藤野川内説~三本柳

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【原文】[Original text]

藤野川内説
 従来の史に從へば、藩は此金立の韓人陶工等を、松浦郡の藤野川内(元唐津領後鍋島領に属す、今西松浦郡松浦村山形の大字)に移轉せしめしいふのであつた。蓋し此地は秀吉の命にて名護屋陶窯の司たりし家永彦三郎の次子庄右工門が、高木瀬より轉じて、此處に製陶しつゝありし故を以てしかくいはれてゐる。此機に於いて少し彦三郎の記事を掲載するであらう。

家永方親のこと
 佐嘉郡高木瀬村瓦屋敷の陶師なる、家永彦三郎方親は、朝鮮役の折直茂に従ひ慶長元年(1596年)歸陣せしが、其際我軍の捕虜中に、範丘といへる陶工あるを見出して伴ひ帰り、名護屋城外白崎山に於いて陶器を造らしめたのである。

増田長盛の斡旋
 或時五奉行の一人増田右工門尉長盛(大和國郡山城主二十萬石)來り見て大いに之を賞し、秀吉亦来つて親しく之を見たのである。偶々正午食事の時刻なりしかば、方親は下僚に命じて提飯を作らしめ、之を自から製作せる雅器に載せて羞めしかば、大いに秀吉の意を得たといはれてゐる。
 斯くて長盛の斡旋にて、秀吉より種々の茶器製作を命ぜられ、同時に又徳川家康、前田利家、毛利輝元等へも贈進することゝした。之より名護屋城中方親の工名大いに擧り、再度の戦役には渡航を止められて、秀吉及諸將の用器を製作し、途に肥前燒物師の司たるべき朱印を得していふのである。 想ふに此製器は、最初範丘の手に成りしものにて、方親は丘に就いて大いに之を學び、其製技の眞諦を得せしものであらう。

田中吉政に招ぜらる
 慶長九年(1604年)田中兵部大輔吉政(慶長十四年(1609年)十二月十八日卒、六十八才)筑後(柳河城主)に封ぜらるゝや、直茂に乞うて、方親を領内に招じて開窯せしむるに至った。然るに幾許もなく家康より直茂に命じ、方親をして名護屋城當時の茶器を造らしむることゝなりしかば、方親父召還されて高木瀬に帰り、其器を製して家康に獻すること成った。

柳川炮烙
 後年方親が肥前焼物師の司を、弟右京之亮方俱に譲りて退隠せしことを聞き傅へ、吉政再び方親を招じて筑後焼物師の司となし、領地三潴郡蒲池村に居住せしめて土器を焼かしむるに至りしもの是が所謂柳川焼の始祖と稱せらる。其後の家永家略系次の如くである。

家永略系 美濃國恵那郡領主惠奈氏の後裔
家永方親 初代彦三郎柳河に住す
方俱 右京亮長右工門 髙木に住す
方也 二代彥三郎
庄工門 藤野川内に住す
方道 三代彥三郎
方幸 四代彥三郎
方重 五代利兵衛
方義 六代彥三郎
方滿 七代彥三郎
方信 八代彥三郎
方敬 九代彥三郎
方幸 十代彥三郎

慶闇尼の握飯
 前記の握飯の逸事に就ては、太闇と慶闇尼(龍造寺胤和の長女にて、隆信の生母であり、直茂の繼母である、慶長五年(1600年)三月朔日卒九十二才)の握飯及び高木宿土器作り御朱印の事さして、葉隠の中に左の如く記載されてゐる。

太閤様名護屋御在陣の處。川上川の下、名護屋渡しといふは、其の時の御渡し筋故申し候。其節見物仕り候者の話に、太閤は小男にて眼大に朱をさしたる如く顔の色手足迄赤く、花やかなる衣装にて足半(一種の草履、形は馬のくつの如くにて、人の足の裏の半ばまでなるもの)をはかれ、朱鞘金ののし附きの大小を差し、刀の鞘にも足半一足結びけ、馬上の御旅行にて、御供中駕籠に乗りたる衆一人もこれなく候。
此節慶間様御了簡にて、「在々より戸板を出し竹四本立て候て戸板を据ゑ、飯をかたく握り、土器に盛りならべ、尼寺通筋道端に出し置き候様に。」と仰付けられ候。太閤様御通り懸けに御覧なされ「これは龍造寺後家が働きなるべし食物なき道筋にて上下難義の心附け候事奇特なり。」と仰せられ、手に御取候て、「武邊の家は女まで斯様に心働き候、土器無類の物に候。」と仰せられ、名護屋迄土器作り召寄せられ、御朱印下され、今に持ち傳へ候由(高木土器屋は次男なり。御朱印所持の本家は筑後にあり)
御朱印寫
土器手際無比類於九州名護屋可爲司者也
天正二十年極月二十六日御朱印
土器師 家長彥三郎
 以上の記事がある。名護屋城外にての握飯も、或は此邊より生れしものにはあらざるか。次に當時の御朱印の如きは、其の陶技上の優秀なる鑑査よりも、寧ろ斯かる機会に於て、主宰者が賞興的に授けしものであらう。

藤野川内説の疑問
 而して方親の次男庄右工門が、藤野川内に製陶し居るに繰みての移轉説なるが、抑々藤野川内は椎の峯より里を隔てし谷地にて、此處より山形及中野原への通路があり、左へ出づれば提の川及久良木である。そして此處の古窯品は阿房の谷や芽の谷とても、全く唐津系の作品なることは、既に唐津編にて詳述せし如くにて、作風は勿論地理上より考へても、家永系への移轉は少しく無理が發生する。

山形假定
 斯く論じれば、金立韓人の一行が宙に迷ひ、従つて行方不明となる。然しながら彼等が、直ちに桃源地を漁り、彼の大川内の奥地へ入り込みしさは思はれぬ。此くの如く地理的から推考すれば、一旦山形方面に落着きて製陶し、而して後に、大川内の山奥へ移轉せしと見ることが安當であらう。
 元來大川内韓人の出嘘が又頗る不分明である。彼の稗史的の岩見重太郎の傳説なるものも、其終るところが詳でない。而して秀吉の小姓たりしといふ薄田隼人兼相の前半生が、又頗る不明なるより、茲に前記の重太郎傳を繼合はして、是が後傳せしものにはあらざるか、此筆法に傚ふが如きも、金立韓人の一行を一旦山形方面に來りしものなし、然る後に大川内へ轉任せしと假定し置き向後更に識者の研究に待つの外ない。

一の瀬と大川内
 蓋し現在通路の理論よりすれば、最初一の瀬山に開窯して、而して後に大川内山に入りしが如きも、且らく口碑に從ひて、大川内の韓人が一の瀬へ分窯せしことゝし、猶殘缺品の比較検討に依って判する外ない。大川内の古窯品には牧の襷谷、六本柳(正力坊の前)、權現谷、三本柳、御經石、二本柳古窯、二本柳新窯等があり。一の瀬には高麗神を最古とし、次に火の谷、古窯、新窯及東の谷等がある。

六本柳
 六本柳の古窯趾は、正力坊の前面川向ひの山畠にありて、殘缺には此處の青磁原料を使用せし、氷裂出の淡緑釉や薄茶釉、或は灰色釉なごの目積皿があり、又同手の大皿や茶碗などもある。中には前器の製品に描せるもありて、何れも無釉高台の丈低くき部厚なものと、そして稍薄きものとがある。

大川内の権現谷
 就中權現谷の窯に於いて盛んに製造せしものの如く、此の物原の殘缺が頗る多い。中に褐色や灰色胎土、又飴釉や淡緑釉の茶碗に、白化粧を施し、畫ともつかぬものを描せしものがあり、或は暗緑釉の茶碗や、蕎麥手の土瓶なども焼かれてゐる。

御經石
 御經石の古窯品には、茶碗や皿が多く概して小氷裂手の卵色釉にて、一見淡路焼の如く巧みに製せられ、細工の如きも頗る勝れてゐるのは、稍後代の開窯らしい、尤も高台部は凡べて無釉なるも、それには篆字にて、定の字や其他の文字が押印されてあり、そして裏底が二段削りになつてゐる。中には薄墨にて、山水を書きし小皿があり、又卵色には厚薄ありて、橙色を呈せるもある。或は桃色釉鐵描の茶碗に、同じく小氷裂手のものがある。

三本柳
 三本柳の窯趾は、清元さんを少しく登りしころにて、古窯品には、飴釉の中皿にて薄手高台の無釉物があり、白刷毛目の茶碗には、菊畫や網模様を描きしものがある。又此手の柳畫に御本が現れたのがあり或は青瓷の火入などもあるが、後代の製品は全く染附磁器ばかりである。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

通説では、金立にいた朝鮮人陶工は松浦郡の藤野川内(旧唐津領のち鍋島領、現・西松浦郡松浦村山形の大字)へ移されたという。理由は、秀吉の命で名護屋の窯司を務めた家永彦三郎の次子・庄右エ門が高木瀬から同地へ移って製陶していたため、そこへ合流したと見なされたからである。ここで家永方親について要点を述べる。

家永彦三郎方親は高木瀬村の陶工で、朝鮮の役に直茂に従い、慶長元年に帰陣。その際、捕虜の陶工・範丘を見出して伴帰し、名護屋城外の白崎山で作陶させた。のち五奉行の増田長盛がこれを賞し、秀吉も視察。正午の食時、方親は自作の器に提飯を盛って供し、秀吉の機嫌を得たと伝わる。これを機に茶器の製作を命じられ、家康・利家・輝元にも献じ、名護屋で名声を高めた。二度目の出兵では渡航を止められ、諸将の用器を作り、肥前焼物師の司たる朱印を得た。実作は当初、範丘の技が基礎で、方親は学んで真髄を掴んだのだろう。

慶長九年、田中吉政が筑後に封ぜられると、直茂に請い、方親を招いて開窯させたが、まもなく家康の命で再び名護屋当時の茶器を作るため高木瀬に戻り献上。のち方親は司を弟・方俱に譲って隠退、再度吉政に迎えられて「筑後焼」の司となり、蒲池村で土器を焼き、柳川焼の祖と称された。家永家は方親—方也—庄右エ門—方道—方幸—方重—方義—方満—方信—方敬—方幸と続く。

握飯の逸話は『葉隠』に詳しい。慶闇尼が各在から戸板を出させ飯を固く握って土器に並べ、道端に供したところ、名護屋に向かう秀吉が「龍造寺の後家の働きか、上下の難儀を案じた心がけ見事」と称し、土器を無類と賞して土器師を名護屋へ召し朱印を与えたという。もっとも当時の朱印は、技巧の厳密な鑑査というより、折々の賞玩的な下賜の性格が強かったとみるべきだ。

さて、次男・庄右エ門が藤野川内で製陶していたから一行もそこへ移ったとする説は、地理・作風の面で疑問がある。藤野川内は椎の峯に隔てられた谷で、山形・中野原や提の川・久良木へ通じる。当地の古窯は阿房の谷・芽の谷ともに唐津系で、家永系の直接移転と考えるには無理がある。

地理的推理からすれば、金立の一行はまず山形周辺に腰を落ち着けて作陶し、のちに大川内の奥へ移ったと見るのが妥当だろう。岩見重太郎や薄田隼人兼相の前半生など、伝承に不明点が多く、当面は仮説として提示し、後学の検討に委ねたい。

通路の理屈からは「初め一の瀬山に開窯、のち大川内へ」とも取れるが、口碑に従い「大川内の韓人が一の瀬へ分窯」とし、残欠の比較で最終判断すべきだ。大川内では牧の襷谷、六本柳、権現谷、三本柳、御経石、二本柳古窯・新窯などがあり、一の瀬では高麗神が最古、次いで火の谷、古窯、新窯、東の谷がある。

六本柳の遺物には、青磁原料を用いた細かな貫入の淡緑釉・薄茶釉・灰釉の目積皿、大皿や茶碗があり、無釉で背の低い厚手高台とやや薄手が併存する。権現谷はとくに産出が多く、褐・灰胎に飴釉・淡緑釉の茶碗へ白化粧を施し、素朴な描線のもの、暗緑釉の茶碗、蕎麦手の土瓶などが焼かれた。

御経石の古窯品は茶碗や皿が多く、小貫入の卵色釉で巧み、淡路焼を思わせる後代の開窯らしさがある。高台は無釉で、篆字の「定」などの印、二段削りの裏。薄墨の山水小皿、橙味の強い卵色釉、桃色釉に鉄描の茶碗、小貫入手も見られる。三本柳では飴釉の中皿(薄手・無釉高台)、白刷毛目の茶碗に菊や網文、柳画に御本手の発現、青磁の火入などがあり、後代は染付磁器が主となる。


【英語訳】[English translation]

According to the usual account, the Korean potters settled at Kinnadate were later moved to Fujinogawachi in Matsuura (formerly Karatsu, then Nabeshima; today the Yamagata area of Matsuura village). The rationale is that Shōuemon, second son of Ienaga Hikosaburō—kiln superintendent at Nagoya by Hideyoshi’s order—had transferred from Takakise to that place and was already firing there. Before assessing this claim, a brief note on Ienaga Katachika.

Katachika, a potter of Takakise, returned with Nabeshima Naoshige in 1596 and brought back a captive potter named Hangō, setting him to work at Shirasakiyama outside Nagoya Castle. Masuda Nagamori praised the ware; Hideyoshi also inspected it. At noon, Katachika served packed rice on vessels of his own making, winning favor. He was then ordered to produce tea utensils for Hideyoshi and to present works to Ieyasu, Toshiie, and Terumoto. His name rose in Nagoya; he was kept from crossing in the second campaign, made utensils for the commanders, and received a vermilion-seal appointing him supervisor of Hizen potters—though Hangō’s techniques likely underpinned the earliest work.

In 1604 Tanaka Yoshimasa, newly enfeoffed in Chikugo, requested Katachika from Naoshige to open kilns. Soon Ieyasu recalled him to make reproductions of Nagoya-period tea utensils, so he returned to Takakise and offered them to Ieyasu. Later he ceded the office to his brother Kata Tomokazu, was again invited by Yoshimasa to head Chikugo pottery at Kamachi village, and came to be regarded as the founder of Yanagawa ware. The Ienaga line proceeds through Katachika → Kataya (2nd Hikosaburō) → Shōuemon (at Fujinogawachi) → Katamichi (3rd) → Katayuki (4th) → Katashige (5th) → Katayoshi (6th) → Katamitsu (7th) → Katanobu (8th) → Katayasu (9th) → Katayuki (10th).

The onigiri episode appears in Hagakure: Lady Keian (Ryūzōji Takanaka’s eldest daughter, mother of Ryūzōji Takanobu, and Naoshige’s stepmother) had boards set up along the road and bowls of tightly pressed rice placed upon earthenware. Passing by, Hideyoshi praised the compassion for travelers and declared the pottery “peerless,” summoning the potters to Nagoya and granting a vermilion-seal. Such seals then were often honorific bestowals rather than strict technical certifications.

The transfer-to-Fujinogawachi theory—because the second son was working there—falters on geography and style. Fujinogawachi is a valley beyond Shii-no-mine with routes to Yamagata and Nakanohara; its old wares from Abō-no-tani and Me-no-tani are thoroughly Karatsu-type. Both stylistically and geographically, a direct Ienaga-line relocation is improbable.

A more plausible course is that the Kinnadate group first settled around Yamagata and worked there before moving deeper into Ōkawachi. Given gaps in traditions (Iwami Jūtarō; the obscure early life of Susukida Hayato), this remains a working hypothesis.

Route logic allows the reverse—first opening at Ichinose, then entering Ōkawachi—but following oral reports we treat it as Ōkawachi potters later branching to Ichinose, with shard comparison to decide. In Ōkawachi, kiln sites include Maki-no-tasuki-dani, Rokubonyanagi, Gongen-dani, Sanbonyanagi, Gyōkyōseki, and the old/new Futabonyanagi; in Ichinose the oldest is Koraijin, then Hi-no-tani, Old Kiln, New Kiln, and Higashi-no-tani.

Rokubonyanagi yields celadon-body materials with fine crackle pale-green, light-brown, and gray glazes on me-zumi plates, plus large dishes and bowls; footrings are unglazed, low and thick, alongside thinner makes. Gongen-dani produced abundantly: brown/gray bodies, ame and pale-green glazes with white slip and naive brushwork; also dark-green bowls and soba-style teapots.

Gyōkyōseki wares—many bowls and dishes—carry small-crackle egg-yellow glazes, deftly made, reminiscent of Awaji and likely later; footrings are unglazed with seal marks in seal script (e.g., “tei/jō”), and double-scraped bases. There are ink-wash landscape small plates, thicker and paler egg-yellows tending orange, and pink-glazed, iron-painted bowls with small crackle. Sanbonyanagi shows ame-glazed medium plates with thin, unglazed feet; white-brushed bowls with chrysanthemum and net patterns; “Gohon-like” effects in willow designs; celadon hibachi—later output turns chiefly to sometsuke porcelain.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

通说认为,金立的朝鲜陶工被转移到松浦郡藤野川内(旧属唐津、后属鍋島,今西松浦郡松浦村山形)。其因在于:丰臣秀吉任命名护屋窑司的家永彦三郎之次子庄右卫门,自高木瀬迁至彼处烧陶,遂被视为合流之地。家永方亲本为高木瀬陶工,随直茂从朝鲜役归来,携俘陶工“範丘”于名护屋白崎山作陶;后获增田长盛与秀吉称赏,奉命制茶器,并献于家康、利家、辉元,名声大振,受“肥前烧物司”之朱印。其初技多承範丘而得其要。

慶長九年田中吉政封筑后,延请方亲开窑;旋奉家康命归高木瀬仿制名护屋时期茶器以献。方亲后让位于弟方俱,再应吉政之招为筑后烧之司,居蒲池,称柳川烧之祖。

关于“握饭”逸事,《叶隐》载:慶闇尼命沿途设板置土器,排放紧实饭团。秀吉过而赏其体恤行旅、器物无双,召土器师至名护屋赐朱印。然当时朱印多具赏玩之意,非严谨技评。

将金立一行移至藤野川内之说,于地理与作风皆难自圆。藤野川内为隔山之谷,其古窑(阿房之谷、芽之谷)皆纯唐津系,难谓家永系直接迁入。较合理者是:一行先在山形周边定居作陶,继而深入大川内。

通路上亦可作“先一之瀬、后大川内”之解;姑从口碑谓“大川内之韩人分窑至一之瀬”,并以残片比较为据。大川内有牧之襷谷、六本柳、权现谷、三本柳、御经石、二本柳旧新窑等;一之瀬有高丽神最早,次为火之谷、古窑、新窑、东之谷。六本柳见细裂淡绿、淡茶、灰釉之目积皿及大皿、茶碗,足圈低厚而亦有薄作。权现谷出土繁多:褐灰胎、飴与淡绿釉碗施白化妆并粗简描绘,亦见暗绿釉碗、荞麦手土瓶。御经石多小裂卵色釉碗盘,工巧如淡路,足无釉、篆印、底双削;有淡墨山水小皿、偏橙卵色、桃釉铁描等。三本柳有飴釉中皿(薄作无釉足)、白刷毛目碗绘菊与网文,柳画现御本手,亦有青瓷火钵,后期多为染付磁器。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

通說認為,金立的朝鮮陶工被轉至松浦郡藤野川內(舊屬唐津、後屬鍋島,今西松浦郡松浦村山形)。其因在於:豐臣秀吉任命名護屋窯司的家永彥三郎之次子莊右衛門,自高木瀨遷至彼處燒陶,遂被視為合流之地。家永方親本為高木瀨陶工,隨直茂自朝鮮役歸來,挾俘陶工「範丘」於名護屋白崎山作陶;後獲增田長盛與秀吉稱賞,奉命製茶器,並獻於家康、利家、輝元,聲望大振,受「肥前燒物司」之朱印。其初技多承範丘而得其要。

慶長九年田中吉政封筑後,延請方親開窯;旋奉家康命返高木瀨仿製名護屋時期茶器以獻。方親後讓位於弟方俱,再應吉政之招為筑後燒之司,居蒲池,稱柳川燒之祖。

關於「握飯」軼事,《葉隱》載:慶闇尼命沿途設板置土器,陳列緊實飯糰。秀吉經過而賞其體恤行旅、器物無雙,召土器師至名護屋賜朱印。然當時朱印多具賞玩之意,非嚴謹技評。

將金立一行移至藤野川內之說,於地理與作風皆難自圓。藤野川內為隔山之谷,其古窯(阿房之谷、芽之谷)皆純唐津系,難謂家永系直接遷入。較合理者為:一行先在山形周邊定居作陶,繼而深入大川內。

通路上亦可作「先一之瀨、後大川內」之解;姑循口碑謂「大川內之韓人分窯至一之瀨」,並以殘片比較為據。大川內有牧之襷谷、六本柳、權現谷、三本柳、御經石、二本柳舊新窯等;一之瀨有高麗神最早,次為火之谷、古窯、新窯、東之谷。六本柳見細裂淡綠、淡茶、灰釉之目積皿及大皿、茶碗,足圈低厚亦有薄作。權現谷出土繁多:褐灰胎、飴與淡綠釉碗施白化妝並粗簡描繪,亦見暗綠釉碗、蕎麥手土瓶。御經石多小裂卵色釉碗盤,工巧如淡路,足無釉、篆印、底雙削;有淡墨山水小皿、偏橙卵色、桃釉鐵描等。三本柳有飴釉中皿(薄作無釉足)、白刷毛目碗繪菊與網文,柳畫現御本手,亦有青瓷火缽,後期多為染付磁器。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

据传统说法,金立的朝鲜陶工后来迁至松浦郡藤野川内。理由是:名护屋窑司家永彦三郎之次子庄右卫门已在彼处烧陶,故认为与其会合。家永方亲在名护屋外白崎山以俘虏陶工“範丘”为技源起步,获增田长盛与秀吉称赏,被命制茶器并献于家康等,名声大振,得“肥前烧”之司印。

1604年田中吉政迎其开窑,旋奉家康命返高木瀬复制名护屋期茶器;后让位于弟,再赴筑后,成为柳川烧之祖。握饭逸事见《叶隐》:沿途置土器承握饭,秀吉赞“无双”,召至名护屋赐朱印。此类朱印多属荣誉赏赐。

然“迁藤野川内”在地理与风格上难立:该谷地旧窑皆唐津系,难谓家永系整体迁入。更可信的是:先在山形一带落脚制陶,后入大川内。路径上亦可反向解释,姑依口碑为“大川内分窑至一之瀬”,并以残片比较定论。诸窑址与器物特征同上:六本柳(细裂淡绿等)、权现谷(白化妆与飴釉)、御经石(卵色釉与篆印)、三本柳(飴釉中皿、刷毛目、御本手、后期染付)。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

據傳統說法,金立的朝鮮陶工後遷至松浦郡藤野川內。理由是:名護屋窯司家永彥三郎之次子莊右衛門已在彼處燒陶,故被視為匯合。家永方親於名護屋外白崎山以俘虜陶工「範丘」之技起步,獲增田長盛與秀吉稱賞,奉命製茶器並獻於家康等,聲名鵲起,得「肥前燒」之司印。

1604年田中吉政迎其開窯,繼而奉家康命返高木瀨複製名護屋期茶器;後讓位於弟,再赴筑後,成為柳川燒之祖。握飯逸事見《葉隱》:沿途置土器承握飯,秀吉稱「無雙」,召至名護屋賜朱印。此類朱印多屬榮譽賞賜。

然「遷藤野川內」在地理與風格上難立:該谷地舊窯皆唐津系,難謂家永系整體遷入。較可信者為:先於山形一帶落腳制陶,後入大川內。路徑上亦可反向解讀,姑依口碑為「大川內分窯至一之瀨」,並以殘片比較定論。諸窯址與器物特徵同上:六本柳(細裂淡綠等)、權現谷(白化妝與飴釉)、御經石(卵色釉與篆印)、三本柳(飴釉中皿、刷毛目、御本手、後期染付)。