宣(日進)が四代として就任。
以降、火入れの祈祷所は、有田の法元寺が遠いので、大川内に近い平尾の報身寺に命ぜられた。ここは黒髪山大智院第五世・阿尊の退隠後に建つ真言宗寺院である。大川内山は伊万里から一里余、松浦党鶴田氏の傍系・河原左工門尉茂連の居城跡で、のち慶長頃までは田雑大隅守長廣の子・五郎右工門廣次、さらにその子・久五郎廣方へと相伝の地行所であったが、元和年間の没禄後、御蔵入地となった。
大川内は街道から隔絶し、背後は玄武岩の奇峰が黒髪山へと連なる。白川谷から広瀬の龍門へ通じ、西に青螺山が屹立。屏風状の山頂から落ちる滝は岳神社の洞門に響き、夏なお冷える静寂の地で、技法研鑽と図案考案に適し、秘技保持にも格好の桃源郷であった。
二本柳に御細工屋を建て、入口の「大石」に関門を設けて出入りを厳格化。以内は藩窯関係者以外の通行を禁じ、魚屋や青物売りも大石まで持参し、用が済めば門番が即閉門した(道路改修で今は大石は除かれ、一部のみ残る)。第二代宗藩主は本来、勝茂の子・肥前守忠直であるべきだったが、二十三歳で部屋住のまま死去(叙位は没後、未亡人は弟・甲斐守直澄に再嫁)。
【英語訳】[English translation]
Nabeshima domain wares had long been commissioned from major kilns at Minamikawara. When news reached Saga that Soden Kizaemon of Arita was an exceptional kiln master, the first lord, Shinano-no-kami Katsushige, appointed him head of the domain’s pottery office around Kan’ei 5 (1628). Thus the domain-only “O-dōguzan” kiln was founded.
The site was Kōraisan in Iwayadani-gawachi on Aritayama, a former Korean kiln. Excavated sherds show the output was still immature; Kizaemon’s hardest challenge was celadon. He dug and tested celadon raw stone at the foot of Eiyama before the Izumiyama quarry, but he lacked know-how (some say a Korean found the celadon stone after the quarry’s discovery).
Kizaemon, with Zenbē, visited Kanmizu (Nakahara village) to see earthenware making and heard that the renowned master Takahara Goroshichi was at Uchino-yama in Fujitsu-gun. With an introduction he sought him out; in 1630 Goroshichi came to the domain kiln at Iwayadani-gawachi, and fully realized celadon was first fired there. Kizaemon received ten koku as an assistant-officer; Zenbē became assistant; Goroshichi was honored as a guest master.
Kizaemon studied under Goroshichi, yet the secret of celadon glaze was withheld. Amid harsh anti-Christian measures, suspicion fell on Goroshichi; in 1633 he fled overnight with disciples Hei-bei and Sanai and the retainer Mokichi. He hid in Tosa, then returned to Osaka and, it is said, died in 1635 at an advanced age.
Whether he was Christian is unknown. Viewed as a remnant of the Osaka fall, he stayed vigilant, even avoiding side doors. Some called him Korean, but his career and conduct fit a wary rōnin, which also deepened suspicion. Still, succeeding at porcelainization in a short span—when white porcelain attempts were largely by Koreans—proves Goroshichi’s rare mastery. Earlier “Tenjin-no-mori Koreans” reportedly achieved white porcelain too, likely by learning Ri Sampyeong’s methods (see the Arita chapter).
Access to his workshop had been strictly barred. On absconding he dumped all tools into a ravine. Later Kizaemon and Zenbē recovered and studied them, finally grasping celadon glazing. Kizaemon’s stipend rose to fifteen koku with a clerk under him; Zenbē became foreman. Though some censure Goroshichi for hiding methods and discarding tools, secrecy was a prevailing ethos; he should be judged in context.
The domain workshop was called O-saiku-ya (dialect: ojyāfuya in Arita, o-shakuya in Ōkawachi). Kiln firings were blessed by Hōgen-ji (Nichiren) in Arita Akamachi, and民 kilns followed suit. The first Soden Kizaemon (Nisshō) died on October 5, 1654, at Iwayadani-gawachi.
On March 24, 1657, the first clan lord, Nabeshima Katsushige, died at 78. Gifted and brave, he fought by special petition even as a youth in the Korean wars; though aligned with the West at Sekigahara, he distinguished himself in the Shimabara siege. He promoted governance and industry, and protected ceramics.
After Kizaemon’s death, the second Kizaemon, Kiyosada (Nichiga; first called Kikukichi), succeeded. Some ten years later, in early Kanbun (1661), the O-saiku-ya moved to Minamikawara. With Arita’s growth and crowding, keeping proprietary techniques secret had grown difficult. As a farewell favor, the residents of Iwayadani-gawachi were allowed to expand the communal cemetery. The exact site at Minamikawara is unknown; sparse sherds and proximity to the Kakiemon kiln suggest the upper “Uegama” on Toshigiyama. The second Kizaemon died there on September 27, 1667; the third, Tōjirō Kiyonaga (Nichishō → Tōjibē), succeeded.
Because Minamikawara was near Ōmura and Hirado and saw heavy outside traffic, the kiln was moved again after a decade: in 1675 to Ōkawachi-yama. Abundant celadon-glaze stone at Rokubon-yanagi likely factored in. The third lord Tōjirō died at Ōkawachi in 1678; the fourth was Kizaemon Masanobu (Nisshin), second son of the first Nisshō.
Since Hōgen-ji was distant, the firing prayers were assigned to Hōshin-ji at Hirao near Ōkawachi, a Shingon temple built after Abbot Ason’s retirement from Kurokami-san Daichi-in. Ōkawachi-yama lies a little over one ri from Imari; once the castle of Kawahara Saemon-no-jō Shigetsura (a Matsuura Tsuruta branch), later a fief held through Keichō by Tajiza Ōsumi-no-kami Nagahiro’s line, it became shogunal land after lost stipends in Genna.
Geographically secluded from highways, its rear is a chain of basalt crags linking to Mt. Kurokami; a path runs via Shirakawa Valley to Ryūmon at Hirose. To the west rises Ao’ra-san; a waterfall drops from screen-like ridges, sounding in the cave gate of Take Shrine—cool even in summer. It was ideal for quiet study and design, and a perfect “hidden vale” to guard secrets.
At Futaboyanagi the O-saiku-ya was built. A checkpoint stood at the mountain mouth “Ō-ishi”; only kiln personnel could pass within. Fishmongers and greengrocers delivered to the gate; once served, the guard shut it at once (the big stone is mostly gone after road works). The second clan lord should have been Katsushige’s son Hizen-no-kami Tadanao, but he died at 23 while still “at home” (rank posthumous; the widow remarried his brother Kai-no-kami Naozumi).
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
鍋島藩的官窑以往委托南川原山的主要窑烧制。因传来有田的副田喜左工门技艺超群,初代藩主信浓守胜茂于寛永五年(约1628)任其为御陶器方主任,自此创设藩专用的“御道具山”。
其址在有田山岩谷川内,系朝鲜人旧窑“高丽山”。出土片显示技艺尚在成熟中,喜左卫门最难的是青瓷。他在泉山石场前的英山麓采得青瓷石试用,但对制法不熟(亦传为石场发现后某韩人所识)。
后与善兵卫赴养父郡寒水观土烧,闻名匠高原五郎七在藤津郡内野山,遂延访。寛永七年(1630)五郎七来藩窑,首成完备青瓷。喜左工门得切米十石,善兵卫为补助,五郎七礼遇为宾师。其后五郎七仅秘不授青瓷釉要诀。寛永十年(1633)因切支丹取缔严、嫌疑起,他夜遁,潜居土佐,后归大阪,传于寛永十二年卒。
其是否切支丹未详;亦有韩人之说,然从行迹较像避世浪人。无论如何,在白瓷多由韩人试作的时代,短期内成功磁化,足证其为名匠。其工房向来禁入,出奔时弃器具于谷。喜左工门与善兵卫拾集研究,终得青瓷釉法;喜左工门增俸至十五石,善兵卫任监督。秘法不传在当时属普遍风气,应从时势衡量。
官作所称“御细工屋”(有田音为“おじゃーふや”,大川内为“おしやくや”)。火入必祈祷,由有田赤绘町法元寺主之;民窑亦随行。初代副田喜左工门(日清)承应三年(1654)卒于岩谷川内。
明历三年(1657)初代宗藩主鍋島胜茂卒,享七十八。少时即请战立名,关原属西军,岛原之乱攻城尤著功,且重视陶业保护。
其后二代喜左工门清贞继之,寛文初年(1661)以秘技难守,将御细工屋迁南川原,并准岩谷川内居民扩张共同墓地。南川原官作所确址未详,依据残片与邻接柿右工门窑,推为年木山“上窑”。二代于寛文七年(1667)卒,三代藤次郎清长继。
然南川原近大村、平户,外人出入繁,延宝三年(1675)再迁大川内山。六本柳出产优良青瓷釉石亦为因。三代藤次郎延宝六年(1678)卒,大川内由四代喜左工门政宣(日进)承职。
祈祷所因法元寺遥远,改命近大川内之平尾报身寺(真言宗)。大川内山距伊万里一里余,旧为河原左工门尉茂连居城,后经田杂家相传,元和年失禄入于御藏。
地势僻静,背倚黑髪山玄武岩奇峰,经白川谷通广濑龙门;西有青螺山与飞瀑,夏亦清寒。既宜潜心构想,亦利秘技保全。
二本柳建御细工屋,于山口“大石”设关门,非藩窑人等不得入。鱼贩菜贩仅可至关门,了事即闭(今道路改修仅留小段)。第二代宗藩主本应为胜茂子肥前守忠直,然二十三岁未出仕而卒(叙位似在身后,遗孀再嫁甲斐守直澄)。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
鍋島藩之御用陶原委託南川原山諸窯。因聞有田副田喜左工門技藝精良,初代藩主信濃守勝茂於寬永五年(約1628)任其為御陶器方主任,創設藩專用之「御道具山」。
其址在有田山岩谷川內,為朝鮮舊窯「高麗山」。出土片示技尚未極,喜左衛門所難者青瓷。於泉山石場前英山麓試採青瓷石,然製法未熟(亦傳為石場既發現後有韓人所識)。
後與善兵衛至養父郡寒水觀土燒,聞名匠高原五郎七在藤津郡內野山,遂延聘。寬永七年(1630)五郎七至藩窯,始成完備青瓷。喜左工門給切米十石,善兵衛為補助,五郎七為賓師。其僅秘不授青瓷釉法。寬永十年(1633)以切支丹取締嚴、嫌疑起,夜奔,潛居土佐,後歸大阪,傳寬永十二年卒。
其是否切支丹未詳;亦有韓人之說,然觀其行跡更似避世浪人。然短期內磁化成功,足證名匠之實。工房嚴禁出入,出奔時棄器具於谷。喜左工門與善兵衛拾集研求,終得青瓷釉法;喜左工門增至十五石,善兵衛任監督。秘法不傳係時風,宜斟酌而論。
官作所稱「御細工屋」(有田音「おじゃーふや」,大川內「おしやくや」)。火入必祈禱,由有田赤繪町法元寺主之;民窯亦循。初代副田喜左工門(日清)承應三年(1654)卒於岩谷川內。
明曆三年(1657)初代宗藩主鍋島勝茂卒,享七十八。少歲請戰立名,關原屬西軍,島原亂攻城尤著績,且重視保護陶業。
其後二代喜左工門清貞繼之,寬文初年(1661)以秘技難守,遷御細工屋於南川原,並許岩谷川內居民擴充共同墓地。南川原官作所址未詳,據殘片與鄰柿右工門窯,推為年木山「上窯」。二代寬文七年(1667)卒,三代藤次郎清長嗣。
然南川原近大村、平戶,外人往來繁,延寶三年(1675)再遷大川內山。六本柳出產優良青瓷釉石亦為因。三代藤次郎延寶六年(1678)卒,四代由喜左工門政宣(日進)襲職。
祈禱所因法元寺遙遠,改命近大川內之平尾報身寺(真言宗)。大川內山距伊萬里一里餘,舊為河原左工門尉茂連居城,後經田雜家相傳,元和失祿入於御藏。
其地僻遠,背接黑髮山玄武岩奇峰,由白川谷通廣瀨龍門;西望青螺山與飛瀑,夏亦清寒。既宜潛心構圖,亦利秘技保全。
二本柳建御細工屋,於山口「大石」設關門,非藩窯人等不得入。魚販菜販止於關門,事畢即閉(今因道路改建僅存小段)。第二代宗藩主原應為勝茂子肥前守忠直,然二十三歲未出仕而卒(叙位似在身後,遺孀再嫁甲斐守直澄)。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
鍋島藩长期向南川原窑订制。约在1628年,因闻有田的副田喜左工门技艺超群,藩主鍋島勝茂任其为御陶器方主任,建立专供藩府的“御道具山”。
其址在有田岩谷川内的“高丽山”旧窑。出土碎片示工艺尚未成熟;最大难题是青瓷。虽在英山麓试采青瓷石,但缺乏配方(亦传由韩人发现石料)。
喜左工门与善兵卫延揽名匠高原五郎七(1630年入窑),首次成功烧成完备青瓷。喜左工门受十石禄,善兵卫为助理,五郎七为宾师。后因反基督教取缔与嫌疑,五郎七于1633年夜遁,潜居土佐,复归大阪并于1635年前后卒。
其是否基督徒未明,也被视作“落城余党”。有人称其为韩人,然其行迹更似谨慎的浪人。然其在短期内实现磁化,证明其作为名匠的实力。其工坊原严禁旁人入内;出奔时弃器具于谷。两人拾回研究,终悟青瓷釉法;喜左工门增禄至十五石,善兵卫任督工。就当时风气而言,秘而不宣并不罕见。
官作所称“O-saiku-ya”,火入祈祷由有田的法元寺主持,民窑亦效之。第一代副田喜左工门1654年卒。
1657年鍋島勝茂卒,享78,少岁从军立名,关原属西军,岛原之乱建功,并扶持陶业。
其后第二代喜左工门清贞继任,1661年前后迁官作所至南川原,以利守秘,并准扩建共同墓地。其址或在年木山“上窑”。1667年其卒,第三代藤次郎清长继位。
南川原近大村、平户,外来频仍,1675年再迁大川内。六本柳优质青瓷釉石亦为动因。1678年第三代卒,第四代由喜左工门政宣继任。
因法元寺遥远,改由近在平尾的报身寺祈祷。大川内山距伊万里一里余,旧为河原氏城地,后入御藏。其地僻静、峡谷瀑声,宜研技护秘。二本柳建官作所,山口“大石”设关,非窑员不得入(今仅存残段)。第二代宗藩主本应为忠直,然23岁卒(身后叙位;寡妇改嫁直澄)。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
鍋島藩長年向南川原窯採辦。約1628年因聞有田副田喜左工門技藝出眾,藩主鍋島勝茂任其為御陶器方主任,創設專供藩府之「御道具山」。
其址在有田岩谷川內「高麗山」舊窯。出土片示工藝未臻,最大難題為青瓷。雖於英山麓試採青瓷石,然缺配方(亦傳由韓人所識)。
喜左工門與善兵衛延攬名匠高原五郎七(1630年入窯),首成完備青瓷。喜左工門受十石,善兵衛為助,五郎七為賓師。1633年因反基督教取締與嫌疑,五郎七夜奔,潛居土佐,復歸大阪,約1635年卒。
其是否基督徒未明,亦被視作「落城餘黨」。亦有稱其韓人者,然行跡更似謹慎浪人。然其短期達成磁化,足證名匠之能。工坊原嚴禁外人;出奔時棄器具於谷。二人拾回研析,終悟青瓷釉法;喜左工門增祿十五石,善兵衛任督工。以當時風氣,秘而不宣並不罕見。
官作所稱「O-saiku-ya」,火入祈禱由有田法元寺主之,民窯亦循。第一代副田喜左工門1654年卒。
1657年鍋島勝茂卒,享78;少歲從軍立名,關原屬西軍,島原之亂建功,且護持陶業。
其後第二代喜左工門清貞繼任,1661年前後遷官作所至南川原以便守秘,並許擴建共同墓地。其址或在年木山「上窯」。1667年卒,第三代藤次郎清長承襲。
惟南川原近大村、平戶,外來頻仍,1675年再遷大川內。六本柳優質青瓷釉石亦為因。1678年第三代卒,第四代由喜左工門政宣繼任。
因法元寺遙遠,改命平尾報身寺祈禱。大川內山距伊萬里一里餘,舊為河原氏城地,後入御藏。其地僻冷、瀑聲回響,適於研技護秘。二本柳建官作所,山口「大石」設關,非窯員不得入(今僅存殘段)。第二代宗藩主本應忠直,然二十三歲卒(身後叙位;寡婦改嫁直澄)。

