清元さん~副田喜左衛門

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【原文】[Original text]

清元さん
 此隣に祀られてある清元さんとは、元来如何なる者なるか詳ならねど、(李參平のに東の原清元内云々がある)清元、又清玩或は單に玩の一字を銘せし立派な染附磁器が、南川原を始め、外尾や黒牟田方面に見ることが少なくない。もしや此ぐわんがげんに訛り、或は後世書變はりしにあらざるか。而して此清元は、南川原の住者にて、延寶三年(1675年)鍋島藩窯が南川原より此地に移轉せる頃に、或は來住せし者かも知れぬ。果して然らば磁器は清元の開窯であり、陶器は其以前韓人の開窯せしものであらう。
 而して此清元は、深く日蓮を信仰せしものゝ如く、此處の巖壁の自我經は、彼の手に依つて彫鐫されしさいはれてゐる。後年まで此前面に六畳敷程の御堂が建てありしも、今は既に廢滅に歸してゐる。

権現谷の韓人墓
 又前記の権現谷には韓人墓と稱するものが一基あり、それは屋根冠りの五尺許りなる平面碑にて、慈父道秋靈位寛文九年九月十九日(1669年)慈母妙住尼萬治三年八月十五日(1660年)させし夫婦墓にて、其子なる者が建立しものであらう。

二本柳の古窯
 擅殿の下なる二本柳の古窯が、大川内陶史の中心をなす、藩用三十三間の登趾である、此處の物原に、堆を成す磁器の殘缺には、民窯の破片ながら、流石に優秀なものが少なくない。

二本柳の新窯
 此處を少しく離れて、二本柳の新窯なる七、八間の壁跡がある。之は今より七十年前築窯せしといはれ、染附の下手物を焼いてゐる。殘缺には着け葉菊畫のゆり形の小皿や、リンボウ線描着け葉牡丹の突立の丼などあるが、多くコバルトが混用されて、前の古窯に見る吳洲染附や、砧及天龍寺青磁などの優技は見ることを得ぬ。斯くて此新窯は、其後二十年許りにて廢窯されしいはれてゐる。
 最初大川内に来りし韓人は、此處の六本柳に於て質堅き茶褐色の斑点ある青磁の釉石を發見し之を探つて青瓷及氷裂焼等を製作しつゝあつた。蓋し此時代の青瓷と稱するは、勿論脆弱なる陶質に應用せしことは申すまでもない。後代に於いて始めて有田泉山の原石を素地として應用され、そして彼の名品鍋島青磁が製作されたものである。

六本柳の青磁料分析表
大川内青磁分析表
珪酸 72.35
礬土 16.34
酸化鐵 1.24
石灰 1.60
苦土 0.36
加里 3.58
曹達 3.25
灼熱減量 1.21
計 99.93
 北地に於けるアイヌ
 斯くて後代に及び、此大川内及び一の瀬の韓人系が、何れの方面に移轉せしか詳ならざるも、恰も彼の北地に於けるアイヌ種族の如く、本土人に壓せられて、湮滅せる觀がある。想ふに有田磁器の創製後は、筒江や板野川内方面に移りたらんも、後には又有田皿山へ轉住せし者多かりしと見るべきであらう。而して大川内に於いては、其後藩窯の盛時となりて、韓人の末葉などは、全く茲に忘却されしものらしく、兎も角大川内窯の沿革は、鍋島藩窯の歴史であり、そして其美術史である。此關係深き鍋島氏の本系圖左の如くにて、秀郷系なる太宰小貳の一族である。太宰の小貳とは、筑前、肥前、豊前、壹岐、對馬の守護職である。(鍋島本系圖参照)

藩祖直茂卒す
 元和四年(1618年)六月三日、佐賀藩鍋島加賀守直茂卒去した、行年八十一才であつた。彼は天文七年(1538年)十月二十日佐嘉郡本莊村なる、孫四郎清房の次男に生れし、智勇兼備の名將にて、龍造寺隆信は従兄弟同士であり、又義兄弟であつた。天文二十二年(1553年)十月十六才にして、小田政光の蓮池城に初陣せし以来、元亀元年(1570年)八月大友宗麟(義鎮)の軍を今山に奇襲し、八郎親秀を討取つて勇名を轟かし。晩年兩度の朝鮮役に至るまで、戰陣に臨むことに五十余回であつた。
 隆信卒去後政家は、肥前本領の内、佐嘉、小城、三根、神埼、杵島、藤津、松浦の七郡を領し、直茂は僅に養父(一萬六百石四斗七升)基肄(九千百二十二石一斗六升)の二郡を分領せしのみであつた。而して全領地を支配するに至りしは、其子勝茂よりにて、故に勝茂を初代と稀し、直茂を藩祖と稱する所以である。
 斯くの如く彼が多くの生涯は、隆信が九州征服の偉業に奉公せるの感があり、後年龍造寺の跡を継承せしも、治國の政務多端にして、城内へ御庭焼など試みる暇なかりしか、或は又陶器の製作には趣味あらざりしが如く、彼の李参平が始めて白磁を焼出せしに及んで、藩老多久氏をして保護獎脚をなさしめたのである。明治三十五年彼は特旨を以て従三位を贈られたのである。

平吉茂慶
 爰に直茂の朝鮮役に從ひ、慶尚道の敵軍と戦ふこと二ヶ年に及びし平吉刑部丞茂慶は其際炮創を蒙りし爲め、内地へ後送さるゝの止むを得なかつた。此時同伴せし韓人八名を、佐嘉郡の嘉瀬村に住居せしめ、各種の兵器及軍需品の調達と、之が輸送に努めしめたのである。

嘉瀬の製陶
 後年に及び彼は嘉瀬に於いて、川上大願寺の坏土を探り寄せ、前記の韓人をして、壺や徳利を焼かしめたのである。之が藩窯らしきものゝ始なるも、蓋し小規模のものなりしに相違ない。而して茂慶は七ヶ津の代官を勤め、又嘉瀬町三ヶ所の屋敷を領有した。斯くて慶長十年(16056年)五月三日卒去したのである。

川原小路
 朝鮮役の際、佐嘉城下に來任せし韓人中陶工ありて此處の川原小路に於いて製陶せし由傳へらるゝも、今其窯趾は奇麗に取拂はれて現在の招魂社と成つてゐる。其際取棄られし殘缺や、窯具類の棄場に就いては、今なほ疑問として残されてゐる。

西堀端の出土品
 今より二十四五年前に、市内西堀端の中央なる、舟木右馬之助宅の庭内にて、小藪の中に薯蕷蔓を見つけしかば、之を採る可く掘り始めしところ、土中より續々として、焼損じの陶器が出現した。中には頗る雅趣ある作品ありて、或者の如きは百個許りを所望して、之を千余圓に轉賣せしことがあり、當時は吾も吾もと求め合ひ、途には一個拾圓乃至拾五圓にて購はれたのである。
 それが勿論焼損じ物のみにて、そして同じ作品とては滅多にない。釉種は飴釉、栗釉、栗茶釉、青栗釉、薄灰色釉等であり、中には赤茶釉に海鼠を顯はせし窯變物がある。品種は概して七八寸より、三四寸位の徳利や花立が多く、何れも涙痕掛の施釉にて、下部は胎土を見せ、そして悉く糸切底に成つてゐるが稀には灰色釉にて、高台附の茶碗もある。又徳利の裏には十とか三とかの浮出銘あるのも少なくない。
 猶此處より四十個の煉瓦が掘出されしも、それは全然築窯の材料でなく、只殘缺のみが千個許り出土せしのみにて、別に一個の窯具さへ現出せざるは、此處が元來窯趾でなく、何れよりか運び棄てられ見る外ない。故に若しや前記の川原小路窯の殘缺が、當時此邊より、堀などに打られしにあらざるかを思はしむるも、之を證すべき何等の文献がない。
 是が俗に云ふ珍の山焼と稱するものである。而して此珍の山焼は、今より四百年前、佐賀城下龍泰寺の傍に於て、韓人來つて開窯せしものといふ者があり。又唐津の中里家舊代の陶工來って製作せし、鬼子嶽系など種々の説あるも、何れも詳でない。(珍の山とは西堀端を少し下りし地名)

副田喜左衛門
 其後京都の者にて、副田喜左工門といへる器用勝れし陶工があり、元和の末年有田に来り、此地の製磁法を習得して、頗る上達せる窯焼と成った。其頃又同じ京都の浪人にて、善兵衛と稱する者亦有田に在りしが、互に親交の末二人は義兄弟の盟を結びしといはれてゐる。蓋し一面同郷の好みであらう。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

隣に祀られる「清元さん」が何者かは定かでないが(李参平の記録に「東の原清元内」とある)、銘に「清元」「清玩」あるいは「玩」一字を刻んだ見事な染付磁器が、南川原・外尾・黒牟田などで少なからず見つかる。おそらく「玩(ぐわん)」が「げん」に訛ったか、後世に書き換えられたのであろう。清元は南川原の住人で、延宝三年(1675)に鍋島藩窯が南川原から当地へ移ったころに移住してきた可能性がある。そうであれば、磁器は清元の開窯、陶器はそれ以前に韓人が開いた窯ということになる。

清元は日蓮信仰が篤く、ここの岩壁に刻まれた「自我偈」は彼の手によるという。以前は前面に六畳ほどの堂が建っていたが、いまは廃れて跡をとどめない。

権現谷には「韓人墓」と呼ばれる一基があり、屋根形をいただく五尺ほどの平面碑で、「慈父 道秋霊位 寛文九年九月十九日(1669)」「慈母 妙住尼 万治三年八月十五日(1660)」とある夫婦墓を、子が建立したものらしい。

殿下の下手(しもて)に当たる二本柳の古窯は、大川内陶史の中心、藩用の三十三間の登り窯である。物原に山と積もる磁器破片は民窯の残欠ながら、優れたものが多い。

少し離れた二本柳の新窯には七、八間の壁跡がある。今から七十年前に築かれ、染付の下手物を焼いた。残欠には付け葉菊文の百合形小皿、輪郭線で描いた付け葉牡丹の高台丼などが見えるが、コバルトを多用し、古窯に見られる呉洲染付や砧青磁・天龍寺青磁の妙味は乏しい。およそ二十年で廃窯になったという。

最初に大川内へ来た韓人は、六本柳で堅質・茶褐色斑のある青磁の釉石を見つけ、これを採って青磁や氷裂手を作った。当時の「青磁」は当然ながら脆い陶質に施したもので、のちに有田・泉山の原石を素地に用いるようになって、名品・鍋島青磁が生まれた。

(六本柳産青磁原料の分析)
SiO₂ 72.35/Al₂O₃ 16.34/Fe₂O₃ 1.24/CaO 1.60/MgO 0.36/K₂O 3.58/Na₂O 3.25/強熱減量 1.21(計99.93)

後世になると、大川内・一の瀬の韓人系がどこへ移ったか詳らかでないが、北地のアイヌのように本土人に圧され、痕跡が薄れた観がある。有田磁器の創製後は筒江や板野川内に移り、のちには有田皿山へ転住した者も多かったのだろう。やがて大川内では藩窯が隆盛となり、韓人の後裔は忘れられ、大川内窯の沿革は鍋島藩窯の歴史、ひいては美術史となった。鍋島氏は秀郷流の太宰少弐の一族で、少弐は筑前・肥前・豊前・壱岐・対馬の守護職である。

藩祖・鍋島直茂は元和四年(1618)六月三日、八十一歳で没。天文七年(1538)佐嘉郡本荘村に生まれ、龍造寺隆信とは従兄かつ義兄。十六歳で初陣、今山の戦いで勇名を轟かし、晩年の二度の朝鮮出兵まで五十余度の合戦に臨んだ。隆信没後、政家は本領七郡を領し、直茂は養父・基肄の二郡を分領にとどまったが、全領掌握は子の勝茂からで、ゆえに勝茂を初代、直茂を藩祖とする。直茂は政務多端で御庭焼を嗜む暇もなく、陶器への関心も薄かったらしいが、李参平が白磁を焼き出すや、家老・多久氏に保護を命じた。明治三十五年、従三位を追贈。

平吉刑部丞茂慶は直茂に従い慶尚道で二年戦い負傷、内地送還となる。同行の韓人八名を嘉瀬村に住まわせ、兵器や軍需品の調達・輸送にあたらせた。のち嘉瀬で川上・大願寺の土を取り寄せ、彼らに壺や徳利を焼かせた。藩窯の端緒ではあるが小規模で、茂慶は七ヶ津代官を務め、嘉瀬町に三宅を領し、慶長十年五月三日に没。

朝鮮役の際、城下の川原小路で韓人陶工が焼いたというが、窯跡は整地され今の招魂社になっている。破片や窯道具の投棄場所はなお不明である。

二十四五年前、西堀端の舟木右馬之助邸庭で山芋蔓を掘ると、次々に窯損の陶器が出た。雅趣ある作も多く、百個まとめ買いして千円余で転売した者もいた。当時は争って求め、一個十~十五円で売れたという。釉は飴・栗・栗茶・青栗・薄灰など、赤茶釉に海鼠の出た窯変もある。主に七八寸~三四寸の徳利や花立で、涙垂れの施釉、下部は無釉の糸切り底。灰釉の高台茶碗も稀にある。徳利裏に「十」「三」などの陽刻も多い。

煉瓦四十個も出たが築窯材ではなく、破片千個ほどのみで窯具は皆無。ここは窯跡ではなく、どこかから運び捨てられたらしい。川原小路窯の残欠が当時このあたりの堀へ投棄されたのではないかと思わせるが、裏付け史料はない。これが俗にいう「珍の山焼」。四百年前、佐賀城下・龍泰寺のそばで韓人が開いたという説、中里家の古陶工が作った鬼子嶽系という説など諸説あるが、いずれも確証を欠く(珍の山は西堀端を少し下った地名)。

その後、京都出身で手先の器用な陶工・副田喜左衛門が元和末に有田へ来て製磁法を学び、腕を上げた。同じ頃、京都の浪人・善兵衛も有田にいて、親交を重ね義兄弟の契りを結んだという。同郷の縁によるものであろう。


【英語訳】[English translation]

The “Kiyomoto-san” enshrined nearby is of uncertain identity (Lee Sampyeong’s notes mention “Higashinohara Kiyomoto-uchi”), yet fine blue-and-white porcelains bearing the marks “Kiyomoto,” “Seigan,” or simply “Gan” are often found in Minamikawara, Sotoo, and Kuromuta. The character 玩 (gan) may have shifted phonetically to “gen,” or later copyists altered it. Kiyomoto likely lived in Minamikawara and may have moved here when the Nabeshima domain kiln relocated from Minamikawara around Enpō 3 (1675). If so, porcelain would trace back to Kiyomoto’s kiln, while earlier earthenwares stemmed from Korean potters.

Kiyomoto appears to have been a devout Nichiren follower; the “Jiga-ge” carved into the cliff face is said to be his work. A six-tatami worship hall once stood before it but has long since vanished.

In Gongen Valley stands what is called a Korean grave: a roofed, flat stone about five shaku long inscribed for “Compassionate Father Dōshū” (Kambun 9, 1669) and “Compassionate Mother Myōjū-ni” (Manji 3, 1660), seemingly a couple’s tomb erected by their child.

Beneath the lord’s residence lies the old Futaboyanagi kiln, the core of Ōkawachi’s history—a 33-ken climbing kiln for domain use. Heaps of porcelain sherds at the dump include many civilian-ware fragments, yet of notable quality.

A little off stands the “new Futaboyanagi” remains—wall lines of a 7–8-ken kiln said to have been built about seventy years ago, firing lower-grade sometsuke. Sherds include lily-shaped small plates with applied-leaf chrysanthemum and upright bowls with outlined peony, but cobalt was overused and the refined “Gozhu” sometsuke and “Kine”/Tenryū-ji celadon aesthetics of the old kiln are absent. The kiln was reportedly abandoned after some twenty years.

The first Koreans in Ōkawachi found, at Rokubon-yanagi, a hard, brown-speckled celadon glaze-stone and produced celadons and crackle wares. These “celadons” were, of course, applied to fragile earthen bodies. Only later, when Arita’s Izumiyama stone became the body material, was the celebrated Nabeshima celadon achieved.

(Analysis of Rokubon-yanagi celadon raw material)
SiO₂ 72.35 / Al₂O₃ 16.34 / Fe₂O₃ 1.24 / CaO 1.60 / MgO 0.36 / K₂O 3.58 / Na₂O 3.25 / LOI 1.21 (total 99.93).

In later times the Korean lines at Ōkawachi and Ichinose fade from view, seemingly pressured into oblivion like the Ainu in the north. After Arita porcelain arose, many likely moved to Tsutsue or Itanogawachi, and later to Arita’s Sarayama. As the domain kiln flourished, Korean descendants were forgotten; the history of Ōkawachi became the history—and art history—of the Nabeshima kiln. The Nabeshima were of the Hidesato/Daizyō Shōni line, the Shōni serving as guardians of Chikuzen, Hizen, Buzen, Iki, and Tsushima.

Domain founder Nabeshima Naoshige died June 3, 1618 (Genna 4), age 81. Born October 20, 1538, he was both cousin and sworn brother to Ryūzōji Takanobu; from his first campaign at sixteen to the two Korean wars in his later years, he fought in over fifty engagements. After Takanobu’s death, the Ryūzōji house held seven districts; Naoshige shared only two (Yabu and Kii) as portions, while full control from Katsushige onward makes Katsushige the “first lord” and Naoshige the “founder.” Preoccupied with governance, Naoshige showed little taste for courtly kiln projects, but when Ri Sampyeong first fired white porcelain he ordered the elder Taku family to protect and promote it. In 1902 he was posthumously awarded Junior Third Rank.

Hirakichi Gyōbu-no-jō Shigeyoshi fought two years in Gyeongsang under Naoshige, was wounded by gunfire, and sent home. He settled eight accompanying Koreans in Kase village to procure and transport arms and supplies. Later at Kase he obtained clay from Kawakami Dainen-ji and had them fire jars and flasks—perhaps the small-scale beginnings of a “domain kiln.” He served as magistrate of Nanatsu, held three residences in Kase, and died on May 3, 1605 (Keichō 10).

Korean potters are said to have worked at Kawara-kōji in Saga during the wars, but the kiln site has been cleared and is now the Shōkonsha. The dump sites for discarded sherds and tools remain uncertain.

Some 24–25 years ago, while digging yam vines in the garden of Funaki Umanosuke at Nishi-Horibata, a trove of kiln-failed wares emerged. Many were elegant; one person bought about a hundred and resold them for over 1,000 yen; pieces fetched 10–15 yen each on the street. Glazes include ame, chestnut, chestnut-brown, blue-chestnut, and pale gray; there were kiln-changed red-brown with “sea-cucumber” mottling. Mostly 7–8 to 3–4 sun flasks and vases, with teardrop runs, exposed lower body, and string-cut bases; rarely, gray-glazed bowls with footrings. Some flasks bear raised numerals like “10” or “3.”

About forty bricks were also unearthed, but not kiln bricks; with a thousand sherds and no kiln furniture, the spot is not a kiln site but a dump. It may be debris from the Kawara-kōji kiln thrown into a moat, yet no documents confirm it. This is the so-called “Chin-no-yama ware.” Some say Koreans opened a kiln by Ryūtai-ji four centuries ago; others link it to the Nakazato line from Karatsu or the Onishidake lineage—none proven. (“Chin-no-yama” is a local toponym just downstream of Nishi-Horibata.)

Later, a deft Kyoto potter, Soden Kizaemon, came to Arita at the end of Genna, mastered porcelain-making, and became an accomplished kiln man. A Kyoto rōnin named Zenbē was also in Arita; the two grew close and swore brotherhood—likely also out of hometown affinity.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

邻处所祀之“清元”其人不详(李参平记有“东之原清元内”),然署“清元”“清玩”或“玩”字款的精良染付瓷,在南川原、外尾、黑牟田屡见。多半是“玩(がん)”音变为“げん”,或后人改写。清元大概原住南川原,延宝三年(1675)藩窑自南川原迁此时或随之而来。如此则磁器出自清元之窑,陶器则更早由朝鲜人所开之窑。

清元笃信日莲,据称岩壁上所刻“自我偈”为其手笔;昔日前方有六叠见方的小堂,今已废绝。

权现谷有一座所谓“韩人墓”,为覆屋形平碑,约五尺,铭“慈父道秋灵位(1669)”“慈母妙住尼(1660)”,应为子所立之合葬碑。

殿下下手的二本柳古窑,是大川内陶史核心,为藩用三十三间之登窑。物原堆积的瓷片虽多民窑残件,却不乏精品。

稍离处有“二本柳新窑”之墙迹,长七八间,据传七十年前建,烧下手染付。残片有付叶菊纹百合形小皿、勾线付叶牡丹高足丼,但多用钴料,已不见旧窑所具的吴洲染付、砧青瓷、天龙寺青瓷之妙。约二十年即废。

初来大川内之韩人,于六本柳发现坚质、带褐斑之青瓷釉石,采以制青瓷与冰裂手。其时“青瓷”施于脆弱陶坯;后世改用有田泉山原石为胎,遂出名品“锅岛青瓷”。

(六本柳青瓷原料分析)SiO₂ 72.35/Al₂O₃ 16.34/Fe₂O₃ 1.24/CaO 1.60/MgO 0.36/K₂O 3.58/Na₂O 3.25/灼减 1.21(合计99.93)。

其后,大川内与一之濑之韩人系去向不详,颇似北地阿伊努为本土人所压而湮没。推想在有田磁器创制后,或徙筒江、板野川内,后又转居有田皿山。大川内藩窑兴盛后,韩人后裔渐被遗忘,大川内窑的沿革遂成为锅岛藩窑之史、亦为其美术史。锅岛氏为秀郷流太宰少贰一族,少贰为筑前、肥前、丰前、壹岐、对马之守护。

藩祖锅岛直茂元和四年(1618)六月三日卒,享年八十一。天文七年生,龙造寺隆信为从兄兼义兄;自十六岁初阵至两度朝鲜役,出阵五十余。隆信卒后,政家领七郡,直茂仅分得两郡;自子胜茂始总领,故称胜茂为初代、直茂为藩祖。直茂政务繁,多未及好“御庭烧”,然及李参平首烧白磁,即命家老多久氏加以保护。明治三十五年追赠从三位。

平吉刑部丞茂庆随直茂在庆尚道作战二年,被炮伤后送内地。令随行韩人八名居嘉瀬,专司兵器军需采办与运输。后在嘉瀬取川上大愿寺之土,令其烧制壶与德利,乃藩窑之端绪,规模甚小。茂庆历任七ヶ津代官,领嘉瀬町三宅,庆长十年五月三日卒。

朝鲜役时,城下川原小路有韩人工窑之传,但窑址已整地为招魂社;破片与窑具弃置处仍未详。

二十四五年前,西堀端舟木右马之助宅园中掘芋蔓,连出烧损陶器。雅趣颇多,有人一口气收百件转售千余圆,当时一件值十至十五圆。釉有飴、栗、栗茶、青栗、淡灰,亦有赤茶釉“海鼠”窑变。多为七八寸至三四寸德利与花插,泪痕流釉,下部露胎,悉为线切底,偶见灰釉高台茶碗;德利底常见阳文“十”“三”。

亦出砖四十,但非窑材;仅出残片千余、无一窑具,显非窑址而是弃置地。或为川原小路窑残片当时倾入堀中,然无文献证。俗称“珍之山烧”。其起源或为四百年前韩人在龙泰寺旁开窑,或系唐津中里家旧工、鬼子岳系等,俱无定论(“珍之山”为西堀端下方地名)。

其后,京都陶工副田喜左卫门于元和末入有田学制磁法,技进益精;同乡浪人善兵卫亦在有田,二人交好结义,当以同乡之缘。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

鄰處所祀之「清元」其人未詳(李參平記有「東之原清元內」),然署「清元」「清玩」或「玩」字款之精良染付瓷,在南川原、外尾、黑牟田屢見。多半為「玩(がん)」音變為「げん」,或後人改寫。清元似本住南川原,延寶三年(1675)藩窯自南川原遷此時或隨之而來。如此則磁器出自清元之窯,陶器則較早由韓人所開之窯。

清元篤信日蓮,岩壁「自我偈」相傳為其所刻;昔日前方有六疊小堂,今已廢絕。

權現谷有「韓人墓」一座,覆屋形平碑約五尺,銘「慈父道秋靈位(1669)」「慈母妙住尼(1660)」;疑為子所立之合葬碑。

殿下下手之二本柳古窯,為大川內陶史核心,藩用三十三間登窯。物原瓷片雖多民窯殘件,仍多佳作。

少離處有「二本柳新窯」牆跡七八間,傳為七十年前所築,燒下手染付。殘片有付葉菊文百合形小皿、勾線付葉牡丹高足丼,然多用鈷料,已無舊窯之吳洲染付、砧青瓷、天龍寺青瓷之風。約二十年即廢。

初至大川內之韓人於六本柳得堅質褐斑之青瓷釉石,以成青瓷與冰裂手。其時「青瓷」施於脆陶胎;後改用有田泉山石為胎,遂出名品「鍋島青瓷」。

(六本柳青瓷原料分析)SiO₂ 72.35/Al₂O₃ 16.34/Fe₂O₃ 1.24/CaO 1.60/MgO 0.36/K₂O 3.58/Na₂O 3.25/灼減 1.21(計99.93)。

後世大川內與一之瀨韓人系去向不明,類北地阿伊努為本土人所壓而湮沒。有田磁器創製後,或徙筒江、板野川內,繼而轉居有田皿山。藩窯興盛,韓人之裔漸被遺忘;大川內窯沿革遂為鍋島藩窯之史,亦其美術史。鍋島氏為秀鄉流太宰少貳一族,少貳統攝筑前、肥前、豐前、壹岐、對馬。

藩祖鍋島直茂元和四年(1618)六月三日卒,享年八十一。天文七年生,與龍造寺隆信為從兄兼義兄;自十六歲初陣至兩度朝鮮役,出陣五十餘。隆信卒後政家領七郡,直茂僅分得二郡;自子勝茂始總領,故稱勝茂為初代、直茂為藩祖。直茂政務繁劇少暇嗜「御庭燒」,然及李參平首燒白磁,即令家老多久氏保護。明治三十五年追贈從三位。

平吉刑部丞茂慶隨直茂於慶尚道作戰二年,中炮傷送回,令隨行韓人八名居嘉瀨,辦理兵器軍需採辦與輸送。後於嘉瀨取川上大願寺之土,令其燒壺與德利,為藩窯之端緒,規模甚小。茂慶歷任七ヶ津代官,領嘉瀨町三宅,慶長十年五月三日卒。

朝鮮役時,城下川原小路有韓人工窯之傳,然窯址已整地為招魂社;破片與窯具棄處未明。

二十四五年前,西堀端舟木右馬之助邸園掘芋蔓,連出窯損陶器。雅趣多見,有人一舉收百件轉售千餘圓,當時街價每件十至十五圓。釉類有飴、栗、栗茶、青栗、淡灰,亦見赤茶釉「海鼠」窯變。多為七八寸至三四寸德利、花插,淚痕流釉,下部露胎,線切底;偶見灰釉高台茶碗;德利底見陽文「十」「三」。

亦出磚四十,非窯材;僅殘片千餘、無窯具,顯非窯址而為棄地。或為川原小路窯殘片傾入堀中,然無據。俗稱「珍之山燒」。其源或為四百年前韓人在龍泰寺旁開窯,或唐津中里家舊工、鬼子岳系等,皆未確。

其後,京都陶工副田喜左衛門元和末至有田學製磁,技進甚速;同鄉浪人善兵衛亦在有田,兩人相與結義,亦由同鄉之誼。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

邻近供奉的“清元”身份不明,但署“清元/清玩/玩”的精美染付在南川原、外尾、黑牟田多见。多半因“玩”的读音转写为“げん”。清元或于延宝三年藩窑迁移时自南川原迁至此,因而磁器出自清元之窑,早先陶器则为朝鲜人所创。

他信奉日莲,岩壁“自我偈”据称为其所刻;前方旧有六叠小堂,今已不存。

权现谷存一座“韩人墓”,覆屋平碑约五尺,夫妇合葬,年款1669与1660,应由其子所立。

二本柳古窑为大川内陶史核心,三十三间藩用登窑,民窑残片虽多却颇精。近旁“新窑”七八间,约七十年前建,烧下手染付;残片显多用钴,已无旧窑之“吴洲染付”“砧/天龙寺青瓷”神采,约二十年即废。

最初韩人在六本柳得褐斑青瓷釉石,作青瓷与冰裂手;当时青瓷施于脆陶胎。后以有田泉山石为胎,遂成名品“锅岛青瓷”。(原料:SiO₂72.35等,合99.93。)

其后,Ōkawachi与Ichinose之韩人系踪迹渐没,类北地阿伊努。Arita瓷兴后,多移筒江、板野川内,后又至皿山;藩窑隆盛,韩人裔被遗忘,Ōkawachi史遂为锅岛窑与其美术史。

藩祖锅岛直茂1618年卒,81岁;从16岁初阵至两次朝鲜役,参与五十余战。全领之归总自子胜茂始,故称胜茂初代、直茂藩祖;其后因李参平白瓷而命多久氏保护。1902年追赠从三位。

平吉茂庆随征庆尚道两年受伤回国,安置八名韩人于嘉瀬,主办军需。后取川上大愿寺之土,令其烧壶德利,为藩窑发端但规模小。

城下川原小路曾有韩人工窑之传,遗址今为招魂社。约25年前西堀端一庭院出土大量窑损,飴/栗/灰等釉,多为7–8至3–4寸德利花插,泪痕流釉、线切底,偶有灰釉高台碗,底常见凸“10/3”。并出砖40非窑砖,应为弃置地,或为川原小路窑残片,但无证。俗称“珍之山烧”,起源诸说未定。

其后京都陶工副田喜左卫门至有田学瓷法,技进甚速;京都浪人善兵卫亦在有田,二人结义。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

鄰近供奉的「清元」身分未明,但署「清元/清玩/玩」之精良染付於南川原、外尾、黑牟田多見。多半因「玩」之讀音轉成「げん」。清元或於延寶三年藩窯遷徙時自南川原來此,是故磁器由清元之窯,較早陶器則由朝鮮人所創。

其篤信日蓮,岩壁「自我偈」傳為其所刻;前方昔有六疊小堂,今已不存。

權現谷有「韓人墓」一座,覆屋平碑約五尺,夫婦合葬,年款1669與1660,似由其子所立。

二本柳古窯為大川內陶史核心,三十三間藩用登窯;民窯殘片雖多,品質不俗。近處「新窯」七八間,約七十年前築,燒下手染付;殘片多鈷料,已無舊窯「吳洲染付」「砧/天龍寺青瓷」之妙,約二十年即廢。

初期韓人於六本柳得褐斑青瓷釉石,作青瓷與冰裂手;當時青瓷施於脆陶胎。後以有田泉山石為胎,遂製名品「鍋島青瓷」。(原料:SiO₂72.35 等,合 99.93。)

其後,大川內與一之瀨之韓人系漸沒,類北地阿伊努。Arita 瓷興後,多徙筒江、板野川內,後至皿山;藩窯興盛,韓人後裔被淡忘,於是大川內史即鍋島窯與其美術史。

藩祖鍋島直茂 1618 年卒,享 81;自十六歲初陣至兩度朝鮮役,五十餘戰。全領之歸總自子勝茂始,故稱勝茂初代、直茂藩祖;及李參平白瓷,命多久氏保護。1902 年追贈從三位。

平吉茂慶隨征慶尚道二年受傷還鄉,安置八名韓人於嘉瀨主辦軍需。後取川上大願寺之土燒壺與德利,為藩窯肇始,規模甚小。

城下川原小路傳有韓人工窯,遺址今為招魂社。約 25 年前西堀端一庭園出土大批窯損,飴/栗/灰釉為多,多為 7–8 至 3–4 寸之德利與花插,淚痕流釉、線切底,偶見灰釉高台碗,底常凸「10/3」。亦出四十磚非窯磚,應為棄置地,或係川原小路窯殘片,然無證。俗稱「珍之山燒」,起源諸說未定。

其後京都陶工副田喜左衛門至有田學瓷法,進境迅速;京都浪人善兵衛亦在有田,二人結義,同鄉之誼也。