青磁の貴重~勇七の獅子

この記事は約14分で読めます。

【原文】[Original text]

青磁の貴重
 往時青磁の貴重されしことは、唐代に於いて刑瓷(白磁)は銀に類し、越瓷(青磁)は玉に類すと稱せられ、我が王朝時代に於いても陶器(くろ物)は朱漆器に相當されしが、瓷器(青磁)に至つては銀器に代用されたのである。而して鍋島青磁の優色は、當代の首座に位し、碪手に於ける彼の麒麟の大床置や、花瓶及香盤の如き逸品は、何れも十度掛の製作といはれてゐる。それは青磁釉を薄掛して、其度毎に素焼すること十回に及び、而して後始めて本焼されたものである。
故に其碧空色の見事なる事は宋代の砧手と比較して、遜色な絶品と稱せらる。
 七官手の中に、白罅出しにて染附せしものなどがある。此種のものは、他山に於いて間々製作さしも、鍋島七官手としては、青罅出しが特色にて、舊製品の瓶掛や花瓶等には五六回も施釉されし上好の大氷裂物ありしが、近代には滅多に此種の優品を見ぬ。蓋し大氷裂を現出せしむるには、素地までも龜裂せしむる危險ありて、頗る難作させられてゐる。此七官手は砧手と共に、主とし幕府へ進献の器として製作され、藩用又は各藩へ贈答品の外、一般の領民が容易く入手することを得なかったほどの貴重品であつた。

副島勇七
 天明(1781-1789年)頃の御細工屋に、副島勇七といへる轆轤細工の名工があつた。彼はその本職の外に、彫刻、捻細工及窯積方より、原料の調合、靑磯の製作に至るまで、何れの方面にも熟達し、殊に藩主治茂の恩顧厚者であつた。而して彼の作品頗る優雅にて、自ら特種の妙味があり、常に周圍の賞讃を博せるより、彼は邃に据傲倦怠の心を生じ、藩命に抗して謹慎を蒙る事数回であつた。

制度の非難
 彼れ人に語るに御細工屋は勿論、有田諸山中並ぶ者なき我手腕を、此草深き山間に封鎖せらるゝは口惜きのみならず、元藩命とて多くの名工を選蒐して、容易く外出さへ許さゞるは不當なり、拘束のを非難して止まず、常に不平を禁する能はざるものがあつた。然し周圏の人々が有つ慣習の惰力は、之を以て祖先以來受けたる、藩主の厚恩を忘却するものとして、誰一人勇七の傲慢を憎まぬものはなかったのである。

正力坊へ處拂ひ
 藩窯方に於いては、製陶上卓越せる彼を罷免せば、忽ち其秘法を他山へ傳播せんことを恐れて寛容せしかば、彼は益々得意と成り、御細工屋の窮屈なる制度を改革せん事を念とし、己れの臆斷を以て監督の藩吏に抵抗すること数次に及びしかば、遼に藩主の裁下を乞ひ、規定に依って處拂ひとなり、隣りの村の正力坊といへる農村へ移轉せしめられたのである。

勇七遁走す
 勿論給祿も没収し、御用職人の賛格も剥奪されたるを以て、勇七は貧困日に逼りしかど、自業自得として、誰一人彼を撫恤する者さへなかつたのである。途に彼は一夜妻子を捨て遁走せし儘行方が知れなかつた。一度びは伊豫の砥部窯へ入りし形跡ありしが、後京都の市場に於いて、陶器ながらも瀬戸焼の中に、我が鍋島焼の構圖を模せるを見るものあり、さてはさ搜索の端緒を得たのである。

捕吏瀬戸へ乘込む
 是より佐嘉藩の捕吏は、瀬戸へ乗込みしが、此處は徳川御三家の一なる尾張侯の領内とて、猥りには踏込みがたく、或は商人となり、又は工人に變装して逮捕に努めたるも、此地の陶家亦巧みに隠匿して、警戒おさおさ怠りなく、遉に巧者の捕史達も、如何んとも手を下すことが出来なかつたのである。

小林傳内
 爰に有田皿山代官所の下目附小林傳内は、顔料の呉洲賣と成りて、心當りの陶家へ這入り、頻りに購買を勧めしところ、應對せる主人らしきが、自分にては品質を見別け難きも、幸ひに巧者の人あれば鑑定せしむべして、別室に運び、暫くして出来り、品柄は惡からざるも、價少々高して若干の値引を言出たのである。

勇七捕縛
 此時傳内件の呉洲を熟視しつゝありしが、之は今拙者が渡せし原品にあらず、察するところ、別室にて他の劣等品と取換へしならんと言掛くれば、主人は以ての外と驚き、決して然らざるを辯するも、傳内いつかな聴き入れず、主人も大いに立腹して、遼に喧嘩となるや、別室にありたる勇七之を耳にし、一刀を引提げて出来るを、傳内得たりと大喝一撃難なく取つて押さへ、捕縛の上佐嘉城下へ護送したのである。勇七遁走せしより賞に三年目、捕吏の苦心察するに余りある。(傳内は此功に依り足輕より士籍に昇進し、文化三年六十才にて卒去した。)

勇七梟首
 斯くて糾間の上、勇七悉く罪に服し此上は必ず世界無比の作品を仕上げて、以て一死を償はんことを乞ひ、藩主治茂の仁慈、又死一等を減するの意動きしも、藩の典刑之を赦さず、遂に寛政十二年十二月二十八日(1800年)佐嘉郡嘉瀬の刑場に於いて斬首され、猶他の職工への見せしめとて、大川内村の街道鼓峠に梟首されたのである。

勇七の獅子
 大川内にては、後年一基の碑を建立して勇七の霊を祀りしに、中には是に詣でて手工の巧みならん事を祈る者ありしと稱せらる。勇七が製作せる遺品として、彼の郷里有田泉山なる辨財天社に奉納されし唐獅子がある。それは罅出し磁器にて、姿勢骨格とも優秀なる作品と稱せられてゐる。蓋し元白地なりしを、惜しい哉後年赤を彩りしものにて、現在雄のみ保存され、雌は何れか紛失されてゐる。この外伊萬里郷二里村川東の某醫家にある雌雄の獅子は、素焼地に普通の彩色を加へしものにて、今に同家に臓されてあるらしい。
 勇七は會て瀬戸に在りし時、種々の陶技を傳へしが、當時なほ陶器時代なりとはいへ、同地の加藤久米八や同忠次等へ、磁器の製法を傳習せしも原料なければ實験に到らざるうち、津金奉行の首唱の下に、加藤吉右工門や唐左工門等が、磁器製作を試みしも全く失敗に終り、途に民吉の西下となつて、始めて瀬戸磁器の完成を見るに至つたのである。
 嘗て藩主閑叟は、幕府に請はれて長崎砲臺を増築することゝなり、藩士本島藤太夫(松蔭と號す明治二十一年九月五日卒、七十八才)をして、當時の砲術家伊豆韮山の代官、江川太郎左工門英龍(字九淵坦庵號す、安政二年正月十六日卒、五十五才、正四位)に就て、築堡並に大砲のことを問はしめ、嘉永三年十月(1850年)北の築地(今の日新小學校の中庭)に於て、大砲を偽造するこさくなつた。此材料なる鉞は、豫て此地の名刀工忠吉以來、鍛刀原料として用ひりし、出雲の安来より探りしものであらう。 安来は古来より鐵の名産地であり、此地一帶の川底より砂鐵を抄ひ探しものである。(之を土壌すくひといふ。今の安来節の鰌すくひは、之を誤り傳へしいはれてゐる)


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

古来、青磁は白磁以上に貴ばれ、唐代には白磁を銀、青磁を玉になぞらえた。日本でも黒物は朱漆器に相当し、青磁は銀器の代用とされた。鍋島の青磁は当代随一で、砧手の麒麟大床飾や花瓶・香盤などの名品は、青磁釉を薄く掛けては素焼きを十回重ね、最後に本焼きする「十度掛」で作られたと伝わる。その澄んだ碧空色は宋の砧手にも劣らぬ絶品と評された。

七官手には白い貫入を染付で見せる作もあるが、鍋島の七官手は青い貫入(青罅)が身上。古作の瓶掛や花瓶に、五~六回も施釉して生む大氷裂の傑作がある。素地まで割れる危険が高く難作のため、近代では稀少である。七官手と砧手は主に幕府への進献や諸藩への贈答に用いられ、一般領民が手にすることはほとんどなかった。

天明期、御細工屋に轆轤の名工・副島勇七がいた。彫刻・捻り・窯積み・原料調合・青磁製作まで精通し、藩主治茂の厚遇を受けたが、自信から増長し命に背いて謹慎を度々命じられた。彼は「山中に才を封じられるのは不当」と制度を公然と批判し、周囲の反感を買う。藩は秘法流出を恐れて寛容に扱ったが、抵抗が続いたため規定により隣村・正力坊へ追放した。

俸禄も御用職の身分も剥奪され困窮した勇七は、妻子を捨てて失踪。砥部に寄った形跡ののち、瀬戸で鍋島風の図様が現れたことで捜索が進む。佐嘉藩の捕吏は尾張領の瀬戸へ変装潜入したが、陶家の庇護で難航。下目付・小林伝内は呉須売りに扮し、別室で劣品と取り替えた疑いを突くと、奥から現れた勇七を取り押さえ、三年越しで捕縛した(伝内はこの功で士籍に昇進)。

取り調べで勇七は罪を認め、至高の作で命に代えたいと嘆願したが、典刑は減じられず、寛政12年(1800)12月28日、嘉瀬の刑場で斬首。見せしめとして鼓峠で晒された。後年、大川内では慰霊碑が建てられ、手技上達を祈る者もあった。遺品として泉山の弁財天社に奉納された罅出しの唐獅子(雄のみ現存)、伊万里の某家に素焼地彩色の雌雄獅子が伝わるという。

勇七は瀬戸で磁器法も伝えたが、原料不足で実験は進まず、のち民吉の西下を経て瀬戸磁器が完成する。なお、藩主閑叟は幕命で長崎砲台増築にあたり、本島藤太夫を江川英龍に就かせて砲術を学ばせ、嘉永3年(1850)北の築地で砲を鋳造。材料の鉄は出雲・安来産の砂鉄で、古来「土壌すくい」で採取された。


【英語訳】[English translation]

Since antiquity, celadon was prized above white ware—Tang writers likened white porcelain to silver and celadon to jade. In Japan, black wares paralleled vermilion lacquer, while celadon stood in for silver vessels. Nabeshima celadon ranked first of its age: masterpieces such as the “kirin” floor garniture, vases, and incense stands in the Longquan (kinda-de) manner were said to be “ten coats”—a thin celadon glaze applied and biscuit-fired ten times before the final firing—yielding a sky-blue hue rivaling Song celadon.

Within Shichikan-de, some pieces show white crackle with underglaze blue, but Nabeshima’s hallmark was blue-toned crackle. Old bottles and vases include superb “large-ice-crackle” works produced by five or six glaze coats—rare later, because the technique risks cracking the body. Both Shichikan-de and kinda-de were mainly tribute ware for the shogunate and gifts between domains; commoners rarely obtained them.

In the Tenmei era, the O-saiku-ya employed Soejima Yūshichi, a turner of exceptional skill, versed also in carving, modeling, kiln stacking, raw-material mixing, and celadon. Favored by Lord Harushige, he became arrogant, defied orders, and was repeatedly confined. He condemned the system for “sealing talent in the hills.” To prevent leaks of secrets the domain was lenient, but after repeated resistance he was banished to the farming hamlet Shōrikibō.

Stripped of stipend and status, Yūshichi fled, leaving his family. Traces led from Tobe to Seto, where Nabeshima-like designs appeared. Saga officers infiltrated Owari’s Seto in disguise but met strong local protection. Sub-inspector Kobayashi Den’nai, posing as a gosu seller, exposed a switch to inferior pigment; Yūshichi rushed out and was seized, three years after his escape. Den’nai was promoted for the arrest.

Yūshichi confessed and begged to atone by creating an unsurpassed work, but the law stood: he was beheaded on Dec 28, 1800 (Kansei 12) at Kase and his head displayed at Tsuzumigoe as a warning. Later a stone was raised to his spirit; a crackle-glazed Chinese lion he made survives at the Benzaiten shrine in Izumiyama (only the male remains). Another pair, on biscuit with polychrome, is said to be in Imari.

He had shared porcelain methods in Seto, yet lacking raw materials they failed; only after Mingi chi (Tamikichi) moved west did Seto porcelain truly succeed. Separately, Lord Naomasa (Kansō) expanded Nagasaki batteries; retainer Honjima Tōdayū studied artillery with Egawa Hidetatsu and in 1850 cast cannon at Kita Tsukiji, using iron from Yasugi—river sand-iron traditionally gathered by “soil scooping.”


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

自古青瓷比白瓷更受珍视。唐代称白瓷如银、青瓷如玉;日本亦以青瓷代银器。鍋岛青瓷居当时首席,砧手样的麒麟大陈设、花瓶与香盘等名作,据说以薄施青瓷釉并反复素烧十次后本烧而成,色如碧空,与宋瓷比肩。

七官手以青色贯入为特征,古作中五六次施釉而成的大冰裂尤珍,因易伤胎体,近代罕见。七官手与砧手多作贡品与赠答,民间难得一见。

天明期有轱辘名匠副岛勇七,兼通雕刻、捻塑、窑装、配料与青瓷。受宠后恃才违令,被屡处谨慎;制度批判引反感,遂被逐至正力坊。革职夺禄后逃亡,线索转至砥部、瀬户。佐嘉捕吏乔装潜入,下目付小林传内以卖呉须设局,当场识破调包,勇七出而被擒,三年追缉告成。

勇七承罪,愿以无比之作赎命,终以寛政12年(1800)斩于嘉瀬,首悬鼓峠示众。后立碑祭之;泉山弁才天社存其罅出唐狮(仅雄存),伊万里某家亦藏素胎彩绘雌雄。

其在瀬户传授瓷法,但原料缺乏致失败;后经民吉西下,瀬户瓷器始成。又,藩主閑叟扩筑长崎炮台,本岛藤太夫从江川英龙学炮术,嘉永3年(1850)于北之筑地铸炮,铁自出云安来砂铁而来。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

自古青瓷重於白瓷。唐稱白瓷如銀、青瓷如玉;日本亦以青瓷代銀器。鍋島青瓷居首,砧手式麒麟大陳設、花瓶與香盤傳為十度掛——薄施青瓷釉、每次素燒十回後本燒,色若碧空,可與宋瓷並美。

七官手以青色貫入見長,古作中五六度施釉成之大冰裂尤珍,因易傷胎,近代罕見。七官手與砧手多為進獻與贈答,民間難得。

天明期有轆轤名匠副島勇七,兼通雕、捻、窯積、配料與青瓷。恃才違令,屢被謹慎;攻訐制度,終被逐於正力坊。革職奪祿後逃逸,線索至砥部、瀨戶。佐嘉捕吏喬裝潛入,下目付小林傳內以售呉須設局揭調包,勇七出而就擒,三年追捕得成。

勇七服罪,求以絕藝贖命,終於寬政十二年(1800)斬於嘉瀨,首懸鼓峠示眾。後立碑祀之;泉山弁財天社存其罅出唐獅(僅雄存),伊萬里某家亦傳素胎彩之雌雄。

其於瀨戶授瓷法,因原料乏而敗;後歷民吉西下,瀨戶瓷方大成。又,藩主閑叟增築長崎砲臺,本島藤太夫從江川英龍受業,嘉永三年(1850)於北之築地鑄砲,鐵取自出雲安來砂鐵。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

古人视青瓷重于白器:唐人比白瓷为银、青瓷为玉;日本以青瓷代银器。鍋岛青瓷以“十度挂”工艺(薄施釉、十次素烧后本烧)得天青之色,堪比宋瓷。七官手以蓝色开片著称,因风险高而稀少,多为幕府贡与诸藩赠答,民间难得。

天明年间名匠副岛勇七通多艺,恃才违令被逐至正力坊,后逃至砥部、瀬户。佐嘉官员乔装缉捕;下目付小林传内设“呉须调包”之计,当场擒获。勇七认罪仍于1800年处斩,并示众。其裂纹狮子今存于泉山弁才天社(雄存)。

他在瀬户传瓷法因原料缺乏未成,后经民吉推动瀬户瓷器方成。另有嘉永3年(1850)铸炮事:本岛藤太夫从江川英龙学艺,用安来砂铁铸炮于北之筑地。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

古人重青瓷於白器:唐人比白瓷為銀、青瓷為玉;日本亦以青瓷代銀器。鍋島青瓷以「十度掛」工法(薄施釉、十次素燒後本燒)得天青之色,可比宋瓷。七官手以藍色開片見稱,技風險高而稀有,多作幕府進貢與諸藩贈答。

天明年間名匠副島勇七多技並通,恃才違令被逐正力坊,後逃至砥部、瀨戶。佐嘉官員喬裝緝拿;下目付小林傳內以「呉須調包」計當場擒獲。勇七服罪仍於1800年處斬並示眾;其裂紋獅今存泉山弁財天社(僅雄)。

其在瀨戶授瓷法因料乏未成,後由民吉推進而成瀨戶瓷。又嘉永三年(1850)於北之築地鑄砲,本島藤太夫從江川英龍受術,以安來砂鐵為材。