【原文】[Original text]
本多牧仙
其後庄屋元に於いて本多牧仙(親基)が木場の粘土に雲仙土を加味し、自己の趣味的なる一種の陶器を製作した。それは赤味の白釉にて重なる製品は火鉢及瓶掛であつた。是は工人の手に依って成形され、それに牧仙自ら古今の詩歌や先の箴言等を彫刻し、そして鐵分粘土にて象嵌せしめたものである。
其他に飴釉むら掛物などあるも、多くは前記の白釉象嵌にて、或は牧仙手捻りの茶器酒盃及向附皿等頗る雅致なるものがある。最初は山里焼の龍石が技師さして聘せられ又有田の橋口三次郎も其一人であつた。元彼の道楽的製品とて歿後合立物(完全でなき焼成品)の遺品なほ少からざるも、今非賣品として保全されてある。
牧羊と牧仙
牧仙は嘗て交墨に長しのみならす、常に理論的に立脚して種々の産業を經營し、而して其失敗しものの半面には、後人を稗盆せしもの又少なからざりしといはれてゐる。雲仙嶽上の牧羊の如きも彼の創意に成りしものにて、故に自ら牧仙さ號してゐた。其他養蜂を試み、又泉都別府に於ても製陶を起せしこさが有った。斯く昭和七年八月九日七十八才を以て卒去したのである。
松浦瓷仙
幼年より師事せし牧仙の門人に松浦瓷仙(松一)がある、彼拉車は勿論殊に塑像の製作を善くし、曾て諸山の陶技を見學せしが就中薩摩及高取に於いて研究するところあつた。後年支那に滞在中師の病急なる報に接し約十六年目に郷地へ帰り、そして病を看ること月餘にして恩師永別したのである。
瓷仙の作には諸種の茶器の外、千二百度位にて焼成せし興裂白釉の塑像や、帶黄白釉に希臘式の色彩模様を施せし花瓶等がある。此地千戸の温泉地として風光明媚なる橘灣を擁せるところ、小濱土産の製陶として瓷仙の研究が期待されてゐる。
雲仙焼
雲仙焼とは雲仙嶽なる小地獄(戶數十四五戸)に於いて、大正二、三年頃前記の牧仙が瓷仙を伴ひて開窯せしものである。製品は温泉浴槽に用ふるタイルや壁板用にて白釉と緑釉物であった。而して従来此種の陶磁器は頗る適品に乏しく、彼の大理石の如きも年經れば温泉作用に依つて變質するを以て、此計畫は頗る不結果を來せしも無理なかつた。蓋し此工場に於いて工夫され陶製の砥石には實用的のものがあり、それは細分子なる白砥より金剛砂交りの粗砥なご製作されたのである。
本編の分類
之より彌肥前陶磁史の本編に先だち、記述の混亂を避くる爲に唐津系椎の峰窯、武雄系武內窯、藤津系嬉野窯、平戸系三河内窯、大村系波佐見窯、諫早系と矢上窯、伊萬里系南川原窯、佐嘉系大川内窯、多久系有田窯の九編に分類して記すことする。
蓋し此分類は、地理關係の推考と記事の縁故上より大別しものにて、枝柯に至つては各系の韓人と其子孫なる者が相互に混系し、到る處に雑居の結果、技法の如きも全く鑑別し能はざるもの多く、韓人弥本邦人との結婚に因り、原民族とは判別し得ざるまでに帰化し終へた者であらう。
陶山と領主
此地方陶山の發展は、其地領主の保護樊勵に依るもの多く。領主は又自己の勢力伸張の為には血脈互に相爭闘し、伸びて他領を併有せんとして戦亂相継ぎ、或は興隆し或は衰亡す。
而して各山秘するところの陶技に於いても、潜行的に技法の窃取相行はれ、各領主は制度を設けて其侵入の防禦に當り、其間或は達し或は衰退す。其興亡のを観るに、各領主間の爭闘と相似たるもの歴史の興味又少なしさせぬ。
各領主の縁類關係
而して肥前の領主中唐津の波多氏、伊萬里の伊萬里氏、有田の有田氏、平戸の松浦氏、何れも同族より岐れ、大村の大村氏は島原の有馬氏系を同じうし、武雄の後藤氏又之婚系あり。斯くて之等の各氏は、元大村、有馬後藤諸氏と同系より出でし龍造寺氏及鍋島氏に征服されて、更に又結縁關係に及ぶところ、各山の陶系混同の後遂に磁器製作へ統一せる結果と其類を同じうするもの又頗る奇とせざるを得ぬ。
故に各系に於いて其領主の系圖と、著名なる戦亂の一部とを記述して以て當時の情勢を推考することも、穴勝ち無用ならざる可く思惟せし所以である。蓋し龍造寺氏及び鍋島氏の戦史に至つては各系に於いて一端を知るを得べく、若しそれを佐嘉系中に記述することは容易ならざる而已ならず、然も其要なきを以て之を省くことゝした。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
その後、庄屋元の地で本多牧仙(親基)が、木場の粘土に雲仙の土を混ぜ、自身の趣味を反映した陶器を作った。赤みを帯びた白釉が特徴で、主な製品は火鉢と瓶掛である。成形は職人が行い、牧仙が自ら古今の詩歌や箴言を彫り、鉄分の多い粘土で象嵌した。
そのほか飴釉のむら掛けもあるが、多くは前述の白釉象嵌で、牧仙の手捻りによる茶器・酒盃・向付皿など、たいへん雅味のある作も見られる。創業当初は山里焼の龍石が技師として招かれ、有田の橋口三次郎も加わった。道楽的な制作であったため、没後には不完全焼成の作品も少なからず遺ったが、いまは非売品として保存されている。
牧仙は書画に長じただけでなく、常に理論的に諸産業に取り組み、失敗のかたわらで後人の役に立つ試みも少なくなかった。雲仙岳での牧羊も彼の発案で、自ら号を牧仙とした。ほかに養蜂を試み、温泉地・別府でも製陶を起こしたという。昭和七年八月九日、七十八歳で逝去した。
牧仙に幼少から師事した門人に松浦瓷仙(松一)がいる。轆轤はもちろん、とくに塑像を得意とし、各地の窯場を見学して、なかでも薩摩や高取で研究した。のちに支那に滞在中、師の病を知らせる急報に接し、約十六年ぶりに郷里へ戻って看病したが、ひと月あまりで恩師は永眠した。瓷仙の作には、各種の茶器のほか、約一二〇〇度で焼いた貫入のある白釉の塑像や、黄を帯びた白釉にギリシア風の彩色文様を施した花瓶などがある。当地は温泉の町として橘湾を望む景勝地であり、小濱の土産物としても、瓷仙の研究が期待されている。
雲仙焼は、雲仙岳の小地獄(戸数十四、五戸)で、大正二、三年ごろに牧仙が瓷仙を伴って開いた窯である。製品は温泉浴槽用のタイルや壁板で、白釉と緑釉が用いられた。当時この種の陶磁器は適材が乏しく、大理石でさえ温泉の作用で年とともに変質するため、この計画が成果に乏しかったのも無理はない。ただし同工場で工夫された陶製の砥石は実用的で、きめの細かい白砥から、金剛砂を混ぜた粗砥までが作られた。
ここから先は『肥前陶磁史』本編に入るにあたり、混乱を避けるため、次の九系統に分けて記す。すなわち、唐津系・椎の峰窯、武雄系・武内窯、藤津系・嬉野窯、平戸系・三河内窯、大村系・波佐見窯、諫早系と矢上窯、伊萬里系・南川原窯、佐嘉系・大川内窯、多久系・有田窯である。
この分類は地理的関係と記事上の縁から大づかみに分けたもので、枝葉に至っては各系の韓人とその子孫が相互に混じり、各地で雑居した結果、技法の判別がつかないものも多い。韓人が本邦人と通婚したため、原来の民族が区別できぬほどに帰化しきった者もあろう。
この地方の陶業の発展は、多くが領主の保護と奨励による。領主は勢力伸長のため血縁同士で争い、他領を併せようと戦乱が相次ぎ、興隆もあれば衰亡もある。秘伝とされた技法も密かに盗用され、領主は制度を設けて侵入を防いだが、成果を収める場合もあれば衰える場合もあった。その興亡は、領主間の争いと相似で、歴史的にも興味が尽きない。
肥前の諸領主のうち、唐津の波多氏、伊萬里の伊萬里氏、有田の有田氏、平戸の松浦氏は同族から分かれ、大村の大村氏は島原の有馬氏と同系、武雄の後藤氏も婚姻関係がある。これらはやがて大村・有馬・後藤と同系に発する龍造寺氏・鍋島氏に征服され、さらに縁戚関係を結んだ。各窯の系譜が混交したのち、ついには磁器制作へと統一されていったのも不思議ではない。ゆえに各系で領主の系図と著名な戦乱の一部を掲げ、当時の情勢を推し量ることは、決して無用ではないと考える。なお龍造寺氏・鍋島氏の戦史は各系で一端に触れうるが、もしそれを佐嘉系に一括して記すのは容易でないうえ、要を得ないので省いた。
【英語訳】[English translation]
Afterwards, in the Shōyamoto area, Honda Mokusen (Chikamoto) blended clay from Koba with Unzen clay and created a personal, taste-driven line of pottery. It featured a reddish white glaze, with hibachi and kettle stands as the principal products. Artisans formed the bodies; Mokusen himself carved classical poems and aphorisms onto them and inlaid the designs with iron-rich clay.
There were also pieces with variegated amber glaze, but most were white-glaze inlay works. Mokusen’s hand-built tea utensils, sake cups, and mukōzuke plates had notable elegance. At the outset, Ryūseki of Yamazato-yaki was hired as technician, joined by Hashiguchi Sanjirō of Arita. Because the venture had a hobbyist bent, many imperfectly fired pieces remained after his death; these are now preserved as not-for-sale items.
Mokusen excelled not only in brush arts but also pursued various industries on a rational footing; alongside failures, he left many attempts that benefited later generations. Sheep grazing on Mt. Unzen was his own idea—hence his art name “Mokusen” (shepherd-sage). He also tried beekeeping and even launched ceramic production in the spa town of Beppu. He passed away on August 9, Shōwa 7, at the age of seventy-eight.
Among those who studied under him from youth was Matsuura Jisen (Matsuichi). Adept at the wheel, he was especially skilled in sculptural modeling. He toured many kilns, researching particularly in Satsuma and Takatori. While later residing in China, he received urgent news of his teacher’s illness, returned home after about sixteen years away, and nursed him for over a month until his passing. Jisen’s works include various tea wares; sculptural pieces with a crackled white glaze fired at about 1,200 °C; and vases with a yellow-tinged white glaze painted in Hellenic color motifs. As a hot-spring resort that commands the scenic Tachibana Bay, the area looks to Jisen’s projects as fitting souvenirs of Obama.
“Unzen-yaki” was a kiln opened around Taishō 2–3 in the “Small Hell” quarter of Mt. Unzen (14–15 households), when Mokusen and Jisen worked there together. They produced white- and green-glazed tiles and wall panels for hot-spring baths. At the time, suitable ceramic materials for such uses were scarce; even marble deteriorates under hot-spring chemistry over time. It is thus unsurprising the plan met with poor results. One practical outcome, however, was ceramic whetstones engineered there—from fine white stones to coarse stones mixed with carborundum.
Before entering the main body of the Hizen ceramic history, to avoid confusion the account is divided into nine branches: the Karatsu line (Shi-no-Mine kiln), the Takeo line (Takeuchi kiln), the Fujitsu line (Ureshino kiln), the Hirado line (Mikawachi kiln), the Ōmura line (Hasami kiln), the Isahaya line and Yagami kiln, the Imari line (Minamigawara kiln), the Saga line (Okawachi kiln), and the Taku line (Arita kiln).
This classification is a broad grouping based on geography and documentary ties. In the details, Korean potters and their descendants intermarried and lived side by side across regions, to the point that techniques are often indistinguishable; through marriages with locals, many fully assimilated to the extent that their original ethnicity can no longer be told.
The growth of local ceramic centers largely owed to the protection and encouragement of their lords. Those lords, seeking to extend their power, fought blood-kin rivals and repeatedly waged wars to annex neighboring lands; some rose, others fell. Secret techniques were also quietly appropriated; lords instituted rules to block such incursions, sometimes successfully, sometimes not. The rise-and-fall of kilns mirrors the conflicts among the lords and is historically compelling.
Among Hizen’s lords, the Hata of Karatsu, Imari of Imari, Arita of Arita, and Matsura of Hirado split from a common stock. The Ōmura of Ōmura shared lineage with the Arima of Shimabara; the Gotō of Takeo had marital ties as well. These houses were subdued by the Ryūzōji and Nabeshima—both from the same broader line as Ōmura, Arima, and Gotō—and further linked by marriage. After the kiln lineages intermingled, it was hardly strange that the region eventually converged on porcelain production. Accordingly, in each branch the genealogies of the lords and excerpts from notable wars are presented to help infer the circumstances of the time. Detailed war histories of Ryūzōji and Nabeshima can be sampled within each branch; to set them out in the Saga section alone would be unwieldy and unnecessary, so they are omitted there.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
后来,在庄屋元地区,本多牧仙(亲基)将木场的黏土与云仙土调配,制作出带有个人趣味的陶器。其特色为略带红色的白釉,主要产品是火盆与瓶挂。成型由工匠完成,牧仙亲自刻写古今诗歌与箴言,并以含铁黏土作嵌填。
另有施以糖釉斑驳效果的作品,但多为白釉象嵌。牧仙手捏的茶器、酒杯、向付盘等颇具雅趣。开窑之初,山里烧的龙石受聘为技师,有田的桥口三次郎亦参与。因带有玩赏性质,其身后仍留有不少烧成不全之作,今皆作为非卖品保存。
牧仙不但善于书画,还以理性态度从事多种产业,虽有失败,亦多有利及后人的尝试。云仙岳的牧羊即其创意,故自号“牧仙”。他还试行养蜂,并在温泉名城别府创办制陶。据记,昭和七年八月九日以七十八岁卒。
自幼从师的门人有松浦瓷仙(松一)。他善用轆轤,尤长塑像;游历诸窑,重点在萨摩与高取研究。后旅居支那时接到师病急讯,离乡约十六年后返里侍疾,月余恩师逝。瓷仙之作,除诸种茶器外,有约一二〇〇度烧成、带貫入白釉的塑像,亦有施带黄白釉并用希腊式彩绘纹样的花瓶。当地为温泉之乡,眺望橘湾风光明媚,作为小滨土产之制陶,亦寄望于瓷仙的研究。
“云仙烧”是在云仙岳小地狱(十四五户)于大正二、三年间,由牧仙携瓷仙所开之窑。产品为温泉浴槽用瓷砖与壁板,施白釉与绿釉。当时此类陶瓷适材甚少,连大理石久经温泉作用亦会变质,故此计划收效不彰亦属情理。但其厂所研制的陶制砥石颇实用,自细腻白砥至混有金刚砂的粗砥皆能制作。
为免叙述混乱,进入《肥前陶磁史》本编前,分为九系:唐津系・椎の峰窯、武雄系・武内窯、藤津系・嬉野窯、平户系・三河内窯、大村系・波佐见窯、諫早系と矢上窯、伊万里系・南川原窯、佐嘉系・大川内窯、多久系・有田窯。
此分类依地理与文献因缘而粗分。细处则韩人与其后裔互相通婚、杂居各地,致使技法常难分辨;又因与本邦人通婚,许多人几至完全同化,已难辨其本来族属。
当地陶业的发展,多赖领主的保护与奖励。诸领主为扩张势力,以血亲相争,连年征战以并邻,有兴亦有衰。秘传技法亦时遭潜窃,领主设法防御,或奏效、或不济。其兴亡与诸领主之争相似,颇具史趣。
肥前诸领主中,唐津的波多氏、伊万里的伊万里氏、有田的有田氏、平户的松浦氏出自同族;大村的大村氏与岛原的有马氏同系,武雄的后藤氏亦有婚姻关系。此诸氏终为同系所出的龙造寺氏与锅岛氏所并服,并进一步结亲。诸窑系谱混同之后,终归于磁器制作之统一,亦不足为怪。于是各系并列出领主系谱与若干著名战事片段,以推知当时情势。龙造寺氏与锅岛氏之战史可在各系略述,若集中于佐嘉系则既不易且无要,故从略。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
其後,在庄屋元地區,本多牧仙(親基)以木場黏土摻入雲仙土,創作帶個人趣味之陶器。其特色為帶紅的白釉,主品為火盆與瓶掛。成形由工匠完成,牧仙親自鐫刻古今詩歌與箴言,以富鐵黏土作象嵌。
另有施以飴釉斑駁者,但多為白釉象嵌。牧仙手捻之茶器、酒盃、向付皿皆甚有雅趣。創業初,山里燒之龍石受聘為技師,有田之橋口三次郎亦參與。由於帶有玩賞性質,身後仍存不少燒成不全之作,今皆作非賣品保存。
牧仙不僅工於書畫,亦以理性態度從事諸多產業;雖有失敗,亦多有裨益後人之嘗試。雲仙嶽牧羊即其創意,故自號「牧仙」。又試行養蜂,並於溫泉都別府創辦製陶。昭和七年八月九日,享年七十八。
自幼從學者有松浦瓷仙(松一)。其善轆轤,尤長塑像;歷訪諸窯,重點在薩摩與高取。後旅居支那時,接師疾之急報,離鄉約十六年而返,侍疾月餘,恩師長逝。瓷仙作品除諸種茶器外,有約一二〇〇度燒成、具貫入白釉之塑像,亦有施帶黃白釉並以希臘式彩紋之花瓶。此地為溫泉之鄉,擁橘灣勝景,作為小濱土產之製陶,亦寄望於瓷仙之研究。
「雲仙燒」為大正二、三年間,於雲仙嶽小地獄(十四五戶)由牧仙攜瓷仙所開之窯。產品為溫泉浴槽用磚與壁板,施白釉與綠釉。當時此類陶瓷適材匱乏,連大理石久經溫泉作用亦會變質,故計畫收效不彰亦屬自然。惟其廠研製之陶製砥石頗為實用,自細白砥至摻金剛砂之粗砥皆能製之。
為免敘述混亂,入《肥前陶磁史》本編前,分為九系:唐津系・椎の峰窯、武雄系・武內窯、藤津系・嬉野窯、平戶系・三河內窯、大村系・波佐見窯、諫早系と矢上窯、伊萬里系・南川原窯、佐嘉系・大川內窯、多久系・有田窯。
此分類據地理與文獻因緣而粗分。細處則韓人及其後裔相互通婚、雜居各地,致技法常難區別;且與本邦人通婚,許多人幾至完全同化,已難辨其本族。
當地陶業之發展,多賴領主保護與獎勵。諸領主為擴張勢力,血親相爭,連年征伐以兼併鄰土,或興或替。秘傳技法亦屢遭潛竊,領主設制禦之,或奏功、或不果。其興亡類於諸領主之爭,史趣盎然。
肥前諸領主中,唐津之波多氏、伊萬里之伊萬里氏、有田之有田氏、平戶之松浦氏同出一族;大村之大村氏與島原之有馬氏同系,武雄之後藤氏亦有姻聯。終為同系所出的龍造寺氏、鍋島氏所併服,更復通婚。諸窯系譜混同後,終一於磁器製作,亦不足為奇。故於各系列出領主系圖與著名戰事片段,以推測當時情勢。至龍造寺氏、鍋島氏之戰史,可於各系略述;若集中載於佐嘉系,既不易且不切要,故從略。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
其后,在庄屋元,本多牧仙(亲基)以木场黏土混合云仙土,制作带个人趣味的陶器。其特征为略带红色的白釉,主品为火盆与瓶挂。器形由工匠成型,牧仙亲自刻写诗歌与箴言,并以含铁黏土嵌填。
亦有糖釉斑驳之作,但多为白釉象嵌。其手捏茶器、酒杯、向付盘尤显雅致。初期山里烧龙石受聘为技师,有田桥口三次郎参与。因偏向玩好,身后留有不少烧成不全之作,今皆非卖收藏。
牧仙亦从事多种产业,除书画之外,多以理性推动;虽有失败,亦惠及后人。云仙岳牧羊出于其意,故号“牧仙”。并试养蜂,且在别府创办制陶。昭和七年八月九日卒,享年七十八。
松浦瓷仙(松一)自幼从学。擅轮作,尤善塑像;游历诸窑,重在萨摩与高取。后旅居支那,接师病急讯,离乡约十六年后归里侍疾,月余师逝。其作有诸种茶器、约一二〇〇℃烧成之开片白釉塑像、施黄白釉并绘希腊式彩纹之花瓶。当地为温泉胜地,临橘湾,适合作为小滨土产,亦期待其研究。
“云仙烧”创于大正二—三年间,地在云仙岳小地狱(十四五户),为牧仙与瓷仙所开。制白、绿釉之温泉浴槽砖与壁板。当时适材稀少,连大理石经温泉亦会劣化,故收效不佳;然其厂制陶砥石甚实用,自细白砥至掺金刚砂之粗砥皆备。
为避免混乱,本文进入《肥前陶史》本编前分九系:唐津系・椎の峰窯,武雄系・武内窯,藤津系・嬉野窯,平户系・三河内窯,大村系・波佐见窑,諫早系と矢上窯,伊万里系・南川原窑,佐嘉系・大川内窑,多久系・有田窑。
分类据地理与文献脉络。细处韩国匠人与其后裔通婚杂处,技法常难辨;与本邦通婚者多已同化,族属难分。
陶业发展多赖领主奖掖。诸领主扩张权势,血亲相争,兼并不止,兴衰迭起。秘技亦被潜取,诸侯设制防之,或成或败。其兴亡与诸侯争斗相映,颇具史趣。
诸领主中,唐津波多、伊万里伊万里、有田有田、平户松浦同出一族;大村与岛原有马同系,武雄后藤亦有姻亲。终为同系之龙造寺、锅岛所并,并更通婚。诸窑系谱混同后,终趋磁器化,亦属自然。故各系并列领主系谱与战事片段以推知时情。龙造寺与锅岛战史可于各系略述;若并入佐嘉系赘述,既不易亦无要,故略。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
其後,在庄屋元,本多牧仙(親基)以木場黏土合雲仙土,創作個人化陶器。其特徵為帶紅之白釉,主為火盆、瓶掛。器形由工匠成型,牧仙自刻詩箴,以含鐵黏土嵌飾。
亦有飴釉斑駁之作,多屬白釉象嵌。其手捻茶器、酒盃、向付皿尤見雅致。初期山里燒龍石受聘為技師,有田橋口三次郎亦參與。因近玩好,身後留多燒成不全之作,今皆非賣收藏。
牧仙並從事多業,除書畫外,屢以理性推行;雖有失敗,亦惠及後人。雲仙嶽牧羊出於其意,故號「牧仙」。亦試養蜂,且於別府創製陶。昭和七年八月九日卒,享七十八。
松浦瓷仙(松一)自幼受業。善輪作,尤長塑像;歷訪諸窯,重在薩摩、高取。後旅居支那,聞師疾急,離鄉約十六年而歸侍疾,月餘師逝。其作有諸茶器、約一二〇〇℃燒成之開片白釉塑像、施黃白釉並繪希臘式彩紋之花瓶。當地為溫泉勝地,臨橘灣,適作小濱土產,亦冀其研究。
「雲仙燒」創於大正二—三年間,地在雲仙嶽小地獄(十四五戶),由牧仙與瓷仙所開。製白、綠釉之溫泉浴槽磚與壁板。時適材稀罕,連大理石經溫泉亦變質,故收效寡;惟其廠製陶砥石實用,自細白砥至摻金剛砂之粗砥皆備。
為免紛亂,本文入《肥前陶史》本編前分九系:唐津系・椎の峰窯,武雄系・武內窯,藤津系・嬉野窯,平戶系・三河內窯,大村系・波佐見窯,諫早系と矢上窯,伊萬里系・南川原窯,佐嘉系・大川內窯,多久系・有田窯。
分類依地理與文獻脈絡。細處韓匠及其後裔通婚雜處,技法每難辨;與本邦通婚者多已同化,族屬難分。
陶業發展多賴領主獎掖。諸領主擴權,血親相爭,兼併不輟,興替迭現。秘技亦遭潛取,諸侯立制禦之,或成或敗。其興亡與諸侯角逐相映,史趣甚濃。
諸領主中,唐津波多、伊萬里伊萬里、有田有田、平戶松浦同出一族;大村與島原有馬同系,武雄後藤亦有姻親。終為同系之龍造寺、鍋島所併,更相結親。諸窯系譜混同後,終趨磁器化,理所當然。故各系並列領主系譜與戰事片段,以推知時勢。龍造寺、鍋島戰史可於各系略述;若專列於佐嘉系,既難且無當,故略之。

