中尾山製産額の地位~松尾慶太郎

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【原文】[Original text]

中尾庄右衛門尉
 按するに、此中尾庄右工門尉は、代々此處の支配者たりし邑主の後裔にて、中尾山の開山に盡瘁せし一人を見る可く、彼は正保二年七月十三日(1616年)行年六十有餘にして卒去し、墓碑は寺屋敷の墓地にあるが、二段臺石の上に、珍らしくも勝男木形の石碑で有りそれに御輿屋根が冠さりて、約五尺二三寸程の高さである。又中尾家の古屋敷は、中川亀太郎(元中尾姓)の祖先が所有せる由にて、同家の支族村上家より前記の墓碑を祀りつゝある。

中尾の上登
 上登窯は、白岳山麓にあるより白岳窯とも稱せられ此處は寛永十一年八月(1634年)藩主大村丹後守純信の時之を築窯せしといはれてゐる。而して前記の古文書に正保元年とあるは、共後十一年目にて陶器より磁器製作に轉向せし爲か、或は何かの理由にて改築せしさ見るべきであらう。
 此處の古窯趾の邊りに散亂せる殘缺には、砧や天龍寺の薄青磁物多く焼かれてゐるが、中に三本足附の小形香焚など、青磁の釉下に吳洲猫の山水繪があり、又染附磁器には籠目描の粗雑なる大筆模様の茶碗がある。或は外部丈けを金茶やむら錆を掛けし茶碗があり、初期の製品には底を蛇の目に剥ぎて、重ね積せし茶碗がある。

中尾下登と大新
 下登窯は寛文五年(1665年)藩主大村純長の時、大村三郎右工門奉行して築かれ、同時に三神山神社が建立されたのである。大新登窯は貞享元年二月(1685年)藩主大村民部少輔純真の時、代官黑板喜左工門の肝煎にて、松尾儀右工門をして新築せしめしものにて、今は公會堂が建立されてゐる。

武村清之亟
 文化年間(1804-1818年)此地の陶商武村清之亟は、大阪の問屋より金子五百両を借り、下登窯の全部を請けて製造せしめ、そして大阪へ向け盛んに取引を開始せるより、下登専属の窯焼は金融上頗る便宜を得るに至つた。當時文政二年(1819年)の賣附の一部を抄録すれば左の如し
武村の賣附寫し
卯十月八日白子屋賣附寫
八月立 大黑丸
樽高臺
一花割大廣東 四十八ッ入 抬俵 內山水畫 十六ッ入
一同 極上 同入 七俵
一同 上ッ一 同入 貳俵
小ぶり
一柳牡丹盡大高臺茶漬五十一ッ入 貳俵
一同 極上 同入 四俵
一同 上ッ一 同入 壹俵
此外朝顔本形奈良茶、山水繪大廣東、鐵線畫大高臺茶漬、網畫目小中等十八筆略
〆百俵俵俵同壹俵
右之御屋敷御立合の上賣捌に相成申候間御改可被下候 以上
卯極月二十五日
龜屋源太夫 四郎兵衛判
武村清之亟殿
なほ此品附の合間には、一々「大村支配方」と刻りし長方形の判が捺されてある。武村清之亟(今の武馬の父)は天保二年六月十四日七十六才を卒去してる。

雁造札事件
 文久年間(1861-1864年)太田德右工門は、藩主の許可を得て當中尾山に限り銀札を發行することゝ成り、窯焼業者の金融上多大なる便宜を得ることなつた。然るに其頃何者か此銀札を偽造せし者ありて大恐慌を来たし、藩は極力犯人の詮議に努めたる結果、多数の者につき、主犯者下波佐見村の松尾菜は、斬罪に處せられたのである。

太田徳右衛門
 徳右工門は、又置場方役を勤めし外、公共事業に盡瘁せしこと少からず、斯くて慶應二年四月十九日七十四才にて卒去せし者にて即ち今の久五郎の先代である。維新頃の窯焼さしては竹村清一、中川政太郎、福重大助、松尾左七等其重なる者であつた。

馬場彌三郎
 又名陶家として馬場彌三郎があり細工に或は繪畫に巧者であつた。そして明治三十三年十二月五十四才で卒去したのである。

馬場亦市の棚板研究
 明治二十二年四月馬場亦市は、棚板製作を完成した。彼は小學校卒業後陶業に従事すると共に、従来の天秤積法が頗る不完全なるみさし、之を改良せんとの志を抱いてゐた。是より先き明治十六年、三の股の松尾興一は、八つ羽にて圓形の天秤バマを工夫せしに、従水の四つに比して共積込量の倍加せるを以て、此地方の同業者は何れも皆此入っ羽法を採用するに至りしも、蓋し其危険なる点に於いては何等異なることなかったのである。
 明治十八年三月亦市時に年十八、熟ら積込法の改良を企圖せしが、仄聞すれば尾張の瀬戸には、棚板積法ある由なるも、精くは其方法を會得せず唯四個の柱を立て、之に棚板を重ねること而已さへ頗る安全法なるを覺り、同月二十五日始めて厚さ一寸五分に、一尺角の耐火粘土板を造り、その後失敗を重ねて試焼すること数十回に及び、翌十九年に至りて漸く一尺五寸の棚板まで之に堪へ得ることを発見し、同二十二年四月研究全く完成を告げたのである。
 之より地方の諸山、亦此棚積法を採用する者多きを加へ、中尾山に於いては全く之に改革せし陶家拾數戸に及び、中には他山より見學に来る者さへ生するに至った。亦一は陶業の外、亦小間物轆轤の名手であり、そして大正十五年六月六十一才を以て卒したのである。

松尾庄作の視察報告
 明治二十三年四月松尾庄作(舊姓武村)は、全国の重なる陶業観察を終へて蹄山した。彼は去二十一年四月より、長崎縣廳の添書を携へて出発し、山口、愛媛、兵庫、京都、大阪、愛知、岐阜、滋賀、三重等の各製陶地を見學し、そして瀬戸の工人二宮嘉吉を聘して、同行歸山したのである。此際瀬戸の陶窯及積込法につき縣廳へ精細なる報告書を呈出せしが、就中烟蓋(棚板)使用の條につき左の一節がある。

棚板は厚さ八分、長さ尺二寸巾尺位にて柱四本の上に之を載せ間々粘土をはめ積んで天上に至る高さ一丈四尺にて窯内寸隙なし之を我地方の四五尺に満たざる天秤積と比して實に霄壊の差あり(瀬戸丸窯に用ふる普通棚板は縦一尺六寸横一尺二寸五分、厚さ一寸三分五厘乃至四分である)尾濃地方は上出来の焼物を低廉に賣りて猶十分の利あり我地方は舊來の慣習を守つて此要点を改良せず粗悪の陶器を高償に賣るも利少なし故に目下支那の需要を減退す實に遺憾の至りなり
要するに窯具の不完全と積込方が假令ば大樹ありて下枝の果實を得るに甘んじ梢上の美味且大なる果實は未だ之を取ることを知らざるものゝ如し云々

武村萬次郎の銅板轉寫
 明治二十四五年頃に至り、尾張瀬戸より来らし原某なる者、染附銅版の轉寫法を齎らせしも、當時此地方は紙型捺染法のみ盛んなりし際とて、斯法未だ採用されず、空しく歸國したのである。其後有田の牟田久次(十九年より開業)は、大外山地方へ件の轉舊紙を販賣せしより、中尾山方面も、之を使用する者彌々多き加ふるに至つた。
 其頃陶業休止中の武村萬次郎(竹泉)は、先きに前記の原某より其製法を習得し居たりしより、決然此事業に着手せしところ、實驗するに至つて頗る困難を来たし、苦心研究を重ねること半蔵に及んだのであつた。適々陶家太田久五郎が、斯業の有望なるを説きて激勵せしより、勇を鼓して研鑚に努め、漸く完成することを得たのである。
 之より萬次郎は、杵島郡の弓野山 藤津郡の吉田山及び志田山等へ各印刷機を据付て出張製版するに及び、自然有田の久次と競争するに至りしかば、久次は萬次郎を高級にて聘雇すべく求めしも萬次郎之に應ぜず、斯くて稗木場山の濱田七郎の仲裁にて、久次は中尾山の出張所を撤回し、萬次郎の吉田山出張所と交換することによりて解決し之より一時盛んに製版したのである。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

中尾庄右衛門尉は、この地を治めた邑主の後裔で、中尾山開窯に尽力した一人とみられる。正保二年七月十三日(1616年)六十余歳で没。寺屋敷の墓地に、高さ約五尺二三寸、勝男木形に御輿屋根を載せた珍しい石碑が建つ。中尾家の旧屋敷は中川亀太郎(旧・中尾姓)の祖先の所領で、支族の村上家が墓碑を守っている。

上登窯は白岳山麓にあり「白岳窯」とも称され、寛永十一年八月(1634年)に大村丹後守純信が築いたと伝える。古文書に正保元年とあるのは、十一年後に磁器へ転じたか、改築のためだろう。遺片には砧・天龍寺系の薄青磁が多く、三足香炉に釉下の呉須山水、籠目の粗い染付、外面のみ金茶やムラ錆を掛けた碗、蛇の目高台で重ね焼きした初期作が見られる。

下登窯は寛文五年(1665年)、大村純長のもと大村三郎右工門が監督し、同時に三神山神社を創建。大新登窯は貞享元年二月(1685年)、大村民部少輔純真の時代に代官・黒板喜左工門の肝煎で松尾儀右工門が築いた。現在は公会堂が建つ。

文化期、陶商・武村清之亟は大阪の問屋から五百両を借り、下登一帯の焼成を請負って出荷を拡大。文政二年(1819年)の売付には「大村支配方」の判が押される。清之亟は天保二年六月十四日、七十六歳で没。

文久年間には中尾山限定の銀札発行を太田徳右工門が許可取得したが、偽造事件が発生し恐慌に。主犯の下波佐見村・松尾菜が斬罪となった。徳右工門は置場方役など公事にも尽力し、慶應二年四月十九日、七十四歳で没。維新期の主な窯は竹村清一、中川政太郎、福重大助、松尾左七ら。

名工・馬場彌三郎は細工・絵付に巧みで、明治三十三年十二月、五十四歳で没。馬場亦市は明治二十二年、棚板(耐火板)による積み法を完成。天秤積の危険を改め、四柱に棚板を重ねる方法を試作・改良し、一尺五寸板に耐えることを確認、以後中尾山の多くが採用した。亦市は小間物轆轤の名手でもあり、大正十五年六月、六十一歳で没。

松尾庄作(旧姓・武村)は明治二十一年から各地の窯業を視察し、二十三年に帰郷。瀬戸の二宮嘉吉を招聘し、棚板(煙蓋)使用について、四柱棚で高さ一丈四尺まで隙なく組む瀬戸方式は、当地の低い天秤積とは雲泥の差、機材改良を怠れば安価良品に勝てず、中国向け需要も減退する、と県庁に報告した。

明治二十四~二十五年頃、尾張瀬戸の原某が銅版転写を伝えたが当初は不採用。のち有田の牟田久次が転写紙を売り出し普及。武村萬次郎(竹泉)は原から学んだ術で研究を重ね、太田久五郎の勧めもあって遂に成功。弓野山・吉田山・志田山などに機械を据え出張製版し、牟田と競合。稗木場山・濱田七郎の仲裁で出張所を交換し、以後は製版が盛んになった。


【英語訳】[English translation]

Nakao Shōzaemon-no-jō, a descendant of the local lords, was among the founders of Nakao-yama’s kilns. He died on July 13, 1616 (Shōhō 2), aged over sixty. His rare katsuogi-shaped stele with a mikoshi-style roof, about 5 shaku 2–3 sun tall, stands in the Terayashiki cemetery. The Nakao family’s old residence belonged to the ancestors of Nakagawa Kmetarō (formerly Nakao); the Murakami branch maintains the grave.

The Upper Nobori kiln, called the Shiratake kiln for its site at Mt. Shiratake’s foot, is said to have been built in August 1634 under Ōmura Tango-no-kami Suminobu. A record listing Shōhō 1 likely reflects a later rebuild or the shift from pottery to porcelain. Shards show thin celadon of the Tenzō-ji/kinuta type, a small three-legged incense burner with gosu underglaze landscape, rough basketweave sometsuke, bowls with golden-brown or rust-only exteriors, and early “snake-eye” bases for stacking.

The Lower Nobori was erected in 1665 under Ōmura Suminaga, supervised by Ōmura Saburō-emon; Sanshinyama Shrine was founded alongside. The Ōshin (Dai-shin) Nobori was newly built in February 1685 under Ōmura Minbu-no-shō Sumi’aki, promoted by the daikan Kuroita Kizaemon and executed by Matsuo Giemon; a public hall stands there today.

In the Bunka era, dealer Takemura Seinojō borrowed 500 ryō from Osaka and contracted the whole Lower Nobori output, easing finance. A Bunsei 2 (1819) invoice bears the rectangular “Ōmura shihai-gata” seal; he died on June 14, 1831, aged 76.

In the Bunkyū years, Ōta Tokuemon obtained permission to issue silver notes limited to Nakao-yama, aiding kiln finance; a counterfeiting panic ensued, and the ringleader Matsuo Sai of Shimo-Hasami was executed. Ōta, also an okiba official and public works contributor, died April 19, 1866, aged 74. Leading Meiji-era kilns included Takemura Seiichi, Nakagawa Masatarō, Fukushige Daisuke, and Matsuo Sasa.

Master potter Baba Yasaburō excelled in forming and painting; he died in December 1900 at 54. In April 1889, Baba Mataichi perfected the shelf-board stacking system. Rejecting hazardous counterbalanced “tenbin-zumi,” he adopted four posts with refractory boards, proving up to 1 shaku 5 sun boards after many trials; Nakao-yama rapidly converted. A noted small-wares turner, he died June 1926 at 61.

Matsuo Shōsaku (né Takemura) toured major ceramic centers from 1888 and returned in 1890 with Seto craftsman Ninomiya Kakichi. His report to Nagasaki Prefecture praised Seto’s four-post shelving rising to 1 jō 4 shaku with no voids, far superior to local tenbin-zumi; without upgrading kiln furniture and loading, locals lose profit and China-bound demand declines.

Around 1891–92, Hara from Seto introduced copperplate transfer, initially rejected in favor of stencil prints. Later, Arita’s Muta Hisaji sold transfer papers, spreading use. Takemura Manjirō (Chikusen) resumed research learned from Hara; encouraged by Ōta Kugorō, he succeeded, installed presses at Yumino-yama, Yoshida-yama, and Shida-yama, and rivaled Muta. Mediated by Hamada Shichirō of Hiekoba-yama, they swapped outposts (Muta withdrew from Nakao; Manjirō took Yoshida), after which plate-making flourished.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

中尾庄右卫门尉为当地邑主之后裔,参与开创中尾山窑。正保二年七月十三日(1616年)卒。寺屋敷墓地有一座罕见的胜男木形、覆御舆屋顶的石碑,高约五尺二三寸。旧中尾家宅地属中川亀太郎先祖,村上家支系守祀其碑。

上登窑在白岳山麓,亦称“白岳窑”。寛永十一年(1634年)由大村丹后守纯信创建。古文书记“正保元年”或因十一年后转为烧磁或改建。遗物多为砧、天龙寺系薄青瓷,见三足香炉、釉下呉须山水、粗籠目染付、外面仅施金茶或锈釉之碗、蛇目高台叠烧初期作。

下登窑建于寛文五年(1665年),大村三郎右工门奉行,同时兴建三神山神社。大新登窑建于貞享元年二月(1685年),代官黑板喜左工门主持、松尾仪右工门施工,今址为公会堂。

文化期陶商武村清之亟借得五百两,承包下登烧成并扩销;文政二年卖附印有“ 大村支配方 ”。清之亟天保二年卒。

文久年间中尾山限定银札获准发行,后因伪造引发恐慌,主犯下波佐见村松尾菜被斩。太田德右工门亦力任公事,慶應二年卒。维新期主窑有竹村清一、中川政太郎、福重大助、松尾左七等。

名工馬場彌三郎善成形与绘饰,明治三十三年卒。馬場亦市于明治二十二年完成“四柱+棚板”装窑法,取代危险的天秤积;经反复试验,证实可承受一尺五寸板,中尾山多家采用。亦市亦为小件轆轤名手,大正十五年卒。

松尾庄作自明治二十一年巡察各地,二十三年携瀬户二宫嘉吉归,报称瀬户四柱棚板可达一丈四尺、窑内无隙,远胜本地天秤积;器具与装窑不改,则难与廉价良品竞争,中国销路亦减。

明治二十四五年,瀬户原某传入铜版转写,初未采纳;后有田牟田久次售转写纸而普及。武村萬次郎(竹泉)据所学再研,得太田久五郎鼓励而成功,在弓野山、吉田山、志田山设机出张制版,与牟田竞争,后经濱田七郎调停交换出张所,制版遂盛行。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

中尾庄右衛門尉為邑主之後裔,參與開創中尾山窯。正保二年七月十三日(1616年)卒。寺屋敷墓地存勝男木形、覆御輿屋頂之碑,高約五尺二三寸。中尾舊宅為中川龜太郎先祖之業,村上支族奉祀其碑。

上登窯在白岳山麓,亦稱「白岳窯」,寛永十一年(1634年)由大村丹後守純信創建。古文書稱正保元年,或因十一年後轉燒磁或改建。遺片多砧、天龍寺系薄青瓷,見三足香爐、釉下呉須山水、籠目粗筆染付、僅外施金茶或鏽釉之碗、蛇目高台疊燒初期作。

下登窯建於寛文五年(1665年),大村三郎右工門奉行,同建三神山神社。大新登窯建於貞享元年二月(1685年),代官黑板喜左工門主導、松尾儀右工門施工,今為公會堂。

文化期陶商武村清之亟借五百兩承包下登,拓銷大阪;文政二年賣附鈐「大村支配方」。清之亟天保二年卒。

文久年間中尾山限定銀札獲准,後因偽造致恐慌,主犯下波佐見村松尾菜斬。太田德右工門亦盡力公務,慶應二年卒。維新期窯主有竹村清一、中川政太郎、福重大助、松尾左七等。

名工馬場彌三郎工成形繪飾,明治三十三年卒。馬場亦市於明治二十二年成「四柱+棚板」裝窯法,取代危險天秤積;證可承一尺五寸板,中尾山多採。亦市亦為小件轆轤名手,大正十五年卒。

松尾庄作自明治二十一年巡視諸窯,二十三年與瀬戶二宮嘉吉歸,報稱瀬戶四柱棚板高達一丈四尺、窯內無隙,勝本地天秤積;若不改良,難敵廉價良品,中國需求亦減。

明治二十四五年瀬戶原某傳銅版轉寫,初未採;後有田牟田久次售轉寫紙而普及。武村萬次郎(竹泉)據所學再研,得太田久五郎勸勉而成,在弓野山、吉田山、志田山設機出張製版,與牟田競爭;經濱田七郎調停交換出張所,製版遂盛。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

中尾庄右卫门尉为地方领主后裔,参与创建中尾山窑;1616年卒。寺屋敷墓地立有罕见的胜男木形石碑。

上登(白岳)窑据称1634年建;“正保元年”的记载或反映改建或由陶转瓷。遗片见薄青瓷、三足香炉与呉须山水、粗籠目染付、金茶/锈面碗及蛇目高台叠烧。

下登建于1665年并立三神山神社;大新登1685年建,今为公会堂。文化期武村清之亟借500两承包下登;文政二年卖附盖“ 大村支配方 ”。

文久年间获准在中尾山发行银票;后爆发伪造案,主犯松尾菜被处决。太田德右工门亦任公共事务,1866年卒。

馬場彌三郎擅成形与绘画,1900年卒。1889年馬場亦市完成“四柱+棚板”装窑,取代危险的天秤积;中尾山迅速采用。

松尾庄作1890年携瀬户匠二宫嘉吉归,报告称瀬户四柱棚板可至1丈4尺、无空隙,远胜本地旧法;不改良则难与廉价良品竞争。

1891–92年瀬户原氏传入铜版转写,先被拒;后有田牟田久次售转写纸而普及。武村萬次郎据从原学得之术复研而成,在弓野山、吉田山、志田山设机出张制版,与牟田竞争;经调停交换出张所后,制版兴盛。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

中尾庄右衛門尉為地方領主後裔,參與創建中尾山窯;1616年卒。寺屋敷墓地立罕見勝男木形碑。

上登(白岳)窯傳為1634年建;「正保元年」或為改建或由陶轉瓷。遺片見薄青瓷、三足香爐與呉須山水、籠目粗筆染付、金茶/鏽面碗及蛇目高台疊燒。

下登1665年建並立三神山神社;大新登1685年建,今為公會堂。文化期武村清之亟借500兩承包下登;文政二年賣附鈐「大村支配方」。

文久年間中尾山銀票獲准;偽造案起,主犯松尾菜伏法。太田德右工門亦任公務,1866年卒。

馬場彌三郎善成形繪飾,1900年卒。1889年馬場亦市成「四柱+棚板」裝窯,取代危險天秤積;中尾山速採。

松尾庄作1890年攜瀬戶匠二宮嘉吉歸,報稱瀬戶四柱棚板可達一丈四尺、無隙,遠勝本地舊法;不改良則難與廉價良品競爭。

1891–92年瀬戶原氏傳銅版轉寫,初遭拒;後有田牟田久次售轉寫紙而普及。武村萬次郎據自原所學再研告成,於弓野山、吉田山、志田山設機出張製版,與牟田競爭;經調停交換據點後,製版興盛。