耐火煉瓦の製作~鷺脚

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【原文】[Original text]

耐火煉瓦の製作
 而して鋳造用の基礎をなす、耐火煉瓦の製作が、此大川内窯に於て製作されしことは、當時に於て最偉とせねばならぬ。是より先伊豆韮山に於いて、小形ながら大砲をせし時に用ひし煉瓦は、如何なるものなりしかは識らざるも、其後安政元年幕府は佐嘉藩に命じ、(此時は多布施河岸にて)、品川砲臺の巨砲五十門を鎔造せしめしことを考ふれば、此大川内製品が、我國產中の優秀なる煉瓦の嚆矢にあらざりしゃを思はしむ。
 煉瓦製造に就いては、江川英龍の意見を聴取し、幕府の典醫伊東玄朴(神埼郡仁比山村の人、名は淵、字は伯壽長翁と號す、長春院法印、明治四年正月二日卒、七十二才、贈従四位、今の御園白粉伊東榮の祖父也)を通じて、幕府に在るサバルト八菱城の原本及び和蘭築城書等を借受けて鷸譯し、更に研究を重ねて製作せしものにて、今佐賀市の徵古舘に陳列されてある遺品を見るに、それは厚さ三寸に八寸角のものである。(藩は又慶應元年蒸氣船を造り、安政二年には汽車の雛形を製作した)

鍋島閑叟卒す
 明治四年正月十八日十代宗藩主鍋島直正卒去した、行年五十八才であつた。彼は文久元年(1861年)十一月、隠居届をなせし時より閑叟と稀し、別に昆谷、茶雨、怪齊、拳堂 紫水等の號があつた。天保元年(1831年)二月七日先代齊直隠居するや、十七才にして家督を襲ひ、制を改めて窮乏せる財政を復興した。殊に勤王の志深く、明治二年正月二十三日薩長土三藩と共に封土を奉還し、或は夙に海外の大勢を達觀して、海防に努むると共に貿易に留意し、又藩内産業の獎勵に盡瘁する等、洵に佐嘉藩中興の名君であつた。明治三十三年特旨を以て従一位を追贈され、今や別格官幣社佐嘉神社として奉祀さるゝに至つた。(十月十二日を祭日と定めらる)

古川松根
 御細工屋規定製品の外に、又一種のデザインを發揮して、微細なる線より配當の周到なる構図を考案せし者に、古川松根があつた。彼は藩士古川與兵衛弘の三男にて、幼名英後に興一と改め、諱は徳基、楢園、寧樂園又は霞庵の別號がある。夙に和歌を善くせしのみならず、頗る有職故實に通達し、或は刀剣器具の鑑識より、篆刻及書畫に至るまで造詣深く、藩主閑叟に最も寵遇せられ、彼の能楽師片山傳七等と共に、常に君側に仕侍せしが、閑叟卒するや之に殉死した。時に明治四年正月二十一日、行年五十九才であつた。
(源太郎穗主の父である)今佐嘉神社神苑の側にある、閑叟の銅像に侍するが如く、彼れの銅像を立てゝその面かげを偲ばしめてゐる。

藩窯の名工
 御細工屋には、名工許多有りたらんも、藩窯の作品は、凡べて協力の結晶とて、所謂綜合的美術なるを以て、工人銘々が個性を現はすことは全く不可能であつた。當時の名工今多く知る由なきも、後年には市川安左エ門、柴田作左工門など轆轤細工の名人があつた。 安左エ門は明治七年八月九日六十八才にて卒し、作左工門は明治十四年正月二十一日八十四才にて卒してゐる。

日峰大明神の施主人名
 藩窯の南方に日峰大明神の祠がある。之は藩頑直茂を祀れる佐嘉の日峰社を分祀せしものにて、安政六年庚申三月(1860年)の建立である。此臺石に鴿られし施主の人々が、藩窯末期の役人や工人らしく、即ち役人は御陶器役原田傳兵衛、柴田和左工門、郡目附田中半之助、中溝五兵衛、庄屋古田七左工門、御細工屋工人は柴田作左工門、加々良萬平、八谷治左工門、柴田德左工門、副田嘉左工門、池田伴左工門、藤崎市兵衛、原丈左工門、立石寛六、市川安左エ門、松園甚左工門、市川佐太夫、城島長蔵、福岡嘉兵衛、光武甚助、副田平左工門、光武彥七、金武兵太夫、市川重助、柴田善兵衛、富永彌三郎、富崎千兵衛、富永爲助、柴田福藏、其他下働山本平作、藤本龜吉、田淵和平、森三太夫、田淵平吉、森惣七、松尾友三郎、御手傳釜焼(民窯)大川内山より十六名、其他手男古川近兵衛、御用大工柴田竹十、御用鍛治宮田倉之助等である。

御手傳十六人
 民窯即ち御手傳ひ窯焼と稱するは、三十三間の中央なる三間が藩窯にて、共下窯安光を加へて下部のみ焼きし十人が、本手傳ひと稱せられ、上部のみ焼きし六人が、助手傳ひと稱せられたのである。末期の調査に依れば、本手傳ひ窯焼は富永文右エ門、福岡嘉兵衛(始藩窯工人)畑瀬武右工門、富永喜左工門、森重左工門、緒方榮左工門、福岡六助、永瀬良七、柴田定太郎、森興右工門等にて、助手傳ひ窯焼は光武彥七(始藩窯工人)池田林左工門、富永徳太夫、八谷久平、古田又右工門、松尾勝十等であつた。

御細工屋廢場
 斯くて藩主の威光と、支給の豊潤とにより、さしも繁昌を極めし御細工屋も、維新(慶應三年十二月九日なるも大川内藩窯の解散は明治四年位であらう)の大改革に依って、既に廢場することなり、三十一人の職工には、金祿公債證書を興へて、全部士族に編入されしが、従來余りに恵まれ大川内山が、如何に大打撃でありしかは想像に余りある。
 之は大川内山のみならず各山重なる製陶地は、領主や邑主が直営もしくは其保護厚き懐の内にて經營せるもの多く、従って地方資本家の投資事業に属するものは甚だ稀であつた。故に一朝此維新の大改革に遭遇せし、是等の窯焼と工人の悲惨は、木から落ちた猿の状態と同様なりしは無理もなかった。

大川内崩れ
 此惨憺たる運命に遭うて四散せる大川内崩れの職人達は、有田皿山の外三河内其他諸國の陶山に轉住した。中にも三河内へ移住せし者の少からざりしことは、其後此地の製品が如猿時代の古雅を棄て、一種の瀟洒なる鍋島風を加味せしこざによって知らるゝ如く、確に此影響であるといはれてゐる。

光武彦七
 光武彦七は繪畫に練達し、明治初年藩命にて上京し服部杏圃の教習所に入りて西洋の上繪附法を習得し、又京都の三代道八に就いて京風の赤繪附法を研究した。彼は又捻細工に長じ梅と菊の環枝構圖を額面用に製作せしは、其考案に成りしものにて、殊に梅花の薬の毛の如き、繊細なる技巧に長ぜし名工であつた。斯くて明治二十六年一月二十六日五十八才にて卒したのである。

柴田善平
 副田系譜の中に「安永五年車細工池田林左エ門捻細工柴田善五郎兩人共に一代足輕被召成」とある、此善五郎とは後の善平の祖父にあらざるか、前記に善兵衛とあるは善平の舊名であらう。善本又捻細工の名工にて茶器を善くし、就中床置物にては、仙人又は関羽像など得意であつた。而して貯へる長髯を撫せる善それ自身が真に仙風道骨の人であつた。
 彼は明治初年京都に遊び、清水焼を研究せしより、製する所の茶器頗る氣韻に富み、手捻り唐焼の山水浮彫物など、當時の雅品であつた。(又急須の蓋裏に四つ足を附けたのがある)

鴨脚
 善平が製品に鴨脚の刻銘あるは、彼の庭前に鴨脚樹あるに因める號である。明治八年但馬の出石に於いて、櫻井勉が士族授産の目的にて盈進社を起業するや、彼は柴田虎之助、同福歳と共に聘せられて、子弟に陶技を敢授したのである。

鷺脚
明治十年有田村の松村辰昌姫路に於いて永世社と稱する士族授産製陶業を創むるや、善平招かれて該社に入り、傍ら募集せる士族の子弟五十余人に陶技を教授した。今當時の門下鷺脚なるもの、同市小姓町に手捻りの茶器を製して脚焼の名稱で賣り出してゐる。斯くて善平は、明治三十五年六月二日六十八才を以て卒してゐる。
 維新の改革に依って、御細工屋が廢場せらるゝや、目附林甚平は、命せられて殘留せる既製の生造り物や、素焼物を焼上げて之を整理せしが、それがいつ頃までに完了せしかは詳でない。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

鋳造に不可欠な耐火れんがを大川内窯で作ったことは、当時として画期的だった。伊豆韮山での小型砲の煉瓦は不詳だが、安政元年に佐嘉藩が多布施河岸で品川砲台の大砲五十門を鋳造した事実からも、大川内製は国産耐火れんがの先駆とみられる。江川英龍の意見や伊東玄朴の仲介で蘭書や城書を借覧・翻訳し、研究のうえ厚さ三寸・八寸角の煉瓦を製した(徴古館に現存)。藩は蒸気船や汽車模型も試作した。

明治四年、鍋島直正(閑叟)が五十八歳で没。若くして家督を継ぎ、財政再建と海防・貿易、産業振興に尽力。封土奉還にも率先し、後に従一位。佐嘉神社に祀られる。

古川松根は御細工屋の定型外で精密な意匠を案出。和歌・故実・刀剣鑑識・篆刻・書画にも通じ、閑叟の寵臣として側近に仕え、主君の死に殉じた。

藩窯の作は協働の総合芸術で個人銘は表れにくいが、後年には市川安左エ門、柴田作左工門ら轆轤の名手が知られる。日峰大明神の祠(安政六年)台石には末期の役人・工人名が刻まれている。

三十三間登り窯の中央三間が藩窯で、下部を焼く十人が本手伝い、上部六人が助手伝い。末期の名簿には富永・福岡・森・緒方らの名が見える。

維新で御細工屋は廃場となり、職工三十一人は金禄公債で士族編入。保護下の直営的窯業が一挙に基盤を失い、各地へ離散した(大川内崩れ)。三河内などへ移住した影響で、同地に鍋島風が加味された。

光武彦七は東京で服部杏圃に学び西洋上絵、京都で三代道八から京赤絵を研究。捻細工に秀で、梅・菊の環枝額などを創案した名工。

柴田善平は捻細工・茶器の名人で、仙人や関羽像を得意とし、清水焼研究で気韻ある作を残す。「鴨脚」は庭木にちなむ号。出石の盈進社、姫路の永世社で士族授産に関与し、門下「鷺脚」らが脚焼を名乗った。維新後、目付林甚平が残品の焼成・整理を命じられた。


【英語訳】[English translation]

Refractory bricks—the basis for casting furnaces—were manufactured at Ōkawachi. This was pioneering domestically: after Ansei 1, Saga cast fifty heavy guns for the Shinagawa batteries at Tafuse, implying Ōkawachi bricks were among Japan’s earliest high-grade firebricks. Guided by Egawa Hidetatsu and, via Itō Genboku, Dutch fortification texts (e.g., the “Saba(r)t Hachiryo Castle” source), they translated, studied, and produced 3-sun-thick, 8-sun-square bricks (examples at the Saga Museum). The domain also attempted a steamboat and a model locomotive.

Lord Nabeshima Naomasa (Kansō) died in 1871, aged 58—a reformer who rebuilt finances, pursued coastal defense and trade, encouraged industry, returned his fief, and is now enshrined at Saga Shrine (Oct 12 festival).

Furukawa Matsune devised meticulous nonstandard designs for the domain atelier; versed in waka, court rites, connoisseurship, seal-cutting, and painting, he served close to Kansō and committed junshi upon his lord’s death.

Domain ware was collective art, so signatures fade, though later masters like Ichikawa Anzaemon and Shibata Sakuzemon excelled at the wheel. The Hino Mine shrine (1860) lists late officials and artisans.

In the 33-chamber climbing kiln, the central three served the domain; ten “main helpers” fired the lower, six “assistant helpers” the upper—names such as Tominaga, Fukuoka, Mori, Ogata remain.

The Restoration dissolved the atelier; 31 craftsmen received stipend bonds and samurai status, but protection vanished, prompting the “Ōkawachi collapse” dispersal to Arita, Mikawachi, etc., where Nabeshima style influenced local wares.

Mitsutake Hikoshichi studied Western overglaze in Tokyo and Kyō red enamels under Dōhachi III; famed for modeling, he created ring-branch panels of plum and chrysanthemum. Shibata Zenpei, a master modeler of teaware and figures, later aided samurai relief kilns at Izushi (Eishin-sha) and Himeji (Eisei-sha); pupils like “Sagyaku” marketed “Kyaku-yaki.” After abolition, inspector Hayashi Jinpei supervised firing and disposition of remaining bisque stock.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

为铸炮奠基的耐火砖在大川内窑制成,属当时创举。安政元年佐嘉藩在多布施河岸为品川炮台铸五十门巨炮,亦印证大川内砖或为国产高品耐火砖先声。参考江川英龙意见,并由伊东玄朴借阅译解荷兰城书,制得厚三寸、八寸见方之砖(征古馆藏)。藩内还试作蒸汽船与火车模型。

明治四年鍋岛直正(閑叟)卒。少壮继家、再建财政,重海防与贸易,奖产业,奉还封土,后追赠従一位,祀于佐嘉神社。

古川松根擅精密构图与多藝,受閑叟宠遇,主卒即殉。

藩窑为协作艺术,个人名难见;然市川安左エ门、柴田作左工门等以轆轤著称。日峰大明神祠刻末期官匠名。

三十三间窑中央三间属藩窑,下部十人本手传,上部六人助手传,名录尚存。

维新致御细工屋废止,三十一匠给金禄公债入士族,然失去庇护,各散诸窑(三河内等),遂见鍋岛风流入他地。

光武彦七习西洋上绘与京赤绘,捻作名手;柴田善平善茶器与人物像,后参与出石、姬路等士族授产,门下“鷺脚”等自立“脚烧”。维新后林甚平奉命烧成与整理存品。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

鑄炮所需耐火磚在大川內窯製成,為當時創舉。安政元年佐嘉藩於多布施河岸為品川砲臺鑄巨砲五十門,亦顯示大川內製或為國產耐火磚先聲。參酌江川英龍意見,經伊東玄朴借閱譯解蘭書築城本,製得厚三寸、八寸方之磚(徵古館存)。藩亦試作蒸汽船與汽車模型。

明治四年鍋島直正(閑叟)卒。少壯襲封、重建財政,講海防貿易、勸工業,奉還封土,後贈從一位,祀於佐嘉神社。

古川松根精密設計、多藝通達,受寵侍側,主薨即殉。

藩窯為協作藝術,個人名難現;然市川安左エ門、柴田作左工門等以轆轤著名。日峰大明神祠刻末期官匠名。

三十三間窯中央三間屬藩窯,下部十人本手傳,上部六人助手傳,名錄尚存。

維新致御細工屋廢止,三十一匠給金祿公債編士族,然失庇護而星散(三河內等),鍋島風遂入他窯。

光武彥七習西洋上繪與京赤繪,捻作名手;柴田善平善茶器與人物像,後參與出石、姬路士族授產,門下「鷺腳」等立「腳燒」。維新後林甚平奉命燒成整理存品。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

大川内窑率先制成铸造用耐火砖;安政元年佐嘉在多布施河岸为品川炮台铸五十门重炮,显示其为日本早期高品砖之一。依江川英龙与伊东玄朴所介荷兰城书研究,制三寸厚、八寸方砖(佐贺博物馆藏);并试作蒸汽船与机车模型。

鍋岛直正(閑叟)1871年卒,改革财政,重海防贸易,兴产业,奉还领地,今祀佐嘉神社。

古川松根善精密图案,学养广博,殉主而逝。

藩窑为协作艺术;后有市川安左エ门、柴田作左工门等名手。日峰祠刻役人匠名。

中央三室属藩窑,十名主火、六名副火。维新后作坊解体,匠人分散至有田、三河内等地,鍋岛风流播各窑。

光武彦七研西式上彩与京赤绘;柴田善平擅茶器与人物,助士族授产,“脚烧”由其门人贩售。林甚平负责清理余料与素坯。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

大川內窯率先製作鑄造用耐火磚;安政元年佐嘉於多布施河岸為品川砲臺鑄五十門重砲,顯其為日本早期高品磚之一。依江川英龍與伊東玄朴所介蘭書研究,製三寸厚、八寸方磚(佐賀博物館藏),並試作蒸汽船與機車模型。

鍋島直正(閑叟)1871年卒,重整財政、振興工業、奉還領地,今祀佐嘉神社。

古川松根善精密設計,學養淵博,殉主而逝。

藩窯為協作藝術;後有市川安左エ門、柴田作左工門等名手。日峰祠刻役人匠名。

中央三室為藩窯,十名主火、六名副火。維新後作坊解體,工匠流散至有田、三河內等地,鍋島風影響各窯。

光武彥七習西式上彩與京赤繪;柴田善平擅茶器與人物,助士族授產,「腳燒」由門人售之。林甚平負責燒成與清理存品。