光茂の奨勵嚴令~綱茂の繪畫

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【原文】[Original text]

光茂の奨勵嚴令
 其子丹後守光茂二代を嗣ぐや彼は大いに藩窯を獎勵し、左の如き手頭(指命書)を以て嚴命を下した。蓋し初期より二三期間の鍋島焼も、精品の製作に煽る苦心せしもの如く、又屢々失敗を重ねしこさが、歴然として本書に現はれてゐる。(鍋島家内庫所の古文書元祿六年八月、「1695年」附 有田皿山代官へ相渡し手頭の冩し)
皿山代官への手頭

一献上並都合大河内焼物方一通之儀其方へ申付候時々年寄共進物役之者より可相達候條念精を入能様心懸肝要候尤疎略之儀は不及申共時節之後れ不相成様彙て役者共へも立入申聞無滯様可相調事
付役者之内諸役を大形に致し爲に不相成者之儀は見聞之上時々頭人へ申開役儀可致差替候尤越度有之者の儀は其段可申出事
一焼物近年は焼入惡敷都合不出来の由就中献上物又は差立たる在來物の儀以前に打替り惡敷有之候得ば申付様大形の様に共沙汰も候ては不可然事と存向後の儀彌念精を入能出來候様可相調旨目附の者副田杢兵術副田喜左工門へ委細可申聞候此上も若干心懸又は紛れたる儀有之候て燒物不出来の段於顯然は其科可申付事
一都合燒物出来立之儀是又近年は避怠重々の由第
一其間に不合後れ候様に相成儀以ての外不可然事候此儀は畢竟杢兵衛喜左工門心に可恢候第一目附就中立入怠の謂見及第時々申出る様に堅可申聞候勿論目附見聞之通致用捨不申出等以後も顯然候は途糺明曲事可申付候間て其覺悟仕候樣稠數可申聞事
一献上の陶器毎歳同じ物にて不珍候條向後脇山へ出来候品時々見合珍敷模様の物於有之ては書付を取其方へ可差出候其義年寄共再進物役の者へ申談仕差圖焼立候樣可申付置候事
付跡方出來候成(形)恰好乞吟味當世に逢候様に仕立可申事
一献上の陶器の品脇山にて焼立商賣物に出し候ては以の外不宜事に候條脇山の諸細工人大川内本細工所へ猥に出入不致様可申付置事
一献上殘物は不及沙汰不出來物焼損じたり共猥りに取散す間敷候年寄共進物役の者へ申談じ候上時々割捨可申事
一脇山へ上手の細工人等有之候はば本細工所へ可爲相詰事
付前々より詰來候者にても下手の細工人差置問败事
右之條々得意役々の者共へ具に申聞向後守其旨候樣堅可申付候若猥の儀等有之候はば其段可申出候尤其方申付せの儀も有之候はば其科可申出者也
元祿六年酉八月十二日
有田皿山代官へ

有田代官の直轄
 四代喜左工門は享保九年(1721年)十一月一日卒し、長子孫三郎政晴(始杢兵衛とし明和五年八月十六日八十一才にて卒し、其子權太郎政明、明和七年五月十一日卒し、其子孫三郎政吉文化五年十一月二十日卒すとあり)の時寛保年間(1741-1744年)大川内藩窯の支配は、有田皿山代官の直轄となりしより、孫三郎は退職し、其後代々藩窯の御手傳ひ窯焼して、此地に居住せしといはれてゐる。

有田焼意匠の三系式
 有田焼の三意匠と稱せらる中に、古伊萬里も、柿右工門風も、畢竟中国風に和蘭陀を加味せし一種の模倣より脱化せしものに外ならざるも、獨り純日本式の特種なる様式を案出して、土佐派や狩野派に對立せる浮世繪の如く、燦然たる鍋島焼の基礎を起したる藝術は、抑何人に依つて案出せられしか、それは今に於いても詳でない。
 而して斯くまでに指導達成せしめし、副田家の功績は又偉とすべきであらう。尤も鍋島焼が國寶に選まるゝまでの最高調点に達せしは、元祿、享保以後の時代に属するも、大体に於ける構想は、既に遠き以前より胚胎せしものと見るべく、従来の外國模倣なる翻譯藝術の殻を脱化して、茲に特種の獨創的藝術を産みしものである。

副田別系
 前に掲げし副田系譜に就いては、猶確ならざるものあり。左の如き別系がある。
副田喜左工門
藤次兵衛
杢兵衛 婿養子 實ハ土肥平左エ門ノ子
藤次兵衛
彦六
忠左エ門 (下村新之允養子)
喜左工門
孫三郎
又左工門

又鍋島内庫所の記録には左の如きものがある。
内庫所の副田記録

切米六石五斗石井修理與內石井三郎組子
寶永六年着到副田孫三郎喜左工門·切米六石五斗
鹿江茂左工門存
寬永五年着到 副田喜左工門
小川市左工門存
寬永十九年着到 副田喜左エ門
石井清左工門存
明曆二年着到 副田喜左エ門
親族帳鍋島靱負與内諸岡彦右工門組
元祿十五年着到 副田藤次兵衛
切米十五石
石井修理內石井小右工門組
元祿十五年着到 副田喜左エ門
切米六石五斗
石井修理興內石井三郎左工門組
寬永六年着到 副田孫三郎
切米六石五斗
江副彥次郎奥内田原源兵衛組
寛保二年着到 副田孫三郎
切米十三石五斗 枠權太郎
千葉太郎助輿內有田權之允組
明和七年着到 副田權太郎
切米十五石

 之に依って見れば、副田家は御細工屋取締役として、宗藩より差遣されしが如き觀あるも、彼の代官や目附などと異りて、副田家代々に就任せしめしを見れば、矢張り最初より技術者を取立てし者に相違なく、而して又従来の説に依れば、寛保年間(1741-1744年)に退職せしものなるに、それより三十年後の明和年間(1764-1772年)に至るまで、猶扶持米を奥へられゐるは或は副田家世々の功労に報ゆる退職手當の給禄なるか、精しくは考ふきであらう。

減禄と復活
 次に注意すべきは切米高の減額である。初代喜左工門より以後藤兵衛までは、十五石を給せられたるが、次の喜左工門に至つて、半額にも足らぬ六石五斗を支給されゐるは、前配光茂が下せる手頭を参照するときに、もしや當時焼物不出来の結果、監督不行届として減額されしにあらざるか、而して次の孫三郎にて漸く十三石五斗となり、次の權太郎に至つて、又元の十五石に復給されてゐるのである。

技術本位の改革
 藩窯の製品も、此頃に至つて頗る進歩を示し、青磁や七官手等の製作、赤く大成の域に達せしが、なほ只管向上を期して、名工の募集と、諸般の研究とを奨した。蓋し名工さいはれし柿右工門さへ、四五代目に及んでは其技全く劣り、初代の優秀なりし傳統は、却つて傍系の澁右工門に移りし観があつた。故に藩窯に於いては、此傳統的情實を打破して、専ら技術に重きを置き、管理者も職工も、技能の優秀者をして、容赦なく之に代らしむる藩窯是を定めたるは光茂の英断であつた。彼は又寛文元年(1661年)七月七日を以て、従来の追腹を厳禁し、爾後藩士にして殉死せる者は、家名斷絕たることをせし程の改革者であった。

綱茂の繪畫
 斯くて光茂は元祿十三年(1700年)五月十六日六十九才を以て卒去し、長子綱茂相織した。三代藩主綱茂は致德齋と稱し、まさに一家をなす程に繪畫に堪能であつた。此時代より鍋島焼の意匠大いに進みしいはれてゐる。而して彼は寶永三年(1706年)十二月二日五十五歳を以て卒し、弟吉四代をいだのである。
 御細工屋に於いては、藩主の御用品の外、幕府への献上品、及び諸侯への寄贈品と、其注文品等の製作に限られ、私に使用し或は轉賣することを一切禁じられた。故に器物の窯入窯出には、一々係の役人之を點検して、聊かにても歪みある焼成物や、彩色の異狀あるものは、悉く破壊して、地中に埋没したのである。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

二代藩主・丹後守光茂は藩窯を強力に奨励し、次のような「手頭」(指示書)で厳命を出した。初期から二、三期にかけての鍋島焼が、上作の制作に苦しみ、失敗も重ねた実情が、この文書(元禄六年〔1695〕付・有田皿山代官あて控)に明確に表れている。

(皿山代官への手頭・要旨)
・献上品や大川内焼の一切は、年寄や進物役からの通達を徹底し、遅延なく周知・実行すること。
・役目が大ぶりで不都合の者は、実地に見て適宜差し替える。能力超過や不祥事は報告すること。
・近年、焼き上がりが悪く不出来が多い。とくに献上物や優品が以前より劣るのは論外。目付の副田杢兵衛・副田喜左工門に細部まで申し聞かせ、なお不出来が明白なら科を申し付ける。
・出来上がりの遅滞はまったく不可。これは杢兵衛・喜左工門の心がけに帰す。目付は怠りあれば都度申出よ。用捨を黙して報せぬなどは糺明のうえ曲事として処断する。
・献上の意匠は毎年同じで飽きられる。脇山(支窯)で出来た品を見合わせ、珍しい図様があれば書付を出せ。年寄・進物役と相談し図案を示して焼かせること。形姿も時流に合うよう吟味する。
・献上品を脇山で商売に回すのは厳禁。脇山の職工が本細工所(大川内)へみだりに出入りすることのないよう命ずる。
・献上残りや不出来・焼損は、勝手に散逸させず、相談のうえ折々に割り捨てる。
・上手の職工が脇山にいれば本所へ詰めさせ、拙い者は外す。
右条々を関係者へ厳達し、違反あれば申出で、指示違背にも科を科す。〔元禄六年八月十二日 有田皿山代官へ〕

四代・喜左工門は享保九年(1721)十一月一日に没。長子・孫三郎政晴の時、寛保年間(1741–1744)に大川内藩窯の支配が有田皿山代官の直轄となり、孫三郎は退職。その後は代々、御手伝い窯として藩窯焼に従い、この地に居住したという。

有田焼の意匠には大きく三系があり、古伊万里も柿右工門風も、結局は中国趣味にオランダ趣味をまぜた模倣から脱胎したものだが、ひとり純和様の独自形式を案出して、土佐派・狩野派に対した浮世絵のように、燦然たる鍋島焼の基礎を築いた創意は、誰の立案か今も定かでない。副田家の指導的功績は大きい。鍋島焼が国宝級の頂点に達したのは元禄・享保以後だが、その構想は早くから胎動し、翻訳芸術の殻を脱して独創に至ったのである。

副田家系には異伝もある。別系例:
副田喜左工門—藤次兵衛—(婿養子)杢兵衛〔実は土肥平左エ門の子〕—藤次兵衛—彦六—忠左エ門〔下村新之允の養子〕—喜左工門—孫三郎—又左工門。

また鍋島内庫所の記録には、歴代の「着到」と切米(俸禄)が記され、寛永・明暦・元禄・寛保・明和にわたり、副田喜左工門・藤次兵衛・孫三郎・権太郎らへ六石五斗~十五石が与えられたことが見える。これにより、副田家は代官や目付とは異なり、御細工屋の取締役として技術者家系を取り立てられ、寛保期に退職とされながらも明和期まで扶持米が出ているのは、累代功労への退職加給の可能性も考えられる。

切米の増減にも注意が要る。初代喜左工門から藤兵衛までは十五石、次の喜左工門で六石五斗へ半減。これは光茂の手頭に照らせば、当時の不出来に対する監督責任としての減額かもしれない。その後、孫三郎で十三石五斗、権太郎で旧に復し十五石となる。

この頃、藩窯の技術も著しく進み、青磁や七官手などが大成段階へ。さらに向上のため、名工登用と研究を奨励した。柿右工門ですら四・五代目には技が衰え、初代の妙伝は傍系の澁右工門へ移った観があるため、藩窯は情実を排し技能本位へ刷新し、管理も職工も、優秀者に容赦なく交替させる方針を定めた。光茂はまた寛文元年(1661)七月七日、殉死(追腹)を厳禁し、以後は家名断絶に及ぶとしたほどの改革者であった。

光茂は元禄十三年(1700)五月十六日、六十九歳で没し、長子・綱茂が継いだ。三代藩主・綱茂(号・致徳斎)は絵画に長け、この時代から鍋島焼の意匠が大きく進んだという。彼は宝永三年(1706)十二月二日、五十五歳で没し、弟が四代を継いだ。御細工屋では、藩主御用品・幕府献上・諸侯贈答・注文品に限り、私用・転売を一切禁じた。窯入・窯出は役人が逐一点検し、歪みや彩色異状はすべて破砕して埋没した。


【英語訳】[English translation]

When the second lord, Tango-no-kami Mitsushige, succeeded, he strongly promoted the domain kiln and issued a strict “Tegashira” (written directives). The text—preserved as a 1695 copy addressed to the Arita Sarayama magistrate—shows plainly that early Nabeshima ware struggled to produce top-grade pieces and suffered repeated failures.

(Key points of the order to the Sarayama magistrate)

  • For offerings to the shogunate and all Ōkawachi ware matters, instructions must be relayed promptly via elders and gift-officers; ensure no delays.
  • Replace officials who prove unfit; report excesses or misconduct.
  • Firing quality has declined; especially offerings and premier wares falling below former standards are unacceptable. The inspectors, Soden Mokubee and Soden Kizaemon, must be told details; if defects are evident, penalties follow.
  • Production delays are intolerable; ultimately this rests on Mokubee and Kizaemon. Inspectors must report neglect whenever seen; silence over what they witness will be punished after inquiry.
  • Repetition of identical designs each year is dull. From the branch kilns (Wakiyama), submit notes on rare patterns; elders and gift-officers shall confer and have designs prepared. Shapes must suit contemporary taste.
  • Offering-grade pieces may not be sold as commercial goods at branch kilns; branch artisans must not loiter at the main Ōkawachi works.
  • Surplus offerings and failures must not be scattered; by consultation, periodically break and discard them.
  • Skilled hands at branches should be assigned to the main works; inept workers removed.
    These articles are to be proclaimed to all concerned; violations and disobedience to orders will be penalized. (12th day, 8th month, Genroku 6.)

The fourth Kizaemon died on November 1, 1721. Under his heir, Magosaburō Masaharu, control of the Ōkawachi domain kiln passed directly to the Arita Sarayama magistrate (Kanpō era, 1741–1744). Magosaburō retired; thereafter the family remained in Ōkawachi as assisting kilnmasters.

Arita design is often grouped in three lineages. Ko-Imari and Kakiemon styles, though refined, ultimately evolved from Chinese taste with Dutch inflection. The singularly Japanese idiom that founded resplendent Nabeshima—akin to ukiyo-e standing against the Tosa and Kanō schools—has an unknown progenitor. The Soden family’s leadership deserves great credit. Although Nabeshima reached its zenith in the Genroku–Kyōhō period, the conception germinated earlier, shedding the “translation art” of foreign imitation to achieve true originality.

An alternative Soden genealogy is recorded:
Soden Kizaemon → Tōjibee → Mokubee (adopted son; actually Dohi Heizaemon’s child) → Tōjibee → Hikoroku → Chūzaemon (adopted by Shimomura Shin-no-jō) → Kizaemon → Magosaburō → Matazaemon.

Archive entries in the clan’s Inner Repository list successive appointments (“chakutō”) and stipends (koku): across Kan’ei, Meireki, Genroku, Kanpō, and Meiwa, various Soden members received 6.5 to 15 koku. This suggests the Soden were technical overseers of the O-saiku-ya rather than civil officials, retained as a craftsmen lineage; stipends into the Meiwa era may reflect retirement allowances for accumulated service.

Stipend fluctuations are noteworthy: from the first Kizaemon through Tōbee, 15 koku; then a drop to 6.5 for the next Kizaemon—perhaps a sanction for supervision lapses amid poor output, per Mitsushige’s orders. With Magosaburō it rose to 13.5, and with Gontarō it returned to 15.

By then the kiln had advanced markedly: celadon and shichikan-de reached maturity. To press further, the domain recruited masters and fostered research. Even the famed Kakiemon line declined by the 4th–5th generations, with excellence shifting to the collateral Shibue-mon; thus the domain broke with hereditary favoritism, instituting merit-based replacement of both managers and artisans—an enlightened reform by Mitsushige. He also forbade junshi (ritual suicide) on July 7, 1661, decreeing family extinction henceforth for such acts.

Mitsushige died on May 16, 1700, aged 69, and his son Tsunashige succeeded. The 3rd lord, Tsunashige (Chitokusai), excelled at painting, and from his time Nabeshima design is said to have flourished. He died December 2, 1706, aged 55, and his brother became the 4th. At the O-saiku-ya, work was limited to the lord’s use, shogunal tributes, gifts to daimyo, and commissions; private use or resale was banned. Each firing-in/out was inspected; any warped or miscolored piece was smashed and buried.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

二代藩主・丹後守光茂は藩窯を強く奨励し、厳格な「手頭」(指示書)を発し、品質・納期・意匠・人事を細かく統制した。年寄・進物役を通じて通達を徹底し、不出来や遅延には目付(副田杢兵衛・副田喜左工門)を責し、科を科すこと、献上意匠の固定化を戒め支窯の新図案を採ること、献上残品や不出来は割り捨てること、上手は本所に集め拙工は外すこと等が命じられた(1695年の控)。

四代・喜左工門は享保九年(1721)没。長子・孫三郎政晴の頃、寛保期(1741–1744)に大川内藩窯は有田皿山代官の直轄となり、孫三郎は退き、以後は御手伝い窯として従事した。

有田焼の三系は、古伊万里・柿右工門も中国風+和蘭趣味の脱化だが、純和様の独自様式で鍋島焼の基礎を築いた創意の担い手は未詳。副田家の指導功績は大きく、元禄・享保に頂点へ至ったが、その構想は早くから熟していた。

副田家には別系譜の伝えがあり、また内庫所記録には寛永~明和にわたる着到と切米(六石五斗~十五石)が見える。技術者家系として取り立てられ、寛保退職とされつつも明和まで扶持が続くのは、累代功労への加給の可能性がある。

切米は一時六石五斗へ減額され、のち十三石五斗、さらに十五石へ復す。これは当時の不出来に対する監督責任の制裁の線も考えられる。藩窯はこの頃大いに進歩し、青磁・七官手が大成段階に。情実を退け技能本位へ刷新し、優秀者へ容赦なく交替させる方針を定めた。光茂はまた寛文元年(1661)に殉死を厳禁した改革者でもあった。

元禄十三年(1700)光茂没、綱茂(号・致徳斎)が継ぎ、絵画に秀で意匠を大いに進めた。御細工屋は御用品・献上・贈答・注文に限定し、私用・転売を禁じ、窯入出ごとに検査し、歪み・彩色異常は破砕埋没とした。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

二代藩主・丹後守光茂大力獎勵藩窯,發布嚴格「手頭」指示,對品質、納期、意匠、人事悉加統制。藉年寄・進物役徹底傳達,不成品與遲延則由目付(副田杢兵衛・副田喜左工門)負責並科罪;戒除獻上意匠雷同,採支窯新圖案;獻上殘品與不成品須割棄;上手集中於本所,拙工撤換(1695年控)。

四代・喜左工門享保九年(1721)卒。長子孫三郎政晴時,寬保期(1741–1744)大川內藩窯改隸有田皿山代官直轄,孫三郎退職,後世為御手傳窯而居此地。

有田燒三系中,古伊萬里與柿右工門皆由中國風摻荷蘭趣味而演化;惟純和樣之獨特式樣奠定鍋島燒之基,創意主其事者未詳。副田家之指導功績宏大;雖元祿・享保達顛峰,構想實早已醞釀,破除模仿之殼而臻獨創。

副田家有別系傳,又內庫所記錄載寬永~明和之著到與切米(六石五斗~十五石)。見其為技術者家系所拔擢;雖稱寬保期退職,而至明和仍給扶持,或為功勞加給。

切米曾減至六石五斗,後復十三石五斗,再還十五石;或與當時不成品之監督責任處分相關。此際藩窯精進,青瓷・七官手臻大成;去情實、尚技能,優者更替之方針既定。光茂亦於寬文元年(1661)嚴禁殉死,為革新者。

元祿十三年(1700)光茂卒,綱茂(號致德齋)嗣位,工於繪畫,意匠大進。御細工屋僅製御用品・獻上・贈答・訂製,私用轉賣悉禁;窯入出必檢,凡歪斜異彩者皆碎埋。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

二代藩主Tango-no-kami Mitsushige大力推动藩窑,1695年以“手头”文书严格规定:命令传达不许延误;不称职者更换并报告;献上品下降不可容忍,检察官Soden Mokubee与Soden Kizaemon负责;图样需更新,支窑报送新案;献上余物与不合格品定期打碎;高手集中本所,拙工撤换。

第四代Kizaemon于1721年卒。其子Magosaburō时(1741–1744),大川内藩窑改隶有田皿山代官直辖,家族转为御手传窑。Arita设计分三系:Ko-Imari与Kakiemon虽精妙,源自中式夹荷兰风;而奠基Nabeshima的纯和样创制者未详。Soden家领导功不可没。顶峰在元禄~享保,但构想更早已成熟。

档案记载Soden诸代着到与禄米6.5–15石,显示其为技术世家。禄米曾因监督不力或不佳产出降至6.5,后升至13.5再回15。其时窑技精进,青瓷与“七官手”大成;藩窑实行能力本位,破除世袭情面。Mitsushige亦于1661年禁“殉死”。

Mitsushige 1700年卒,三代Tsunashige(号Chitokusai)擅画,推动意匠飞跃。御细工屋仅承制御用、进献与赠答及定制;严禁私用转售;每次装窑出窑皆检验,不合格即碎埋。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

二代藩主 Tango-no-kami Mitsushige 大力推動藩窯,1695 年以「手頭」嚴令:命令傳達不得延誤;不稱職者更換並舉報;獻上品品質下滑不可容忍,由檢察官 Soden Mokubee、Soden Kizaemon 負責;圖樣須更新,支窯報送新案;獻上餘物與不合格品定期打碎;高手集中本所,拙工撤換。

第四代 Kizaemon 於 1721 年卒。其子 Magosaburō 時(1741–1744),大川內藩窯改隸有田皿山代官直轄,家族轉為御手傳窯。Arita 設計分三系:Ko-Imari 與 Kakiemon 雖精妙,源自中式兼荷蘭風;奠基 Nabeshima 之純和樣創制者未詳。Soden 家之領導功不可沒。巔峰見於元祿~享保,而其構想更早已成熟。

檔案記錄 Soden 歷代之著到與祿米 6.5–15 石,顯示其為技術世家。祿米曾因監督不力或產出不佳降至 6.5,後升至 13.5 再回 15。其時窯技精進,青瓷與「七官手」臻大成;藩窯行能力本位,破除世襲情面。Mitsushige 並於 1661 年禁「殉死」。

Mitsushige 於 1700 年卒,三代 Tsunashige(號 Chitokusai)善畫,推動意匠飛躍。御細工屋僅承製御用、進獻與贈答及訂製;嚴禁私用轉售;每次裝窯出窯必檢,不合格即碎埋。