【原文】[Original text]
各宮殿下の台覽
此展覧会は一般に非常の興味を喚起しめ、初日には秩父宮殿下同妃殿下台覽遊ばされしが、朝鮮李王殿下も亦台覽遊ばされ、二日目には朝香宮殿下台遊ばされた。而して三日間の参観者實に五千人といふ盛況であつた。
第二回の大發掘
翌六年二月十七日より三日間に涉り、本山社長は又大宅社員をして、再び内田及黒牟田の古窯跡より數千点の殘缺を発掘する共に、新たに十餘ヶ處の古窯を紹介した。 そして同年三月十八日東日社に於いて、第二回發掘品の一部なる白磁、青瓷、辰砂其他の窯變物、瑠理、刷毛目、象嵌等八拾餘点、並に發掘關係の寫真及圖書等百餘点を陳列して學界に發表したのである。
大毎社の展覽會
同年四月には關西彩壺會主催さなり十三日より三日間大阪大毎樓上に於いて、先に發掘せし古窯殘缺品の展覧を開催し、此にても學界の好資料として大いなる賞識を博せが、十四日には久邇宮大妃殿下、東伏見伯爵の御參觀を賜はりたのである。
掘熱の勃興
此本山社長の發掘は、近郷の古窯跡發掘者に更に拍車をかくるに至り、或は骨董的の數寄續出せしも、中には真剣なる研究者も少くなかった。而して此武内系乃ち内田、黑牟田及び其界隈の古窯は、抑何人に因って發祥せられしか、其顛末の一端を窺ふ可く記事は再び秀吉の朝鮮役當時に逆轉する。
戦貢徴収
秀吉が朝鮮の役を起してより、其巨額なる軍費を補ふ可く各地の寺院よりも戰貢として徴収することゝ成った。茲に塚崎の蓬莱山廣福禪寺は九州臨濟派中の重位地にありしも、當時賦課されし戦貢を上納するには甚乏しき境遇であつた。殊に當山四十世の住職別宗和尚は、此地の領主家信に從ひて渡韓の陣にありしを以て、戦貢に就いて今は如何んともなし得ざる由を留守居の僧より陳辯して、暫く猶豫を願ひしも有司は頑として之を赦さず、當時の佛像、經巻、法器、家具に至るまで悉く沒収せらるゝことゝ成り、此時より堂宇も亦大に荒廢せしと稱せらる。
別宗和尚
當時別宗は家信に從ひて韓土の陣中にあること数ヶ年間、ひさしく疏銘祈禱を専修し又到るところ戰病死者の冥福を祈りつゝあつた。
斯くて歸陣の後家信其功勞を賞し、五十石の寺領と涅槃の畫像一軸 與へ、更に勸化を許して佛殿を造らしめしが稀に見る宏壮なる精舎であつた。
(今に運慶作四天王佛像の國寶がある)斯くて別宗は慶長五年三月六日に遷化したのである。
深海と金海
爰に朝鮮深海(從來我邦人が彼韓人の發音に當て、漢字を用ひしものなるより考きんかい察して、深海とは彼等が同發音なる金海にてはあ武雄系 武内窯らざるか、今金海には當時の鍋島軍の城跡が残されてゐるといふ説があり、又此金海は製陶地に刷毛目にて四角形の割高臺などの茶碗がある)
の陶工某なる者、家信に從ひて渡せる折、前記の別宗と同船して塚崎に来り、廣福寺の門前なる一舎に旅装を解いたのである。
別宗と宗傳
尤も彼が韓土に於いて、別宗と如何なる關係ありしやは不明なるも、彼は深く別宗の高徳を敬慕し佛門に歸依して宗傅と號せしは、別宗が一字を授かりしとのことである。そして又郷里深海を姓となし深海氏と改め、新太郎と通稱したのである。
武内開窯
宗傳此時三十六才博へらるゝも、家族としては幾人同行せしかは詳でない。蓋し家族の外にもなほ同伴者か相當にありし事と察せらる。そして彼等は此處の温泉を喜びつ、一年餘を滞在中、領内各山を踏査して武内村の山中に適當の粘土を發見し、此處に始めて開窯するに至りしば、無論家信が保護と資金を與へしことは申すまでもない。
而して今武内の黒牟田と内田及び其界隈に於ける多数の古窯作風を考察して、武内地方の開窯者なる者は一人でなく、必ず数人の手に因って開發されして見る可きである。而して今や宗傳の根據地が黒牟田といひ、或は内田といふ本家争ひさへ生じてゐる。
開窯者一人説
或説に依れば最初宗傳は黒牟田の錆谷に開窯し、それより廣高麗一帯の地を領して近傍到る處に築窯し、斯くて七曲、水無、山崎より一旦緒の古場に出て、再び内田谷を上り萓の谷、鐘山谷方面より小峠に來つて止まりしとの説である。蓋し之は開窯者を無理にも宗傳一人に結びつけんさせし結果であるらしい。
山林への築窯
凡て彼等の陶業が、人里遠き山林深く築窯せしは、第一に薪水の關係を主とし、次に原料の探掘や碎石に要する水車掛りの便宜を考慮せるもあり、或は自己の特技を秘し、又は郷土人の圧迫を避くる等理由は多々ありとするも一人にて斯く到る處に築窯せしとは思惟されぬ。
現代でさへ窯一間を築造することは容易でない、故に拾数年前までの営業者は、一登りの窯を共同的に惜積せしものであつた。
土塗窯
元來往時の塗窯なるものは、トンバイ(煉瓦形の窯材料)なしに粘土のみを以て塗上げし故に、乾燥には時日を要するもトンバイ窯よりも永久的にて、少なくも二十年位は使用されしといはれてゐる。其後トンバイを用ひしものもあるが、それは多く生トンバイと稱する未焼物であった。
兩山の窯跡比較
黒牟田幸平の桑畑より、甘藷畑に横はる土師塲の窯跡を見渡せば、一間五六坪のが七八間連績されてゐる。尤も此處は下手物の擂鉢など焼きしものの如く、比較的大形に築かれししても、鯖谷の窯跡さへ二坪位のが十七八間は登つてゐる。就中内田大谷の窯跡に至つては縦二間半横二間巾位のが、四十間数の百八十米突位は登つてゐたらしい。若し宗傳一人にて此内田、黒牟田及び箕手野界隈の窯全部を築窯せしものすれば、彼が半生の事業は蓋し築窯にのみ従事せしいはねばならぬ。
焼潰し窯の修繕
尤も愛に一考すべきは現代の如く築窯技術の進歩せざる時代とて、彼等が長く使用せし後に所謂焼潰しといふ、窓のオンザン(通火窓)が異状を來せし時に、後代の如く耐火トンバイ丈を取替へて修理することは不可能であつた。然る時に於いて又新たに築窯するの止むを得ざるに至りしことは認めらる。
故に三河内の如きは、西の嶽丸座の辻より耐火性の砂石を發見し、之を粉砕して篩にかけ糊を交へて赤黄色の目砂に應用せしが、後には之を原料さして耐火トンバイの原料とするに至つた。故に耐火トンバイの使用以前に於いては、後代よりもより多く築窯せしことは否まれぬ。然れども肥前に於ける朝鮮系の築窯は、皆連縦式の所謂登窯に多きは三四十間少なきも五六間を登り、尾濃邊の單室窯の如く、薪材を追ふて容易く移動せしものとは首肯し能はざる所以である。
黒牟田系と内田系
察するに東眞手野の内田と西眞手野の黒牟田とは別人の陶系にて、それが又分布されし諸の築窯と見る可きであらう。若し之を地理的に區分すれば黒牟田系は祇園下、幸平、高麗墓、土師場、向平、向家、物原、呉須焼、丸尾、水無、七曲、廣高麗、錆谷等を一系とすべく。内田系は一位の樹谷、萓の谷、鐘山谷、大谷(多々良の辻)、古屋敷、小峠前、小峠奥等を以て一系にとすべきであらう。
又西眞手野の山崎御立目は黒牟田の分窯らしく東真手野平古場方面の祥古谷、杉の元、李祥古場、古郷甲の辻は雨系何れかの分窯と見るの外なく。
西真手野の猪の古場に至つては特に別人の開窯せし嘘があり。東眞手野の姥が原、永吉谷、宇土の谷は無論別人なる可く。而して多々良の西岳、安田原は全然別途の開窯である。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
この展覧会は一般の関心を大いに呼び起こし、初日には秩父宮殿下と同妃殿下が台覧され、朝鮮李王殿下も来臨された。二日目には朝香宮殿下も台覧され、三日間の来場者は実に五千人に達した。
翌(昭和六)年二月十七日から三日間、本山社長は再び大宅社員に指揮して内田・黒牟田の古窯跡から数千点の破片を発掘し、新たに十数か所の古窯も紹介した。さらに同年三月十八日、東日社で第二回発掘品のうち白磁・青磁・辰砂・窯変・瑠璃・刷毛目・象嵌など八十余点に、発掘関係の写真や図書百余点を加えて陳列し、学界に発表した。
同年四月には關西彩壺會の主催で、十三日から三日間大阪の大毎楼上で先の発掘古窯の残欠品展を開催し、研究資料として高い評価を受けた。十四日には久邇宮大妃殿下と東伏見伯爵のご来観も賜った。
本山社長の発掘は近郷の古窯跡調査に一段と拍車をかけ、骨董目当ての愛好家も続出したが、真剣な研究者も少なくなかった。内田・黒牟田および周辺の古窯が誰によって拓かれたのかを探るため、話は秀吉の朝鮮出兵の頃にさかのぼる。
秀吉の朝鮮役以降、巨額の軍費補填のため各地の寺院にも戦貢の賦課が及んだ。塚崎の蓬莱山廣福禅寺は九州臨済派の重鎮であったが、当時の賦課に応じる余裕がなく、しかも第四十世の住職別宗和尚は領主家信に従って渡韓中だったため、留守の僧が猶予を願い出たものの許されず、仏像・経巻・法器・家具に至るまで没収となり、この時から堂宇も大いに荒廃したという。
別宗は数年にわたり韓土の陣中にあって、昼夜の祈祷を専修し、戦病死者の冥福を弔い続けた。帰陣後、家信はその功を賞して寺領五十石と涅槃図一幅を与え、さらに勧化を許して壮大な仏殿を再建させた(現在も運慶作の四天王像という国宝が伝わる)。別宗は慶長五年三月六日に遷化した。
ここでいう朝鮮の「深海」は、当時日本人が朝鮮語の発音に漢字を当てた呼称で、音から考えると同音の「金海」を指すのではないかという説がある。金海には当時の鍋島軍の城跡が残るとも伝え、また同地は製陶で知られ、刷毛目で四角い割高台をもつ茶碗などがあるという。金海(深海)の陶工のある人物が家信に随行して渡来した折、前記の別宗と同船して塚崎に至り、廣福寺門前の一棟に旅装を解いた。
この陶工が韓土で別宗とどのような縁があったかは不明だが、彼は別宗の高徳を深く敬慕して出家の志を固め、「宗傳」と号した(別宗から「宗」の一字を賜ったという)。また郷里名の「深海」を姓として深海氏と改め、通称を新太郎とした。
宗傳は当時三十六歳で、家族が何人同行したかは詳らかでないが、家族以外にも相当数の同伴者がいたとみられる。彼らは当地の温泉を喜びつつ一年余り滞在し、その間に領内の山々を踏査して武内村山中に適した粘土を見つけ、ここで初めて開窯した。もちろん家信の保護と資金援助があったことは言うまでもない。
しかし、武内の黒牟田・内田および周辺に残る数多くの古窯の作風を見比べれば、武内地方の開窯は一人の手によるものではなく、必ず複数人によって進められたとみるべきである。宗傳の本拠が黒牟田か内田かをめぐって“本家争い”さえ生じている。
ある説では、宗傳は最初に黒牟田の錆谷で開窯し、のちに廣高麗一帯を押さえて近隣各所に築窯、七曲・水無・山崎からいったん緒の古場に出て、再び内田谷をさかのぼり萱の谷・鐘山谷方面を経て小峠に至って止まったという。だがこれは開窯者を無理に宗傳一人に結びつけようとする見解の産物らしい。
彼らが人里離れた山林奥深くに窯を築いたのは、第一に薪と水の確保、次に原料採掘や砕石に水車を使う便宜、さらに技術秘密の保持や土地の人々による圧迫の回避など、さまざまな理由があったためである。とはいえ一人の手で至る所に築窯したとは考えにくい。現代でさえ窯を一基築くのは容易ではなく、少し前までの窯業者は一登りの登窯を共同で築いたものである。
往時の「土塗窯」は、トンバイ(煉瓦状の窯材)を用いず粘土だけで塗り上げたため乾燥に日数を要したが、トンバイ窯より長持ちし、少なくとも二十年は使えたといわれる。のちにトンバイを用いた例もあるが、多くは「生トンバイ」と称する未焼成材であった。
黒牟田幸平の桑畑から甘藷畑に続く土師場の窯跡を見渡すと、五、六坪ほどの房が七、八室連なっている。ここは擂鉢などの下手物を焼いたらしく比較的大ぶりに造られているが、鯖谷の窯跡でも二坪ほどの房が十七、八室は登っている。なかでも内田大谷の窯跡は、間口二間・奥行二間半ほどの房が四十室余、全長百八十メートルほど登っていたらしい。もし宗傳一人で内田・黒牟田・箕手野界隈の窯をすべて築いたのだとすれば、彼の半生は築窯だけに費やされたことになろう。
当時は築窯技術が未熟で、長年の使用後にいわゆる「焼潰し」が起こり、通火窓=オンザンに異状が出ても、今日のように耐火トンバイだけを取り替えて直すことはできず、新たに築窯せざるを得なかった。三河内ではやがて西の嶽丸座の辻で耐火性の砂石を見出し、これを砕いて篩い、糊を混ぜた赤黄色の目砂として用い、のちに耐火トンバイの原料にもした。したがって耐火トンバイ普及以前には、後代以上に築窯の回数が多かったことは否めない。しかし肥前における朝鮮系の窯は、いずれも連房式の登窯で、多いものは三、四十室、少ないものでも五、六室を登るものであり、尾張・濃州あたりの単室窯のように薪を追って容易に移動したものではなかった。
総じて東眞手野の内田と西眞手野の黒牟田は別系統の陶工集団とみられ、それぞれの分布窯がある。地理的に区分すれば、黒牟田系は祇園下・幸平・高麗墓・土師場・向平・向家・物原・呉須焼・丸尾・水無・七曲・廣高麗・錆谷など、内田系は一位の樹谷・萱の谷・鐘山谷・大谷(多々良の辻)・古屋敷・小峠前・小峠奥などを一系とすべきだろう。西眞手野の山崎御立目は黒牟田の分窯らしく、東眞手野平古場方面の祥古谷・杉の元・李祥古場・古郷甲の辻は両系いずれかの分窯と見るほかない。西眞手野の猪の古場は特に別人の開窯と伝え、東眞手野の姥が原・永吉谷・宇土の谷も別人の所業である。多々良の西岳・安田原は全く別系統の開窯である。
【英語訳】[English translation]
The exhibition aroused great public interest. On the opening day, Prince Chichibu and Princess Chichibu honored it with their presence, and Prince Yi of Korea also attended; on the second day, Prince Asaka viewed the show as well. Over the three days, attendance reached five thousand.
From February 17 for three days the following year (Shōwa 6), President Motoyama again directed staff member Ōya to excavate the ancient kiln sites at Uchida and Kuromuta, unearthing thousands of sherds and identifying more than ten new kiln locations. On March 18 of the same year, at the Tōnichi company, they displayed some eighty items from the second excavation—white porcelain, celadon, copper-red (shinsā), kiln-altered pieces, ruri (cobalt blue), hakeme, and inlay ware—together with over a hundred photographs and books related to the digs, and presented the findings to the academic community.
In April, under the auspices of the Kansai Saitsokai, a three-day exhibition of the previously excavated kiln fragments was held at the Ōsaka Daimai Building starting on the 13th. It, too, won high scholarly esteem as valuable study material, and on the 14th they were honored by visits from Princess Dowager Kuni and Count Higashifushimi.
Motoyama’s excavations further spurred local investigations of ancient kilns. While many collectors seeking curios emerged, there were also not a few serious researchers. To glimpse how the Uchida, Kuromuta, and neighboring kiln groups first arose, the account turns back to the time of Toyotomi Hideyoshi’s campaigns in Korea.
After the Korean campaigns began, temples across the land were assessed a “war levy” to help cover the vast military expenses. Hōraizan Kōfuku Zenji in Tsukazaki, a key seat of the Rinzai lineage in Kyūshū, was in straitened circumstances and could not pay what was imposed. Moreover, the 40th abbot, Priest Betsusō, had gone to Korea with the local lord Ienobu (家信), so the monks left in charge pleaded for a delay; the authorities refused, and even the temple’s statues, sutras, ritual implements, and furnishings were confiscated. From then, the temple buildings fell into marked decline.
For several years Betsusō remained with the army in Korea, devoting himself to liturgies and praying for the souls of those who died in battle or of illness. After the return, Ienobu rewarded his service with a temple fief of 50 koku and a painting of the Buddha’s Nirvāṇa, and permitted public solicitation of funds to rebuild the Buddha Hall—an unusually grand edifice (even today a National Treasure known as the Four Heavenly Kings by Unkei is said to be preserved there). Betsusō passed away on March 6, Keichō 5.
The place called “Shinkai” (深海) in Korea is likely a Japanese rendering of the Korean pronunciation for “Gimhae” (金海). Some say the site still holds ruins of a Nabeshima army fort from that era, and the area is known for pottery such as bowls with hakeme slip and square, tall “wari-kodai” feet. A potter from this Shinkai (Gimhae) accompanied Ienobu to Japan; traveling on the same ship as Betsusō, he came to Tsukazaki and lodged in a house at the gate of Kōfuku-ji.
How this potter had become connected with Betsusō in Korea is unclear, but he revered Betsusō’s virtue, embraced Buddhism, and took the name “Sōden” (宗傳), said to have received the character “宗” from Betsusō. He also adopted his homeland name “Shinkai” as a surname, becoming Mr. Shinkai, commonly called Shintarō.
Sōden was then thirty-six years old. How many family members accompanied him is unknown, though there were likely companions beyond his household. Delighting in the local hot springs, they stayed for over a year, surveying the mountains in the domain and finding suitable clay in the hills of Takeuchi-mura, where they opened their first kiln—naturally under Ienobu’s protection and with his financial support.
Yet, judging from the many ancient kilns and their styles around Kuromuta, Uchida, and nearby, the development of the Takeuchi kilns was not the work of a single hand but must have involved several people. There is even a “head-family” dispute today over whether Sōden’s base was Kuromuta or Uchida.
One view claims Sōden first opened a kiln at Sabitani in Kuromuta, then controlled the Hiro-Koma area and built kilns in many neighboring places—going from Nanamagari, Minashi, and Yamazaki out to Oko-no-Koba, then back up Uchida Valley through Kaya-no-Tani and Kaneyama-dani to Kogōe, where he stopped. This appears to be an attempt to force all kiln foundations into the hands of Sōden alone.
They built kilns deep in remote forests primarily for fuel and water, also to exploit raw-material deposits and water-power for crushing stone, to keep techniques secret, and to avoid local pressures. Even so, it is hard to believe one person alone built kilns everywhere. Even today, constructing a single kiln is no small task; until a few decades ago, producers commonly pooled resources to build one multi-chamber climbing kiln.
Earlier “mud-plastered kilns” (tsuchinuri-gama) were finished with clay alone, without “tonbai” (brick-like kiln blocks). Drying took time, but they lasted longer than tonbai kilns—at least twenty years, it is said. Later, some used tonbai, though often as unfired “raw tonbai.”
From the mulberry fields of Kuromuta-Kōhei overlooking the pottery fields at Hajiba, one can see seven or eight chambers of about five or six tsubo each in a row. That site likely fired utilitarian wares like mortars and so was built relatively large; even so, at Sabitani the chambers of about two tsubo climb for seventeen or eighteen bays. At Uchida-Ōtani, chambers roughly two by two-and-a-half ken seem to have climbed for more than forty bays, totaling about 180 meters. If Sōden alone built all the kilns around Uchida, Kuromuta, and Minoten, half his life would have been spent on kiln construction.
Because kiln-building techniques were rudimentary, when long use brought on “yaki-tsubushi” (structural failure) and the flue openings (onzan, i.e., through-draft ports) warped, it was impossible—unlike later times—to repair them simply by replacing refractory tonbai. New kilns had to be built. At Mikawachi, refractory sandstone was found at Nishi-no-dake Maruza-no-tsuji, crushed, sieved, and—mixed with paste—used as a reddish-yellow bedding sand (me-suna); later it served as a raw material for refractory tonbai. Thus, before refractory blocks were available, kiln construction occurred more often than in later eras. Even so, Korean-style kilns in Hizen were of the multi-chamber climbing type: typically 30–40 bays, at least 5–6, not the easily moved single-chamber kilns of the Owari-Nōshū area that followed firewood supplies.
In sum, Uchida in East Mateno and Kuromuta in West Mateno represent different potter lineages, each with its own distribution of branch kilns. Geographically, the Kuromuta line includes Gion-shita, Kōhei, Komae-no-haka, Hajiba, Mukaidaira, Mukaie, Monohara, Gosu-yaki, Maruo, Minashi, Nanamagari, Hiro-Koma, and Sabitani; the Uchida line includes Ichii-no-Kidani, Kaya-no-Tani, Kaneyama-dani, Ōtani (Tatada-no-tsuji), Furuyashiki, Kogōe-mae, and Kogōe-oku. Yamazaki-Otatame in West Mateno seems to be a Kuromuta branch; in the Higashi-Mateno Hirakoba area, Shōkoya, Sugi-no-Moto, Rishō-koba, and Furusato-Kō-no-tsuji appear to be branches of one line or the other. Inoshikoba in West Mateno is specifically attributed to a separate founder; in East Mateno, Ubagahara, Nagayoshidani, and Uto-no-Tani are likewise by different hands, while Tatara-no-Nishidake and Yasudabara are entirely separate foundations.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
此展览会极大地激发了公众的兴趣。开幕首日,秩父宫殿下与同妃殿下台览,朝鲜李王殿下亦蒞临;第二日朝香宫殿下亦台览。三天到场者合计达五千人。
翌年(昭和六年)二月十七日起三日间,本山社长再度指挥大宅社員,于内田、黒牟田古窑址发掘数千件残片,并新识别十余处古窑。同年三月十八日于東日社展出第二次发掘品中的白磁、青磁、辰砂、窑变、瑠璃、刷毛目、象嵌等八十余件,以及百余件发掘相关照片与图书,向学界发表。
同年四月,在關西彩壺會主办下,自十三日起于大阪大毎楼上举办三天的先期发掘残缺品展,作为研究资料广获好评;十四日又蒙久邇宮大妃殿下与東伏見伯爵莅临参观。
本山社长之发掘更促使近郊古窑调查热起。虽有以骨董为目的者蜂起,然严肃研究者亦不在少数。为探其内田、黒牟田及周边古窑之肇始,话题回溯至秀吉朝鲜役时期。
秀吉出兵后,为补巨额军费,亦向各地寺院征收“战贡”。塚崎之蓬莱山廣福禅寺为九州临济派重镇,当时贫乏难以上缴;且第四十世住持別宗和尚随领主家信渡韩在阵。留守僧请求宽限不许,连佛像、经卷、法器、家具等亦尽被没收,自此殿宇大为荒废。
別宗在韩数年,专志祈祷,普为战病死者祈福。归阵后,家信嘉奖其功,赐寺领五十石与涅槃图一轴,并许募化重建雄伟佛殿(今传有“運慶作四天王像”的国宝)。別宗于慶長五年三月六日示寂。
所谓朝鲜“深海”多半是以汉字表记之音译,极可能即“金海”。相传金海尚存当时鍋島军之城迹,亦为制陶地,见有以刷毛目施饰、具四角割高台之茶碗。一位来自深海(金海)的陶工随家信来日,与別宗同船至塚崎,寓于廣福寺门前。
此陶工在韩与別宗何缘不详,但其深慕別宗高德,归依佛门,号“宗傳”(相传得“宗”之一字),并以乡名为姓改称“深海氏”,通称新太郎。
宗傳时年三十六。随行家属几何不详,然应有家族外之同伴。其等喜爱当地温泉,逗留一年余;勘踏领内诸山,于武内村山中得宜土,遂初开窑(家信之保护与资助不待言)。然观黒牟田、内田及其周边多处古窑之作风,应为数人合力所开,而非一人之功。宗傳本据在黒牟田抑或内田,今尚生“本家”之争。
一说谓宗傳始开黒牟田“錆谷”,旋据廣高麗一带,于近隣处处筑窑,自七曲、水無、山崎出至緒之古場,再上内田谷,经萱之谷、鐘山谷而至小峠止步。此说似系勉强将诸窑创始归于宗傳一人。
诸窑多建于人迹罕至之山林,主因在薪水其便,亦为原料采掘、碎石水车之利,兼以秘其技、避土人之压等。然谓一人遍筑诸窑,难以置信。今时筑一窑犹不易,前此业者多合力共建一条“登窑”。
往时“土塗窯”不用“トンバイ”(砖状窑材),纯以粘土抹筑,虽干燥费时,却较之トンバイ窑更耐用,常可使用二十年。后亦有用トンバイ者,多为未烧之“生トンバイ”。
自黒牟田幸平之桑畑眺望土師場窑址,见五六坪一室者七八相连;此处似烧擂钵等下手物,故结构较大。鯖谷窑址亦有约二坪之室十七八级攀登;内田大谷窑址则见间口二间、纵二间半之室四十余级,通长约一百八十米。若谓内田、黒牟田、箕手野诸窑皆宗傳一人所筑,则其半生几尽于筑窑矣。
当时技艺未臻,久用后每有“焼潰し”,通火窗(オンザン)变形,非若后世可易耐火トンバイ以修补,只得新筑其窑。三河内后于西之嶽丸座之辻得耐火砂石,碎之筛之,入糊为赤黄色“目砂”,继而用作耐火トンバイ原料。故耐火砖普及以前,筑窑频度较后世更高。然肥前之朝鲜系窑皆为连房式登窑,多者三四十室,少亦五六室,绝非尾張・濃州一带随薪迁徙之单室窑。
综上,東眞手野之内田与西眞手野之黒牟田为异系陶工,其分布窑各不相同:黒牟田系包括祇園下、幸平、高麗墓、土師場、向平、向家、物原、呉須焼、丸尾、水無、七曲、廣高麗、錆谷等;内田系包括一位之樹谷、萱之谷、鐘山谷、大谷(多々良之辻)、古屋敷、小峠前、小峠奥等。西眞手野之山崎御立目似属黒牟田分窑;東眞手野平古場之祥古谷、杉之元、李祥古場、古郷甲之辻应属两系之一之分窑。西眞手野之猪之古場传为他人所开;東眞手野之姥が原、永吉谷、宇土之谷亦属他手,多々良之西岳、安田原则为全然别系之窑场。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
此展覽會極大地喚起大眾關注。首日秩父宮殿下與同妃殿下台覽,朝鮮李王殿下亦蒞臨;次日朝香宮殿下亦台覽。三日來場者合計達五千人。
翌年(昭和六年)二月十七日起三日間,本山社長再度指揮大宅社員,於內田、黒牟田古窯址發掘數千件殘片,並新識十餘處古窯。同年三月十八日於東日社陳列第二回發掘品之白磁、青磁、辰砂、窯變、瑠璃、刷毛目、象嵌等八十餘件,及百餘件發掘相關照片與圖書,向學界發表。
四月,關西彩壺會主辦,自十三日起三日於大阪大毎樓上展出先期發掘殘缺品,作為研究資料廣獲好評;十四日又蒙久邇宮大妃殿下與東伏見伯爵蒞臨觀覽。
本山社長之發掘更促成近郊古窯調查熱。雖有骨董愛好者蜂起,然嚴肅研究者亦不乏其人。為探內田、黒牟田及周邊古窯之肇端,敘事回溯至秀吉朝鮮役之時。
秀吉出兵後,為補巨額軍費,亦向各地寺院徵“戰貢”。塚崎之蓬萊山廣福禪寺為九州臨濟派重鎮,時值貧乏難以上繳;且第四十世住持別宗和尚隨領主家信渡韓在陣。留守僧請寬限不許,連佛像、經卷、法器、家具皆被沒收,自此殿宇頗為荒廢。
別宗在韓數年,專志祈禱,為戰病死者普行追薦。歸陣後,家信嘉其功,賜寺領五十石與涅槃圖一軸,並許募化重建宏偉佛殿(今傳有“運慶作四天王像”之國寶)。別宗於慶長五年三月六日示寂。
所稱朝鮮“深海”,多為以漢字表記之音譯,極可能即“金海”。相傳金海尚存當時鍋島軍之城跡,亦為製陶地,見有刷毛目與四角割高臺之茶碗。一位來自深海(金海)之陶工隨家信來日,與別宗同船至塚崎,寓於廣福寺門前。
此陶工在韓與別宗之緣未詳,然深慕其德,歸依佛門,號“宗傳”(相傳得“宗”之一字),並以鄉名為姓改稱“深海氏”,通稱新太郎。
宗傳時年三十六。隨行家屬幾何未詳,然家族外應尚有同伴。彼等喜當地溫泉,留一年餘;勘踏領內諸山,於武內村山中得良土,遂初開窯(家信之保護與資助不待言)。然觀黒牟田、內田與周邊諸古窯之作風,應為多人協力所開,非一人之功。宗傳之本據在黒牟田抑或內田,今尚有“本家”之爭。
一說謂宗傳始開黒牟田“錆谷”,繼而據廣高麗一帶,於近鄰遍築諸窯;自七曲、水無、山崎出至緒之古場,又上內田谷,經萱之谷、鐘山谷至小峠而止。此說似為強以諸窯創始歸於宗傳一人。
諸窯多建於人跡罕至之山林,首重薪水,其次為原料採掘、碎石水車之便,亦為秘技與避土人壓迫等。然謂一人獨力遍築諸窯,殊難置信。今時築一窯尚不易,昔日業者多合力共建一座連房式“登窯”。
往時“土塗窯”不用“トンバイ”(磚狀窯材),純以黏土抹築,雖乾燥費時,卻較トンバイ窯更耐久,常可用二十年。後亦有用トンバイ者,多為未燒之“生トンバイ”。
自黒牟田幸平桑畑遠眺土師場窯址,見五六坪一室者七八相聯;此處似燒擂鉢等下手物,故規模較大。鯖谷窯址亦有約二坪之室十七八級攀登;內田大谷窯址則見間口二間、縱二間半之室四十餘級,通長約一百八十米。若謂內田、黒牟田、箕手野諸窯皆宗傳一人所築,則其半生幾盡於築窯矣。
當時技術未臻,久用後屢有“燒潰し”,通火窗(オンザン)變形,非若後世可易耐火トンバイ修補,只得新築其窯。三河內後於西之嶽丸座之辻得耐火砂石,碎之篩之,入糊為赤黃色“目砂”,繼而用作耐火トンバイ原料。故耐火磚普及前,築窯頻度較後世為高。然肥前之朝鮮系窯皆連房式登窯,多者三四十室,少亦五六室,絕非尾張・濃州一帶隨薪而移之單室窯。
總之,東眞手野之內田與西眞手野之黒牟田為異系陶工,其分布窯各有系統:黒牟田系包括祇園下、幸平、高麗墓、土師場、向平、向家、物原、呉須焼、丸尾、水無、七曲、廣高麗、錆谷等;內田系包括一位之樹谷、萱之谷、鐘山谷、大谷(多々良之辻)、古屋敷、小峠前、小峠奥等。西眞手野之山崎御立目似屬黒牟田分窯;東眞手野平古場之祥古谷、杉之元、李祥古場、古郷甲之辻應屬兩系之一之分窯。西眞手野之猪之古場傳為他人所開;東眞手野之姥が原、永吉谷、宇土之谷亦為他手,多々良之西岳、安田原則為全然別系之開窯。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
该展览引发了巨大关注。开幕日,秩父宫与妃殿下台览,朝鲜李王亦出席;次日朝香宫台览。三天总观众达五千人。
翌年(昭和六年)2月17日起三日,社长本山再率大宅于内田、黒牟田古窑址发掘,获数千片残器,并新识十余处窑址。3月18日于東日社展出“第二次发掘”部分成果:白瓷、青瓷、辰砂红、窑变、瑠璃、刷毛目与象嵌等八十余件,另有百余件照片与图书,向学界公布。
4月,由關西彩壺會主办,自13日起在大阪大毎楼上举行三天展览,作为研究资料广获好评;14日恭迎久邇宮大妃与東伏見伯爵参观。
本山之发掘进一步带动近郊古窑调查热。虽有骨董嗜好者涌现,但严肃学者亦众。为探内田、黒牟田与邻近窑群之发端,叙述追溯至丰臣秀吉出兵朝鲜之时。
朝鲜役期间为补军费,诸寺也被征“战贡”。塚崎之蓬莱山廣福禅寺为九州临济重镇,贫乏难缴;且住持別宗和尚随领主家信在朝鲜,留守僧请缓未获准,遂连佛像、经卷、法器、家具皆被没收,殿宇因而荒废。別宗在韩数年专志祈祷,归来后家信奖以寺领五十石与涅槃图,并许募化重建壮观佛殿(传现存“運慶作四天王像”国宝)。別宗卒于慶長五年三月六日。
所谓“深海”疑即“金海”(Gimhae)之日译名。相传金海存鍋島军城迹,且以制陶著称,产刷毛目、方形割高台茶碗。一位来自深海(金海)的陶工随家信来日,与別宗同船抵塚崎,寓于廣福寺门前。
其与別宗之渊源未详,但敬慕其德,出家号“宗傳”,并以乡名为姓改称“深海氏”,俗称新太郎。时年三十六,随行人数未详,推测尚有同伴。驻留一年余,勘查群山,于武内村山中得宜土,首开窑业(家信资助与保护不言自明)。
然就黒牟田、内田及四邻诸窑之作风观之,应为多人合力之果,非一人独成;宗傳本拠在黒牟田抑内田,今尚争论。一说谓其先开黒牟田“錆谷”,后扩至廣高麗,处处筑窑,线路自七曲、水無、山崎至緒之古場,再上内田谷,经萱之谷、鐘山谷止于小峠;显然系将诸窑强归一人。
窑多建深山:为柴水之便、采料与水车粉碎、秘技与避压等。然一人处处筑窑难信。今筑一窑犹难,昔者常共建连房式登窑。早期“土塗窯”不用砖,仅以粘土抹筑,干燥缓慢但更耐用,可用二十年;后用“生トンバイ”亦有之。
自黒牟田幸平望土師场窑址,见五六坪一室者七八相连;鯖谷亦有二坪室十七八级;内田大谷更有二间×二间半室四十余级,总长约180米。若皆出自宗傳一人,则其半生尽于筑窑。
当时技术未熟,久用后“焼潰し”,通火窗(オンザン)变形,非如后世易耐火砖可修,唯有新建。三河内后得耐火砂石,制成“目砂”,继作耐火砖原料。故在耐火砖普及前,筑窑频仍。然肥前之朝鲜系皆多室连房登窑,常达三四十室,至少五六室,非尾张・濃州那类随柴迁徙之单室窑。
总之,東眞手野之内田与西眞手野之黒牟田为异系,其分布窑各有体系:黒牟田系有祇園下、幸平、高麗墓、土師場、向平、向家、物原、呉須焼、丸尾、水無、七曲、廣高麗、錆谷;内田系有一位之樹谷、萱之谷、鐘山谷、大谷(多々良之辻)、古屋敷、小峠前、小峠奥。西眞手野山崎御立目似为黒牟田分窑;東眞手野平古場之祥古谷、杉之元、李祥古場、古郷甲之辻应属两系之一。西眞手野猪之古場传为他人所开;東眞手野姥が原、永吉谷、宇土之谷亦属他手;多々良之西岳、安田原则为完全别系之创窑。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
該展覽引起巨大關注。開幕日秩父宮與妃殿下台覽,朝鮮李王亦出席;次日朝香宮台覽。三日總觀眾達五千人。
翌年(昭和六年)2月17日起三日,社長本山再率大宅於內田、黒牟田古窯址發掘,獲數千片殘器,並新識十餘處窯址。3月18日於東日社展出“第二次發掘”部分成果:白瓷、青瓷、辰砂紅、窯變、瑠璃、刷毛目與象嵌等八十餘件,另有百餘件照片與圖書,向學界公布。
4月,由關西彩壺會主辦,自13日起在大阪大毎樓上舉行三日展覽,作為研究資料廣獲好評;14日恭迎久邇宮大妃與東伏見伯爵參觀。
本山之發掘進一步帶動近郊古窯調查熱。雖有骨董嗜好者湧現,但嚴肅學者亦眾。為探內田、黒牟田與鄰近窯群之發端,敘述追溯至豐臣秀吉出兵朝鮮之時。
朝鮮役期間為補軍費,諸寺亦被徵“戰貢”。塚崎之蓬萊山廣福禪寺為九州臨濟重鎮,貧乏難繳;且住持別宗和尚隨領主家信在朝鮮,留守僧請緩未獲准,遂連佛像、經卷、法器、家具皆被沒收,殿宇因而荒廢。別宗在韓數年專志祈禱,歸來後家信獎以寺領五十石與涅槃圖,並許募化重建壯觀佛殿(傳現存“運慶作四天王像”國寶)。別宗卒於慶長五年三月六日。
所謂“深海”疑即“金海”(Gimhae)之日譯名。相傳金海存鍋島軍城跡,且以製陶著稱,產刷毛目、方形割高臺茶碗。一位來自深海(金海)的陶工隨家信來日,與別宗同船抵塚崎,寓於廣福寺門前。
其與別宗之淵源未詳,但敬慕其德,出家號“宗傳”,並以鄉名為姓改稱“深海氏”,俗稱新太郎。時年三十六,隨行人數未詳,推測尚有同伴。駐留一年餘,勘查群山,於武內村山中得宜土,首開窯業(家信資助與保護不言自明)。
然就黒牟田、內田及四鄰諸窯之作風觀之,應為多人合力之果,非一人獨成;宗傳本據在黒牟田抑內田,今尚爭論。一說謂其先開黒牟田“錆谷”,後擴至廣高麗,處處築窯,路線自七曲、水無、山崎至緒之古場,再上內田谷,經萱之谷、鐘山谷止於小峠;顯然係將諸窯強歸於一人。
諸窯多建深山:為柴水之便、採料與水車粉碎、祕技與避壓等。然一人處處築窯難信。今築一窯猶難,昔者常共建連房式登窯。早期“土塗窯”不用磚,僅以黏土抹築,乾燥緩慢但更耐用,可用二十年;後用“生トンバイ”亦有之。
自黒牟田幸平望土師場窯址,見五六坪一室者七八相連;鯖谷亦有二坪室十七八級;內田大谷更有二間×二間半室四十餘級,總長約180米。若皆出自宗傳一人,則其半生盡於築窯。
當時技術未熟,久用後“燒潰し”,通火窗(オンザン)變形,非如後世易耐火磚可修,唯有新建。三河內後得耐火砂石,制成“目砂”,繼作耐火磚原料。故在耐火磚普及前,築窯頻仍。然肥前之朝鮮系皆多室連房登窯,常達三四十室,至少五六室,非尾張・濃州那類隨柴遷徙之單室窯。
總之,東眞手野之內田與西眞手野之黒牟田為異系,其分布窯各有體系:黒牟田系有祇園下、幸平、高麗墓、土師場、向平、向家、物原、呉須焼、丸尾、水無、七曲、廣高麗、錆谷;內田系有一位之樹谷、萱之谷、鐘山谷、大谷(多々良之辻)、古屋敷、小峠前、小峠奥。西眞手野山崎御立目似為黒牟田分窯;東眞手野平古場之祥古谷、杉之元、李祥古場、古郷甲之辻應屬兩系之一。西眞手野猪之古場傳為他人所開;東眞手野姥が原、永吉谷、宇土之谷亦屬他手;多々良之西岳、安田原則為完全別系之創窯。

