【原文】[Original text]
祥瑞と有田
以上記するところ一顧の値をも發見せず、元來當時の有田皿山は全く深山幽谷にて樵夫の徑さへ稀なるところであつた。後説五郎大夫が皈朝せしといへる元和二年に於いて、此深山より李参平が天然磁礦を發見して、始めて我邦に磁器なるものが創作された。然るに前説の五郎大夫は、何を彷徨ふて此深山の地へ来たのであらう。又後説の五郎大夫が歸朝して、直ちに有田の原料を発見し磁器を創製せしとしては、彼が李参平と額合せし何等の口碑さへ殘されてゐない。
祥瑞の痕跡
兎も角後説の五郎大夫が果して有田地方に来りしすれば、其後の彼が生涯なる四十七年の間に於いて、何物の痕跡を止めねばならぬ。然るに有田磁器の開窯に就いては五郎大夫に於ける何等徴すべき傳説さへもなく、又今回著者が普ねく肥前の各山を巡歴せし際に於いても、五郎大夫との製磁關係に就いては其匂ひさへ嗅いたことがない。
無稽の高唱
然るに近來李参平の外に、我邦磁器の創業者ありとの異説をなす者があり、就中有田磁器の創始は全く祚端なり絶叫する妄説者あるは、其餘りに研究の幼稚なるを憫れむと共に、然も此滅法論を臆面もなく高唱して、斯界に名を成さんと企らめる其勇気は歎稀に價するも、寧ろ議論を超越せる噴飯事である。而して我有田に於いて斯ゝる妄説に耳を傾けることは、常識ある者の大なる恥辱とされゐるを以て、誰も問題にするものはない。
武内磁器と祥瑞
次には又武内の磁器を發掘してより、彌々祥瑞の發祥地を確めしといふ説あるも果して然るに於いては祥瑞なるものは全く成器を得ざりしといふ矛盾が生じて来る。抑祥瑞と稱する磁器を見るに、有田の故乙吉、伴次郎、嘉十等の如き一流陶家の製品には勿論及ばざるも、其素地と青花の俊麗さは到底、軟質磁器などの模倣し得可き品柄ではない。
有田祥瑞
故に當時之をイミテートせし者には有田の嘉十や、京都の木米、耕山、又は瀬戸の半治など一流の陶家であつた。尤も有田に於いては二流どころの陶家にて摸作せし物も少なくない。
そして有田製には五郎太甫や五郎太輔吳祥瑞 或は開造祥瑞、又は単に瑞の一字を銘したのもある。但し有田製は其模様殊に地紋の描き振りが餘りに規矩丁重にて本物の如き粗味がない。
而して祥瑞製なるものは模様よりも寧ろ細工の方に特長あるといはれてゐる。
支那へ注文
要するに祥瑞の銘ある支那の青花白磁を始めて我邦の五郎大夫なる者が入手して愛翫措く能はず、再び彼地へ注文せし時に自己の名前を加へて記銘せしめたるにはあらざるか。
小堀遠州の注文
又或説の如く其後小堀遠州等茶人の好みにて、彼地より渡來せしさの観察は頗る傾聴に値する。
それは今日祥瑞と稀せらるゝ茶器を見るに、茶碗や水指等多く歪みや凹める物である。然らば之が四百年の昔に於いて支那の茶人達が製作せしさも鑒られず又出来損じのみを輸入せしても思はれぬ。元來磁器には笑窪の如きが無暗に出来るものではない。是は全く我邦の茶人が特に注文して態と笑窪等を製作せしものと見るべきであらう。
日本人向の特製
斯くの如く特別なる誂へ物なる故に、縦令それが今産地に於いて同銘の品を認めずとの理由を以て、全然之を否定することは不可である。古染附の渡来物にても、現代に於いては支那人の眼にさへ疑惑を挟む物が少なくない。
それは當時の日本人向に特製されしものにて、祥瑞の銘品も其頃支那青花の初期物が、例の彼等が福壽銘の如き縁起的観念にて、記銘輸入されたるを、前記の如く五郎太夫の名を加へて、屢注文製作せしめしもの見るの外ない。
或支那人は日本へ渡りし祥瑞銘器を見て、是こそ日本古陶の精華なりとて買取りし咄もあるが、獨逸のドレスデンにて製作し當時の柿右工門摸造品を本物と合點して、我國へ逆輸入しては珍重しつゝある日本人もある。又近き足元にては京阪の道具屋が、佐賀市にて鍋島皿を買ひ、それが京都で寫されたのを、今度は又佐賀人が本物と信じて購ひ皈り今にも自慢してゐる者さへある。此へマさ加減は我邦人の方が一枚上であらう。
又北京宮中の博物館なる武英殿の陳列品中には我有田焼が古支那焼としてプライドされてゐる奇觀さへ考よれば、此陶磁器なる物の専門鑑定エキスパートオピニョンは其道の精通家とて容易く斷じ得べきでない。そこに研究の苦心があり、又觀賞の面白味があるのであらう。
肥前焼との無關係
唯著者は歴史的の見地より祥瑞なるものが武内の軟質磁器は勿論、我有田焼の発祥には兎の毛ほごも關係なきことを論じ、折々起る肥前磁器祥瑞創始説の如きは、痴人の夢を説くものとして其妄を置く次第である。
三の丸焼と鍋島茂義
前記の如く武内の磁器は未完成なりしも後年武雄城内にて製せし三の丸焼は、原料が天草石なる丈けに完全なる磁器を焼いてゐる。それは天保の初年(1831年)武雄二十八代の領主鍋島十左工門茂義が三の丸(今の武雄中學校)に於いて試燒せし御庭焼である。
茂義は當時西洋文明應用の率先者にて、進取の氣に富めるを以て、本藩主鍋島直正(閑叟)は之を抜擢し、天保五年長崎の町年寄高島秋帆(四郎太夫舜臣慶應二年卒六十九才贈正四位)に就いて西洋の燧銃及大砲術を學ばしめたのである。彼は翌六年には斯術の皆傳を受けて蹄藩せしものにて實に佐賀藩砲術の元祖である。
三の丸の磁器
茂義は武雄城内に於いて砲銃等兵器の外、電信器、煉瓦、硝子等の製作を研究し傍ら窯技を趣味として陶窯を築き、天草原料を以て磁器の製造を試みしものにて、領内の陶山小田志(西川登村)の窯焼奥川某(今の龜右工門の祖父か)召されて其任に當り、電信用器の外皿、鉢丼等種々の染附物が焼かれてゐる。
中にも呉須にて粗雑な牡丹など描きし九寸の深底蓋物などあるも、是等は雑器にて全体に於いて巧妙なる優製品が少くない。蓋し賣品ならざる御庭焼とて今男爵家に藏せらるゝ物と、各藩士の拜領せし物の外民間に存するもの甚稀である。
金製顔料の試み
なほ此磁器には黄金製顔料を試みし物がある。それは正圓子の出色を研究せしものゝ如く、而して其調製法當を得ざりしため多の失敗器が遺されてある。蓋し黄金を用ひて磁器に圓子彩料を数へしは、明治四年獨逸のワゲネルが有田に於いて始めて發表せしところなるに、それよりも四十年以前に於いて其發色を試みしは偉とせねばならぬ。
三の丸の陶器
此磁器焼成と同時に又陶器が製作され、武内村黒牟田の江口五郎召されて之を擔任せしていはれてゐる。此製品中重なるは化學試験用の坩堝や或は蘭引(蒸溜器)等であつた。
茂義は天保三年七月晦日父茂順の家督を受けしものにて、同十年九月四十才にて退隠し、文久二年十一月二十七日六十三才を以て卒去した。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
以上に述べた説には、検討に値する根拠は見いだせない。当時の有田皿山は深い山中で、木こりの小道すらほとんど通わない場所だった。後説によれば五郎大夫が元和二年に帰国したというが、その同じ頃、この山奥で李参平が天然の磁石を発見し、初めて日本で磁器が作られた。では前説の五郎大夫はいったい何の当てもなく、どうやってこの山深い地まで来たというのか。さらに、後説の五郎大夫が帰朝してすぐに有田の原料を見つけ磁器を創製したのなら、李参平と顔を合わせたというような口碑のひとつくらい残っているはずだが、何も伝わっていない。
仮に後説どおり五郎大夫が有田地方に来たのだとしても、その後の四十七年の生涯で何らかの痕跡を残していなければおかしい。しかし有田磁器の開窯に関して、五郎大夫に結びつく伝承は皆無であり、著者が肥前各地の窯場を広く巡った際にも、製磁との関係を示す手がかりは一切得られなかった。
近年、李参平以外にも日本磁器の創業者がいると唱える説があり、なかには有田磁器の創始はまったく別人だと大声で言い立てる者までいる。研究の稚拙さは気の毒だが、根拠のない論を恥じることなく吹聴して名を上げようとする勇気は奇特であるにせよ、議論の土俵にも乗らない与太である。有田ではこの種の妄説に耳を貸すのは、常識ある者の恥とされ、誰も相手にしない。
また、武内で磁器片が発掘されたことから、ここが祥瑞の発祥地だと断じる説も出たが、もしそれが真なら、祥瑞は成品にならなかったという矛盾に陥る。実際に「祥瑞」と呼ばれる磁器を見れば、有田の故乙吉・伴次郎・嘉十ら一流の作品には及ばないとしても、素地と青花の気品は、軟質磁器の模倣などでは到底再現できない。
当時これを模作したのは、有田の嘉十、京都の木米・耕山、瀬戸の半治といった一流の陶工である。有田では二流の陶家による模作も少なくない。有田製には「五郎太甫」「五郎太輔呉祥瑞」「開造祥瑞」あるいは「瑞」の一字のみを銘とするものがあるが、地紋の描きぶりがあまりにも几帳面で、本物の持つ粗野な味わいが乏しいといわれる。一方、真の祥瑞は文様の出来よりも、むしろ作りそのものに特色があるとされる。
要するに、「祥瑞」の銘がある中国の青花白磁を、日本の五郎大夫なる人物が入手して愛玩し、再注文の際に自分の名を加えて銘刻させたのではないかという見方が成り立つ。加えて、小堀遠州ら茶人の好みに合わせて渡来したとする説は傾聴に値する。今日、祥瑞と称される茶器には、歪みやえくぼのある茶碗や水指が多い。それが四百年前に中国の茶人が自発的に作ったとは考えにくく、出来損ないばかり輸入したとも思えない。磁器にえくぼのような凹みが自然に頻発することはないからである。これは日本の茶人が特別に誂え、あえてえくぼなどを作らせた結果と見るべきだろう。
こうした特注品である以上、同じ銘が現地で確認できないことを理由に全面否定するのは妥当でない。古い染付の渡来品でも、現代の中国人の眼に疑わしく映るものは少なくない。日本向けの特製品だったからであり、祥瑞の銘品も、当時の中国青花の初期作が、福寿銘のような縁起を重んじて銘入りで輸入され、そこへ前述のように五郎太夫の名を加えて、繰り返し注文制作させたと見るのが自然である。中国人が日本に来て、祥瑞銘の器を日本古陶の精華だといって買い戻したこともあるという。ドレスデン製の当時の柿右工門の写しを本物と思い込み、逆輸入して珍重する日本人もいる。身近なところでも、京阪の道具屋が佐賀で鍋島皿を買い、京都で写されたものを、今度は佐賀の人が本物と信じて買って自慢している、といった話がある。こうしたへまは、むしろ日本人のほうが一枚上手かもしれない。さらに北京宮中の武英殿の陳列品に、有田焼が古い中国陶として誇らしげに展示されている例さえある。要するに陶磁器の鑑定は、その道の専門家であっても軽々に断じがたく、そこに研究の苦心と鑑賞の妙味があるのだ。
著者は歴史的観点から、祥瑞なるものが武内の軟質磁器はもちろん、有田焼の発祥にも微塵も関係がないことを論じ、折に触れて持ち上がる「肥前磁器祥瑞創始説」は、夢物語として退ける。
なお、武内の磁器は未完成だったが、後年、武雄城内で焼かれた「三の丸焼」は、原料が天草石であったため、正真正銘の磁器に達している。これは天保初年(1831)に、武雄二十八代領主・鍋島十左工門茂義が三の丸(現在の武雄中学校)で試焼した御庭焼である。茂義は当時、西洋技術の導入で先鞭をつけた進取の人で、本藩主・鍋島直正(閑叟)に抜擢され、天保五年、長崎の町年寄・高島秋帆(四郎太夫舜臣、慶応二年没、六十九歳、贈正四位)に就いて西洋の燧銃・大砲術を学んだ。翌六年には皆伝を受けて帰藩し、実に佐賀藩砲術の祖である。
茂義は城内で、銃砲などの兵器に加え、電信用の器具、レンガ、ガラスの製作を研究し、趣味として窯業にも取り組んで窯を築き、天草の原料で磁器製造を試みた。領内の陶山・小田志(西川登村)から窯焼の奥川某(現・龜右工門の祖父か)を召して任に当たらせ、電信用の器具のほか、皿・鉢・丼など各種の染付を焼いた。呉須で粗い牡丹を描いた九寸の深鉢蓋物などもあるが、いずれも雑器で、全体としては巧緻な優品は多くない。売り物ではない御庭焼であるため、男爵家に伝わる品や藩士への下賜品を除けば、民間に残るものはきわめて稀だ。
また、この磁器では金を用いた顔料の試作も行われ、正圓子の発色を研究した形跡がある。調合が適わず失敗作も多く残ったが、金を用いた磁器の圓子彩料は、明治四年に独逸のワゲネルが有田で初めて発表したとされるところ、四十年も前にその発色を試みたのは特筆に値する。
同時に陶器も制作され、武内村黒牟田の江口五郎が招かれて担当したという。主だった製品は、化学試験用の坩堝や蘭引(蒸溜器)などである。茂義は天保三年七月晦日に父・茂順の家督を継ぎ、同十年九月に四十歳で隠退、文久二年十一月二十七日に六十三歳で没した。
【英語訳】[English translation]
The foregoing claims offer no evidence worth a second look. In those days Arita’s Sarayama lay deep in the mountains—so remote that even woodcutters rarely passed through. According to the later account, Gorōdayū returned in Genna 2 (1616), yet it was around that very time that Yi Sampyeong discovered natural porcelain stone in those mountains and, for the first time in Japan, created true porcelain. If the earlier account were true, on what errand would Gorōdayū have wandered into such a wilderness? If, per the later account, he returned and immediately identified Arita’s raw materials and began making porcelain, one would expect at least some oral record of him meeting Yi Sampyeong—yet none exists.
Even supposing he did come to Arita, Gorōdayū should have left traces during the forty-seven years that followed. There are none: no traditions linking him to the founding of Arita porcelain; and in my own wide travels across Hizen’s kiln mountains I found not even a whiff tying him to porcelain making.
Lately some insist that, besides Yi Sampyeong, Japan had another founder of porcelain; a few even cry out that Arita’s beginnings were entirely someone else’s doing. Pity the poverty of research, and marvel—if you must—at the boldness of trumpeting such baselessness to win renown; but it lies beyond debate. In Arita, lending an ear to such notions is considered a disgrace among sensible people; no one bothers with it.
Others, pointing to sherds dug at Takeuchi, assert that this proves the birthplace of “Shōzui.” If that were so, it would follow—absurdly—that Shōzui never yielded finished wares. Genuine pieces called “Shōzui,” while not up to the very best by masters like the late Otsukichi, Banjirō, or Kaji of Arita, still possess a refinement of body and underglaze blue far beyond the reach of soft-paste imitations.
Those who imitated them at the time were first-rate potters: Kaji at Arita, the Kyōto masters Kōmei and Kōzan, Hanja of Seto, and the like; Arita’s second-tier workshops also produced copies. Arita pieces bear inscriptions such as Gorōtafu, Gorōtasuke Go Shōzui, Kaizō Shōzui, or simply the character “Zui.” Yet their ground patterns are overly neat and rule-bound, lacking the coarse bite of the originals. Shōzui’s distinction, it is said, lies less in painted pattern than in the making itself.
Most likely, a Japanese named Gorōdayū obtained Chinese blue-and-white porcelain carrying the “Shōzui” mark, treasured it, and—when reordering—had his own name added to the inscription. The view that tea men like Kobori Enshū later ordered such wares to their taste is persuasive. Today’s “Shōzui” tea utensils—bowls and mizusashi—often show warps and dimples; it is unlikely Chinese tea folk produced them unbidden or that only misfires were imported. Dimples do not arise freely in porcelain; more likely Japanese tea men specially commissioned them.
Because these were bespoke orders, the absence of identical marks in the producing locales cannot by itself negate their authenticity. Even among old imported sometsuke, many pieces now raise Chinese eyebrows; they were tailored for Japan. Early Chinese blue-and-whites bearing auspicious inscriptions like “fortune” and “longevity” were imported, and—as noted—Gorōdayū’s name was appended and the designs repeatedly custom-made. Some Chinese, seeing Shōzui-marked wares in Japan, bought them back as the very flower of Japanese old ceramics. Conversely, some Japanese have prized Dresden-made copies of Kakiemon as originals and re-imported them. Closer to home, a Kyoto–Osaka dealer bought Nabeshima plates in Saga; copies were made in Kyoto; then people in Saga bought the copies as originals and boast of them still. In such blunders, the Japanese may be the more adroit. Consider too that Arita ware is proudly displayed as ancient Chinese ware in Beijing’s Palace Museum (Wuyingdian): even experts cannot judge ceramics lightly. Therein lie the labor of study and the pleasures of connoisseurship.
From a historical standpoint, I contend that Shōzui has nothing whatsoever to do with Takeuchi’s soft-paste porcelain—still less with the genesis of Arita ware. The periodic claim that Hizen porcelain began with Shōzui is a dreamer’s tale and should be set aside.
Though Takeuchi porcelain remained unfinished, a later ware fired within Takeo Castle—“Sannomaru-yaki”—did achieve true porcelain, since it used Amakusa stone. This was an on-premises “garden kiln” trial in the early Tenpō era (1831) by Takeo’s 28th lord, Nabeshima Jūzaemon Shigeyoshi, at the Sannomaru (today’s Takeo Junior High School). A forward-looking adopter of Western arts, Shigeyoshi was advanced by the domain lord Nabeshima Naomasa (Kansō) to study flintlock and artillery under Takashima Shūhan (Shirōdayū Shunshin; d. 1866, age 69; posthumous Senior Fourth Rank) in Nagasaki in Tenpō 5. The next year he received full transmission and returned, becoming the progenitor of Saga domain gunnery.
Within Takeo Castle he studied not only arms but also telegraph apparatus, brick, and glass; as a pastime he built kilns and attempted porcelain with Amakusa materials, summoning Okugawa (ancestor of today’s Kame-emon?) from the kiln at Oda-shi (Nishikawatō village) to oversee firings. Alongside telegraph parts they fired various sometsuke—plates, bowls, and covered dishes. Among them is a nine-sun deep lidded piece with coarse peony in gosu; such pieces are utilitarian and, overall, few are truly fine. Being non-commercial garden wares, aside from items kept by the baronial house or bestowed on retainers, surviving pieces in private hands are very rare.
They also attempted gold-based pigments, apparently to study the coloring of shōenji; many failures remain due to imperfect preparation. Since the German Wagner publicly introduced gold-color decoration for porcelain at Arita only in Meiji 4, trying such coloration forty years earlier deserves notice.
At the same time pottery was made as well; Eguchi Gorō of Kuromuta, Takeuchi village, was invited to take charge. The main outputs were crucibles for chemical experiments and ranbiki (stills). Shigeyoshi succeeded his father Shigeyori on the last day of Tenpō 3, retired in Tenpō 10 at age forty, and died on November 27, Bunkyū 2, aged sixty-three.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
上述诸说并无可取之处。彼时的有田皿山深处偏僻,连樵夫的小路也罕见。后说称五郎大夫于元和二年归国,而几乎同一时期,李参平在这山中发现天然瓷石,始创日本瓷器。若前说为真,五郎大夫何以无凭无据闯入此深山?又若后说谓其归朝即识得有田原料而制瓷,为何毫无与李参平相会的口碑流传?
即便他确曾来到有田,此后四十七年的生涯理应留有痕迹,然无一可据。作者周游肥前诸窑,亦未嗅到与其制瓷相关的丝毫线索。近来更有人鼓噪除李参平外另有“创始者”,甚至断言有田创始另属他人。此等粗疏之论,不足与辨。在有田,听信此类妄说,被视为常识者之耻。
又据武内出土的瓷片而谓此为“祥瑞”发祥地者,若果如此,则反成“祥瑞并无成器”的矛盾。观所谓“祥瑞”之器,虽未及有田之故乙吉、伴次郎、嘉十等名家之最上品,其胎骨与青花之雅致,亦非软质瓷所能仿效。
当时能加以摹作者,多为一流匠:有田之嘉十,京都之木米、耕山,瀬户之半治;二流作坊亦多有仿品。有田制常署“五郎太甫”“五郎太辅呉祥瑞”“开造祥瑞”或仅“瑞”字,然地纹过于工稳,少原作之粗犷。相较之下,真“祥瑞”的特征在于作工本身。
更近情理者:日本之五郎大夫先得中国青花白瓷上署“祥瑞”者,珍玩不置,复次订制时,令加其名。小堀远州等茶人的特意嗜好,亦足采信。今见“祥瑞”茶器,多有歪斜与酒窝;非中国茶人自发为之,亦非专购次品所致,盖日本茶人特为所请,令其制出此等效果。
既属特制,不应因产地今不见同款而一概否定。古染付之舶来品,今亦常令中国人存疑,正因昔日多为日本向特制。初期青花多以福寿等吉语加款输入,再叠加“五郎太夫”之名,屡行订作,自是当然。亦有中国人见日本之“祥瑞”而高价购回者;反之,日本人曾将德累斯顿所作之柿右工门摹品误作真物而逆向进口。近处更有京阪商贩于佐贺购得锅岛皿,京都照样仿作,佐贺人复买回自夸者。至于北京宫中武英殿亦曾以有田烧陈列为古中国瓷,可见陶瓷鉴定之难,即专家亦不可轻断,其间正有研究之劳与鉴赏之趣。
作者据史实断言:所谓“祥瑞”无论对武内软质瓷,抑或对有田之发端,皆丝毫无关。间或兴起的“肥前瓷祥瑞肇始说”,不过痴人说梦。
武内之瓷未臻完善,然后世武雄城内所烧“三之丸烧”,因用天草石,已具真瓷之质。此为天保初年(1831)武雄第二十八代领主锅岛十左工门茂义于三之丸(今武雄中学校)试烧之御庭烧。茂义锐意西学,天保五年奉主君锅岛直正(闲叟)之命,师从长崎町年寄高岛秋帆(四郎太夫舜臣,庆应二年卒,六十九岁,贈正四位),习燧枪与炮术,翌年受皆传还藩,为佐贺藩炮术之祖。
茂义于城内兼研电信器、砖、玻璃,并以窑业为嗜,建窑试以天草料制瓷,召领内陶山小田志(西川登村)之窑烧奥川某(或为今龟右工门之祖)任其事。所烧除电信用具外,尚有盘、鉢、丼等诸般染付。其间有以呉须粗绘牡丹之九寸深盖器,皆属杂器,精妙上品不多。御庭烧非售品,除男爵家所藏与赐予藩士者外,民间存留甚稀。
其瓷亦试用黄金颜料,似为研究“正圓子”之发色,因调制未得法,遗有不少失败器。金彩之瓷据称由德意志之“ワゲネル”于明治四年在有田首倡,而茂义试验早四十年,殊值称道。
同时亦制陶器,邀武内村黒牟田之江口五郎主其事,重在化学试验坩埚与兰引(蒸馏器)等。茂义于天保三年七月晦承家督,十年九月四十岁隐退,文久二年十一月二十七日卒,享年六十三。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
上述諸說皆乏可信根據。其時有田皿山深處偏僻,連樵徑亦罕。後說稱五郎大夫於元和二年歸國,而幾乎同時李參平於山中得天然瓷石,始造日本瓷器。若前說為真,五郎大夫何以無憑深入此山?若後說謂其歸朝即得有田原料而創瓷,則理應留有與李參平相會之口碑,然全無所傳。
即使其曾至有田,四十七載之生平理當留痕,然毫無跡可尋。作者遍歷肥前諸窯,亦未覺其與製瓷有絲毫關聯。近來更有人鼓譟除李參平外另有「創始者」,甚者斷言有田之創始另屬他人。此輩之論不足辨。有田人以聽信妄說為恥,無人置諸議。
又因武內出土瓷片而稱此為「祥瑞」發祥地者,若果如此,反成「祥瑞無成器」之矛盾。觀所謂「祥瑞」,雖不及有田故乙吉、伴次郎、嘉十等名家之至作,然其胎骨與青花之韻,非軟質瓷所能仿。
當時能摹作者,多一流匠:有田之嘉十、京都之木米與耕山、瀨戶之半治;二流作坊亦多仿品。有田製常署「五郎太甫」「五郎太輔呉祥瑞」「開造祥瑞」或僅一「瑞」字,然地紋過於工穩,乏原作之粗味。真「祥瑞」之妙,在作工不在畫。
較為近情者:日本之五郎大夫先得署「祥瑞」之青花白瓷,珍玩不釋,復訂時令加其名。又如小堀遠州等茶人之特意訂製,頗可採信。今所見「祥瑞」茶器,多有歪斜與酒窩;非中土茶人自為,亦非專購次品,蓋日本茶人特為所請而然。
既屬特製,不應因產地今不見同款而全盤否定。古染付之舶來物,今亦常使中人起疑,正以昔日多為日本向特製。初期青花以福壽等吉語加款輸入,復如前述加「五郎太夫」之名而屢行訂作,自屬常情。或有中人見日本之「祥瑞」而高價購回;反有日本人將德勒斯登所造之柿右工門摹品誤作真物而逆輸者。近處更有京阪商販於佐賀購鍋島皿,京都復寫之,佐賀人反買回自矜。北京武英殿亦曾以有田燒列為古中瓷。可知陶瓷鑑定之難,即專家亦不可輕斷,研究之勞與鑑賞之趣正在於此。
作者依史而論:「祥瑞」無論於武內軟質瓷,抑於有田發端,皆毫不相干。時起之「肥前瓷祥瑞肇始說」,不過痴人說夢。
武內瓷未臻完善,然後世武雄城內之「三之丸燒」以天草石為料,已成真瓷。此為天保初年(1831)武雄二十八代領主鍋島十左工門茂義於三之丸(今武雄中學校)試燒之御庭燒。茂義倡導西學,天保五年承主鍋島直正(閑叟)之命,從長崎町年寄高島秋帆(四郎太夫舜臣,慶應二年卒,六十九歲,贈正四位)習燧槍與砲術,翌年受皆傳還藩,為佐賀藩砲術之祖。
茂義於城內兼研電信器、磚、玻璃,並以窯業為嗜,築窯試以天草料製瓷,召領內陶山小田志(西川登村)之窯燒奧川某(或為今龜右工門之祖)主其事。所燒除電信用具外,尚有盤、鉢、丼等染付。間有以呉須粗繪牡丹之九寸深蓋器,皆屬雜器,精妙者不多。御庭燒非售品,除男爵家所藏與賜予藩士者外,民間存留寥寥。
又試以黃金為顏料,似為研「正圓子」之發色,緣調配不當,失敗之器尚存。金彩瓷據稱至明治四年由德國「ワゲネル」於有田首倡,而茂義早四十年試之,殊值稱道。
同時亦作陶器,邀武內村黒牟田之江口五郎掌其事,主製化學試驗坩堝與蘭引(蒸餾器)。茂義於天保三年七月晦承家督,十年九月四十歲隱退,文久二年十一月二十七日卒,享年六十三。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
上述主张缺乏可信证据。彼时有田皿山深山密林,少有人至。后说称五郎大夫于元和二年归国,而亦在其时,李参平在山中发现瓷石,开日本瓷器之先。若前说属实,五郎大夫何以漫入此地?若其归朝即识得原料而制瓷,理当存有与李参平相遇之传闻,然并无所见。即便他来过有田,四十七年生涯亦应留痕,然无一可据。我遍访肥前诸窑,亦不见与其制瓷相关之迹。
有人鼓噪另有“创始者”,甚至否定有田之肇端;此类说法不足与辨。在有田,人们视之为耻。又据武内出土瓷片而谓“祥瑞”发祥于此者,则陷入“祥瑞无成器”的矛盾。所谓“祥瑞”,虽不及有田名手之最上作,其胎骨与青花气度并非软质瓷可仿。
当时能摹作者皆一流:有田的嘉十、京都的木米与耕山、濑户的半治,二流作坊亦多仿品。有田制常署“Gorōtafu”“Gorōtasuke Go Shōzui”“Kaizō Shōzui”或仅“瑞”;然其地纹过于工整,乏原作粗粝之味。真“祥瑞”的特征在于作工胜于画工。
更可信的是:日本的五郎大夫先得署“祥瑞”的青花,珍玩不置,再订时令加己名。诸如小堀远州等茶人的定制也合情合理。今日所见“祥瑞”茶器多有歪斜与酒窝,非中国茶人自制或日本专购次品所致,而是日本茶人特意所请。
既为特制,不可因产地今不见同款而全盘否定。古染付舶来品今亦常令中国人存疑,正因当年多为日本向特制。早期青花以吉语加款输入,再叠加“五郎太夫”之名而屡行订作,顺理成章。亦有中国人见日本“祥瑞”而高价回购;亦有日本人将德累斯顿仿作之柿右工门误为真品而逆向进口。近处又有京阪商贩在佐贺购锅岛皿,京都摹写后,佐贺人复买回自夸。北京武英殿亦曾以有田烧陈列为古中国瓷。可见陶瓷鉴定之难,即专家亦不可轻断。
历史上看,“祥瑞”无论对武内软质瓷,抑对有田之起源,皆无涉。所谓“肥前瓷源于祥瑞”的论调,不过妄言。
武内瓷未臻成熟,然武雄城内后出的“三之丸烧”因用天草石而达真瓷。此乃天保初年(1831)武雄第二十八代领主锅岛十左工门茂义于三之丸(今武雄中学校)试烧之御庭烧。茂义倡导西法,天保五年奉命从长崎高岛秋帆(四郎太夫舜臣,庆应二年卒,六十九岁,贈正四位)学燧枪与炮术,翌年受皆传,归藩而为佐贺藩炮术之祖。
他在城内研究电信器、砖与玻璃,并以窑业为嗜,建窑以天草料试制瓷器,召小田志(西川登村)窑烧之奥川某(或为今龟右工门之祖)主其事。所烧除电信用具外,尚有盘、鉢、丼等染付。其九寸深盖器以呉须粗绘牡丹,多属杂器,精作不多。御庭烧非售品,除男爵家与赐予藩士者,民间存世稀少。
并曾试以黄金为颜料,似为探“正圓子”之发色,因配方未合,多见失败器。金彩瓷据说至明治四年方由德国“Wagner”在有田公布,而茂义试验早四十年,殊堪称道。
同时亦制陶器,聘武内村黒牟田之江口五郎主持,主为化学坩埚与兰引(蒸馏器)。茂义于天保三年七月晦承家督,十年九月四十岁隐退,文久二年十一月二十七日卒,享年六十三。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
上述主張乏善可陳。當時有田皿山僻在深山,少人跡。後說謂五郎大夫於元和二年歸國,而同時李參平於山中得瓷石,為日本瓷器肇端。若前說屬實,彼何以入此山?若歸朝即識原料而製瓷,理應有與李參平相遇之傳聞,然全無。即便抵有田,四十七載亦應留痕,而今不見。余遍訪肥前諸窯,亦無所獲。
或稱另有「創始者」,甚至全盤否定有田之肇端;不足與辨。有田人以聽此妄說為恥。又據武內出土瓷片而稱為「祥瑞」發祥地者,則陷「祥瑞無成器」之矛盾。所謂「祥瑞」,雖不及有田名匠之至作,其胎骨與青花之韻,非軟質瓷可擬。
能摹作者皆一流:有田嘉十、京都木米與耕山、瀨戶半治;二流作坊亦多仿品。有田製常署「Gorōtafu」「Gorōtasuke Go Shōzui」「Kaizō Shōzui」或僅「瑞」,然地紋過工,乏原作之粗味。真「祥瑞」之勝,在作工而非畫工。
較可信者:日本之五郎大夫先得署「祥瑞」之青花,珍玩再訂時令加己名。小堀遠州等茶人之特意注文,亦合情理。今見「祥瑞」茶器多歪斜與酒窩,非中土茶人自為,亦非專買次品,乃日本茶人所請也。
既為特製,不能以產地今無同款而全盤否定。古染付舶來品今亦常為中人所疑,蓋昔多為日本向定製。初期青花加吉語為款而輸入,復疊加「五郎太夫」之名而屢造,順理自然。亦有中人見日本「祥瑞」而購回;亦有日本人以德勒斯登仿柿右工門為真而逆輸。近處又有京阪商販佐賀購鍋島皿,京都仿作,佐賀人復買而自矜。北京武英殿亦曾以有田燒陳列為古中瓷。可見陶瓷鑑定之難,即專家亦不可輕斷。
歷觀之,「祥瑞」於武內軟質瓷與有田渙起皆無涉;所謂「肥前瓷源於祥瑞」之說,不過妄言。
武內瓷未成,然武雄城內之「三之丸燒」以天草石為料而臻真瓷。此為天保初年(1831)武雄第二十八代領主鍋島十左工門茂義於三之丸(今武雄中學校)試燒之御庭燒。茂義倡西法,天保五年奉命從長崎高島秋帆(四郎太夫舜臣,慶應二年卒,六十九歲,贈正四位)學燧槍與砲術,翌年受皆傳還藩,為佐賀藩砲術之祖。
彼於城內究電信器、磚、玻璃,並嗜窯業,築窯以天草料試瓷,召小田志(西川登村)窯之奧川某(或為今龜右工門之祖)主其事。所燒除電信用具外,尚有盤鉢丼等染付;九寸深蓋器以呉須粗繪牡丹,多屬雜器,佳作不多。御庭燒非售品,除男爵家與藩士賜物外,民間存世寥寥。
亦試金為顏料,疑為探「正圓子」之發色,緣配方未諧,失敗器尚多。金彩瓷據稱至明治四年始由德國「Wagner」於有田公表,而茂義早四十年試之,可稱先驅。
同時亦製陶器,延武內村黒牟田之江口五郎主之,主為化學坩堝與蘭引(蒸餾器)。茂義於天保三年七月晦承家督,十年九月四十歲隱退,文久二年十一月二十七日卒,享年六十三。

