美野山~釋大潮

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【原文】[Original text]
美野山
 五丁田村の美野も蓮池藩領にて、戸數百六十戸あり、此處は塩田町と近接し、武雄驛より三里の行程である。創始は當地の友八、徳十其他四五人の協同出資にて十間の登窯を築き、天草石に吉田鳴川石を加へて製陶せしも、幾許もなく廢絶し。其後堀江喜四郎復興せしも亦廢窯し。次に大川内の富永勝太郎來つて再興を計りしも是れまた廢窯に歸し、徒に陶煙の現滅を繰返す而己であつた。
 大正七年五月有田の陶商青木幸平は、此地の大曲艶一、中島伊三をして電氣用器を焼かしむるこどゝなり、同十二年より艶一獨營にて前記青木の商品を製造しつゝある。なほ此外に大正九年よ染附食碗を主類として製造せる雄があり、そして此雨戸にて年産額一萬圓位といはれてゐる。

八本木山
 八本木は舊鹿島藩領地にて、今の濱町の邊りなるを以て、一名濱山焼と稱せられてゐる。萬治年間(1658-1661)韓人の子孫來つて此地に開窯せしといはれ、其古窯品には土の上に白化粧を掛け、それに呉洲にて竹など描きし徳利があり。又同じ白化粧の上に菊の如き模様を文せる食碗等あるが、何れも全面に小氷裂を現はしてゐる。

岩永幸一
 文久二年(1862年)岩永幸一が天草深江の原料を用ひて、磁器を製することゝなり、現今は石炭窯を築造して、楠田輿兵衛の一戸のみが製造しつゝある。製品の種類は、染附の燗德利及反茶漬碗等の下手物にて、製産額の如きは勿論少額であらう。此地古来より濱山燗瓶と稱する口附物が製作されたのである。

久保山
 久保山も亦舊鹿島藩領地にて、此處は古枝村と稱し伏見及豊川と並んで日本三大稻荷の一なる祐徳神社の傍である。明治九年(1876年)鍋島彬智、久布白繁雄、山崎捷一、三原作右工門、鶴田惣吉、鶴田龜之助、村山廣吉、上野十太郎等協力して製陶を始めしものにて最初の窯焼は五戸なりしが、爾来哀頽し、明治十二年六月小野武則新窯を築造せしも振はず、今事業を繼續しつゝあるは鶴田惣吉一戸である。製品は八本木山同じく、天草石を主料として、爛瓶及茶漬碗の如き下手物を焼いてゐる。

上野甕
 上野は杵島郡橘村にて、戸數二百戸を有し武雄驛より一里許りの行程である。此處は舊後藤氏の領地なるも藤津郡久間村と接し、戰國時代は雨莊の争奪地たりしに相違ない。上野焼の創業は、往昔久間村の韓人が、此地に来つて開窯せし由傳へらるゝも、今共事蹟としては全く不明である。

ハシカ杢之十
 今より二百餘年前、ハシカ杢の十(本姓小田)なる者ありて、大形の甕を始めしより、其後此處は甕焼専門となり、其他は土管、水鉢、植木鉢等を焼いてゐる。甕の大なるは四石入があり、原料は此地小野原の粘土が使用されてゐる。製産額は今五千圓位と稱せられ、重なる窯元は、肥前土管製造會社(社長野田卯入)及山口秀吉の外四人にて、昔の窯ありし處は南上野なる今の會社の窯地である。

善平と清之進
 明治三十四年大川内の名工柴田善平は、此處の山口秀吉方に來り、志田の粘土を探つて種々の雅品を製作しが、それは無釉から焼にて山水及び柘榴等を浮彫せし茶器や、手口附水指があり、水指には人物山水の片面に、二羽鶴が彫刻されてゐる、何れも拉車を用ひず、全くの手捻り細工である。そして善平は翌三十五年六月二日此工場に於いて卒去した。
 次には山口縣人にて、清之進なる者又秀吉の工場に來り、此地小野原の粘土を以て、朱泥類似のから焼茶器を製作し、又鴛鴦形にて五寸の蓋物などの遺作がある。蓋し此處は甕類専門の製造地にて、此上野は以前甕野と稱せられたのであらう。

鳴瀬甕焼
 鳴瀬甕焼も同し橘村にて、此處は高橋驛より、半里許りを隔てし九十餘戸の集落である。以前は此地方を芦原と稱せしが、後年檀家の關係にて、今芦原村落は橘村と橋下村とに二分されてゐる。明治六年(1873年)此地の田中民助、久保忠造、副島平吉等發起して十一間登を築窯し、武内村多々良の工人を招き、地元の粘土を以て甕類を焼きしものにて、中には大四石と稱す巨器をも製造された。需要地は筑後方面を重な得意先とし、又鹿児島の泡盛容器にも供給され年産額五千餘圜を繋げたりしが、明治二十四年に至つて廃窯した。

鳴瀬焼
 鳴瀬燒は明治十三年(1880年)の好景氣に乗じ、前記の田中民助、久保忠造及副島龜三等の組合にて、六間登を築窯し、久間山の工人を雇用して、天草原料にて染附磁器を製造せしものである。種類は皿、鉢、食碗、火鉢等にて年産額三千圓位であつた。中にも久間山の名工浦川軍六か、描きし龍虎畫二尺鉢の如きは、抜群の物さいはれてゐる。又明治十八年東京上野五品共進會に出品して、副島龜三名義に賞牌を授かつたのである。斯くて明治二十三年に至つて廢窯した。

片白
 片白も亦、同じ橘村にて五十餘戸を有し、鳴瀬と上野との中間村落である。明治三十年(4897年)前記鳴瀬焼の工人なりし、柿原久米吉此地に四間登を築窯し、天草原料を以て染附磁器の八寸刺身皿等を焼き、年額千五六百圓を擧げたりしが、五年許りにして廢窯し、後年陶器にて貯金壺、火消壺、擂鉢等を製作せし者ありしも、今や全く廢滅に歸してゐる。

直澄の産業策
 此藤津編を終るに臨み、倩ら領主直澄が嬉野焼製産の主旨に就いて考察するに、従来多くの領主が、斯業を保護せし動機なるものは、何れも先づ自己の嗜好に出發して、道楽的に製作せしめ、而して後に始めて産業品として奬勵することが定であつた。
 直澄に於いては然らず、別に藩窯さへも設置せすして、専ら日用品を主眼とし、只管領内の陶業を擴張すべく、南川原より指導者を招じて其意見を糺し、陶窯の構造を改めしが如き、洵に敬服に價する。而して此地元優良なる原料を産せず、良器の製作不可能なりし爲に、下手物のみを製せしと論する者あれど、然る時に於いて尚進んで之を試みんとすること、方に仕事の大名氣質を如實に示してゐるではないか。
 況んや彼れ直澄は、當時の堅城として攻めあぐみし切支丹城へ一番乗りせし稀世の猛である。
彼の意志と共資力を以てせば、何を爲すさも不可能のことあるべきや。然るに想を領地民衆の福利に置き、斯業の興隆を主眼として厚く之を保護し、後代の領主亦大阪に於いて、嬉野焼として擴賣を爲せしが如き、専ら斯業の發展に留意せしものであつた。

釋大潮
 後代の藩主が陶業を督するに當り、像て彼が顧問として見逃かし難き一人物がある。それは蓮池龍津寺の住職釋大潮(名は元皓、字は月枝、松浦又魯寮子と號す、もと伊萬里浦郷家の男也、明和五年卒九十三才)にて、彼れ博學高徳、當時詩名天下に鳴りしは傑僧であつた。家康が天海を重用し如く、領主も亦深く大潮を信頼して常に其意見を聴きしことは周知の事柄である。故に嬉野焼産業の方針においても、高級品を要することあれば、高價を拂つて他山より購入し、自領の製品は大衆の日用品を目標として陶家を奨励し、且之が保護出資を豊ならしめし如き、又以て彼が大潮に私淑せし面影を見る可きであろう。

 而して尚代の領主、及一面には吉田、久間諸山の陶家が又良く其意を奉戴し、一意日用品製作の工夫に没頭して、自己陶山の地位と大局を観察し、未熟なる骨董品などに傾想せざりしは感服の外ない。縦令優秀なる高級品のみを製造しても其需要を得るにあらざれば、下和が壁を抱くに等し、惟ふに名譽に倒れんよりも、恒産に生くることが産業の常道であらう。 嬉野焼の將來も勿論此方針なる可きも、一言蕪辤を述べて既往の経歴を讃する所以である。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]
美野山
五丁田村の美野は蓮池藩領で、戸数は約百六十戸。塩田町に隣接し、武雄駅からは三里の道のりである。はじめ当地の友八・徳十ら四、五名が共同出資で十間の登り窯を築き、天草石に吉田の鳴川石を加えて製陶したが、ほどなく廃絶した。のちに堀江喜四郎が再興したもののまた廃窯に。さらに大川内の富永勝太郎が来て再興を図ったが、これも廃窯となり、陶煙が現れては消えることを繰り返した。
大正七年五月、有田の陶商・青木幸平がこの地の大曲艶一・中島伊三に電気用器の焼成をさせ、同十二年からは艶一の単独経営で青木向けの商品を作っている。なおこのほか大正九年から染付の飯碗を主に製造する窯もあり、これら二戸で年産額は一万円ほどといわれる。

八本木山
八本木は旧鹿島藩領で、現在の濱町付近に当たるため「濱山焼」とも呼ばれる。万治年間(1658–1661)に韓人の子孫が来て開窯したと伝わり、古窯品には素地に白化粧を施し、呉須で竹などを描いた徳利や、同じ白化粧の上に菊文様をあしらった飯碗がある。どれも器面全体に細かな貫入が見られる。

岩永幸一
文久二年(1862)に岩永幸一が天草・深江の原料を用いて磁器の製作を始め、現在は石炭窯を築いて楠田輿兵衛の一戸のみが製造している。品目は染付の燗徳利や反り形の茶漬碗などの下手物で、産額は少ない。もとよりこの地では「濱山燗瓶」と称する口付きの瓶類が作られてきた。

久保山
久保山も旧鹿島藩領で、古枝村といい、伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷の一つ、祐徳神社のそばにある。明治九年(1876)に鍋島彬智、久布白繁雄、山崎捷一、三原作右工門、鶴田惣吉、鶴田龜之助、村山廣吉、上野十太郎らが協力して製陶を始め、当初は五戸の窯であったが、その後衰え、明治十二年六月に小野武則が新窯を築いたものの振るわず、現在まで事業を続けているのは鶴田惣吉一戸のみ。品目は八本木山と同様に、天草石を主原料とした燗瓶や茶漬碗などの下手物である。

上野甕
上野は杵島郡橘村で、戸数は約二百戸。武雄駅から一里ほど。旧後藤氏の領地だが藤津郡久間村に接し、戦国期には両荘の争奪地であったに違いない。上野焼の草創は、昔、久間村の韓人がこの地に来て開窯したというが、事績は明らかでない。
今から二百余年前、ハシカ杢之十(本姓・小田)という人物が大形の甕を作り始め、以後ここは甕専門の産地となった。ほかに土管・水鉢・植木鉢なども焼く。甕の大きいものは四石入りまであり、原料は小野原の粘土を用いる。現在の年産は五千円ほどとされ、主な窯元は肥前土管製造会社(社長・野田卯入)と山口秀吉のほか四名。古い窯の跡は南上野、今の会社窯地のあたりにある。
明治三十四年、大川内の名工・柴田善平が山口秀吉方に来て、志田の粘土で雅味ある作品を作った。無釉の空焼で山水や柘榴を浮彫にした茶器、手付き口の水指などで、水指には片面に人物山水、もう一方に二羽の鶴が彫られている。いずれも轆轤を使わない完全な手捻りで、善平は翌三十五年六月二日、この工場で没した。
続いて山口県の人・清之進という者が秀吉の工場に来て、小野原の粘土で朱泥風の空焼茶器を作り、鴛鴦形の五寸蓋物などを残した。もとよりここは甕類の専門産地で、上野はかつて「甕野」とも称されたのであろう。

鳴瀬甕焼
鳴瀬甕焼も同じ橘村で、高橋駅から半里ほどの九十余戸の集落。昔は「芦原」と呼ばれたが、檀家の関係でのちに橘村と橋下村に二分された。明治六年(1873)、田中民助・久保忠造・副島平吉らが発起して十一間の登り窯を築き、武内村・多々良の工人を招き、地元の粘土で甕を焼いた。四石入りの巨器も作り、需要は主に筑後方面、また鹿児島の泡盛容器にも供給し、年産五千余円を上げたが、明治二十四年に廃窯した。

鳴瀬焼
鳴瀬焼は明治十三年(1880)の好況に乗じ、前記の田中民助・久保忠造・副島龜三らの組合で六間の登り窯を築き、久間山の工人を雇って、天草原料の染付磁器(皿・鉢・飯碗・火鉢など)を製造、年産三千円ほどであった。なかでも久間山の名工・浦川軍六が描いた龍虎図の二尺鉢は抜群といわれる。明治十八年の東京上野五品共進会に出品し、副島龜三の名義で賞牌を受けた。のち明治二十三年に廃窯。

片白
片白も同じ橘村で五十余戸、鳴瀬と上野の中間の村落。明治三十年(4897年)、鳴瀬焼の工人であった柿原久米吉が四間の登り窯を築き、天草原料で染付の八寸刺身皿などを焼き、年一千五、六百円を上げたが、五年ほどで廃窯。のちに陶器で貯金壺・火消壺・擂鉢などを作る者もいたが、今は全く廃れている。

直澄の産業策
結びに、領主・鍋島直澄の嬉野焼振興の趣旨を考える。従来、多くの領主はまず自らの嗜好から出発して道楽的に作らせ、のちに産業として奨励するのが通例であった。直澄はそうではない。藩窯すら設けず、もっぱら日用品を主眼に、領内の陶業を広げるため南川原から指導者を招いて意見を求め、窯の構造を改めたのは、まことに敬服に値する。当地で優良な原料が乏しく、良器の製作が困難だから下手物しか作らなかったと論ずる向きもあるが、その時代にあってなお進んで試みたこと自体が、仕事における大名の気概を如実に示している。しかも直澄は、攻めあぐねた切支丹城に真っ先に乗り込んだ稀有の猛将である。意志と資力があれば不可能はなかったろうが、彼は領民の福利に思いを置き、産業振興を主眼に厚く保護した。後代の領主も大阪で「嬉野焼」として販路拡張を図るなど、もっぱら発展に意を用いた。

釋大潮

また、後代の藩主が製陶を監督するにあたり、顧問格として見逃せない人物がいる。蓮池・龍津寺の住職、釋大潮(名は元皓、字は月枝、号は松浦又魯寮子。もと伊萬里浦郷家の出、明和五年没・九十三歳)である。博学高徳にして詩名天下に鳴る傑僧で、家康が天海を重んじたように、領主もまた大潮を深く信頼し、常にその意見に耳を傾けた。ゆえに嬉野焼の方針でも、高級品が必要なときは他山から高価でも購入し、自領の製品は大衆の日用品を目標として陶家を奨励し、保護と出資を厚くする——そこに大潮へ私淑した面影が見える。さらに後代の領主、そして吉田・久間の陶家もその意をよく奉じ、日用品の工夫に専心し、自らの窯場の地位と大局を観て、未熟な骨董趣味に傾かなかったのは感服のほかない。たとえ優れた高級品だけを作っても需要がなければ宝の持ち腐れである。名誉に倒れるより、恒常の生計を成り立たせることが産業の王道であろう。嬉野焼の将来も、もちろんこの方針であるべきだ——拙いながらも、過去の歩みを称える所以である。


【英語訳】[English translation]
Mino-yama
Mino in Gotōda Village belonged to the Hasuike domain, with about 160 households. It adjoins Shiota and lies three ri from Takeo Station. The first venture—Ten-ken climbing kiln jointly funded by Tomohachi, Tokuju, and several others—mixed Amakusa stone with Yoshida’s Narukawa stone, but folded soon after. Horie Kishirō revived it, only to close again; then Tominaga Katsutarō from Ōkawachi tried once more, but that kiln also went idle—smoke rising and vanishing in cycles.
In May Taishō 7 (1918), Arita dealer Aoki Kōhei had Ōmagari Enaichi and Nakashima Isa fire electrical insulators here; from Taishō 12 (1923) Enaichi produced Aoki’s lines on his own. Another kiln, started in Taishō 9 (1920), focused on blue-and-white rice bowls. Together the two workshops were said to make about 10,000 yen per year.

Yahongiyama
Yahongi, once Kashima domain territory around today’s Hama-chō, is also called “Hama-yama ware.” Tradition says descendants of Koreans opened kilns here in the Manji era (1658–1661). Old pieces include sake bottles with white slip on the body and bamboo painted in gosu cobalt, and bowls with chrysanthemum-like patterns on white slip; all show fine allover crackle.

Iwanaga Kōichi
In Bunkyū 2 (1862) Iwanaga Kōichi began porcelain production using raw stone from Fukae in Amakusa. Today only one workshop—Kusuda Yōbee’s, now with a coal-fired kiln—continues. Output is small and consists of low-end wares such as sometsuke warming bottles (kan-dokkuri) and flared “ochazuke” bowls. Traditionally the area made spouted “Hama-yama kanbin.”

Kuboyama
Kuboyama, also former Kashima territory, is Koshie Village beside Yūtoku Shrine—one of Japan’s three great Inari shrines with Fushimi and Toyokawa. In 1876, Nabeshima Akichi, Kubushiro Shigeo, Yamazaki Shōichi, Mihara Sakuemon, Tsuruta Sōkichi, Tsuruta Kamenosuke, Murayama Hirokichi, and Ueno Jūtarō began pottery together with five initial kilns. The venture declined; in June 1879 Ono Takenori built a new kiln but without success. Today only Tsuruta Sōkichi continues. Products, like Yahongi’s, are low-end items—kanbin and “ochazuke” bowls—using Amakusa stone.

Ueno jars
Ueno (Tachibana Village, Kishima-gun), about 200 households and one ri from Takeo Station, was former Gotō territory bordering Kuma in Fujitsu-gun—likely a contested zone in the Sengoku era. Origins of Ueno ware are unclear; tradition holds Koreans from Kuma once opened kilns here.
Some 200 years ago, a man called Hashika Moku-no-jū (surname Oda) began making large jars; since then the area specialized in jars, also producing earthen pipes, water basins, and flowerpots. The largest jars hold four koku. Clay comes from Onohata. Annual output is about 5,000 yen. Leading makers include Hizen Clay Pipe Mfg. Co. (president Noda Uiri) and Yamaguchi Hideyoshi, plus four others. Old kiln sites lie at Minami-Ueno, where the company kilns are now.
In 1901, Ōkawachi master Shibata Zenpei worked at Yamaguchi Hideyoshi’s, using Shida clay to create refined pieces: unglazed (kara-yaki) tea wares with relief-carved landscapes and pomegranates, and hand-built lidded water jars (mizusashi) with a landscape on one face and a pair of cranes on the other—entirely hand-modeled, no wheel. He died there on June 2, 1902.
Later, a Yamaguchi prefectural potter named Seinoshin also worked at Hideyoshi’s, using Onohata clay to make unglazed shudei-like tea wares, leaving, among others, a five-sun mandarin-duck lidded piece. As a jar-making center, Ueno was once even called “Kame-no,” “jar field.”

Naruse jar ware
Naruse, also in Tachibana, is a ninety-odd-household settlement about half a ri from Takahashi Station. Formerly called Ashihara, it later split between Tachibana and Hashimoto for parish reasons. In 1873 Tanaka Minsuke, Kubo Chūzō, and Soejima Heikichi built an 11-ken climbing kiln, invited craftsmen from Tatara in Takeuchi Village, and fired jars from local clay, including huge four-koku vessels. Principal markets were in Chikugo; they also supplied awamori containers to Kagoshima, earning over 5,000 yen annually, but closed in 1891.

Naruse ware
Riding the 1880 boom, the same group—Tanaka Minsuke, Kubo Chūzō, and Soejima Kamezō—built a six-ken climbing kiln, hired craftsmen from Kuma-yama, and produced sometsuke porcelain (plates, bowls, rice bowls, and hibachi) using Amakusa stone, with annual output around 3,000 yen. A two-shaku bowl painted with a dragon and tiger by Kuma-yama master Urakawa Gunroku was considered outstanding. At the 1885 Ueno Five-Products Exposition in Tokyo, they won a medal under Soejima Kamezō’s name. The kiln closed in 1890.

Katajiro
Katajiro, also in Tachibana, has slightly over fifty households mid-way between Naruse and Ueno. In 1897 (printed as 4897), Kakihara Kumekichi—a former Naruse-ware craftsman—built a four-ken climbing kiln and made eight-sun sashimi plates and other sometsuke pieces using Amakusa stone, earning 1,500–1,600 yen annually, but shut down after about five years. Later some made pottery money jars, fire-extinguishing jars, and mortars, but the craft is now extinct.

Naozumi’s industrial policy
To conclude the Fujitsu section: many lords protected pottery first as a personal hobby, only later encouraging it as industry. Nabeshima Naozumi differed. He set up no domain kiln, focused squarely on daily-use goods, invited instructors from Minamikawara, adopted their advice, and even reworked kiln architecture—worthy of real respect. Some argue local raw materials were poor, so only humble wares could be made; yet choosing to press ahead in such circumstances shows true daimyo spirit. Naozumi, the rare warrior who led the first charge into the formidable “Kirishitan Castle,” had the will and means to do anything; even so, he fixed his mind on the people’s welfare, shielding the craft and prioritizing growth. Later lords expanded sales as “Ureshino ware” in Osaka, likewise focusing on development.

Shaku Daichō

As later lords oversaw the industry, one advisor cannot be overlooked: Shaku Daichō, abbot of Ryūshin-ji in Hasuike (personal name Motokō, style Getsushi, art name Matsura Yororyōshi; from the Imari Uragōke family; died Meiwa 5, aged 93). A widely learned, virtuous monk famed as a poet, he was trusted much as Ieyasu trusted Tenkai; lords often sought his counsel. Thus, in policy, when high-grade wares were needed they would purchase them from other kilns at fair price, while encouraging local kilns to target everyday goods and funding them generously—an approach reflecting Daichō’s influence. Subsequent lords and, on another front, the potters of Yoshida and Kuma embraced this, devoting themselves to daily-use innovation, gauging their position and the broader picture, and avoiding immature antiquarianism. However superb, luxury pieces without demand are dead weight; better a steady livelihood than empty fame. Ureshino ware’s future should follow the same path—let this brief word praise its past course.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
美野山
五丁田村的美野属蓮池藩,约一百六十户,邻接盐田町,距武雄站三里。最初由友八、德十等四五人合资建十间登窑,以天草石掺吉田的鸣川石烧制,但不久即废。其后堀江喜四郎再兴亦废;再由大川内的富永胜太郎出面重建,终又废窑,窑烟时有时无。大正七年五月,有田陶商青木幸平让大曲艳一、中岛伊三烧制电器用具;自大正十二年起,艳一单独为青木生产。另有自大正九年起以染付饭碗为主的窑,这两户年产额约一万日元。

八本木山
八本木为旧鹿岛藩地,近今之滨町,亦称“滨山烧”。相传万治年间(1658–1661)韩人后裔来此开窑。古窑品有素胎施白化妆并以呉须绘竹之德利,及白化妆上饰菊纹之饭碗,器面遍布细密贯入。

岩永幸一
文久二年(1862)岩永幸一用天草・深江原料制瓷。今仅楠田舆兵卫一户以石炭窑生产,品类为染付燗徳利与反口茶泡饭碗等下手物,产量不多。此地素有“滨山燗瓶”之称的口附器物。

久保山
久保山亦旧鹿岛藩地,称古枝村,毗邻与伏见、丰川并称“三大稻荷”的祐德神社。明治九年(1876)鍋島彬智、久布白繁雄、山崎捷一、三原作右工门、鹤田惣吉、鹤田龟之助、村山广吉、上野十太郎等合力兴窑,初有五户,后渐衰;明治十二年六月小野武则建新窑亦不振,今仅鹤田惣吉一家续业。制品与八本木相同,以天草石为主料,烧燗瓶与茶泡饭碗等下手物。

上野甕
上野(杵岛郡橘村)约二百户,距武雄站一里。旧后藤氏领地,与藤津郡久间村相接,战国时当为争夺之地。上野烧始创相传为久间韩人来此开窑,事迹未详。约二百年前,名为“ハシカ杢之十”(本姓小田)者始作大甕,此后专事甕器,并烧土管、水钵、花盆。最大者容四石,原料取自小野原粘土。今年产约五千日元,主要窑元有肥前土管制造会社(社长野田卯入)、山口秀吉等四人。古窑址在南上野,即现公司窑地。
明治三十四年,大川内名工柴田善平来投山口秀吉,以志田粘土制雅器:无釉空烧、浮雕山水与石榴之茶具,手制口附水指等;水指一面人物山水,一面双鹤,皆纯手捏无轱轳。翌年六月二日卒于此厂。继有山口县人清之进到厂,以小野原粘土制仿朱泥之空烧茶器,并留有鸳鸯形五寸带盖之作。此地本为甕器专业,故上野或曾称“甕野”。

鸣瀬甕烧
鸣瀬甕烧亦在橘村,距高桥站半里,九十余户。旧称“芦原”,后因檀家划分为橘村与桥下村。明治六年(1873)田中民助、久保忠造、副岛平吉等建十一间登窑,延武内村多々良工人,以当地粘土烧甕,制四石巨器。主销筑后,亦供鹿儿岛泡盛容器,年产五千余元,明治二十四年废。

鸣瀬烧
明治十三年(1880)景气上行,上述三人再建六间登窑,雇久间山工人,以天草原料制染付瓷(盘、钵、饭碗、火钵),年产约三千元。其中特出者为久间名工浦川军六绘龙虎图之二尺钵。明治十八年出品东京上野五品共进会,以副岛龟三名义获奖牌。明治二十三年废窑。

片白
片白亦在橘村,五十余户,位于鸣瀬与上野之间。明治三十年(4897年),原鸣瀬烧工人柿原久米吉建四间登窑,以天草原料烧八寸刺身皿等染付瓷,年收一千五六百元,约五年后废。其后有人以陶器制储金罐、灭火罐、擂钵等,今已全废。

直澄的产业方针
多藩主往往由个人嗜好出发先作玩赏,后才作为产业提倡。鍋島直澄不然:不设藩窑,专注日用品;为扩充窑业,自南川原延聘师傅采纳其议,并改良窑构,诚可敬。虽有人以原料不佳只能造下手物为议,然当时仍毅然尝试,正显大名气魄。直澄亦是曾一番乘入难攻“切支丹城”的猛将;有志与财,固无不可为。然而他把心思置于民生福祉,主在振兴产业,厚予保护。后世领主亦于大阪以“嬉野烧”拓销,尽力图进。

释大潮

其后督理陶业时,有一顾问人物不可忽视:蓮池龙津寺住持释大潮(名元皓,字月枝,号松浦又鲁寮子,出自伊万里浦郷家,明和五年卒,九十三岁)。其学博德高、诗名天下,领主如家康重天海般深信之,常听其议。因而方针上,高级品需时即自他山购置;本领产品以大众日用品为标,勉励陶家,厚加资护——可见大潮之影响。后世领主与吉田、久间诸山陶家咸奉其意,专注日用品之工夫,度势审时,不倾心于未熟的古董趣味。纵有上品而无需,亦徒然;不若以恒产为本。嬉野烧之未来,亦当循此。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
美野山
五丁田村之美野屬蓮池藩,約一百六十戶,比鄰鹽田町,距武雄站三里。初由友八、德十等四五人合資建十間登窯,以天草石摻吉田鳴川石燒製,不久即廢。其後堀江喜四郎復興亦廢;再由大川內富永勝太郎重建,終亦廢窯,煙起煙滅。大正七年五月,有田陶商青木幸平使大曲豔一、中島伊三燒電器用具;自大正十二年起,豔一獨營為青木生產。另自大正九年起有以染付飯碗為主之窯,兩戶年產約一萬圓。

八本木山
八本木為舊鹿島藩地,近今之濱町,亦稱「濱山燒」。傳云萬治年間(1658–1661)韓人後裔來此開窯。古窯品有施白化妝並以呉須畫竹之德利,及白化妝飾菊紋之飯碗,器面滿布細貫入。

岩永幸一
文久二年(1862)岩永幸一以天草・深江原料製瓷。今僅楠田輿兵衛一戶以石炭窯生產,品類為染付燗德利與反口茶泡飯碗等下手物,產額不多。此地素稱「濱山燗瓶」之口附器物。

久保山
久保山亦舊鹿島藩地,稱古枝村,近與伏見、豐川並列之祐德神社。明治九年(1876)鍋島彬智、久布白繁雄、山崎捷一、三原作右工門、鶴田惣吉、鶴田龜之助、村山廣吉、上野十太郎等合力興窯,初五戶,後漸衰;明治十二年六月小野武則建新窯亦不振,今僅鶴田惣吉一戶續業。製品與八本木同,以天草石為主料,燒燗瓶與茶泡飯碗等下手物。

上野甕
上野(杵島郡橘村)約二百戶,距武雄站一里。舊後藤氏領地,與藤津郡久間村接,戰國時想必為爭奪之地。上野燒始創傳為久間韓人來此開窯,事跡未詳。約二百年前,「ハシカ杢之十」(本姓小田)始製大甕,爾後專事甕器,並燒土管、水鉢、花盆。巨甕容四石,原料取自小野原黏土。今年產約五千圓,主窯元有肥前土管製造會社(社長野田卯入)、山口秀吉等四人。古窯址在南上野,即現公司窯地。
明治三十四年,大川內名工柴田善平至山口秀吉處,以志田黏土製雅器:無釉空燒、浮雕山水與石榴之茶具,手製口附水指等;水指一面人物山水,一面雙鶴,皆純手捏無轆轤。翌年六月二日卒於此廠。其後山口縣人清之進亦至此,以小野原黏土製朱泥風空燒茶器,並留鴛鴦形五寸蓋物等。此地本為甕器專區,故上野或曾稱「甕野」。

鳴瀨甕燒
鳴瀨甕燒亦在橘村,距高橋站半里,九十餘戶。舊稱「蘆原」,後因檀家分為橘村、橋下村。明治六年(1873)田中民助、久保忠造、副島平吉等建十一間登窯,延武內村多々良工人,以當地黏土燒甕,製四石巨器。主銷筑後,亦供鹿兒島泡盛容器,年產五千餘圓,明治二十四年廢。

鳴瀨燒
明治十三年(1880)景氣攀升,三人再建六間登窯,雇久間山工人,以天草原料製染付瓷(盤、鉢、飯碗、火鉢),年產約三千圓。其中特出者為久間名工浦川軍六繪龍虎圖之二尺鉢。明治十八年出品東京上野五品共進會,以副島龜三名義得獎牌。明治二十三年廢窯。

片白
片白亦在橘村,五十餘戶,介於鳴瀨與上野之間。明治三十年(4897年),原鳴瀨燒工人柿原久米吉建四間登窯,以天草原料燒八寸刺身皿等染付瓷,年收一千五六百圓,五年後廢。其後有人以陶器製儲金壺、滅火壺、擂鉢等,今已全廢。

直澄之產業策
多藩主每由嗜好起手,先作玩賞,後始提振為產業。鍋島直澄則不然:不設藩窯,專注日用品;為擴張窯業,自南川原延師取議,並改良窯構,實可敬。雖或議以原料不良僅能造下手物,然於彼時仍毅然試行,正顯大名氣魄。直澄亦曾一番乘入難攻「切支丹城」之猛將;有志與財,無不可為。然而其志在民生,重在振興,厚加保護。後世領主亦以「嬉野燒」於大阪拓銷,專注發展。

釋大潮

後來督理陶業,有一顧問人物不可忽視:蓮池龍津寺住持釋大潮(名元皓,字月枝,號松浦又魯寮子,出伊萬里浦郷家,明和五年卒,九十三歲)。其學博德高、詩名天下;領主如家康重天海般深信之。故政策上,高級品需時自他山購之;本領製品以大眾日用品為標,勉勵陶家,厚資護持——可見大潮之影響。後世領主與吉田、久間諸山陶家皆奉其意,專注日用品之工夫,審勢觀局,不為未熟古董癖所惑。縱造上品而無需,亦徒然;不若以恆產為本。嬉野燒之前途,亦當循此。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
美野山
美野(五丁田村)属蓮池藩,约160户,邻盐田,距武雄站三里。初由友八、德十等建十间登窑,掺用鸣川石与天草石,旋即停烧;堀江喜四郎再兴亦废;大川内的富永胜太郎再建亦停。大正七年起,有田商青木幸平委托大曲艳一、中岛伊三烧电器用具;大正十二年起艳一独营。另有自大正九年起以染付饭碗为主的窑,两家年产约一万元。

八本木山
旧鹿岛藩地,近今滨町,号“滨山烧”。传称万治年间韩人后裔开窑。旧作有白化妆加呉须画竹之德利、菊纹饭碗,遍布细裂。

岩永幸一
文久二年(1862)岩永幸一以天草深江石制瓷;今仅楠田舆兵卫一户以煤窑生产,主低档染付燗徳利与“茶泡饭碗”。本地素以“滨山燗瓶”著称。

久保山
近祐德神社。1876年诸氏合力兴窑,五户起步后转衰;1879年新窑未振,今唯鹤田惣吉存。产品与八本木同:以天草石为主的低档瓶与碗。

上野甕
橘村上野约200户,距武雄一里。旧后藤地,邻久间;渊源传为韩人立窑。约200年前,名“ハシカ杢之十”(小田姓)者制大甕,自此专事甕器,亦烧土管、水钵、花盆;巨甕容四石,取材小野原。年产约5000元;主窑元有肥前土管制造会社(野田卯入)、山口秀吉等。古窑址在南上野。1901年,名工柴田善平在山口处以志田土作无釉浮雕茶具与水指,纯手捏,1902年卒于厂。继有山口籍清之进作朱泥风空烧茶器、鸳鸯形五寸盖物。昔称“甕野”。

鸣瀬甕烧
橘村鸣瀬,去高桥站半里,九十余户。昔称芦原,后分属橘与桥下。1873年建十一间登窑,延多々良工人,以地土烧甕,巨者四石,售筑后且供鹿儿岛泡盛,年产五千余,1891年废。

鸣瀬烧
1880年景气中,三氏建六间登窑,雇久间工,以天草石烧染付瓷(盘、钵、饭碗、火钵),年产约三千。久间名工浦川军六绘龙虎二尺钵尤著。1885年上野五品共进会得奖(副岛龟三名义)。1890年废。

片白
橘村片白五十余户,介于鸣瀬与上野。1897(文中误印为4897),柿原久米吉建四间登窑,以天草烧八寸刺身皿等,年收一千五六百,五年后废;后有储金罐、灭火罐、擂钵等陶器生产,今绝。

直澄的政策
多藩主以嗜好起家,后倡产业;鍋島直澄不然:不设藩窑,专注日用品,自南川原延师改良窑制,重在扩产。虽原料受限,他仍毅然推进,显大名气魄。其人亦勇冠“切支丹城”。然其志在民生、在护持产业,后继者亦以“嬉野烧”拓销大阪。

释大潮

顾问为蓮池龙津寺住持释大潮(名元皓,字月枝,号松浦又鲁寮子,出伊万里浦郷家,明和五年卒,93岁)。学德兼优、诗名遐迩,受诸侯信任。政策上,高级品需时外购;本地主攻大众日用品并予厚资。后世诸侯与吉田、久间窑户皆奉行此道,避虚荣,重恒产。嬉野烧之未来亦应如是。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
美野山
美野(五丁田村)屬蓮池藩,約一六〇戶,鄰鹽田,距武雄站三里。初由友八、德十等建十間登窯,摻用鳴川石與天草石,旋即停燒;堀江喜四郎再興亦廢;大川內富永勝太郎再建亦停。自大正七年起,有田商青木幸平委託大曲豔一、中島伊三燒電器用具;大正十二年起豔一獨營。另自大正九年起有以染付飯碗為主之窯,兩家年產約一萬元。

八本木山
舊鹿島藩地,近今濱町,稱「濱山燒」。傳萬治年間韓人後裔開窯。舊作有白化妝加呉須畫竹之德利、菊紋飯碗,遍布細裂。

岩永幸一
文久二年(1862)岩永幸一以天草深江石製瓷;今僅楠田輿兵衛一戶以煤窯生產,主低檔染付燗德利與「茶泡飯碗」。素有「濱山燗瓶」之稱。

久保山
近祐德神社。1876年諸氏合力興窯,五戶起步後轉衰;1879年新窯未振,今唯鶴田惣吉存。產品與八本木同:以天草石為主之低檔瓶與碗。

上野甕
橘村上野約二百戶,距武雄一里。舊後藤地,鄰久間;相傳韓人立窯。約二百年前,「ハシカ杢之十」(小田姓)者製大甕,自此專事甕器,亦燒土管、水鉢、花盆;巨甕容四石,取材小野原。年產約五千圓;主窯元有肥前土管製造會社(野田卯入)、山口秀吉等。古窯址在南上野。1901年,名工柴田善平在山口處以志田土作無釉浮雕茶具與水指,純手捏,1902年卒於廠。繼有山口籍清之進作朱泥風空燒茶器、鴛鴦形五寸蓋物。昔稱「甕野」。

鳴瀨甕燒
橘村鳴瀨,去高橋站半里,九十餘戶。舊稱蘆原,後分屬橘與橋下。1873年建十一間登窯,延多々良工人,以地土燒甕,巨者四石,售筑後且供鹿兒島泡盛,年產五千餘,1891年廢。

鳴瀨燒
1880年景氣時,三氏建六間登窯,雇久間工,以天草石燒染付瓷(盤、鉢、飯碗、火鉢),年產約三千。久間名工浦川軍六繪龍虎二尺鉢尤著。1885年上野五品共進會得獎(副島龜三名義)。1890年廢。

片白
橘村片白五十餘戶,介於鳴瀨與上野。1897(文載誤為4897),柿原久米吉建四間登窯,以天草燒八寸刺身皿等,年收一千五六百,五年後廢;後有儲金罐、滅火罐、擂鉢等陶器,今絕。

直澄之政策
多藩主以嗜好起家,後倡產業;鍋島直澄不然:不設藩窯,專注日用品,自南川原延師改良窯制,重在擴產。雖原料受限,仍毅然推進,顯大名氣魄。其人亦勇冠「切支丹城」。然其志在民生與產業護持;後繼者亦以「嬉野燒」拓銷大阪。

釋大潮

顧問為蓮池龍津寺住持釋大潮(名元皓,字月枝,號松浦又魯寮子,出伊萬里浦郷家,明和五年卒,九十三歲)。學德兼優、詩名遐邇,受諸侯信任。政策上,高級品需時外購;本地主攻日用品並厚資扶持。後世諸侯與吉田、久間窯戶皆奉行此道,避虛榮、重恆產。嬉野燒之未來亦應如是。