【原文】[Original text]
日の池焼
此外佐賀郡小關村の日池に於て、大正六・七年頃製陶を開始せしが、原料良好ならざし爲幾許もなく廢窯したのである。佐賀縣管内の外編製陶は之を以て終りとし、次に長崎縣管内を記述することする。
古賀人形
古賀人形の製作地は、北高來郡古賀村(元空閑村)の藤棚と稱する三十戸許りの村落にて、喜々津驛より三十二丁(長崎より三里半)の里程である。此地もと島原の城主松倉豊後守重昌の領地なりしが、寛永十五年切支丹の亂後諫早の支配にも屈せずして、幕府の直轄地とされたのである。
天文年間大村の藩士小川金右工門とする者、浪人して此古賀村に住し農業を営みしが、三代目小三郎の時に、京都の土器師常陸介なる者來りて滞在すること一ヶ年、此時彼が神佛用の土器を造りしより、小三郎之に師事し、農事の傍ら小川の土偶を作り創めしは文禄元年であつた。
小川喜三右エ門
天和年間(1532-1555年)後代小川喜三右工門に至り、肥後の國主より儀式用の土器製作指南の囑託を受けて出張中、彼地の人形製作に就いて研究せしといはれてゐる。文化年間(1804-1818年)小川金兵衛の代に至り、雛人形を製作して稍販路を擴むるに至つた。明治四十二年頃までは小川家の後代三戸にて製造せしも、四十五年より二戸と成ったのである。
當時の長崎知事安藤謙介は、縣下唯一の郷土人形として奨勵せしより、同年三月小川源智、同小太郎は佐賀、福岡兩縣の土偶製作地視察をなし種々改良を加へたるも販路は漸々と低下する而已であつた。現今製作者は家元小太郎一戸となり、原料は此地九重里の粘土を使用しつゝある。
古賀製偶の種類
最初人形の種類は形小さく梟や猿、猫、狆、太鼓坊主、福助等十八種にて、彩色の如きも赤と黒のみが文祿以来の様式なりしが後には黄や紫等を加はへ、天和頃より唐人、和蘭人、及元祿人形、武者人形等三十三種を増加するに至り、三百數十年連綿として繼續されてゐるのである。
此中に猿が鶏を抱へてゐる人形がある。由緒を聴けば往年此處の四牛山の農家某嘗て鶏を飼ひゐたるを、折々狐の為に攫はるゝより、或日彼は里出の時豫て愛する山中の猿共に、鶏を頼むと呼かけ去りしに、歸宅すれは果して一疋の猿が鶏を抱いてゐたので、此逸事が當時大評判となりしロマンス的作品といふのであつた。
其他ツッキャンギャン(肩車人形)ハイケン (猿子を着し太鼓坊主共に支那語にあらざるか)阿蘭陀甲比丹など、作風頗る麁朴にして面白きものがある。なほ此上に従来の着色彩料を、もつと寂びある色彩に改良せば一段の雅致を備ふ可きであらう。
龜山焼
文化元年(1804年)彼杵郡長崎村伊良林郷の垣根山 (長崎村は明治二十二年四月長崎市に編入されたのである)に於いて龜山燒が創始された。それは長崎八幡町の大神甚五平が、山田平兵衛、澤屋嘉右工門、古賀嘉兵衛等と協同して、年々蘭人が需めゆく水甕を製作することゝなり、郊外伊良林に於いて開窯し之が甕山焼と稱せられた。
肥田頼常
然るに此製造業が期待の利を擧げ得ざりしかば平兵衛、嘉右工門、嘉兵衛は組合を離るゝ事となり甚五平一人の經營と成った。同三年に至り時の長崎奉行肥田豊後守賴常の保護となり、有田流れの工人を雇ひ天草石を原料とし、白磁を製作して、奉行より幕府へ進献の器と定め之より龜山焼と改めたのである。
大神甚五平
甚五平自ら繪畫を善くし、其造るところの物には支那の古染附に髣髴たる逸品がある。彼卒するに及び舎弟卯平二代を嗣ぎしも、經管の如く成らずして聲價共に下った。
柳生久包
天保十二年 長崎奉行柳生伊勢守久包又大いに獎勵するところあり、此時清の微州初門の堊土を移し、酒器及茶器、茶盞等せせらる。そして染附磁器には所謂龜山山水が描かれたのである。
逸雲、鐵翁、梧門
又當時長崎の名流なる、八幡町の乙名木下逸雲 (通稱志賀之助、名は相宰、字は公宰別に養竹山人、如螺山人の號あり、慶應二年八月四日卒六十七才)春徳寺の釋鐵翁(本姓日高氏、明治四年十二月十五日卒、八十一才)會所目附三浦梧門(通稱總助、名は維純、字は宗亮一に秋聲、荷梁、融齋と號し山水畫を善くす)等の畫きし逸品がある。然るに再び經營難義となり三代甚五平に至つて途に廢窯にしたのである。
井田吉六
安政元年(1855年)江戸の名工井田乾齋(通稱吉六叉巳齋號し下總國海上郡布間村人、文久元年卒、七十才)は、娚の三浦乾也を伴ひ來つて龜山燒復興に努めしも、資金乏しく三年にして此地を去るに至った。
岡部長常
同六年九月長崎奉行岡部駿河守長常の時、更に龜山陶器所を興すことゝなり、江戸より屬官小島喜左工門來って主任たりしも、明治十六年に至り途に廢滅に終ったのである。
鵬ケ崎焼
鵬ヶ崎燒は、文化十二年 彼杵郡浦上村淵郷の鵬ヶ崎に於いて長崎東濱町の蒲池政入(後鎮久さ改む)が開窯せしものにて、彼は天保五年十月十二日七十八才にて卒す。
蒲池無爲齋
次に元豊前國中津の人にて、長崎銀屋町にありし中村秀吉蒲池氏を嗣いで之を継承した。破れ無爲齋と號して詩を善くし此處に雅致なる炻器を焼いたのである。それは山水花鳥或は自作の詩や讃を書せる趣味的作品が少なかつた。秀吉諱は鎮徳字は子明、後年學之助と改めし安政四年正月二十五日六十七才を以て卒したのである。
鵬ケ崎舊製品
今其遺作には、無釉鐵地に白釉にて作詩を書せし角口脇手の急須があり、同地にて邊に龍を彫刻せるが胴に白釉を飛ばせし水指や或は鐵描雲模様の火入等がある。又彼の蜀山人が「こんげん月はゑつとなかばい」の長崎訛りの狂歌を書き皿などもあり、或は支那蘇州の土を探って製せしものには、唐土蘇州土製の銘がある。斯くて嘉永年間(1848-1855年)に及んで廢絶したのである。
秋の浦焼
秋の浦焼は、安政四年の創始にて、長崎の對岸稻佐郷秋の浦に於いて、長崎鎔鐵所設立の際現今の第二船渠の邊りにて工場用の煉瓦を焼くに當り、共傍に天草石を原料さして阿蘭陀風の磁器を製作せしものにて、何それには赤繪を施されたのがある。後年該所が三菱造船所となり、船渠を開鑿せらるゝ時共處より窯や多くの皿、茶碗等の破片が發掘されし由にて、即今の他の浦さ改稱されし所である。そして又八軒家燒など稱するは此處の製品をさせしものであらう。
稲佐焼
稻佐焼と稱するは、嘉永七年 長崎の對岸浦上村淵の平戸小屋に於いて、鵬ヶ崎を廢窯せし蒲池淺吉が開窯せしものにて、浦上と稲佐の堺なる淵山より一種岩の如き軟質の陶石産出せるより、之を採って炻器を製作しものである。中には英國風の摸寫焼などがあり、そして一名淵焼とも稱せられたのである。然るに安政三年より此地平戸小屋が異國人休息所となるに及んで、淺吉は前記の龜山へ移轉したのである。
蓮田焼
蓮田燒とするは、長崎より浦上への入口に往年井樋の口と云ひし所があり、其處に蓮田が存在せし由なるも、今は既に埋築されて其跡地さへ知れる者稀である。此處にて製作されし陶器が蓮田焼させらるゝも、其事蹟に就いては詳でない。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
日の池焼について――佐賀郡小関村の「日池」では大正六・七年ごろに製陶を始めたが、原料が良くなく、まもなく廃窯となった。これをもって佐賀県管内の外編に属する製陶の記述は終え、次に長崎県管内を述べる。
古賀人形の産地は、北高来郡古賀村(旧・空閑村)の「藤棚」と呼ぶ三十戸ほどの集落で、喜々津駅から三十二丁(長崎から三里半)の地点にある。ここはもとは島原の城主・松倉豊後守重昌の領地だったが、寛永十五年の切支丹の乱後、諫早の支配に服さず幕府の直轄地となった。天文年間、大村藩士の小川金右工門が浪人して古賀村に住み農業を営んだところ、三代目の小三郎の時に京都の土器師・常陸介が一年ほど滞在し、神仏用の土器を作った。小三郎はこれに師事し、農業のかたわら小川家の土偶作りを始めたのが文禄元年である。
小川喜三右工門の代(天和年間〔1532–1555年〕と記す)には、肥後の国主から儀式用土器の製作指導を依頼されて出張し、その折に当地の人形制作を研究したという。文化年間(1804–1818年)に小川金兵衛の代となり、雛人形を作って販路をやや広げた。明治四十二年頃までは小川家の三戸で製造していたが、同四十五年からは二戸となった。当時の長崎知事・安藤謙介が県下唯一の郷土人形として奨励し、同年三月には小川源智・小太郎が佐賀・福岡両県の土偶産地を視察して改良を加えたが、販路は次第に細った。現在の作り手は家元の小太郎一戸のみで、原料は当地の九重里の粘土を用いている。
古賀の土偶の種類は、当初は小型で梟・猿・猫・狆・太鼓坊主・福助など十八種、彩色も文禄以来の様式として赤と黒のみであったが、のちに黄や紫などを加え、天和ごろからは唐人、和蘭人、元禄人形、武者人形など三十三種に増え、三百数十年にわたり連綿と続いている。この中に猿が鶏を抱く人形がある。由来を聞けば、往時この四牛山の農家が鶏を飼っていたところ、たびたび狐にさらわれた。ある日、里へ出る折に日ごろ親しむ山の猿たちに「鶏を頼む」と声をかけて出かけ、帰宅すると本当に一匹の猿が鶏を抱いていた――この逸話が評判となり、ロマン風の作品になったという。ほかにツッキャンギャン(肩車人形)、ハイケン(猿子を着た太鼓坊主。支那語か)や阿蘭陀甲比丹など、素朴で面白い作もある。なお従来の着色を、もう少し侘びた色調に改めれば、いっそう雅味が備わろう。
龜山焼は、文化元年(1804年)、彼杵郡長崎村伊良林郷の垣根山(長崎村は明治二十二年四月に長崎市へ編入)で始まった。長崎八幡町の大神甚五平が、山田平兵衛・澤屋嘉右工門・古賀嘉兵衛らと協同し、年々蘭人が求める水甕を作るため、郊外の伊良林で窯を開き、当初は甕山焼と称した。だが利益が上がらず、平兵衛・嘉右工門・嘉兵衛は離脱、甚五平の単独経営となる。文化三年、長崎奉行・肥田豊後守賴常の保護を受け、有田出身の工人を雇い、天草石を原料として白磁を作り、奉行から幕府への進献品と定められて、このときから龜山焼と改めた。甚五平は自ら絵をよくし、中国の古染付に似た逸品もある。没後は弟・卯平が二代を継いだが、経営が振るわず名声も下がった。
天保十二年、長崎奉行・柳生伊勢守久包が再び大いに奨励し、この時に清の微州初門の堊土を移し、酒器・茶器・茶盞などを作らせ、染付にはいわゆる龜山山水が描かれた。加えて当時の長崎の名流――八幡町の乙名・木下逸雲(通称志賀之助、名は相宰、字は公宰。号に養竹山人・如螺山人。慶応二年八月四日、六十七歳没)、春徳寺の釋鐵翁(本姓日高氏。明治四年十二月十五日、八十一歳没)、會所目附の三浦梧門(通称總助、名は維純、字は宗亮。号に秋聲・荷梁・融齋。山水画に巧み)らの描いた逸品もある。しかし再び経営難となり、三代・甚五平の代で廃窯に至った。
安政元年(1855年)、江戸の名工・井田乾齋(通称吉六、また巳齋。下総国海上郡布間村の人。文久元年、七十歳没)が甥の三浦乾也を伴って来り、龜山焼の復興に努めたが、資金難で三年で去った。さらに同六年九月、長崎奉行・岡部駿河守長常の時に龜山陶器所が再興され、江戸から属官・小島喜左工門が主任となったものの、明治十六年に廃絶した。
鵬ヶ崎焼は、文化十二年、彼杵郡浦上村淵郷の鵬ヶ崎で、長崎東濱町の蒲池政入(のち鎮久に改む)が開いた窯で、彼は天保五年十月十二日、七十八歳で没した。続いて、もと豊前国中津の人で、長崎銀屋町の中村秀吉の蒲池氏を嗣いだ者が継承し、号を破れ無爲齋とし、詩をよくして、ここで雅趣ある炻器を焼いた。山水花鳥や自作の詩・讃を書した趣味的作品が少なくない。秀吉は諱を鎮徳、字を子明とし、のち學之助と改め、安政四年正月二十五日、六十七歳で没した。遺作には、無釉の鉄地に白釉で詩を記した角口の脇手急須、胴に白釉を飛ばし縁に龍を彫った水指、鉄描の雲模様の火入などがある。蜀山人が「こんげん月はゑつとなかばい」という長崎訛りの狂歌を書した皿もあり、また支那・蘇州の土を探って作ったものには「唐土蘇州土製」の銘がある。嘉永年間(1848–1855年)に至り廃絶した。
秋の浦焼は安政四年の創始で、長崎の対岸・稲佐郷秋の浦において、長崎鎔鉄所設立の際、現・第二船渠のあたりで工場用レンガを焼くかたわら、天草石を原料として阿蘭陀風の磁器を作り、赤絵を施したものもある。のちここが三菱造船所となり、船渠開削の時に窯や多くの皿・茶碗の破片が出土したという。現在は「他の浦」と改称された所で、また八軒家焼と称するのはこの製品を指すのだろう。
稲佐焼は嘉永七年、長崎の対岸・浦上村淵の平戸小屋で、鵬ヶ崎を廃窯にした蒲池淺吉が開いたもの。浦上と稲佐の境にある淵山から岩のような軟質の陶石が産し、これを用いて炻器を作った。中には英国風の模写焼もあり、一名・淵焼とも称した。だが安政三年からここ平戸小屋が異国人の休息所になると、淺吉は前記の龜山へ移った。
蓮田焼は、長崎から浦上への入口に、かつて井樋の口と呼ばれた所に蓮田があり、今は埋め立てられて跡を知る者も稀である。ここで作られた陶器を蓮田焼と称したが、事績の詳細は不明である。
【英語訳】[English translation]
At 日の池 in 小関村, 佐賀郡, pottery production began around 大正六–七, but the raw material was poor and the kiln was soon abandoned. With this, the “outer appendix” accounts for pottery within 佐賀縣 conclude; the narrative next turns to 長崎縣.
The production site of 古賀人形 is 藤棚, a hamlet of about thirty households in 古賀村 (formerly 空閑村), 北高来郡, located thirty-two 丁 from 喜々津驛 (three and a half 里 from 長崎). Formerly the domain of 松倉豊後守重昌 of 島原, after the 寛永十五年 Christian uprising it did not submit to 諫早’s control and became shogunal land. In 天文 years, 小川金右工門, a retainer of 大村, became a rōnin and settled in 古賀村 as a farmer. In the time of the third generation 小三郎, a pottery craftsman from 京都 named 常陸介 stayed for a year and made ritual earthenware; 小三郎 studied under him and, alongside farming, began making the 小川 family’s clay figures in 文禄元年.
In the era of 小川喜三右工門 (given as 天和年間〔1532–1555〕), it is said he was commissioned by the lord of 肥後 to instruct on ceremonially used earthenware and, while on assignment, studied local doll-making. In 文化 years (1804–1818), under 小川金兵衛, hina dolls were made and sales expanded somewhat. Until around 明治四十二, three branches of the 小川 family produced them; from 明治四十五 this became two. 長崎知事 安藤謙介 encouraged 古賀人形 as the prefecture’s sole native folk doll; in the same March, 小川源智 and 小太郎 inspected clay-figure sites in 佐賀 and 福岡 and introduced improvements, yet sales steadily declined. Today the sole maker is the head 家元 小太郎, using clay from 九重里 in the area.
Initially the lineup comprised eighteen small types—owl, monkey, cat, 狆, 太鼓坊主, 福助, etc.—with colors limited to red and black in the 文禄 style. Later yellow, purple, and others were added; from around 天和 the range increased to thirty-three, including 唐人, 和蘭人, 元禄人形, 武者人形, and the craft has continued for over three centuries. Among them is a figure of a monkey holding a chicken. Its tale: a farmer at 四牛山 kept chickens but foxes often stole them. One day, when going to town, he asked the monkeys of the mountain he loved to watch over his chickens; upon returning home, indeed a monkey was there holding a chicken—this story caused a stir and became a romantic motif. Other pieces—ツッキャンギャン (shoulder-ride figure), ハイケン (a 太鼓坊主 dressed as a baby monkey; perhaps from Chinese), 阿蘭陀甲比丹—are crude yet charming. If the traditional pigments were adjusted toward more subdued tones, the works would gain further elegance.
龜山焼 began in 文化元年 (1804) at 垣根山 in 伊良林郷, 長崎村, 彼杵郡 (長崎村 was annexed to 長崎市 in 明治二十二). 大神甚五平 of 長崎八幡町, together with 山田平兵衛, 澤屋嘉右工門, and 古賀嘉兵衛, opened a kiln in suburban 伊良林 to produce water jars yearly demanded by 蘭人; at first this was called 甕山焼. As profits failed, 平兵衛, 嘉右工門, and 嘉兵衛 withdrew, leaving 甚五平 sole proprietor. In 文化三, under the protection of 長崎奉行 肥田豊後守賴常, workers from 有田 were hired, 天草石 used as raw material, and white porcelain made, designated by the 奉行 as offerings to the 幕府; from then it was called 龜山焼. 甚五平 was skilled at painting; some pieces resemble Chinese 古染附. After his death, his younger brother 卯平 became the second generation, but management faltered and reputation declined.
In 天保十二, 長崎奉行 柳生伊勢守久包 strongly promoted the kiln, importing 堊土 from 清・微州初門 and producing sake and tea utensils, including tea bowls; the underglaze-blue porcelain bore the so-called 龜山山水. Notables of 長崎—木下逸雲 of 八幡町 (aka 志賀之助; personal name 相宰; style names 養竹山人 and 如螺山人; died 慶應二年八月四日, age 67), 釋鐵翁 of 春徳寺 (born 日高; died 明治四年十二月十五日, age 81), and 會所目附 三浦梧門 (aka 總助; name 維純; style 宗亮; art names 秋聲, 荷梁, 融齋; adept at landscape painting)—left fine painted works. Yet operations again became difficult, and under the third 甚五平 the kiln closed.
In 安政元年 (1855), the Edo master 井田乾齋 (commonly 吉六; also 巳齋; from 下総国海上郡布間村; died 文久元年, age 70) came with his nephew 三浦乾也 to revive 龜山焼, but for lack of funds departed after three years. In the ninth month of the same 安政六, under 長崎奉行 岡部駿河守長常, 龜山陶器所 was reestablished, with 小島喜左工門 from 江戸 as director; nonetheless, by 明治十六 it again perished.
鵬ヶ崎焼 was opened in 文化十二 at 鵬ヶ崎 in 淵郷, 浦上村, 彼杵郡, by 蒲池政入 of 長崎東濱町 (later changed to 鎮久); he died 天保五年十月十二日 at 78. Thereafter, a man originally from 豊前國中津 who had succeeded 中村秀吉 of the 蒲池 family in 長崎銀屋町 continued the kiln. Taking the art name 破れ無爲齋, fond of poetry, he fired tasteful stoneware, often inscribing landscapes, birds-and-flowers, and his own poems and encomia. 秀吉’s formal name was 鎮徳, courtesy name 子明; later he changed to 學之助 and died 安政四年正月二十五日 at 67.
Surviving 鵬ヶ崎 pieces include a square-spouted, side-handled kyūsu with poems written in white glaze on an unglazed iron body; a mizusashi with dragons carved on the rim and white glaze splashed on the body; and a fire-container with iron-painted cloud motifs. There are also dishes bearing the comic verse by 蜀山人, “こんげん月はゑつとなかばい,” in 長崎 dialect; items made with clay sought from 蘇州 bear the legend 唐土蘇州土製. The kiln was abandoned by 嘉永 years (1848–1855).
秋の浦焼 began in 安政四 on the opposite shore of 長崎 at 稲佐郷・秋の浦. When 長崎鎔鐵所 was established, near today’s 第二船渠 they fired bricks for the works and, nearby, using 天草石, produced Dutch-style porcelain, some with 赤絵. Later, when the site became 三菱造船所 and the dock was cut, many kiln remains and shards of dishes and bowls were unearthed; the place is now renamed 他の浦. The term 八軒家燒 likely also refers to products from here.
稲佐焼 refers to a kiln opened in 嘉永七 at 平戸小屋 in 浦上村・淵, opposite 長崎, by 蒲池淺吉 after closing 鵬ヶ崎. From 淵山 on the border of 浦上 and 稲佐, a soft, rock-like porcelain stone was quarried and used to make stoneware. Some wares imitated English styles; the ware was also called 淵焼. In 安政三, as 平戸小屋 became a rest station for foreigners, 淺吉 moved to the aforementioned 龜山.
蓮田焼 denotes pottery once made at 井樋の口, the old entrance from 長崎 to 浦上, where a 蓮田 once existed; now filled in, few know the site. Details of the ware are unclear.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
在佐贺郡小关村“日池”,约于大正六、七年开始制陶,但因原料不佳,不久即废窑。至此佐贺县管内外编所述制陶告一段落,以下转述长崎县管内。
古贺人形产地在北高来郡古贺村(旧空闲村)的“藤棚”小聚落,约三十户,距喜々津驿三十二丁(离长崎三里半)。此地本为岛原城主松仓豊後守重昌领地,寛永十五年的切支丹之乱后,不服从諫早之支配,改为幕府直辖。天文年间,大村藩士小川金右工门落魄入居古贺村务农。至第三代小三郎时,京都土器师常陆介留居一年,制作神佛用土器;小三郎从之学艺,于文禄元年在务农之余开始制作小川家的土偶。
至小川喜三右工门(文中记为天和年间〔1532–1555〕),据称受肥后国主之嘱,出差指导仪礼用土器,并研习当地人形制作。文化年间(1804–1818),小川金兵卫制造雏人形,销路稍广。至明治四十二年尚由小川家三户制作,明治四十五年起为两户。时任长崎知事安藤谦介以县内唯一乡土人形加以奬励,同年三月小川源智与小太郎考察佐贺、福冈的土偶产地并改良,但销路渐次萎缩。今仅家元小太郎一户承制,原料用当地九重里的粘土。
古贺土偶初期为小型十八种:梟、猿、猫、狆、太鼓坊主、福助等,彩色自文禄以来仅赤与黑。后添黄、紫等,自天和前后增至三十三种,包括唐人、和兰人、元禄人形、武者人形,绵延三百余年而不绝。其间有“猿抱鸡”之作:相传四牛山一农家饲鸡,屡被狐叼去;某日下乡前托山中猿群代为照看,归来果见一猿抱鸡守护,遂成当时盛传的浪漫题材。另有ツッキャンギャン(肩车人形)、ハイケン(穿猿子装之太鼓坊主,或源自支那语)、阿蘭陀甲比丹等,作风质朴而有趣。若将既有着色调整为更寂寥含蓄之色调,则更具雅致。
龟山焼始于文化元年(1804),彼杵郡长崎村伊良林郷之垣根山(长崎村于明治二十二年并入长崎市)。长崎八幡町大神甚五平与山田平兵卫、泽屋嘉右工门、古贺嘉兵卫等合作,于郊外伊良林开窑,专为蘭人年需之水甕,初称甕山焼。因无利可图,三人退伙,甚五平独营。文化三年,得长崎奉行肥田豊後守赖常保护,延聘有田工人,以天草石为料制白磁,定为奉行献幕府之器,自此改称龟山焼。甚五平善绘,作品间有仿中国古染付之逸品。其卒后,弟卯平继任二代,然经营不振,声价俱降。
天保十二年,长崎奉行柳生伊势守久包再度大力奬励,移入清之微州初门堊土,制作酒器、茶器、茶盏,并于染付磁器绘所谓“龟山山水”。同时,长崎名流木下逸雲、釋鐵翁、三浦梧門等亦有佳作。然经营再陷困境,至三代甚五平而废窑。
安政元年(1855),江户名工井田乾斋(通称吉六,又号巳斋)偕甥三浦乾也来佐振兴龟山焼,奈资金匮乏,三年而去。同六年九月,长崎奉行岡部駿河守長常复兴“龟山陶器所”,由江户属官小島喜左工门主理,至明治十六年终告废绝。
鵬ヶ崎焼创于文化十二年,于彼杵郡浦上村淵郷鵬ヶ崎,由长崎東濱町蒲池政入(后改名鎮久)开窑,政入天保五年十月十二日卒,享年七十八。其后,原丰前國中津人、袭长崎銀屋町中村秀吉之蒲池氏者继承之,号“破れ無為斋”,善诗,于此烧制雅趣炻器,常书山水花鸟与自作诗赞。秀吉讳鎮徳,字子明,后改學之助,安政四年正月二十五日卒,六十七岁。遗作有:无釉铁胎、以白釉书诗之方口脇手急须;口沿雕龙、腹施泼白釉之水指;铁绘云纹火入等。又有蜀山人书长崎腔狂歌“こんげん月はゑつとなかばい”之皿;用中国苏州土者刻“唐土蘇州土製”。至嘉永年间(1848–1855)废绝。
秋の浦焼创于安政四年,地在长崎对岸稻佐郷秋の浦。长崎鎔铁所设立时,于今第二船渠一带烧制厂用砖,并旁以天草石制阿兰陀风磁器,部分施赤绘。后地改为三菱造船所,开凿船渠时出土窑迹与大量皿、茶碗碎片。今处改称“他の浦”,所谓“八軒家焼”亦当指其制品。
稻佐焼创于嘉永七年,于长崎对岸浦上村淵之平戸小屋,系蒲池淺吉废鵬ヶ崎后所开。因浦上与稻佐边界之淵山出产类岩之软质陶石,取之制炻器,间有英式摹写之作,亦称“淵焼”。安政三年起此地为异国人休憩所,淺吉遂迁往前述龟山。
蓮田焼为长崎至浦上入口旧称“井樋の口”处所产。昔有莲田,今已填筑,知其旧址者稀。所制陶器称“蓮田焼”,其事迹无详。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
在佐賀郡小關村「日池」,約於大正六、七年開始製陶,惟因原料不佳,不久即廢窯。至此佐賀縣管內外編之製陶記述告終,以下述及長崎縣管內。
古賀人形產地位於北高來郡古賀村(舊空閑村)之「藤棚」聚落,約三十戶,距喜々津驛三十二丁(離長崎三里半)。其地本為島原城主松倉豊後守重昌領地,寛永十五年切支丹之亂後,不服諫早之支配,成為幕府直轄。天文年間,大村藩士小川金右工門落魄定居古賀村務農。至第三代小三郎時,京都土器師常陸介留居一年製作神佛用土器;小三郎師事之,於文祿元年在農作之餘開始製作小川家土偶。
至小川喜三右工門(文載天和年間〔1532–1555〕)據稱受肥後國主囑託出差指導儀式用土器,並研習當地人形製作。文化年間(1804–1818)小川金兵衛製作雛人形,銷路稍廣。明治四十二年尚以小川家三戶製作,四十五年起為二戶。時長崎知事安藤謙介以縣下唯一鄉土人形加以獎勵,同年三月小川源智、小太郎考察佐賀、福岡兩縣土偶產地施行改良,然銷路漸衰。今僅家元小太郎一戶承製,原料用當地九重里之黏土。
古賀土偶初期為小型十八種:梟、猿、貓、狆、太鼓坊主、福助等,彩色自文祿以來僅赤與黑;後添黃、紫等,自天和前後增至三十三種,包括唐人、和蘭人、元祿人形、武者人形,綿延三百餘年。其間有「猿抱雞」之作:相傳四牛山農家養雞,屢被狐攫;一日出鄉前托山中猿群看顧,歸來果見一猿抱雞守護,遂成時之佳話。另有ツッキャンギャン(肩車人形)、ハイケン(著猿子裝之太鼓坊主,或源自支那語)、阿蘭陀甲比丹等,作風質樸而有趣。若將既有著色調為更寂寥之色,相貌更添雅致。
龜山燒始於文化元年(1804),在彼杵郡長崎村伊良林郷垣根山(長崎村明治二十二年併入長崎市)。長崎八幡町大神甚五平與山田平兵衛、澤屋嘉右工門、古賀嘉兵衛等於郊外伊良林開窯,為蘭人年需之水甕,初稱甕山燒。因無利可圖,三人退夥,甚五平獨營。文化三年得長崎奉行肥田豊後守賴常保護,延聘有田工人,以天草石為料製白磁,定為奉行進獻幕府之器,自此改稱龜山燒。甚五平善繪,間有仿中國古染付之逸品。其卒後弟卯平繼二代,然經營不振,聲價俱減。
天保十二年,長崎奉行柳生伊勢守久包再度大力獎勵,移入清之微州初門堊土,製酒器、茶器、茶盞,於染付磁器繪所謂「龜山山水」。長崎名流木下逸雲、釋鐵翁、三浦梧門等亦有佳作。然經營復困,至三代甚五平而廢窯。
安政元年(1855),江戶名工井田乾齋(通稱吉六,又號巳齋)攜甥三浦乾也來力圖振興,惜資金不足,三年而去。同六年九月,長崎奉行岡部駿河守長常復興「龜山陶器所」,由江戶屬官小島喜左工門主理,至明治十六年終告廢絕。
鵬ヶ崎燒創於文化十二年,地在彼杵郡浦上村淵郷鵬ヶ崎,由長崎東濱町蒲池政入(後改鎮久)開窯;政入天保五年十月十二日卒,享年七十八。繼之者本豐前國中津人,襲長崎銀屋町中村秀吉之蒲池氏,號「破れ無為齋」,善詩,於此燒雅趣炻器,多題山水花鳥與自作詩讚。秀吉諱鎮德,字子明,後改學之助,安政四年正月二十五日卒,六十七歲。遺作有:無釉鐵胎以白釉書詩之方口脇手急須;沿口雕龍、腹濺白釉之水指;鐵繪雲紋火入等。亦有蜀山人書長崎腔狂歌「こんげん月はゑつとなかばい」之皿;用中國蘇州土者刻「唐土蘇州土製」。嘉永年間(1848–1855)廢絕。
秋の浦燒創於安政四年,地在長崎對岸稻佐郷秋の浦。長崎鎔鐵所設立時於今第二船渠一帶燒廠用磚,並旁以天草石製阿蘭陀風磁器,或施赤繪。後地改為三菱造船所,開鑿船渠時出土窯跡與眾多皿、茶碗殘片。今改稱「他の浦」,所謂「八軒家燒」亦當指其製品。
稻佐燒創於嘉永七年,於長崎對岸浦上村淵之平戶小屋,為蒲池淺吉廢鵬ヶ崎後所開。因浦上與稻佐之界淵山產軟質類岩陶石,取以製炻器,間有英國風摹寫之作,亦稱「淵燒」。安政三年起此地為異國人休息所,淺吉遂遷往前述龜山。
蓮田燒指長崎至浦上入口舊稱「井樋の口」之地所製。昔有蓮田,今已填築,知其址者鮮。其陶稱「蓮田燒」,事跡未詳。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
在 小関村 的 日の池,约于 大正六至七 年开始制陶,但因原料欠佳,很快停烧。至此 佐賀縣 外编部分结束,随后转述 长崎縣。
古賀人形 的产地为 北高来郡 古賀村(旧 空閑村)的“藤棚”小聚落,约三十户,距 喜々津驿三十二丁(离 长崎 三里半)。此地原属 松倉豊後守重昌,寛永十五年切支丹之乱后改为幕府直辖。天文年间 小川金右工門 迁居古贺村务农;至第三代 小三郎 时,京都工匠 常陸介 留居一年制作神佛器,小三郎从其学,于 文禄元年 开始制作 小川 家土偶。
至 小川喜三右工門(记为 天和年間〔1532–1555〕),据说受 肥后 国主托请,为仪式用土器出差指导并研究当地人形。文化年间(1804–1818), 小川金兵衛 制作雏人形,销路稍广。明治四十二年尚有三户制作,四十五年起为两户。长崎知事 安藤謙介 以县内唯一乡土人形加以鼓励;同年三月 小川源智 与 小太郎 视察 佐賀、福岡 的土偶产地并改良,但销售渐降。今仅 家元 小太郎 一户制作,原料用 九重里 粘土。
最初十八种小型:梟、猿、猫、狆、太鼓坊主、福助等,文禄风仅用红黑;后加黄、紫,自 天和 起增至三十三种(唐人、和蘭人、元禄人形、武者人形),延续三百余年。其“猿抱鸡”源于四牛山农家之逸事。另有 ツッキャンギャン(肩车)、ハイケン(穿猿子装之太鼓坊主,或源自汉语)、阿蘭陀甲比丹,质朴有趣。若改为更寂色调,更具雅致。
龟山焼 起于 文化元年(1804)伊良林郷 垣根山。 大神甚五平 与 山田平兵衛、澤屋嘉右工門、古贺嘉兵衛 开窑制 蘭人 所需水甕,初称 甕山焼。因无利可图,三人退出,甚五平 独营。文化三年 受 长崎奉行 肥田豊後守賴常 保护,延 有田 工,取 天草石 制白瓷,为 幕府 进献之器,改称 龟山焼。甚五平 擅画,有似 古染附 之作。其卒后 卯平 继任,然名声与经营俱降。
天保十二年 长崎奉行 柳生伊势守久包 再加鼓励,移入 清・微州初門 堊土,制酒器、茶器、茶盏,并绘“龟山山水”。 木下逸雲、釋鐵翁、三浦梧門 等亦留佳作。后再度困难,至三代 甚五平 而废窑。
安政元年(1855) 井田乾斋(吉六、巳斋)与 三浦乾也 来振兴,因资乏三年而去。安政六年九月 岡部駿河守長常 复兴“龟山陶器所”,由 小島喜左工門 主任,至 明治十六 年告终。
鵬ヶ崎焼 创于 文化十二 年,于 浦上村 淵郷 鵬ヶ崎,由 蒲池政入(后改 鎮久)开窑;政入 天保五年 十月十二日 卒。继者本 豊前國中津 人,袭 长崎銀屋町 中村秀吉 之 蒲池 氏,号 破れ無爲齋,善诗,烧雅趣炻器,多题山水花鸟与自作诗赞。秀吉讳 鎮徳,字 子明,后改 學之助,安政四年 正月二十五日 卒。遗作有:无釉铁胎白釉书诗之方口脇手急须;沿口雕龙、腹溅白釉之水指;铁绘云纹火入;并有 蜀山人 书“こんげん月はゑつとなかばい”之皿;用 苏州 土者刻“唐土蘇州土製”。嘉永 年间废绝。
秋の浦焼 始于 安政四 年,地在 稲佐郷 秋の浦。设 长崎鎔铁所 时于今 第二船渠 附近烧砖,并以 天草石 制阿兰陀风磁器,或施 赤绘。后为 三菱造船所,开凿时出土窑与大量碎片。今改称 他の浦;所谓 八軒家燒 亦疑指其制品。
稲佐焼 指 嘉永七 年于 浦上村 淵 之 平戸小屋,由 蒲池淺吉 闭 鵬ヶ崎 后所开。以 淵山 软质陶石制炻器,间有英式摹写,亦称 淵焼。安政三 年起此地为外人休息所,淺吉 迁往 龟山。
蓮田焼 指 井樋の口 一带旧有莲田之地所产。今已填筑,知其址者稀;其器称 蓮田焼,事迹不详。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
於 小関村 之 日の池,約 大正六至七 年啟製陶,惟原料不佳,不久停燒。至此 佐賀縣 外編部分止,繼述 長崎縣。
古賀人形 產地為 北高來郡 古賀村(舊 空閑村)之「藤棚」聚落,約三十戶,距 喜々津驛 三十二丁(離 長崎 三里半)。其地本屬 松倉豊後守重昌,寛永十五年切支丹之亂後改為幕府直轄。天文年間 小川金右工門 移居古賀村務農;至第三代 小三郎 時,京都匠 常陸介 留一年製神佛器,小三郎從學,於 文祿元年 始製 小川 家土偶。
至 小川喜三右工門(記 天和年間〔1532–1555〕),據稱受 肥後 國主囑託,為儀式用土器出差指導並研習地方人形。文化年間(1804–1818) 小川金兵衛 作雛人形,銷路稍廣。明治四十二 年尚三戶製作,四十五 年起為二戶。長崎知事 安藤謙介 以縣內唯一鄉土人形獎勵;同年三月 小川源智 與 小太郎 視察 佐賀、福岡 土偶產地而改良,然銷路漸減。今僅 家元 小太郎 一戶,取 九重里 黏土為料。
初列十八小種:梟、猿、貓、狆、太鼓坊主、福助等,文祿風僅紅黑;後加黃紫,自 天和 起增至三十三種(唐人、和蘭人、元祿人形、武者人形),延續三百餘年。其「猿抱雞」源於四牛山農戶逸事。又有 ツッキャンギャン(肩車)、ハイケン(著猿子裝之太鼓坊主,或本於漢語)、阿蘭陀甲比丹,質樸有趣。若改為更幽寂之色調,尤增雅致。
龜山燒 起於 文化元年(1804) 伊良林郷 垣根山。 大神甚五平 與 山田平兵衛、澤屋嘉右工門、古賀嘉兵衛 開窯供 蘭人 水甕,初稱 甕山燒。無利可圖,三人退夥,甚五平 獨營。文化三 年 受 長崎奉行 肥田豊後守賴常 保護,延 有田 工、用 天草石 製白瓷,定為進獻 幕府 之器,改稱 龜山燒。甚五平 善繪,有近 古染付 之作。卒後 卯平 嗣二代,然名聲與經營俱退。
天保十二 年 長崎奉行 柳生伊勢守久包 再奬,移 清・微州初門 堊土,製酒器、茶器、茶盞,染付繪「龜山山水」。 木下逸雲、釋鐵翁、三浦梧門 亦留佳作。後再困,至三代 甚五平 而廢。
安政元年(1855) 井田乾齋(吉六、巳齋)與 三浦乾也 來振興,資乏三年而去。安政六 年九月 岡部駿河守長常 復興「龜山陶器所」,由 小島喜左工門 主理,迄 明治十六 年終。
鵬ヶ崎燒 創於 文化十二 年,於 浦上村 淵郷 鵬ヶ崎,由 蒲池政入(後改 鎮久)開窯;政入 天保五 年十月十二日 卒。繼任者本 豐前國中津 人,襲 長崎銀屋町 中村秀吉 之 蒲池 氏,號 破れ無為齋,善詩,燒雅趣炻器,多題山水花鳥與自作詩讚。秀吉 諱 鎮德,字 子明,後改 學之助,安政四 年正月二十五日 卒。遺作有:無釉鐵胎白釉書詩之方口脇手急須;沿雕龍、腹濺白釉之水指;鐵繪雲紋火入;亦有 蜀山人 書「こんげん月はゑつとなかばい」之皿;用 蘇州 土者鐫「唐土蘇州土製」。嘉永 年間廢絕。
秋の浦燒 始於 安政四 年,地在 稻佐郷 秋の浦。設 長崎鎔鐵所 時於今 第二船渠 附近燒磚,旁以 天草石 製阿蘭陀風瓷,或施 赤繪。後為 三菱造船所,開鑿時出土窯與多量殘片。今改稱 他の浦;所謂 八軒家燒 蓋指其器。
稻佐燒 指 嘉永七 年於 浦上村 淵 之 平戶小屋,由 蒲池淺吉 廢 鵬ヶ崎 後所開。以 淵山 軟質陶石 製炻器,間有英式摹寫,亦稱 淵燒。安政三 年起此地為外人休息所,淺吉 遷往 龜山。
蓮田燒 指 井樋の口 一帶舊蓮田之地所作;今已填築,知其址者寡。其器稱 蓮田燒,事跡未詳。

