精巧社設立~七官手改良

この記事は約16分で読めます。

【原文】[Original text]

精巧社設立
 茲に於いて鍋島焼の名が彌々斷絕せんことを惜める光武彦七は、明治十年原次右工門(藩窯工人丈左工門の子)立石寬兵衛(藩窯工人寛六の子)と糾合して復興に盡瘁し、宗藩内庫所の補助を仰いで精巧社を設立した。そして彥七が其社長たりしが、後年打絶へんさせる頃に、柴田善平、福岡六助相協力して繼續せしも、又々經營難に陥ったのである。

市川卯兵衛
 爰に御細工屋の畫工にて市川卯兵なるものがあり、曾て藩命にて、當時の畫伯應齋の門に入り、頗る名手の聞へありしが、安政三年十月物故し、其子重助家職を嗣ぎしも、御細工屋廢場と共に失職し、前記の善平、六助が經營せる精巧社を引請けて営業することなり、後年卯兵衛を襲名しが、明治三十一年十一月十日五十九才にて卒し、其子光之助之を継承して営業しつゝある。

福岡兄弟と小笠原八助
 なほ當時の代表的窯焼なりし福岡六助は、明治二十六年五月十日五十三才にて卒し、舍弟友次郎は明治四十二年六月四日五十九才にて卒去した。又小笠原八助は大正七年二月二十八日六十七才にて卒してゐる。
 大正二年三月十一日此地の福岡大五郎は、第二三六一四號にて福岡式陶磁器金銀燒付法の特許を得しが、同十一年七月三十一日第四三一七六號にて又陶磁器染附方法の特許を得たのである。

鍋島直大卒す
 大正十年六月十八日藩主侯爵鍋島直大卒去した。行年七十六才であつた。彼は閑叟の長子にて、夙に特命全権公使として伊太利に駐剳し、又式部長官となって長く君側に奉仕した。而して藩窯廢場後もなほ精巧社の事業に出資して、之を補助せしこと少なくなかつた。

現時の大川内山
 現時大川内山の七十戶、窯焼二十戶、職工百五十人、年産額十萬圓位にて民窯盛業時代の三分の一額といはれてゐる。當時御手傳ひと稱せし十六人の民窯主悉く跡を断ち、今継承するもの山本雄平(森重左工門嫡子)一人なり、其他の代表的窯焼として瀬戸口勝太郎等がある。
 大川内山は明治四十一年六月、經費一萬三千圓を投じて里道千八百間の改修工事を行ひ、車馬の交通大いになるに至った。猶同年十一月には陶山の通路に沿へる各窯焼が何れも飾窓を新築せしは、三河内の外他山に見る能はざる光景である。

一の瀬山
 大川内村なる一の瀬山(元市の瀬書きもの多し)は、大川内山の隣山にて、山越しに二十町を隔て、又伊萬里よりは一里余の行程である。此地は元松浦村中野原方面(牟田の源や岳野山)の韓人が、山越しに小石原を経て此處に開窯せしての説をなす者あるも、彼の山越しが果して當時可能なりしや否や詳でない。

高麗神窯
 一の瀬の古窯趾には、高麗神、火の谷、市の瀬古窯、市の瀬新窯、東の谷等がある。高麗神は南方の谷へ三四丁入りたる溪流の山裾にて、古窯品には鉛色や暗黄色胎土の上に、黄灰色や鶯色釉を掛けし茶碗や皿鉢等があり、中には鐡釉にて茅の如きを描きし物がある。又無釉高台には、三日月形があり、又暗黄色には縮緬皺が現れてゐる。

火の谷
 火の谷は西方の丘地にて、其邊りは大部分畠と成つてゐる。古窯品には暗黄色及帯黄色胎土の上に、小氷裂出の薄茶釉、黒茶釉、卵色釉、鶩茶釉等の茶碗が多く製作されており、そして高台高く且施釉されてゐるところ、高麗神よりも顔る後代の開窯と見るの外ない。又後には磁器が製作されてゐる。
 火の谷に隣りて前方が市の瀬古窯であり、後方奥へ流れて登の趾が市の瀬新窯である。そして此二窯は當時盛んに染附磁器を焼きしものにて、原料は大川内山と同じく、有田泉山の磁石をのみ使用してゐる。

一の瀬東の谷
 又東方の谷なる東の谷と稱する處の窯趾は、今より四十六七年前大串鹿臓が一登を築窯して、型染附にて、火入や春田屋丼などの下手物を製造せしも、山よりの出水多かりしために、幾許もなく中止せしといはれてゐる。
 藩制時代の製陶制度にては、一の瀬山は六寸丼春田屋丼(綠反の淺井にて、按ずるに春田屋某といへる仕入客が、此形の丼を注文せしより、此名起りしにあらざるか)の如き下手物と限られ、又其繪柄に於いても竹仙人と定められてあつた。其後も日用向専門の丼を最とし、大川内山とは別途の觀ありしも、生産額に至つては、常に之を凌駕せしと稱せらる。

竹下勝七
 後年打續きての不況にて、一時此地の窯焼悉く廢業し、竹下勝七一人の製造時代があつた。蓋し彼一戸の年產額七万圓余を繋げたのである。勝七は先代清左工門の男にて、大正八年四月十六日大川内村長に就職し、一年余にして前田久太郎と代りしも、常に営業及村治上盡瘁するところ少からず、同年三月二十二日には自治制の圓満保維者として部長より表彰を受けたのである。
斯くて大正十年二月十日七十才を以て卒去した。
 明治初年の此地の窯焼十五六戸あり、製陶頗る盛んなりし共に、戸數又百戸を敷へしも、其後斯業の衰退に伴なひ今其半にも満たず、僅に二十五六戸に減少してゐる。 現在窯焼は豚七の男竹下秀一の外大串勝、金子儀平、田中森一の四戸となり、年産額四萬圓余といはれてゐる。
 現代製作されつゝあるところの鍋島焼を見るに製品と比較して余りに飽き足らざる感がある。
而して其目的が製品の復活と否とに拘らず、なほ一歩を進めて眞の美術的製造法を復興し、以て泉山の原料を用ひし往時の作品に見るが如き優良品の製作さるゝに至らば、我邦工藝界の進展に資することの如何ばかり甚大なる可きかを想うて止むはざるものがある。それにしても第一の問題は資力であらう。

内庫所の援助を希望す
 勿論資力と作業の精進のみを以て、美術品が完成するにはあらざる可きも、近來此地方一般の製品が色相頗る輕薄を呈し稍もすれば有田焼傳統の釉相が失はれんとするの時、内庫所の如きがたとひ小規模にても、之が復活と進歩に向って貢献さるゝに至らば、有田焼の眞美を解する禮讃者の爲にも、大なる幸福であらう。

七官手の無類
 製品の優劣は暫く措き、我邦中磁器を産するの地にして青磁を製する處少からざるも、然れども此手の七官手を製するの地は、吾人の寡聞なる未だ之を聴かぬ、而して往時は此食器に用ふれば諸毒を消すと稱せられ、殊に藩制時代に於いては、藩窯の外猥りに製作することを禁ぜられた程であつた。然るに後代に至りて粗製濫賣の結果、下手物中の下手物とさるゝに至つた。

七官手粗製の因
 事の起りは明治十五年頃、泉山石場準備金取戻事件(有田編参照)なるもの勃發し、それが意外なる費途に消耗されおりしより大川内窯燒は一同憤慨して、断然泉山の原料を使用せぬことに申し合はせ、是より地元六本柳の青磁石粘土とを以て、皆一斉に罅焼を製造するこどゝ成った。そして高價を要する橘灰の使用を廢し、専ら圍爐裏灰をフラックスとして製作したのである。

七官手監賣
 而かも色相黄色を帯びて釉薄く氷裂こまかなる粗製品を鑑賣せしかば、伊萬里市場に於ける相場は茶器一組七錢、小ぶく茶碗一個四厘半といふ慘じめな値段となった。此時代より罅焼の價値全く失はれて之を顧みる者なく、途には墓場の水茶碗や花立にまで使用さるほど低下したのである。

七官手改良
 藩制時代は御用品として、寧ろ碪手よりも珍重されし七官手なることを追懐し、再び昔日の如き優品の復興を望むは吾人のみにあらすと思ふ。蓋し従来の製品は陶質なるを以て、頗る脆弱であることが大いなる缼点として、その質用範圍が次第に縮少さる恨みがある。
 故に胎質を石器以上に改良し、日用品の如きは特に施釉法を研究して、出来得る丈け軽便ならしむる事が肝要であり、畢竟するに價格の低廉といふことが此際取るべき得策ではあるまいか。そして碪手と共に大川内山の特製品として、再び更生せしむることも、亦一方法として考慮の価値を失はぬであろう。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

光武彦七は鍋島焼の断絶を惜しみ、明治10年に原次右工門・立石寛兵衛と精巧社を興し、内庫所の援助で復興を図った。彦七が社長、その後は柴田善平・福岡六助が継いだが再び経営難に陥る。

御細工屋の絵師・市川卯兵は応斎門下の名手。安政3年に没し、子の重助が継いだが廃場で失職。のち善平・六助の精巧社を引き継ぎ、後に卯兵衛を襲名。明治31年没、子の光之助が継業。福岡六助は明治26年、弟友次郎は明治42年に没。小笠原八助も大正7年に没。福岡大五郎は「金銀焼付法」(1913)と「染付方法」(1922)の特許を得た。

侯爵鍋島直大(閑叟の長子)は大正10年に76歳で没。伊太利公使・式部長官を務め、廃場後も精巧社を資金面で支えた。

当時の大川内山は70戸、窯20戸、職工150人、年産約10万円で最盛期の3分の1。御手伝い民窯主16名は絶え、継承は山本雄平のみ。瀬戸口勝太郎らが代表格。明治41年に里道改修、各窯が飾窓を新築し景観を改めた。

隣の一の瀬山には高麗神、火の谷、市の瀬古・新窯、東の谷があり、鉛色~暗黄胎に黄灰・鶯色釉、鉄絵、三日月形の無釉高台や縮緬皺などの特徴を示す。火の谷は後代で小氷裂の薄茶・黒茶・卵色・鴨茶釉の碗、のちに磁器も焼成。市の瀬古新窯は泉山磁石を用いた染付の盛窯。東の谷は大串鹿蔵が登窯を築いたが、出水多く短命。藩制下では一の瀬は六寸丼「春田屋丼」など下手物専門(図柄は竹仙人)で、大川内と別系ながら、生産量はしばしば凌駕した。

不況で一時は竹下勝七のみが製造し、年産7万円余を保った。勝七は大川内村長も務め表彰を受け、大正10年に70歳で没。明治初年15~16戸・総戸数100近くが、後に25~26戸へ減少。現在は竹下秀一・大串勝・金子儀平・田中森一の4戸、年産4万円余。現行の鍋島は往古と比べ物足りず、泉山原料を生かした本格的美術製法の復興が望まれるが、まず資力が鍵である。

内庫所の小規模でもよい支援が、軽薄化する色調と伝統釉相の断絶を食い止め、真の美を守る助けとなるだろう。

七官手は日本各地に青磁はあっても、この系統の罅焼を本格に造る地は稀。かつては解毒の器と珍重され、藩窯以外での製作は禁止された。だが明治15年ごろの泉山石場準備金取戻事件を機に、大川内は泉山原料を拒み、地元六本柳の石と粘土、囲炉裏灰フラックスで一斉に罅焼を製作、橘灰を廃した結果、黄味がかり釉薄で細かな氷裂の粗製となり、伊万里市場で茶器一組7銭、小ぶく茶碗1個0.045円という惨状に。以後墓場の水茶碗にまで落ちぶれた。

再興には、胎土を石器質以上へ改良し、日用品は施釉を工夫して軽便化し、価格を抑えること。砧手と併せた大川内の特製品として再生を図るべきだ。


【英語訳】[English translation]

Seeking to save Nabeshima ware from extinction, Mitsutake Hikoshichi founded the Seikō-sha in 1877 with Hara Jiemon and Tateishi Kanbee, backed by the domain’s Naikokusho fund. He served as president; later Shibata Zenpei and Fukuoka Rokusuke kept it alive but again faced hardship.

Painter Ichikawa Ubei, a court-commissioned disciple of Ōsai, died in 1856; his son Jūsuke inherited the atelier but lost his post at abolition, then took over Seikō-sha and later assumed the Ubei name. He died in 1898; his son Mitsunosuke continues. Fukuoka Rokusuke (d. 1893), his brother Tomojirō (d. 1909), and Ogasawara Hachisuke (d. 1918) were leading potters. Fukuoka Daigorō patented a gold/silver overglaze method (1913) and a sometsuke technique (1922).

Marquis Nabeshima Naonobu* died in 1921 at 76, elder son of Kansō; envoy to Italy and Grand Master of the Ceremonies, he also funded Seikō-sha after the domain kiln closed. (*Text reads “Naota”; we retain the original name.)

Ōkawachi had ~70 households, 20 kilns, 150 workers, and ~¥100,000 output—one-third of the民窯 peak. The 16 “helper”民窯 line ended; only Yamamoto Yūhei remained as heir; Setoguchi Katsutarō was another notable. In 1908 roads were improved and display windows built along the kiln lanes.

Neighboring Ichinoseyama held old sites—Koraijin, Hinotani, Ichinose old/new, and Higashi-no-tani—with lead/ochre bodies under yellow-gray or nightingale glazes, iron-brush grasses, crescent footrings, and crepe-like wrinkles. Hinotani is later, with fine-crackle tan/brown/egg glazes and later porcelain. The Ichinose kilns fired sometsuke using Izumiyama stone like Ōkawachi. Higashi-no-tani saw Ōgushi Shikazō’s short-lived kiln. Under domain rules Ichinose specialized in utility bowls (e.g., “Harutaya-donburi,” motif “Bamboo Immortal”), often outproducing Ōkawachi.

During slumps only Takeshita Katsushichi kept firing, sustaining ¥70,000 a year; he served as village head and was commended, dying in 1921 at 70. Early Meiji had 15–16 kilns and ~100 households; later only 25–26 kilns remained. Today four kilns—Takeshita Shūichi, Ōgushi Masaru, Kaneko Gihei, Tanaka Morikazu—produce ~¥40,000. Modern Nabeshima feels wanting; a true revival using Izumiyama materials would greatly benefit Japanese crafts, but capital is the first hurdle.

Naikokusho aid, even small-scale, could curb flashy colors and loss of traditional glaze character and support a renaissance.

Shichikan-de (crackle celadon) was once unique and even thought to neutralize poisons; making it outside the domain was banned. Its decline began around 1882 when, after the Izumiyama fund incident, Ōkawachi boycotted Izumiyama stone, switched to local Rokpon-yanagi stone/clay, dropped costly tachibana ash for irori ash flux, and mass-made crackle ware. The results—yellowish, thin-glazed, fine-crackle pieces—sold for a pittance (a tea set ¥0.07; a small bowl ¥0.0045).

To restore it: upgrade the body to stoneware or better, redesign glazing for daily use to be lighter and cheaper, and relaunch Shichikan-de alongside Kinda-de as Ōkawachi specialties.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

光武彦七为挽回鍋岛断绝,于明治十年与原次右工门、立石宽兵卫创设“精巧社”,受内库所资助;其后柴田善平、福冈六助续办而再陷困境。

市川卯兵出身御细工屋、应斋门下,后其子重助承家并接手精巧社,改名卯兵卫,1898年卒,子光之助继业。福冈六助与弟友次郎、小笠原八助相继去世。福冈大五郎获金银烧付与染付两项专利。

侯爵鍋岛直大1921年卒,早年任意大利公使与式部长官,廃场后亦资助精巧社。

当时大川内山70户、窑20、工人150、年产约10万日元,为盛期三分之一。御手传系断绝,仅山本雄平承嗣。1908年修路并建“飾窗”。

邻山一之瀬存高丽神、火之谷、市之瀬古新窑、东之谷等遗址,见黄灰、鶯色釉与铁绘、弯月形高足等。火之谷较晚,小冰裂茶釉居多,后烧瓷。市之瀬以泉山磁石烧染付。东之谷大串鹿藏建窑不久停烧。藩制下限定作六寸丼“春田屋丼”等下手物,产量时超大川内。

不况时仅竹下胜七独撑,年产七万余。其后窑户锐减,今仅四窑、年产四万余。今制鍋岛乏古雅,宜以泉山原料复兴正统美术制造,资金为先。

七官手曾为禁制御用品,后因泉山基金事件,改用六本柳石土与围炉灰,致黄相薄釉细裂之粗制泛滥,市价暴跌。要复兴,须提升胎质、改良施釉、降价,与砧手并举为大川内特产。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]

光武彥七為挽回鍋島之名,於明治十年與原次右工門、立石寬兵衛創設「精巧社」,受內庫所資助;後由柴田善平、福岡六助續辦而復陷困境。

御細工屋畫師市川卯兵出於應齋門下,子重助承家後接手精巧社並襲名,1898年卒,子光之助繼業。福岡六助、弟友次郎及小笠原八助相繼卒。福岡大五郎獲金銀燒付與染付專利。

侯爵鍋島直大1921年卒,曾任義大利公使與式部長官,廢場後亦資助精巧社。

時大川內山有70戶、20窯、150工、年產約十萬圓,為盛期三分之一。御手傳系絕,僅山本雄平承嗣。1908年修路並建「飾窗」。

鄰山一之瀨存高麗神、火之谷、市之瀨古新窯、東之谷等,見黃灰、鶯色釉與鐵繪、弦月形高足等。火之谷較晚,細裂茶釉為多,後燒瓷。市之瀨以泉山磁石燒染付。東之谷大串鹿藏建窯不久停。藩制下限定「春田屋丼」等下手物,產量時凌駕大川內。

不況時唯竹下勝七獨撐,年產七萬餘;其後窯戶驟減,今僅四窯、年產四萬餘。今製鍋島多乏古韻,宜以泉山原料復興正統工法,資本為先。

七官手昔為禁制御用品;泉山基金事件後改用六本柳石土與圍爐灰,致黃相薄釉細裂之粗製氾濫,市價崩落。復興之道在於提升胎質、改良施釉、平價化,與砧手並列為大川內特產。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

1877年,光武彦七与原次右工门、立石宽兵卫创办“精巧社”,获内库所资助;后由柴田善平、福冈六助续办。市川卯兵门出应斋,其子承接精巧社并续名。福冈大五郎获金银烧及染付专利。侯爵鍋岛直大于1921年卒,亦资助该社。

当时大川内山70户、20窑、150工,产值约10万日元。邻山一之濑诸古窑以泉山石烧染付。竹下胜七曾独力维持年产7万。今仅四窑存续。

七官手曾禁于藩窑之外,因1870年代事件弃用泉山料,改本地石与炉灰,致品质下滑、价格暴跌。复兴需升级胎质、优化釉法、降低成本,并与砧手并行重建大川内特色。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

1877 年,光武彥七與原次右工門、立石寬兵衛創辦「精巧社」,得內庫所資助;後由柴田善平、福岡六助續辦。市川卯兵出應齋門,其子承接精巧社並襲名。福岡大五郎獲金銀燒與染付專利。侯爵鍋島直大 1921 年卒,亦資助該社。

時大川內山 70 戶、20 窯、150 工,年產約 10 萬圓。鄰山一之瀨諸古窯以泉山石燒染付。竹下勝七曾獨力維持年產 7 萬。今僅四窯存。

七官手昔禁域外製作;因 1880 年代事件棄泉山料改本地石與灶灰,品質下滑、價崩。復興之策:提升胎質、改良釉法、降本,與砧手並列重建大川內特色。