柿右衛門解説(3)

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柿右衛門解説(3)

いわゆる柿右衛門焼〔注:有田磁業の中で確立した赤絵様式の一系統を指す便宜的名称〕が、有田(ありた)の多様な生産群のうち「一様式名」に過ぎない点は前章までに述べましたが、酒井田家には他家に見られない古文書が数多く伝来し、初代以来、赤絵〔注:釉上彩(ゆうじょうさい)による上絵付の総称〕を軸とする名門として連綿と存続した事実は明らかで、有田磁業史の中で重要な役割を担ってきたと考えられます。もっとも、酒井田家と「柿右衛門様式」の生産実態の関係はなお不分明であるため、ここでは同家伝来の史料に基づき、初代の赤絵創始の周辺事情を推測的に整理しておきます。

初代が赤絵を創始したという通説は、初代が若年期に「喜三右衛門」と称していた頃の文書『覚(おぼえ)』〔注:家伝の記録。内容が同家の由緒を支える中核史料であるとされる〕に拠ります(『覚』にその旨が記録されている)。同書には、〈赤絵は伊万里の東嶋徳左衛門の申すところ、長崎で「しいくわん」と呼ぶ唐人から伝授を受け、礼銀として凡そ十枚差し出した〉と始まり、〈その年、自身が木山(きやま)に滞在中に頼まれて赤絵付を立ち上げ、のち工夫を重ね、こす権兵衛(呉須権兵衛〔注:呉須=コバルト顔料の意匠に通じた職人名と解される〕)とともに制作体制を整えた〉と続きます(同書にそう記されている)。

さらに『覚』は、〈「かりあん船」〔注:当時の記録に見える外国船の呼称。詳細は未詳〕来航の年六月、長崎に赴いて幸善町の八観という唐人宅に宿し、加賀・筑前両藩の御買物師・塙市郎兵衛に初めて赤絵を売った。その後も唐人・オランダ人へ売った最初は自分であった〉と述べ、加えて〈金銀の焼付〔注:金・銀彩の釉上焼き付け技法〕も自分が付け初めで、人々が珍しがった。藩主丹州様=鍋島光茂(なべしま みつしげ)御入部の折には、納富九郎兵衛の取次で錦手〔注:染付下絵に多彩の上絵(錦)を施す技法〕の富士山鉢と猪口を献上し、そのときお目見えを賜った〉と記します(同書にそう記録されている)。この『覚』こそ、大正期以降に確立した「初代=赤絵創始者」説の根拠であり、とりわけ万治元年(1658)の藩主入府に触れる点は、同時代状況を伝える一次記録として極めて重要です。

これと響き合う史料に、三代酒井田柿右衛門の筆と推定される『申上口上(もうしあげ こうじょう)』〔注:家業・取引の由来と現況を上申する趣旨の文書〕があり、寛文十一年前後の成立とみられます(『申上口上』にそれが記録されている)。同書は、〈初代は伊万里にいた東嶋徳左衛門の周旋で長崎の唐人「しいくわん」から赤絵を学び、白銀十枚の礼を尽くして一つひとつ習い取り帰郷した〉と記したうえで、〈当初は窯場で焼き立てを確かめても出来が伴わず大損を招いたが、その後も捨て置かず工夫を重ねて遂に焼成を会得し、正保年間「かりあん船」来航の年に長崎へ持ち越して、加賀筑前の御用聞・塙市郎兵衛に売り初め、以後は唐人・オランダにも売り渡した〉と述べます(同書にそう記録されている)。

さらに『申上口上』は、〈赤絵への金銀焼付も初代が工夫して会得し、丹州様御入部中の逗留の節には、納富九郎兵衛の取次で錦手の富士山鉢・猪口を献上して目見えした〉と重ね、〈初代は南川原で御用物や諸大名の誂物を調進した。赤絵は釜焼(窯屋)・その他の者(赤絵屋)でも盛んに行われるが、殊に獅子物〔注:獅子・狛犬などの像物の総称〕は我が手本に依る〉と述べ、提出時点で有田の赤絵町〔注:赤絵生産を担った町場の集積地〕がすでに活況を呈していた実情を示しています(同書にそう記録されている)。

この『申上口上』は、皿山代官に対する由緒上申の性格を持つとみられ、『覚』の記事を踏まえて成った点で信憑性を補強します。加えて、『申上口上』が「かりあん船」の年を正保三年とするのに対し、斎藤菊太郎「初期柿右衛門と南京赤絵」(『古美術』14号)では正保四年が妥当と考証されており、年次比定の再検討余地も明示されています(同論考にそう考証されている)。

以上二史料の併証により、初代酒井田柿右衛門が有田における赤絵創始者であることは疑いがたく、かつ寛文期には赤絵町が成立して量産が進み、その過程で「柿右衛門焼」の写し、すなわち様式の共有・翻案が広範に行われた事実も把握されます。ここからは、家伝の自負と市場実態(注文生産・分業・写しの流通)が交差した、17世紀後半有田のダイナミズムが立ち上がってきます。

要約(300〜500字)
本章は、初代の赤絵創始をめぐる一次史料として『覚』と『申上口上』を読み解き、学説の根拠と生産実態を整理した。『覚』は長崎の唐人「しいくわん」からの伝授、礼銀の授受、木山での立ち上げ、呉須権兵衛との工夫、加賀・筑前の御用買物師塙市郎兵衛への初売と、唐人・オランダへの販路開拓、さらに金銀焼付や鍋島光茂への献上・目見えを記す。『申上口上』はこれを追認し、当初の失敗と会得の過程、正保年間「かりあん船」の年の長崎持越し、南川原での御用調進、赤絵町の活況、獅子物の「手本化」を具体に述べる。年次は斎藤菊太郎の考証により正保四年比定が有力とされ、初代=創始者像と、有田全体での様式拡散・量産化が併存した実相が明らかとなる。

【関連用語】
- 『覚』:初代伝来の家内記録。赤絵伝授・販路・献上など創始過程を具体に記す中核史料。
- 『申上口上』:三代の上申文書。赤絵会得、販路、赤絵町の状況、写し制作の実態を述べる。
- 赤絵:釉上に多色絵具や金銀彩を焼き付ける技法。17世紀後半に有田で量産化。
- 錦手:染付下絵に多彩上絵を重ねた豪華技法。献上器にも用いられた。
- 乳白手(濁手):乳白色の柔らかな見え味をもつ素地。柿右衛門様式の基調として重視。
- 獅子物(獅子・狛犬):像物系の作例。『申上口上』では他所が柿右衛門手本で焼いたと記す。
- かりあん船:当時の外国船の呼称。来航年は正保四年比定が有力。
- 東嶋徳左衛門:長崎での伝授・周旋に関与した人物として史料に現れる。
- 呉須権兵衛:呉須(コバルト)を扱う職人と解され、初期赤絵の工夫に関与。
- 納富九郎兵衛:藩内の取次役として、献上の段取りに関与した人物。
- 鍋島光茂:佐賀藩三代藩主。万治元年入府時の献上・目見えが記録される。
- 赤絵町:寛文期に形成された上絵付の町場集積地。大量生産の拠点。