仁清解説(2)

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仁清(にんせい)—御室焼(おむろやき)の性格と呼称の確立・技法の全貌

御室焼〔注:仁和寺(にんなじ)門前に営まれた京焼の一系統〕が他の京窯と異なる性格をもったことは、当時の記録が圧倒的に多い点からもうかがえます。仁和寺と結びついた窯であったからこそ、当代随一の名工である仁清が従事した、と推測してよいでしょう。

仁清が轆轤(ろくろ)〔注:回転台で器体を成形する道具〕や細工物〔注:彫塑的な立体造形の小品〕の名手であったことは、現存作に触れれば明らかです。万治三年(一六六〇)三月十一日、後水尾院(ごみずのお いん)が仁和寺へ行幸し、わざわざ仁清の作陶を叡覧〔注:天皇がご覧になること〕したと『隔蓂記(かくめいき)』に記録されており、この評価の高さを物語ります。初期から茶入(ちゃいれ)〔注:濃茶用の小壺〕・茶碗・水指(みずさし)〔注:点前用の水容器〕など茶具を主に焼いたことも、同記録に頻出し、現存作もそれを裏づけます。

一方、開窯当初から艶麗な赤絵(あかえ)=錦手(にしきで)〔注:色絵の上絵付で赤・金などを多用する華麗な様式〕が行われていたかは不明です。『隔蓂記』に「野々村仁清作錦手赤絵茶碗」と明記されるのは万治三年五月四日で、それ以前の記事は茶碗・水指の名のみで彩色の有無は判然としません。ただし明暦三年(一六五七)には、安養寺(あんようじ)に奉納した色絵香炉に「奉寄進 播磨入道仁清作 明暦三年卯月」との刻銘があり、前年にも同形素焼の陶片に「野々村播磨……明暦弐年……」とあるため、明暦二〜三年には色絵が完成していたのは確実で、それ以前から試みられていた可能性すらあります。

安養寺の香炉に「播磨入道仁清」、素焼片に「野々村播磨」とある変化は、陶工・清右衛門(せいえもん)の身分と称号が大きく転じた証左です。正保四年(一六四七)開窯以降しばらくは、『隔蓂記』『仁和寺御記』に「焼物師清右衛門」「丹波焼清右衛門」「壺屋清右衛門」とのみ記されますが、明暦二〜三年になると自作に「野々村播磨」「播磨入道仁清」と銘します。以後、記録上の「清右衛門」は姿を消し、「任(仁の誤記)清」—すなわち「仁清」へ移行します。さらに「野々村姓」を称し、「播磨」「大掾(だいじょう)〔注:官途名に由来する称号〕」を冠した「野々村播磨大掾藤良正広入道仁清」という長銘を万治二年頃から作品に記す身分に至ったと伝えられます。

『仁和寺御記』に「丹波焼清右衛門」「壺屋清右衛門」とあるのは、彼が丹波(たんば)国・野々村の壺屋〔注:壺を主に焼く窯元〕の出身で、地誌『毛吹草(けふきぐさ)』(寛永十七年刊)に「葉茶壺(はちゃつぼ)」の名産地として挙げられる土地にゆかりをもったことを示します。呼称「仁清」は『陶工必用(とうこうひつよう)』〔注:尾形乾山(おがた けんざん)の陶法伝書〕の説明によれば、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」を合わせたもので、宮(=仁和寺宮)から賜ったとされます。同時に「播磨」「大掾」の称も拝領したのでしょう。これは独自の色絵完成で名声が高まった帰結とみられます。

また明暦三年には剃髪して「入道」〔注:出家者の通称〕と号したようですが、その直接の理由は未詳です。もし明暦二年片が完全に残り、そこに入道称が無ければ、最大の後援者であった金森宗和(かなもり そうわ)の死を機に出家した可能性も考えられますが、年齢による転身の線も排せず、詳細は判然としません。

以上より、「仁清」の呼称は正保四年の開窯当初からではなく、明暦頃に確立したと見るべきです。ゆえに、その以前の御室焼の無銘・無印作は初期作の可能性がありますが、上献や特注品は意図的に印を捺さない習いもあるため、無印=初期作とは断じられません。研究上は、銘・印と作行(さくゆき)を総合して段階づける必要があります。

仁清の使用印は、おおよそ五種に整理されます。①小判形の大印、②大内印(幕印)と通称される小印、③繭形の小印、④「清」の旁(つくり)が大印と同様の小印、⑤旁が大印と異なる小印です。⑤は俗に「宗和印」と呼ばれ、大中小の変化があるとも言われますが、未確定の点が残ります。これらの印は初代のみならず二代も用いたらしく、明らかに作行の劣る品にも押印例が見られます。ほかに「仁清」の字を釘彫りした書印も存在します。

本来、陶法は口伝が多く記録に乏しいのが常ですが、御室焼仁清の技法は、尾形乾山が著した『陶工必用』により全貌がほぼ伝わります。胎土(たいど)〔注:成形に用いる素地土〕は「本窯焼土」「五器手土」「いらほ土」「唐津土」「瀬戸貫入手土」「白絵べに皿手土」などを器種に応じて配合し、基本は京焼一般の黒谷土(くろだにつち)〔注:京都黒谷一帯の粘土〕を基調に諸土を合わせます。

釉薬(ゆうやく)〔注:素地表面を覆うガラス質被膜〕は「本焼掛ケ薬」「べに皿手薬」「高麗薬の方」「杜若(かきつばた)手の柿薬」「柿薬」「春慶釉」「茶入薬」「瀬戸釉」「唐物薬」「茶入金薬」「正意手茶入薬」「ちょこ手薬」「朝日手之薬」のほか、「青磁薬」「瀬戸青薬」「さび釉」「いらほ手薬」「刷毛目(はけめ)又井土手薬」など多岐にわたり、瀬戸系の技法が豊富に記される点は、京焼一般の傾向を示すとともに、仁清が瀬戸で修業したという伝承を補強します。

上絵の具(うわえのぐ)すなわち「錦手絵の具」も「赤・萌黄(もえぎ)・紺(青)・黄・紫・白・金・黒」など、現存する仁清色絵に見られる全系統の調合が挙げられています。これにより、器形と画題に応じた色域の設計が可能となり、艶麗の称を生む基盤が整えられました。

作域は茶壺(ちゃつぼ)・花入(はないれ)・香炉(こうろ)・香合(こうごう)・水指・茶入・茶碗・建水(けんすい)・蓋置(ふたおき)・皿・鉢から、水滴(すいてき)・硯屏(けんびょう)に至る幅広さを示します。轆轤成形は精緻で、鳥獣形の香炉・香合など彫塑的細工も卓抜でした。『徳川実紀(とくがわじっき)』天和元年(一六八一)七月二十八日条には、仁和寺から将軍・徳川綱吉に御室焼の茶碗・花瓶・硯屏などが献上されたとあり、加賀前田家・丸亀京極家の特別注文に応じた名作伝来からも、諸大名に広く賞玩されたことが知られます。

香炉・香合、さらに茶碗・水指の意匠には「都ぶり」の優美が満ち、有職故実(ゆうそくこじつ)〔注:公家社会の古例・作法体系〕に拠る図様が多いのも大きな特色です。とりわけ茶壺は資料上の言及が少ないにもかかわらず、仁清作品中で最重要に位置づけられます。現存する京焼で茶壺を確実に残すのは仁清のみで、丹波・野々村の壺屋出身という生い立ちが影響したと考えられます。杉本捷夫(すぎもと かつお)『丹波の古窯』は、その轆轤の作行きに丹波風が明瞭だと指摘します。絵文様は狩野派(かのうは)・宗達派(そうたつは)・海北派(かいほくは)風など多彩で、下図をそれぞれの絵師に注文したと推測されます。貞享元年(一六八四)刊『雍州府誌(ようしゅうふし)』には「近世、仁和寺門前に仁清の製造する所これを御室焼と称し、狩野探幽(たんゆう)・永真(えいしん)等に命じて其上に画かしむるを始む」とあり、当時の制作体制の一端がうかがえます。ただし探幽や永真が直に筆をとったかは断定できません。

窯場の実景については、延宝六年(一六七八)八月二十日、土佐・尾戸焼(おどやき)の森田久右衛門(もりた きゅうえもん)が旅日記に「御室焼見物……釜も七ツ有、唯今之焼手 野々村清右衛門……掛花入に尺八あり、香炉にゑびあり、おし鳥、雉など有」と記し、作風の多様と窯の規模を伝えます。「窯も七ツ有」とは域内に複数の窯種が併設されたのか、七部屋の登窯(のぼりがま)であったのか定かではありません。また「唯今之焼手 野々村清右衛門」とある点から、この頃には初代が没し、子の清右衛門が窯大将を務めていた可能性も考えられます。

要約(300–500字)
御室焼は仁和寺ゆかりの窯として記録が群を抜き、仁清の従事を得て茶具中心の制作を展開した。赤絵=錦手は明暦二〜三年に完成が確証され、安養寺奉納香炉の刻銘がそれを示す。明暦期に「清右衛門」から「野々村播磨入道仁清」へと称号が整い、野々村姓・播磨・大掾の称を帯びた。印章は五系に大別され、二代も使用した。『陶工必用』により胎土配合・瀬戸系を含む多彩な釉薬・錦手絵の具の調合法が伝わり、轆轤・細工の妙と相俟って諸大名にも愛玩された。茶壺は仁清のみが京焼に残した特筆作で、丹波壺屋出身の素地が反映する。雍州府誌は絵師関与の体制を伝えるが、実際の直筆の有無は断定できない。延宝六年の旅日記は窯が多基であった可能性と作風の広がりを記録する。

【関連用語】

  • 御室焼:仁和寺門前で営まれた京焼の一系統。宮廷文化に近接し、色絵の名品を多く生む。
  • 錦手(赤絵):上絵付で赤・金・緑青など多色を施す華麗な様式。仁清様式の代名詞。
  • 播磨・大掾:武家官途名に由来する称・位。作家の格式や叙任を示す付加称号。
  • 入道:剃髪して仏門に入った者の号。作家が出家後に号へ添えることがある。
  • 壺屋:壺の専業窯元。丹波・野々村の壺屋は葉茶壺の名産地として知られる。
  • 黒谷土:京都黒谷周辺の粘土。京焼の基幹土として他土と調合して用いられる。
  • いらほ土:伊羅保風の肌合いを出すために用いる土配合の一種。
  • 春慶釉:飴色系の温かい色調を呈する釉。木工塗の春慶にも名を仮託。
  • 『陶工必用』:尾形乾山の陶法伝書。胎土・釉薬・上絵具の調合法を詳述。
  • 『隔蓂記』:鳳林承章の日日記録。京焼・御室焼の記事が多く、一次資料として重要。
  • 『雍州府誌』:貞享元年刊の山城国地誌。御室焼と絵師関与の情報を記す。
  • 森田久右衛門:土佐・尾戸焼の陶工。延宝六年の旅日記に御室焼の窯場見聞を残す。