樫木山~有馬氏の勢威

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【原文】[Original text]
隆信有馬軍を破る
 同年二月六日龍造寺隆信は杵島の須古城を根城として藤津の有馬軍を進撃し先づ横造城を陥れ深町尾張守、岩永和泉守等を田備前守純晴、吉田、久間及嬉野一統の諸將を降討取り、そして原越後守家盛(尚家の長子倫行)永し、森の岡に一砦を構へて犬塚弾正少弼鎮家(蒲田城主後龍造寺播摩守盛家)、徳島筑後守胤時を置き、恒廣には鍋島豊前守信房(直茂の兄)を備へしめた。又鷲巣の城には嬉野陸奥守通時、松岡城には横岳兵庫頭家實、上瀧志摩守盛貞、永田右京亮通清、徳島左馬介信安(芦刈城主)辻甚九郎等をして攻略せし諸砦を各藩代りに守らしむるや有馬軍は退きて再軍備を固めつゝあつた。

伊佐早と大村を降す
 天正五年隆信は鍋島飛彈守信生(直茂の前名)、小川武藏守信俊(直茂の含弟)、納富越中守信安を先鉾として、伊佐早の西鄉刑部太輔純堯、深堀の深堀中務少輔純賢、貝津の貝津豊前守、矢上の矢守伯耆守、江の浦の江浦左衛門、長濱の長濱藏人等を攻め降し、大村丹後守純忠又純堯に依って和を乞ひ、そして女を隆信の次子家種に配はすに至った。

高來を攻略す
 之より隆信は高來に進撃し神代俵表の城主神代兵部太夫貴茂、長田左京、深江の城主安富下野守純泰、島原の城主島原式部大輔純豊 安徳の城主安德上野介純俊(入道惟山)等皆戰ひ利あらずして龍造寺軍に降り、有馬鎮純(義直の子)遂に屈して媾和するに及び、兄義純の女を隆信の長子鎮賢(後の政家)の室と成すに至つた。
 之より戰亂漸く治まり、藤津の各邑主はそれぞ自己の采邑に安堵し、龍造寺氏の配下として治政且其産業に努むるに至った。其後天正十二年(1585)隆信再び有馬を攻めしが島津氏の援兵と戦うて利あらす、三月二十四日島原に於いて戦死し、同十五年(1588)其子政家肥前七郡に封ぜられしも、後年鍋島直茂之を襲ぐに至り、次子和泉守忠茂へ二萬石を分興することゝなった。

忠茂封土
 翌十六年十一月(1589年)忠茂は下總國矢作より、此地藤津郡鹿島へ移封したのである。鹿島鍋島系圖左の如くである。
(鹿島鍋島系圖参照)
 而して藩制時代の藤津は全く分割され、鹿島、濱、能古見、古枝が鹿島藩の領地であり。鹽田、久間、五丁田、嬉野及び吉田の一部が蓮池藩に屬し、勝茂の三男甲斐守直澄の領地であつた。又七浦と吉田の一部と嬉野不動山の皿屋谷、内野山及志田東山だけが宗藩佐嘉の支配地であり。多良と大浦は龍造寺の系諫早氏の領地であつた。

嬉野焼と不動山
 抑嬉野焼の創業は、後花園天皇の永享十二年(1440年)平戸より上陸せし唐人(韓人なるべし)藤津の莊不動山に來りて陶器を作り、同時に又自家用として茶樹を植えつけしものが、嬉野焼と嬉野茶の創始であるといはれてゐる。永正年間(1504-1521)明人紅民なる者南京釜(唐釜)を持て茶業を創始した。其後陶業打絶えしを弘治年間(1555-1558)復興せしものである。

不動山の切支丹扶植
 當時宇禮志野但馬守通久の代にて、其頃壓迫されし大村領なる切支丹の宗徒は、山脈傳ひに不動山へ潜入し、永祿(1558-1570)の頃まで十五六年間此地に潜伏して斯教を扶植するの深きものがあつた。其頃陶業衰に歸せしを、慶長の朝鮮役後韓人此處につて再興せし傅へらるも、それが内野山を復興せし相源の仲間なりや、或は又他の韓人なりしや詳でない。

切支丹の厳禁
 慶長五年(1601年)鍋島勝茂の許を得て、鹿島、武雄等に耶蘇寺を建立せしことあり、此時不動山も公許となりて一時信徒の隆盛を極めしも、同十九年禁制を厳命さるゝに及び、寛永十年大村四郎兵衛の如きは唐津に遁走せしを逮捕の上刑死されし者にて、此處は切支丹教徒の潜伏地としても有名であつた。

嬉野茶の始
 之より先慶長八年(1606年)杵島郡白石南郷の大庄屋吉村新兵衛氏忠(今の卯太郎八代の祖)は不動山に来り、製陶地の副業として皿屋谷の山谷を開墾し、茶樹の栽培を行ひしより、全村智之に倣うて茶業彌盛んなるに至つたのである。そして氏忠は明暦三年三月廿四日勝茂の卒去を追って共年の四月十一日殉職したのである。其後製茶の方主業となりて陶業漸々と衰退し、途には全山茶樹の栽培地と化し、皿屋谷を改めて新屋谷稱したのである。嘉永六年長崎油屋町の大浦慶女が、同地出島の蘭入テキストルに諮詢して嬉野茶の見本を提供せしより、英商ウオールドの注文となり、近來露西亜向として大に歓迎さるゝに至り、嬉野茶の年額十萬圓を暴くるに至った。
 元來不動山は蓮池藩の採邑なるも、皿屋谷のみは本藩の支配地であつた。現今上不動山丈にて戸数百二十戸、內皿屋谷が三十五六戸ある。嬉野より彼杵街道を右手へ二里の登りにて、大村領波佐見陶山へは不動山より一里の山越しである。今や陶業全く絶滅せるも茶業は年々に達し、上不動山のみにて年産額一萬圓餘の製出と稱させらる。而して茶樹の栽培地質と陶土を産出する地質とは、そこに一脈の關係があるらしい。

皿屋谷の窯の谷
 古窯趾としては皿屋谷の窯の谷最古く、次は下皿屋谷窯、管田(一名枯木)及大船等がある。窯の谷の古窯品には粗土にて製せる無釉陶器がありて、糸切底の堅く燒締たる四五すの淺茶碗より六七寸の淺井などがあり、それは恰も先住民族の遺物らしき元始的製品である。
 又此處の舊家吉村卯太郎の所有品にて、褐色胎土に鶯釉を掛けし七寸程の水指(蓋なく口邊破損しており)ありて、それが胴を螺旋形に荒削りせし刀痕を見せ、尚糸切の底部まで施釉せるが古色蒼然たるものである。又此處へ隣山三の股の磁石を越えに運びて用ひしものゝ如く、薄鼠色の種々の雑器を焼てゐる。
 或は稍白き磁器にて海鼠葉形の手塩皿があり、青磁物を焼いてゐるが、それは或時代の韓人が此手の製作を得意とし、隣山大村領の陶山へ其製法を傳へし稱せらる。そして今軟質らしき薄青磁や天龍寺手などの殘缺が轉がつてゐる。中に天龍寺靑磁にて外面に剣先繞らしの浮彫を施せし六寸丼など全く李朝式を摸せしものにて、之と薄砧地袴腰の盃臺などは天草原料を以て製せしものの如く、そして又天草石にて種々の白磁が焼かれてゐる。

管田
 管田窯は前記の場所より一丁斗り下りし向ひの山裾にて、皿屋谷下窯と流れを隔てゝ向き合に成つてゐる。此處も最初は黒手物を焼きしと見へ、稀に灰色釉高臺無釉の茶碗や飴釉の同手の小皿などが發掘さる。降つて明治二十年頃(1888年)彼杵の丹生末吉が此地に来り、木原山の石丸鹿吉及鹿太郎父子を頭梁として、三の股の窯原料にて磁器製造を起せし由なるが、蓋し専ら天草石を主料とせし如くである。斯くて經營難に陥り幾許もなく廢窯せしものであらう。
 此處の古窯磁器には、縦筋の中へ四方捻形模様の染附小皿や、又同じ筋内へ浪繪を描きし同物があり、或は同染附の五六寸皿がある。就中五六寸丼の龍畫の如きは、宛然支那の古染附に見る奇抜な書き振りである。なほ下皿屋谷窯の殘缺も、此嘘と大同小異であるらしい。

大船
 皿屋谷の下隣なる大船村落に於いて、明治の初年(1868年)同地の山口民三が製陶業を起し、天草原料に三の股土を加へて盛んに染附物の食器を製せしも、此處も亦全く廢窯に歸してゐる。現今不動山の古窯趾として、以上四ヶ處を數ふるも、當時を推考すれば皿屋谷より此大船地域までには、尚幾許かの陶窯ありしにあらざるかを想はしむるのである。

 或書の嬉野焼といへるには、享保年間、弓野の淵孫左工門、其子七右工門父子陶工として名あり、又瓦を焼く。次に溝口市兵衛、高町藤兵衛等磁器を製せんとするに當り、従前の陶窯にて焼かんせしも(酸化焰にて焼きしものならん)途に成らず。文化頃西田市兵衛巨財を投じて嬉野燒復興に努力せしも途に振はす等々の記事がある。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]
同年二月六日、龍造寺隆信は杵島の須古城を拠点に藤津の有馬軍へ進撃し、まず横造城を落として深町尾張守・岩永和泉守らを討ち、田備前守純晴や吉田・久間・嬉野一党の諸将を降して処断した。さらに原越後守家盛(尚家の長子・倫行)を討ち、森の岡に砦を築いて犬塚弾正少弼鎮家(蒲田城主、のち龍造寺播磨守盛家)・徳島筑後守胤時を配し、恒廣には鍋島豊前守信房(直茂の兄)を置いた。また鷲巣城には嬉野陸奥守通時、松岡城には横岳兵庫頭家實・上瀧志摩守盛貞・永田右京亮通清・徳島左馬介信安(芦刈城主)・辻甚九郎らを配置し、攻略した諸砦を各藩代わりに守らせると、有馬軍はいったん退いて再編成を図った。

天正五年、隆信は鍋島飛彈守信生(直茂の前名)・小川武藏守信俊(直茂の従弟)・納富越中守信安を先鋒として、伊佐早の西郷刑部太輔純堯、深堀の深堀中務少輔純賢、貝津の貝津豊前守、矢上の矢守伯耆守、江の浦の江浦左衛門、長濱の長濱蔵人らを攻め降した。大村丹後守純忠も純堯を通じて和を乞い、娘を隆信の次男・家種に嫁がせた。

続いて隆信は高來へ進撃し、神代俵表城主・神代兵部太夫貴茂、長田左京、深江城主・安富下野守純泰、島原城主・島原式部大輔純豊、安徳城主・安德上野介純俊(入道惟山)らは相次いで敗れて降伏した。有馬鎮純(義直の子)もついに屈して講和し、兄・義純の娘を隆信の嫡男・鎮賢(のちの政家)の室とした。以後、戦乱はしだいに収まり、藤津の各領主は所領に安堵され、龍造寺氏の配下として治政と産業に力を注ぐようになった。のち天正十二年(1585)隆信は再び有馬を攻めたが、島津の援軍と戦って敗れ、三月二十四日に島原で戦死。天正十五年(1588)子の政家が肥前七郡を与えられたものの、のち鍋島直茂が実権を掌握し、次男・和泉守忠茂に二万石を分与した。

翌天正十六年十一月(1589)、忠茂は下総国矢作から藤津郡鹿島へ移封された(鹿島鍋島系図参照)。藩政期の藤津は分割され、鹿島・濱・能古見・古枝は鹿島藩、塩田・久間・五丁田・嬉野および吉田の一部は蓮池藩(勝茂の三男・甲斐守直澄の領)に属した。七浦と吉田の一部、さらに嬉野不動山の皿屋谷・内野山・志田東山のみが宗藩・佐嘉の直轄で、多良と大浦は龍造寺系の諫早氏の領地であった。

嬉野焼と不動山について。創業は永享十二年(1440)、平戸から上陸した唐人(おそらく韓人)が藤津の荘・不動山で陶器を作り、同時に自家用の茶の木を植えたのが、嬉野焼と嬉野茶の始まりと伝える。永正年間(1504–1521)には明人・紅民が南京釜(唐釜)を持ち込んで茶業を始め、その後いったん陶業は絶えたが、弘治年間(1555–1558)に復興した。

当時、宇禮志野但馬守通久の代には、大村領で迫害された切支丹の信徒が山並み伝いに不動山へ潜入し、永禄期(1558–1570)ごろまで十五六年、ここで布教の拠点を築いた。やがて陶業は衰えたが、慶長の役後に韓人が来て再興したという。これが内野山を復興させた相源らの一団か、別の韓人かは詳らかでない。

慶長五年(1601)、鍋島勝茂の許しを得て鹿島・武雄などに耶蘇寺が建てられ、不動山も公許となって一時は信徒が隆盛したが、同十九年に禁教が厳命され、寛永十年には大村四郎兵衛が唐津へ逃れたところを捕らえられて処刑されるなど、この地は切支丹潜伏地としても知られた。

それに先立つ慶長八年(1606)、杵島郡白石南郷の大庄屋・吉村新兵衛氏忠(現・卯太郎家の八代の祖)が不動山に来て、製陶地の副業として皿屋谷の山谷を開墾し茶の栽培を始め、村人がこれに倣って茶業はいよいよ盛んになった。氏忠は明暦三年三月二十四日の勝茂の死去に殉じ、同年四月十一日に殉死した。その後、製茶が主業となって陶業は次第に衰え、山は茶畑に変わり、皿屋谷は新屋谷と改称された。嘉永六年、長崎油屋町の大浦慶女が出島の蘭人テキストルに諮って嬉野茶の見本を提供したところ、英商ウオールドの注文となり、近年はロシア向けとしても歓迎され、年額十万円に達したという。もともと不動山は蓮池藩の采邑であったが、皿屋谷のみは本藩直轄である。現在、上不動山だけで戸数一二〇戸、うち皿屋谷が三十五、六戸。嬉野から彼杵街道を右へ二里上れば不動山、そこから一里の山越えで大村領の波佐見陶山に至る。陶業はすでに絶えたが、茶業は年々盛んで、上不動山だけで年産一万円余とされる。茶樹が育つ地質と陶土を産する地質には、どこか連関があるらしい。

古窯跡としては、皿屋谷の「窯の谷」が最古で、次いで下皿屋谷窯、管田(枯木)・大船などがある。窯の谷からは粗土の無釉陶器が出土し、糸切り底で堅く焼き締めた四、五寸の浅茶碗から六、七寸の浅鉢まで、先住民の遺物を思わせる原始的な作が見られる。旧家・吉村卯太郎所蔵には、褐色胎に鶯釉を掛けた七寸ほどの水指(蓋欠・口辺破損)があり、胴に螺旋状の荒い削り痕が見え、糸切りの底まで施釉されて古色蒼然としている。隣山・三の股の「磁石」(陶石)を越えて運び、薄鼠色の雑器を焼いたらしく、やや白い胎の磁器で海鼠葉形の手塩皿、薄青磁、天龍寺手などの残欠も転がっている。なかには外面に剣先繞りの浮彫を施した天龍寺青磁の六寸丼など、李朝風の模作があり、薄砧地の袴腰盃台などは天草原料で作られ、天草石による各種の白磁も焼かれている。

管田窯は前記の場所から一丁あまり下った向いの山裾で、下皿屋谷窯と川を隔てて相対する。初期は黒手物を焼いたらしく、灰色釉で高台無釉の茶碗や、飴釉の小皿が稀に出る。明治二十年頃(1888)、彼杵の丹生末吉が来て、木原山の石丸鹿吉・鹿太郎父子を棟梁に、三の股の原料で磁器製造を始めたが、主に天草石を用い、経営難で程なく廃窯となった。出土磁器には、縦筋区画に四方捻形文や波文を描いた染付小皿、同五、六寸皿があり、とりわけ五、六寸丼の龍画は支那古染付に見るような奇抜な筆致である。下皿屋谷窯の残欠も概ねこれに類する。

大船では、皿屋谷の下隣の村で明治初年(1868)、山口民三が製陶を起こし、天草原料に三の股土を加えて染付の食器を盛んに作ったが、ここも完全に廃窯した。現在、不動山の古窯跡として以上四カ所を数えるが、当時を推せば皿屋谷から大船一帯に、なお幾つかの窯があったと思われる。ある資料の「嬉野焼」によれば、享保期に弓野の淵孫左工門と子の七右工門が名工として瓦も焼き、次いで溝口市兵衛・高町藤兵衛らが磁器制作を試みたが、従来の陶窯(酸化焔焼成か)では成らず、文化頃には西田市兵衛が巨財を投じて嬉野焼復興に努めたものの振るわなかった、などと記されている。


【英語訳】[English translation]
On February 6 of the same year, Ryūzōji Takanobu advanced from his base at Suko Castle in Kishima against the Arima forces in Fujitsu. He first took Yokozō Castle, cut down Fukamachi Owari-no-kami and Iwanaga Izumi-no-kami, compelled Tada Bizen-no-kami Sumiharu and the commanders of Yoshida, Kuma, and Ureshino to surrender and punished them, and slew Hara Echigo-no-kami Iemori (Rinyuki, eldest son of Naie). He then built a fort at Mori-no-oka, stationing Inuzuka Danjō-shōhitsu Shigeie (lord of Gamata Castle; later Ryūzōji Harima-no-kami Morie) and Tokushima Chikugo-no-kami Taneetoki, and placed Nabeshima Buzen-no-kami Nobufusa (Naoshige’s elder brother) at Tsunehiro. Washizu Castle was entrusted to Ureshino Mutsu-no-kami Michitoki; Matsuoka Castle to Yokodake Hyōgo-no-kami Iesane, Uetaki Shima-no-kami Morisada, Nagata Ukyō-no-suke Michikiyo, Tokushima Samasuke Nobuyasu (lord of Ashikari), Tsuji Jinkurō, and others. With the captured forts now held by allied lords, the Arima army withdrew to rearm.

In Tenshō 5, Takanobu sent forth as vanguard Nabeshima Hida-no-kami Nobuo (Naoshige’s former name), Ogawa Musashi-no-kami Nobutoshi (Naoshige’s cousin), and Nōmi Etchū-no-kami Nobuyasu, and compelled the surrender of Saigō Gyōbu-taifu Sumitaka of Isahaya, Fukahori Nakatsukasa-shōyū Sumikata of Fukahori, Kaizu Buzen-no-kami of Kaizu, Yagami Hōki-no-kami of Yagami, Eura Saemon of E-no-ura, Nagahama Kurōdo of Nagahama, and others. Ōmura Tango-no-kami Sumitada also sued for peace through Sumitaka and gave his daughter in marriage to Takanobu’s second son, Ietane.

Takanobu then struck into Takaku. Jin-dai Hyōbu-dayū Takashige of Jin-dai Tawarō Castle, Nagata Sakyō, Yasutomi Shimotsuke-no-kami Sumiyasu of Fukae, Shimabara Shikibu-daibu Sumitoyoshi of Shimabara, and Andoku Ueno-no-suke Sumitoshi (the tonsured Izan) of Andoku, all fought without success and submitted to the Ryūzōji army. Arima Shizusumi (son of Yoshinao) also yielded and concluded peace; his elder brother Yoshizumi’s daughter was given to Takanobu’s heir, Chikakatsu (later Masai-e), as wife. Warfare then gradually subsided. Fujitsu’s village lords were confirmed in their fiefs and, under the Ryūzōji, turned to administration and industry. Later, in Tenshō 12 (1585), Takanobu again attacked Arima but, meeting Shimazu reinforcements, was defeated and fell in battle at Shimabara on March 24. In Tenshō 15 (1588), his son Masaie was enfeoffed with seven districts of Hizen, but Nabeshima Naoshige thereafter seized power, allocating 20,000 koku to the second son, Izumi-no-kami Tadamochi.

In the eleventh month of Tenshō 16 (1589), Tadamochi was transferred from Yahagi in Shimōsa to Kashima in Fujitsu District (see the Kashima Nabeshima genealogy). Under domain rule, Fujitsu was partitioned: Kashima, Hama, Nokomi, and Furue belonged to the Kashima domain; Shiota, Kuma, Gochōda, Ureshino, and part of Yoshida to Hasuike domain (held by Katsushige’s third son, Kai-no-kami Naozumi). Only Shichiura, part of Yoshida, and Sarayadani, Uchino-yama, and Shida Higashiyama in Ureshino Fudōyama were under the Saga main house; Tara and Ōura were fiefs of the Isahaya line of the Ryūzōji.

As for Ureshino ware and Fudōyama: tradition says its origin lies in Eikyō 12 (1440), when a Tang man (likely Korean) landed from Hirado, made pottery at Fudōyama in Fujitsu, and planted tea for his own use—thus beginning Ureshino ware and Ureshino tea. In the Eishō era (1504–1521), a Ming man named Kōmin introduced a Nankin (Tang) kiln and started tea processing. The pottery trade later lapsed but was revived in Kōji (1555–1558).

In the time of Ureshino Tajima-no-kami Michihisa, Christians persecuted in Ōmura slipped along the ridges into Fudōyama and, for fifteen or sixteen years up to the Eiroku era (1558–1570), maintained deep-rooted mission work there. Pottery waned, but after the Korean campaigns of Keichō, Koreans reportedly came and revived it—whether they were Sōgen’s circle who restored Uchino-yama or others is unclear.

In Keichō 5 (1601) Jesuit churches were permitted at Kashima and Takeo by Nabeshima Katsushige, and Fudōyama was temporarily licensed, bringing a surge of believers. But in Keichō 19 prohibition was strictly ordered; in Kan’ei 10 Ōmura Shirōbei, who had fled to Karatsu, was seized and executed—Fudōyama thus became known as a Christian hiding place.

Earlier, in Keichō 8 (1606), Yoshimura Shinbē Ujitada, great headman of Shiroishi Nangō in Kishima, came to Fudōyama and, as a sideline to pottery, opened the ravines of Sarayadani for tea cultivation. The whole village followed suit and tea prospered. Ujitada followed Katsushige in death on the twenty-fourth of the third month of Meireki 3, dying on the eleventh of the fourth month that year. Thereafter tea became the main industry and pottery declined; the slopes turned into tea fields, and Sarayadani was renamed Shinyadani. In Kaei 6, Ōura Kei of Aburayachō, Nagasaki, consulted the Dutchman Textor at Dejima and supplied Ureshino tea samples; the British merchant “Wald” placed orders, and recently Russian buyers have welcomed it as well, annual sales reaching 100,000 yen. Fudōyama was a Hasuike domain apanage, but Sarayadani alone was under the Saga main house. Today Kamifudōyama has about 120 households, of which Sarayadani counts thirty-five or thirty-six. From Ureshino one climbs two ri along the Sonogi road to the right to reach Fudōyama; Hasami’s pottery hills in Ōmura are but one ri over the ridge. Pottery has entirely ceased, but tea prospers yearly; Kamifudōyama alone produces over 10,000 yen annually. The soils suitable for tea and those that yield potting clay seem to be related.

The oldest kiln site is “Kiln Valley” in Sarayadani, followed by the Lower Sarayadani kiln, Kanda (Karaki), and Ōfune. From Kiln Valley come coarse, unglazed wares: cord-cut, hard-fired shallow bowls of four–five sun up to shallow basins six–seven sun across—primitive pieces reminiscent of proto-residents’ relics. Among items owned by the old Yoshimura Utarō house is a seven-sun mizusashi of brown body with warbler-green glaze (lid missing, mouth damaged), whose body bears rough spiral tool marks and glaze even across the cord-cut base—very old in aspect. Porcelain stone from neighboring Sannomata was also carried over the ridge to fire various pale gray utensils. There are also somewhat white porcelains—small side plates in sea-cucumber leaf form—and celadons, said to be a specialty of certain Korean artisans who passed their methods to the pottery hills of Ōmura next door. Remnants of soft celadon and “Tenryū-ji” type pieces lie about; a six-sun bowl in Tenryū-ji celadon with relief ken-saki border on the exterior is a clear Joseon imitation; together with thin-katana-ground, hakama-based cup stands, they appear to be made from Amakusa materials, and many white porcelains using Amakusa stone were fired.

Kanda kiln lies about one chō downhill across the stream, facing the Lower Sarayadani kiln. It seems first to have fired black wares; occasionally gray-glazed bowls with unglazed foot and small amber-glazed plates are unearthed. Around Meiji 20 (1888), Nibu Suekichi of Sonogi came, set Ishimaru Shikakichi and his son Shikatarō of Kihara-yama over the works, and began porcelain production using Sannomata materials, chiefly Amakusa stone; business soon failed and the kiln was abandoned. Finds include small dishes painted in underglaze blue with four-direction twist motifs within vertical bands, others with wave patterns in the same bands, five–six-sun plates, and, notably, dragon paintings on five–six-sun bowls in a bold hand like that of old Chinese sometsuke. Sherds from Lower Sarayadani are much the same.

In Ōfune, the neighboring hamlet below Sarayadani, Yamaguchi Minzō began pottery in early Meiji (1868), mixing Sannomata clay with Amakusa material to make tablewares in underglaze blue, but this, too, fell wholly into disuse. Though four old kiln sites are counted today, the extent from Sarayadani to Ōfune suggests there were likely more. One account of “Ureshino ware” says that in Kyōhō times the potters Fuchi Magozemon of Yumino and his son Shichieimon were renowned and also fired tiles; later, Mizoguchi Ichibē and Takamachi Tōbē attempted porcelain but, trying to fire in existing pottery kilns (perhaps in oxidizing flame), failed. Around Bunka, Nishida Ichibē invested a fortune to revive Ureshino ware, but without success.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
同年二月六日,龙造寺隆信以杵岛须古城为根据地进攻藤津的有马军,先攻陷横造城,斩杀深町尾张守、岩永和泉守,迫使田备前守纯晴以及吉田、久间、嬉野一党等诸将投降并加以处置,又击杀原越后守家盛(尚家的长子伦行)。随后在森之冈筑堡,驻犬塚弹正少辅镇家(蒲田城主,后任龙造寺播磨守盛家)与德岛筑后守胤时,于恒广则置鍋岛丰前守信房(直茂之兄)。又以嬉野陆奥守通时守鷲巢城,横岳兵库头家实、上泷志摩守盛贞、永田右京亮通清、德岛左马介信安(芦刈城主)、辻甚九郎等守松冈城,并令各藩轮守新取诸砦。有马军于是退却整备。

天正五年,隆信以鍋岛飞弹守信生(直茂旧名)、小川武藏守信俊(直茂堂弟)、纳富越中守信安为先锋,攻降伊佐早之西乡刑部大辅纯堯、深堀之深堀中务少辅纯贤、贺津之贺津丰前守、矢上之矢守伯耆守、江之浦之江浦左卫门、长滨之长滨藏人等。大村丹后守纯忠亦由纯堯请和,并以女嫁隆信次子家种。

继而隆信进攻高来。神代俵表城主神代兵部大夫贵茂、长田左京、深江城主安富下野守纯泰、岛原城主岛原式部大辅纯丰、安德城主安德上野介纯俊(入道惟山)等皆败而降。有马镇纯(义直之子)亦屈从缔和,以其兄义纯之女为隆信长子镇贤(后之政家)之室。自此战乱稍平,藤津诸邑主得安堵,归于龙造寺氏麾下而勤于政务与产业。其后天正十二年(1585)隆信再攻有马,遇岛津援军而不利,三月二十四日战殁于岛原。天正十五年(1588)其子政家受封肥前七郡,后鍋岛直茂掌权,并分二万石于次子和泉守忠茂。

翌天正十六年十一月(1589),忠茂自下总国矢作移封藤津郡鹿岛(参见鹿岛鍋岛系图)。藩政期藤津分属:鹿岛、滨、能古见、古枝属鹿岛藩;盐田、久间、五丁田、嬉野及吉田一部属莲池藩(胜茂三男甲斐守直澄领);惟七浦与吉田一部、嬉野不动山之皿屋谷・内野山・志田东山为宗藩佐嘉直辖;多良与大浦属龙造寺系谏早氏。

关于嬉野烧与不动山:相传永享十二年(1440),自平户登陆之唐人(疑为韩人)至藤津之庄不动山制陶,并植茶自用,是为嬉野烧与嬉野茶之始。永正年间(1504–1521)明人红民携南京窑(唐窑)创茶业,其后陶业中绝,弘治年间(1555–1558)复兴。

当宇礼志野但马守通久在任时,受迫害之大村领切支丹自山脉潜入不动山,至永禄期(1558–1570)约十五六年间深植其教。其后陶业颓废,传于庆长朝鲜役后韩人来此复兴,是否相源等复兴内野山者之流,未详。

庆长五年(1601)鍋岛胜茂许在鹿岛、武雄建耶稣堂,不动山亦获公许,信徒一时兴盛。及至同十九年严禁,下令取缔;宽永十年大村四郎兵卫窜唐津被捕处死,此地遂以切支丹潜伏地著称。

更早之庆长八年(1606),杵岛郡白石南乡大庄屋吉村新兵卫氏忠(今卯太郎家八代祖)至不动山,以陶业副业开垦皿屋谷山谷植茶,自此村人效之,茶业大兴。氏忠于明历三年三月二十四日随胜茂薨逝而殉,同年四月十一日身亡。其后制茶为主,陶业渐衰,山岭尽为茶园,皿屋谷改称新屋谷。嘉永六年,长崎油屋町大浦庆女咨问出岛兰人“テキストル”,递送嬉野茶样,获英商“ウオールド”订购,近年又为俄罗期所好,年额至十万日元。不动山本为莲池藩采邑,唯皿屋谷属本藩直辖。今上不动山约一百二十户,其中皿屋谷三十五六户。自嬉野沿彼杵大道向右上行二里至不动山,再越岭一里即达大村领波佐见陶山。陶业今绝,而茶业年益昌盛,上不动山一地年产逾一万日元。茶树适生之地质与产陶土之地质似相关联。

古窑址以皿屋谷“窑之谷”为最古,次为下皿屋谷窑、管田(枯木)、大船。窑之谷出粗胎无釉器:自四五寸浅碗至六七寸浅钵,多为绳切底、坚烧,原始气甚浓。旧家吉村卯太郎藏有一件七寸水指,褐胎施鶯釉(无盖、口损),胴显粗大螺旋刀痕,底亦施釉,古色斑驳。又自邻山“三之股”负运瓷石,烧成薄灰色杂器。亦有略白之磁器:海鼠叶形手盐盘、薄青磁、天龙寺手残片等;其中天龙寺青磁六寸丼,外壁作剑先绕之浮雕,纯属仿李朝;与薄砧地袴腰盃台皆疑用天草原料制成,天草石白磁亦多。

管田窑在前址下一丁许之对岸山麓,与下皿屋谷窑隔流相对。初烧黑手物,偶见灰釉高台无釉茶碗、飴釉小皿。明治二十年左右(1888),彼杵丹生末吉来此,以木原山石丸鹿吉及子鹿太郎为棟梁,用三之股原料制瓷,主料似为天草石,未久陷经营难而废。其出土磁器有在纵筋格内绘四方捻纹或波纹之染付小盘,及同式五六寸盘,尤有五六寸丼之龙画,笔致奇逸,颇类古支那染付。下皿屋谷窑残片大抵相类。

大船为皿屋谷下邻,明治初年(1868)当地山口民三兴陶,以天草原料配三之股土,盛制染付食器,今亦废。今计不动山古窑址四处,然由当时形势观之,皿屋谷至大船之间恐尚有数窑。某书《嬉野烧》载:享保年间,弓野之淵孙左工门与其子七右工门以陶工名,又烧瓦;继有溝口市兵卫、高町藤兵卫谋制磁器,欲以旧陶窑(疑为氧化焰)烧成不果;文化年间西田市兵卫投巨资振兴嬉野烧,亦未见起色,诸如此类。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
同年二月六日,龍造寺隆信以杵島須古城為根據地進攻藤津之有馬軍,先陷橫造城,斬深町尾張守、岩永和泉守,迫田備前守純晴與吉田、久間、嬉野一黨諸將降服而加處置,又擊殺原越後守家盛(尚家長子倫行)。復於森之岡築寨,置犬塚彈正少輔鎮家(蒲田城主,後任龍造寺播磨守盛家)與德島筑後守胤時,於恒廣則置鍋島豐前守信房(直茂之兄)。又令嬉野陸奧守通時守鷲巢城,橫岳兵庫頭家實、上瀧志摩守盛貞、永田右京亮通清、德島左馬介信安(蘆刈城主)、辻甚九郎等守松岡城,諸砦分配各藩輪守。有馬軍遂退卻重整。

天正五年,隆信以鍋島飛彈守信生(直茂舊名)、小川武藏守信俊(直茂堂弟)、納富越中守信安為先鋒,攻降伊佐早之西鄉刑部大輔純堯、深堀之深堀中務少輔純賢、貝津之貝津豐前守、矢上之矢守伯耆守、江之浦之江浦左衛門、長濱之長濱藏人等。大村丹後守純忠亦由純堯請和,以女配隆信次子家種。

繼而隆信進攻高來。神代俵表城主神代兵部大夫貴茂、長田左京、深江城主安富下野守純泰、島原城主島原式部大輔純豐、安德城主安德上野介純俊(入道惟山)等皆敗而降。有馬鎮純(義直之子)亦屈服講和,以其兄義純之女為隆信嫡子鎮賢(後之政家)之室。自此戰亂漸息,藤津諸邑主得安堵,歸龍造寺氏麾下而勤於政務與產業。後天正十二年(1585)隆信再攻有馬,與島津援軍戰不利,三月二十四日戰歿於島原。天正十五年(1588)其子政家受封肥前七郡,嗣後鍋島直茂掌權,分二萬石予次子和泉守忠茂。

翌天正十六年十一月(1589),忠茂自下總國矢作移封藤津郡鹿島(參見鹿島鍋島系圖)。藩政期藤津分裂:鹿島、濱、能古見、古枝屬鹿島藩;鹽田、久間、五丁田、嬉野及吉田一部屬蓮池藩(勝茂三男甲斐守直澄領);惟七浦與吉田一部、及嬉野不動山之皿屋谷・內野山・志田東山為宗藩佐嘉直轄;多良與大浦屬龍造寺系諫早氏。

關於嬉野燒與不動山:相傳永享十二年(1440),自平戶登陸之唐人(疑為韓人)至藤津之莊不動山製陶,並植茶自用,為嬉野燒與嬉野茶之始。永正年間(1504–1521)明人紅民攜南京窯(唐窯)創茶業,其後陶業中絕,弘治年間(1555–1558)復興。

當宇禮志野但馬守通久在任時,大村領受迫之切支丹沿山脈潛入不動山,至永祿期(1558–1570)約十五六年深植其教。其後陶業衰落,傳慶長役後韓人至此再興,是否相源等復興內野山者之流,未詳。

慶長五年(1601)鍋島勝茂許在鹿島、武雄建耶穌堂,不動山亦得公許,信徒一時極盛;至同十九年嚴禁,下令取締;寬永十年大村四郎兵衛逃至唐津被擒處決,此地遂以切支丹潛伏地聞名。

更早之慶長八年(1606),杵島郡白石南鄉大庄屋吉村新兵衛氏忠(今卯太郎家八代祖)至不動山,以陶業副事開墾皿屋谷植茶,村人效之,茶業大興。氏忠於明曆三年三月二十四日隨勝茂薨逝而殉,同年四月十一日卒。其後以製茶為主,陶業漸衰,群山成茶園,皿屋谷改稱新屋谷。嘉永六年,長崎油屋町大浦慶女咨問出島蘭人「テキストル」,送嬉野茶樣,得英商「ウオールド」下單;近年亦為俄羅斯所好,年額達十萬日圓。不動山本為蓮池藩采邑,唯皿屋谷屬本藩直轄。今上不動山約一百二十戶,其中皿屋谷三十五六戶。自嬉野沿彼杵大道右行登二里至不動山,再越嶺一里即至大村領波佐見陶山。陶業已絕,而茶業歲益興盛,上不動山一年產額逾一萬日圓。茶樹適地之地質與產陶土之地質似有一脈相通。

古窯址以皿屋谷「窯之谷」最古,次為下皿屋谷窯、管田(枯木)、大船。窯之谷出粗胎無釉器:四五寸淺碗至六七寸淺鉢,多為線切底、堅燒,原始氣濃。舊家吉村卯太郎藏有七寸水指,褐胎施鶯釉(無蓋、口損),胴有粗大螺旋刀痕,底亦施釉,古色蒼然。又自鄰山「三之股」負運瓷石,燒薄灰雜器。亦見略白之磁器:海鼠葉形手鹽盤、薄青磁、天龍寺手殘片等;其天龍寺青磁六寸丼,外壁作劍先繞浮雕,純仿李朝;與薄砧地袴腰盃台疑用天草原料製成,天草石白磁亦多。

管田窯在前址下一丁餘對岸山麓,與下皿屋谷窯隔流相對。初燒黑手物,偶見灰釉高台無釉茶碗、飴釉小皿。明治二十年左右(1888),彼杵丹生末吉至此,以木原山石丸鹿吉及子鹿太郎為棟梁,用三之股原料製瓷,主料似為天草石,不久陷經營困難而廢。出土磁器有於縱筋格內繪四方捻紋或波紋之染付小盤,及同式五六寸盤,尤有五六寸丼之龍畫,筆致奇逸,類古支那染付。下皿屋谷窯殘片概與之類。

大船為皿屋谷之下鄰,明治初年(1868)當地山口民三興陶,以天草原料配三之股土,盛製染付食器,今亦廢。今計不動山古窯址四處,然就當時觀之,皿屋谷至大船之間或尚有數窯。某書《嬉野燒》記:享保年間,弓野淵孫左工門與其子七右工門以陶工著稱,亦燒瓦;繼有溝口市兵衛、高町藤兵衛謀製磁器,然以舊陶窯(疑氧化焰)燒成不果;文化年間西田市兵衛投巨資以復興嬉野燒,亦未見起色,云云。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
同年2月6日,龙造寺隆信自杵岛须古城出兵,进攻藤津的有马军,先取横造城,斩深町尾张守、岩永和泉守,迫田备前守纯晴及吉田、久间、嬉野诸将降服并处置,又杀原越后守家盛(尚家长子伦行)。于森之冈筑堡,置犬塚弹正少辅镇家(蒲田城主,后为龙造寺播磨守盛家)与德岛筑后守胤时,在恒广安置鍋岛丰前守信房(直茂兄)。令嬉野陆奥守通时守鷲巢城;横岳兵库头家实、上泷志摩守盛贞、永田右京亮通清、德岛左马介信安(芦刈城主)、辻甚九郎等守松冈城。诸砦既分守,有马军退却重整。

天正五年,他以鍋岛飞弹守信生、小川武藏守信俊、纳富越中守信安为先锋,攻降伊佐早西乡刑部大辅纯堯、深堀中务少辅纯贤、贺津丰前守、矢上伯耆守、江之浦左卫门、长滨藏人等。大村丹后守纯忠亦经纯堯请和,并以女嫁隆信次子家种。

继而进击高来。神代俵表城主神代兵部大夫贵茂、长田左京、深江城主安富下野守纯泰、岛原城主岛原式部大辅纯丰、安德城主安德上野介纯俊(入道惟山)皆败降。有马镇纯(义直子)亦屈从媾和,其兄义纯之女嫁隆信嫡子镇贤(后之政家)。战事渐息,藤津诸领主安堵其地,归属龙造寺并勤于政务与产业。后于天正十二年(1585)再攻有马,遇岛津援军败绩,3月24日战死于岛原。天正十五年(1588)子政家受封肥前七郡;其后鍋岛直茂掌权,分2万石予次子和泉守忠茂。

天正十六年十一月(1589),忠茂自下总国矢作移封藤津郡鹿岛(见鹿岛鍋岛系谱)。藩政期,藤津分属:鹿岛、滨、能古见、古枝属鹿岛藩;盐田、久间、五丁田、嬉野及吉田一部属莲池藩;七浦、吉田一部以及嬉野不动山之皿屋谷、内野山、志田东山属佐嘉本藩;多良、大神浦属龙造寺系谏早氏。

相传嬉野烧与不动山创始于永享12年(1440),一名“唐人”(或韩人)在此制陶并植茶。永正年间明人红民以南京窑兴茶业;陶业后绝,弘治年间复兴。宇礼志野但马守通久时,受迫之基督徒潜入不动山,至永禄期达15、6年之久;后据说在庆长役后由韩国匠人复兴。庆长5年(1601)获准建堂,旋于同19年严禁;宽永10年大村四郎兵卫被捕处死,此地遂著称“潜伏地”。

庆长8年(1606),白石南乡大庄屋吉村新兵卫氏忠至此开垦皿屋谷植茶,村人效之,茶业兴盛;氏忠于明历3年随胜茂而殉。其后茶为主业,陶业衰落,皿屋谷改称新屋谷。嘉永6年,大浦庆女携样至出岛求教荷人Textor,获英商“Wald”订货,近年俄市亦好,年销逾10万元。Fudōyama为莲池藩采邑,皿屋谷属佐嘉本藩。今上不动山约120户,皿屋谷35–36户;自嬉野向右登二里至不动山,再越岭一里即达波佐见。陶业已绝,茶业年增;年产值逾1万元。茶地与产陶土之地质似有关联。

古窑以皿屋谷“窑之谷”为最古,次为下皿屋谷、管田(枯木)、大船。窑之谷出粗胎无釉器,线切底、硬烧之浅碗浅钵原始气浓。吉村卯太郎藏七寸鶯釉水指(无盖口损),胴有粗螺旋刀痕,底亦施釉。又负运“三之股”瓷石烧薄灰杂器;亦见海鼠叶形小盘、薄青磁、天龙寺手残片等,间有仿朝鲜李朝者。管田窑与下皿屋谷窑隔溪相对,初烧黑器,后于1888年前后以天草石制瓷,未久废。其出土有染付捻纹、波纹小盘及五六寸盘,龙画笔势奇逸。大船村明治初亦兴陶,今亦废。另载:享保期弓野淵孙左工门与子七右工门著名,亦烧瓦;溝口市兵卫、高町藤兵卫试制磁器未成;文化期西田市兵卫投巨资复兴亦不振。

【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
同年2月6日,龍造寺隆信自杵島須古城出兵,先取橫造城,斬深町尾張守、岩永和泉守,迫田備前守純晴及吉田、久間、嬉野諸將降服處置,又殺原越後守家盛(尚家長子倫行)。於森之岡築堡,置犬塚彈正少輔鎮家(蒲田城主,後為龍造寺播磨守盛家)與德島筑後守胤時,於恒廣安置鍋島豐前守信房(直茂之兄)。令嬉野陸奧守通時守鷲巢城;橫岳兵庫頭家實、上瀧志摩守盛貞、永田右京亮通清、德島左馬介信安(蘆刈城主)、辻甚九郎等守松岡城,諸砦既分守,有馬軍退卻重整。

天正五年,以鍋島飛彈守信生、小川武藏守信俊、納富越中守信安為先鋒,攻降伊佐早西鄉刑部大輔純堯、深堀中務少輔純賢、貝津豐前守、矢上伯耆守、江之浦左衛門、長濱藏人等。大村丹後守純忠亦由純堯請和,以女嫁隆信次子家種。

繼而進擊高來。神代俵表城主神代兵部大夫貴茂、長田左京、深江城主安富下野守純泰、島原城主島原式部大輔純豐、安德城主安德上野介純俊(入道惟山)皆敗降。有馬鎮純(義直子)亦屈從媾和,以其兄義純之女嫁隆信嫡子鎮賢(後之政家)。戰事漸息,藤津諸領主安堵其地,歸屬龍造寺並勤於政務與產業。後天正十二年(1585)再攻有馬,遭島津援軍敗績,3月24日戰死於島原。天正十五年(1588)子政家受封肥前七郡;其後鍋島直茂掌權,分2萬石予次子和泉守忠茂。

天正十六年十一月(1589),忠茂自下總國矢作移封藤津郡鹿島(見鹿島鍋島系譜)。藩政期,藤津分屬:鹿島、濱、能古見、古枝屬鹿島藩;鹽田、久間、五丁田、嬉野及吉田一部屬蓮池藩;七浦、吉田一部及嬉野不動山之皿屋谷、內野山、志田東山屬佐嘉本藩;多良、大神浦屬龍造寺系諫早氏。

傳稱嬉野燒與不動山創於永享十二年(1440),一唐人(或韓人)在此製陶並植茶。永正年間明人紅民以南京窯興茶;陶業後絕,弘治年間復興。宇禮志野但馬守通久時,受迫之基督徒潛入不動山,至永祿期達十五六年;後據稱慶長役後由韓匠復興。慶長五年(1601)曾獲准建堂,迨同十九年嚴禁;寬永十年大村四郎兵衛被擒處決,此地遂以「潛伏地」聞名。

慶長八年(1606),白石南鄉大庄屋吉村新兵衛氏忠至此墾植皿屋谷茶園,村人效之,茶業興盛;氏忠於明曆三年隨勝茂而殉。其後以茶為主,陶業衰落,皿屋谷改稱新屋谷。嘉永六年,大浦慶女攜樣至出島諮荷人Textor,得英商“Wald”訂貨,近年俄市亦好,年銷逾十萬圓。不動山為蓮池藩采邑,皿屋谷屬佐嘉本藩。今上不動山約120戶,皿屋谷35–36戶;自嬉野右行登二里至不動山,再越嶺一里至波佐見。陶業已絕,茶業年增;產值逾一萬圓。茶地與產陶土之地質似有關聯。

古窯以皿屋谷「窯之谷」最古,次為下皿屋谷、管田(枯木)、大船。窯之谷出粗胎無釉器,線切底、硬燒之淺碗淺鉢原始氣濃。吉村卯太郎藏鶯釉七寸水指(無蓋口損),胴具粗螺旋刀痕,底亦施釉。又負運「三之股」瓷石燒薄灰雜器;亦見海鼠葉形小盤、薄青磁、天龍寺手殘片等,間有仿李朝者。管田窯與下皿屋谷窯隔溪相對,初燒黑器,1888年前後以天草石制瓷,未久廢。其出土有染付捻紋、波紋小盤及五六寸盤,龍畫筆勢奇逸。大船村明治初亦興陶,今亦廢。另載:享保期弓野淵孫左工門與子七右工門著名,亦燒瓦;溝口市兵衛、高町藤兵衛試制磁器未成;文化期西田市兵衛投巨資復興亦不振。