古九谷解説(5)
古伊万里(こいまり)〔注:肥前有田の17世紀磁器総称〕と、伝世(でんせい)古九谷(こくたに)〔注:後世まで伝わった九谷系の作例群〕の作風が大きく異なるのに、両者とも有田(ありた)で焼かれた可能性があるなら、その内在的な問題点を整理する必要があります。以下では、当時の生産基盤の差と、私たちの古伊万里観の再点検という二つの観点から考えを述べます。
まず、色絵(いろえ)磁器〔注:釉上彩の上絵付〕が本格化する江戸前期・17世紀後半、有田は元和(げんな)期以降、常時数十基が稼働する一大生産地でした。これに対し、九谷は明暦(めいれき)元年(1655)以後、約60年にわたり一基ずつ前後して運営された藩窯(はんよう)〔注:大名直営の窯〕に過ぎず、この規模・態勢差を前提に議論すべきです。
しかし、古九谷への一般認識は、背後に「加賀百万石(かがひゃくまんごく)」のイメージがあるため、優品が多数焼かれたはずという期待を生みました。やがて有田からの移入品まで古九谷視され、明治以降はそのイメージが増幅して定着します。実際、加賀本藩は美術工芸の振興で知られますが、支藩・大聖寺(だいしょうじ)藩の九谷窯は産業規模で有田に及ばず、経営方針も、受託生産を巧みにこなした佐賀藩領の有田とは性格を異にしました。
以上の規模差を踏まえ、古伊万里・古九谷の色絵を考える前に、私たちが用いてきた「古伊万里」という概念自体を整理します。古伊万里は大別して染付(そめつけ)〔注:呉須=コバルトの下絵付〕と色絵に分かれ、色絵には錦手(にしきで)〔注:金彩・多色を多用〕と染錦手(そめにしきで)〔注:下絵染付に上絵を重ねる〕がありました。正保四年(1647)以前は染付が主で、青磁や吸坂手(すいさかで)〔注:鉄釉地に染付を施す様式〕なども併産されます。
正保四年に初代・酒井田柿右衛門(さかいだ かきえもん)が色絵を売り出すと、新製品として注目され、染付に加え錦手・染錦手が焼かれ、元禄(1688–1703)を過ぎると次第に染錦手が主流となったと見られます。有田の編年(へんねん)を確かにするには、伝世の染付と、色絵用の染付素地の双方を広く見て照合する必要があります。
近年、有田の古窯発掘は進みましたが、伝世する染付・錦手・染錦手との一対一対応は未だ不十分で、伝世古九谷に用いられたと推定される素地を供給した窯も一端が示されたに留まります。ゆえに現段階では、発掘成果を踏まえつつも、国内外の伝世作と史料を軸に暫定編年を試みるしかなく、有田素地の「古九谷」を検討しても、なお試論の域を出にくいのが実情です。
一方、従来の古伊万里観自体にも再考の余地があります。昭和20年代前半には、金襴手(きんらんで)調の型物染錦手鉢が「古伊万里色絵の最古」と見なされ、さらに古い色絵は、初代柿右衛門の「覚(おぼえ)」に拠って一括して柿右衛門窯作と理解されました。北原大輔(きたはら だいすけ)も『日本美術略史』で、古九谷中に「初期柿右衛門窯作品」が含まれると述べ、こうした見解は広く定着していました。
しかし17世紀後半の有田における色絵生産は、柿右衛門窯の独占ではありません。各所の素地に、赤絵町(あかえまち)〔注:有田の上絵付集積地〕で上絵が焼き立てられ、多様な作が併存しました。ゆえに本来、有田の色絵は総体として「古伊万里色絵」と捉え、その内部に「柿右衛門様式」〔注:余白美と洗練配色を特徴〕という一群がある、と見るべきでしょう。
これら古伊万里色絵の一部は、正保四年以降にオランダ東インド会社(VOC)へ売却され、万治二年(1659)以後は注文生産で大量輸出されました。他方で、鳳林承章(ほうりん しょうしょう)『隔記(かくき)』の記載が示すとおり、国内向け作品も確実に流通・伝世しています。ところが、この内需用の多くが、いつの頃からか古伊万里としてではなく、江戸後期以降しだいに「古九谷」として扱われ、昭和10年代以後は柿右衛門様式外の多くが古九谷に編入されていきました。
その後、ソーム・ジェニンス(Soame Jenyns)の指摘――「九谷と分類されてきた中に、有田焼と確信される群がある。精緻な柿右衛門成立以前の時代の伊万里であろう」――が提示され、古九谷とされた作品の一部は古伊万里として再評価されました。さらに昭和30年代以降、欧州から輸出古伊万里(柿右衛門様式を含む)の里帰りや現地調査が進み、その作風全体像はほぼ把握できるに至りました。
ところが、私たちが「典型的古九谷」と見なしてきた色絵群は、判明した輸出古伊万里の全貌の中にほとんど見当たりません。ゆえに「やはり九谷産」という先入観が強まったのですが、発掘の結果、伝世古九谷の多くに有田素地が用いられることはほぼ確実で、素地移入・加賀上絵付の仮説も成り立ちにくい。とすれば、それらは有田で絵付けされた内需用の色絵――すなわち「輸出偏重の古伊万里観」から零れていた国内市場向け古伊万里――とみなす仮説が要請されます。
とはいえ、古九谷として伝来した諸作は、近代の研究が本格化する以前に「九谷産」として名声を確立し、その枠組みのまま学術論も展開されてきました。結果として、「古九谷の大半は古伊万里」という見解は、なお一般には受容が進んでいません。いま必要なのは、古窯発掘の新知見を取り込みつつ、古九谷と古伊万里を合わせて江戸前期色絵全体を再検討し、編年を組み直す作業です。
この時点での便宜的措置として、従来「古九谷」と呼ばれてきた群を、産地断定を留保した「古九谷様式」として暫定的に認識し、九谷産・有田産の判別と編年を段階的に詰めていくのが妥当だと考えます。
要約(300〜500字)
17世紀後半、有田は数十基が稼働する大生産地、九谷は小規模な藩窯という明確な規模差があった。にもかかわらず、近代以降「加賀百万石」のイメージが増幅し、有田由来の色絵まで古九谷視されて定着した。古伊万里は染付・錦手・染錦手の広がりを持ち、赤絵町での上絵付など多様な生産体制を成したが、発掘との突合は未完で、編年はなお試論段階にある。欧州輸出品の全貌が把握される一方、典型的古九谷はそこにほぼ現れず、発掘からは伝世古九谷に有田素地が多いことが判明したため、素地移入・加賀上絵仮説は弱体化した。したがって、有田で上絵まで施した内需用古伊万里が、後世「古九谷」と呼ばれた可能性を重視し、当面は従来の古九谷群を「古九谷様式」として暫定認識しつつ、産地判別と編年の再構築を進める必要がある。
【関連用語】
- 古伊万里:肥前有田の17世紀磁器総称。染付・錦手・染錦手を含む。
- 古九谷様式:従来「古九谷」とされた群を産地断定せず様式として暫定把握。
- 錦手:金彩を伴う多色上絵。豪華な装飾を特徴とする。
- 染錦手:下絵の染付に上絵を重ねる技法・様式。
- 吸坂手:鉄釉地に染付を施す有田初期の様式。
- 赤絵町:有田の上絵付工房集積地。外窯素地への彩色を担う。
- 金襴手:金彩を多用する豪奢な上絵表現。型物鉢などに多い。
- 編年:作品群を年代順に整理する研究手法。
- 『隔記』:鳳林承章の日記。国内流通する伊万里の記載多数が残る史料。
- オランダ東インド会社(VOC):有田の色絵を万治二年以後大量発注・輸出。
- 明暦・元禄:17世紀中葉~後葉の年号。生産体制変化の指標。
- 加賀百万石:加賀藩の経済力を象徴する言葉。古九谷評価の背景イメージ。


