三の股皿山役所~皿屋谷と波佐見青磁

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【原文】[Original text]

三の股皿山役所
 皿山役所は三の股山にありて三皿山の中央部に當る地位であつた。此の役所趾には今の永尾山へ行く廣き村道が走ってゐる。當時此役所は製陶一切の獎勵監督の外、製造材料の如きも仕入れ置きて、窯焼へ配給せしもの如く買入につき左の如き古文書がある。

役所の橋灰仕入
當役所瀬戸物方入用ゆす灰薩摩船頭傳兵衛と申者より肥後人吉産物の由兼而相調相辨候處同人暫來不申追々差問候間其方人吉表へ罷越可致調達候右品柄直段に寄當役所入用の都合年々相調候樣取組可申此節者金五拾兩爲持遣候條右尺買入可申候又取組面倒の儀も有之候はヾ此書付其筋へ差出急速調達相成候様可致心配候以上
天保十二年四月五日 大村皿山役所
小村屋大助どの

馬場大助の赤繪研究
 此宛名の小村屋大助とは三の股の御用商人らしく、或は馬場大助にあらずやとの説あるも、彼は天保三年六十才を以て卒去してゐる、此大助は三の股赤繪研究者のナンバーワンとして、斯道に於ける貢献者なることは、其古文書を得たるを以て左に掲載せんに、それには「家傳赤繪調合極秘之事他見無用」と記してあり、そして赤、青、黄、黒、紫、群青、糀、飴色等十餘種の調合書の次に左の如き事が書加へられてある。

玉粉拵方(唐石なるべし)
強き時は白石をへらして加減なり
何れも焼く時分に此玉粉心見致すべし
白石 七拾目 同 百三拾目
鉛 七拾目 同 百目
白焰硝 三拾目 同 二拾目
(上は弱調合にて下は強調合か)

右燒方白石とは傅七釜上の野山に白石有り是を素焼釜の上に一時燒追々揚て水に入るればざくざくにくだけるなり細味にして右分量に掛け鉛鍋に入れとろまかし夫に白ゑんしょう入ませ合せて壺に入素焼釜又は別に赤畫釜の様に釜ぬり壺を内釜にして燒なりぐつぐつたぎる事しばらく火箸を入れすくひ見ればすなはち飴の様に相成それを水に入れ見れば水色のびひどろになり是は大助くふうに仕出すなり
抑赤畫之儀者先年より有田山に限者なり後世に成りて上方筋相拵出來宜候得共不叶事者荒金を潰し付くる事二つには赤色なり金外だみだけ者至て六か敷夫者日本唐國まで右外だみだけは出來る事不叶有田外では自分唯心を痛有田同様に仕出すなり
于後諸々山々赤薔相始唐行燒物仕立候得共赤色仕法違候故本赤に不有青色黄色の様にて相辨じ候
自分赤畫出來候事御國先々年御上にて右御製有之候得共一向出来不致故是をかなしみ相達候處凡貳ヶ年の内荒まし相分漸二十年も心をつくし候處無多方心得候事は必他人より何の人にても傳可致事皆無用の事なり云はヾ唐國日本異國の内に本赤畫だけは有田山自分斗りなり
玉粉鉢にてすり繪藥立候樣上汁を取り其上汁を一時後口より又別の鉢に取り是は極細味目薬の様に有□赤又は桃色其外上色の者に可遺荒き處青などに可遺

三の股の古窯
 三の股の古窯には青磁窯、上登、下登、新登があり、當時の古文書に左の如きものがある。但し釜數幾軒とあるは、窯數幾間のことなる可きも、原文の儘に記載することゝした。又釜司とは窯焼のことである。

三の股古文書
三の股皿山
一竈數百八軒 內釜司二十六人
上登釜数二十三軒
內 十七軒 本釜
內 二軒 安光光
內 四軒 灰安光
下登釜数二十四軒
內 十七軒 本釜
內 四軒 安光
內 三軒 灰安光
新登釜数二十一軒
內 十二軒 本釜
內 六軒 安光灰安光
內 三軒 灰安光
燒物出来高一萬三千二百三十俵
但一軒に付二百四十俵一ヶ年三度の燒立
燒物土 一萬九千四百四十荷
但安光入りて一度に百二十荷宛
薪 百三十七萬八千本
焼物運上 二貫六百四十六匁(壹俵につき二分宛三分銀入にて)
但荷運上 一分三厘三分銀七分二厘
灰運上銀 一ヶ年に拾三匁宛
酒場運上 一ヶ年に拾五匁宛
釜運上 一ヶ年六百九十匁
但本釜一軒に付拾五匁宛
水碓數百拾丁
一同斷新登釜は元和二年本島久兵衛といふ者始建之
一寛文年中岩永七郎右工門勤番中三の股始て皿山役所を建後惣皿山奉行黑板喜左工門勤之寶永五年より元締役支配となり今元締附代官兼帶一人請拂一人勤番する也
一三皿山の者共是迄村庄屋に於て踏繪改之文政十一年より依願皿山役所に於て改之尤帳面も無混雑ように皿山一手に仕立つるなり
一三の股皿山より西庄屋まで一里十五丁程牛馬往来の本街道なり東は嬉野へ越す一騎通りの小道南は不動山へ赴く小道なり牛迄は往来するなり北は永尾山本通にして左右用木山請林畑屋舗山中人家あり此處に天満宮の社あり此社内に這松とて名木あり
前記の文中酒場運上とあるは、藩は製陶地を優遇して造酒の如きも僅少の租税にて、勝手に之を許せしものらしい。

繪踏
 又繪踏と稱するは、寛永三年(1626年)長崎奉行水野守信が案出せしものにて、當時耶蘇宗門嚴禁の時代に於いて、若しや密かに信奉する者あらずやと、基督の肖像を浮出せし銅板等を備へ、それを宗門改めの當日、一人々々足もてうち踏ませ、人別に繪踏帳へ記入せるものにて、其の舉動に依つて彼等を検證するといふよりも、寧ろ彼等より懺悔信誓の機會を奪ひ且つはイエスの神の栄光に浴する資格を失はしむ可き方策であつた。(而して此繪踏法は好成績を認めざる爲め安政五年(1859年)より廢止された)又新登の元和二年云々は勿論陶器時代である。
 最初此地方の製造磁器は、天草原料の使用以前とて未だドス黒みを帯びたる色相であり、それに簡粗な吳洲繪を描きし食碗が重なる製品であつた。蓋し當時にあつては有田皿山の外未だ本邦に白磁の製造地なかりしかば、それに似寄りの磁器とてもなかなか歡迎された時代であつた。

萬屋藤九郎
 故に其頃江戸の商人萬屋藤九郎が巨費を投じて窯仕込を成せしが如く、かくて此取引より全国的に、波佐見焼の名を諦めしと見る可きであらう。
 而して元縮なる皿山役所を、三の股の地域に設置せしは、位置の中央なるのみでなく、原料石産地たることも亦副因たりしことが察せらる。

目砂坑
 此砥石川磁石採掘所の高丘に、松尾官一所有の目砂土(珪石質)が採掘されてゐる、即ち山上に一坪程の四角な竪坑が、二つ列んて掘下げられてあり、此内深き方は十二三間の地底より釣瓶式にて引上げられてゐるが、良質とて他山へも搬出されてゐるといはれてゐる。

三の股青磁
 目砂坑の脇が高麗窯跡と稱せらるゝ三の股青磁窯にて、附近には優色なる青磁の残缺が散亂してゐる。それは碪青磁や天龍寺青磁にて、高臺や丼の外部などを竹篦にて巧妙に削り、或は三本足の菓子器など勝れた技巧である。また桃模様の疎雅な毛彫や、雷紋などの沈彫其他種々の浮彫等がある。

皿屋谷と波佐見青磁
 此青磁製作は、藤津系の不動山より渡り来し韓人の傳統にて、最初此處の木場山に始まり、次いで三の股や中尾山に傳播せしといはれてゐる。然るに反説にては、此三の股の青磁が、不動山方面に傳授されしと唱ふる者もある。蓋し此處よりも古くより開窯せし不動山なる皿屋谷の韓人が、一里余の山傳ひに此地の磁石を発見して、青磁を創製せしとの説も決して否定されぬ理由であらう。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

三の股皿山役所は三の股山の中央部に置かれ、現在は永尾山へ通じる広い村道がその跡を横切っている。役所は奨励と監督だけでなく、原材料を一括仕入して各窯に配給もしたらしく、天保十二年(1841年)付の書状には、人吉産の「ゆす灰」を薩摩の船頭傳兵衛を通じて調達せよ、当座の資金として金五十両を持参する—と具体に記されている。

小村屋大助(馬場大助か)は三の股の御用商人で、赤絵研究の第一人者と伝わる。「家伝赤絵調合極秘」と題する覚書には、赤・青・黄・黒・紫・群青・糀・飴色など十数種の調合法に加え、玉粉(ガラス質の熔剤)として白石・鉛・白焔硝の配合と、白石を素焼窯で仮焼→鉛鍋で熔かし→壺焼きでフリット化する工程が細記され、本赤は本来有田山に独自の技で、自ら二十年工夫の末に近づけた、と自負が述べられている。

三の股の古窯は、青磁窯・上登・下登・新登の系統があり、古文書には竈数・本釜/安光(焚口調整)・灰安光の内訳、年三回焼成で一万三千余俵の出来高、土・薪の所要、運上(焼物・荷・灰・酒場・釜)の税目、水碓の数、元和二年に新登を本島久兵衛が創建、寛文期に皿山役所設置、文政十一年から踏絵改めを役所一手で行う—などの記載が見える。酒場運上の項からは、製陶地に酒造を軽税で許した優遇策もうかがえる。

踏絵は寛永三年(1626年)に長崎奉行水野守信が始めた宗門改めの方法で、1859年(安政五年)に廃止。新登の元和二年は陶器期で、当初の磁器は天草石導入前で地が黒み、粗い呉須絵の飯碗が主力だったが、白磁産地が有田以外に乏しい当時は模倣的な磁器でも歓迎された。

江戸の萬屋藤九郎が巨費を投じて窯仕込みを行い、取引を通じて波佐見焼の名が全国に広まった。役所が三の股に置かれたのは地理の中心性に加え、近在に原料石の産地があったためでもある。砥石川の高丘では松尾官一の目砂坑(珪石)が採掘され、深さ十数間の竪坑から釣瓶で引き上げ、他山にも出荷された。

三の股青磁窯跡の周囲には、碪青磁・天龍寺青磁系の良品残片が散り、竹篦で高台や胴外を巧みに削る技、三本足の菓子器、桃文の毛彫、雷文の沈彫、各種の浮彫など多彩な技巧が認められる。青磁の伝来は、不動山(皿屋谷)の韓人系が木場山→三の股・中尾へ伝えたとも、逆に三の股から不動山へ伝授したとも言われ、皿屋谷の人びとが山伝いに当地の陶石を見出して創製したとの説も成り立つ。


【英語訳】[English translation]

Sannomata Saruyama Office
Located at Sannomata-yama—the midpoint of the three kiln hills—the Saruyama office once stood where a broad village road now leads toward Nagao-yama. Beyond promoting and supervising production, the office also bulk-procured materials and rationed them to kilns. A letter dated Tenpō 12 (1841) orders “yusu-ash” (flux ash) from Hitoyoshi in Higo via the Satsuma boatman Denbē, forwarding 50 ryō in cash and authorizing expedited purchase.

Komuraya Daisuke—possibly the guild merchant Baba Daisuke—was reputedly Sannomata’s leading researcher of aka-e (red overglaze). His “Family Secret of Aka-e Formulas—Strictly Confidential” lists a dozen color recipes (red, blue, yellow, black, purple, ultramarine, kōji, amber, etc.) and a frit called tamako: white stone + lead + saltpeter, with instructions to prefire the stone, melt with lead, mix in saltpeter, and rebake the crucible to obtain a glassy frit. He insists that true hon-aka originated in Arita; after some twenty years of trials he approached it, while many hills produced dull bluish or yellowish reds due to improper methods.

Old kilns at Sannomata included a celadon kiln and the Upper, Lower, and New Nobori-kilns. A record enumerates kiln counts (main, anko, hai-anko), three firings per year yielding 13,230 bales, required clay, 1.378 million billets of firewood, various duties (on wares, freight, ash, taverns, kilns), over a hundred water stampers, the founding of New Nobori in Genna 2 by Motojima Kyūbē, establishment of the Saruyama office in Kanbun, and from Bunsei 11 the office’s centralized administration of the efumi (image-trampling) inspections. The “tavern duty” suggests the domain allowed low-tax brewing to favor the pottery district.

Efumi began in Kan’ei 3 (1626) under Nagasaki magistrate Mizuno Morinobu and was abolished in Ansei 5 (1859). The New Nobori dates to the pottery phase. Before Amakusa-stone was adopted, local porcelain bodies fired dark and bowls bore rough gosu painting; yet with Arita the only true white-porcelain center, such Arita-like wares were welcomed.

Edo wholesaler Manya Tōkurō invested heavily in kiln charges, helping Hasami ware gain national circulation. The office stood at Sannomata not only for centrality but also because raw materials were nearby. At the Toishi-gawa high ridge, Matsuo Kan’ichi’s mezuna (siliceous sand) pit used twin square shafts—one some 12–13 ken deep—raising ore by bucket; quality was good enough to ship to other hills.

Around the Sannomata celadon kiln site lie fine shards—sumizumi and Tenryū-ji–type celadon—showing knife-scraped feet and exteriors, elegant three-legged sweets dishes, peach motifs in light line engraving, thunder-scroll intaglio, and varied reliefs. As for origins, one view traces celadon from Korean-line potters at Fudō-yama (Sarayadani) → Kibayama → Sannomata & Nakao; the reverse transmission is also argued. It is plausible that Sarayadani potters, earlier active than Sannomata, discovered this district’s porcelain stone by crossing the ridge and created celadon there.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

三之股皿山役所设于三之股山之中枢,今通往永尾山的宽阔村道横贯其址。役所不仅奖励乐观与监督,还统一采购原料分配各窑。天保十二年(1841)文书载:自肥后人吉以薩摩船头傳兵衛调“ゆす灰”,先付金五十两,务求火速成办。

小村屋大助(或即馬場大助)为三之股赤绘第一人。其《家传赤绘调合极秘》记红、青、黄、黑、紫、群青、糀、飴色等十余配方,并述“玉粉”(玻化熔剂)之制:白石+铅+白焰硝,先仮烧白石,再与铅合熔,入壶复烧成玻化料。本赤本源在有田,自称经二十年苦心方近其境。

古窑体系有青瓷窑、上登、下登、新登。古文书详列:本釜/安光/灰安光之数、年三烧得一万三千余俵、土与薪用量、烧物・荷・灰・酒场・釜等运上、水碓百余、元和二年本島久兵衛起新登、寛文期设役所、文政十一年起踏绘改由役所一手。酒场运上见当时以轻税许酿以惠陶区。

踏绘始于寛永三年(1626),安政五年(1859)废。新登之元和二年属陶器期。天草石采用前,胎色偏黯,碗多粗笔呉須;然白瓷仅见有田之世,此类仿作亦受欢迎。

江户商萬屋藤九郎巨资充窑,助波佐见名播全国。役所置于三之股,除地理中心,亦因近原料石。砥石川高丘之松尾官一“目砂坑”为硅质砂,双竖井,一深达十余间,以吊桶汲出,且外销他山。

三之股青瓷窑周边散见佳片:碪青瓷、天龍寺青瓷系,见高台与外壁竹篦削、三足果器、桃纹毛彫、雷纹沈彫与诸般浮彫。其系谱或曰自不动山(皿屋谷)韩人系经木场山传至三之股・中尾;或反自三之股授于不动山;皿屋谷先民越岭发现此地陶石而创青瓷之说亦可立。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

三之股皿山役所設於三之股山之中樞,今通往永尾山之寬村道貫其址。役所不僅獎勵監督,亦統購原料配給諸窯。天保十二年(1841)文書云:自肥後人吉由薩摩船頭傳兵衛調“ゆす灰”,先付金五十兩,務速辦理。

小村屋大助(或即馬場大助)為三之股赤繪第一人。《家傳赤繪調合極秘》列紅、青、黃、黑、紫、群青、糀、飴色等配方,並記“玉粉”(玻化熔劑)製法:白石+鉛+白焰硝,白石先仮燒,再與鉛熔合,入壺復燒成玻化料。稱本赤本在有田,自述二十年苦心乃近其技。

古窯有青瓷窯、上登、下登、新登。古文書詳載:本釜/安光/灰安光之數、年三燒出一萬三千餘俵、土與薪耗、諸運上(水碓百餘)、元和二年本島久兵衛建新登、寛文期設役所、文政十一年起踏繪改由役所總理。酒場運上示輕稅許釀以惠陶鄉。

踏繪始於寛永三年(1626),安政五年(1859)廢。新登之元和二年屬陶器期。天草石未用前,胎色黯黑,碗多粗筆呉須;然白瓷罕見有田之外,仿作亦為世所喜。

江戶商萬屋藤九郎巨資充窯,助波佐見名播全國。役所置三之股,除地理中心,亦因近原料石。砥石川高丘松尾官一之目砂坑為矽質砂,雙豎井,其深者十餘間,以釣瓶引上,且外銷他山。

三之股青瓷窯旁多佳片:碪青瓷、天龍寺青瓷系,見高台與外壁竹篦削、三足果器、桃紋毛雕、雷紋沈雕與諸浮雕。系譜或自不動山(皿屋谷)韓人系經木場山傳至三之股・中尾,或反自三之股授不動山;皿屋谷先民越嶺發見此地陶石而創青瓷之說亦可通。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

三之股皿山役所坐落于三之股山中心,今有通永尾山之宽道贯其址。除督导与振兴外,役所并统一采购原料配给诸窑。天保十二年(1841)来往文书命自肥后人吉购“ゆす灰”,由薩摩船头傳兵衛承办,并预付五十两。

小村屋大助(或即馬場大助)被誉为三之股赤绘首席研究者。《家传极秘》详列十余色配方,并述“玉粉”熔剂:白石+铅+硝石,经仮烧、合熔、壶烧成玻化料。他称真正“本赤”源于有田,自身二十年方逼近,而他山常因法不当呈青黄之伪赤。

记载亦列上登、下登、新登与青瓷窑之数、年三烧产量、粘土与薪用、各项税费、水碓百余、Genna二年新登创设、Kanbun期设役所、Bunsei十一年起由役所集中执行“踏绘”。“酒场税”反映对陶乡的轻税扶持。

踏绘起于1626年,1859年废。天草石采用前,瓷胎偏暗、呉须粗绘;因当时白瓷仅见于有田,此类仿制亦受欢迎。

江户万屋藤九郎重金“充窑”,助波佐见名播全国。役所置于三之股亦因其近原料石。Toishi-gawa高岭之“目砂坑”为硅砂,双竖井,一深十余间,以吊桶汲出,亦外销他山。

三之股青瓷窑出土示:Tenryū-ji型与磨砧青瓷,足与外壁竹篦削,三足果器,桃纹细刻、雷纹沈雕与浮雕并见。源流或自Fudō-yama(Sarayadani)韩人系经Kibayama传至Sannomata/Nakao,或反向传播;皿屋谷先民越岭觅石创青瓷亦有理。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

三之股皿山役所位於三之股山中心,今有通永尾山之大道貫址。除督導與振興外,役所亦統一採購原料配給諸窯。天保十二年(1841)書狀命自肥後人吉購「ゆす灰」,委薩摩船頭傳兵衛承辦,先付五十兩。

小村屋大助(或即馬場大助)為三之股赤繪首席研究者。《家傳極秘》列十餘色配方,述「玉粉」熔劑:白石+鉛+硝石,經仮燒、合熔、壺燒而玻化。自稱真「本赤」源於有田,歷二十年方逼近,他山多以法不當致呈青黃偽赤。

檔案亦載上登、下登、新登與青瓷窯之數、年三燒產量、土與薪耗、稅目、水碓百餘、元和二年新登創建、寛文期設役所、文政十一年起由役所統一施行「踏繪」。酒場運上顯示以輕稅惠陶鄉。

踏繪始於1626,1859廢。天草石採用前,瓷胎偏暗,呉須粗繪;當時白瓷僅見有田,仿作亦受歡迎。

江戶萬屋藤九郎厚資充窯,助波佐見名播全國。役所置三之股亦因近原料石。砥石川高嶺之「目砂坑」為矽砂,雙豎井,其深者十餘間,以釣瓶汲出,並外銷他山。

三之股青瓷窯遺見:天龍寺系與磨砧青瓷,高台與外壁竹篦削,三足果器,桃紋細刻、雷紋沈雕與浮雕具備。源流或自不動山(皿屋谷)韓人系經木場山傳至三之股/中尾,或反向;皿屋谷先民越嶺覓石創青瓷之說亦通。