諫早系 矢上窯~現川

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【原文】[Original text]

諫早系 矢上窯

諫早町
 長崎縣北高來郡諫早町は、平坦線なる長崎への上下通路と、佐世保線及島原線への各通路の要地として、人口二万二千餘を有してゐる。往時は伊佐早と書かれ、始め南高來なる有馬氏の領地であり、西郷氏の采邑なりしが、龍造寺氏に併合されて、其支族の支配地となり、ついで鍋島氏の配下に屬したのである。諫早氏の略系左の如くである。

茶臼山焼
 茶臼山燒或は諫早の甕山焼と稱するは、慶長年間(1596-1615年)朝鮮役より歸陣せし邑主龍造寺七郎左工門家晴が伴ひりし韓人が開始せしとの口碑がある。當時幾許の人数なりしかば不明なるも、諫早に韓人の居住せしことは、今猶此處の町名に高麗小路の名が残されてゐる。而して甕山窯業地は、諫早驛より三十町を隔てし本諫早驛に近く西の郷とするところ即ち今の刑務所の近傍である。
 同地は最初より甕類や擂鉢の如き雑器のみを焼きしものの如く、當時盛んに製造せしは今の工場の隣地なる、伊佐早高城と稱せし城跡である。西の郷は西郷氏の釆地にて、城主西郷彈正少弼純久が一千町を領有し、群雄の一人として此地方に勢力を張ってゐたところである。

伊佐早城包圍
 天正四年六月(1576年)龍造寺隆信は、嬉野越後守通盆(五百町を祿す)、同淡路守通吉(三百町同)、同大和守通春(百六十町同)、吉田左エ門太夫家宗(三百十町同)を始め上瀧志摩守盛貞、徳島左工門尉等を先鋒として伊佐早に進撃した。城主西鄉石見守純堯迎へて七浦に戰ひ、敗れて伊佐早城は龍造寺軍の包圍するところとなった。又隆信の別軍平戸の松浦及び伊万里、有田、後藤の軍勢は大村を攻め、大村軍は貝の城に防戦せる時しも、純堯の別軍大村を助くるに及んで隆信は總軍を引き返へしたのである。
 天正五年龍造寺隆信は、再び西郷純堯を攻む可く大軍を起し、小川武藏守信俊、納富左馬助家景倉町左工門太夫信俊、高木左馬太輔盛房、内田紀伊守信堅、横岳兵庫頭家實、馬場肥前守鎮周を始め、大村、平戸の陣代、草野、鶴田の諸軍を以て先づ有木城を攻めて、西郷玄番允を降せしより、深堀上總介純賢和議を計らひ、純堯の次男次郎三郞純尚を以て、隆信の女婿とすることゝなり、之より全く龍造寺の配下に属したのである。

諫早領地
 天正十五年秀吉西下の折、西鄉彈正信尚出迎へざりし爲龍造寺預けとなり、以來南高來に轉住し、諫早は隆信の従兄弟孫九郎鑑の男七郎右工門家晴の采邑と成ったのである。而して家晴の子右近允直孝に至り姓を諫早と改め、北高來郡の全部(深海村古賀村を除く)の外、西彼杵郡喜々津村と矢上村及び藤津郡の多良村と大浦村を領し、表面家祿一万石と稱せられしも事實は二万二千五百石の収穫ありしといはれてゐる。

甕山事業の變遷
 茶臼山焼の原料は、此地栗面の褐色粘土にて、西郷産の地土と樫灰を釉薬に用ひしさ稱せらる。元來韓人直系の後なりしが、晩年諫早邑主の支配に帰し、藩士坂口源右工門其の監理役となった。天保五年(1835年)頃より更に事業を擴張し、安政年間(1855-1860年)には、阿蘭陀人のに感じて水を供給し頗る利潤を得しが、邑主一學の時個人に拂下ぐることゝなり、坂口家に於いて代々之を経営したのである。
 明治二年斯業彌々盛大となり、同十年には多数の製品を肥後へ輸送せしところ、恰も西南役の戰禍を受けて多くの荷物を破砕され、爾来甚だ振はざるに至った。そして當時の製品は矢張甕壺類の外擂鉢及菊鉢等が其重なる種類であつた。

土管株式會社
 明治三十年頃、當地の前代議士木下吉之亟主宰者となり、資本金十万圓の諫早甕土管製造株式會社を設立して、大いに規模を張したのである。

内田伊左衛門
 其後二三年を経て、株主の一人内田伊左衛門が、會社一切の業務を引請けて個人經營となり、鐵道用や灌漑用等の土管製作を主として、年産額二万除圓を繋げ居りしも、彼の政府が緊縮政策の普及は、一般に土木事業や耕地整理等の休止となり、近來頗る不振の狀態である。
(現工場主牛一は伊左エ門の男である)

土師野尾
 土師野尾は、北高来郡小栗村栗面の一村落にて、戸數百十七戸あり、諫早驛より西二里餘を隔て山間なる、八天岳の麓にある古窯跡である。此地古來土師野尾の名あるより、必ず製陶の遺跡ある可しと察し、土師野尾小學校長松尾春吉等は豫て探索せし折から、昭和八年十月二十四日武雄町の古窯家金原京一に依って始めて之が確かめられたのである。

土師野尾古窯品
 發見されし窯跡は、中通の通路端なる樫の木林(小栗村々長山口岩松所有林地)に七尺長さ十五間の登窯跡である。而して現場は古葉の堆積せるのみにて、窯具さへ散見せざる程なるも、実際發掘されし殘缺には、古唐津風の金茶釉や黄瀬戸及び天目並に鼈甲釉などの茶碗があり、又緣淵や九淵の小皿等がある。
 又片口や壺及び七八寸以上の大皿の如きも製作されてゐる。それが何れも無釉高臺であり、そして茶碗や小皿の高臺内が篦ゑぐりにて三日月形に成ったのがある。就中珍らしきは擂鉢の外部面を黒茶にて施釉せしものであつた。そして胎土は褐色物もあるが、概して灰色地質の炻器に近きもの多く、作風は慶長年間より稍後代に属するさいふ説がある。

土師野尾開窯者の疑問
 此栗面地方多く粘土に富み、農作物の如きも土師野尾米と稱して良質にしてゐる。而して最初此地の粘土を探見せしは朝鮮役歸陣の際、邑主家晴が帶同せし韓人ならんとの説あるも、なほ地理的に研究すれば、此地より江の浦の海岸まで、僅が一里にして達することも一考の価値かある。
 故に若しや韓人の一行が、難船漂泊して江の浦へ上陸し、而して後此土師野尾へ潜入せしにはあらざるかとの考察も、強ち牽強附會さのみ断すへきではない。但し此陶山創業に就ていては、勿論邑主諫早氏の保護に成りしものであらう。

瀬古皿山
 瀬古皿山は、今の西彼杵郡喜々津より二里を隔てし矢上村の一集落にて矢上宿より五六丁東の山間である。此處は往昔僧空海(弘法大師)の開基と稱せらるゝ通の觀音を祀れる霊場にて、此地皿山の創業はいつの時代なるや詳ならねど、安永(1772-1781年)或は天明(1781-1789年)の頃ならんといはれてゐる。

藤本納吉
 其後一旦廢絶に歸せしを、諫早邑主は地元の有力者藤本納吉に命じて、之が復舊を計しかば、納吉は拮倨勉勵、途に瀬古焼の中興者となつた。斯くて彼は文政年間(1818-1831年)に卒し、其子伊助孫市次いで家を継ぎ、今曾孫笹一なるもの臺北に住してゐる。
 元來瀬古の製陶は、諫早邑主が領土内の日用雑器を製作しむる爲めに、奬勵せしもの如く、従つて其産額に於いても頗る僅少なりしと稱せらる。此地明治の初年頃迄は、古窯の登歷然とて存し、藩制時代の庄屋が、土地臺帳へ字皿山として附記し置きしも、明治九年地租改正の時地券の實測をなし、其際より古窯も取毀されて、今や全く耕地と成ったのである。

瀬古の古窯品
 製品は天草石の下級物を主料として染附の下手物磁器を焼きしもの如く、種類は食器、煎茶々碗、神佛用花立等である。

瀬古の瑠璃釉
 又地質の清白ならざる故か、呉洲顔料を以て、濃諸種の瑠璃釉を應用せしものが多く焼かれてゐる。就中此地の高山普賢岳に、奉祀せる普賢菩薩にありし尺餘の御神酒瓶一對は寛政年間(789-1801年)前記の納吉が奉献せしものにて、中濃瑠璃釉の上に無垢金にて舞ひ鳳凰を書き、裏に藤本納吉と記されてある。蓋し彩金の上繪附だけは、有田か三河内かに依囑せしものであるらしい。

矢上村
 優秀なる陶器の産地なりし現川は、西彼杵郡矢上村の一集落である。抑矢上の地は、元島原の有馬仙巌の旗下矢上伯耆守の采邑にて、二百町を領有しが、龍造寺隆信に降るに及び、終に諫早氏の領地となり、矢上分にて二百石の探收地とされてあつた。此地喜々津驛より二里、長崎市より三里の行程なるも、往時より長崎砲台警備の要地帯とされてあった。

現川
 喜々津方面よりすれば、矢上宿の入口な平間より右曲して山間に入ること半里餘り、海抜千六百七十三高地にて、戸數百四十戸の閑静なる一農村が現川である。此地四面山岳にて圍まれたる溪間にあるも、玄洋に於ける鎮海の要港の如く、當時長崎街道警備の士を配置して、常時守備に當らせしが故に、今も給人川内などの小字名が残されてゐる。
 抑現川燒は、朝鮮役の折島原城主有馬晴信に、従ひ來りし韓人が開窯し、其後打絶えしを、寛永年間(1624-1645年)一度再興され、慶安年間(1648-1652年)また此地の田中利右工門復興せんが、幾許もなく廢窯し、寛文年間(1661-1673年)重富之亟他山の工人を招きて復舊せしも、これ幾年ならずして廢絶に歸せしさの諸説がある。蓋以上の事蹟に就いてはなほ大いに研究の餘地があらう。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

諫早町は、長崎への幹線や佐世保線・島原線への連絡の要地として発展し、人口は約二万二千人である。古くは「伊佐早」と書かれ、南高来の有馬氏の領地、その後は西郷氏の采地であったが、龍造寺氏に併合されて支族の支配地となり、やがて鍋島氏の配下に入った。諫早氏の系譜はその流れに沿う。

茶臼山焼(甕山焼)は、慶長年間に朝鮮出兵から帰国した邑主・龍造寺七郎左工門家晴が伴った韓人が始めたという伝承がある。人数は不詳だが、諫早に韓人が住んだ証として、町名に今も「高麗小路」が残る。甕山の窯場は本諫早駅近くの西の郷、現在の刑務所付近で、当初は甕や擂鉢などの日用雑器を焼いた。隣地の伊佐早高城跡での製造が盛んで、西の郷は西郷氏の采地、城主西郷弾正少弼純久が千町を領して勢力を誇った。

天正四年(1576)六月、龍造寺隆信は嬉野通盆・通吉・通春、吉田家宗らを先鋒に伊佐早へ進軍。城主西郷純堯は七浦で迎撃するも敗れ、城は包囲された。別働隊は平戸松浦や伊万里・有田・後藤勢とともに大村を攻め、大村方が貝の城で抗戦していたところ、純堯の援軍が大村を助けたため、隆信は全軍をいったん引き返した。

天正五年、隆信は再度西郷純堯を討つべく大軍を起こし、有木城を攻めて西郷玄番允を降伏させた。深堀純賢が和議を進め、純堯の次男・次郎三郎純尚が隆信の婿となり、以後この地は完全に龍造寺の配下となった。

天正十五年、秀吉の西下時に西郷弾正信尚が出迎えず、龍造寺預かりとなって南高来へ移転。諫早は隆信の従兄弟・孫九郎鑑の子、七郎右工門家晴の采邑となった。家晴の子・右近允直孝の代に姓を「諫早」と改め、北高来郡一帯(深海村・古賀村を除く)と西彼杵郡の喜々津村・矢上村、藤津郡の多良村・大浦村を領した。表向きは一万石だが、実収は二万二千五百石あったと言われる。

茶臼山焼の原料は栗面の褐色粘土で、西郷産の土と樫灰を釉薬に用いた。もと韓人直系の運営だったが、のちに諫早領主の管理下となり、藩士の坂口源右工門が監督役となる。天保五年(1835)頃から事業拡大し、安政期にはオランダ人向けに水を供給して大きな利益を得たが、邑主一學の時代に民間へ払い下げられ、坂口家が代々経営した。

明治二年にはさらに盛んになったが、明治十年に肥後へ大量出荷した製品が西南戦争の戦禍で破損し、以後は低迷。製品は甕・壺、擂鉢や菊鉢が主だった。明治三十年頃、元代議士の木下吉之亟が中心となり、資本金十万円の「諫早甕土管製造株式会社」を設立して規模を拡大。

数年後、株主の内田伊左衛門が事業一切を引き受け個人経営に転じ、鉄道・灌漑用の土管製作を主力として年産約二万円の売上を維持したが、政府の緊縮で土木・耕地整理が停滞し、近年は不振となった(現工場主の牛一は伊左衛門の子)。

土師野尾は北高来郡小栗村栗面の集落で、諫早駅から西へ二里余、八天岳の麓にある古窯跡である。地名から陶業遺跡の存在が推測され、土師野尾小学校長の松尾春吉らが探索。昭和八年(1933)十月二十四日、武雄町の古窯研究者・金原京一によって初めて確認された。

発見窯跡は中通りの端、樫林(小栗村長・山口岩松所有)にある長さ十五間、幅七尺の登窯跡。現場は落葉が堆積し、窯道具もほとんど見当たらないが、発掘片には古唐津風の金茶釉、黄瀬戸、天目、鼈甲釉の茶碗、縁淵・九淵の小皿が含まれる。片口、壺、七八寸超の大皿も作られ、いずれも無釉の高台で、茶碗や小皿の高台内は篦でえぐった三日月形が見られる。珍しいものとして、擂鉢外面に黒茶釉を施した品がある。胎土は褐色もあるが、概して灰色で炻器質に近く、作風は慶長期よりやや後代に属するとされる。

この栗面一帯は粘土が豊富で、米も「土師野尾米」と称される良質の産地。最初に粘土を見出したのは朝鮮役からの帰還時に家晴が伴った韓人だという説がある。一方で、ここから江の浦の海岸まで一里ほどで到達できる地理から、難船した韓人が江の浦に上陸し、のちに土師野尾へ移った可能性も否定できない。創業はいずれにせよ邑主・諫早氏の保護によるものだろう。

瀬古皿山は、喜々津から二里離れた矢上村の一集落で、矢上宿の東五六丁の山間。古くから空海(弘法大師)ゆかりと伝わる観音を祀る霊場で、皿山創業の時期は不詳だが、安永(1772–1781)または天明(1781–1789)の頃とされる。

のちに一度廃絶したが、諫早領主が地元の有力者・藤本納吉に復興を命じ、納吉は努力を重ねて瀬古焼の中興となった。文政期(1818–1831)に没し、子の伊助・孫市が継ぎ、今は曾孫の笹一が台北に住むという。瀬古の製陶は領内の日用雑器製作を奨励したもので、生産量は多くなかった。明治初年までは登り窯が残り、庄屋が地帳に「字皿山」と記していたが、明治九年の地租改正で実測・地券交付が行われ、古窯は取り壊され耕地となった。

製品は天草石の下級材を主原料とする染付の普及品磁器で、食器、煎茶碗、神仏用の花立など。地が純白でないためか、呉洲の顔料で濃い瑠璃釉を多用した作が目立つ。就中、普賢岳に奉る普賢菩薩の御神酒瓶一対(尺余)は寛政期(1790–1801)に藤本納吉が奉献したもので、中濃の瑠璃釉に無垢金で舞う鳳凰を描き、裏に「藤本納吉」とある。金彩の上絵は有田か三川内に外注したらしい。

現川は、西彼杵郡矢上村の集落で、優れた陶器の産地として知られた。もと島原の有馬仙巌の旗下、矢上伯耆守の采邑(二百町)であったが、龍造寺隆信に降り、のちに諫早氏の領地となり、矢上分として二百石の収納地とされた。喜々津駅から二里、長崎市から三里の位置で、古くから長崎砲台警備の要地帯である。

喜々津側からは矢上宿入り口の平間で右折し、山間へ半里余。海抜一六七三の高地に戸数百四十戸の静かな農村が現川で、四方を山に囲まれた谷あいにある。長崎街道の警備兵が常駐した名残で、「給人川内」のような小字名が残る。現川焼は、朝鮮役の折に島原城主・有馬晴信に従って来た韓人が開窯し、その後いったん絶えたが、寛永期に再興。慶安期には田中利右工門が復興を試みるも長続きせず、寛文期には重富之亟が他山の工人を招いて再興したが、これも程なく廃絶したという諸説が伝わる。これらの事跡は、なお検討の余地がある。


【英語訳】[English translation]

Isahaya Town developed as a key junction connecting Nagasaki’s main route with the Sasebo and Shimabara lines, with a population of about 22,000. Formerly written “Isasaya,” it was first the domain of the Arima clan of Minamikonogi, then a fief of the Saigō clan, later incorporated by the Ryūzōji and ultimately under the Nabeshima. The genealogy of the Isahaya family follows this trajectory.

Chausuyama ware—also called Okeyama ware of Isahaya—was, according to tradition, begun in the Keichō era by Koreans who returned with Lord Ryūzōji Shichirōzaemon Ieharu from the Korean campaigns. Though numbers are unknown, the presence of Koreans is attested by the toponym “Kōrai Kōji.” The kiln site lay at Nishi-no-gō near Hon-Isahaya Station (today near the prison). Early production focused on jars and mortars; vigorous manufacture also occurred beside the Isasaya Takashiro castle ruins. Nishi-no-gō was Saigō land, where Saigō Danjō Shōhitsu Sumihisa held a thousand chō and wielded power.

In June 1576 (Tenshō 4) Ryūzōji Takanobu advanced on Isasaya with vanguard leaders including Ureshino Michimori, Michiyoshi, Michiharu, and Yoshida Iesō. Lord Saigō Sumitaka met them at Shichiura, was defeated, and the castle was besieged. A separate Ryūzōji force attacked Ōmura alongside forces from Hirado, Imari, Arita, and Gotō; when Sumitaka’s detachment aided Ōmura at Kai-no-jō, Takanobu withdrew.

In 1577 (Tenshō 5) Takanobu raised a larger army, first taking Ariki Castle and forcing Saigō Genban to submit. Negotiations by Fukabori Sukekata led to Sumitaka’s second son, Jirōsaburō Suminao, marrying Takanobu’s daughter, placing the area firmly under Ryūzōji control.

In 1587 (Tenshō 15), when Hideyoshi marched west, Saigō Danjō Nobunao failed to greet him and was placed under Ryūzōji custody, relocating to Minamikonogi. Isahaya became the fief of Takanobu’s kinsman Ieharu. His son Naotaka later adopted the surname Isahaya, ruling nearly all of Kitakonogi (except Fukai and Koga), plus Kikitsu and Yagami in Nishisonogi and Tara and Ōura in Fujitsu. Though nominally 10,000 koku, the harvest was said to reach 22,500.

Chausuyama’s material was brown clay from Kurimen, using Saigō local earth and oak ash glazes. Initially run by Korean descendants, the enterprise came under the Isahaya lord; retainer Sakaguchi Gen’emon supervised. From 1835 it expanded, and in the Ansei era supplied water to Dutch clients, earning profits. Under Lord Ichigaku it was sold into private hands, and the Sakaguchi family managed it thereafter.

By 1869 it prospered further, but in 1877 shipments to Higo were shattered amid the Satsuma Rebellion, leading to decline. Main products remained jars, mortars, and chrysanthemum planters. Around 1897, former Diet member Kinoshita Kichinojō organized the Isahaya Jar & Earthen Pipe Manufacturing Co., capitalized at ¥100,000.

A few years later, shareholder Uchida Izaemon took over, shifting to private management and focusing on railway and irrigation pipes, maintaining about ¥20,000 annual output. With government austerity halting civil and land projects, business weakened (the current proprietor Ushikazu is his son).

Hajino-o, a settlement in Kurimen, Oguri Village, lies over two ri west of Isahaya Station at the foot of Mt. Hatten. Suspecting ceramic remains from the toponym, Principal Matsuo Harukichi and others searched; on Oct 24, 1933, kiln specialist Kanahara Kyōichi confirmed the site.

The discovered kiln remains are a 15-ken long, 7-shaku wide climbing kiln in an oak grove. Though mostly covered with leaf litter and few kiln tools in situ, excavated sherds include tea bowls in karatsu-like golden-brown, Ki-Seto, Tenmoku, and tortoiseshell glazes, as well as small dishes with rimled or deep wells. Pourers, jars, and large dishes (7–8 sun or more) were also made, all with unglazed footrings; some footwells are crescent-scraped with a spatula. Notably, mortars with black-brown exterior glaze were found. The body tends toward gray stoneware, sometimes brown, stylistically slightly later than Keichō.

Kurimen abounds in clay, famed for “Hajino-o rice.” One theory holds that Koreans accompanying Ieharu after the Korean campaigns first located the clay; geographically, the coast at E no Ura is only about one ri away, allowing another hypothesis that shipwrecked Koreans landed there and later moved inland to Hajino-o. Either way, the pottery likely grew under the Isahaya lords’ patronage.

Seko Sarayama, a hamlet of Yagami Village two ri from Kikitsu and five to six chō east of Yagami-juku, is a sacred site venerating Kannon said to be founded by Kūkai. Its pottery origin is unclear, but likely dates to An’ei (1772–1781) or Tenmei (1781–1789).

After a period of abandonment, the Isahaya lord ordered local notable Fujimoto Nōkichi to restore it; through diligence he revived Seko ware. He died in the Bunsei era (1818–1831). His heirs Isuke and Magoichi succeeded, and a great-grandson Sasaichi now lives in Taipei. Seko production, encouraged for household wares within the domain, was limited. Up to early Meiji the climbing kiln remained, noted in land records as “Aza Sarayama,” but during the 1876 land-tax reform, surveys led to its demolition and conversion to fields.

Products were modest underglaze-blue porcelains using lower-grade Amakusa stone: tableware, sencha cups, and ritual flower vases. Because the clay was not purely white, many pieces used rich cobalt-blue glazes (ruri). A notable pair of sake bottles offered to the Bodhisattva Fugen at Mt. Fugen in the Kansei era bears dancing phoenixes in pure gold over a medium ruri glaze with “Fujimoto Nōkichi” inscribed; the overglaze gilding was likely commissioned in Arita or Mikawachi.

Utsutsugawa, once a fine pottery center, is a settlement of Yagami Village. Originally a 200-chō fief under Arima Sengan’s retainer Yagami Hōki-no-kami, it later fell to Ryūzōji Takanobu and then the Isahaya, assessed at 200 koku. It lies two ri from Kikitsu and three ri from Nagasaki, long a strategic belt for coastal batteries.

From Hirama at the entrance of Yagami-juku, one turns right into the mountains for over half a ri to reach Utsutsugawa, a quiet farming village of 140 households at elevation 1,673. Encircled by mountains, it hosted guards on the Nagasaki highway—hence place names like Kyūnin-gawachi. Utsutsugawa ware was begun by Koreans who came with Lord Arima Harunobu during the Korean campaigns; after lapses, it was revived in Kan’ei, attempted again in Keian by Tanaka Riemon but soon ceased, and once more in Kanbun by Shigetomi no Jō inviting craftsmen—yet each revival was short-lived. Further study of these accounts remains desirable.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

諫早町是連接長崎幹線與佐世保線、島原線的交通要衝,人口約二萬二千。古稱「伊佐早」,先屬南高來的有馬氏,後為西鄉氏采邑,繼而併入龍造寺氏,最終歸屬鍋島氏。諫早氏的系譜沿此而變化。

茶臼山烧(亦稱甕山烧)傳為慶長年間由隨龍造寺七郎左工門家晴歸國的韓人創始。今地名仍留「高麗小路」,證明當時韓人居住。窑場在本諫早驛近旁的西之鄉(今刑務所附近),初期以甕、擂鉢等日用品為主,鄰接伊佐早高城址的製作尤盛。

天正四年,龍造寺隆信進攻伊佐早,西鄉純堯於七浦迎戰敗退,城被包圍。別軍轉攻大村,因純堯援助大村,隆信收兵。翌年再起大軍,先克有木城,經和議使純堯次子純尚為隆信婿,自此歸龍造寺。

天正十五年豐臣秀吉西下時,西鄉信尚未迎,被付龍造寺管理而移居南高來;諫早則為家晴采邑。其子直孝改姓「諫早」,領北高來大部與喜々津、矢上、多良、大浦等村。表稱一萬石,實收約二萬二千五百石。

茶臼山烧用栗面褐色黏土,釉採西鄉土與樫灰。最初由韓人後裔經營,後歸諫早領主管理,藩士坂口源右工門監督。天保期擴張,安政期向荷蘭人供水而獲利,後在一學時期改為民營,由坂口家經營。明治二年益盛,然明治十年運往肥後的貨品遭西南戰爭破壞,此後轉衰,產品以甕壺、擂鉢、菊鉢為主。

明治三十年前後創設「諫早甕土管製造株式會社」(資本金十萬圓)。數年後內田伊左衛門承擔全部業務改為個人經營,主製鐵道與灌溉用土管,年額約二萬圓;但政府緊縮導致土木與耕地整理停滯,近年不振(現主牛一為其子)。

土師野尾位於小栗村栗面,諫早驛西二里餘,八天岳麓之古窑址。因地名推測有遺跡,小學校長松尾春吉等探查,昭和八年由金原京一確認。遺址為長十五間、寬七尺的登窑。雖多落葉覆蓋,出土殘片見古唐津風金茶釉、黃瀬戶、天目、玳瑁釉茶碗,及緣淵、九淵小皿;亦有片口、壺與七八寸以上大皿。多為无釉高臺,高臺內見篦削成弦月;罕見者為外面施黑茶釉之擂鉢。胎土多灰色,近炻器,作風略晚於慶長。

栗面黏土豐富,產米稱「土師野尾米」。或云最初為家晴所攜韓人發見;又以至江之浦僅一里,或係遇難韓人先登陸江之浦後入此地。創業應受諫早氏保護。

瀬古皿山在矢上村,距喜々津二里,矢上宿東五六町之山間,為供奉弘法大師因緣觀音之靈地。創業時期未詳,約在安永或天明年間。其後一度廢絕,領主命藤本納吉復興,遂為中興之祖;文政年間卒,子伊助、孫市承家,曾孫笹一今居臺北。產量不多,明治初尚存登窑,地帳記作「字皿山」,明治九年地租改正實測後拆窑為耕地。

製品多以天草石下級料燒成青花瓷,為食器、煎茶碗、神佛花立。因胎質不潔白,多施濃瑠璃釉。寬政年間奉普賢岳之御神酒瓶一對,瑠璃釉上以真金畫舞鳳凰,背署「藤本納吉」,金彩或托付於有田或三川內。

現川為矢上村聚落,舊為有馬仙巌旗下矢上伯耆守采邑(二百町),後屬龍造寺、再歸諫早,作二百石收地。距喜々津二里、長崎三里,為砲台警備要地。自平間入山半里餘達現川,標高一六七三,約一百四十戶之靜村。長崎街道曾置警備,故存「給人川內」等小字。現川烧由隨有馬晴信來日之韓人開窑,後屢興廢:寬永再興、慶安田中利右工門復興未久而廢、寬文重富之亟延工再興亦不久。此諸事蹟仍待研究。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

諫早町為連接長崎幹線與佐世保線、島原線之交通要衝,人口約二萬二千。古稱「伊佐早」,先屬南高來之有馬氏,後為西鄉氏采邑,繼併入龍造寺氏,終歸鍋島氏。諫早氏系譜因而演變。

茶臼山燒(亦稱甕山燒)傳為慶長年間由隨龍造寺七郎左工門家晴返國之韓人創始。今尚存「高麗小路」為證。窯場在本諫早驛近旁之西之鄉(今刑務所附近),初燒甕、擂鉢等日用器,鄰接伊佐早高城址之製作尤盛。

天正四年,龍造寺隆信攻伊佐早,西鄉純堯於七浦敗退,城遂被圍。別軍轉攻大村,因純堯援大村,隆信收軍。翌年復舉大軍,先克有木城,議和使純堯次子純尚為隆信婿,遂歸龍造寺。

天正十五年豐臣秀吉西下時,西鄉信尚不迎,付龍造寺管,移於南高來;諫早為家晴采邑。其子直孝改姓「諫早」,領北高來大部及喜々津、矢上、多良、大浦等村。名目一萬石,實收約二萬二千五百石。

茶臼山燒用栗面褐色黏土,釉用西鄉土與樫灰。初由韓人後裔經營,後歸諫早領主管理,藩士坂口源右工門監督。天保期擴張,安政期向荷蘭人供水而獲利,後於一學時期民營化,由坂口家經營。明治二年益盛,然明治十年運往肥後之貨遭西南戰爭破損,遂轉衰,產品以甕壺、擂鉢、菊鉢為主。

明治三十年前後創立「諫早甕土管製造株式會社」(資本金十萬圓)。數年後內田伊左衛門承接全業務,改為個人經營,主製鐵道與灌溉土管,年額約二萬圓;因政府緊縮,土木與耕地整理停滯,近年不振(現主牛一為其子)。

土師野尾在小栗村栗面,距諫早驛西二里餘,八天岳麓之古窯址。因地名推測有遺跡,小學校長松尾春吉等探查,昭和八年由金原京一確認。遺址為長十五間、寬七尺之登窯。雖多落葉覆蓋,出土殘片見古唐津風金茶釉、黃瀬戶、天目、玳瑁釉茶碗,及緣淵、九淵小皿;亦有片口、壺與七八寸以上大皿。多为無釉高臺,高臺內見篦削成弦月;罕見者為外施黑茶釉之擂鉢。胎土多灰色,近炻器,作風略晚於慶長。

栗面黏土豐富,所產米稱「土師野尾米」。或云最初由家晴所攜韓人發見;又以至江之浦僅一里,或為遇難韓人先登陸江之浦後入此地。創業應受諫早氏庇護。

瀨古皿山位於矢上村,距喜々津二里,矢上宿東五六町山間,為供奉弘法大師因緣觀音之靈場。創業時期不詳,約在安永或天明年間。其後一度廢絕,領主命藤本納吉復興,遂為中興之祖;文政年間卒,子伊助、孫市承家,曾孫笹一今居臺北。產量不多,明治初尚存登窯,地帳記為「字皿山」,明治九年地租改正實測後拆窯為耕地。

製品多以天草石下級料燒成青花瓷,為食器、煎茶碗、神佛花立。因胎質不潔白,多施濃瑠璃釉。寬政年間奉普賢岳之御神酒瓶一對,瑠璃釉上以真金繪舞鳳凰,背書「藤本納吉」,金彩或委於有田或三川內。

現川為矢上村聚落,昔為有馬仙巌旗下矢上伯耆守采邑(二百町),後屬龍造寺,再歸諫早,為二百石收地。距喜々津二里、長崎三里,為砲台警備要地。自平間右轉入山半里餘至現川,標高一六七三,約一百四十戶之靜村。長崎街道曾置警備,故存「給人川內」等地名。現川燒由隨有馬晴信來日之韓人開窯,後屢興廢:寬永再興、慶安田中利右工門復興未久而廢、寬文重富之亟延工再興亦不久。相關事跡仍宜研討。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

諫早町作为连接长崎主干道与佐世保线、岛原线的交通节点,人口约二万二千。昔称「伊佐早」,先属有马氏,后归西乡氏,再入龙造寺并终属锅岛。

茶臼山烧据传由随龙造寺家晴自朝鲜役归来的韩人于庆长年间创建。「高丽小路」地名见证了韩人居住。窑址在本諫早站附近的西之乡,初烧甕与擂钵,毗邻伊佐早高城遗址的生产尤盛。

1576年龙造寺隆信攻伊佐早,西乡纯堯败于七浦,城被围。次年再战,先取有木城,经和议以纯堯次子纯尚入赘,遂归龙造寺。1587年秀吉西下,西乡信尚未迎,被监管而移居南高来;諫早为家晴采邑,其子直孝改姓「諫早」,领北高来诸村,实收约二万二千五百石。

茶臼山烧用栗面褐色黏土与樫灰釉,最初由韩人后裔经营,后由藩士坂口源右工门监督。天保期扩张,安政期向荷兰人供水获利,后民营化为坂口家经营。明治十年发往肥后的货在西南战争中毁损,产业转衰。明治三十年创设「諫早甕土管制造株式会社」,继而由内田伊左卫门接手,专制铁路与灌溉土管,年额约二万圆;政府紧缩致事业不振。

土师野尾在小栗村栗面,距諫早站西二里余,八天岳麓。1933年金原京一确认登窑遗址,长十五间、宽七尺。出土有古唐津风金茶釉、黄濑户、天目、玳瑁釉茶碗与小皿,亦有片口、壶、大皿;多为无釉高台,台内有弦月形篦痕。胎土偏灰、近炻器,风格稍晚于庆长。

栗面黏土丰富,「土师野尾米」闻名。或谓为随家晴之韩人所发现;因距江之浦仅一里,亦可能韩人遇难登岸后移入。应受諫早氏庇护而成。

瀬古皿山位于矢上村,为供奉与空海相关观音的灵地,创始约在安永或天明年间。后由藤本纳吉奉命复兴,成中兴;文政期卒,子嗣继承;产量有限,明治初仍存登窑,明治九年地租改正后拆除为耕地。制品多为以天草石下级料烧成的青花瓷器,常施浓琉璃釉。寛政年间奉献普贤岳御神酒瓶一对,琉璃釉上以真金绘凤凰,或由有田或三川内代工。

現川为矢上村聚落,旧属有马仙巌旗下,后归龙造寺,再属諫早。距喜々津二里、长崎三里。现川烧由随有马晴信来日之韩人开窑,后屡兴废:寛永再兴、庆安与寛文的复兴均不久而止,仍待研究。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

諫早町作為連接長崎主幹道與佐世保線、島原線之樞紐,人口約二萬二千。昔稱「伊佐早」,先屬有馬氏,後歸西鄉氏,再入龍造寺,終隸鍋島。

茶臼山燒傳為慶長年間隨龍造寺家晴自朝鮮役歸來之韓人創辦。「高麗小路」地名證明其跡。窯址在本諫早站附近西之鄉,初燒甕與擂鉢,鄰接伊佐早高城址之製作尤盛。

1576年龍造寺隆信攻伊佐早,西鄉純堯敗於七浦,城被圍。翌年再舉,先取有木城,議和以純堯次子純尚為婿,自此歸龍造寺。1587年秀吉西下,西鄉信尚未迎,被監而移南高來;諫早成家晴采邑,其子直孝改姓「諫早」,領北高來諸村,實收約二萬二千五百石。

茶臼山燒用栗面褐色黏土與樫灰釉,最初由韓人後裔經營,後由藩士坂口源右工門監督。天保期擴張,安政期向荷蘭人供水獲利,後民營化由坂口家經營。明治十年輸往肥後之貨於西南戰爭毀損,產業轉衰。明治三十年創設「諫早甕土管製造株式會社」,繼由內田伊左衛門接手,專製鐵道與灌溉土管,年額約二萬圓;政府緊縮致事業不振。

土師野尾在小栗村栗面,距諫早站西二里餘,八天岳麓。1933年金原京一確認登窯遺址,長十五間、寬七尺。出土有古唐津風金茶釉、黃瀨戶、天目、玳瑁釉茶碗與小皿,亦有片口、壺、大皿;多為無釉高臺,臺內見弦月形篦痕。胎土偏灰近炻器,風格稍晚於慶長。

栗面黏土豐富,「土師野尾米」著稱。或謂為隨家晴之韓人所發現;亦因距江之浦僅一里,可能為遇難韓人先登岸後移入。應在諫早氏庇護下發展。

瀨古皿山位於矢上村,為與空海相關之觀音靈地,創始約於安永或天明年間。後由藤本納吉奉命復興,成中興之祖;文政期卒,嗣子承業;產量有限,明治初仍存登窯,明治九年地租改正後拆除為耕地。製品多以天草石下級料燒成青花瓷,常施濃琉璃釉。寬政年間奉獻普賢岳御神酒瓶一對,琉璃釉上以真金繪鳳凰,或委託有田或三川內。

現川為矢上村聚落,舊屬有馬仙巌旗下,後歸龍造寺,再屬諫早。距喜々津二里、長崎三里。現川燒由隨有馬晴信來日之韓人開窯,後屢興廢:寬永再興、慶安與寬文之復興皆不久,尚待研究。