有馬氏と韓人渡来説~尾崎の惨劇

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【原文】[Original text]

有馬氏と韓人渡来説
 朝鮮役の當時は、此地に鍋島氏の配下に属し、諫早氏の初代龍造寺家晴の栄邑なりしを以て、有馬氏帶同の韓人が、此地方に來住せしといふ説はなほ考ふ可きである。而して戦役當時に於いて、唐津、佐嘉、平戸、大村等肥前に於ける各諸侯が皆それぞれ多くの韓人を連歸りし中に、獨り島原の有馬氏のみ其事なきが如き観あるは、地理上の關係より前記各領地に比して上陸地の甚だ迂回を要する点を考ふれば、島原半島への渡來韓人少かりし事情が、略明かになる、故に一旦積荷代りとして乗船せしめしとしても、中途寄港の前記各地へ上陸せしものと観る方が穏當であらう。同様に又彼の五島純立の領地五島へも上陸せし韓人少なかりして見るべく此地製陶の遺跡としては、本邦人の瓦を焼きしこの外皆無であるといはれてゐる。

現川窯沿革史の混亂
 元來現川焼の發祚に就いては、傳説其他區々にして、正確なる史料に乏し研究者をして五里霧中に彷徨せしむるの感がある。而してその製作せられし器の頗る卓越なるにより、愛陶家は其沿革を識らんと欲し、他山の工人中には、自家宣傳の具に供して、此地の陶技と關係を結びつけんと企らむが如き、歴史をして益々混亂を加へしむる観がある。勿論著者としては多方面の異説を総合して、合理的に記述せるものなるが、要するに他日識者の正確なる検討を待つの外はない。蓋し現川焼とする陶美を發揮せしめしは、前記の開窯期中にあらずして、後代に於ける渡來韓人サンクハンの作品に該當するものと思考せらる。

玄海灘の漂泊船
 往年筑紫の北海岸若松の邊りより、津屋崎及玄界灘に面せる肥前の津々浦々へは、屡々唐人の漂泊者があり。又當時はエゲレスや、イタリスなどの黒船が、飲料水缺乏を口實さして、我邦の沿岸に碇泊するもの少なくなかつた。中には漂流を名として、念入りにも内海深く着船し、以て移住を企つる唐韓人があり、彼等は勿論交易を開始せんとの計畫なるも、幕吏は之を厄介視し、一應の取調をなして放遂し、漂泊者は捕へられて放還さるのが定であつた。
 故に現川の韓人も、橘灣に漂流して牧島邊より上陸せし者が、蠣道方面より矢上を経て、現川に潜入せしならんの説を成す者あるも、之は土師野尾の韓人が、船津や下釜邊よりの上陸推測説とは異なり、矢上といへる特種の警備地帯あるこ忘れてゐるもので、大いに考へねばならぬことであらう。

護送韓人
 而も此地は陸路長崎入りの要宿とて折々此漂泊韓人の護送通過を見ることがあり、そして多くは此矢上に一泊せしめたのである。それは驛馬に乗せて、馬丁か口綱を執る鞍上には、例の長畑管を燻らせる長髯人が、悠々として運ばれたのであつた。斯くて一應長崎奉行所にて取調の上、對州侯宗氏の對馬屋敷へ航送され、次に厳原より便船にて釜山へ送還されたのである。抑も此警備地近傍へ韓人サンクハンの一行は、如何にし潜入せしか、蓋しそれは背面の山路を下りて、現川へりしといはれてゐる。

サンクハンの一行
 此一行は母國に於いて、國禁に觸れし爲めに遁走し來りし者か、或は特に我邦へ移住を企てし者かは不明なるも、彼杵半島なる大村灣方面に上陸して、山地へ登りし人數は凡べて一行十三人にて、現川の背面白木峠を下りて此山間に辿りつきしかば、鄉人達は種々評議せしところ、此一行が製陶の目的にて來りし莟へに、嘸かし相當の技量ある者なるべしとて、取敢へず諫早邑主に具申の上、特に其許しを得て、此處に始めて開窯せしは、元祿十三四年(1700年)頃と推考すべきであらう。

鬼木の窯場
 そのうち彼等は、片言交りにも、邦語に通することなりしが、此一行中サンクハンと稱する若者が、製陶の棟梁たることが分明した。そして彼等は毎日鄉内の各山を探見して、種々の粘土を試焼するうち、或日西鬼木といへる處の藪中に、鹿毛色を帯びる粘土を発見して大いに喜び、此處に陶窯を築いて面白き陶器を焼出したのである。
 斯くて此地の舊家三浦某が窯請元となり、又長崎居留の支那人の手を経て、製陶に要する種々の材料を購入し、之より段々工夫の末、彌々美事な陶器を製作すること成った。依て三浦某は長崎表を始め、擴く販賣の計畫を立てしが、取敢へず此中の製品を、邑主諫早豊前守茂晴に献上せしところ、大いなる賞讃を蒙ったのである。

現川焼の製作數限定
 然るに藩制時代の通して、かゝる稀代の名品を、猥りに多く製作する時は却って共價値を損じ、殊に他國へ出すなご宜しからずなし、變則なる非賣品とも稀すべき禁令を下されしも、斯くては多數なる一行の生計上困難なるを以て、再び出願の上製法の秘密を厳守すると共に、邑主の御用品の外製造數を限定し、以て多作を制せられしは其餘りに優品なしが爲にして、今遺品として現存するもの甚だ多からざる理由茲に存するものである。
 爾歳月を経るに従ひ、現川焼の進歩著しきと共に、彼等一行は日々郷人と融和を深め、郷人亦此を皿屋として相親しむに至つたのである。此順調が滞りなく過したらんには、サンクハンの研究は一層進歩して、なほ幾多の名器を作り出せしなるべきに、茲に意外なる事件の突發より、遂に現川焼の全滅を來たすに至たのである。

田中宗悦
 是より先き島原切支丹亂徒の落人なる一人の武士此現川に流れつて隠棲せしが、其子孫に寺子屋の師匠をなせる田中宗悦といへる慈愛深き一人物があつた。(一説に宗悦は相當の資産ある此の舊家にて、サンクハンの窯元なりといふ説もある)そして其娘の某といへるは容貌鄙には稀なるのみでなく、殊に心立て優しき女なれば、郷土の若者の中には、心密かに想を焦がす者も少なくなかつたのである。

サンクハンと小町娘
 宗悦は豫て良き婿料をと物色するうち、自分は會てより大の観世音信者であるが、サンクハンも亦同佛の歸依者であり、且つ氣立ても善く、殊に陶技に於いても無類の器量人なれば、韓人とはいへ行末は我が娘の良人にせばやと考へ一倍彼を愛顧したのである。然るに宗悅が心の中を知るや知らずや娘とサンクハンは、いつしか深き契りを結び、果ては人目を忍びて韓倭の隔てなく打語らへるに、斯くさは宗悦更に覺らざりしも、郷土の若者等は敏くも之を嗅ぎ出して、中には妬ましく煩問する者さへ生するに至つたのである。

七之亟との爭闘
 茲に此地の農家に、七之亟といへる者ありて、豫て宗悦の娘を我件の嫁に貰ひうけばやと、一途に目論見いたりしに、近頃サンクハンの怪しき噂を傳へ聞きて、無念やる方なく心密かに恨める折柄、幕行く年の師走半ば、雪頻りに降り積める中を、所用の帰り路尾崎といへる處にて、計らずもサンクハンと行き會ふたのである。此時如何なる言葉の交されしかは不明なるも、途に二人は腕力沙汰となり、七之亟は携へたる朸にて打懸かり、サンクハンは職業用の小刀にて渡り合ふうち、年若き彼は飛び込んで七之亟の朸をもぎ取ったのである。

尾崎の惨劇
 此日は雪降る日の事とて農事を休み、師走忘れの酒酌みて、某家に集ひし若者達は今七之亟が救ひを求めし叫び聲に、素破同胞の危急よと蹶起せしは、豫て彼女との關係よりサンクハンに含める者どもにて、何れも夜棒を取つて一勢に押寄せり、有無をも聽かずおつ取り巻き、憐れサンクハンを撲殺したのである。(警備地の矢上地方は豫て棒の一手を習へる者多く、それは五尺位の樫を丸く削りしものにて、現川にて夜棒と稱するは夜警の意味であらう)


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

有馬氏に従った韓人がこの地に来住したという説は、朝鮮役当時、ここが鍋島氏の配下で諫早氏初代の龍造寺家晴の領地だった事情を踏まえると、検討の余地がある。戦時には唐津・佐嘉・平戸・大村などの諸侯が多くの韓人を連れ帰ったが、島原の有馬氏だけが例外のように見えるのは、地理的に上陸が遠回りになるためで、島原半島への渡来が少なかった事情を示す。荷扱いのために乗せても途中寄港地で上陸したとみる方が自然で、五島純立の五島でも韓人の上陸は少なく、陶業の遺跡は日本人の瓦焼以外にないという。

現川焼の起こりは伝説が錯綜し、確たる史料に乏しい。器物の完成度が高いため来歴を知ろうとする愛好家は多いが、他地の陶工が自らの宣伝に結びつけるなどして、史実はいっそう混乱した。ここでは諸説を総合し合理的に述べるが、結論は将来の検討に委ねたい。現川焼の美を形作った中心は、初期開窯ではなく、後世に渡来した韓人サンクハンの作に当たると考えられる。

かつて筑紫北岸の若松・津屋崎から玄界灘沿いの港々には唐人の漂着がたびたびあった。エゲレスやイタリスの黒船も飲料水不足を口実に沿岸に投錨し、内海深くまで入り移住を図る唐韓人もいた。幕府はこれを煩わしがり、取り調べては送還した。現川の韓人も橘湾に漂着し牧島から上陸、蠣道経由で矢上を通って潜入したとする説があるが、矢上が特別な警備地帯であった点を見落としており、再考を要する。

この地は陸路で長崎へ向かう要宿で、漂着韓人の護送が通過し、しばしば矢上で一泊させた。駅馬にまたがり馬丁が口綱を引き、鞍上の長髯の男が長い煙管をふかしながら運ばれる。長崎奉行所の調べののち対馬屋敷へ回送、さらに厳原から釜山へ送還された。警備地の近くへサンクハン一行がどう潜り込んだかといえば、背後の山路を下って現川へ入ったと伝わる。

一行が本国で禁を犯して逃れたのか、もとより移住を企てたのかは不明だが、彼杵半島の大村湾あたりに上陸し、山地に分け入った人数は十三人。現川背後の白木峠を下って山間に至った。郷人は評議し、製陶を目的とするなら腕も確かだろうと諫早領主に願い出、許可を得て元禄十三・十四年(1700年頃)に開窯したと推定される。

やがて彼らは片言ながら日本語に通じ、若者サンクハンが棟梁と分かった。各山を巡って土を試焼する中、西鬼木の藪で鹿毛色の粘土を見つけ、そこに窯を築いて魅力ある器を焼いた。旧家の三浦が窯請元となり、長崎居留の支那人を介して資材を調達、工夫を重ねて優品を作り、まず諫早豊前守茂晴に献上して大いに賞賛された。

ただし藩制下では稀代の名品を多作すれば価値を落とし、他国への流出も好ましくないとして、非売品に近い禁令が出た。生計上困るため再度出願し、製法秘匿と領主用以外の製作数を厳しく限定することで許され、多作を戒めた。今日、遺品が少ないのはこのためである。時を経て現川焼は進歩し、一行は郷人と和し、郷人も「皿屋」と呼んで親しんだ。順調に続けばサンクハンはさらに名作を生んだであろうが、不意の事件で現川焼は全滅に至る。

先に、島原切支丹の落人で現川に隠棲した武士の子孫に、寺子屋の師匠田中宗悦という慈愛深い人物がいた(宗悦は旧家の資産家で、サンクハンの窯元だったともいう)。娘は容姿だけでなく心ばえも優れ、多くの若者が密かに想いを寄せた。

宗悦は良縁を探すうち、自ら観世音の信者であるのと同じく、サンクハンも観音に帰依し、人柄もよく、陶技も抜群であるから、韓人でも将来は娘の婿にと考え、ことさらに厚遇した。やがて娘とサンクハンは深い契りを結び、人目を忍んで語らう仲となった。宗悦は気づかなかったが、若者たちは敏く嗅ぎつけ、妬んで詰問する者まで現れた。

この地の農家に七之亟という者がいて、以前から宗悦の娘を妻にと望んでいた。近ごろサンクハンの噂を聞き、恨みを募らせていたところ、年の瀬の大雪の夕べ、尾崎で帰途のサンクハンに出会う。どんな言葉が交わされたか不明だが、争いとなり、七之亟は担いだ梃で打ちかかり、サンクハンは小刀で応じ、若い彼は飛び込んで梃をもぎ取った。

この日は雪で農作業を休み、忘年の酒に集っていた若者たちは、七之亟の救いの叫びに「仲間の一大事」と立ち上がった。かねて娘の件でサンクハンに含むところのある者ばかりで、皆が夜棒を手に押し寄せ、取り囲んで問答無用に撲殺した(矢上は棒術が盛んで、五尺ほどの樫の丸棒を用い、現川でいう夜棒は夜警の意)。


【英語訳】[English translation]

The theory that Koreans accompanied by the Arima clan settled here deserves reconsideration. During the Korean campaigns this area belonged to the Nabeshima under Isahaya’s first lord, Ryūzōji Ieharu. Many lords of Hizen—Karatsu, Saga, Hirado, Ōmura—brought back numerous Koreans, whereas the Arima of Shimabara seem an exception. Geography made landings on the Shimabara Peninsula circuitous, so arrivals there were fewer; even if Koreans were taken aboard as cargo handlers, they likely disembarked at intermediate ports. Likewise, few landed in Gotō; apart from Japanese roof-tile kilns, no ceramic remains are known.

Utsutsugawa ware’s origins are clouded by conflicting legends and scant documentation. Because the wares are outstanding, collectors seek its history, while potters from elsewhere sometimes tie their own lineages to it for promotion, deepening confusion. Here I synthesize major views, pending future scrutiny. The essence of Utsutsugawa’s beauty seems not from the initial kiln phase but from later works by the Korean immigrant Samkhan.

Along Kyūshū’s northern coast—Wakamatsu, Tsuyazaki, and ports on the Genkai Sea—Chinese castaways often arrived. British and Italian “black ships” anchored, citing a need for water; some Chinese and Koreans ventured deep into the Inland Sea seeking to settle. Officials examined and repatriated them. One theory holds the Utsutsugawa Koreans drifted into Tachibana Bay, landed at Makishima, passed via Kakidō through Yagami, then slipped into Utsutsugawa; but it overlooks that Yagami was a special security zone and requires caution.

This post was a key relay toward Nagasaki, so escorted castaways often stayed a night at Yagami. Mounted on relay horses led by grooms, long-bearded men puffed pipes as they were conveyed. After questioning at the Nagasaki Magistrate, they were sent to the Tsushima domain’s residence and shipped from Izuhara to Busan. As for Samkhan’s party, they are said to have descended a back mountain path into Utsutsugawa.

Whether they fled legal prohibitions at home or purposely sought to immigrate is unknown. Thirteen people landed around Ōmura Bay on the Higashisonogi Peninsula, crossed the hills, and descended Shiraki Pass into the valley behind Utsutsugawa. Villagers judged that if they came to make pottery, their skills must be real; with the Isahaya lord’s permission, they opened a kiln around 1700 (Genroku 13–14).

They soon spoke some Japanese; a youth named Samkhan proved the master. Surveying the hills and test-firing clays, they found a deer-bay–colored clay in the thicket at Nishi-Onigi, built a kiln, and produced striking wares. The local Miura family acted as kiln patron, procuring materials through Chinese merchants in Nagasaki. After refinements, they offered pieces to Lord Isahaya Bizen-no-kami Shigeharu and won high praise.

Under domain rule, overproducing such rare masterpieces would debase their value and outflow to other provinces was discouraged. By renewed petition they promised secrecy of methods and strict limits on production outside the lord’s use; thus few works survive today. Over time the ware advanced, relations with villagers deepened, and the potters were fondly called “sarayas” (plate-makers). Had peace endured, Samkhan might have created more masterpieces, but a sudden incident brought the ware to ruin.

Earlier, a descendant of a Shimabara Christian fugitive—Tanaka Sōetsu, a benevolent terakoya teacher—lived in Utsutsugawa (some say his old, well-off family even patronized Samkhan’s kiln). His daughter was not only comely but kind, and many local youths secretly adored her.

Seeking a good match, Sōetsu, a devotee of Kannon, favored Samkhan, who was likewise devout, good-natured, and unmatched in skill; he even thought to make him his son-in-law. Unbeknownst to him, the daughter and Samkhan pledged themselves and met in secret. The youths sensed it, and jealousy bred confrontation.

A farmer named Shichinosuke had long hoped to marry her. Hearing rumors about Samkhan, he nursed resentment. In mid-December, in heavy snow at Ozaki, he met Samkhan by chance. Words are unknown, but a fight ensued: Shichinosuke struck with a pole he carried; Samkhan parried with his work knife and, leaping in, wrenched away the pole.

That snowy day many farmers idled and drank. Hearing Shichinosuke’s cry for help, the young men—many already ill-disposed to Samkhan over the girl—seized their night-sticks and rushed in. They surrounded him and, without hearing him out, beat him to death. (In Yagami, stick fighting was common; the “night-stick” was a five-shaku rounded oak staff used by night patrols.)


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

關於有馬氏隨從韓人來住的說法,結合朝鮮役當時本地屬鍋島氏、諫早氏初代龍造寺家晴之領地等背景,仍有探討價值。諸侯多自唐津、佐嘉、平戶、大村帶回韓人,而島原的有馬氏似為例外,實因登陸路徑曲折,致島原半島渡來者較少。即便上船,也多在途中諸港上岸。五島純立的五島亦來韓人稀少,陶業遺跡除日本人之瓦燒外無他。

現川燒的起源傳說紛歧,可信史料缺乏。因器物優秀,愛好者欲明其沿革,而他地陶工又借機牽連自家脈絡,使史實更亂。此處綜合諸説以成文,結論仍俟將來考訂。現川燒之精髓,非初期開窯,當在後來渡來的韓人「サンクハン」之作。

昔日筑紫北岸至玄界灘諸港常有唐人漂着,英義黑船亦以缺水為由投錨,部分唐韓人深入內海謀居。幕府訊問後多予送還。關於現川韓人自橘灣牧島上陸、經蠣道與矢上入山的説法,忽略矢上為警備地帶,須再考。

此地為長崎往還要宿,護送漂着韓人時常在矢上一宿。長鬚者乘站馬、口綱由馬丁牽引,送至長崎奉行所查問,再移對馬屋敷,繼自嚴原送釜山。サンクハン一行應自背後山路下入現川。

其等或因犯禁出逃,或本意移住未可知。十三人於大村灣一帶上陸,越山由白木峠下至谷地。郷人議之,若為製陶而來則技藝不凡,遂請諫早領主許可,於元祿十三四年(1700年前後)開窯。

彼等漸通日語,青年サンクハン為棟梁。遍歷群山試土,於西鬼木藪中得鹿毛色黏土,築窯而燒佳器。舊家三浦為窯請元,經長崎居留支那人購料,精進終成名品,先獻諫早豊前守茂晴,蒙嘉賞。

藩制下名品忌多作與外流,故許以嚴守製法秘匿並限量,除御用品外嚴格管控,致今存遺品稀少。時移事進,現川燒益精,一行與郷人和合,被親切稱為「皿屋」。然突發之變竟使其全滅。

先是切支丹落人之後裔田中宗悦(亦傳為窯元)為寺子屋師,仁厚。其女貌心兼佳,郷中多有仰慕者。

宗悦篤信観世音,見サンクハン亦信仰虔誠、性行善、技藝高,欲以為婿而厚待。二人遂締深契,私下相會。郷中青年覺察,妒意叢生。

農家七之亟久冀娶其女,聞流言積恨。臘月大雪之夕於尾崎邂逅サンクハン,語不詳,遂角力;七之亟以梃擊之,サンクハン以小刀拒守,乘勢奪梃。

當日農務停歇,青年聚飲,聞其呼救,素對サンクハン不平者持夜棒蜂擁而至,不由分說圍毆致死。(矢上棒術盛行,夜棒為長約五尺之樫木,乃夜警之用。)


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

關於有馬氏隨從韓人來住之說,結合朝鮮役時本地屬鍋島氏、諫早氏初代龍造寺家晴之領地等背景,仍值再考。諸侯多自唐津、佐嘉、平戶、大村攜韓人歸,而島原之有馬氏似為例外,蓋由於登陸路線曲折,致島原半島渡來者寡。即便載於船中,亦多於途中諸港登岸。五島純立之五島亦來韓人稀,陶業遺跡除日本人瓦燒外無他。

現川燒之濫觴傳說紛歧,史料闕如。因器物優良,愛好者欲明其沿革,外郷陶工又藉機牽連自家系脈,使史事更亂。此處綜合諸說權成一端,終俟將來詳稽。現川燒之精華,非初期開窯,應在後來渡來韓人「サンクハン」之作。

昔筑紫北岸至玄界灘諸港多有唐人漂着,英義黑船亦以乏水為由投錨入泊,唐韓人或深入內海圖居。幕府訊後多行送還。謂現川韓人自橘灣牧島上陸、經蠣道與矢上入山之說,忽略矢上為警備地帶,宜更審。

此地為長崎往還要宿,護送漂着韓人常於矢上一宿。長鬚者乘站馬,由馬丁執口綱領之。長崎奉行所審訊後送對馬屋敷,復自嚴原發往釜山。サンクハン一行當自背面山路下入現川。

其等或犯國禁出逃,或本擬移住未可知。十三人於大村灣一帶上陸,越嶺由白木峠下入山間。郷人議定,若以製陶為志,技必不凡,遂請諫早領主許可,於元祿十三四年(約1700年)開窯。

既而通日本語者漸眾,青年サンクハン為其棟梁。遍山試土,於西鬼木藪中得鹿毛色黏土,築窯燒器。舊家三浦為窯請元,經長崎居留之支那人購料,精研而成佳作,先獻諫早豊前守茂晴,蒙褒稱。

藩政下名品忌多作與外流,乃以秘法與限量為條件,除御用品外嚴控製數,故遺物稀少。歲月既久,現川燒益臻,與郷人和好,被稱「皿屋」。然一場突變終致其殲滅。

先有切支丹落人之後裔田中宗悦(亦傳為窯元),為寺子屋師,仁心著稱。其女德貌兼備,郷中多所傾慕。

宗悦篤信観世音,見サンクハン亦篤信而性行善、藝事高,意欲以為東床,厚加愛顧。二人遂締深契,私下相會。郷中少年覺察,妒念滋長。

農家七之亟久欲求婚,聞流言積怨。臘月大雪之夕於尾崎偶逢サンクハン,語不詳,遂相搏;七之亟以梃擊之,サンクハン以小刀拒守,乘勢奪梃。

是日農務停歇,少年聚飲,聞其呼救,素對サンクハン不平者執夜棒蜂擁而至,不由分說圍毆致死。(矢上棒術盛行,夜棒長約五尺之樫木,蓋夜警之具。)


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

有关有马氏随从韩人定居的说法,值得再评估。朝鲜役时此地属锅岛,為諫早氏初代龙造寺家晴之领。肥前诸侯多携韩人归,唯岛原有马似例外;因登岸绕远,入岛原者少。即便上船,多在中途诸港上岸。五岛也几无韩人登岸,除日本人制瓦外无陶业遗迹。

现川烧源流因传说冲突而混乱。器物优异,藏家求其历史;外地陶工又为自宣而牵连谱系,愈加扰乱。本文综述诸说,结论留待后证。现川烧之精华,似非初期开窑,而在后来的韩人“サンクハン”作品。

昔日北九州沿岸常有华人漂到,英意“黑船”亦以缺水为由停泊,部分中韩人深入内海图居。官府讯问后多予遣返。谓现川韩人自橘湾牧岛上岸,经蠣道与矢上入山之说,忽略矢上为警备地,需谨慎。

此地为通往长崎的驿站,护送者常在矢上过夜。长须者骑驿马,由马夫牵引。经长崎奉行所审问后送至对马屋敷,再自严原发往釜山。サンクハン一行应由背后山路下入现川。

其等或因触禁逃来,或原意移居不得而知。十三人于大村湾一带登陆,越山由白木岭下入谷地。村民请示諫早领主,获许后于1700年前后开窑。

他们渐通日语,青年サンクハン为首。遍山试土,于西鬼木丛林得鹿毛色黏土,建窑烧制。三浦家为窑主,经长崎华商购料,精研成器,献于諫早豊前守茂晴,获嘉奖。

藩政下名器忌多作与外流,获准以秘法与限量为条件,仅少量供御用外制作;故存世稀。其后技进人和,被称“皿屋”,然突发事件使其覆灭。

先有切支丹流亡者后裔田中宗悦(亦传为窑主),为寺子屋师。其女貌美心善,众多青年倾慕。

宗悦信观音,见サンクハン亦虔敬、性善、技绝,欲以为婿而厚待。二人遂订深契,私相往来。青年觉察,妒生争端。

农夫七之亟久求婚未果,闻谣更恨。腊月大雪夜在尾崎邂逅サンクハン,言语不详而起斗;七之亟以杵击之,サンクハン以小刀应对并夺杵。

当日众人歇作饮酒,闻其呼救,素对サンクハン不满者挟夜棒蜂拥而至,围殴致死。(矢上棒术盛行,“夜棒”乃长约五尺之橡木巡夜棒。)


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

關於有馬氏隨從韓人定居之説,值得再評。朝鮮役時此地隸鍋島,為諫早氏初代龍造寺家晴之領。肥前諸侯多攜韓人歸,唯島原有馬似為異數;由於登岸繞遠,入島原者少。即便載於舟中,多於中途諸港登岸。五島亦少韓人登陸,除日本人燒瓦外無陶跡。

現川燒源流因傳說相左而紛亂。器物卓越,藏家求其沿革;外地陶工為自宣而牽連系譜,更添擾攘。本文綜述諸説,結論留待覆核。現川燒之精粹,似非初期開窯,乃後來韓人「サンクハン」之作。

昔北九州沿岸多華人漂至,英義「黑船」亦以乏水為由停泊,部分中韓人深入內海意圖移居。官府訊後多行遣返。稱現川韓人自橘灣牧島上岸、經蠣道與矢上入山之說,忽略矢上為警備地,須慎。

此地為赴長崎之要驛,護送者常於矢上一宿。長鬚者騎驛馬,由馬丁牽引。長崎奉行所訊後送對馬屋敷,復自嚴原發往釜山。サンクハン一行應自背面山路下入現川。

其等或因犯禁逃來,或本擬移住未可知。十三人於大村灣一帶登岸,越山由白木嶺下入谷。村人請諫早領主准許,於1700年前後開窯。

既而漸通日語,青年サンクハン為首。遍山試土,於西鬼木藪得鹿毛色黏土,築窯燒製。三浦家為窯主,經長崎華商購料,精研成器,獻諫早豊前守茂晴,蒙嘉許。

藩政下名作忌多產與外流,乃以秘法與限量為條件,只在御用外寡作;故存世稀少。其後技藝精進、人地相和,被稱「皿屋」,然一場突變終致覆沒。

先有切支丹流亡者後裔田中宗悦(亦傳為窯主)為寺子屋師,其女德貌兼優,多為青年所慕。

宗悦篤信觀音,見サンクハン亦虔誠、性善且技絕,意欲招為東床而厚待。二人遂締深契,私相往來。青年覺察,妒意滋生。

農夫七之亟久求婚不遂,聞諠更恨。臘月大雪夜於尾崎遇サンクハン,語不詳而鬥;七之亟以杵擊之,サンクハン以小刀拒並奪杵。

是日眾人歇作酣飲,聞其呼救,素對サンクハン不平者持夜棒蜂擁,圍毆致死。(矢上棒術盛行,「夜棒」為長約五尺之橡木巡夜棒。)