古九谷解説(2)

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古九谷解説(2)

有田(ありた)の色絵磁器〔注:釉上に多色の絵付を施す磁器〕は、初代・酒井田柿右衛門(さかいだ かきえもん/喜三右衛門)の史料「覚(おぼえ)」に記録されているとおり、正保四年(1647)以後にオランダ東インド会社〔注:VOC、同時代最大級の欧州交易会社〕へ売却され、以後は商館の重点買付品として大量に輸出されることで輸出産業として急伸しました。もっとも、全量が海外向けだったわけではなく、京都・鹿苑寺(ろくおんじ)住職の鳳林承章(ほうりん しょうしょう)による日記『隔記(かくき)』に記録されているとおり、寛永十六年(1639)から寛文八年(1668)までに、錦手(にしきで)・染錦手(そめにしきで)〔注:当時の色絵の一般呼称〕や染付(そめつけ)〔注:酸化コバルトの下絵付〕の伊万里焼(いまりやき)〔注:肥前有田系の磁器総称〕が計135回も登場し、内需にも確かに応じていたことがわかります。

ところが、伝世(でんせい)〔注:時代を経て伝わった作例〕の量に目を移すと、一基規模の九谷(くたに)古窯よりも、はるかに大きな産業基盤を持つ伊万里焼より古九谷(こくたに)が多く見えるという逆転があり、ここから「古九谷は初期の柿右衛門様式ではないか」という見解を最初に公にしたのが北原大輔(きたはら だいすけ)でした。北原説は現在では矛盾も指摘され、ことに有田の色絵を初代以下数代の柿右衛門作に一括する点は、研究の進展により当たらないとされますが、古九谷像に疑義を呈し有田との関係を提起した最初の試論として意義がありました。

この問題意識は、帝室博物館—東京国立博物館の陶磁部を担った鷹巣豊治(たかす とよじ)・田中作太郎(たなか さくたろう)へと継承され、とくに田中は「古九谷」の名で流布する群の中に九谷ではない作が含まれる点を示唆し、「軽々に古伊万里(こいまり)と名指しせずとも、取捨選別には相応の覚悟が要る」と慎重な整理を呼びかけました。

さらに決定的だったのは、大英博物館東洋部長のソーム・ジェニンス(Soame Jenyns/ソーム・ジェニンス)で、彼は十七世紀に欧州へ渡った実在の輸出色絵を示しつつ、「古九谷」と呼ばれてきた群の一部は、精緻な柿右衛門様式が整う以前の伊万里色絵である、と実証的に論じました。輸出資料(現物)を直接比較対照に置いた点で説得力が高く、その反映として日本でも、赤絵(あかえ)〔注:鉄系赤を主体とする上絵彩〕を多用する徳利・壺の一群が、しだいに伊万里焼として再分類されていきました。

実際、かつて「古九谷」と総称された作の中には、寛文期(1661–72)以前に欧州へ渡った伊万里色絵と同質のものが少なからず含まれます。九谷古窯は明暦年間(1655–57)に有田技術を導入して開窯し、同時期に両地で似た作風が並行した可能性はありますが、素地(そじ)・器形・意匠の要所で伊万里の特徴を示す作が多く、しかも九谷古窯の出土素地には対応痕跡が見られないため、「なぜそれらが後世『古九谷』と呼ばれたのか」が課題となります。

この呼称の成立時期は断定しがたいものの、江戸後期に若杉窯(わかすぎがま)・吉田屋窯(よしだやがま)〔注:九谷再興期の代表窯〕が起こる頃から、加賀で伝来した有田系の色絵も次第に九谷の古作と見なされ、明治・大正を経て昭和十年代には大河内正敏(おおこうち まさとし)や松本佐太郎(まつもと さたろう)らの影響で定説化していった、という経緯が想定されます。背景には、加賀藩が寛永期以来、長崎に御買物役(おかいものやく)〔注:藩の公的買付担当〕を置き、柿右衛門「覚」に記録されているとおり、正保四年に赤絵を初めて長崎で売った際、加賀藩御買物役・塙市郎兵衛(はなわ いちろべえ)へも販売したという具体記載がありました。

同文書は、当時の赤絵が輸出用の注文体制が整う以前の、まず国内性の強い初期色絵として成立していたことを示し、オランダ商館(しょうかん)〔注:長崎出島のオランダ拠点〕への売却品と加賀藩への買付品が近い作風であった可能性を強く示唆します。結果として、当時加賀にもたらされた有田の色絵が長く当地に伝来し、九谷古窯の存在という歴史事実と重なって、のちに有田からの移入品まで「古九谷」と総称される素地を形成した、と考えるのが妥当でしょう。

要約(300〜500字)
柿右衛門「覚」に記録されているとおり、有田の色絵は1647年以降に東インド会社の主要買付品となり輸出産業化したが、鳳林承章『隔記』の多数の記載から内需にも応じていたことが確認できる。一方で、伝世量では大規模な伊万里より古九谷が多く見える逆転があり、北原大輔が「古九谷=初期柿右衛門」説を提起、鷹巣・田中が慎重な再整理を示唆、ジェニンスは輸出実物に基づき「古九谷中に伊万里」を実証的に展開した。九谷の開窯は明暦期で、有田技術の導入により並行的作風の重なりは起こり得たが、素地・器形・意匠の差と九谷出土資料の不一致から、多数は伊万里とみるのが妥当である。加賀藩の長崎御買物役による早期購入(柿右衛門「覚」に記録)を通じ、有田色絵が加賀に集積・伝来し、九谷古窯の存在と結びついて、のちに移入品まで「古九谷」と総称される基盤が形成されたと考えられる。

【関連用語】

  • 酒井田柿右衛門:有田の色絵磁器を確立した家系の祖。史料「覚」に自販・輸出の経緯が記録される。
  • 伊万里焼:肥前有田系の磁器総称。国内外へ大量流通した。
  • 古九谷:加賀に伝わる初期色絵の呼称。後世に有田作が混在した可能性が指摘される。
  • 錦手・染錦手:江戸前期の色絵磁器の一般呼称。多彩な上絵を施す。
  • 染付:酸化コバルトで下絵を描き透明釉で焼成する技法。
  • オランダ東インド会社(VOC):17世紀以降、日本の色絵磁器を大量に買い付けた交易会社。
  • オランダ商館:長崎・出島のオランダ拠点。対外交易の窓口。
  • 若杉窯・吉田屋窯:江戸後期の九谷再興期を代表する窯。古作の再評価に影響。
  • 北原大輔:古九谷と有田の関係を早期に提起した研究者。
  • ソーム・ジェニンス:大英博物館東洋部長。輸出実物比較で「古九谷中に伊万里」を論証。
  • 御買物役:諸藩が長崎などに置いた公的買付役。加賀藩は早くから設置。
  • 『隔記』:鳳林承章の日記。伊万里色絵・染付の流通状況が多数記録される。
  • 「覚」(柿右衛門):初代による覚書。赤絵販売・輸出の具体が記録される。

(人名・地名・専門用語の〔注〕は初出に付しました)