樂浪の古陶

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【原文】[Original text]

樂浪の古陶
 次に崇神天皇の十二年南部馬韓の地に建國せし百濟も亦、常に新羅の脅威に堪へす任那と共に我邦の保護の下にありしが、任那は欽明天皇の二十三年に百濟は天智天皇の二年に於いて何れも新羅の爲に滅亡するに至つたのである。而して是等韓民が、舊都樂浪時代より製陶の技に長しことは、今尚同地方より種々の雅陶が發掘さることにより明かに證することが出来る。

高麗焼の本場
 斯くて醍醐天皇の延喜十八年(918年)高勾麗國(舊高勾麗は崇神天皇の六十一年建國)を再建せし王建は、朱雀天皇の承平五年(935年) 新羅を亡ぼして都を開城に定めたのである。此開城 (一に松都といふ京畿道)を中心として韓半島の各所に於て製作されしもの之れ則ち雅致なる高麗燒である。就中全羅道康津郡大口面、及七良面郡東西、又長興郡等其主なる産地にて凡を亀山天皇の元中九年に於て、李朝を建設せし李成桂の爲めに滅ぼさるゝに至るまで、盛んに製陶されたものである。

陶技の天才
 之より國名を朝鮮とし、爾後李朝の製陶隆盛なりしも後年國勢の陵夷と共に衰退し、當時の一般工藝技術に就いては何等卓越なる藝術家なく、且其意匠の源泉たる可き名畫師とても有らざる中に、獨り陶技の工人のみ俊秀者の多かりしことを奇すべく、蓋し韓人は生れながらにして斯道の天才あるものか、それが一朝此戦役に際し悉く我邦へ浚はれたるの観を呈したのである。

韓人陶工の地位
 抑朝鮮の陶工は、樂浪以來明器(副葬品及び玩具)の製造者として彼國の賤民級に属する者多く、之等の徒は士農工商と相伍し社会に列すること能はざる身分であつた。これ恰も我王朝時代の土師なる者が、後には凶禮陵墓一切の事を掌りし故に、社会より貶められしと相似たものであらう。

韓人陶工渡来の因
 それが此際我邦に渡来すれば、各諸侯が自分の道楽と領地の産業の爲め競うて招聘し、中には世襲的の扶持さへ與へて優遇した。又韓人とても日本軍の路案内をなし或は糧秣の徵集其他敵軍への便宜を計りし者は、其儘國土に止まる能はばざる事情もあった。加ふるに此七ヶ年に渉る長き戦禍の爲め糊口に窮せる多くの韓人は、崇愛せる祖先の墳墓を棄て何れも家族を率ゐて渡せし者少からざりしものゝ如く、況んや日本に於てしかく優遇さるゝ消息が故山に傳はるに及んで、彼等の同族は鶏林八道に陶工の影なきまで渡せしとの説さへある。

薪材の缺乏
 次には山林の濫伐であつた。彼等は百年の大計よりも、十年の小計さへ畫策せぬホンの目前主義に甘んする境地にあるの止むを得なかつた。もしそれ少しにても蓄へる者あれば地方の郡吏は種々の口實を設けて強制的に搾取するを以て、貯蓄心と積極的計畫心に乏しき彼等は只眼前の必要に駆られて山林を濫伐し、敢て殖林を成さゞるより年々歳々各地の峰巒は禿頭化し、遂には根株まで發掘して凌寒炊事の資に供するに及び、殊に大量を要する製陶の燃料に於いて全く窮乏を告げし事も亦大いなる一因として敷ふ可きであらう。

重量代り
 他の半面に於ける理由としては、此戦役の際頻繁に往復する我運送船の釜山等より歸航する時に、當時の小船にては空荷の儘玄洋の波濤を乗越すことは甚困難なるを以て、その度毎に之が積荷代りして彼等を乗船せしめし如く、又其頃より釜山海邊の寺院や墓地に於ける古塔、釣鐘及燈籠或は目ぼしき石像の如きは皆搭載されて殆んど跡を断ちしてまで稱せらる。斯くて多くの韓人は何業者をとはす此機會を以て、唐津伊萬里平戸の諸港へ續々と上陸せしに相違ない。

直茂と韓人陶工
 而して地理的關係の至便なる上に一番多くの軍勢を率ゐし鍋島直茂が又多数の韓人を連歸りしとの説あるは、歸航船の頻繁なりし丈け其然るを肯定す可きも、其數幾千人なりしや將幾百人なりしやは詳でない。蓋し直茂個人しては細川忠興や蒲生氏郷又は田中吉政等の如く點茶的風流者でなく、彼が多くの生涯は龍造寺隆信の爲め九州征服の戰務に没頭し晩年には肥前領内の統整に従事して治國に寧日なき観があつた。
 故に彼が茶事風流の為に、此際多くの韓人を連らざりしは勿論として、又最初より自領の陶業企圖して彼等を帯同せしとの説は首肯するに躊躇する。彼の李参平を渡來せしめし動機の如きも全く人情として止むを得ざりしより起りし事は後段に於て詳記すべきも、李が偶然に有田泉山の磁礦を発見して始て白磁を完成せしより、髪に國産として獎勵保護の道を執りしものと見る可きであらう。
 本編は往時より、肥前の佐賀、唐津、武雄、藤津、伊萬里、平戸、大村、諫早等に渡來せし各種の韓人系を主題として、分類的に記述すべきも、此際肥前以外の諸侯が、朝鮮役後自領に於いて開窯せしめし斯系の概略を記述する。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

樂浪時代以来、朝鮮では製陶の技が優れていた。崇神天皇十二年に南部馬韓の地に建国した百濟も、常に新羅の脅威にさらされ、任那とともに日本の庇護下にあったが、任那は欽明天皇二十三年に、百濟は天智天皇二年にいずれも新羅によって滅ぼされた。とはいえ、舊都・樂浪の時代から彼の地で陶工が巧みだったことは、今も同地方から風雅な古陶が発掘される事実で明らかである。

やがて醍醐天皇の延喜十八年(918年)、王建が高勾麗國(旧高勾麗は崇神天皇六十一年の建国と伝える)を再興し、朱雀天皇の承平五年(935年)に新羅を滅ぼして都を開城(別称・松都、京畿道)に定めた。開城を中心に半島各地で作られたのが、気品ある高麗焼である。なかでも全羅道康津郡大口面・七良面郡東西・長興郡などが主産地で、亀山天皇の元中九年に李成桂が李朝を建てて高麗が滅ぶまで盛んに焼かれた。

その後、国号は朝鮮となり、李朝の製陶は隆盛したが、のちに国勢の衰えとともに下り坂となった。当時、一般の工芸分野に卓抜な芸術家はほとんどおらず、意匠の源となる名画師も乏しかったのに対して、陶工だけは俊秀が多かったのは不思議である。韓人は生来この道に天賦の才があったのか、戦役の折にはその多くが一挙に日本へ移されたかのような様相を呈した。

朝鮮の陶工は、樂浪以来、明器(副葬品や玩具)の製作に携わる賤民階層に属する者が多く、士農工商と並ぶ社会身分に列することができなかった。これは、我が王朝時代の土師がのちに葬礼・陵墓の一切を司ったために社会から卑しめられたのと似ている。

ところがこの戦乱の時期に日本へ渡れば、諸侯は自らの趣味と領国の産業振興のため競って招聘し、世襲の扶持を与えて厚遇する者もあった。また、日本軍の道案内や糧秣の徴発、その他敵軍への便宜供与に関わった者は、そのまま本国に留まれない事情もあった。加えて、七年に及ぶ長い戦禍で生活に窮した多くの韓人が、敬愛する祖先の墓を捨てて家族ぐるみで渡来したらしい。日本での優遇が故郷に伝わるに及び、同族が鶏林八道に陶工の影が絶えるほど渡った、という説さえある。

さらに山林の乱伐も大きかった。彼らは百年の大計はおろか十年の小計すら立てられず、目前主義に甘んじざるを得なかった。わずかでも蓄えれば郡吏が口実を設けて強制徴発するため、貯蓄心も計画性も育たず、当座の必要に迫られて山林を伐り続け、造林も行わないので、各地の峰々は年々はげ山と化した。ついには根株まで掘り起こして寒さをしのぎ炊事の燃料に充てる有様で、とりわけ大量の燃料を要する製陶では全くの窮乏に陥った。これもまた、渡来の大きな要因であろう。

別の側面として、戦役中に往復した日本の運送船が釜山などから帰る際、当時の小船では空荷のまま玄界灘の波を越えるのが難しかったため、しばしば「重し代わり」に人を乗せたという。また、そのころから釜山海辺の寺院や墓地の古塔・釣鐘・灯籠、目ぼしい石像なども積み込まれ、跡が絶えたとまで言われる。こうして多くの韓人が業種を問わず、この機会に唐津・伊萬里・平戸などの港へ続々と上陸したに違いない。

地理的に至便で、かつ最大の軍勢を率いた鍋島直茂が多数の韓人を連れ帰ったという説は、帰航船が頻繁だった事情からも首肯できるが、その数が数千か数百かは詳らかでない。直茂個人は細川忠興・蒲生氏郷・田中吉政のような点茶の風流人ではなく、生涯の多くを龍造寺隆信の九州平定の戦務に捧げ、晩年は肥前領内の統整に従事して、治国に暇がなかった。ゆえに茶の湯のために多くの韓人を伴ったわけではなく、また当初から自領の陶業を企図して帯同したとする説にも躊躇がある。李参平を渡来させた動機も、人情としてやむを得ない経緯から起こったことは後段に詳述するが、李が偶然に有田泉山の磁鉱を見つけ、白磁を完成してはじめて、直茂は国産としてこれを奨励・保護する道を採ったと見るべきであろう。

本編では、従来より肥前の佐賀・唐津・武雄・藤津・伊萬里・平戸・大村・諫早などに渡来した各種の韓人系を主題に分類的に記すが、ここではまず肥前以外の諸侯が朝鮮役後に自領で開窯させた系譜の概略を述べる。


【英語訳】[English translation]

Since the age of 樂浪, pottery in Korea had been highly accomplished. The polity 百濟, founded in the southern 馬韓 region in the twelfth year of 崇神天皇, long faced the pressure of 新羅 and, together with 任那, remained under Japan’s protection; yet 任那 fell in the twenty-third year of 欽明天皇, and 百濟 in the second year of 天智天皇, both to 新羅. That the people of that land excelled in ceramics from the time when 樂浪 was the old capital is demonstrated by the elegant wares still unearthed there today.

In 延喜十八年 (918) under 醍醐天皇, 王建 re-established 高勾麗國 (the old 高勾麗 being ascribed to the sixty-first year of 崇神天皇) and, in 承平五年 (935) under 朱雀天皇, destroyed 新羅 and fixed his capital at 開城 (also called 松都, in 京畿道). Centered on 開城 and produced across the peninsula, the refined wares known as 高麗焼 flourished—especially in 全羅道康津郡大口面, 七良面郡東西, and 長興郡—until 元中九年 under 亀山天皇, when 李成桂 founded the 李朝 and brought 高麗 to an end.

Thereafter the country took the name 朝鮮. Pottery under the 李朝 prospered, but later declined with national weakening. In the crafts of the time there were few outstanding artists and hardly any master painters to inspire design, whereas unusually many gifted artisans appeared in ceramics alone—perhaps a sign of innate talent among 韓人. When war came, it seemed as if these talents were swept wholesale into Japan.

Since 樂浪 times, many potters in 朝鮮, as makers of 明器 (grave goods and toys), belonged to a despised social stratum and could not stand alongside 士農工商. This resembles how the 土師 in Japan, having come to oversee funerary rites and tombs, were looked down upon by society.

When such potters crossed to Japan during the campaigns, lords vied to recruit them for personal cultivation and for developing their domains’ industries, some even granting hereditary stipends. Koreans who had guided Japanese troops, gathered provisions, or otherwise aided the invaders often could not remain at home. Moreover, the seven-year war left many in want, so that not a few abandoned the beloved graves of their ancestors and emigrated with their families. News of generous treatment in Japan spread back, and there is even a saying that so many of their kinsmen crossed over that potters disappeared from the 鶏林八道.

Another cause was rampant deforestation. People, unable to plan even a decade ahead—much less a century—lived by short-sighted necessity. Any who managed to store fuel had it seized by郡吏 under various pretexts; lacking both thrift and proactive planning, they cut the forests to meet immediate needs, neglected replanting, and year by year turned the mountains to bald hills, finally digging up stumps for warmth and cooking. Ceramic production, which needs great quantities of fuel, fell into utter scarcity—surely another powerful reason for emigration.

On a different front, during the war Japan’s transports shuttled frequently. Returning from 釜山 and the like, small vessels found it hard to ride the swells of the 玄界灘 in ballastless condition, so people were sometimes taken aboard as “weight.” From that time, ancient pagodas, bells, stone lanterns, and notable statues from seaside temples and cemeteries around 釜山 were likewise loaded, to the point that it was said little remained. Thus many Koreans of all trades seized the chance and landed in succession at 唐津, 伊萬里, 平戸, and other ports.

Because of geography and because he commanded the largest host, 鍋島直茂 is said to have brought back many Koreans. Given the frequent return sailings, this is plausible, though whether they numbered in the thousands or merely the hundreds is unknown. 直茂 himself was not a tea-connoisseur like 細川忠興, 蒲生氏郷, or 田中吉政. He spent much of his life on 龍造寺隆信’s campaigns for Kyūshū and later on consolidating the 肥前 domain, with little leisure for elegant pursuits. It follows that he did not bring many Koreans for tea-culture, and we may hesitate to believe he initially intended to found a domain pottery industry by bringing them. As for his bringing 李参平, the motive arose from humane circumstances (to be detailed later). Only after 李 chanced upon porcelain stone at 有田泉山 and completed white porcelain did 直茂 take measures to encourage and protect it as a domestic industry.

In this work, our main subject is the various Korean lineages that came to 肥前—佐賀, 唐津, 武雄, 藤津, 伊萬里, 平戸, 大村, 諫早—presented systematically. Here, however, we first outline how lords outside 肥前 established kilns in their own domains after the 朝鮮役.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

自樂浪时代以来,朝鲜的制陶技艺就很高。崇神天皇十二年在南部马韩之地建国的百濟,长期承受新羅的威压,与任那同在日本庇护之下;然而任那在欽明天皇二十三年灭亡,百濟在天智天皇二年也为新羅所亡。即便如此,自旧都樂浪时期起彼地陶工技艺精湛,这一点从当地至今仍不断出土的雅致古陶即可为证。

延喜十八年(918年),王建再兴高勾麗國(旧高勾麗据传为崇神天皇六十一年建国),承平五年(935年)灭新羅,定都開城(亦称松都,京畿道)。以開城为中心,半岛各地所制者即为高雅的高麗烧。其主产地尤在全羅道康津郡大口面、七良面郡东西、长興郡等,自此直至亀山天皇元中九年李成桂建立李朝、高丽覆亡之前,一直盛行烧造。

此后国号为朝鮮。李朝制陶曾极盛,后随国势而衰。当时一般工艺领域几乎无卓绝的艺术家,也少有可为意匠源泉的名画师,相反唯独陶工俊秀辈出,殊为可异。或谓韓人素有此道天赋;战役之际,竟呈现出群才骤然尽被移至日本之状。

朝鮮陶工自樂浪以来多为制作明器(副葬品与玩具)者,隶属贱民阶层,难以与士农工商并列为社会身分。这与我国王朝时代之土师后专掌丧礼陵墓事务而为社会所轻的情形相似。

然在战乱之际,若渡至日本,则诸侯为个人雅好与领内产业振兴竞相延聘,甚至给予世袭扶持以厚待之。又有为日本军作路向、徵发军需或对敌军提供便利者,已难以留在本土。再加七年兵燹所致生计拮据,不少韓人弃别先祖墓茔,携家渡海。日本优遇之讯传至故乡,甚至有“鶏林八道陶工影迹殆尽”之说。

山林滥伐亦为重要原因。人们无力作百年之计,乃至十年之计,唯以目前之需为务。稍有积聚,郡吏即以各种借口强行征取,致使储蓄心与积极规划皆难以培育;遂被眼前所迫恣意伐木,不行造林,群峰年年化为秃岭;乃至掘取根株以御寒炊事。尤以制陶需燃料甚众,终于全然匮乏,此亦促其渡来的要因。

另一方面,战时往返频仍之日本运送船自釜山等地回航,当时小舟空载难越玄界灘之浪,故常以“压舱”之需而载人。并且自彼时起,釜山滨寺院与墓地之古塔、钟铃、石灯,及显著石像等亦被装船,几至荡然。于是众多韓人不分行业,藉此机会相继登岸于唐津、伊萬里、平戸诸港。

地利之便且麾下兵力最多的鍋島直茂,传称亦携多名韓人归国;以归航频繁观之,可信,但其数究为数千抑或数百,已不可详。直茂其人并非細川忠興、蒲生氏郷、田中吉政之类点茶风流,生涯多耗于龍造寺隆信之九州征服,晚年又整饬肥前领内,治政多务,少有闲雅。故非为茶事而多携韓人,亦难断其始即以自领陶业为企图而带之。至于令李参平渡来之动因,乃出于人情所迫(详见后段)。李偶于有田泉山得磁矿,遂成白瓷,于是直茂始以国产之业予以奖励与保护。

本篇以肥前之佐賀、唐津、武雄、藤津、伊萬里、平戸、大村、諫早等地所渡来的諸系韓人为主题,作分类叙述;此处先述肥前以外诸侯在朝鮮役后于其领内开窑之概略。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

自樂浪時代以來,朝鮮之製陶技藝即甚精良。崇神天皇十二年於南部馬韓之地建國之百濟,長受新羅威逼,與任那同在日本庇護之下;然任那於欽明天皇二十三年、百濟於天智天皇二年皆為新羅所滅。即使如此,自舊都樂浪以來彼地陶工技巧卓絕,今仍自當地出土之雅致古陶,可為明證。

延喜十八年(918年),王建再興高勾麗國(舊高勾麗傳為崇神天皇六十一年建國),承平五年(935年)滅新羅,定都開城(亦稱松都,京畿道)。以開城為中心,半島各地所製者即為高雅之高麗燒。其主產地尤在全羅道康津郡大口面、七良面郡東西、長興郡等,自此至亀山天皇元中九年李成桂建立李朝、高麗覆亡之前,燒造甚盛。

其後國號為朝鮮。李朝製陶曾極盛,後隨國勢而衰。當時一般工藝領域罕有卓絕藝術家,亦乏可為意匠泉源之名畫師;相對之下,唯有陶工俊秀輩出,殊為可異。或謂韓人素具此道天賦;戰役之際,幾呈群才盡被移至日本之狀。

朝鮮陶工自樂浪以來多為製作明器(副葬品與玩具)者,屬賤民階層,難與士農工商並列為社會身分。此與我王朝時代之土師後專掌喪禮陵墓而為社會所卑相似。

然而戰亂之時若渡至日本,諸侯為個人雅好與領內產業振興競相延聘,甚至給予世襲扶持以厚待之。又有為日本軍導路、徵發糧秣或對敵軍提供便利者,已難留本土。加以七年兵禍致生計艱難,不少韓人棄祖塋,攜家渡海。日本優遇之訊傳回故鄉,甚至有「鶏林八道陶工幾絕其影」之說。

山林濫伐亦為要因。人們無力為百年之計,乃至十年之計,徒以目前之需為務。稍有儲蓄,郡吏輒假詞強徵,致儲蓄心與積極規劃皆難培養;遂為目前所迫恣行伐木,不事造林,群峰歲歲為禿;竟至掘根以禦寒炊事。尤以製陶需燃料甚眾,終至全然匱乏,此亦促其渡來之因。

另一方面,戰時往返頻仍之日本運送船自釜山等地回航,當時小舟空載難越玄界灘之浪,故常以「壓艙」之需而載人。且自彼時起,釜山濱寺院與墓地之古塔、鐘鐸、石燈及顯著石像等亦被裝船,幾至蕩然。於是眾多韓人不分行業,藉此機會接續登岸於唐津、伊萬里、平戶諸港。

地利之便且率兵最多之鍋島直茂,傳稱亦攜多名韓人歸國;以歸航頻仍觀之可信,然其數究為數千抑數百,已不可詳。直茂其人非細川忠興、蒲生氏郷、田中吉政之類點茶風流,生涯多耗於龍造寺隆信之九州征服,晚年又整飭肥前領內,政務繁劇,少暇風雅。故非為茶事而多帶韓人,亦難斷其初即以自領陶業為企圖而伴行。至於令李參平渡來之動因,出於人情所迫(詳見後段)。李偶於有田泉山得磁礦,遂成白瓷,直茂始以國產之業予以獎勵與保護。

本編以肥前之佐賀、唐津、武雄、藤津、伊萬里、平戶、大村、諫早等地所渡來之諸系韓人為主題而作分類敘述;此處先述肥前以外諸侯於朝鮮役後在其領內開窯之概略。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

自樂浪时代以来,朝鲜陶艺颇为精湛。建立于崇神天皇十二年的百濟长期受新羅压迫,与任那同处日本庇护之下;任那于欽明天皇二十三年覆灭,百濟于天智天皇二年亦亡于新羅。自旧都樂浪以来该地善陶,今仍出土之雅器足资证明。

延喜十八年(918年),王建再建高勾麗國(旧高勾麗传为崇神天皇六十一年所建),承平五年(935年)灭新羅,定都開城(亦称松都,京畿道)。以開城为中心遍及半岛所制之器即高麗焼,其产地尤在全羅道康津郡大口面、七良面郡东西、长興郡,自此至亀山天皇元中九年李成桂建立李朝、高丽亡国而止。

其后国号朝鮮。李朝制陶曾盛,后随国势而衰。彼时诸工艺少有卓越艺匠,亦乏名画师启发意匠;唯陶工俊秀辈出,或谓韓人天赋所然。及至战役,几若群才尽移日本。

自樂浪以来,朝鮮多陶工为明器(随葬品与玩具)之作者,属卑贱阶层,不能与士农工商比列。此颇似日本之土師因专掌葬礼陵墓而为社会所轻。

战时渡日者,则诸侯为雅好及领内产业竞相延聘,甚至给以世袭俸给。其为日本军导路、徵发军需或便利敌军者,多亦难留故土。又七年兵燹,生计维艰,不少人弃祖坟携家度海。日本优礼之闻传回,乃有“鶏林八道几无陶工”之说。

又因森林滥伐。民众无从作长计,稍有积聚即为郡吏假词强征;俭蓄与规划不立,遂以目前之需砍伐不止,不植林,群山渐秃,竟挖根株以御寒炊事。制陶需燃料尤多,故陷于匮乏,此亦促其东渡之因。

另一方面,战时往返之运送船自釜山回航,小舟空载难越玄界灘,故以“压舱”之需而载人。其时釜山滨寺墓之古塔、钟、石灯、显著石像亦多装船,几至荡然。于是众多韓人乘隙相继登陆唐津、伊萬里、平戸等港。

鍋島直茂因地利且兵众最多,传言携多韓人归国;以归航频仍之势观之可信,然其数为千为百已不可知。直茂并非細川忠興、蒲生氏郷、田中吉政之点茶风雅之士,生平多用于龍造寺隆信之九州征服,晚年整饬肥前,少暇风流。故非为茶事而携众,亦难谓初志在陶业。至于李参平之来,缘于人情所迫(后详);既偶得有田泉山瓷石而成白瓷,直茂遂以国产之业予以鼓励与保护。

本文以肥前之佐賀、唐津、武雄、藤津、伊萬里、平戸、大村、諫早等地诸系韓人为主,分类叙述;此处先述肥前以外诸侯于朝鮮役后在其领内开窑之概况。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

自樂浪時代以來,朝鮮陶藝頗為精湛。建立於崇神天皇十二年的百濟長期受新羅壓迫,與任那同處日本庇護之下;任那於欽明天皇二十三年覆滅,百濟於天智天皇二年亦亡於新羅。自舊都樂浪以來彼土善陶,今仍出土之雅器足資證明。

延喜十八年(918年),王建再建高勾麗國(舊高勾麗傳為崇神天皇六十一年所建),承平五年(935年)滅新羅,定都開城(亦稱松都,京畿道)。以開城為中心遍及半島所製者即高麗燒,其產地尤在全羅道康津郡大口面、七良面郡東西、長興郡,自此至亀山天皇元中九年李成桂建立李朝、高麗亡國而止。

其後國號朝鮮。李朝製陶曾盛,後隨國勢而衰。彼時諸工藝少有卓越藝匠,亦乏名畫師啟發意匠;唯陶工俊秀輩出,或謂韓人天賦所然。及至戰役,幾若群才盡移日本。

自樂浪以來,朝鮮多陶工為明器(隨葬品與玩具)之作者,屬卑賤階層,不能與士農工商並列。此類似日本之土師因專掌喪禮陵墓而為社會所輕。

戰時渡日者,諸侯為雅好及領內產業競相延聘,甚至給以世襲俸給。其為日本軍導路、徵發軍需或便利敵軍者,多亦不敢留土。又七年兵燹,生計艱難,不少人棄祖塋攜家渡海。日本優禮之聞傳回,遂有「鶏林八道幾無陶工」之說。

又因森林濫伐。民眾無由作長計,稍有積蓄即為郡吏藉詞強徵;儉蓄與規劃難立,遂以目前之需砍伐不止,不行造林,群山日禿,竟掘根株以禦寒炊事。製陶所需燃料尤巨,因而匱乏,此亦促其東渡之因。

另一方面,戰時往返之運送船自釜山回航,小舟空載難越玄界灘,故以「壓艙」之需而載人。其時釜山濱寺墓之古塔、鐘、石燈、顯著石像亦多裝船,幾至蕩然。於是眾多韓人乘隙相繼登陸唐津、伊萬里、平戶等港。

鍋島直茂因地利且兵眾最多,傳言攜多韓人歸國;以歸航頻仍之勢觀之可信,然其數為千為百已不可知。直茂並非細川忠興、蒲生氏郷、田中吉政之點茶風雅之士,生平多用於龍造寺隆信之九州征服,晚年整飭肥前,少暇風流。故非為茶事而攜眾,亦難謂初志在陶業。至於李參平之來,緣於人情所迫(後詳);既偶得有田泉山瓷石而成白瓷,直茂遂以國產之業予以鼓勵與保護。

本文以肥前之佐賀、唐津、武雄、藤津、伊萬里、平戶、大村、諫早等地諸系韓人為主,分類敘述;此處先述肥前以外諸侯於朝鮮役後在其領內開窯之概況。