【原文】[Original text]
佐賀系 大川内窯
唐人町
戦役の際、我鍋島軍に従ひ来りし韓人の一團にして、佐嘉城下に来りし者百八十人と云ひ、或はたゞの三十人といはれ、其確數に於いては誰ならざるも、今の佐賀驛通りの土橋附近が、其住居の遺跡なりしが如く、今に唐人町なる名稱が傅へられてゐる。凡て當時韓人の一行が來住せし處は、唐津、平戸及び諫早を始め、何れも唐人町、又は高麗町などゝ云ふ町名が残されてゐる。
達宗歡
佐嘉唐人町の由来に就いては別説ありて、最初の朝鮮役より六年以前、天正十五年(1587年)に於いて、韓人達宗歡なる者、筑前の沿岸に漂泊し、後四年を経て、鍋島氏の重臣龍造寺家晴(諫早邑主)成宮茂安等に伴はれて、佐嘉城下に來住せしより、此處を唐人町と稱せりとあり、斯くて子孫代々藩用の荒物及唐物屋職として、歴代世襲せる由にて、共由緒書なるもの次の如くである。
以上の由緒書に依れば、宗歡は韓國八道の地理を明かにし、然も重要なる任務に當りたるは、戦役史上特筆すべき出来事なるに、従來嘗て其名前さ知られざしのみでなく、適々其思賞としても値に拾人扶持位に過ぎない。而して當人も亦之に甘んじるは、洵に気の毒に堪へない感がある。
なほ唐人町の鏡圓寺に、彼の墓碑を訪ぬれば、川崎家の墓として、相當加工されたる石碑があり、蔦蔓覆ひ搦めるが、十基許り並んでゐる。そして一番右の端が宗歡の碑にて、明暦元年七月二十三日(1655年)として、了喜宗歡信士と記されてあり、並びて光月好泉信女とあるは其妻であらう。
次に松原神社の門を潜れば、右側に口徑二尺五寸位にて、下は小さく朝顔形になりし青銅の手水鉢があり、それには文政元年寅年八月(1818年)御用荒物、唐物屋、唐人町川崎期四郎とまれてある。猶他に明治六年二月奉献の、青銅製狛犬の臺側に、三十三人の寄附人名を集まれあるが中に荒物屋四郎の名前があり、兎も角川崎家は當時有力なる商估なりしに相違ない。
然れども前記由緒書の中に、有田の磁器創作者は、直茂の希望に基づき、宗歡に依って渡來されし云々の記事に至つては、其余りに大いなる疑團として、これを鵜呑にすることは識者として、甚だ苦しまざるを得ざるものがある。若し此説をして異なりとせば、舊來の有田史は勿論、佐嘉鍋島宗藩及多久藩の文献も、皆空に属すべき問題が生じて来る。
蓋し從來此種の由緒書なるものは、當人より敷代以後の子孫に於いて、自己の祖先を装飾せんが爲めに他の功績まで書き加へて、以て後世に傳ふると共に、領主の厚遇を繼せんとの下心に外ならない。而して其證とすべき墨附や、或は系圖、武具の如きは、先づ○○の年の大火に會いて焼失されしことが、紋切形となつてゐる。
抑々當時我肥前に渡來せし韓人につき、多人數少人数との兩説あるも、著者はまづ多數説に興みする者である。若し少數なりしならんには、彼等に対して今少しく優待せしなるべきも、共際第一の功労者たる李參平に對してさへ、甚僅少なる扶持に過ぎざりしが如く、他藩の領主が陶師を退せしに比して、大なる懸隔ありしことも、亦例證たるを失はず。故に唐人町の地名に就いても、宗歡一人の為に命名せしかは知らざるも、其居せし歸化韓人は、蓋し相當の人數なりしと見るべきであらう。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
佐賀の大川内窯に関わる「唐人町」は、戦の際に鍋島軍に従って来た朝鮮人の一団が住んだ場所に由来するという。人数は百八十人とも三十人とも伝わり定かではないが、今の佐賀駅通りの土橋付近がその居住地の跡とされ、地名「唐人町」が残った。同時期に朝鮮人が移り住んだ唐津・平戸・諫早などにも、「唐人町」や「高麗町」といった町名が伝わっている。
また別説では、天正十五年(1587)に朝鮮人の達宗歓が筑前沿岸に漂着し、四年後、龍造寺家晴(諫早邑主)や成宮茂安らに伴われて佐嘉城下に移り住み、そこが「唐人町」と呼ばれるようになったという。以後、子孫は藩御用の荒物(日用品)や唐物を扱う商人として代々世襲した、と由緒書にある。
その由緒書によれば、宗歓は朝鮮八道の地理に通じ、重要な任務にも当たったという。にもかかわらず名は史上ほとんど知られず、褒賞も十人扶持ほどとわずかで、本人もそれを受け入れたらしい。気の毒なほどである。唐人町の鏡円寺にある彼の墓を訪ねると、蔦が絡む川崎家の墓石が十基ほど並び、右端が宗歓の碑で、明暦元年七月二十三日(1655)「了喜宗歓信士」と刻まれ、並んで「光月好泉信女」とあるのは妻であろう。
さらに松原神社の門を入ると右手に口径二尺五寸ほど、下部が朝顔形の青銅の手水鉢があり、文政元年(1818)「御用荒物 唐物屋 唐人町 川崎期四郎」と記されている。明治六年(二月)奉献の青銅製狛犬の台座にも三十三人の寄附名が刻まれ、その中に「荒物屋四郎」が見える。川崎家が当時有力な商家であったのは間違いない。
ただし、同書に「有田の磁器創始者は直茂の意向により宗歓が招いた」とする記事は、疑問が大きく、そのまま受け入れるのは難しい。もしこれを是とすれば、従来の有田史はもとより、佐嘉鍋島宗藩や多久藩の文献まで成り立たなくなるからである。一般にこの種の由緒書は、後代の子孫が祖先を飾り、領主からの厚遇を保とうと、他人の功績をも書き足すことが少なくない。証拠となる文書や系図・武具などは「某年の大火で焼失」とするのが常套句である。
当時、肥前に渡来した朝鮮人の数については多説少説あるが、著者は多数説を採りたい。もし少数であったなら、彼らへの待遇はもう少し手厚かったはずで、第一の功労者である李参平でさえわずかな扶持にとどまった事実は、それと矛盾する。他藩が陶工を手放したこととの落差も同様に例証となる。したがって「唐人町」という地名も、宗歓一人にちなむとは限らず、そこに定住した帰化朝鮮人が相当数いた結果だと見るのが妥当であろう。
【英語訳】[English translation]
“Tōjinmachi” connected with the Ōkawachigama of Saga is said to have originated where a group of Koreans who followed the Nabeshima forces during the wars settled. The number varies—some say 180, others only 30—and is uncertain, but the area near Dobashi on today’s Saga Station Street is regarded as their former residence, and the name “Tōjinmachi” remains. Similar names such as “Tōjinmachi” or “Koraimachi” survive in places where Koreans settled at that time, including Karatsu, Hirado, and Isahaya.
Another account states that in 1587 (Tenshō 15) a Korean named Tatsu Sokan drifted ashore on the Chikuzen coast. Four years later he moved to the castle town of Saga accompanied by Ryūzōji Ieharu (lord of Isahaya) and Narimiya Shigeyasu, after which the area came to be called Tōjinmachi. His descendants reportedly served as hereditary purveyors to the domain, dealing in aramono (daily goods) and imported karamono, according to a family provenance document.
That document claims Sokan knew the geography of Korea’s eight provinces and undertook important missions—facts that would merit special mention in military history—yet his name is scarcely known, and his reward amounted to only a ten-person stipend. He seems to have accepted this, which feels rather pitiable. At Kyōen-ji in Tōjinmachi stand about ten Kawasaki family gravestones overgrown with vines; the rightmost is Sokan’s, inscribed “Ryōki Sokan Shinshi,” dated July 23, 1655 (Meireki 1). Beside it is “Kōgetsu Kōsen Shinjō,” likely his wife.
At the gate of Matsubara Shrine, on the right, there is a bronze basin about 75 cm in diameter, flaring like a morning glory. It bears the inscription: “Bunsei 1 (1818), official purveyor of aramono and dealer in karamono, Kawasaki Kishirō of Tōjinmachi.” On the base of bronze komainu dedicated in February of Meiji 6 (1873), a list of 33 donors includes “Aramonoya Shirō,” further showing the Kawasaki family’s commercial influence.
However, the same provenance claims that the founders of Arita porcelain were brought over by Sokan at the wish of Naoshige. This is highly doubtful; accepting it would upend not only conventional Arita history but also documents of the Saga Nabeshima domain and the Taku domain. Such family records often embellish ancestors, adding others’ merits to secure continued favor from their lords, and the “proofs”—charters, genealogies, arms—are routinely said to have perished in some great fire.
As for how many Koreans came to Hizen, opinions differ, but the author supports the view that they were many. If they had been few, their treatment would likely have been more generous; even the foremost contributor, Ri Sampyeong, received only a small stipend. Compared with other domains that dismissed their potters, the disparity is telling. Thus the name Tōjinmachi need not derive from Sokan alone; it is more reasonable to see it as reflecting a considerable number of naturalized Koreans who lived there.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
与佐贺大川内窑相关的“唐人町”,据说源自战时随鍋島军来到日本的朝鲜人一队在此定居。人数或称一百八十人,或称仅三十人,已不可确知,但今佐贺站通的土桥附近被视为其故居遗址,地名“唐人町”因此保留。同期在唐津、平户、谏早等地,亦留有“唐人町”“高丽町”等名称。
另说称,天正十五年(1587),朝鲜人达宗欢漂至筑前海岸,四年后在龍造寺家晴(谏早邑主)、成宫茂安等人陪同下移居佐嘉城下,于是此地称为唐人町。其子孙作为藩之御用商人,世代经营荒物(日用品)与唐物,载于家传文书。
据该文书,宗欢通晓朝鲜八道地理,并承担要务,本应载入战史,然其名鲜为人知,赏赐亦不过十人扶持,且本人亦甘受,实在令人不忍。唐人町之镜圆寺有其墓,蔓草缠绕的川崎家墓碑约十基排立,最右为宗欢碑,刻“明历元年七月二十三日 了喜宗欢信士”,并列“光月好泉信女”,当为其妻。
松原神社门内右侧有青铜手水钵,口径约二尺五寸,下部呈牵牛花形,铭“文政元年(1818)御用荒物 唐物屋 唐人町 川崎期四郎”。又,明治六年(二月)奉献之青铜狛犬台座录三十三名捐者,其中有“荒物屋四郎”。可见川崎家当时为有力商家。
然而,该文书所述“有田磁器之创始者系直茂所望由宗欢招致”之说疑点甚多,难以尽信。若从之,则既有的有田史,以及佐嘉鍋島宗藩与多久藩文献皆将动摇。此类由绪书往往为后代粉饰祖先,并以求延续领主之优遇,常以“某年大火焚毁”为证据缺失的套语。
关于渡来肥前的朝鲜人数,众说纷纭,作者倾向多人数说。若人数寡少,当更受优待;然第一功劳者李参平亦仅得微薄扶持。与他藩遣退陶工的状况相比,其差距亦足为例证。故“唐人町”未必因宗欢一人而得名,更应视为有相当数量的归化朝鲜人聚居所致。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
與佐賀大川內窯相關的「唐人町」,據說源自戰時隨鍋島軍來日的朝鮮人一隊在此定居。人數或稱一百八十人,或稱僅三十人,已不可確知,但今佐賀驛通的土橋附近被視為其故居遺址,地名「唐人町」因此保留。同期間在唐津、平戶、諫早等地,亦留有「唐人町」「高麗町」等名稱。
另說稱,天正十五年(1587),朝鮮人達宗歡漂至筑前海岸,四年後在龍造寺家晴(諫早邑主)、成宮茂安等人陪同下移居佐嘉城下,於是此地稱為唐人町。其子孫作為藩之御用商人,世代經營荒物(日用品)與唐物,載於家傳文書。
據該文書,宗歡通曉朝鮮八道地理,並承擔要務,本應載入戰史,然其名鮮為人知,賞賜亦不過十人扶持,且本人亦甘受,實在令人不忍。唐人町之鏡圓寺有其墓,蔓草纏繞的川崎家墓碑約十基排立,最右為宗歡碑,刻「明曆元年七月二十三日 了喜宗歡信士」,並列「光月好泉信女」,當為其妻。
松原神社門內右側有青銅手水鉢,口徑約二尺五寸,下部呈牽牛花形,銘「文政元年(1818)御用荒物 唐物屋 唐人町 川崎期四郎」。又,明治六年(二月)奉獻之青銅狛犬臺座錄三十三名捐者,其中有「荒物屋四郎」。可見川崎家當時為有力商家。
然而,該文書所述「有田瓷器之創始者係直茂所望由宗歡招致」之說疑點甚多,難以盡信。若從之,則既有的有田史,以及佐嘉鍋島宗藩與多久藩文獻皆將動搖。此類由緒書往往為後代粉飾祖先,並以求延續領主之優遇,常以「某年大火焚毀」為證據缺失的套語。
關於渡來肥前的朝鮮人數,眾說紛紜,作者傾向多人數說。若人數寡少,當更受優待;然第一功勞者李參平亦僅得微薄扶持。與他藩遣退陶工的狀況相比,其差距亦足為例證。故「唐人町」未必因宗歡一人而得名,更應視為有相當數量的歸化朝鮮人聚居所致。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
与佐贺的大川内窑有关的“唐人町”,据称起源于随鍋岛军来日并在此定居的一批朝鲜人。人数说法不一——或称180人,或称仅30人——但今佐贺站街道的土桥附近被视为旧居之地,地名“唐人町”仍在。唐津、平户、谏早等地也保留了“唐人町”或“高丽町”等名。
另一说法称,1587年(天正十五年)朝鲜人达宗欢漂至筑前海岸,四年后与龍造寺家晴(谏早邑主)、成宫茂安等人同至佐嘉城下,因而此地称“唐人町”。家传文书称其后裔世为藩御用商,经营荒物与唐物。
该文书还说宗欢熟悉朝鲜八道地理并承担要务,却鲜为人知,赏赐仅十人扶持。他之墓在唐人町镜圆寺,川崎家墓碑约十基,最右为宗欢碑,刻“1655年(明历元年)了喜宗欢信士”,旁为“光月好泉信女”,疑为其妻。
松原神社门旁有口径约75厘米、呈牵牛花形的青铜手水钵,铭“1818年(文政元年)御用荒物 唐物屋 唐人町 川崎期四郎”。明治六年(二月)奉献的青铜狛犬台座列33名捐者,其中有“荒物屋四郎”,显示川崎家当时势力不小。
但该文书声称“有田瓷器创始者由宗欢依直茂之愿招来”,此说疑点甚多;若据此,则既有的有田史与佐嘉鍋岛宗藩、多久藩文献皆受动摇。此类家乘往往为粉饰先祖而增添他人功绩,并以“某年大火焚毁”为证据欠缺的常套。
关于渡至肥前的朝鲜人数,意见分歧。若人数甚少,应获更优厚待遇;然而首功李参平亦仅受薄给。与他藩遣退陶工相比差距明显。故“唐人町”未必仅因宗欢而名,更可能反映了相当数量的归化朝鲜人定居。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
與佐賀的大川內窯有關的「唐人町」,據稱起源於隨鍋島軍來日並在此定居的一批朝鮮人。人數說法不一——或稱180人,或稱僅30人——但今佐賀驛街道的土橋附近被視為舊居之地,地名「唐人町」仍在。唐津、平戶、諫早等地亦保留「唐人町」或「高麗町」等名。
另一說法稱,1587年(天正十五年)朝鮮人達宗歡漂至筑前海岸,四年後與龍造寺家晴(諫早邑主)、成宮茂安等人同至佐嘉城下,因此此地稱「唐人町」。家傳文書稱其後裔世為藩御用商,經營荒物與唐物。
該文書又稱宗歡熟悉朝鮮八道地理並承擔要務,卻鮮為人知,賞賜僅十人扶持。他之墓在唐人町鏡圓寺,川崎家墓碑約十基,最右為宗歡碑,刻「1655年(明曆元年)了喜宗歡信士」,旁為「光月好泉信女」,疑為其妻。
松原神社門旁有口徑約75公分、呈牽牛花形的青銅手水鉢,銘「1818年(文政元年)御用荒物 唐物屋 唐人町 川崎期四郎」。明治六年(二月)奉獻的青銅狛犬臺座列33名捐者,其中有「荒物屋四郎」,顯示川崎家當時勢力不小。
但該文書聲稱「有田瓷器創始者由宗歡依直茂之願招來」,此說疑點甚多;若據此,則既有的有田史與佐嘉鍋島宗藩、多久藩文獻皆受動搖。此類家乘往往為粉飾先祖而增添他人功績,並以「某年大火焚毀」為證據欠缺的套語。
關於渡至肥前的朝鮮人數,意見分歧。若人數甚少,理應獲更優厚待遇;然而首功李參平亦僅受薄給。與他藩遣退陶工相比差距明顯。故「唐人町」未必僅因宗歡而名,更可能反映相當數量的歸化朝鮮人定居。

