九山道清~成富彌六兵衛

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【原文】[Original text]

九山道清
 此際多くの韓人達は、日本軍の爲めに道案内をなし、或は糧秣の補給、其他の便宜を奥へしものなるが、蓋し自ら好んで成せしにあらず、多くは我軍に威嚇されて、止むを得ず其額使に従ひしものであらう。此時佐嘉へ歸化せし韓人中には醫道に造詣ある林一徳、林榮久父子があり双子孫は蓮池藩に仕へし竹場があり、或は醫藥に精通せし九山道清なる者ありて、後庄左工門と改め、城下に於て半兵衛更紗を織出したのである。
 中に直茂が、晋城より連歸りし少年の、後に能書家となりし洪浩然(同韓人淨珍と共に明暦三年藩主に殉死した)なども、其一人であつた。其他行李工あり、飴工あり、織工ありて、凡ての人数より見れば、陶工の数は余り多からざりしものゝ如く、藩は此内の一連れ七人を、今の佐賀郡金立村の朝熊山下に置くことゝ成った。蓋し此分布は、必ずしも陶工のみではなかつたのである。
 不老不死の薬草を求む 朝熊山(また玖摩山)乃ち金立山は、往古かの徐福一行中の徐林なる者、不老不死の霊薬を求めて、有明海より新北搦に上陸し、そして此地に來つて、探檢せしての傳説がある。(此處に如何なるものを求めしかは不明なるも、今馬兜鈴科に属する、黒蕗「細辛」と稱する薬草がある)又此地方は、古代の遺跡に富み古墳より曲玉などを見せしことがあり、殊に石鏃の多きところである。
 大陸民族が、漢韓方面より渡來せしものとすれば、地勢上まづ我肥前の如きは、最早くより其根據地たりしと見るも、穴誇張にあらざるべく。就中今の三養基郡一帶の九千部山下より、脊振、天山等の山麓には古代民の尻に棲息せしものであらう。殊に三養基郡麓村一帯と、基山村山麓、旭村安良.旭山、北茂安村宇土、白石、板部、中津隈、及上峯村さては中原村内於保里山より、神埼郡三田川地方に至るまで、無数の貝塚と合せ甕(彌生式土器)が發掘さることは、前段に述べし如くである。而してそれが天山麓より、上佐嘉に至るまで、古代民族の遺物が發見さるこ珍らしくない。

望郷の哀號
 斯くて此處に居を定められし韓人は、日を経るに従ひて、何れも望郷の念へ難く或者の如きは、哀號と泣哭して止まざるより直茂は之を憐れみて、藩中より特に漢詩を書くする者を遣はして、吟詠の相手となし、以て彼等を慰藉せしといはれてゐる。

金立の朝鮮墳
 此處の田甫の中に、朝鮮墳と稀して二基の自然石がある。一つは「逆修朝鮮國工政大王之孫金公之立石」と記し、右側に「寛永六年己巳道清定門」(1629年)「妻女同國金氏妙清禅定尼八月日」といへるのと、今一基は「曉月浮雲禅定門寛永五年戊辰九月初五日」と記されてある。此禅定門禅定尼といふ法號位は、禪宗にて特に身分高き人か、或は入禪悟道の歸依者にあらざれば、謚られぬ戒名位である。
 而して暁月の方は普通の墓碑なるも、金公夫婦の碑に逆修とあるは、當人の生前に於て逆め建立して、以て冥福を祈りし墓碑なるか、或は身は他郷に去りながら、故國の大小眷属の爲め此地の寺院に帰依して、共冥幅に建て置きしものなるべく、何れにせよ夫婦墓なれば、子供が先きに死去せる逆修にはあらざる如くである。

道清の墓
 又此設に道清の文字あるは、前記の九山道清の墓ならずやとの説あるも、此道清は、慶安四年七月二十日(1651年)卒去し、其墓碑は、前記唐人町の鏡圓寺にあるといはれてゐる。

黒土原の窯趾
 前記の如く、工政大王の孫など誇張的に戒名されてあるも、畢竟此墓主が製陶せしやも不明である。然し此一行中の何者かが、此地に開窯せしこと察せらるゝより、墓地より、七八丁を隔てし、其の窯跡といふ黒土原に至れば果して韓人の築窯すべき勾配ある山麓があり。其登り口なる柿の樹の下に埋もれて、頭部を少しく露はせる小窯の如き築造物がある。
 それは一見せしところ、奥行五尺位竪四尺位ありて、聞けば隣家の老人が、以前木炭を焼きしことある由にて、之を以て陶窯とは認め難い。其窖口の堅固なる石材の構へより推考して、ドルメンにはあらざるべきも、或は唐津の大島などにある如き、古代民族の穴居の跡を見るに相態はしい。猶此上部なる丘上が、窯跡らしき勾配であつた。要するに諸種の口碑を綜合して、兎も角此黒土原に於て製陶せことには相違ない。而して此處は二代藩主鍋島光茂の室が建立せし宗壽庵の遺跡であり、又葉隠の著者山本常朝の庵趾近くである。

韓人陶工移轉の理由
 韓人一行中の陶工は、此處の聖人嶽の麓なる黒き粘土を採掘して、製陶に従事せしところ、川久保邑主(此地は神代氏の宰邑)は、斯くては伐木の爲水源をせしめんことを憂ひ、宗藩にては、又共結果佐嘉城を見透かさるゝの不利なるを以て、此一行を他へ移轉せしめしの説あるも、斯くの如き理由は頗る薄弱にして信を措き難い。蓋し陶工以外の韓人には、此地に於いて終りを告げし者あり見るべく、それは前記墓碑年號の寛永五年(1628年)は、慶長三年(1598年)の渡來者として起算するも、既に此地に三十一年間を經過してゐるので、略之を推定することが出来る。

南天茶屋の兩器
 今其古窯品として、此處の南天茶屋にある、代赭地緣附獨樂形胴の花瓶(高尺二寸、口徑六寸五分、胴廻三尺一寸五分、十二三段の筋彫がらしてある)を見るに、暗黄釉の飛点がついており。別に暗黄釉の四方肩附並耳附の茶壺(高一尺二寸五分、口徑二寸五分、胴廻三尺四寸)があるのは、前の花瓶と同時に製作せしもの如く、そして茶壺施釉の際に花瓶へ飛釉せし如く見らるゝのである。此兩器こそ多くの探見者が、等しく黒土原焼の遺物ならんとするも、作風余りに調ひ過ぎて、之を短期の開窯作品と断言するには、頗る躊躇せざるを得ぬ。

荒砂交りの祝部土器
 依て其他を物色せしところ、朝鮮墓の傍より發掘せしといへる、四寸位の皿がある、是は青灰色の胎土の儘にて、全く施釉なく、然も荒砂交りのざらざら肌なる唐焼なるが裏部は丸底の儘にて高臺なく、全然手捻り細工の祝部土器ながら比較的硬度に焼締られてあった。
 此土器は、前記の南天茶屋の作品とは正反對に又余りに粗製品にて、今回各山にて探見せし肥前古窯中、第一と稱すべき元始的製品である。此塚物は或は前述せし穴居民族の遺品にあらざるやとの觀がある。然るに其後此中間程の製作品、乃ち例の灰色釉や飴釉にて、製せられし皿や茶碗などが、此處より發掘されしこさを聴き、それなる哉と首肯したのである。

成富彌六兵衛
 明治十年頃宗藩より、此黒土原に来りし成富彌六兵衛(今の甲子太郎の父)は、當時舊士族へ授産の目的を以て、昔時より由緒ある此黒土原焼に緣み、新たに製陶事業を目論見て之が企業見積り書を添附して、其筋へ願書を呈出せしも、士族の工業に陶磁器製造は突飛なりとて遂に中止するに至ったのである。
 記述は元へ戻り、此地の韓人陶工は、前に掲げし理由よりも、此處に適當なる原料を得ざるを以て、他郷に良土を求むべく、自發的に立去りしと見ることが妥當であらう。或は隣村川久保に移轉して、此地に開窯せしさの説をなすものあるも川久保の製品は、前記外編中に述べし如く、元祿時代創業されしといへる半磁器にて、既に日本化された練熟期の焼物である。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

この時期、多くの朝鮮人は日本軍の案内役をさせられ、糧秣の補給などにも動員された。自ら望んでではなく、多くは威圧され従わざるを得なかったのであろう。佐嘉に帰化した人々の中には、医術に秀でた林一徳・林榮久の父子や、その子孫で蓮池藩に仕えた竹場がいる。医薬に通じた九山道清もおり、のちに庄左工門と改名して城下で半兵衛更紗を織り出した。

直茂が晋城から連れ帰った少年で、のちに能書家となった洪浩然(韓人の淨珍とともに明暦三年に藩主へ殉死)もその一人である。行李職人、飴職人、織り手などもいて、人数から見れば陶工はむしろ少なかったらしい。藩はその一団の七人を、現在の佐賀郡金立村の朝熊山の麓に置いた。ここに集められたのは必ずしも陶工だけではない。

不老不死の薬草を求めたという伝説がある。朝熊山(玖摩山)すなわち金立山には、徐福の一行の徐林が有明海から新北搦に上陸し、この地で霊薬を探したと伝える(何を求めたかは不明だが、今も馬兜鈴科の薬草「細辛」がある)。この地域は古代遺跡が多く、古墳から曲玉が出土した例があり、とくに石鏃がよく見つかる。

大陸の人々が漢・韓方面から渡来したなら、地勢から見て肥前は早くから拠点となったと考えてよい。とりわけ三養基郡の九千部山麓から脊振・天山の山裾には古代人の居住が推される。麓村、基山村の山麓、旭村安良・旭山、北茂安村宇土・白石・板部・中津隈、上峯村、中原村於保里山から神埼郡三田川まで、無数の貝塚とともに甕(弥生式土器)が発掘されるのは前述の通りで、天山麓から上佐嘉に至るまで古代遺物の発見は珍しくない。

やがてこの地に住まわされた朝鮮人たちは、日が経つほど望郷の念に耐えられず、声を上げて泣く者もあった。直茂はこれを哀れみ、藩から漢詩に通じた者を遣わして唱和させ、心を慰めたという。

この田地の中には「朝鮮墳」と呼ばれる自然石の碑が二基ある。一つには「逆修朝鮮國工政大王之孫金公之立石」とあり、右側に「寛永六年己巳道清定門」「妻女同國金氏妙清禅定尼八月日」と刻む。もう一基には「曉月浮雲禅定門寛永五年戊辰九月初五日」とある。禅定門・禅定尼の法号は、禅宗で身分が高いか篤い帰依者にのみ与えられる名である。

暁月の方は通常の墓碑だが、金公夫婦の碑に「逆修」とあるのは、生前に自ら建立して冥福を祈ったか、他郷に去りつつ故国の一族のため、この地の寺に帰依し冥福を願って建てたかのいずれかであろう。夫婦墓である以上、子の先死による逆修ではあるまい。

碑文に「道清」とあるのは、九山道清の墓ではないかという説もある。だが道清は慶安四年七月二十日(1651)に没し、その墓は唐人町の鏡圓寺にあると伝える。

黒土原の窯跡について。碑の戒名に「工政大王の孫」と誇張も見えるが、墓主が陶工かは不明。ただし一行の誰かがこの地で窯を開いたと察せられ、墓地から七、八丁離れた黒土原には、朝鮮人が築窯しそうな傾斜の山麓がある。登り口の柿の木の下に、頭が少し出た小窯状の構造物が埋もれている。

見たところ奥行五尺、竪四尺ほど。かつて近所の老人が木炭を焼いたといい、陶窯とは断じがたい。竈口の堅固な石組からドルメンではなさそうだが、唐津の大島などにある古代の穴居跡に似る。さらに上の丘も窯跡らしい勾配だ。諸証言を総合すれば、黒土原で製陶が行われたこと自体は間違いない。ここは二代藩主鍋島光茂の室が建てた宗壽庵の跡で、『葉隠』の著者山本常朝の庵跡にも近い。

韓人陶工移転の理由として、聖人嶽の麓で黒い粘土を採っていたが、川久保の邑主(神代氏の宰邑)が伐木で水源が枯れると案じ、宗藩も佐嘉城が見下ろされる不利を恐れて移したという説がある。しかし根拠は薄い。陶工以外の朝鮮人の中にはこの地で生涯を終えた者もあり、寛永五年(1628)の墓碑から、慶長三年(1598)渡来としても既に三十一年を過ごしていたことが推測できる。

古窯の作として、南天茶屋に代赭地で縁取り、独楽形胴の花瓶(高一尺二寸、口径六寸五分、胴回り三尺一寸五分、十二三段の筋彫)と、暗黄釉の四方肩付き・並耳付き茶壺(高一尺二寸五分、口径二寸五分、胴回り三尺四寸)がある。両者は同時作のようで、茶壺に釉を施した際の飛び釉が花瓶にかかったようにも見える。多くの探訪者は黒土原焼の遺物とするが、出来が整いすぎ、短期の開窯作と断ずるには躊躇する。

一方、朝鮮墓のそばから発掘された四寸ほどの皿は、青灰色の胎土のままで無釉、荒砂混じりのざらついた唐焼で、裏は丸底・高台なしの手捻りの祝部土器。比較的強く焼き締まっているが、南天茶屋の品とは対照的にきわめて粗い。今回見た肥前古窯の中でも最初期の作といえる。これは前述の穴居民の遺品かもしれない。その後、中間的な製品――灰色釉や飴釉の皿や茶碗――がここから出たと聞き、なるほどと得心した。

明治十年ごろ、宗藩から黒土原に来た成富彌六兵衛(今の甲子太郎の父)は、旧士族救済のため、由緒ある黒土原焼にちなみ新たな製陶事業を企て、見積書を添えて出願したが、「士族の工業に陶磁は突飛」とされ中止となった。

結論として、この地の朝鮮人陶工は、前記の理由よりもむしろここで適切な原料が得られず、良土を求め自発的に移ったと見るのが妥当である。隣村の川久保に移って開窯したという説もあるが、川久保の製品は元禄期創業の半磁器で、すでに日本化した熟成期の焼物である。


【英語訳】[English translation]

At that time many Koreans were compelled to guide Japanese troops, supply provisions, and provide other services—mostly under coercion rather than by choice. Among those naturalized in Saga were the physician duo Hayashi Ittoku and Hayashi Eikyū, whose descendants served the Hasuike domain; another was the medically learned Kuzan Dōsei, later renamed Shōzaemon, who wove Hanbē sarasa textiles in the castle town.

Naoshige also brought back a youth from Jinseong who later became the accomplished calligrapher Hong Kōzen (he and the Korean Jōchin committed junshi for their lord in Meireki 3). There were porters, candy makers, and weavers; by headcount potters were relatively few. The domain settled a group of seven at the foot of Asakuma-yama in today’s Kinnadate, Saga. The placement did not consist solely of potters.

A legend says that on Asakuma-yama (Kuma-yama), namely Kinnadate-yama, a member of Xu Fu’s party named Xu Lin landed from the Ariake Sea at Shin-Kitagarami seeking an elixir of immortality (the area has the Aristolochiaceae herb “Saishin”). The district abounds in ancient remains—magatama from kofun and especially many stone arrowheads.

If migrants crossed from the Han–Korean mainland, Hizen’s terrain made it an early base. From the foot of Kusambuyama across the foothills of Sefuri and Tenzan, prehistoric settlement is likely. From Fumoto and Kiyama to Asahi (Yasu, Asahi-yama), Kitashigean (Uto, Shiraishi, Itabe, Nakatsuguma), Kamimine, and Nakahara’s Ohoriyama toward Mitagawa in Kanzaki, countless shell middens and Yayoi jars have been unearthed; likewise, relics appear from the Tenzan foothills up to Kami-Saga.

Those Koreans settled here later succumbed to homesickness; some wailed in grief. Naoshige pitied them and sent men versed in Chinese poetry to compose with them and console their hearts.

In these paddies stand two natural stones called the “Chōsen tumuli.” One reads “Memorial erected in anticipation of death for Lord Kin, grandson of the Great Minister of Public Works of Chōsen,” with “Kanei 6 (1629) Dōsei Zendemon” and “his wife, also of the Kin clan, Myōsei Zendeni, eighth month.” The other reads “Gyōgetsu Fūun Zendemon, Kanei 5 (1628) Ninth Month Fifth Day.” The Zendemon/Zendeni dharma titles were granted in Zen only to high status or deeply devout adherents.

Gyōgetsu’s stone is an ordinary gravestone, but the Kin couple’s stone is marked “gyakushu,” indicating a memorial erected during the subject’s lifetime to pray for posthumous peace—or perhaps, though living abroad, they dedicated it at a temple here for their kin at home. Being a couple’s grave, it was not a memorial for a predeceased child.

Some argue the name “Dōsei” refers to Kuzan Dōsei’s grave, but records say Dōsei died on July 20, 1651 (Keian 4) and his stone is at Kyōen-ji in Tōjinmachi.

As for the Kurotsuchihara kiln site: although the grand posthumous title claims descent from a “Great Minister,” whether the tomb owner was a potter is unknown. Yet someone from the party likely fired pottery here. About 7–8 chō from the cemetery lies Kurotsuchihara, a slope apt for a Korean-style kiln; beneath a persimmon tree at the path’s mouth is a small, partially exposed built structure.

It measures roughly five shaku deep and four shaku high. A local elder once burned charcoal there, so it is hard to call it a kiln. From the stout stone-framed mouth it seems not a dolmen, but rather akin to cave dwellings seen on Ōshima in Karatsu. The upper knoll also has a kiln-like grade. Taken together, oral accounts strongly suggest pottery was made at Kurotsuchihara. The spot is also where the wife of the 2nd lord Nabeshima Mitsushige built Sōjū-an, and near the hermitage of Yamamoto Tsunetomo, author of Hagakure.

Why the Korean potters moved: one tale says they mined black clay on Seijin-dake’s flank, but the Kawakubo lord feared deforestation would dry springs, and the domain disliked the site’s view over Saga Castle, so the group was relocated. The reasoning seems weak. Some non-potters did end their lives here: since a tomb bears Kanei 5 (1628), counting from Keichō 3 (1598) arrival gives roughly thirty-one years in residence.

As putative Kurotsuchihara ware, Nanten Chaya preserves a vase with ochre ground and cordon-carved, top-shaped body (h. 36 cm; mouth 19.5 cm; girth 94.8 cm; 12–13 incised bands) with dark yellow speckled glaze. A dark yellow-glazed, square-shouldered, lug-handled tea jar (h. 38 cm; mouth 7.6 cm; girth 103 cm) seems contemporary; splash marks suggest glaze from the jar spattered onto the vase. Although often cited as Kurotsuchihara relics, the workmanship is too refined to assert a short-lived kiln output.

Conversely, a saucer about 12 cm across reportedly dug up near the Chōsen graves is raw, blue-gray clay, unglazed, coarse with gritty temper, with a rounded base and no footring—hand-pinched ritual ware, yet fairly hard-fired. This is the most primitive piece observed among Hizen old kilns—perhaps a relic of cave-dwelling peoples. Later, mid-grade ware—gray- or amber-glazed dishes and bowls—was also said to be unearthed here, which fits the continuum.

Around 1877, Naritomi Yarokubē (father of today’s Kōshitārō) came to Kurotsuchihara under the Saga domain to foster livelihoods for former samurai. He sought to revive the traditional Kurotsuchihara ware and submitted estimates for a new ceramic enterprise, but it was rejected as unsuitable for ex-samurai industry.

Returning to the point: more plausibly, the Korean potters left because suitable raw materials were lacking and they sought better clay elsewhere on their own. Some say they moved to Kawakubo and fired there; however, as noted in a separate chapter, Kawakubo ware began in the Genroku era as semifaience already Japanized and mature in style.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

当时,许多朝鲜人被迫为日本军带路、补给粮秣,并办理种种杂务,并非出于自愿。归化至佐嘉者中,有精于医术的林一徳、林榮久父子,其后裔仕于蓮池藩;医药通人九山道清改名庄左工門,在城下织出半兵卫更纱。

直茂自晋城带回的少年,后成为能书家的洪浩然(与韩人淨珍于明暦三年随藩主殉死)亦在其列。还有行李匠、制飴者、织工等,人数上看陶工反而不多。藩将其中七人安置于今佐賀郡金立村朝熊山麓。集住者并不尽是陶工。

金立山相传徐福一行的徐林曾自有明海登陆新北搦来此求仙药(今有马兜铃科药草“细辛”)。此地古迹繁多,古坟出土曲玉,尤多石鏃。若大陆人自汉韩渡来,肥前当为早期据点。三養基郡九千部山麓至脊振、天山一带推见古居住,麓村、基山、旭村安良与旭山、北茂安村宇土等处,至神埼郡三田川,屡见贝冢与弥生式土器。

安置在此的朝鲜人日久思乡,有者号哭不止。直茂怜之,遣通汉诗者与之唱和以慰其心。

田间有两块称“朝鲜坟”的自然石碑,一记“逆修朝鮮國工政大王之孫金公之立石”,旁刻“寛永六年己巳道清定門”“妻女同國金氏妙清禅定尼八月日”;另一刻“曉月浮雲禅定門寛永五年戊辰九月初五日”。禅定門・禅定尼乃禅宗授予高位或笃信者之法号。

曉月为常碑,金公夫妇碑书“逆修”,应是生前自立祈冥福,或客居他乡而为故国眷属在此寺立碑。既为合葬,非子先亡之逆修。

所载“道清”或被认为九山道清之墓,然道清卒于慶安四年七月二十日,其墓在唐人町鏡圓寺。

黑土原窑址:戒名虽自称“工政大王之孙”,墓主是否陶工未明,但其同行者或在此开窑。墓地外七八丁之黑土原有适于朝鲜式筑窑之坡麓,柿树下埋有小窑状结构。其深约五尺、高四尺,曾为烧炭所用,难断为陶窑;石砌坚固,非巨石墓,更似古代穴居遗迹。丘上坡度亦似窑址。综合口碑,黑土原确曾制陶。此地亦为鍋島光茂之室建宗壽庵旧址,近《葉隠》作者山本常朝之庵址。

关于移转:一说因采粘土与视城不利而迁,然据不足。亦有非陶工者终老于此;自寛永五年碑推算,自慶長三年渡来已三十一年。

南天茶屋藏代赭地独乐形花瓶与暗黄釉四方肩并耳茶壶,似同时作,且飞釉相及;然工整过甚,未必短期窑作。反之,朝鲜墓旁出土四寸小皿,青灰胎、无釉、粗砂质、圆底无高台、手捻祝部土器,坚实而极为原始,或为穴居民遗物。后又闻此地出土灰釉、飴釉之中期器,脉络相符。

明治十年成富彌六兵衛谋复兴黑土原烧,以授产业于旧士族,然以“不宜士族工业”为由被止。より見れば,此处陶工多因原料不便,自主他迁求良土。川久保开窑之说亦有,但其品为元禄期半磁器,已属日本化的成熟器。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

當時,許多朝鮮人被迫為日本軍帶路、補給糧秣,並辦理諸務,非出於自願。歸化佐嘉者中,有精於醫術的林一德、林榮久父子,其後裔仕於蓮池藩;醫藥通人九山道清改名莊左工門,在城下織出半兵衛更紗。

直茂自晉城帶回之少年,後成能書家洪浩然(與韓人淨珍於明曆三年隨藩主殉死)亦在其列。尚有行李匠、製飴者、織工等,從人數看陶工反而不多。藩將其中七人安置於今佐賀郡金立村朝熊山麓。集居者並非盡為陶工。

關於金立山,相傳徐福一行的徐林曾自有明海登陸新北搦,來此求仙藥(今有馬兜鈴科藥草「細辛」)。此地古跡繁多,古墳出土曲玉,尤多石鏃。若自漢韓渡來,肥前當為早期據點。三養基郡九千部山麓至脊振、天山一帶可推古聚落;自麓村、基山、旭村安良與旭山、北茂安村宇土等至神埼郡三田川,屢見貝塚與彌生式土器。

居於此地之朝鮮人久而思鄉,有者號哭。直茂憫之,使通漢詩者與之酬唱以慰。

田間有二「朝鮮墳」自然石碑:一刻「逆修朝鮮國工政大王之孫金公之立石」,旁刻「寛永六年己巳道清定門」「妻女同國金氏妙清禪定尼八月日」;一刻「曉月浮雲禪定門寛永五年戊辰九月初五日」。禪定門・禪定尼乃禪宗授高位或篤信者之法號。

曉月為常碑;金公夫婦碑書「逆修」,或生前自立祈冥福,或旅居他鄉而為故國眷屬在此寺建碑。既為夫婦墓,非子先亡之逆修。

碑中「道清」或被指為九山道清之墓,然其卒於慶安四年七月二十日,墓在唐人町鏡圓寺。

黑土原窯址:戒名雖夸稱「工政大王之孫」,墓主是否陶工未明,但其同行者或在此開窯。墓地外七八丁之黑土原有宜於朝鮮式築窯之坡麓,柿樹下埋有小窯狀結構。其深約五尺、高四尺,曾作燒炭用,難斷為陶窯;石砌堅固,非巨石墓,類古代穴居。丘上坡度亦似窯址。綜合口碑,黑土原確曾製陶。其地亦為鍋島光茂之室建宗壽庵舊址,近《葉隱》作者山本常朝之庵址。

移轉之說以採土與視城不利為由,據不足。亦有非陶工者終於此;由寛永五年碑推,自慶長三年渡來已三十一年。

南天茶屋藏代赭地獨樂形花瓶與暗黃釉四方肩並耳茶壺,疑為同時作,且飛釉相及;然工穩過甚,未必短期窯作。相對地,朝鮮墓旁出土四寸小皿,青灰胎、無釉、粗砂質、圓底無高臺、手捻祝部土器,燒結堅硬,屬最初期製品,或為穴居民遺物。後聞灰釉、飴釉之中期器亦出於此,脈絡相承。

明治十年成富彌六兵衛謀復興黑土原燒,以授產於舊士族,然以「不宜士族工業」而止。是以觀之,陶工多因原料不便,自主他遷求良土。川久保開窯說雖存,其品為元祿期半磁器,已屬日本化之成熟器。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

当时,许多朝鲜人被迫为日军带路、供给与勤务。归化佐贺者包括医者林一徳与林榮久父子;九山道清后改名庄左工门,在城下织半兵卫更纱。直茂自晋城带回的洪浩然后来成名(与淨珍于明历三年殉死)。工匠多样而陶工较少,七人被安置在金立村朝熊山下。

相传徐福随从徐林在金立山求不老药(今有“细辛”)。此地多古迹与石鏃。若自汉韩而来,肥前或为早期据点;自九千部山至天山沿线多见贝冢与弥生土器。

思乡者甚众,直茂遣熟汉诗者酬唱以慰。田中两碑称“朝鲜坟”,一为“逆修…金公立石”,附记“寛永六年…道清定门”“金氏妙清禅定尼八月日”;另一为“曉月浮雲禅定門寛永五年九月初五日”。禅定号授予高位或笃信者。

“道清”或指九山道清,然其墓在唐人町镜圆寺(卒于1651)。黑土原疑有朝鲜式窑址,坡形合宜,柿树下埋小窑状构造,但或为烧炭遗留;更似古穴居遗迹。上方坡度亦类窑址;口碑一致认为此地曾制陶。附近有宗壽庵与山本常朝庵遗址。

移转理由(采土与眺城不利)证据薄弱;有非陶工者终老此地。器物方面,南天茶屋所藏花瓶与茶壶或为同作,然工整过度;反之,墓旁出土粗糙无釉之手捻小皿极为原始,或为穴居民遗物;后又见灰釉、飴釉中期器。

明治十年成富彌六兵衛拟重兴黑土原烧以济士族,终被否决。更合理的是,陶工因原料不便而自发迁往良土之处。川久保窑始于元禄,为日本化半磁。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

當時,許多朝鮮人被迫為日軍帶路、供給與勤務。歸化佐賀者包括醫者林一德與林榮久父子;九山道清後改名莊左工門,在城下織半兵衛更紗。直茂自晉城帶回的洪浩然後來成名(與淨珍於明曆三年殉死)。工匠多樣而陶工較少,七人安置於金立村朝熊山下。

相傳徐福隨從徐林在金立山求不老藥(今有「細辛」)。此地多古跡與石鏃。若自漢韓而來,肥前或為早期據點;自九千部山至天山沿線多見貝塚與彌生土器。

思鄉者甚眾,直茂遣熟漢詩者酬唱以慰。田中兩碑稱「朝鮮墳」,一為「逆修…金公立石」,附記「寛永六年…道清定門」「金氏妙清禪定尼八月日」;另一為「曉月浮雲禪定門寛永五年九月初五日」。禪定號授予高位或篤信者。

「道清」或指九山道清,然其墓在唐人町鏡圓寺(卒於1651)。黑土原疑有朝鮮式窯址,坡形合宜,柿樹下埋小窯狀構造,但或為燒炭遺留;更似古穴居遺跡。上方坡度亦類窯址;口碑一致認為此地曾製陶。附近有宗壽庵與山本常朝庵遺址。

移轉理由(採土與眺城不利)證據薄弱;有非陶工者終老於此。器物方面,南天茶屋所藏花瓶與茶壺或為同作,然工整過度;相對地,墓旁出土粗糙無釉之手捻小皿極為原始,或為穴居民遺物;後又見灰釉、飴釉中期器。

明治十年成富彌六兵衛擬重興黑土原燒以濟士族,終被否決。較合理者,陶工因原料不便而自發遷往良土之處。川久保窯始於元祿,為日本化半磁。