【原文】[Original text]
平戸系 三川内窯
平戸松浦氏
平戸松浦氏は、又唐津の波多氏、有田の有田氏、伊萬里の伊萬里氏等と同じ松浦氏の分系である。源太夫判官久の孫披、始め上松浦川西の峰邑に在りて峰五郎と稱せしが、治承元年(1177年)巖谷(東松浦郡嚴木村)に轉じ獅子ヶ城を築きて居住した。而して後年に及び父直の分譲地下松浦なる、御厨莊田若干を受けて田平の城主となり、そして獅子ヶ城は彼の兄大川野遊より出でし、鶴田氏の居城となったのである。
而して後代に至り御厨、鷹島、平戸、實龜、紐差大島、伊萬里、福島、楠泊、屋武田 江迎、小値賀及び黒島、五島の數部又東島を分領し、そして御厨莊の地頭となった。
披の子源藤次持、其子源三郎繫は、共に平戸を姓とせしが、又五郎湛に至つて又峰姓に復し其子源五郎苔より以後代々松浦を姓としたのである。
而して當時四十餘人と稱せられし松浦黨の中獨り此平戸松浦氏のみが繁栄して今に残つてゐる。平戸松浦系圖左の如くである。(平戸松浦系圖参照)
鬼肥前守
六代肥前守定は、武勇隣國に鳴り鬼八郎させられた。彼は南朝に属して勤王に盡せしこと少なからざりしも、共嗣勝に及びて足利尊氏に従属した。十二代義の如きは、足利義政の恩顧甚厚く、義政自身の腰卷及び飾の半切、或は毛氈の鞍覆等を與へられた程である。義政卒するや義は剃髪して天叟と號し、法衣を着して平戸の是興寺に住居せしが、後年紐差木勝に普門禪寺を建立して、義政の像を安置し、又此處に移った。
赤烏帽子
義甞て義政に乞うて、赤烏帽子を着けしこありしが、義政手づから之を畫き興へしが、後年南禪寺の景南がまた之に讃を書せしていはれてゐる。
弘定聯合軍に追はる
十三代豊久の次子弘定十四代を嗣ぎしが、彼は頻りに南進を圖り、延徳二年(1490年)兄の峯源四郎昌(後純意)を田平里の城に攻めて之を走らしめた。高來の有馬貴純は弘定の所置を理不盡なりして、翌三年五月、大村純忠、波多盛を始め、西鄉壹岐守純堯、松浦丹後守政志佐六郎純勝、大島筑前守胤政等を糾合して聯合軍を作り、同年十二月二十七日昌の爲に田平城を攻撃した。弘定大いに敗れて安岳東なる箕坪城に走り、籠ること百餘日なりしも昌の軍頻りに逼るに及んで、彼は僅に身を以て通長門の大内義興に頼ったのである。
明応元年(1492年)義興は、弘定を救ふ名を大擧貴純に通るや、貴純和を乞ひ、弘定漸く踊ることを得しが、斯くて昌の子興信を以て、宗家十五代を継がしむることゝ成った。興信又南進の志を継ぎ、嚮きに聯合軍に加はりしを名とし、明応七年十二月二十日(1499年)相神浦なる、松浦政が大智庵城を奇襲して之を陥ゐれ、政は戦死するに至ったのである。(此哀史は有田編に記述す)
飯盛城を攻む
天文十一年九月五日(1542年)興信の子隆信は、政の男保が居城飯盛城(大智庵城は嚮に落城の際燒失せるを以て別に新せしもの)を攻め、互に一勝一敗ありて決せざりしが、翌十二年春高來の有馬尚純は、實永寺及潮音寺の二僧を遺はし、居中調停して和議を結ばしめ、保は鷹島を割いて隆信に譲ったのである。
葡船平戸に入港
天文十七年(1548年)葡萄牙商船(船長トアルテ・ダ・ガマ)始めて平戸津に入港せしを隆信之に其來泊を赦し、馮港との通商を開くに至つた。
切支丹傳來す
そしてエスイタ派(羅馬正政)伴天連 フランシスコ・サビエル(西班牙人)來つて此地に布教し。或は又エキレンシャなる者、スナイドル(鐵砲)及ハラカン(入子石火矢)等を輸入して、平戸の武力を強大ならしむるに至った。
(萬力も此時始て輸入した、尤も我邦へ始めて鐵砲を齎せしは、之より先十二年八月廿五日のことにて、薩摩の種ヶ島に来りし支那の海賊船中に交れる葡人三人、之を島主種ヶ島時に傅へたのである)
五峰大船主
之より先き天文十年(1541年)、明人五峰王直なる者、大船數隻を所有して、呂来、安南、遥羅、馬刺加等に往來し、或は支那沿岸に出没して貿易又は海賊をなすこと五六年、財大いに富み部下千餘人を率て五島の福江にありしが、平戸に来りて宮の町(後の印山寺屋敷)に根據を据え自ら微主とした。そして二十二年には中國を始め松浦沿岸の猛者共一萬餘人を募集して艦隊を組織し、江蘇、浙江の沿岸を侵掠する等宛然東方の海上を把握するの觀があつた。
前記葡萄牙船の平戸入港も、全く此王直の誘導に出でしものさいはれてゐる(一説には前記の葡萄牙船が豊後國八ッ星浦より歸航の際も稱せらる)斯くて此王直は、平戸に磐據すること十五年の後(弘治二年)(1556年)、明人胡宗憲等に誘殺されたのである。(其後慶長、元和頃の海賊頭梁は、王直の部下なりし楊天生であり。次に同僚のアンドリヤ・デチー乃ち顔思斎であつた。又其後継者が、思斎の部下老一官と呼ばれし鄭芝龍にて、彼が平戸に歸化して、邦人を娶りて生める田川福松が、有名なる鄭成功「國性爺俗にいよ和唐内」である。
彼れ成功は臺潟を根據としてゼーランヂヤ城「安平にて蘭人の築きし赤篏城」を陥れ、パダビヤ政府を震駭せしめしものにて、寛文年間其子鄭經に至つて遂に臺潟を統轄したのである)
布教と武器
戰國時代に於いて、鐵砲及石火矢の如き武器の輸入に至つては、各領主が争うて其入手に腐心したのは當然であつた。而して此利器と其使用法を傳へたるは、前記の南蛮人エキレンシャにて、彼は耶蘇切支丹の奉教と交換的に傳授した。そして平戸藩にては籠手田左衛門、一部勘解由の二人が、此宗門に入りて其使用法を習得せしも、後に至つて何れも奉教を捨たのである。
然るに一度び宗門に入りし此二人の采邑地、度島及生月島の住民は、旺然として十字架に歸依するに至り、其の牢乎として扱ぐ可からざる信仰は、慶長十九年以後の迫害にも屈するところなく、甘んじて最多数の殉教者を出したのである。
之より斯教を信奉する者平戸地方を始め、西南部肥前に多きを加ふるに至り、大村理専(純忠)は永祿五年(1562年)に洗禮し。有馬壽仙(義直)は天正四年(1576年)に洗禮した。後年平戸入津を禁せられしエキレンシヤは、豊後の大友宗麟(義鎮)に、如上の手段を以て傅へたのである。
再び飯盛城を攻む
永禄六年八月(1563年前)松浦隆信は、如何にもして南進の素志を貫かんと思ひ、先づ相神浦を略すべく、大野豊前守定屋、同次郎右工門定晨等二百五十騎を先鋒とし自ら佐々の鳥屋城に陣し、定晨を東光寺に留めて兵を飯盛城に進めたのである。
城中よりは東甚助齋忠、東五郎秀勝、東四郎秀次、北野源藏直勝等能く防戦し、殊に保は鷹島の回復を計りて雌雄を此一戦に決せんと、兵を海陸より進めて大いに戰ひしも、此時敵には鐵砲ありて容易くは破り得なかつた。
三度飯盛城を攻む
同八年五月五日隆信又飯盛城を攻めしも、城兵邀へて能く防戦し、平戸方は大崎筑前守照屋、舎弟民部澄月、佐々刑部稠、南藏人 中山治郎、志方市之允等死傷三百餘人に及び其後敗決せざること二年に渉つたのである。
松浦親を養嗣とす
此時保は、高來の有馬仙巌の男五郎左高を養嗣子となし、松浦境と名乗らしめしに、五郎は去って以来何等の聲援さへ興へざしを慣れる折から、永禄十三年(1570年)三月二日松浦隆信、又飯盛城を攻撃すべく中里を焼き拂ひ、東光寺に陣處を構へた。時しも武雄の後藤貴明、仲介和議を勤むるに會ひ、保は隆信の三男九郎親を飯盛城の世嗣となし、己れは宗全と號して隠居したのである。
元龜二年(1571年)有馬五郎左高は、飄然として飯盛城に帰り来りしかば、親は大いに當惑せしも、有馬、平戸の兩全を計り五郎を兼領地なる有田の領主として、唐船城に居らしめた。
然るに彼は大いに之を不滿とし、同年十月飯盛城を攻撃せしを、平戸の援兵來つて、五郎の軍勢は撃退されたのである。
速來四ケ村の分與
斯くて隆信は、相神浦を略することゝ成り、彌々南進の途を開くに至りしが是より先永禄七年(1564年)次子惟明を、杵島住吉城主後藤貴明の婿養子に遣はせしより、元龜二年(1571年)貴明は、自領なる速來の四ヶ村を、婿引出物として隆信へ分興したのである。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
平戸松浦氏は、唐津の波多氏・有田の有田氏・伊萬里の伊萬里氏と同じく松浦氏の一支流である。源太夫判官久の孫の披は、はじめ上松浦川西の峰邑に住み「峰五郎」と称したが、治承元年(1177)に東松浦郡嚴木村の巌谷へ移って獅子ヶ城を築き居住した。のちに父・直から地下松浦の御厨荘の田地の一部を分与されて田平の城主となり、獅子ヶ城は兄・大川野遊の縁から鶴田氏の居城になった。やがて後代には、御厨・鷹島・平戸・實龜・紐差大島・伊萬里・福島・楠泊・屋武田・江迎・小値賀および黒島、さらに五島の数ヵ所と東島を分領し、御厨荘の地頭となった。披の子・源藤次持、その子・源三郎繫はいずれも姓を「平戸」としたが、五郎湛の代にいったん「峰」に戻し、その子・源五郎苔から以後は代々「松浦」を姓とした。当時四十余家といわれた松浦党の中で、繁栄して現在まで続いているのはこの平戸松浦氏だけである(系図参照)。
六代・肥前守定は武勇が近国に鳴り、「鬼八郎」と称された。彼は南朝に属して勤王に尽くしたが、あとを継いだ勝の代になると足利尊氏に従属した。十二代・義は足利義政の厚い庇護を受け、義政自らの腰巻や飾りの半切、毛氈の鞍覆まで賜った。義政の死後、義は剃髪して「天叟」と号し、法衣で平戸の是興寺に住んだが、のちに紐差木勝に普門禅寺を建立して義政の像を安置し、そこに移った。義はかつて義政に願って赤烏帽子を着けたことがあり、義政が自らその姿を描いて与え、後年には南禅寺の景南がその絵に讃を書したという。
十三代・豊久の次子の弘定が十四代を継ぐと、たびたび南進を企て、延徳二年(1490)に兄の峯源四郎昌(のち純意)の田平の城を攻めて追い払った。高來の有馬貴純は弘定の振る舞いを不当として、翌三年五月に大村純忠・波多盛、西鄉壹岐守純堯、松浦丹後守政志佐六郎純勝、大島筑前守胤政らを糾合して連合軍を組み、同年十二月二十七日に昌のために田平城を攻撃した。弘定は大敗し、安岳東の箕坪城へ走って百余日籠城したが、昌方の追迫が厳しくなると、ただ身一つで長門の大内義興を頼った。明応元年(1492)、義興が弘定救援を名目に大挙して貴純に圧力をかけると、貴純は和を請い、弘定はようやく帰還できた。そして昌の子・興信を宗家十五代として継がせることになった。興信も南進の志を継ぎ、先に連合軍に加わった功を名として、明応七年十二月二十日(1499)に相神浦で松浦政の大智庵城を奇襲して落とし、政は戦死した(この哀史は有田編に詳しい)。
天文十一年九月五日(1542)、興信の子・隆信は、政の子・保が居する飯盛城(大智庵城は落城の際に焼失したため新たに築いた城)を攻め、互いに一勝一敗で決着がつかなかった。翌十二年春には高來の有馬尚純が實永寺・潮音寺の二僧を遣わして仲裁にあたり、和議が成立し、保は鷹島の一部を割いて隆信に譲った。
天文十七年(1548)、船長トアルテ・ダ・ガマの率いる葡萄牙商船が初めて平戸津に入港し、隆信はその来泊を許して馮港との通商を開いた。続いて、エスイタ派(羅馬正政)の伴天連フランシスコ・サビエル(西班牙人)が来て布教し、またエキレンシャという者がスナイドル(鐵砲)やハラカン(入子石火矢)などを輸入して平戸の武力を強化した(万力もこの時に初めて輸入された。なお、わが国へ最初に鐵砲をもたらしたのはこれより十二年前、八月二十五日に薩摩の種ヶ島へ来た支那の海賊船に同乗していた葡人三人で、島主・種ヶ島時に伝えたとされる)。
これに先立つ天文十年(1541)、明人の五峰王直は多数の大船を所有し、呂来・安南・遥羅・馬刺加などを往来し、あるいは支那沿岸に出没して交易や海賊行為を五、六年続け、巨財をなして部下千余人を率い五島の福江に拠っていたが、平戸に来て宮の町(のちの印山寺屋敷)に本拠を据え、自ら微主を称した。さらに二十二年には中國や松浦沿岸の猛者一万余人を募って艦隊を組織し、江蘇・浙江沿岸を侵掠するなど、まさに東方の海上を掌握するかの勢いであった。前述の葡萄牙船の平戸入港も、全く王直の誘導によるものだと言われ(一説には豊後國八ッ星浦からの帰航途上ともいう)、王直は平戸に盤踞して十五年の後、弘治二年(1556)に明人・胡宗憲らに誘殺された。その後、慶長・元和ごろの海賊頭領・梁は王直の部下であった楊天生で、次いで同僚のアンドリヤ・デチー、すなわち顔思斎が継ぎ、さらに思斎の部下で「老一官」と呼ばれた鄭芝龍が後継した。鄭芝龍は平戸に帰化して邦人に娶り、生まれた田川福松こそ有名な鄭成功(國性爺、俗に和唐内)である。成功は臺潟を根拠にゼーランヂヤ城(安平の蘭人築造の赤篏城)を落としてパダビヤ政府を震撼させ、寛文年間にはその子・鄭經がついに臺潟を統轄した。
戦国時代、鐵砲や石火矢のような武器の輸入には、諸領主が競って入手に腐心したのは当然である。これらの利器と使用法を伝えたのは前記の南蛮人エキレンシャで、彼は耶蘇切支丹への入信と引き換えに教授した。平戸藩では籠手田左衛門と一部勘解由の二人がこの宗門に入り、用法を習得したが、のちにいずれも棄教した。しかし一度この宗門に入った彼らの采邑である度島と生月島の住民は、熱心に十字架に帰依し、その堅固で揺るがぬ信仰は慶長十九年以後の迫害にも屈せず、多数の殉教者を出した。以後、平戸地方をはじめ肥前西南部に信者が増え、大村理専(純忠)は永禄五年(1562)に洗礼し、有馬壽仙(義直)は天正四年(1576)に洗礼を受けた。後年、平戸入津を禁じられたエキレンシヤは、豊後の大友宗麟(義鎮)にも前記と同様の手段で武器と技術を伝えた。
永禄六年八月(1563)ごろ、松浦隆信はどうしても南進の宿願を果たそうとして、まず相神浦を制するべく、大野豊前守定屋・同次郎右工門定晨ら二百五十騎を先鋒とし、自ら佐々の鳥屋城に布陣、定晨を東光寺に残して兵を飯盛城へ進めた。城中からは東甚助齋忠・東五郎秀勝・東四郎秀次・北野源藏直勝らがよく防戦し、保も鷹島回復を期して海陸から兵を進めて大いに戦ったが、この時すでに敵には鐵砲があり、容易に突破できなかった。さらに永禄八年五月五日、隆信は再度飯盛城を攻めたが、城兵は迎撃してよく守り、平戸方は大崎筑前守照屋・舎弟民部澄月・佐々刑部稠・南藏人・中山治郎・志方市之允らに及ぶ三百余人の死傷を出し、その後も二年にわたり決着がつかなかった。
この時、保は高來の有馬仙巌の子・五郎左高を養嗣子として迎え「松浦境」と名乗らせたが、五郎は去って以来なんらの支援も寄こさなかった。そこで永禄十三年(1570)三月二日、松浦隆信は再び飯盛城を攻めるべく中里を焼き払い、東光寺に陣を構えた。ちょうど武雄の後藤貴明が仲介して和議が進み、保は隆信の三男・九郎親を飯盛城の世嗣とし、自らは「宗全」と号して隠居した。元亀二年(1571)、有馬五郎左高が突如飯盛城に帰ってきたため親は大いに当惑したが、有馬・平戸双方に配慮して五郎を兼領地の有田の領主とし、唐船城に居住させた。ところが五郎は大いに不満を抱き、同年十月に飯盛城を攻撃したものの、平戸の援兵が来て撃退された。
こうして隆信は相神浦を掌握して南進の道を開いた。これに先立つ永禄七年(1564)には次子・惟明を杵島住吉城主・後藤貴明の婿養子として送り、元亀二年(1571)になると貴明は自領の速來四ヵ村を、婿への引き出物として隆信に分与したのである。
【英語訳】[English translation]
The Matsuura of Hirado were a branch of the broader Matsuura lineage, alongside the Hata of Karatsu, the Arita of Arita, and the Imari of Imari. Hi (披), grandson of Gentayū Hangan Hisa, first lived in Mine-mura on the west bank of the upper Matsuura River and was called Minegorō. In Jishō 1 (1177) he moved to Iwaya (Kuwaki-mura in Higashi-Matsuura District), built Shishiga Castle, and settled there. Later, receiving part of the rice fields of Mikuriya-shō as an allotment from his father Nao, he became lord of Tabira Castle; Shishiga Castle then became the residence of the Tsuruta clan through the connection of his elder brother Ōkawano-yū. In later generations they divided and held Mikuriya, Takashima, Hirado, Jitsukame, Hinosashi Ōshima, Imari, Fukushima, Kusutōmaru, Yabuta, Emukae, Ojika and Kuroshima, parts of the Gotō Islands, and Tōjima, serving as jitō (local stewards) of Mikuriya-shō. Hi’s son Gen Tōji Mochi and his grandson Gen Saburō Tsunagu both used “Hirado” as their surname; under Gorō Tan it reverted to “Mine,” and from his son Gen Gorō Koke onward they used “Matsuura.” Of the more than forty houses known as the Matsuura party at that time, only the Hirado Matsuura prospered and remain today (see the genealogy).
The sixth head, Hizen-no-kami Sadā, famed for valor and nicknamed “Oni Hachirō,” at first sided with the Southern Court, but under his successor Katsu they submitted to Ashikaga Takauji. The twelfth head, Yoshi, received great favor from Ashikaga Yoshimasa—so much so that he was given Yoshimasa’s own garments and a felt saddle cover. After Yoshimasa’s death, Yoshi shaved his head, took the name Tensō, wore priestly robes, and lived at Zeikō-ji in Hirado; later he built Fumon Zenji at Hinosashi Kigachi, enshrined a statue of Yoshimasa, and moved there. Yoshi once asked Yoshimasa to don a red eboshi; Yoshimasa himself painted it and bestowed it, and later Keinan of Nanzen-ji wrote an inscription on that picture.
Hirosada, second son of the thirteenth head Toyohisa, succeeded as the fourteenth and repeatedly sought to advance south. In Entoku 2 (1490) he attacked his elder brother Mine Genshirō Masa (later Jun’i) at Tabira and drove him out. Arima Takazumi of Takaku deemed Hirosada’s measures unjust and, in the fifth month of the following year, rallied Ōmura Sumitada, Hata Mori, Saigō Iki-no-kami Sumitaka, Matsuura Tango-no-kami Masashi Sanokuro Sumikatsu, Ōshima Chikuzen-no-kami Tanemasa, and others to form a coalition. On the 27th day of the twelfth month that year they attacked Tabira Castle for Masa’s sake. Defeated, Hirosada fled to Minotsubo Castle east of An-gaku and held out for over a hundred days, but as the siege tightened he escaped and sought the aid of Ōuchi Yoshioki in Nagato. In Meiō 1 (1492), when Yoshioki marched under the pretext of rescuing Hirosada, Takazumi sued for peace, allowing Hirosada to return; Masa’s son Okishin was then installed as the fifteenth head of the main line. Okishin continued the southward policy and, capitalizing on the renown of his part in the coalition, made a surprise attack on Matsuura Masa’s Daichian Castle at Aigami-no-ura on December 20, Meiō 7 (1499), capturing it; Masa was killed in battle (see the Arita section for this tragedy).
On September 5, Tenmon 11 (1542), Okishin’s son Ryūshin attacked Iimori Castle—held by Masa’s son Hō (Daichian had burned when it fell, so a new stronghold had been built)—with exchanges ending one win apiece. In the spring of the following year Arima Naosumi of Takaku sent two monks from Jitsuei-ji and Chōon-ji to mediate; peace was concluded, and Hō ceded part of Takashima to Ryūshin.
In Tenmon 17 (1548) a Portuguese merchant ship (captain Toarute da Gama) first entered Hirado Port. Ryūshin permitted its call and opened trade with Feng-kō. Soon the Jesuit (Esuita) padre Francisco de Xavier (a Spaniard) arrived and preached, while a man called Ekirensha imported Sunidoru (arquebuses) and Harakan (nested stone-fire rockets), strengthening Hirado’s military. (Vices were also first imported then; the earliest arquebuses had in fact been brought twelve years earlier, on August 25, by three Portuguese aboard a Chinese pirate ship that reached Tanegashima in Satsuma, where they presented one to the island lord Tanegashima Toki.)
Earlier, in Tenmon 10 (1541), the Ming Chinese adventurer Gohō Ō Choku (Wang Zhi) owned several large ships, voyaging to Rorai, Annam, Yōra, and Masaka, and for five or six years traded or pirated along China’s coasts. Amassing great wealth, he led over a thousand men and, after staying at Fukue in the Gotō Islands, came to Hirado, establishing a base at Miya-no-machi (later the Inzan-ji compound) and styling himself a petty lord. By year 22 he had raised over ten thousand toughs from China and the Matsuura coasts, formed a fleet, and raided the Jiangsu and Zhejiang littorals—virtually mastering the eastern seas. The Portuguese ship’s entry to Hirado was said to be entirely by his guidance (another view has it returning from Hachiboshi-ura in Bungo). After about fifteen years entrenched in Hirado, he was lured and killed by Hu Zongxian and others in Hongzhi 2 (1556). Later, in the Keichō and Genna eras, the pirate leader Ryō was Yang Tiansheng, once Wang Zhi’s subordinate; next came his colleague Andoriya Dechī (Yan Sizai). Their successor was Zheng Zhilong, known as “Lao-yikan,” who naturalized in Hirado and married a local woman; their son Tagawa Fukumatsu was the famed Zheng Chenggong (Kokusenya, popularly Watarai). Establishing a base in Taiwan, he captured Fort Zeelandia (the Dutch “Red Haikaku” at Anping), shocking the Batavia government; in the Kanbun years his son Zheng Jing eventually unified Taiwan.
In the Sengoku period, lords naturally vied to obtain imported weapons such as arquebuses and stone-fire rockets. The aforementioned southern barbarian Ekirensha transmitted these arms and their use in exchange for conversion to the Jesuit faith. In the Hirado domain, Kotedā Saemon and Ichibu Kageyu entered the religion and learned the techniques, but later abandoned the faith. Yet the people of their fiefs—Tabi-shima and Ikitsuki-jima—remained fervently devoted to the cross; their firm belief did not yield even under persecutions after Keichō 19, and many suffered martyrdom. Thereafter, believers spread from the Hirado area through southwestern Hizen. Ōmura Risen (Sumitada) was baptized in Eiroku 5 (1562), and Arima Jusen (Yoshinao) in Tenshō 4 (1576). In later years, barred from entering Hirado, Ekirensha conveyed the same methods to Ōtomo Sōrin (Yoshishige) of Bungo.
Around the eighth month of Eiroku 6 (1563), Matsuura Ryūshin, intent on realizing his southward aim, first sought to seize Aigami-no-ura: with Ōno Buzen-no-kami Sadaya and his younger brother Jirō Uemon Sadatoki leading 250 horse as the vanguard, he himself encamped at Toriyajō in Sasa, left Sadatoki at Tōkō-ji, and advanced on Iimori Castle. From within, Azuma Jinsuke Saitada, Azuma Gorō Hidekatsu, Azuma Shirō Hidetsugu, Kitano Genzō Naokatsu and others fought stoutly. Hō, determined to recover Takashima and settle matters in a single decisive battle, launched major actions by sea and land; however, the enemy’s arquebuses made a breach difficult. On May 5 of Eiroku 8 (1565), Ryūshin mounted a third assault on Iimori, but the defenders repulsed him; the Hirado side suffered over three hundred casualties, including Ōsaki Chikuzen-no-kami Teruya, his younger brother Minbu Chōgetsu, Sasa Gyōbu Chō, Minami Kurōdo, Nakayama Jirō, and Shikata Ichinoyō, and the stalemate continued for two years.
At this time Hō adopted as heir Gorōza Taka, son of Arima Sengan of Takaku, and had him take the name Matsuura Saka. Yet after leaving, Gorō offered no support. On March 2, Eiroku 13 (1570), Matsuura Ryūshin again moved to attack Iimori, burning Nakazato and entrenching at Tōkō-ji. As Gotō Takaaki of Takeo mediated a peace, Hō made Ryūshin’s third son Kurō Chika (Oya) the successor to Iimori Castle and himself retired under the name Sōzen. In Genki 2 (1571) Arima Gorōza Taka suddenly returned to Iimori; Oya was greatly perplexed but, to balance Arima and Hirado, installed Gorō as lord of Arita, a jointly held land, to reside at Karafunejō. Dissatisfied, Gorō attacked Iimori in the tenth month, but with Hirado reinforcements he was driven off.
Thus Ryūshin came to control Aigami-no-ura and opened the way south. Earlier, in Eiroku 7 (1564), he had sent his second son Koreaki as adopted son-in-law to Gotō Takaaki, lord of Sumiyoshi Castle in Kishima; in Genki 2 (1571) Takaaki granted four villages of Sokurai from his own domain to Ryūshin as a bridegift.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
平戸松浦氏与唐津的波多氏、有田的有田氏、伊萬里的伊萬里氏同属松浦氏的分支。源太夫判官久的孙子披,最初居于上松浦川西的峰邑,号“峰五郎”。治承元年(1177)迁往东松浦郡嚴木村的巌谷,筑居獅子ヶ城。其后自父直处分得地下松浦御厨庄部分田地,成为田平城主,而獅子ヶ城则因兄大川野遊之缘改为鶴田氏居城。后世分领御厨、鷹島、平戸、實龜、紐差大島、伊萬里、福島、楠泊、屋武田、江迎、小値賀与黒島,以及五島的若干地与東島,并任御厨庄地頭。披之子源藤次持、其子源三郎繫皆以“平戸”为姓,及至五郎湛改回“峰”,而自其子源五郎苔起,后世皆姓“松浦”。当时号称四十余家的松浦党之中,唯有平戸松浦氏繁衍至今(系图略)。
第六代肥前守定武勇著称,号“鬼八郎”。初属南朝为国尽忠,然及其嗣子勝之世则归属足利尊氏。第十二代義深受足利義政厚遇,曾赐以义政亲用之衣物与毛氈鞍覆。义政卒后,義剃发号“天叟”,着法衣居于平戸是興寺,后在紐差木勝建普門禪寺,安置義政像而迁居其处。義曾求義政赐戴赤烏帽子,义政亲为绘成后赐之,后年南禅寺景南又为其题赞。
第十三代豊久之次子弘定嗣为第十四代,屡图南进。延徳二年(1490)攻兄峯源四郎昌(后为純意)之田平城而逐之。高來有馬貴純以其举措不当,翌年五月,联结大村純忠、波多盛、西鄉壹岐守純堯、松浦丹後守政志佐六郎純勝、大島筑前守胤政等结成联军,于十二月二十七日为昌攻田平城。弘定大败,奔安岳东之箕坪城,固守百余日,军迫急,乃单身投长门大内義興。明応元年(1492),義興以救弘定为名出兵,貴純请和,弘定得以归,而以昌子興信继宗家第十五代。興信继承南进之志,借先前参联军之名声,于明応七年十二月二十日(1499)奇袭相神浦之松浦政大智庵城而克之,政战死(详见有田篇)。
天文十一年九月五日(1542),興信之子隆信攻政子保所居之飯盛城(大智庵城先前陷落时焚毁,故另筑新城),双方各胜一场未决。翌年春,高來有馬尚純遣實永寺、潮音寺两僧调停言和,保割让鷹島部分予隆信。天文十七年(1548),葡萄牙商船(船长トアルテ・ダ・ガマ)首入平戸津,隆信许其停泊,开与馮港之通商。继而,エスイタ派(羅馬正政)伴天連フランシスコ・サビエル(西班牙人)来此布教;又有名为エキレンシャ者输入スナイドル(铁炮)与ハラカン(入子石火矢)等,增强平户武力(万力亦始于此时输入。且我国最初得铁炮在此前十二年八月二十五日,支那海贼船至薩摩種ヶ島,船中三葡人传炮予岛主種ヶ島時)。
更早之天文十年(1541),明人五峰王直拥有多艘大船,往来呂来、安南、遥羅、馬刺加,或出没中国沿海从事贸易与海盗达五六年,富资巨万,率部下千余人,先在五島福江,后至平戸据宫之町(后之印山寺宅地)为根据,自称微主。二十二年又募中國与松浦沿岸猛士一万余人组舰队,侵掠江蘇、浙江沿岸,几若掌握东海。葡萄牙船入平戸亦称出于王直诱导(或云自豊後国八ッ星浦回航途中)。王直据平戸十五年后,弘治二年(1556)为明人胡宗憲等诱杀。其后慶長、元和间海盗头梁为王直旧部楊天生,继之为同僚アンドリヤ・デチー即顔思斎,而后继者为其部下号“老一官”之鄭芝龍。鄭芝龍归化平戸,娶邦人,所生田川福松即名将鄭成功(國性爺,俗称和唐内)。成功以臺潟为本据,陷ゼーランヂヤ城(安平之蘭人所筑赤篏城),震动巴达维亚政府;至寛文年间其子鄭經遂统辖臺潟。
战国时期,各领主竞求鐵砲与石火矢等武器进口乃理所当然。传授其器与用法者即前述南蛮人エキレンシャ,彼以入耶蘇切支丹为交换而教授。平户藩之籠手田左衛門与一部勘解由二人入其宗而得技,后皆弃教。然其采邑度島、生月島之民却笃信十字架,其坚固信仰于慶長十九年以后之迫害亦不屈,甘出最多殉教者。此后信徒自平户地方扩至肥前西南部;大村理専(純忠)于永禄五年(1562)受洗,有馬壽仙(義直)于天正四年(1576)受洗。其后被禁入平户之エキレンシヤ,又以同法传于豊後大友宗麟(義鎮)。
永禄六年八月(约1563),松浦隆信为贯徹南进宿志,先谋取相神浦,以大野豊前守定屋、同次郎右工門定晨率二百五十骑为先锋,自据佐々鳥屋城,留定晨于東光寺,进兵飯盛城。城内東甚助齋忠、東五郎秀勝、東四郎秀次、北野源藏直勝等奋力防守;保为收复鷹島,海陆并进决战,然敌已有鐵砲,不易突破。永禄八年五月五日,隆信三攻飯盛城,城兵迎击坚守,平户方战死负伤三百余人(大崎筑前守照屋、其弟民部澄月、佐々刑部稠、南藏人、中山治郎、志方市之允等),其后僵持达二年。
时保以高來有馬仙巌之子五郎左高为养嗣,号“松浦境”,然五郎去后毫无声援。永禄十三年(1570)三月二日,松浦隆信再攻飯盛城,焚中里,筑营于東光寺。适武雄後藤貴明调停和议,保立隆信三子九郎親为飯盛城世嗣,自号“宗全”而隐居。元龟二年(1571),有馬五郎左高忽归飯盛城,親甚为为难,乃兼顾有馬与平戸,置五郎为兼领地有田之领主,居唐船城;五郎大不满,于十月攻飯盛城,然平户援兵至而击退。于是隆信遂略相神浦,南进之路大开。此前永禄七年(1564),以次子惟明为杵島住吉城主後藤貴明之婿养;至元龟二年(1571),貴明以自领速來四村为婿之赠礼分予隆信。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
平戶松浦氏與唐津的波多氏、有田的有田氏、伊萬里的伊萬里氏同屬松浦氏的分支。源太夫判官久之孫披,初居上松浦川西之峰邑,稱「峰五郎」。治承元年(1177)遷至東松浦郡嚴木村之巖谷,築居獅子ヶ城。其後自父直分得地下松浦御廚莊部分田地,為田平城主,而獅子ヶ城因兄大川野遊之緣改為鶴田氏居城。後世分領御廚、鷹島、平戶、實龜、紐差大島、伊萬里、福島、楠泊、屋武田、江迎、小値賀及黑島,並五島數處與東島,而為御廚莊地頭。披之子源藤次持及其子源三郎繫皆以「平戶」為姓,至五郎湛復為「峰」,自其子源五郎苔起,後代皆姓「松浦」。當時稱有四十餘家的松浦黨中,唯平戶松浦氏繁衍至今(系圖略)。
第六代肥前守定以武勇著稱,號「鬼八郎」。初屬南朝盡忠報國,及嗣子勝之世則從屬足利尊氏。第十二代義深受足利義政厚恩,曾賜義政親用衣物與毛氈鞍覆。義政卒後,義剃髮號「天叟」,著法衣居平戶是興寺,後於紐差木勝建普門禪寺,安置義政像而遷居。義曾請義政賜戴赤烏帽子,義政親繪其像而贈,後年南禪寺景南又為之題讚。
第十三代豐久之次子弘定嗣為第十四代,屢圖南進。延德二年(1490)攻兄峯源四郎昌(後純意)之田平城而逐之。高來有馬貴純以其所為不當,翌年五月,聯結大村純忠、波多盛、西鄉壹岐守純堯、松浦丹後守政志佐六郎純勝、大島筑前守胤政等成聯軍,於十二月二十七日為昌攻田平城。弘定大敗,奔安岳東之箕坪城,固守百餘日,軍逼急,乃單身投長門大內義興。明應元年(1492),義興以救弘定為名興兵,貴純請和,弘定得歸,而以昌子興信繼宗家第十五代。興信承南進之志,籍先參聯軍之名望,於明應七年十二月二十日(1499)奇襲相神浦之松浦政大智庵城而克之,政戰死(詳見有田篇)。
天文十一年九月五日(1542),興信子隆信攻政子保所據之飯盛城(大智庵城陷落時焚毀,故另築新城),兩軍一勝一敗未決。翌年春,高來有馬尚純遣實永寺、潮音寺二僧調停締和,保割讓鷹島部分予隆信。天文十七年(1548),葡萄牙商船(船長トアルテ・ダ・ガマ)首入平戶津,隆信許其泊次,開與馮港之通商。繼而,エスイタ派(羅馬正政)伴天連フランシスコ・サビエル(西班牙人)來布教;又有名為エキレンシャ者輸入スナイドル(鐵砲)及ハラカン(入子石火矢)等,強化平戶武力(萬力亦始於此時輸入。且我國最初得鐵砲在此前十二年八月二十五日,支那海賊船至薩摩種ヶ島,船中三葡人傳炮於島主種ヶ島時)。
更早之天文十年(1541),明人五峰王直擁多艘大船,往來呂來、安南、遙羅、馬刺加,或出沒中國沿海從事貿易與海盜凡五六年,富資巨萬,率部下千餘人,先在五島福江,後至平戶據宮之町(後之印山寺屋敷)為根據,自稱微主。二十二年又募中國與松浦沿岸猛士一萬餘人組艦隊,侵掠江蘇、浙江沿岸,幾若掌握東方海上。葡萄牙船入平戶亦稱出於王直誘導(或云自豐後國八ッ星浦回航途中)。王直據平戶十五年後,弘治二年(1556)為明人胡宗憲等誘殺。其後慶長、元和間海賊頭梁為王直舊部楊天生,繼之為同僚アンドリヤ・デチー即顏思齋;再後繼者為其部下號「老一官」之鄭芝龍。鄭芝龍歸化平戶,娶邦人,所生田川福松即名將鄭成功(國性爺,俗稱和唐內)。成功以臺潟為本據,陷ゼーランヂヤ城(安平之蘭人所築赤篏城),震撼巴達維亞政府;至寬文年間其子鄭經遂統轄臺潟。
戰國時期,諸領主競求鐵砲、石火矢等武器之輸入乃理所當然。傳授其器及用法者即前述南蠻人エキレンシャ,彼以入耶蘇切支丹為交換而教授。平戶藩之籠手田左衛門與一部勘解由二人入其宗而習技,後皆棄教。然其采邑度島、生月島之民卻篤信十字架,其堅固信仰於慶長十九年以後之迫害亦不屈,甘出最多殉教者。此後信徒自平戶地方擴及肥前西南部;大村理專(純忠)於永祿五年(1562)受洗,有馬壽仙(義直)於天正四年(1576)受洗。後年被禁入平戶之エキレンシヤ,亦以同法傳於豐後大友宗麟(義鎮)。
永祿六年八月(約1563),松浦隆信為貫徹南進宿志,先圖取相神浦,以大野豐前守定屋、同次郎右工門定晨率二百五十騎為先鋒,自據佐々鳥屋城,留定晨於東光寺,進兵飯盛城。城內東甚助齋忠、東五郎秀勝、東四郎秀次、北野源藏直勝等奮力防守;保欲恢復鷹島,海陸並進決戰,然敵已有鐵砲,難以突破。永祿八年五月五日,隆信三攻飯盛城,城兵迎擊固守,平戶方死傷三百餘人(大崎筑前守照屋、其弟民部澄月、佐々刑部稠、南藏人、中山治郎、志方市之允等),其後相持兩年。時保以高來有馬仙巖之子五郎左高為養嗣,號「松浦境」,然五郎去後毫無聲援。永祿十三年(1570)三月二日,松浦隆信復攻飯盛城,焚中里,築陣於東光寺。會武雄後藤貴明調停和議,保以隆信三子九郎親為飯盛城世嗣,自號「宗全」而隱居。元龜二年(1571),有馬五郎左高忽歸飯盛城,親大惑,乃兼顧有馬與平戶,置五郎為兼領地有田之領主,居唐船城;五郎大不滿,十月攻飯盛城,然為平戶援兵所卻。於是隆信遂略相神浦,南進之路大開。此前永祿七年(1564),以次子惟明為杵島住吉城主後藤貴明之婿養;至元龜二年(1571),貴明以自領速來四村為婿之贈物分予隆信。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
平户松浦氏是松浦氏的一支,与唐津的波多氏、有田的有田氏、伊万里的伊万里氏同出一脉。Gentayū Hangan Hisa 的孙子披最初住在上松浦川西的峰邑,称“峰五郎”,治承元年(1177)迁至嚴木村巌谷,修筑獅子ヶ城。后来从其父直处分得御厨庄部分田地,任田平城主;而獅子ヶ城因兄大川野遊之关系改为鶴田氏居城。此后又分领御厨、鷹島、平户、實龜、紐差大島、伊萬里、福島、楠泊、屋武田、江迎、小値賀与黒島以及五島部分地区和東島,并为御厨庄地头。其后裔一度以“平户”为姓,复“峰”,再自源五郎苔起恒姓“松浦”。四十余家松浦党中,仅平户松浦氏繁衍至今(见系谱)。
第六代肥前守定以武勇闻名,号“鬼八郎”,先从南朝,后在嗣子勝时归附足利尊氏。第十二代義深受足利義政厚恩,获赐其亲用衣物与毛氈鞍覆。義政卒后,義剃发为僧号“天叟”,居平户是興寺,后于紐差木勝建普門禪寺并安置義政像。義曾请义政赐其赤烏帽子,义政亲绘并相赠,后南禅寺景南为其题赞。
弘定(第十三代豊久之次子)为第十四代后,频图南进。延徳二年(1490)攻兄峯源四郎昌(后純意)之田平城并逐之。高來有馬貴純认为其不当,翌年五月联结大村純忠、波多盛、西鄉壹岐守純堯、松浦丹後守政志佐六郎純勝、大島筑前守胤政等成联军,于十二月二十七日为昌攻田平城。弘定大败,走安岳东之箕坪城固守百余日,继而单身投长门大内義興。明応元年(1492),義興以救弘定为名兴兵,貴純请和,弘定得返,并立昌子興信为宗家第十五代。興信延续南进,明応七年十二月二十日(1499)奇袭相神浦松浦政之大智庵城并克之,政战死(详见有田篇)。
天文十一年九月五日(1542),興信子隆信攻居于飯盛城的政子保(大智庵城已焚,新筑此城),双方互有胜负未决。翌春,高來有馬尚純遣實永寺与潮音寺两僧调停而成和,保割鷹島部分予隆信。天文十七年(1548),葡萄牙商船(船长トアルテ・ダ・ガマ)首次入平户港,隆信许泊并开与馮港贸易。随后,耶稣会伴天连フランシスコ・サビエル(西班牙人)来布教;名为エキレンシャ者输入スナイドル(火绳枪)与ハラカン(套层火箭)等,增强平户军力(万力一并输入。最早火绳枪于十二年前八月二十五日经薩摩種ヶ島由三名葡人献予島主種ヶ島時)。
更早的天文十年(1541),明人五峰王直拥有多艘大船,往来呂来、安南、遥羅、馬刺加,并在中国沿海贸易或劫掠五六年,聚财甚厚,麾下千余人。先据五島福江,后至平户宫之町(后之印山寺宅地)设据点,自称小主。二十二年又募中國与松浦沿岸猛士一万余人组舰队,侵掠江蘇、浙江沿岸,几近主宰东海。葡船入平户据称由其引导(亦有自豊後八ッ星浦回航之说)。王直据平户约十五年后,弘治二年(1556)为胡宗憲等诱杀。其后慶長、元和间海盗领袖梁为其旧部楊天生,继者为同僚アンドリヤ・デチー(顔思斎),再后为其部下“老一官”鄭芝龍。鄭芝龍归化平户娶本地人,其子田川福松即鄭成功(國性爺,俗称和唐内)。鄭成功据台湾,攻陷ゼーランヂヤ城(安平之荷兰赤篏城),震动巴达维亚政府;寛文年间其子鄭経遂统一台湾。
战国时诸侯争购铁炮与石火矢属理所当然。南蛮人エキレンシャ以改宗为交换传授其术。平户藩之籠手田左衛門与一部勘解由入教学得后皆弃教,然其采邑度島、生月島之民笃信十字架,于慶長十九年后的迫害仍不屈,殉教者众。其后信徒自平户扩至肥前西南;大村理専(純忠)永禄五年(1562)受洗,有馬壽仙(義直)天正四年(1576)受洗。后被禁入平户之エキレンシヤ亦以同法传之于豊後大友宗麟(義鎮)。
永禄六年八月(1563左右),松浦隆信为落实南进,先图相神浦,命大野豊前守定屋及其弟次郎右工門定晨率二百五十骑为先锋,自驻佐々鸟屋城,留定晨于東光寺,进兵飯盛城。城内東甚助齋忠、東五郎秀勝、東四郎秀次、北野源藏直勝等固守;保为夺回鷹島,自海陆并击,然敌有火绳枪,难以攻破。永禄八年五月五日,隆信再攻飯盛城,守军奋战,平户方死伤三百余,遂相持二年。时保以有馬仙巌之子五郎左高为养嗣号“松浦境”,然其后毫无助力。永禄十三年(1570)三月二日,隆信再攻,焚中里,筑营東光寺。適逢後藤貴明调停,保立隆信三子九郎親为飯盛城继嗣,自号“宗全”隐居。元龟二年(1571),有馬五郎左高忽返飯盛城,親为难,乃兼顾两方,置五郎为有田领主居唐船城;五郎不满,十月攻城而为平户援军击退。于是隆信掌相神浦,南进成势;此前永禄七年(1564)已以次子惟明为後藤貴明婿养,元龟二年(1571)後藤以自领速來四村为“引出物”分予隆信。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
平戶松浦氏為松浦氏支系之一,與唐津波多氏、有田有田氏、伊萬里伊萬里氏同源。Gentayū Hangan Hisa 之孫披初居上松浦川西峰邑,稱「峰五郎」,治承元年(1177)遷嚴木村巖谷,築獅子ヶ城。後自父直分得御廚莊部分田地,任田平城主;獅子ヶ城則因兄大川野遊關係改為鶴田氏居城。此後分領御廚、鷹島、平戶、實龜、紐差大島、伊萬里、福島、楠泊、屋武田、江迎、小値賀與黑島,及五島部分與東島,並為御廚莊地頭。其後裔曾用「平戶」為姓,復為「峰」,自源五郎苔起恒用「松浦」。四十餘家松浦黨中,唯平戶松浦氏繁衍至今(系譜略)。
第六代肥前守定以武勇知名,號「鬼八郎」,先從南朝,嗣子勝時歸附足利尊氏。第十二代義受足利義政厚遇,賜其親用衣物與毛氈鞍覆。義政卒後,義剃髮為僧號「天叟」,居平戶是興寺,後於紐差木勝建普門禪寺並安置義政像。義曾請義政賜赤烏帽子,義政親繪而贈,後南禪寺景南為之題讚。
弘定(第十三代豐久之次子)為第十四代後,屢圖南進。延德二年(1490)攻兄峯源四郎昌(後純意)之田平城而逐之。高來有馬貴純以其不當,翌年五月聯合大村純忠、波多盛、西鄉壹岐守純堯、松浦丹後守政志佐六郎純勝、大島筑前守胤政等成聯軍,於十二月二十七日為昌攻田平城。弘定大敗,奔安岳東箕坪城,固守百餘日,繼而單身投長門大內義興。明應元年(1492),義興以救弘定為名出兵,貴純請和,弘定得返,並立昌子興信為宗家第十五代。興信承續南進,於明應七年十二月二十日(1499)奇襲相神浦松浦政之大智庵城而克之,政戰死(詳見有田篇)。
天文十一年九月五日(1542),興信子隆信攻居飯盛城之政子保(大智庵城既焚,新築此城),兩軍互有勝負未決。翌春,高來有馬尚純遣實永寺與潮音寺二僧調停締和,保割讓鷹島部分予隆信。天文十七年(1548),葡萄牙商船(船長トアルテ・ダ・ガマ)首入平戶港,隆信許泊並開與馮港通商。繼之,耶穌會伴天連フランシスコ・サビエル(西班牙人)來布教;名為エキレンシャ者輸入スナイドル(火繩槍)與ハラカン(套層石火矢)等,增強平戶軍力(萬力亦於此時輸入。最早火繩槍於此前十二年八月二十五日經薩摩種ヶ島,由三名葡人獻於島主種ヶ島時)。
更早之天文十年(1541),明人五峰王直擁多艘大船,往來呂來、安南、遙羅、馬刺加,並於中國沿海貿易或劫掠五六年,聚財甚厚,麾下千餘。先據五島福江,後至平戶宮之町(後之印山寺屋敷)設據點,自稱微主。二十二年募中國與松浦沿岸猛士一萬餘人組艦隊,侵掠江蘇、浙江沿岸,幾主宰東海。葡船入平戶據稱由其引導(亦有自豐後八ッ星浦回航之說)。王直據平戶十五年後,弘治二年(1556)為胡宗憲等誘殺。其後慶長、元和間海盜領袖梁為其舊部楊天生,繼者同僚アンドリヤ・デチー(顏思齋),再後為其部下「老一官」鄭芝龍。鄭芝龍歸化平戶,娶本地人,其子田川福松即鄭成功(國性爺,俗稱和唐內)。鄭成功據臺灣,攻陷ゼーランヂヤ城(安平之荷蘭赤篏城),震撼巴達維亞政府;寬文年間其子鄭經遂統一臺灣。
戰國時諸侯競購火繩槍與石火矢乃理所當然。南蠻人エキレンシャ以改宗為交換傳授其術。平戶藩之籠手田左衛門與一部勘解由入教得技後皆棄教,然其采邑度島、生月島之民篤信十字架,於慶長十九年後之迫害仍不屈,殉教者眾。其後信徒自平戶擴及肥前西南;大村理專(純忠)永祿五年(1562)受洗,有馬壽仙(義直)天正四年(1576)受洗。後被禁入平戶之エキレンシヤ亦以同法傳於豐後大友宗麟(義鎮)。
永祿六年八月(約1563),松浦隆信為落實南進,先圖相神浦,命大野豐前守定屋及其弟次郎右工門定晨率二百五十騎為先鋒,自駐佐々鳥屋城,留定晨於東光寺,進兵飯盛城。城內東甚助齋忠、東五郎秀勝、東四郎秀次、北野源藏直勝等固守;保為復鷹島,海陸並擊,然敵有火繩槍,難攻。永祿八年五月五日,隆信再攻飯盛城,守軍固守,平戶方死傷三百餘人,遂相持二年。時保以有馬仙巖之子五郎左高為養嗣號「松浦境」,然後無支援。永祿十三年(1570)三月二日,隆信復攻,焚中里,築營東光寺。會後藤貴明調停,保立隆信三子九郎親為飯盛城嗣,自號「宗全」隱居。元龜二年(1571),有馬五郎左高忽返飯盛城,親為難,乃兼顧兩方,置五郎為有田領主居唐船城;五郎不滿,十月攻城而為平戶援軍卻退。於是隆信掌相神浦,南進成勢。此前永祿七年(1564)已以次子惟明為後藤貴明婿養,元龜二年(1571)後藤以自領速來四村為「引出物」分予隆信。

