桃山時代の美濃(みの)一帯では、やきものの様式がめまぐるしく展開しました。技術や作風は直線的に進歩するのではなく、戦乱の収束や茶の湯の流行といった外的刺激を契機に一気に跳ね上がり、景色(けしき)を一変させます。永禄(1558–70)から天正(1573–92)を経て文禄・慶長(1592–1615)にかけ、美濃では従来の技術を土台に、侘びの趣を求める茶の世界と結びついた新しい陶風が活況を呈し、天正後期以降に大きく花開きました。
その代表格が志野(しの)〔注:白い長石釉と鉄絵文様を特徴とする美濃焼〕・黄瀬戸〔注:黄褐色の釉を掛ける美濃焼の様式〕・瀬戸黒(せとぐろ)・織部(おりべ)〔注:古田織部好みの緑釉と大胆造形を特徴とする〕です。このうち黄瀬戸と瀬戸黒は、鎌倉・室町以来の瀬戸(せと)・美濃の伝統技法を踏まえつつ、新たな感覚で咲いた作品群でした。志野は白釉に赤い焦げが生む風情が独特ですが、黄瀬戸はしっとりとした釉膚(ゆうはだ)に軽やかな彫文と、ところどころに置かれた胆礬(たんばん)〔注:銅由来の発色材。緑釉の呈色源〕の緑が映え、ほのぼのとした日本的な味わいが際立ちます。
志野が室町後期に登場した新技術であるのに対し、黄瀬戸の黄釉は古瀬戸の灰釉(はいゆう)〔注:木灰を溶剤とする透明系釉〕の系譜に連なります。これが改良を重ね、桃山期にはいわゆる油揚手(あぶらあげで)〔注:釉がよく溶け、油揚げのようにふくよかな質感を示す作〕の黄瀬戸が成立しました。室町後期の美濃では、古瀬戸に似た透明釉の素直な轆轤(ろくろ)成形の青磁写しの椀や皿が多く焼かれ、その後、鬼板(おにいた)〔注:鉄分の多い化粧土〕を化粧掛けした上に灰釉を掛ける試みが進みます。さらに工夫が加えられ、天正末から文禄期にかけて、大萱(おおがや)の窯下窯(かましもがま)などで、油揚膚の独特な黄瀬戸が完成したと推測されています。
黄瀬戸の最盛は天正(1573–92)から慶長前期(~1615)で、志野・瀬戸黒と同じく穴窯(あながま)〔注:斜面に穿った単室の半地上式窯〕で焼成されました。先駆作は天文(1532–55)から永禄頃に始まると考えられ、茶人・北向道陳(きたむき どうちん, 1504–1562)好みと伝わる茶碗が知られます。丸碗と半筒を折衷した腰の丸い轆轤成形の椀で、素地に鬼板を施し、その上に灰釉を掛けた黄瀬戸です。同調の天目茶碗〔注:宋代系譜の黒釉碗の総称〕も伝世するため、当時この釉調がまとまって焼かれたことがうかがえます。
茶陶では、千利休(せんの りきゅう, 1522–1591)所持と伝える「黄瀬戸立鼓花入(りゅうご はないれ)」のような作も挙げられます。天正末以後に盛行する油揚手とは異なり、よく溶けたやや失透気味の黄釉が器面をすっぽり覆うタイプが天正期にかなり焼かれ、その流れを受けて油揚手が量産化されたとみられます。
黄瀬戸の茶陶で忘れてはならないのが「黄瀬戸茶碗 銘 朝比奈」です。黄瀬戸に茶碗作例は少ないなか、稀有な名作として知られます。轆轤成形後に胴へ箆(へら)を入れて輪郭をきっぱり立て、典型的な桃山風の半筒形にまとめ、天正後期の作と考えられます。見込に茶溜り〔注:茶を含ませるための小さなくぼみ〕を設け、瀬戸黒や志野に似た作行きながら、釉掛けが薄いため箆削りの痕が素地に鮮やかに残ります。焼成温度がやや低かったためか釉はしっとりと落ち着き、一部に焦げが生じ、油揚手とは異なる、桃山黄瀬戸でも類例の少ない趣を示します。
根津美術館蔵「黄瀬戸宝珠香合」も小品ながら黄瀬戸茶陶の白眉です。優雅な宝珠形をなし、全面の黄釉は油揚手に通じる潤いを湛え、桃山茶陶のなかでも格別の味わいを見せます。こうした黄瀬戸は天正末から文禄・慶長前期にかけて盛んに焼かれ、加藤唐九郎(かとう とうくろう)による大萱・窯下窯の発掘ではこの系統の優作の生産が確認され、文禄二年(1593)の銘陶片の出土も知られています。
もっとも、桃山黄瀬戸の主力は茶入・花入など純然たる茶道具より、向付や鉢といった上質の食器群でした。室町後期以来、美濃では元・明の青磁・白磁を倣う食器が量産されていましたが、それを底辺に、桃山趣味の独自様式を持つ佳品が焼かれます。代表の一つ「黄瀬戸茶碗 銘 難波」は現在は茶碗用いですが、本来は小鉢ないし向付として生まれ、低い高台の半筒形。胴には突帯の「胴紐(どうひも)」〔注:胴に一周させた帯状の張り出し〕を巡らし、その上に線彫りの唐草文、さらに銅呈色の緑釉(=胆礬)をさす装飾で、油揚手らしい柔らかい質感を獲得しています。
大作として名高い「黄瀬戸 菖蒲文 釉花鉢(ゆうばなばち)」は、いわゆる「菖蒲手(しょうぶで)」の語源と伝えられる作です。鐔状の口縁を花弁状に整えた鉦鉢(かねばち)形式で、器形は明代の漆器や陶器の面盆を翻案しつつ、仕上がりは徹底して和様化。見込には力強い線彫りの菖蒲図、葉には濃い胆礬が置かれ、装飾効果は抜群です。さらに「黄瀬戸 菊紐 蓋付向付」も、薄作ながら量感のある形と、蓋裏の菊折枝や丁子文の線彫りが、志野・織部とは異なる黄瀬戸独自の美を端的に示します。
このような油揚手あるいは菖蒲手のしっとりした黄瀬戸は、半地上式の大窯でこそ良質に焼き上がりましたが、盛行期は長く続きません。慶長に入って連房式登窯(れんぼうしき のぼりがま)〔注:多室を連ねて効率化した窯〕へ移行すると質が変わり、窯に適した黄釉の系統は、のちに「御深井焼(おふけやき)」や「絵瀬戸(えせと)」〔注:絵付を施した瀬戸系施釉陶〕へと姿を変えていきました。
要約(黄瀬戸/300–500字)
桃山期の美濃では、戦乱収束と茶の湯需要を背景に志野・黄瀬戸・瀬戸黒・織部が躍進しました。黄瀬戸は古瀬戸の灰釉系を改良し、鬼板の化粧とよく溶ける黄釉によって油揚手という潤いの質感を獲得します。天文~永禄に先駆作が生まれ、天正~慶長前期に穴窯で最盛。利休伝来の花入や「朝比奈」など茶陶の名作に加え、向付・鉢などの上質食器が主流となり、胆礬の緑と線彫り装飾で独自の景色を築きました。大萱の窯下窯出土資料(文禄二年銘)もこの動向を裏づけますが、慶長期に連房式登窯へ転換すると質に変化が生じ、やがて御深井焼・絵瀬戸へ展開しました。
【関連用語】
- 志野:美濃焼の一種。白い長石釉と鉄絵文様が特徴。
- 織部:古田織部に由来する美濃焼の様式。緑釉や大胆な形が特徴。
- 黄瀬戸:黄褐色の釉をかけた美濃焼。室町後期〜桃山時代に流行。
- 瀬戸:尾張の産地。「せともの」の語源となった日本を代表する陶産地。
- 美濃:岐阜県東濃の産地。志野・織部・黄瀬戸を生んだ。
- 唐津:肥前の陶器。桃山期以降、茶陶として人気を博す。
- 京焼:京都のやきもの。のちに芸術性の高い茶陶を生む。
- 灰釉:木灰を溶剤にした自然系の透明釉。
- 緑釉:鉛釉に銅を加えて得る緑色の釉。


