11-03-01-01鬼木窯元全滅~現川と木原
【原文】[Original text]
鬼木窯元全滅
此時誰かが鬼木の窯元へと聲揚げしかば、それ行けと斗り一同は、濁酒の酔狂に乗じて、どつと押寄せ來るより、韓人等は事の不意に驚き狼狽するを、一人も餘さず十二人悉く打殺し、なほ其餘憤を以て、陶窯より器具一切残さす目茶目茶に破壊し終った。斯くて漸く此興奮と酔狂の夢覺めし彼等は、其の餘りに惨酷なりし所行を悔めるも、それはすでに後の祭りであつた。
群集心裡の特徴として、豫て分別ある者さへも多人數の中に打れは、自己意識を失ひて、無反省的な軽舉妄動を突發すること珍らしくない。況んや像て棒遣いの熟練を自慢せる入野の某の如きに至つては、此時鉢卷草鞋の扮装にて馳せ加はり一番多く韓人を打殺せしといはれてゐる。今此地の白水政恒(豫備中尉)方なる圍爐裡の自在鍵に使用されてゐるものが、當時惨劇用夜棒を切りし遺物と云ひ傳へられてゐる。
人種的嫉妬
蓋し此暴擧の原因は、相手が韓人といふ國別的観念の外に、村小町とも見し彼女の愛を占領されし嫉妬が、人種的に深められし、大主因であらう。かの文久元年幕末の頃米國領事館書記 ヒュースケンが、江戸の三田古川端にて清川一派の為に暗殺されしは、表面攘夷の仕業のみなるが如きも、實は彼の洋妾事件の人種的嫉妬が、其殺害の主因と見る可く、之が爲に幕府は慶長古金一万両を彼の遺族に賠償せしが、扨現川に於ける斯の如き大勢のリンチ事件が、假令ひ山間の奥地にて行はしとはいへ、爾後製品の断絶は、諫早邑主に隠蔽し得る道理がない。然し相手か外國の漂泊人であり、そこは嘆願や何かの運動にて、御目こぼしに成りしものと思はれる。
サンクハン塚
要するにサンクハン一行が、此地に開窯せしより僅四五年目位にして、此美術的なる現川焼は絶滅せしと見るの外はない。曾て矢上村の長崎街道筋である、今の自動車乗場より少しく上手なる前面の田圃に、年久しく石積みにてサンクハン塚とするものありしも、明治十三年頃に取拂はれたのである。
窯観音
現川の大屋敷なる野畑山を登れば志食権現といへる社があり、其左の高丘に窯観音といふのがある。それは五尺四方建位の小堂の中に、三体の石佛を祀りたるが、就中正面の観世音は高さ尺八寸位にて、其蓮臺の下なる四角の臺石に、施主の名前が多數刻まれあるが、何故か佛体も堂柱も、悉く紅柄にて真赤に塗立てあるから、刻字を読むに困難なるのみでなく、此赤塗は當時の惨劇を追想して、肌に粟を生するの想がする。
或郷人の説にては、窯観音と稱するは單に登窯の頭邊りに、陶器火廻りの幸福を祈りしものならんとのことなるも、従来窯頭に祀れるものは多く稻荷の祠か高麗神と称して、簡素なる自然石が多く斯く入念に彫刻せし三体佛など、祀りし慮は滅多にない。而して此處を一名藤八墓とも稱するのは、或は唐鉢墓の意にあらざるやを考ふる時に此三体の観音像が彌々サンクハン始め十三人の冥福を祈る合祀墳と見る可きであらう。
観音像施主の人名
而して此臺石には、元祿十七歲次甲申三月吉(1704年)施主田中宗悦内、田中甚内内、重富茂兵衛内とあり。其次に又施主さして苗字なき名前のみにて、庄之助母、枝伊知母、新左工門母、助五郎母、諸左エ門、千右工門と刻まれてある。察するに宗悦の一家を始め惨殺されし韓人達に同情せる人々が施主となりて此観音像を建立せしものらしく、そして田中甚内は宗悦の舎弟といふ説があり、又重富茂兵衛も此地の有志家であらう。
宗悦の墓碑
田中宗悦は、永八年正月二十日(1711年)前記窯觀音建立の元祿十七年(1704年)より八年目に卒去し、今に窯観音堂の下なる共同墓地に共石碑がある。そして墓碑の頭上に三尺許りの立体観音像が安置されあるも心なき者の悪戯にや、首丈失はれてゐる。此宗悦の後裔といはる人に、現在長崎市上小島町に居せる田中隼人がある。
鬼木窯趾の破片
窯観音の丘を少し下りし處が窯趾にて、此邊にはトンバイや其他の燒具などが轉がつて居り、獪丹念に拾收すれば、光澤美くしき青栗釉や青灰釉に白のかすり刷毛目や霙刷毛目又は栗色釉、栗茶釉、薄墨釉、小豆色釉、赤茶釉などに、同じ刷毛目や点模様など施せし小さき破片がある。又青栗釉の小皿や飴釉の茶碗に、高台部を廣く無釉にして、蛇の目積に焼きしものあるは、此處の最初の作品であるらしい。
現川焼の釉薬と胎土
又此處の古窯品には、前記の諸釉に白盛を施せしものは之に呉須や澁色鉛色及び黒などの顔料にて山水及花卉を文飾し、又は巧妙なる刷毛目を施せるが、それが焼成後茶褐色、又紫釉或は小豆釉の優雅なる色相を題はせるは、一面胎土の影響といはれてゐる。蓋し多くは焼成度余り高からざるを以て、取扱上破損し易き素質なることは否まれない。
此優秀なる名陶も、今や郷土にては見ること難全く他邦のコレクターの手に蒐集されてゐる。
(但し擬物頗る多き由)今此地方に現存する器は、各農家の野良茶碗や台所用の下手物が多い。
檀野の博覽會出品
明治十二年春長崎に於いて我國に始めて博覧會の開催ありしとき、出品勧誘をうけし給人川内の素封家檀野勝次(北海道炭礦汽船會社取締にて前代議士たりし檀野禮助の父)は、所藏せる許多の現川焼の優品を送荷せしてころ、當時の日見峠を越える際、取扱ひの麁忽の爲め取落し、又其後同家の墓所の膳棚に積み置きしを、或夜鼠をへし猫の為に大部毀されしといはれてゐる。
馬場藤太夫の山の神
明治二十八年頃、此地の山の神字比羅に於いて、馬場藤太夫數千圓の資金を投じ、現川の復興を企てしが、鬼木の原料は昔年の儘なるも、燒上げし陶器は到底似る可くもなかつたのである。
給人川内窯
同三十年頃、前記の野勝次、又三河内より工人を招き、給人川内に築窯して復舊を試みが、今其遣製を見れば金茶地に同釉むら掛の香焚や韋登釉の如きに、青楽を流せし小花立などありて、焼締めだけは炻器の如きも、昔年の現川焼とは全く別途の製品である。
檀野の磁器
之がために彼も復舊製作を断念せしものか、次には天草原料を取寄せて白磁を製造することゝなった。之は前の陶器に勝り、中には染附山水繪尺二寸の耳附花瓶の如き、相當見る可き製品出來せしも、磁器を以て舊來の陶山と雁行すべき經營事業は頗る易からざるものありしが、如く、遂に中止するに至り、馬場藤太夫は子息を美術學校を卒業せしめ、熱心に之が研究を志ざしめるも、是亦同三十二年四月相前後して廢窯したのである。
現川の古窯品
なほサンクハン時代の古窯品には、靑栗釉波形刷毛目の深茶碗や、三彩色即ち龜甲手の茶碗があり、或は青海鼠の菓子器に銅釉の窯變物や鶯茶釉の尺口薄端花器に、白にて古代文様を象嵌せしものがある。又鼠色釉隅切四角の五寸皿に、簡素な鳴子繪象嵌の作品があり。栗色釉にて三段筋を繞らし、そして蓮華形に押刷毛目を文せし入寸の徳利がある。
或は薄墨釉に呉洲描あしらひにて、全面に武藏野(穂波模様)を交飾せし分銅切五寸の向附皿や栗茶釉へ鐡線花を描し葉は丹礬青葉にて隈ごり花を白にて象嵌せし物や其他種々の繪刷毛目せし同物がある。其外栗色釉に繊細なる小波刷毛目を施し茶碗、或は三島手や霙又抑刷毛目等の優秀なる作品に乏しくない。又雑器中には二升入の徳利にて、其飴色釉面に所有者の家號などを指先にて力強く彫書し、それに青藥を散ぜしものなどがある。
現川と木原
此現川の優品と見紛ふほどの妙技を振ひしは前述せる木原山である。蓋し木原の作品は單にサシ篦のみ使ひし形跡あるも、現川の作品に至つては、猶其上にチゝラ篦を使ひ、次に又メンボウを用ひしものにて、製作上の相違があり又飾に於いても打刷毛目の手際や、波刷毛目の繋ぎなど對照して、到底他山の追従を赦さぬ優技である。要するに木原の工人は、現川の作品をイミテートするに、巧妙なる手腕を有せし程度なりしことは、斯業者の主張する総合的意見である。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
鬼木の窯元全滅
誰かが「鬼木の窯だ!」と叫ぶと、酔いに任せた一同がどっと押し寄せ、韓人たちは不意を突かれて混乱。十三人中、窯場にいた十二人を残らず打ち殺し、怒りのままに窯や道具も徹底的に破壊した。やがて興奮と酔いがさめると、そのあまりの残酷さを悔いたが、すでに取り返しはつかなかった。
群衆心理の特徴として、普段は分別ある者も多数の中では自制を失い、軽挙妄動に走ることがある。まして棒術を誇っていた入野の某は、鉢巻に草鞋のいでたちで駆けつけ、最も多くの韓人を打ち殺したという。いま白水政恒(予備中尉)宅の囲炉裏の自在鉤は、その夜棒を切って作った遺物だと伝わる。
人種的嫉妬
暴挙の原因は、相手が韓人という国籍の偏見に加え、村一番と評判の娘の愛を奪われた嫉妬が、人種感情と結びついて深まったためであろう。文久元年、米国公使館書記ヒュースケンが三田古川端で清川一派に暗殺された事件も、表向きは攘夷だが、実は洋妾をめぐる人種的嫉妬が主因とされ、幕府は遺族に慶長古金一万両を賠償した。現川での大規模なリンチは山間で起きたとはいえ、以後の製品断絶は領主に隠せない。とはいえ相手は外国の漂流者で、嘆願などにより不問に付されたのだろう。
サンクハン塚
結局、サンクハン一行が開窯して四、五年ほどで、美術性に富む現川焼は絶えた。かつて矢上村の長崎街道沿い、今の自動車乗り場の少し上手の田に石積みの「サンクハン塚」と呼ぶものが長くあったが、明治十三年ごろ取り払われた。
窯観音
現川の大屋敷、野畑山を登ると志食権現の社があり、その左手の高台に「窯観音」がある。五尺四方ほどの小堂に三体の石仏を祀り、正面の観世音は高さ一尺八寸ほど。蓮台下の角石に多くの施主名が刻まれるが、仏体も柱も紅殻で真紅に塗られているため判読しづらく、その赤は当時の惨劇を連想させ身震いする思いがする。
郷人の一説では、窯観音は登り窯の頭付近で火の回りの安全を祈るためとする。しかし窯頭に祀るのは稲荷や高麗神の素朴な自然石が多く、ここまで彫りの行き届いた三体仏は稀である。別名「藤八墓」ともいうのは「唐鉢墓」の意か。三体の観音は、サンクハンら十三人の冥福を祈る合祀の墓と見るべきだろう。
観音像施主の人名
台石には「元禄十七年甲申三月吉(1704年) 施主 田中宗悦内・田中甚内内・重富茂兵衛内」と刻む。続いて苗字なしで「庄之助母・枝伊知母・新左工門母・助五郎母・諸左エ門・千右工門」とある。宗悦一家をはじめ、虐殺された韓人に同情した人々が施主となって建てたらしく、田中甚内は宗悦の弟、重富茂兵衛も当地の有志であろう。
宗悦の墓碑
田中宗悦は永八年正月二十日(1711年)に没し、窯観音建立(1704年)から八年後であった。窯観音堂下の共同墓地に墓碑があり、上に三尺ほどの立体観音像が据えられているが、心ない者の悪戯か首が失われている。宗悦の後裔とされる田中隼人が、現在も長崎市上小島町に居住する。
鬼木窯跡の破片
窯観音の丘を少し下ると窯跡で、トンバイや焼き具などが点在する。丹念に拾えば、光沢の美しい青栗釉・青灰釉に白の掠れ刷毛目や霙刷毛目、また栗色釉・栗茶釉・薄墨釉・小豆色釉・赤茶釉に刷毛目や点文様を施した小片が見つかる。青栗釉の小皿や飴釉の茶碗で、高台を広く無釉にし蛇の目積で焼いたものは、最初期作らしい。
現川焼の釉薬と胎土
古窯品には、白盛を加え、呉須・渋色・鉛色・黒の顔料で山水や花卉を描いたもの、巧みな刷毛目で、焼成後に茶褐・紫・小豆色の優雅な発色を示すものがある。これは胎土の影響とも言われる。焼成温度があまり高くないため、扱い次第で破損しやすい素地であることは否めない。
この優れた名陶は、今や郷里ではほとんど見られず、多くが海外コレクターの手に集まる(模作も多いという)。当地に残る器は、農家の野良茶碗や台所の普及品が主である。
檀野の博覧会出品
明治十二年春、長崎で我が国初の博覧会が開かれた際、出品を勧められた給人川内の富裕家・檀野勝次(北海道炭礦汽船会社取締役で前代議士・檀野禮助の父)は、所蔵の優品を送ったが、日見峠越えの際の粗雑な扱いで落下させ、さらに墓所の膳棚に積んでいた品も、ある夜、鼠を追う猫のせいで多く破損したという。
馬場藤太夫の山の神
明治二十八年ごろ、山の神字比羅で馬場藤太夫が数千円を投じ現川の復興を図った。鬼木の原料は往時同様でも、焼き上がった器は到底似るものではなかった。
給人川内窯
同三十年ごろ、野勝次は三川内から工人を招き給人川内に窯を築いて復旧を試みた。現存作を見ると、金茶地にむら掛け釉の香炉、韋登釉風に青楽を流した小花入など、焼き締めは炻器風ながら、旧来の現川焼とは別物である。
檀野の磁器
その後、天草原料を取り寄せ白磁の製造に転じた。前の陶器より出来は良く、染付山水の耳付花瓶(尺二寸)など見るべき作もあったが、磁器で旧来の陶山に肩を並べる経営は難しく、中止に至る。馬場藤太夫は子息を美術学校に進ませ研究を志させたが、これも明治三十二年四月ごろ廃窯となった。
現川の古窯品
サンクハン時代の遺品には、青栗釉の波形刷毛目の深茶碗、三彩の亀甲手茶碗、青海鼠の菓子器に銅釉の窯変、鶯茶釉の尺口薄端花器に白象嵌の古代文様などがある。鼠色釉の隅切四角五寸皿に簡素な鳴子文象嵌、栗色釉で三段の筋を巡らせ、蓮華形の押し刷毛目を配した入寸徳利も見られる。
薄墨釉に呉洲描を合わせ、全面に武蔵野(穂波)文を交えて飾った分銅切五寸向付、栗茶釉に鉄線花を描き、葉は丹礬青、花は白象嵌としたものなど、種々の絵・刷毛目の作がある。ほかにも栗色釉に繊細な小波刷毛目の茶碗、三島手や霙・抑刷毛目など優品が少なくない。雑器では二升入り徳利に、飴釉の面へ家号を指で力強く彫り書きし、青薬を散らしたものがある。
現川と木原
現川に匹敵する妙技を示したのが木原山である。木原はサシ篦のみの痕跡が多いが、現川はさらにチヂラ篦、次いで綿棒も用いるなど作りに相違があり、装飾でも打ち刷毛目の勘どころや波刷毛目の継ぎが他山の追随を許さない。要するに木原の工人は現川を巧みに模倣したが、所詮は模作の域というのが業界の総意である。
【英語訳】[English translation]
Total destruction of the Onigi kiln
When someone shouted, “To the Onigi kiln!”, the crowd—emboldened by rough sake—surged in. The Koreans, taken by surprise, panicked; of the thirteen, the twelve present at the kiln were beaten to death. In their fury they smashed the kiln and every tool to pieces. When their frenzy and drunkenness finally waned, they regretted the cruelty—but it was too late.
As crowd psychology goes, even prudent men can lose self-awareness and erupt into heedless violence. One Irino man, proud of his stick-fighting, rushed in with headband and straw sandals and was said to have slain the most. The adjustable hearth hook now at the home of Shiramizu Masatsune (reserve lieutenant) is said to be cut down from a night-stick used in the massacre.
Racial jealousy
The cause lay not only in prejudice against “Koreans,” but in jealousy that a village beauty’s love had been taken, sharpened into racial animus. In 1861, the U.S. legation secretary Henry Heusken was assassinated at Mita-Furukawabashi; beyond “expel the barbarians,” racial jealousy over his liaison likely drove it, and the shogunate paid his family 10,000 ryō in Keichō koban. Likewise, though the Utsutsugawa lynching occurred in remote hills, the cessation of wares could hardly be hidden from the Isahaya lord. Yet because the victims were foreign castaways, petitions likely won official indulgence.
Samkhan’s mound
Thus, only four or five years after Samkhan’s party opened the kiln, the artistic Utsutsugawa ware vanished. Long ago, on paddy fields slightly uphill from today’s motor stand on the Nagasaki highway in Yagami Village, a stone mound called “Samkhan’s Grave” stood, but it was removed around 1880 (Meiji 13).
The Kiln Kannon
Climb Nohatayama above the great manor in Utsutsugawa and you reach the Shishoku Gongen shrine; on a higher knoll to the left stands the “Kiln Kannon.” In a small four- to five-shaku square hall are three stone images; the central Kannon is about 1 shaku 8 sun high. Many donors’ names are carved on the pedestal beneath the lotus base. Curiously, the figures and pillars are painted a vivid red with bengara, making the inscriptions hard to read and recalling the massacre in a chilling way.
Some say the Kiln Kannon simply prayed for safe firing at the kiln head. Yet kiln-top shrines were usually plain Inari or “Kōrai-gami” stones; three finely carved Buddhas are rare. The place is also called “Tōhachi’s grave,” perhaps “Tang-bowl grave”; the three Kannon images likely form a joint memorial for Samkhan and the thirteen.
Donors on the Kannon pedestal
The base reads: “Genroku 17, cyclical kōshin, auspicious March (1704): donors Tanaka Sōetsu’s household, Tanaka Jin’nai’s household, Shigetomi Mohei’s household.” Then follow names without surnames: “Shōnosuke’s mother, Edaichi’s mother, Shinzaemon’s mother, SukeGORŌ’s mother, Morosaemon, Sen’emon.” Likely Sōetsu’s family and those who pitied the murdered Koreans sponsored the images; Jin’nai is said to be Sōetsu’s younger brother, and Shigetomi Mohei a local notable.
Sōetsu’s tomb
Tanaka Sōetsu died on the 20th day of the first month, Ei 8 (1711), eight years after the Kiln Kannon’s erection (1704). His gravestone stands in the communal cemetery below the hall; atop it sits a three-shaku standing Kannon, now headless from vandalism. A descendant, Tanaka Hayato, lives in Kamikojima-machi, Nagasaki City.
Sherds at the Onigi kiln site
Descending a little from the Kannon hill lies the kiln site, with bricks (tonbai) and firing implements scattered about. Careful picking yields small sherds: glossy blue-chestnut or blue-gray glazes with white rubbed or sleet brushwork; also chestnut, chestnut-brown, light-ink, azuki, and red-brown glazes with similar brush or dot motifs. Small plates in blue-chestnut glaze and tea bowls in amber glaze with wide unglazed footrings fired on “snake-eye” setters appear to be earliest works.
Glazes and bodies of Utsutsugawa ware
Some old pieces bear white slip decoration over the glazes, painted with gosu cobalt, brown, lead-gray, or black pigments in landscapes and flowers, or deft brushwork; after firing they show refined tea-brown, purple, or azuki tones—said to reflect the clay body. Because the firing temperature was often modest, the bodies are somewhat fragile in handling.
These fine wares are now scarcely seen locally, having been gathered by overseas collectors (many imitations exist). What remains in the area tends to be field bowls and kitchenware of humble make.
Danno’s exposition entries
In spring 1879 (Meiji 12), at Japan’s first exposition in Nagasaki, the wealthy Danno Katsuji of Kyūningawachi (father of former Diet member Danno Reisuke, a Hokkaidō Colliery & Steamship director) shipped many fine Utsutsugawa pieces. Crossing the Himi Pass, rough handling caused drops; later, a stack on the family grave’s shelf was largely broken one night as a cat chased mice.
Baba Tōdayū’s “Mountain God” project
Around 1895, at Yamanokami Aza Hira, Baba Tōdayū invested several thousand yen to revive Utsutsugawa. Though Onigi’s raw clay matched the old, the fired wares were nothing like them.
The Kyūningawachi kiln
Around 1897, the same No Katsuji invited potters from Mikawachi and built a kiln in Kyūningawachi to restore production. Surviving pieces—incense burners with mottled golden-brown glaze, Vidro-like glazes with flowing seiraku green on small vases—show stoneware-like tightness, yet they differ entirely from old Utsutsugawa.
Danno’s porcelain
Abandoning revival, he next made white porcelain using Amakusa material. These surpassed the earlier earthenwares; some, like a 1.2-shaku handled vase with underglaze blue landscape, were respectable. But running a porcelain venture to rival old ceramic centers proved hard; it ceased. Baba sent his son to art school to study the craft, but that kiln too closed around April 1899 (Meiji 32).
Old wares of Utsutsugawa
From Samkhan’s time exist deep bowls with wave-form brushwork in blue-chestnut glaze; tri-color “kikkō-te” tea bowls; asea-cucumber-colored sweets dish with copper-glaze kiln-variation; a usubana vase, mouth of one shaku, in nightingale-brown with white inlaid archaic motifs. A five-sun, trimmed-corner square plate in mouse-gray glaze bears a simple inlaid naruko rattle design. A one-sun-plus tokkuri in chestnut glaze circles with triple bands and lotus-form pressed brushwork.
Also: fuchi dishes five-sun, “fundo-giri” shape, in light-ink glaze with gosu painting and Musashino (grain-wave) patterning; pieces in chestnut-brown with iron-wire flowers, leaves in prussian blue, flowers in white inlay; many other painted/brush-decorated works. Further, bowls with fine small-wave brushwork in chestnut glaze, Mishima, sleet, and “osae-brush” types are common. Among utilitarian wares, two-shō tokkuri have owners’ crests incised by finger into the amber glaze and sprinkled with blue medicine (copper/iron).
Utsutsugawa and Kihara
Kihara-yama showed skills nearly confusable with Utsutsugawa. Kihara works show only “sashi-bera” tool marks, while Utsutsugawa also used “chijira-bara” and then cotton swabs, differing in manufacture; in decoration, the handling of struck and wave brushwork likewise sets them apart, beyond imitation. In sum, Kihara craftsmen were deft imitators of Utsutsugawa—so concludes the trade’s consensus.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
鬼木窑元全灭
有人高喊“去鬼木窑!”众人借着浊酒之勇蜂拥而至。韩人猝不及防,十三人中在场十二人尽被殴杀,窑与器具也被怒气所及尽行摧毁。待醉意散去方悔残酷,然已无可挽回。
群体心理使人失去自制,轻率妄动并不稀奇。入野有一人自负棒术,系上头巾穿草鞋赶到,自称杀得最多。今白水政恒宅中炉灶的自在钩,相传即当夜所用“夜棒”削改之遗物。
种族性的嫉妒
暴行源于对“韩人”的偏见,又因村中美人的爱情被夺而生妒,叠加为种族情绪。文久元年,美使馆书记希尤斯肯在三田遇刺,表面攘夷,实则因洋妾引发的人种嫉妒;幕府为此赔慶長古金一万两。现川的群殴虽在山中,但生产断绝终难瞒过領主。然对方是外来漂流者,或因请愿而获网开一面。
“サンクハン塚”
サンクハン等开窑四、五年间,艺术性的现川烧便绝迹。矢上村长崎街道旁、今汽车乘车处上方田地,曾有石砌“サンクハン塚”,明治十三年左右被撤去。
窑观音
登上野畑山,有志食权现社,左侧高丘有“窑观音”。小堂约五尺见方,供三尊石佛,正面观音高约一尺八寸。莲台下方方石刻满施主名。佛体与柱皆以红殻通体朱红,难以辨字,也令人追想惨剧而悚然。
有说此观音仅为祈窑火顺利。然而窑头所祀多为稻荷或“高丽神”之自然石,如斯精雕三佛殊少。此处别称“藤八墓”,或即“唐鉢墓”。三观音应是为サンクハン等十三人合祀之冥碑。
施主姓名
台石刻:“元禄十七年甲申三月吉 施主 田中宗悦内、田中甚内内、重富茂兵卫内。”又刻无姓之名:“庄之助母、枝伊知母、新左工门母、助五郎母、诸左卫门、千右工门。”疑为宗悦一家及同情遇害韩人者所立;田中甚内或为宗悦之弟,重富茂兵卫亦为当地有志者。
宗悦墓碑
田中宗悦于永八年正月二十日(1711)卒,距窑观音建立(1704)八年。其墓在观音堂下合葬地,上置三尺立体观音,然首部已失。其后裔田中隼人现居长崎市上小岛町。
鬼木窑址碎片
窑观音丘下即窑址,散落砖块与炉具。细拾可见:青栗釉、青灰釉配白色掠刷、霙刷;栗色、栗茶、薄墨、小豆、赤茶等釉之刷毛与点纹小片。青栗釉小皿、飴釉茶碗,广留无釉高台、置蛇目垫烧者,似属最初期。
现川烧的釉与胎
部分老器在上述诸釉上加白盛,并以呉須、棕、铅灰、黑描山水花卉或精妙刷毛。烧后呈茶褐、紫、小豆等雅色,谓受胎土影响。因烧成温度不高,素地偏脆易损。
名品今难见于乡里,多为海外藏家收集(仿作亦多)。本地残存多为农家野良茶碗与厨房杂器。
檀野的博览会出品
明治十二年春,长崎首开博览会。给人川内富户檀野胜次(北海道炭矿汽船公司董事、前代议士檀野礼助之父)应邀出品,然越日见岭时因粗放跌落;其后又堆于祖墓膳棚,夜里因猫逐鼠而多遭破坏。
马场藤太夫的“山神”
明治二十八年前后,马场藤太夫在山の神字比罗投入数千圆谋复兴。鬼木原土虽如故,成品却难似旧。
给人川内窑
明治三十年左右,野胜次又延揽三川内匠人,于给人川内筑窑试复。遗作见金茶地斑釉香炉、似韦登釉而泻青乐之小花入等,烧结近炻器,然与旧现川烧迥异。
檀野的磁器
其后改以天草料制白磁,优于前陶,亦出尺二耳付染付花瓶等可观之作。然以磁器与旧窑并行经营甚难,遂止。马场令其子入美术学校研习,终亦于明治三十二年四月前后废窑。
现川古窑品
遗存有:青栗釉波形刷毛目深茶碗、三彩龟甲手茶碗、青海鼠菓子器之铜釉窑变、鶯茶釉尺口薄端花器白象嵌古纹;鼠灰釉隅切方五寸皿嵌简素鸣子纹;栗色釉三道筋绕身,莲华形押刷毛之入寸德利等。
亦有薄墨釉配呉洲描、通体交饰武藏野(穗波)文之分銅切五寸向付;栗茶釉上绘铁线花,叶以丹矾青,花以白象嵌。另多种绘刷毛目之作。又有栗色釉细小波刷毛之茶碗、三岛手、霙与抑刷毛目等佳作。杂器中有二升徳利,飴釉面以指刻家号并撒青药。
现川与木原
近似现川妙技者为木原山。木原多见仅用サシ篦之痕,而现川更用チヂラ篦与棉棒,制作殊异;装饰上打刷毛与波刷毛之衔接尤胜,非他山所及。总之,木原匠人能巧仿现川,终属摹作之域,此乃业内共识。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
鬼木窯元全滅
有人高呼「鬼木之窯!」眾人乘酒勢蜂擁而至。韓人倉皇失措,十三人中在場十二人盡遭毆殺,並以餘憤盡毀窯與器具。既而酒醒悔恨,已無及矣。
群眾心理常使人失其自制,輕舉妄動。入野有一人自矜棒術,束鉢卷履草鞋而至,據說殺人最多。今白水政恒宅之圍爐裡自在鉤,相傳即當夜之「夜棒」削改之遺物。
種族之嫉妒
暴舉之因,不僅在於對「韓人」之偏見,亦在村中美人之愛被奪所生之妒,與人種情緒相激。文久元年,美使館書記希尤斯肯於三田遇刺,表面攘夷,實因洋妾所致之人種嫉妒;幕府遂賠慶長古金一萬兩。現川之群毆雖在山谷,製品斷絕終難瞞過領主。惟對方為外來漂泊者,或因陳情而得寬貸。
「サンクハン塚」
サンクハン等開窯僅四五年,現川燒遂絕。矢上村長崎街道旁、今自動車乘場上方之田地,昔有石砌「サンクハン塚」,明治十三年左右撤去。
窯觀音
登野畑山有志食權現社,左側高丘有「窯觀音」。小堂約五尺方,祀三尊石佛,正面觀音高一尺八寸許。蓮臺下方石刻滿施主名。佛體與柱皆以紅殼通塗,難辨其字,且令人追憶慘劇而悚然。
或云窯觀音僅祈火運順利,然窯頭所祀多為稻荷或「高麗神」自然石,若此精雕三佛殊罕。此處又稱「藤八墓」,或即「唐鉢墓」。三觀音蓋為サンクハン等十三人之合祀冥碑。
施主姓名
臺石刻:「元祿十七年甲申三月吉 施主 田中宗悅內、田中甚內內、重富茂兵衛內。」又有無姓之名:「庄之助母、枝伊知母、新左工門母、助五郎母、諸左衛門、千右工門。」疑宗悅一家及同情遇害韓人者所立;田中甚內或為宗悅之弟,重富茂兵衛亦為地方有志。
宗悅墓碑
田中宗悅於永八年正月二十日(1711)卒,距窯觀音建立(1704)八年。墓在觀音堂下合葬地,上置三尺立體觀音,今首已失。其後裔田中隼人現居長崎市上小島町。
鬼木窯址之片
窯觀音丘下即窯址,散見磚與窯具。細拾可得:青栗釉、青灰釉配白掠刷、霙刷;栗色、栗茶、薄墨、小豆、赤茶等釉之刷毛與點紋小片。青栗釉小皿與飴釉茶碗,廣留無釉高臺、以蛇目墊燒者,疑屬最初期。
現川燒之釉與胎
古器或於上釉加白盛,以呉須、棕、鉛灰、黑描山水花卉,或施巧妙刷毛;燒後呈茶褐、紫、小豆等雅色,謂受胎土所感。因燒成溫度不高,素地易損。
名品今罕見於鄉里,多為海外藏家收羅(仿作甚多)。本地所餘多為農家野良茶碗與廚用雜器。
檀野之博覽會出品
明治十二年春,長崎首辦博覽會。給人川內富戶檀野勝次(北海道炭礦汽船公司董事、前代議士檀野禮助之父)應邀出品,越日見嶺時因粗扱跌落;後又堆於墓所膳棚,夜間因貓逐鼠多被毀損。
馬場藤太夫之「山神」
明治二十八年前後,馬場藤太夫於山之神字比羅投資數千圓圖復興。鬼木原土雖同,成器終不似舊。
給人川內窯
明治三十年許,野勝次延三川內匠人築窯於給人川內,試圖復舊。遺作見金茶地斑釉香爐、似韋登釉而注青樂之小花入等,燒結近炻器,然與舊現川燒迥異。
檀野之磁器
繼而改用天草料制白磁,較前陶為佳,亦出尺二耳付染付花瓶等可觀之作。然以磁器並舊窯經營艱難,終止。馬場令其子入美術學校研習,亦於明治三十二年四月前後廢窯。
現川古窯品
存有:青栗釉波形刷毛目深茶碗、三彩龜甲手茶碗、青海鼠菓子器之銅釉窯變、鶯茶釉尺口薄端花器白象嵌古紋;鼠釉隅切方五寸皿嵌簡潔鳴子紋;栗釉三道筋繞身、蓮華形押刷毛之入寸德利等。
亦有薄墨釉配呉洲描、通體交飾武藏野(穗波)文之分銅切五寸向付;栗茶釉上鐵線花,葉以丹礬青、花以白象嵌。另多種繪刷毛目之作。又有栗釉細小波刷毛茶碗、三島手、霙與抑刷毛目等佳器。雜器有二升德利,飴釉面以指刻家號並撒青藥。
現川與木原
與現川幾可亂真者為木原山。木原多見僅用サシ篦之痕,現川則更用チヂラ篦與棉棒,製作殊異;裝飾上打刷毛與波刷毛之銜接尤勝,非他山所及。總之,木原匠人雖巧於摹仿,終屬模作之域,乃業界共識。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
鬼木窑的覆灭
有人高喊“去鬼木窑!”,人群借酒势蜂拥而至。韩人措手不及;十三人中在场的十二人被打死,窑与器具也被毁。酒醒后众人懊悔,但为时已晚。
群体心理使人失控;一名自负棍术的入野男子据称杀得最多。白水政恒宅中炉钩据说由当夜的“巡夜棒”改制。
种族嫉妒
暴行不仅出于对“韩国人”的偏见,也因村中美人的恋情被夺而生妒,并被放大为种族仇恨。希尤斯肯1861年遇刺,实因种族嫉妒;幕府赔1万两。现川的群殴虽在山中,停产难瞒領主;但受害者是外来漂流者,或因请愿而获宽贷。
“サンクハン冢”
开窑仅四五年,现川烧绝迹。矢上村长崎大道旁曾有石砌“サンクハン冢”,约1880年拆除。
窑观音
野畑山左侧高地有“窑观音”,小堂内三尊石佛,中央观音约一尺八寸。底座刻多名施主,但因通体朱红难辨,亦令人想起惨剧。三尊精雕佛像罕见,应是为サンクハン等十三人合祀之碑。
施主
底座刻“1704年 三月吉:施主 田中宗悦家、田中甚内家、重富茂兵卫家”,并有“庄之助母、枝伊知母、新左工门母、助五郎母、诸左卫门、千右工门”等。应为宗悦一家与同情遇害者所建。
宗悦墓
田中宗悦1711年去世,墓在窑观音下的公墓,顶置三尺观音像,今失首。其后裔田中隼人居长崎市上小岛町。
鬼木窑址碎片
窑观音丘下即窑址,可拾得青栗、青灰等釉片与刷毛、点纹小片;青栗釉小皿、飴釉茶碗留广高台、蛇目垫烧者似最早期。
釉与胎
部分旧作在釉上加白盛并以呉須等彩绘,烧后呈茶褐、紫、赤豆色,受胎土影响。因温度较低,素地易损。名品多被海外收藏(仿作不少);当地多残存普通家用器。
檀野与博览会
1879年长崎首届博览会,富户檀野胜次出品,越日见岭时因粗放摔落;后又因猫逐鼠而破损。
复兴尝试
1895年前后马场藤太夫出资复兴未果。1897年前后野胜次延三川内匠人建窑,遗作似石器质但不同于旧现川。其后改用天草料制白磁,亦有可观之作,终难与旧窑并行而停办;马场之子研习后,1899年前后亦弃窑。
古器举例
有青栗釉波纹刷毛深碗、三彩龟甲手、海鼠色菓子器之铜釉窑变、鶯茶釉薄端花器白象嵌古纹;鼠灰釉隅切方皿嵌鸣子纹;栗釉三道筋与莲华形押刷毛之德利等。并见轻墨釉配呉洲描、全器武藏野纹之向付;栗茶釉铁线花、叶以普鲁士蓝、花白象嵌等。亦多三岛手、霙与细波刷毛佳作;杂器有二升德利指刻家号并撒青料。
现川与木原
木原山技艺近似现川,但仅见“サシ篦”痕;现川还用“チヂラ篦”与棉棒。装饰衔接更胜,非他山可及。业内认为木原多为巧妙仿作。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
鬼木窯之覆滅
有人呼喊「往鬼木窯去!」,群眾乘酒勢蜂擁而至。韓人不及應對;十三人中在場十二人被毆殺,窯與器具亦盡毀。酒醒悔恨,已晚。
群體心理常使人失控;入野一人自負棍術,據稱殺人最多。白水政恒宅之爐鉤,相傳由當夜「夜棒」削制。
種族妒恨
暴行不唯出於對「韓國人」之偏見,亦因村美女情被奪而妒,升騰為人種仇。希尤斯肯1861遇刺,實多因人種嫉妒;幕府賠一萬兩。現川群毆雖在山區,停產難瞞領主;然受害者為外來漂泊者,或以請願得寬貸。
「サンクハン塚」
開窯僅四五年,現川燒即絕。矢上村長崎大道旁曾有石砌「サンクハン塚」,約1880年拆除。
窯觀音
野畑山左側高丘有「窯觀音」,小堂內三尊石佛,中尊約一尺八寸。座石刻多施主名;因通紅塗飾難辨,亦令人追想慘劇。三尊精雕石佛少見,應為サンクハン等十三人合祀之碑。
施主
座石刻「1704年三月吉:施主 田中宗悅家、田中甚內家、重富茂兵衛家」,並刻「庄之助母、枝伊知母、新左工門母、助五郎母、諸左衛門、千右工門」。當為宗悅一家與同情者所立。
宗悅墓
田中宗悅1711年卒,墓在窯觀音下合葬地,上置三尺觀音像,今失首。其後裔田中隼人居長崎市上小島町。
鬼木窯址之片
窯觀音丘下即窯址,可拾青栗、青灰等釉片與刷毛、點紋小件;青栗釉小皿、飴釉茶碗留廣高臺、蛇目墊燒者疑為早期。
釉與胎
部分舊作加白盛並以呉須等彩繪,燒後呈茶褐、紫、赤豆色,受胎土影響。因溫度較低,素地易損。名品多為海外收藏(仿作亦多);本地僅存庖廚雜器等。
檀野與博覽會
1879長崎首屆博覽會,檀野勝次出品,越日見嶺時粗放致損;後又因貓逐鼠多毀。
復興嘗試
1895前後馬場藤太夫投資復興未成。1897前後野勝次延三川內匠築窯,遺作質近炻器而非舊現川。後改用天草料制白磁,雖有可觀之作,終難並舊窯而停;馬場子習藝,1899前後亦廢。
古器舉隅
有青栗釉波刷深碗、三彩龜甲手、海鼠色菓子器之銅釉窯變、鶯茶釉薄端花器白象嵌古紋;鼠灰釉隅切方皿嵌鳴子紋;栗釉三道筋與蓮華形押刷毛之德利等。並見輕墨釉呉洲描、通體武藏野紋向付;栗茶釉鐵線花、葉以普魯士藍、花白象嵌。亦多三島手、霙與細波刷毛佳作;雜器有二升德利指刻家號並撒青藥。
現川與木原
木原山技藝近似現川,然多僅見「サシ篦」痕;現川更用「チヂラ篦」與棉棒。裝飾銜接更勝,非他山可及。業界以為木原多為巧仿。

