【原文】[Original text]
波佐見皿山役所
寛文五年(1665年)藩主大村因幡守純長は、皿山役所を三の股に設け、當時押役として岩永七郎右工門勤務することゝなり、其下に皿山取締として三の股山、中尾山、永尾山又稗木場山へ役人を配置せしが、後に押役は皿山奉行と改め、又再び之を廢して取締役二人代官の下に數人の下役を置き、以て製陶の保護と奬勵に盡瘁せしめた。
波佐見焼も亦大村藩主歴代庇護の下に育まれしことは申すまでもなく、即ち燃料たる山林の下附より、資金及米穀に至るまで藩主より貸興したのである。
呉洲鑑査
又染附顔料なる唐人藥と稱せらるゝ呉洲につき皿山日記に依れば「皿山繪藥元禄五年(1692年)申十二月十一日長崎船大工町本田孫三郎、松尾太郎左工門より相始候」とあるも、藩は主として其選擇に注意を拂ひ、藩吏を長崎に出張せしめて、直接支那人より鑑査購入し、専賣的に各窯焼へ拂下げたものである。
回青と渤青
元來吳洲は呉須又は極素とも書き重に珪酸コバルトを含有する天然礦物にて、古くより埃及や支那に於て佛像、玻璃器及陶器に用ひられ、其種類甚多く。彼回青を最初支那へ提供せしは回紇人(北蒙古、甘肅、新疆に喋った古民族)なり稱せられ、或は又回々教徒の手に依って、西域地方の亞刺比亞や彼斯を経て到来せし故に當時モハメタンプリュウと呼ばれしさの説もある。又蘇泥渤青と稱するは、支那人がスマタラ及ポルネオ地方に於て亞刺比亜人やシリヤ人(舊土其古族)貿易して、輸入せしものさいはれてゐる。
雲南繪藥
それが一時供給止みし時代より、支那は雲南省貴州の如き北西邊境より、該礦を發見して自給するに至り、遙か後世に及びて浙江省の紹興府と、金華府より採取して提供さるゝことゝ成り、之が齋青と稱して最優品である。而して當時我國へ輸入されしは、多く雲南地方の産であつた。支那は最初之を釉薬中に混じて瑠璃陶を製せしが、後には花と稱して繪彩に用するに至つたのである。
而して該品は一度素焼せしものにて種類頗る多く、等別するに雲南や浙江産の優品より、江西、廣東産の劣品に至るまで、何れも外被は緑色を粧ひ、鑑別甚だ容易ならざるを以て長崎奉行は吏員を設けて厳密なる監査の下に輸入しつゝあつた。
大村繪藥
就中大村藩にては、斯道に精通せる藩吏をして吟味購入せし故に、各山にては當時之大村藥と稱するに至つたのである。
長崎の繁昌
貞享二年(1685年)よりに多数の唐船長崎へ入津し、元禄元年(1688年)には二百艘の唐船輻輳し一萬人の支那人を迎えるに及び、長崎の繁華絶頂に達した。爾來宝永七年(1710年)頃まで二拾餘年間は、天下に並びなき殷販を極はむるに至り、此長崎より輸入せる文化と、購買力を攝受せし大村藩領當時の盛況は、察するに除りある。
白磁賞翫
而して白磁を製出せる大村焼は、勿論彼等の嗜好に投じて歓迎されしに相違なく、洵に内外人の白磁を貴重する絶頂時代とて、共頃之が禮讃振を記して嬉遊笑覧に「和蘭人は萬國の産物を交易することを務めとし物の性質を見ることも委しきに此方の伊末里の瓷器(伊萬里焼の磁器)を賞して海内第一といへりさぞ殊に五郎七(高原五郎七が教へし柿右工門燒なるべし)柳右工門(久富龍右工門にあらざるか然らば蔵春亭燒を指せしものならん)等が焼きたるものはまことに珍観すべきものなるに他國のよからぬ器物(外國製陶器)を貴ぶは隣の糂粏(糠味噌)のたぐひにひとし」と述べてゐる。
宝永年間(1704-1711年)には波佐見焼も相當に燒出せしものゝ如く、皿山舊記に依れば「焼物商賣仕初寶永二年西五月十一日(1706年)送狀にて仕登候事」とある。正徳年間(1711-1716年)天草石の使用發見されて以來、茲に彌々波佐見焼が完成さるゝに至った。而して製品は日用向の食器類を主としたれば、三河内等の如く高級品は稀少なれども、産額に於いては却って之を凌駕せしものであつた。
大村藩の專賣
斯くて四ヶ所の皿山なる登窯が焼き終れば、藩の役人出張して封印を施し、手續きめば、役所より許可符をへて窯出しをなさしめ、取引は一切藩に委託したものである。
其頃川棚の三越に藩の御用船が碇泊し、件の焼物荷を積込んて、大阪へ向け出帆し、之を藩の臓屋敷に揚げて販賣せしものである。或は窯焼が他國の商人と直接の取引をなすとしても、總べて藩の認可を受け、又場合によりては役人の立會を要し、旦資附の如きも一々書類を作成して役所へ届出たものである。
大阪問屋契約
寛保三年(1743年)より大阪の問屋と、取引を開始せし契約證が皿山記にある
一燒物大阪問屋相立寛保三亥年より始
問屋より差出候證文寫
御領中燒物賣支配筋方覺
一運賃銀入船翌日にても船頭望次第相渡可申事
一爲替銀入船日より三十日限
但船頭爲替取急相望候はゞ定の步銀差引取
替相渡可申事
一仕切銀賣附日より六十日限
但右部銀荷主より相望候は右日限相濟候
迄定之步銀差引相渡可申事
一寫帳の儀賣附候即日支配人方へ相渡寫取らせ可申事
一口錢銀の儀高壹割貳部申請右の内三部は冥加銀松屋庄左工門へ相渡三部は仲買步戻仕六部は我々可申請事
一破引の儀惣体改格別痛御座候荷物は勿論逐一吟味仕御荷主中御不勝手に相成不申候様相可申事
一惣体の筋方念を入何角猥成儀無之樣相勤可申事
右定書の相背申間鋪候萬一相違の儀も御座候はゞ何時にても賣方支配御取揚可被成依て證文如件
寬保三年亥九月
升屋 五郎右工門印
富田屋 小右工門印
兵庫屋 久兵衛印
和泉屋 伊兵衛印
大村御領中燒物方
惣代 福田友平殿
右同面にて外に壹通あり
增問屋
炭屋 九郎右工門印
伏見屋 金兵衛印
備前屋仁左工門印
大村御領中焼物方
惣代 福田友平殿
覺
一今度御領中燒物賣方支配我等へ被仰付御請申上候然上は御定の通爲替銀並仕切銀無相違相渡可申事
一仲買へ燒物中賣渡萬一代銀相滯候共我等賣方支配被仰付引請相勤申候上は内にて如何程の差御座候共四人仲間より相渡可申候勿論仲間の内壹人にても差閊申儀出來仕候共残りの者共より一言のに不及急度埓明可申事
一別紙の通取捌可申候若相違仕御荷主中の御不勝手の筋も御座候節は如何様にも可被仰付候爲後澄依て如件
中廣東繪久保八懸り
三の股職人の賃錢極
天保九年十一月(1839年)三の股窯燒が釜方日雇並諸職人賃錢極仕法立なるものに、左の如き古帳簿がある。
細工賃極め
大茶漬 二十六のり 九文懸り
中茶漬 三十のり 同
小茶漬 三十四のり 同
輪茶碗 三十九のり 九半懸り
煎茶 四十のり 十半懸り
花清 四十四のり 九文懸り
戀茶 二十六のり 十一文懸り
小廣東 四十二のり 十半懸り
小の中 四十のり 八文懸り
目茶漬 三十のり 九文懸り
小茶碗 四十八のり 八文懸り
四ッ碗 揃ふて 十二文懸り
中廣東 八半懸り
繪久保 九半懸り
奈良茶揃 九文懸り
口反中茶漬 三十のり 九半懸り
口反小茶漬 三十四のり 九半懸り
此のりとは皿板一枚に乗りし數であらう。
次に六月廿日書外立直段極がある。
博多繪 大茶漬 八
中茶漬 七
三木龍 中茶漬 四
小茶漬
廿四孝 輪茶碗 四
菊口入 花清 二
博多繪 煎茶 四
島繪 煎茶 三
男女日用賃
男 外日用 百貳拾文
女 外日用 五拾五文
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
波佐見の「皿山役所」
寛文五年(1665年)、藩主・大村因幡守純長は三の股に皿山役所を置き、当座の押役を岩永七郎右工門として、その下に三の股山・中尾山・永尾山・稗木場山へ取締役を配した。のちに押役は「皿山奉行」と改められ、さらに廃して二名の取締役と代官配下の下役数名を置く体制となり、製陶の保護と奨励に力を注いだ。波佐見焼は歴代藩主の庇護のもと、燃料となる山林の下付から、資金や米穀の貸付に至るまで手厚い支援を受けて育った。
呉須(呉洲)の鑑査と調達
染付の顔料である「唐人薬」=呉須について、『皿山日記』は「元禄五年(1692年)12月11日、長崎・船大工町の本田孫三郎・松尾太郎左工門から入手し始めた」と記す。藩は選別にとくに注意を払い、藩吏を長崎へ派遣して中国人から直接鑑査・購入し、各窯へ専売的に払い下げた。
回青と蘇泥渤青
呉須(極素)は珪酸コバルトを主成分とする天然鉱物で、古くエジプトや中国で仏像・ガラス・陶器に用いられた。回青は、回紇人(北蒙古・甘粛・新疆周辺の古称)や回々教徒の手でアラビア・ペルシア経由にもたらされたため、当時「モハメタン・ブルー」とも呼ばれたと伝える。蘇泥渤青は、中国人がスマトラ・ボルネオ方面でアラビア人・シリア人らと交易して輸入した品である。
雲南産の絵薬と品質
輸入が一時途絶えると、中国は雲南・貴州など西南部で鉱脈を見出して自給し、のちには浙江の紹興府・金華府産が「斎青」と称され最上とされた。日本へは当時、雲南産が多く入った。当初は釉に混ぜて瑠璃陶を焼いたが、やがて「花」と称する加飾(絵付)に用いられるようになった。品種は多く、雲南・浙江の優品から江西・広東の劣品まであるが、外観が緑色で見分けにくいため、長崎奉行は吏員を置いて厳格に監査輸入した。大村藩では鑑識に長けた藩吏が吟味して購入したので、各山ではこれを「大村薬」と呼んだ。
長崎繁昌と白磁の賞玩
貞享二年(1685年)以降、中国船の入津が増え、元禄元年(1688年)には二百艘・一万人規模に達して長崎は最盛期を迎えた。輸入文化と購買力を取り込んだ大村領も活況だった。白磁を生み出した大村焼は嗜好に合い歓迎され、『嬉遊笑覧』は「和蘭人は万国の産を交易し、伊万里の磁器を海内第一と賞す。殊に五郎七・柳右工門らの焼は珍観に値する。他国の出来の悪い器を尊ぶのは隣の糠味噌の類いだ」と記す。宝永年間には波佐見焼の出荷も進み、古記録に「宝永二年(1706年)五月十一日、送状にて商い始め」とある。正徳期(1711–1716)に天草石の使用が確立して、波佐見焼はいよいよ完成度を高めた。製品は日常食器が主で、三河内のような高級品は少ないが、産額では凌駕した。
大村藩の専売と流通
四か所の登窯が焼き上がると藩吏が赴いて封印し、許可符の発給後に窯出し。取引は原則として藩が一括受託した。川棚の三越に藩の御用船を停泊させて積み込み、大阪の蔵屋敷で販売した。窯元が他国商人と直接取引する場合も藩の認可・役人立会いを要し、資金附けの届も書面で役所へ出した。
大阪問屋との契約(寛保三年・1743年)
『皿山記』に残る契約では、①運賃銀は入港翌日でも船頭の希望で支払可、②為替銀は入港日から30日限、急ぐ場合は定率の歩銀差引で即日渡し、③仕切銀は売付日から60日限(同様に歩銀差引の前払い可)、④売上帳の写は即日提出、⑤口銭は高の一割二分(12%)で、うち3%を冥加銀として松屋庄左工門へ、3%を仲買歩戻し、6%を問屋取り分、⑥荷の破損・不良は逐一吟味して荷主に迷惑のないよう責任を負う、などを取り決めた。複数の大阪問屋(升屋・富田屋・兵庫屋・和泉屋ほか)が連署している。
三の股の職人賃金(天保九年・1839年)
古帳簿には、品目ごとに一皿板に載せる数量(のり)と出来高単価(文)が定められている。例:大茶漬=26のり・九文、輪茶碗=39のり・九分半、煎茶碗=40のり・十分半、花清=44のり・九文、恋茶=26のり・十一文、小広東=42のり・十分半、四ッ碗揃=一揃十二文、ほか。六月二十日付の絵付直段には「博多絵・大茶漬=八」「三木龍・中茶漬=四」「廿四孝・輪茶碗=四」「菊口入・花清=二」「島絵・煎茶=三」などの基準が見える。日当は、男=外日用百二十文、女=外日用五十五文と記される。
【英語訳】[English translation]
The Saruyama Office at Hasami
In Kanbun 5 (1665), Ōmura Inaba-no-kami Suminaga established the Saruyama (kiln district) office at Sannomata. Iwanaga Shichirō-emon served as the supervising officer (oshi-yaku), with regulators assigned to Sannomata-yama, Nakao-yama, Nagao-yama, and Hiekoba-yama. The post was later retitled “Saruyama Magistrate,” then abolished in favor of two inspectors under the daikan with several assistants—an organization devoted to protecting and promoting ceramics. Under successive Ōmura lords, Hasami ware was nurtured by domainal patronage: forests for fuel were granted, and funds and rice were lent to the kilns.
Inspection of Gosu (Blue Pigment)
The Saruyama diary records, “On the 11th day of the 12th month, Genroku 5 (1692), painting pigment began to be obtained from Honda Magosaburō and Matsuo Tarōzaemon of Funadaikumachi, Nagasaki.” The domain focused on careful selection, dispatching officials to Nagasaki to inspect and purchase directly from Chinese merchants, then distributing the pigment to each kiln on a quasi-monopoly basis.
“Hui-qing” and “Suni-botsu Blue”
Gosu (also written gosu/gyokusu) is a natural cobalt-silicate. Since antiquity it has colored sculpture, glass, and ceramics in Egypt and China. The variety called hui-qing was first supplied to China by the Huigu (Uyghur) people or Muslim traders via Arabia and Persia—hence the old label “Mohammedan blue.” “Suni-botsu blue” (蘇泥渤青) was said to be imported by Chinese through trade with Arabs and Syrians in Sumatra and Borneo.
Yunnan Pigment and Grading
When imports faltered, China located deposits in Yunnan and Guizhou; later, ores from Shaoxing and Jinhua in Zhejiang—called “zhai-qing”—were regarded as the finest. Japan mainly received Yunnan material at the time. Initially mixed into glaze to make “lapis” wares, cobalt soon served for painted decoration. Grades ranged from superior Yunnan/Zhejiang to inferior Jiangxi/Guangdong lots; because most appeared greenish and were hard to tell apart, the Nagasaki bugyō instituted strict inspections. In Ōmura domain, expert officers procured selected lots known locally as “Ōmura medicine.”
Boom of Nagasaki and the Taste for White Porcelain
From Jōkyō 2 (1685), Chinese junks crowded Nagasaki; by Genroku 1 (1688) about 200 ships and 10,000 Chinese arrived, ushering in a commercial zenith. The Ōmura lands prospered on that inflow of goods and purchasing power. As white porcelain emerged, Ōmura/Hasami wares matched prevailing tastes. The miscellany Kiyū Shōran notes that Dutch merchants, connoisseurs of world commodities, praised Imari porcelain as the best, especially pieces by Goroshichi and Ryūemon, while scorning inferior foreign pottery. In the Hōei era shipments from Hasami increased; a record states, “On the 11th day of the fifth month, Hōei 2 (1706), shipments commenced by bill of lading.” With the Shōtoku-era adoption of Amakusa stone (1711–1716), Hasami ware reached maturity: chiefly everyday tableware—less luxurious than Mikawachi, but larger in volume.
Domainal Monopoly and Distribution
When each of the four climbing kilns finished a firing, domain officers sealed the kilns; after a permit was issued, goods were drawn and all transactions entrusted to the domain. A government ship anchored at Kawatana (Mitsugoshi), loaded the cargo, and sailed to Osaka for sale at the Ōmura kura-yashiki (warehouse). Even when kilns dealt with out-of-province merchants, they needed domain approval and often an official present; financing had to be filed in writing.
Contracts with Osaka Wholesalers (Kanpō 3, 1743)
The contract in Saruyama-ki stipulates: freight payable as early as the day after arrival at the captain’s request; exchange remittances due within 30 days of arrival (or immediately with a standard discount); final settlement due within 60 days of sale (again, early payment with the set “step-silver” discount); same-day submission of sales copies; a commission (kuchisen) of 12%, split as 3% “myōga-gin” to Matsuya Shōzaemon, 3% kickback to brokers, and 6% to the wholesalers; and full responsibility for inspection and claims handling. Multiple Osaka firms (Masuya, Tomitaya, Hyōgoya, Izumiya, etc.) signed.
Wages at Sannomata (Tenpō 9, 1839)
A ledger fixes piece-rates per nori (the number placed on one bat/board) and per-piece fees. Examples: ō-chazuke bowls, 26 nori, 9 mon; wa-chawan (ring-rim bowls), 39 nori, 9.5 mon; sencha cups, 40 nori, 10.5 mon; hanasei, 44 nori, 9 mon; set of four bowls, 12 mon per set; etc. A June 20 tariff lists design surcharges (e.g., “Hakata-e” for large chazuke: 8; “Mikiryū” middle chazuke: 4; “Nijūshikō” ring bowls: 4; “Kiku-kuchi-iri Hanasei”: 2; “Shima-e” sencha: 3). Daily wages: men (outside day labor) 120 mon; women 55 mon.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
波佐见“皿山役所”
寛文五年(1665),藩主大村因幡守純長在三之股设立皿山役所,任岩永七郎右工门为押役,并向三之股山、中尾山、永尾山、稗木场山配属取缔役。其后改称“皿山奉行”,再度改革为由两名取缔役与代官麾下若干下役构成的体制,专责保护与振兴陶业。波佐见烧历代受藩主庇护,自燃料山林的下付,到资金与米谷的贷付,均得周济而成长。
呉须的鉴查与调配
关于染付颜料“唐人药”=呉须,《皿山日记》记为“元禄五年(1692)十二月十一日,自长崎船大工町本田孫三郎、松尾太郎左工门始得”。藩方重在选别,遣吏赴长崎直接向华人鉴查购买,再专卖式配给各窑。
回青与蘇泥渤青
呉须为含硅酸钴的天然矿物,古用于埃及、中国之雕像、玻璃和陶器。所谓“回青”,或由回纥人、回回教徒经阿拉伯、波斯输入,故旧称“Mohammedan blue”。“蘇泥渤青”则谓中国人与阿拉伯人、叙利亚人在苏门答腊与婆罗洲贸易所获。
云南绘药与品级
输入一度中断后,中国在云南、贵州等地自给;后又有浙江绍兴、金华所产“斋青”为上选。彼时入日本者多为云南产。初混入釉制成琉璃釉器,继而用于“花”=绘彩。因外观多呈绿色且难辨,长崎奉行设员严审输入。大村藩由精通者采办,各山称为“大村药”。
长崎繁盛与白瓷赏玩
自贞享二年(1685)起唐船云集,元禄元年(1688)达二百艘、一万人,长崎极盛。大村领承接其文化与购买力而兴。大村烧制得白瓷,契合嗜好而广受欢迎。《嬉遊笑覧》称和兰商赞伊万里磁为“海内第一”,尤推“五郎七”“柳右工门”之作。宝永年间波佐见烧出货增多,记有“宝永二年(1706)五月十一日以送状开商”。正德期确立天草石配用,波佐见烧臻于成熟;虽以日用食器为主、少有高档品,然产量反超三河内。
藩之专卖与流通
四处登窑烧成后,藩吏赴场封印,发给许可后方可出窑;交易一概由藩受托。御用船泊川棚三越装货,发往大阪蔵屋敷销售。即便与外商直售,亦须藩许与官员在场;资金附带须具书面呈报。
与大阪批发商的契约(寛保三年,1743)
《皿山记》所载:运费银可于到港翌日按船头所请支付;汇兑银自到港日起三十日限(急需者按定步银折扣即付);结算银自卖付日起六十日限(亦可折扣预支);卖上写当日交付;口钱为高的一割二分(12%),其3%为冥加银付松屋庄左工门,3%返中间行,6%归问屋;并负责检验与理赔。多家大阪问屋联署。
三之股的工价(天保九年,1839)
账簿规定以“のり”(每块皿板装载数)计件并列单价。如:大茶渍=26のり・9文,轮茶碗=39のり・9分半,煎茶=40のり・10分半,花清=44のり・9文,四只碗成套=12文等。六月二十日另定绘付直段:“博多绘(大茶渍)8”“三木龙(中茶渍)4”“二十四孝(轮茶碗)4”“菊口入(花清)2”“岛绘(煎茶)3”。日工:男120文,女55文。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
波佐見「皿山役所」
寛文五年(1665),藩主大村因幡守純長於三之股設皿山役所,以岩永七郎右工門為押役,並配取締役於三之股山、中尾山、永尾山、稗木場山。後改稱「皿山奉行」,再行改革為由二名取締役及代官麾下若干下役之體制,以保護並振興陶業。波佐見燒受歷代藩主庇護,自燃料山林之下付,至資金與米穀之貸付,悉獲支援而成長。
呉須之鑑查與調配
關於染付顏料「唐人藥」=呉須,《皿山日記》載:「元祿五年(1692)十二月十一日,自長崎船大工町本田孫三郎、松尾太郎左工門始得。」藩方重視選別,遣吏赴長崎自華人直接鑑查購入,並專賣式配給諸窯。
回青與蘇泥渤青
呉須(極素)為含矽酸鈷之天然礦,自古用於埃及與中國之佛像、玻璃、陶器。所謂「回青」,或由回紇人、回回教徒自阿拉伯、波斯輸入,故舊稱「Mohammedan blue」。又「蘇泥渤青」稱為中國人與阿拉伯、敘利亞人在蘇門答臘、婆羅洲貿易所得。
雲南繪藥與品級
輸入一度停滯後,中國於雲南、貴州等地自給;繼有浙江紹興、金華所產「齋青」為上品。當時入日多為雲南產。初混釉製琉璃釉器,後用於「花」=繪彩。因多呈綠色且難辨,長崎奉行設員嚴審。大村藩由通曉者采辦,諸山稱「大村藥」。
長崎繁盛與白瓷賞玩
自貞享二年(1685)起唐船雲集,至元祿元年(1688)達二百艘、一萬人,長崎極盛。大村領承接其文化與購買力而興。大村燒白瓷切合嗜好而廣受歡迎。《嬉遊笑覧》稱和蘭商賞伊萬里磁為「海內第一」,尤推「五郎七」「柳右工門」之作。寶永年間波佐見燒出貨漸增,記有「寶永二年(1706)五月十一日以送狀開商」。正德期確立天草石之運用,波佐見燒更臻完善;以日用器為主,高級品較少,然產量反超三河內。
藩之專賣與流通
四處登窯燒成後,藩吏赴場封印,給許可後始得出窯;交易概由藩受託。御用船泊川棚三越裝載,發往大阪蔵屋敷販售。即與外商直售亦須藩許與官員在場;資金融通亦須書面呈報。
與大阪問屋之契約(寛保三年,1743)
《皿山記》所載:運費銀可於到港翌日照船頭所請支付;匯兌銀自到港日起三十日限(急需者按定步銀折扣即付);結算銀自賣付日起六十日限(同可折扣預支);賣上寫當日遞交;口錢為高之一割二分(12%),其中3%為冥加銀付松屋庄左工門,3%還中間行,6%歸問屋;並負責檢驗與理賠。多家大阪問屋聯署。
三之股之工價(天保九年,1839)
帳簿以「のり」(每塊皿板之裝載數)計件並列單價。例如:大茶漬=26のり・9文,輪茶碗=39のり・9分半,煎茶=40のり・10分半,花清=44のり・9文,四只碗成套=12文等。六月二十日另定繪付直段:「博多繪(大茶漬)8」「三木龍(中茶漬)4」「二十四孝(輪茶碗)4」「菊口入(花清)2」「島繪(煎茶)3」。日工:男120文,女55文。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
皿山官署与庇护
1665年,Ōmura Suminaga在三之股设皿山官署,设监管与巡查,致力于保护与振兴陶业。波佐见烧在藩的资材与林木、资金与米谷贷款支持下成长。
颜料与“Mohammedan blue”
1692年起从长崎商人购入呉须,藩吏亲审后配给各窑。所谓回青由回纥/穆斯林经阿拉伯、波斯输入,又有自苏门答腊、婆罗洲贸易而来的“蘇泥渤青”。进口一度停滞后转用云南、贵州与浙江绍兴、金华的矿源(“斋青”为上),并严行长崎口岸的检验。大村藩精选者称“大村药”。
繁荣与白瓷
1685—1688年,长崎迎来两百艘唐船与万名华人,商业极盛。白瓷合乎嗜好,《嬉遊笑覧》称荷兰商推崇伊万里磁为“海内第一”。宝永年间波佐见出货上升;正德时采用天草石,波佐见烧成熟,以日用器为主、量胜于质。
专卖与大阪合同
出窑须封印与许可,交易由藩统办,御用船自川棚启航至大阪蔵屋敷销售。1743年与大阪问屋之约定:运费与汇兑、结算期限(30/60日);可按定折扣提前支付;当日交卖上写;口钱12%(3%冥加银、3%回中间行、6%归问屋);并负检验与索赔。
工价(1839年)
按“のり”(每板装数)计件:如大茶渍26のり9文、轮茶碗39のり9.5文、煎茶40のり10.5文等;设计加价另列。日工:男120文,女55文。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
皿山官署與扶植
1665年,Ōmura Suminaga於三之股設立皿山官署,置監督與取締,專司保護與振興陶業。波佐見燒得藩給林木、資金與米穀貸付而成長。
顏料與「Mohammedan blue」
自1692年起自長崎商人購呉須,藩吏親審後配給諸窯。回青經回紇/穆斯林由阿拉伯、波斯輸入;又有自蘇門答臘、婆羅洲之「蘇泥渤青」。輸入一度停滯後,改用雲南、貴州與浙江紹興、金華礦源(「齋青」為上),並由長崎口岸嚴格檢驗。所精選者稱「大村藥」。
繁榮與白瓷
1685—1688年間,長崎迎來兩百艘唐船與萬名華人,商業極盛。白瓷契合嗜好,《嬉遊笑覧》載荷蘭商推伊萬里磁為「海內第一」。寶永期波佐見出貨漸增;正德期採用天草石,波佐見燒趨於成熟,主為日用器,量勝於質。
專賣與大阪契約
出窯須封印與許可,交易由藩統辦,御用船自川棚啟航至大阪蔵屋敷販售。1743年與大阪問屋之條款:運費與匯兌/結算期限(30/60日);可按定折扣提前付款;即日交賣上寫;口錢12%(3%冥加銀、3%還中間行、6%歸問屋);並負檢驗與理賠。
工價(1839年)
以「のり」(每板裝數)計件:如大茶漬26のり9文、輪茶碗39のり9.5文、煎茶40のり10.5文等;圖樣附加價另列。日工:男120文,女55文。

