御用唐人町荒物唐物屋職御由緒之次第左の通

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【原文】[Original text]

御用唐人町荒物唐物屋職御由緒之次第左の通
一元祖宗教儀(姓は達名は越字は宗吉州刺史賢の子半弓を能す)高麗國竹浦の陸川崎と申所の産に而文を學武を練(大明萬曆十五年「我天正十五年」)春三月中旬家族を引率し海濱に遊漁す俄に大風高波起り立漁船洋中吹流漂事日既に食盡き飢て爲死干時天道の助を得一小鯨船に飛込み是以て飢を抜け万里の波濤を凌き終に筑前黒崎の濱に主従七人漂着す所の漁夫集合して頻に揚陸食を興へ介抱す漸危難を逃れ仍而所の長宰官厨に訴官厨哀痛深かく衣食を賜り長宰の別業に止宿せしむ其内親戚家族を請段々死亡す宗歡獨り残りて悲歎紅涙に沈む漁夫等爲慰の或時は網を張或時は釣を垂れ鬱方を散ぜしむ干時日本天正十九年辛卯漁夫太蔵と申者案内に而太宰府に参籠して身の無事を祈る此時肥州の太守龍造寺の御親鄉龍造寺七郎左工門家晴様成富十右工門尉茂安樣御登阪御歸路の砌御参詣漂流の始末粗御聞届御用有之由に而官尉御届の上佐嘉御連歸家晴樣御舘被召置衣服並御扇子等被爲頂戴頓而被召連御登城直茂様へ御目見被仰付御の上意其後上々様方被爲御目渡難有奉存候且又段々御家老樣方御屋敷へ御介副御役人御附副罷上り候處何方様も珍敷朝鮮人と被仰御面談御手許近く被召寄候而種々御饗被下物等色々頂戴仕候然末直茂樣被爲召御直朝鮮八箇道の海陸嶮易人民の強弱其外御に付差圖申上候處於本國父母妻子あり哉又歸國の望有之哉御問尋に付有因忍夫而慈母早世仕未妻子の養無夢仕候且遙に洋海を隔漂流の某歸郷の難難斗日本神國因縁有之と相見候に付願は御慈悲を以御園の民と被成度奉願候處甚御感悅被遊候被仰下りて將軍太閤殿下朝鮮御征伐被仰出加藤清正一列御先手濛仰候然處異境の淵底御不案内に而御軍議難被爲御行届某儀生國事別候者に付至彼地諸御用の品々調献第一御軍中の儀不殘心底申上抛身命御奉公仕候樣追々御勝利の上は一際御褒美可被仰付と御意難有御請仕引取候事
一其後毎々御軍議御座候末席被召出御問潯事等不少候處一々奉申上就中朝鮮八箇道の見取繪圖御認候毎日出勤被仰候に付罷出八入箇道の山川嶮岨行程其外巨細に奉申上候事
附大小袴着用仕様被仰候に付家晴様より御大小一腰十右工門様より御袴被爲拜領着用出勤仕候尤被召抱候に付宗歡姓名在名を名字にして川崎清藏と名乗候樣被仰付難有奉存候事
一翌文祿元壬辰三月朔日朝鮮御陣御首途尤直茂樣には三月二十日より御馬廻り斗りに而國一九御乗船御引揚被遊御登駕宗歡儀御本船御側近く被召寄日夜朝鮮國の振合御乗船の砌も猶又御尋に候不殘心底奉申上候に付被遊御成悅候事
附り御首途の節拜領仕候韋威具足大小帶半弓所持御供仕候
一同月下旬朝鮮釜山海浦竹島へ御着船慶州道の五大將奉防之依之烈敷御合戰共末竹島と申處へ御放火奉敵者共不殘御切捨御手始御軍神御血祭被遊候某王城其外御案内仕於所々御合戰無絕間上様初め御軍勢御血戰絕言語候次第右御陣中御用の品々不少候所時々調献仕或は商人に相成敵の城内へ忍入敵の軍處強弱多寡兵糧玉藥等迄依御意掠取日夜抛身差働候事
一文禄三甲午正月太閤樣御朱印到來日本の諸軍勢
一先被召歸候由に而御供仕罷歸候事
附諸侯方始永陣に而至極御難澁殊に疾來病死の御向々不少段相聞一先御歸陣被仰此段内々承知仕候
一文祿五丙申大明日本の和議不調に付里て大軍朝鮮被差越候に付直茂様より御先に勝茂様伏見より御下向同十月二十日伊萬里より御出船に付未御若年殊に御不案内に付諸御用として宗儀御供被仰候に付随分を入御奉公仕候機蒙御意御請申上御供比候事
附凪本(勝本)に而御越年慶長二丁酉正月無御滯御渡海被成慶尚道金海竹島昌原の城に御入被成候
一直茂様にも追々被遊御渡海候處同三月太閤様御用に付又々御歸朝同七月始竹島昌原の城に於て御父子様御對顏 御互に御無事御悅被遊宗歡儀被爲召直茂様より永々忠勤神妙の段被遊御意御茶出御用被仰候依之唐焼のキビショウ奉献の候殊の外御吹聴被成燒物一通製作の御法等委敷御尋に付一々奉申上候處兎角御歸陣の節と被仰残御暇被下候に付御前を引取候事
一宗歡儀元來高麗の産に而日本朝鮮の言語好く通候に付御意日本衣服に相改彼國の製作衣裳を用ひ商人と御仕立所々の城郭忍入陣中當用の品々賣歩行敵方の謀計の次第は不及申軍勢の多剛弱兵糧の多少其外見積り御直に申上候様被仰付唐津(康津か)加羅山蔚山其外所々御合戦の敵方に忍入存分見聞仕候得共專朝鮮言語と申衣裳唐製着用仕候に付彼國の商人被見請候者無之併諸家の間人は数多被召捕切害候もの不少候尤南京城攻の節城中忍入罷在候大明の大將軍李移男より被見咎懐中穿鑿に逢候處日本の書簡致所持候に付稠敷責訊禁獄及數日不相晴既に可爲切害相究り候由内々承り付無是非場合に其夜銀鏡壹文番兵へ奥へ申欺獄屋を出御本陣直様被歸候眞に死を出候段御感悅被遊候事
一太閤殿下御病氣の末御他界被成候由に而慶長三戊戌十二月御歸陣の刻賊船數百艘奉慕候を御討散御引取同十二月筑前博多へ御着直様御登阪に付御供仕罷在り大阪京都其外に初而見物被仰付難有奉存候事
一慶長四己亥四月御暇に而直茂様御歸國御供仕罷歸候處唯今住居仕候場所へ居宅仕候様被仰付宗唐土産に付町號を唐人町御附被下御扶持(十人御扶持)被爲拜領朝鮮御陣中諸用物相調候御吉例を以御内外御用荒物唐物一手に相納御用屋職を以無退轉子孫相續致繁榮候様御意の赴家晴樣御書取御披露の上御印を以被爲戴冥加至極奉存候事
附町號唐人町より御附住居被仰付候儀宗歡儀高麗の産に而朝鮮御陣の刻厚盡忠節仕候儀永末に相顯れ候通難有御賢慮の赴家晴様を以被仰下候に付乍憚御同人様に而御奉申上候又手始並御參勤御往來共被爲渡御目御酒拜領被仰候に付御吉例を以キビショウ御茶出代々奉献候通被仰有之候
一前に書載候通キビショウ 御茶出奉献候砌陶器製作の儀御に付委奉申上置候處追々被遊御歸陣候段相決候に付御内々宗歡被爲召御歸陣の上爲御國產陶山御仕立被成度被思召上候依之右細工仕候者密々相機買連歸候道は無之哉と被仰含候に付吉州より西南に當り金山と申所へ南京細工方功者の共罷在候を八人日本渡來永住陶山革創の儀様々申し渡御國所の山々試燒仕に有田皿山三國一の細工土見當り燒立候以來御國第一の御寶産と相成候尤其内一人至熊山相果申候右の通陶山御仕立の基本は宗歡儀朝鮮より細工人連渡候に付日本名産と相成候御由緒の第御吟味の上珍敷家柄の譯を以慶長十六年辛亥年荒物燒物一職商賣被仰付其段市中御觸達に相成十四町の別當中承知の印形御取被下置の段々御高恩の程冥加に餘り候次第に付淇節被爲下置候御印の御墨附相副御扶持方の儀は差上地行御用屋職並右一職を以相續仕候事
一二代目川崎助工門儀寛永十五年戊寅島原切支丹御征伐の刻御軍勢被差越候に付出張被仰付御陣場罷越候所敵方より出候矢胸に立候共時圓鏡懐中に在り候故右圓鏡に矢當り助命仕御軍用の麻苧同縄蓆其外一切御用の品々尖に相納御辨相整候尤右圓鏡於御陣所燒相捨候由右助命仕候吉例を以手始圓鏡の儀乍丸焼相用候嘉例相成居其節の矢の根干今持傳來候事
一於御城御能御座候節は拜見被爲仰候飯とも被爲拝領成候に付去る文化四年卯九月御能の節跡方比竟拜見奉願候處元方御役福田庄藏様より被御達候は如先規拜見被仰候に付明六ッ時被出元〆方釣合候様尤御時節柄に付飯の儀は不差出段御相成爲拜見罷出候事
附御先代様御入部の翌年御能御座候節も如跡方拜見被仰付候又年始並御參勤御往來と被渡御目御酒拜領仕献上物の儀は吉例を以キビショウ 御茶出差上來候得共五代目勘四郎代唐渡無之に付三本入御扇子に被相替其後白麻(を原料として造せし白紙)に被召成尤轟木の儀は打追三本入御扇子名御披露に而被爲御目渡來候事
一巡見御上使御下向の刻は跡御用の品々諸納方は不及申御領中附廻り勤代々被爲仰付來候手代一人召連候へば二人前の旅籠雑用代被渡下偖又御用品長持入組に持運候に付長持二棹借物に被差出持夫八人被差出來候事
附寛政元年御下向の刻は七代目勘右工門へ被付跡方諸御用尖相勤候天保九年成年御下向の節も跡方の通相勤來候事
一文化十四丁丑松原御神社御再興の儀被仰出候代御重恩の家筋に付爲冥加唐金の御手水鉢奉献候儀奉願候處共通被仰付後見塘儀奉献候難有奉存候勿論前々より家筋御由緒の次第毎々御に付其時々御申上置候就中右手水鉢奉献奉願候刻尚又御由緒御尋に付太圖御達申上置候事
附去る寛政七年卯正月九日夜本宅並抱屋敷共類焼に逢抱屋敷の儀は火元近く諸御役所年々御用の品々買込商家に持廻罷在候不圖右の出火に付先以本は差置抱屋敷の方早速駈付相候得共以及焼失本宅の儀は火元よりは數軒相隔居候に付取片付猶豫仕抱屋敷を重に仕候處俄に風替り本宅へ飛火懸り裏行手狭有之候得共外に運出候向無之無余儀宗欺被爲下置候御書其外一番に持出置候處風並惡敷跡御用品並諸道具に火移り猛火烈敷持出置候長挿入替及燒失甚殘念千萬に奉存候依之數代連續仕來候御用屋職及潰候外無御座參ら懸に付格段御慈悲を以御拜借御救被下御蔭を以不相替御用屋職相勤罷在難有奉存其節及燒失候品々太圖書留相成居分左の通
一直茂様拾通勝茂様五通其外様より宗歡被爲下置御書貳拾參紙並拜領の韋威鎧壹兩敵方忍入候節懷中仕候九寸五分一鞘並南蠻鐵の鎧三兩朝鮮より持渡り重寶仕候事
一朝鮮御陣御首途の節八幡社天満宮御守錦袋入/被爲拜領候御守掛右同斷
一拝領の御上下に御衣裳に又上々様御家老様方より拝領仕候御紋服並御扇子御盃其外諸品々長持一棹右同斷
一直茂様より御用荒物唐物屋職御吉例を以代々被仰候段上意家晴様書取御披露の上御印の御書を以被爲下置候御書等箱入の儘右同断
一御由緒書の儀は箱割損と浸有之候へご見當り候に付早速板にひろけ干立候得共年久敷相成紙切れ損し剝取候儀不相叶に付無余儀其儘寫取候併紙ハラ仕飛散文字讀彙不行届甚以残念奉存候事
一宗歡日夜鍛練仕候半弓並征矢外高麗持渡來候品同断
一宗歡以來持渡來候家財諸道具一切皆以丸燒仕當惑千萬奉存候事
右の通に御座候 以上
天保十年寅六月 御用荒物屋勘四郎


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

(御用唐人町の荒物・唐物屋職に関する由緒は次のとおり。)

元祖は宗教儀(姓は達、名は越、字は宗吉。州刺史賢の子。半弓の技に長ず)。高麗国竹浦の陸・川崎という所の出で、学問と武芸を修めた。万暦十五年(天正十五年)三月中旬、家族を率いて海辺で漁をしていたところ暴風高波に遭い、漁船が吹き流され漂流。食尽きて死に瀕したが小鯨船に乗り移り飢えをしのぎ、ついに筑前黒崎の浜へ主従七人で漂着。漁夫たちに救われ、宰官厨に訴えると衣食を賜り、長宰の別業に逗留した。やがて親族家族は相次ぎ亡くなり、宗歓だけが残って嘆き暮らす。漁夫らは慰め、網や釣りで気を紛らわせた。

天正十九年、漁夫太蔵の案内で太宰府に参籠し無事を祈る。その頃、肥州太守龍造寺の縁戚である龍造寺家晴、成富茂安が上洛帰路に参詣。漂流の次第を聞き、官に届けて佐嘉へ伴い、家晴邸に召して衣服や扇子を賜る。のち直茂に拝謁し上意を得、家老邸にも度々招かれ饗応を受ける。直茂より朝鮮八道の地勢や民情を図示せよと問われ、宗歓は本国に父母妻子の有無や帰国の望みを聞かれて、母は早世し妻子も無く、漂流し帰郷は難、神国日本との縁も感じるので配下の民に加えてほしいと願い出、深く喜ばれた。

やがて太閤の朝鮮出兵が下され、加藤清正らが先鋒となる。異境で軍議が行き届きにくいので、宗歓は生国の事情に通じる者として軍用物資の調達・献上、軍中の実情の進言に身命を賭して奉公し、勝利の暁には褒美をと仰せを拝受。

以後の軍議にも末席として召され、しばしば問われることに一つ一つ答えた。朝鮮八道の見取図を描き、山川や行程まで詳述。大小と袴の着用を許され、家晴から大小一腰、成富から袴を拝領。召し抱えられ、宗歓は姓名を「川崎清蔵」と名乗るよう仰せ付けられた。

文禄元年三月一日、出陣。直茂は二十日より乗船、宗歓は本船側近に召され、日夜朝鮮情勢を問い詰められ、余すところなく答えて悦ばれた。出立の折、韋威具足、大小帯、半弓を拝領して供奉。

同月下旬、釜山・海浦・竹島に着船。慶州道で五大将が防ぎ激戦。竹島に放火し初陣の血祭。王城ほかを案内し、諸所で戦が続く。宗歓は軍用の品々を都度調達、時に商人に装い敵城内に忍び込み、軍勢の強弱・兵糧・玉薬まで探り掠取るなど、身を投じて働いた。

文禄三年正月、太閤朱印が下り、日本の諸軍先に帰還せよとの由。宗歓も供奉して帰国。永陣による困難や病死が多かったとも聞き、まず帰陣せよとの内達があった。

文禄五年、明日和議不調により再び大軍が朝鮮へ。直茂に先立ち勝茂が伏見より下向。十月二十日に伊万里から出船。若年で不案内ゆえ宗歓が諸用に供奉し尽力。勝本で越年し、慶長二年正月に渡海、金海・竹島・昌原の城に入る。直茂も渡海し、三月に一度帰朝、同七月初めに竹島・昌原の城で父子対面、互いの無事を喜ぶ。宗歓は直茂に召され、永年の忠勤を賞されて「御茶出御用」を仰せ付ける。唐焼のキビショウを献じ大いに称賛され、焼物製作の法を詳しく問われ一々答えたが、いずれ帰陣の折にと暇を賜った。

宗歓は高麗出自で日朝両語に通じ、日本衣服に改め唐製の装いで商人に扮し、城郭に忍び込み軍需品を売り歩いた。敵の謀計、兵力や兵糧の多寡などを見積もり直に報告。唐津(康津か)・加羅山・蔚山など諸戦場で潜入。朝鮮語と唐衣装ゆえ現地商人と見られ難を逃れたが、通詞らは多く捕縛・殺害された。南京城攻めでは城内潜入中に大明の将・李移男に咎められ、書簡所持で厳しい詮議・禁獄に遭い、切害寸前であったが、夜に銀鏡一文を番兵に渡して脱出し本陣に帰還、死地を脱した功を賞された。

太閤逝去により慶長三年十二月に帰陣の際、賊船数百艘を討ち散らし、筑前博多に着、直ちに上阪に供奉。大阪・京都などを初見物するよう仰せ付けられた。

慶長四年四月、直茂の帰国に供奉して帰佐。現在の住居地に家作を許され、宗歓が唐土の産であることから町号を「唐人町」と賜り、十人扶持を拝領。朝鮮陣中での調達の先例に倣い、内外の御用荒物・唐物を一手に納める御用屋職を与えられ、子孫相続して繁栄せよとの上意。家晴が書取し御印を賜る。以来、手始・参勤往来のたび拝謁・御酒を賜り、吉例としてキビショウ・御茶出を代々献上。

陶器製作についても詳しく申し上げたところ、帰陣後に「陶山を国産として立てたい」との思し召し。宗歓に密かに「工人を連れ帰る道はないか」と含まれ、吉州西南の金山にいた南京の工巧者八人を日本へ永住させ、陶山革創を申し渡す。国中の山で試焼し、有田皿山に天下一の土を得て焼き立て、国の第一の宝産となる。うち一人は至熊山で没。以上の通り、陶山創立の基本は宗歓が朝鮮より工人を連れたことにありとして、慶長十六年に荒物・焼物一職の商売を仰せ付け、市中触れがあり十四町の別当から承知の印を受ける。御用屋職と右一職を以て相続。

二代目川崎助工門は寛永十五年の島原一揆征伐で陣所に出張。敵矢が胸に立つも、懐中の円鏡に当たり命拾い。軍用の麻苧・縄・蓆などを整え、円鏡は陣所で焼捨てと伝わる。以後、手始には円鏡を丸焼に用いる嘉例とし、矢の根は今に伝来。

御城の御能の節は拝見を仰せ付けられ、飯も拝領。文化四年九月の御能でも跡方にて拝見を願い、先規通り明六つに出、飯は差し出さずに拝見。先代入部の翌年の御能も同様。年始・参勤往来でも拝謁・御酒拝領。五代目勘四郎の代に唐渡が絶えたため三本入御扇子に替え、のち白麻の白紙とし、轟木は打追三本入御扇子名の披露で目通り。

巡見御上使下向の折は、領中の付廻り・御用品の諸納を代々仰せ付けられ、手代一人に二人前の旅籠雑用代が渡され、長持二棹・持夫八人を差し出す。寛政元年は七代目勘右工門に付けられ、天保九年成年の下向も同様に勤仕。

文化十四年、松原神社再興に際し、厚恩の家柄として冥加に唐金の手水鉢奉献を願い、共通に仰せ付けられ後見塘として奉献。以前より家筋の由緒は都度申し上げ、手水鉢奉献の折も由緒を問われたので太図を達した。

寛政七年正月九日夜、本宅と抱屋敷が類焼。抱屋敷は火元近く、御用の品々を買い込み商家に持ち回っていたが出火により先に抱屋敷へ駆けつけるも焼失。本宅は数軒離れていたが、風向き急変で飛火。裏手が狭く運び出せず、宗歓拝領の御書などをまず持ち出したが、猛火で御用品・諸道具に延焼し、長持入替も焼失。御用屋職が潰える外なしと覚悟したが、御借財・御救恤を賜り、変わらず御用屋職を勤め続けられた。焼失品の目録は次の通り――直茂様十通、勝茂様五通、その他宗歓宛御書二十三紙、韋威鎧一領、懐中の九寸五分一刀一鞘、南蛮鉄の鎧三領、いずれも朝鮮より持渡りの重宝。八幡社・天満宮の守り(錦袋入り)や、拝領の上下・紋服・扇子・盃など長持一棹、直茂より御用荒物・唐物屋職を代々仰せ付けられた御書(家晴書取・御印)の箱入り一式等。由緒書は箱割れ・湿損し、板に広げ干したが紙切れ剥落し、やむなく書写したものの、紙腹が飛散し読解不十分で遺憾。

宗歓が鍛錬した半弓・征矢、その他高麗より持渡りの品も同様。宗歓以来の家財・諸道具はことごとく焼失し当惑至極。右の通り。天保十年六月、御用荒物屋勘四郎。


【英語訳】[English translation]

(Origins of the official purveyor in Tōjinmachi dealing in aramono and karamono.)

The founder was Sō Kyōgi (family name Tatsu; personal name Otsu; style Sōkichi), son of the provincial governor Ken; skilled with the short bow. Born at the place called Riku/Kawasaki in Takepo, Koryŏ. Learned letters and arms. In Wanli 15 (Tenshō 15), mid-March, while fishing with his family, a storm drove their boat far offshore. Starving and near death, they leapt onto a small whaler, survived, and finally seven retainers landed at Kurosaki beach in Chikuzen. Fishermen rescued them, and the local steward provided food, clothing, and lodging. Relatives gradually died; only Sōkan remained in grief. Fishermen consoled him.

In Tenshō 19, guided by the fisherman Taizō, he prayed at Dazaifu. There, Ryūzōji Ieharu and Naritomi Shigeyasu, on their return from Kyoto, heard his story and, after reporting to officials, brought him to Saga. At Ieharu’s residence he received garments and fans, then had audience with Naoshige and later with senior retainers, receiving hospitality. Naoshige asked for maps and intelligence on Korea’s eight provinces. When asked about parents, wife, and the wish to return, he answered his mother had died, he had no dependents, the sea barred return, and he wished to become a subject in Japan. This pleased them greatly.

When the Taikō ordered the invasions of Korea and Katō Kiyomasa led the vanguard, Sōkan—versed in his homeland—vowed to procure supplies, report frankly on the army, and risk his life, accepting the promise of reward after victory. He was thereafter summoned to many councils, drew reconnaissance maps of the eight provinces, and reported rivers, passes, and routes. He was permitted sword and hakama; Ieharu gifted a sword set, Naritomi a hakama. Taken into service, he was ordered to assume the surname Kawasaki Seizō.

On 1st day of Bunroku 1, the army set out; Naoshige boarded on the 20th. Sōkan served near the flagship, answering day and night about Korean affairs, earning satisfaction. At departure he received armor, long and short swords, and a short bow. In late month they landed at Busan, Haepo, and Takeshima; fierce battles followed, including a first strike by fire at Takeshima. He guided the army to royal castles; war was incessant. He frequently procured supplies, sometimes disguised as a merchant, infiltrated enemy castles, and seized intelligence on troop strength, provisions, and powder.

In Bunroku 3, a vermilion-seal order called the forces home; he returned in attendance, hearing of difficulties and many sicknesses and deaths in long encampments. In Bunroku 5, peace failed and great forces returned to Korea. Before Naoshige, Katsushige went down from Fushimi; sailing from Imari on the 20th day of the 10th month. Young and unfamiliar, he requested Sōkan’s service. They overwintered at Katsumoto; in Keichō 2 they crossed to Gyeongsang, entering Kimhae, Takeshima, and Changwŏn. Naoshige later re-crossed; in the 7th month, father and son met at Takeshima/Changwŏn and rejoiced in safety. Naoshige summoned Sōkan, commended his loyal service, assigned him “tea-serving duties,” and Sōkan presented a Karatsu-style kibishō. He was asked in detail about ceramic techniques and answered fully, then was dismissed with leave upon return.

Being Korean and fluent in Japanese and Korean, he adopted Japanese dress and Chinese-style garments, masqueraded as a merchant, slipped into fortresses, sold wartime necessities, and reported enemy plots, forces, and provisions directly. He infiltrated Karatsu (Kangjin?), Garasan, Ulsan, and elsewhere. Interpreters were often captured and killed, but Sōkan, in Korean speech and Tang dress, passed as a local merchant. During the Nanjing siege, he was caught by Ming general Li I-nan; with Japanese letters on him, he suffered interrogation and imprisonment, facing execution, but by bribing a guard with a silver mirror escaped the jail and returned to headquarters, winning praise.

After the Taikō’s death, in Keichō 3 they fought off pirate ships and reached Hakata, then went to Osaka and Kyoto, which he was allowed to see. In Keichō 4 he returned to Saga with Naoshige; he was granted a house at his current location, the town name “Tōjinmachi” (as he was a man from Tang lands), and a stipend of ten persons. Following precedent from the Korean campaigns, he was appointed sole purveyor of domestic aramono and imported karamono, the office to be hereditary; Ieharu recorded and sealed this.

Thereafter, at formal visits and processions he was received, given sake, and, by custom, offered kibishō and tea to the lord. Regarding ceramics, after explaining methods he was privately told to establish Tosayama as a domestic production site and asked to bring craftsmen. He recruited eight skilled “Nanjing” artisans from a place called Kanayam in the southwest of Gyeongju, settled them permanently in Japan, and founded Tōzan. After trial firings in various mountains, they found the finest clay at Arita Sarayama and began firing, which became the domain’s foremost treasure. One artisan died at Shigumayama. Thus, on review of this lineage, in Keichō 16 he was authorized to trade in aramono and ceramics; public notices were issued, seals obtained from fourteen ward heads, and the office and shop were to be inherited.

The second generation, Kawasaki Sukemon, in Kan’ei 15 (Shimabara suppression), went to the field; an enemy arrow struck his chest but hit a mirror he carried, saving him. He supplied hemp, ropes, mats, etc.; by precedent the mirror was later burned at the camp. The arrowhead is still preserved.

At castle Noh performances they were summoned to view and sometimes received meals; in Bunka 4 they again viewed per precedent, without presenting food due to the times. Upon the lord’s entry to the domain the following year, likewise. At New Year and on processions they had audience and sake; offerings shifted in the 5th generation from “Tang” items to three-rib fans, later white-hemp paper; the “Todoroki wood” matter was presented under the fan’s name.

When domain inspectors visited, the house was charged with circulating through the domain and handling supplies; for one clerk they were paid for two persons’ lodging and chores, and they supplied two long chests and eight porters. In Kansei 1 this fell to the 7th head, Kan’uemon; in Tenpō 9 likewise.

In Bunka 14, upon the rebuilding of Matsubara Shrine, as a grateful house they petitioned to donate a bronze chōzubachi; permission granted, and it was offered under a guardianship role. On that occasion they again submitted a grand diagram of their lineage.

On Kansei 7, the main and annex houses burned. Despite efforts, both were lost; precious documents first saved were then consumed by shifting winds, destroying long chests and tools. They feared loss of the office, but through loans and relief they continued as purveyors. A list of burned items: ten letters from Naoshige, five from Katsushige, twenty-three others to Sōkan; one armor, a 9.5-sun dagger, three suits of “Nanban-iron” armor—treasures brought from Korea; shrine amulets; garments, crested robes, fans, cups; a chest of documents including the sealed grant of the office. The genealogy text suffered water and damage; they spread and dried it but had to copy it as fragments were lost.

Sōkan’s trained short bow and war arrows, and other Koryŏ items, likewise. Since Sōkan, all household goods and tools were burned—greatly distressing. Thus recorded. Tenpō 10, 6th month, by the official aramono merchant Kanshirō.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

(关于御用唐人町经营荒物与唐物之职的家乘如下。)

开祖为宗教儀(姓达、名越、字宗吉,州刺史賢之子,善半弓)。生于高丽国竹浦之陆・川崎处,兼修文武。万历十五年(三月中旬)与家人渔海遭暴风飘流,饥困将绝,跳上小鲸船得以存活,终与七人漂至筑前黑崎。得渔夫救护,宰官厨给衣食并安置。亲属相继亡,唯宗欢存。天正十九年参拜太宰府求安。

时龙造寺家晴、成富茂安闻其事,报官后携至佐嘉。于家晴邸受衣扇,得见直茂,又屡至家老邸受饗。直茂询朝鲜八道之地理民情,问其父母妻子与归国之望。宗欢言母早逝、无妻子,漂海难归,愿为日本之民,深得喜悦。

继而太阁出兵朝鲜,加藤清正为先锋。宗欢以熟本邦,誓为军中采办供给、直陈情状,赴汤蹈火。自此数被召入军议,绘制朝鲜八道见取图,详述山川行程。许佩刀袴,受家晴赐刀、成富赐袴,命姓川崎清藏而召抱。

文禄元年启行,宗欢近侍本船,昼夜答问,赐甲具、大小、半弓。月下旬抵釜山、海浦、竹岛,连战首捷。或装商入敌城,探军力粮药,随时采办。

文禄三年奉朱印先归;文禄五年和议不成再征。胜茂自伏见下向,十月二十日自伊万里出船,于胜本越年,庆长二年入金海、竹岛、昌原。七月父子相见,嘉其安。宗欢蒙褒,奉命“御茶出”,献唐烧“キビショウ”,详答制陶之法而辞归。

宗欢谙日朝两语,改日装,以唐装扮商,潜入城寨贩卖军需,直报敌情。于唐津(康津)・加罗山・蔚山等地多所潜入。南京攻城时为李移男拘诘,几至斩首,夜以银镜贿守而脱归,蒙嘉许。

太阁崩后,击退贼船至博多,又随上阪观见大阪京都。庆长四年随直茂归佐,于现居之地许建宅,因其“唐土之人”赐町号“唐人町”,给十人扶持,授御用屋职,一手纳内外荒物与唐物,世袭相承。手始、参勤往来例献“キビショウ”与茶。

陶器之制,奉答详尽。归阵后有意立“陶山”为国产,密令招工。宗欢从吉州西南“金山”携“南京细工”八人来日永住,创陶山。试烧各山,于有田皿山得佳土,遂成国之宝产。一人卒于至熊山。于是庆长十六年敕准荒物・烧物一职之商卖,触达市中,十四町押印,职分世袭。

二代川崎助工门于寛永十五年出阵岛原之役,箭中胸,幸怀中圆镜挡之获免,供给军资。其矢根尚存。御城能乐屡被召观,或赐饭。巡见上使下向时,代代奉行领内付回与用品输纳,给旅费,差长持与搬夫。

文化十四年松原神社再兴,因厚恩之家,奉献唐金手水钵,并呈家乘图。寛政七年本宅与抱屋敷类烧,多件御书、甲冑、守札、衣服器具等焚失。赖借贷与救恤,御用屋职得以延续。由緒书浸损裂落,勉力抄出,仍多缺佚。

自宗欢以来携来之半弓征矢与诸器物亦皆焚毁,至为痛惜。天保十年六月,御用荒物屋勘四郎记。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

(關於御用唐人町經營荒物與唐物之職的家乘如下。)

開祖為宗教儀(姓達、名越、字宗吉,州刺史賢之子,善半弓)。生於高麗國竹浦之陸・川崎處,兼修文武。萬曆十五年(三月中旬)與家人漁海遭暴風飄流,饑困將絕,躍上小鯨船得以存活,終與七人漂至筑前黑崎。得漁夫救護,宰官廚給衣食並安置。親屬相繼亡,唯宗歡存。天正十九年參拜太宰府祈安。

時龍造寺家晴、成富茂安聞其事,報官後攜至佐嘉。於家晴邸受衣扇,得見直茂,又屢至家老邸受饗。直茂詢朝鮮八道之地理民情,問其父母妻子與歸國之望。宗歡言母早逝、無妻子,漂海難歸,願為日本之民,深得喜悅。

繼而太閤出兵朝鮮,加藤清正為先鋒。宗歡以熟本邦,誓為軍中採辦供給、直陳情狀,赴湯蹈火。自此數被召入軍議,繪製朝鮮八道見取圖,詳述山川行程。許佩刀袴,受家晴賜刀、成富賜袴,命姓川崎清藏而召抱。

文祿元年啟行,宗歡近侍本船,晝夜答問,賜甲具、大小、半弓。月下旬抵釜山、海浦、竹島,連戰首捷。或裝商入敵城,探軍力糧藥,隨時採辦。

文祿三年奉朱印先歸;文祿五年和議不成再征。勝茂自伏見下向,十月二十日自伊萬里出船,於勝本越年,慶長二年入金海、竹島、昌原。七月父子相見,嘉其安。宗歡蒙褒,奉命「御茶出」,獻唐燒「キビショウ」,詳答製陶之法而辭歸。

宗歡諳日朝兩語,改日裝,以唐裝扮商,潛入城寨販賣軍需,直報敵情。於唐津(康津)・加羅山・蔚山等地多所潛入。南京攻城時為李移男拘詰,幾至斬首,夜以銀鏡賄守而脫歸,蒙嘉許。

太閤崩後,擊退賊船至博多,又隨上阪觀見大阪京都。慶長四年隨直茂歸佐,於現居之地許建宅,因其「唐土之人」賜町號「唐人町」,給十人扶持,授御用屋職,一手納內外荒物與唐物,世襲相承。手始、參勤往來例獻「キビショウ」與茶。

陶器之制,奉答詳盡。歸陣後有意立「陶山」為國產,密令招工。宗歡從吉州西南「金山」攜「南京細工」八人來日永住,創陶山。試燒各山,於有田皿山得佳土,遂成國之寶產。一人卒於至熊山。於是慶長十六年敕准荒物・燒物一職之商賣,觸達市中,十四町押印,職分世襲。

二代川崎助工門於寛永十五年出陣島原之役,箭中胸,幸懷中圓鏡擋之獲免,供給軍資。其矢根尚存。御城能樂屢被召觀,或賜飯。巡見上使下向時,代代奉行領內付回與用品輸納,給旅費,差長持與搬夫。

文化十四年松原神社再興,因厚恩之家,奉獻唐金手水鉢,並呈家乘圖。寛政七年本宅與抱屋敷類燒,多件御書、甲冑、守札、衣服器具等焚失。賴借貸與救恤,御用屋職得以延續。由緒書浸損裂落,勉力抄出,仍多缺佚。

自宗歡以來攜來之半弓征矢與諸器物亦皆焚毀,至為痛惜。天保十年六月,御用荒物屋勘四郎記。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

(关于唐人町御用“荒物・唐物”商的起源记录如下。)

开祖宗教儀,出自高丽竹浦,文武双修,善短弓。万历十五年与家人出海遇风漂流,终在筑前黑崎七人上岸,受渔夫与宰官厨救济。后亲族多殁,仅宗欢存。天正十九年赴太宰府祈安,被龍造寺家晴、成富茂安带至佐嘉,受衣扇,得见直茂,并供给情报与地图,陈明愿归化日本,获允。

太阁出兵朝鲜时,宗欢誓为军中采办与密探,绘八道见取图,屡参军议,被赐佩刀袴,并命姓川崎清藏。文禄元年出征,抵釜山等地参战,或装商潜入敌城,探粮药军势。文禄三年奉令先归;文禄五年再征,庆长二年入金海、竹岛、昌原。七月父子对面,蒙褒为“御茶出”,献“キビショウ”,详答制陶。

宗欢通日朝语,改日装着唐衣,往来城寨售军需并直报敌情。南京之战被李移男拘讯,贿守以银镜脱狱归营受奖。太阁薨后返博多,上阪观大阪京都。庆长四年归佐,赐居于今所,因“唐人”赐名“唐人町”,给十人扶持,授御用屋职,世袭经营内外荒物与唐物,并以“キビショウ・茶”进献为例。

其后奉密令招工创“陶山”,自吉州西南“金山”携“南京工”八人来日,试烧诸山,于有田皿山得名土,遂成国宝产;一人卒于至熊山。庆长十六年敕准经营荒物与烧物,市中触达,十四町押印,职任世袭。

二代川崎助工门于岛原之役箭中胸,赖怀中圆镜而生。屡被召观御城能乐;巡见下向时负责领内输纳与搬运。文化十四年重建松原神社时奉献唐金手水钵。寛政七年宅邸被焚,诸多御书甲冑与器具尽毁;赖借贷救恤而续任御用屋。由绪书浸损,抄录存疑。天保十年六月,御用荒物屋勘四郎记。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

(關於唐人町御用「荒物・唐物」商的起源記錄如下。)

開祖宗教儀,出自高麗竹浦,文武雙修,善短弓。萬曆十五年與家人出海遇風漂流,終在筑前黑崎七人上岸,受漁夫與宰官廚救濟。後親族多殁,僅宗歡存。天正十九年赴太宰府祈安,被龍造寺家晴、成富茂安帶至佐嘉,受衣扇,得見直茂,並供給情報與地圖,陳明願歸化日本,獲允。

太閤出兵朝鮮時,宗歡誓為軍中採辦與密探,繪八道見取圖,屢參軍議,被賜佩刀袴,並命姓川崎清藏。文祿元年出征,抵釜山等地參戰,或裝商潛入敵城,探糧藥軍勢。文祿三年奉令先歸;文祿五年再征,慶長二年入金海、竹島、昌原。七月父子對面,蒙褒為「御茶出」,獻「キビショウ」,詳答製陶。

宗歡通日朝語,改日裝著唐衣,往來城寨售軍需並直報敵情。南京之戰被李移男拘訊,賄守以銀鏡脫獄歸營受獎。太閤薨後返博多,上阪觀大阪京都。慶長四年歸佐,賜居於今所,因「唐人」賜名「唐人町」,給十人扶持,授御用屋職,世襲經營內外荒物與唐物,並以「キビショウ・茶」進獻為例。

其後奉密令招工創「陶山」,自吉州西南「金山」攜「南京工」八人來日,試燒諸山,於有田皿山得名土,遂成國寶產;一人卒於至熊山。慶長十六年敕准經營荒物與燒物,市中觸達,十四町押印,職任世襲。

二代川崎助工門於島原之役箭中胸,賴懷中圓鏡而生。屢被召觀御城能樂;巡見下向時負責領內輸納與搬運。文化十四年重建松原神社時奉獻唐金手水鉢。寛政七年宅邸被焚,諸多御書甲冑與器具盡毀;賴借貸救恤而續任御用屋。由緒書浸損,抄錄存疑。天保十年六月,御用荒物屋勘四郎記。