曲淵和右エ門~今山の維新後製陶

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【原文】[Original text]

曲淵和右エ門
 文化の末(1818年邑主鍋島河内(直高)の御藏方曲淵和右工門は、自ら陶窯を築き密に有田の工人を招きて又白罅焼を製造した。それは此地の粘土のみを胎質として焼かれしものにて、染附楓散らし模様や縁描リンボウ廻しなどの菓子碗があり、或は又染附突底形の小皿などがある。佐賀宗藩に於いても南京焼と稱して珍重し、特に桝谷與石工門、其別家同半兵衛及び和右工門へ若干の御免地を下ぐるに至った。

武田常右エ門
 其後白壁北尾鄉の武田常右工門又御用窯を命ぜられ、彼は一種のくろ物(陶器)製作を研究中不歸の客となりしかば、當時二才なり遺子丈吉が十五の成年に達するまで、御用窯を継承すべく執行藤太夫が許可を得ることゝ成なつた。そして丈吉が成人中維新の廢藩となつたのである(丈吉の男一郎が東尾の古賀氏を継いである)。

澤田春山
 次に邑主は京都の陶工澤田春山が來りしを幸ひ、窯元中山與八の工場に留めて京風の茶器を焼かしめた。(春山は元若狭の人にて、始め佐賀の伊勢屋町に来り、後名村坦山と共に筑前國須惠の製磁(黒田藩主の御用焼)に携はり、共後白石に来りて走波と合作せしものがある)執行藤太夫又春山を聘して陶技を擧ぶに至り、而して彼に給するに一日米入升づゝと定めたのである。

臼井走波
 安政年間(1855-1860年)曲淵の後代某は、京都の名工臼井走波を傭聘した。彼は元神官の家に生れ通稱芳造と云ひ、別に如雲叉芳雪の號があり、そして陶技の外描くに草花を善くし、又永樂風の彩金術に長じてゐた。
 此走波が来山より白石焼の作風は全く一變して京風を帶べる一種のローカルカラーを形成するに至り、當時の製品を一に走波焼とも稱せられたのである。然るに此中興者として妙技を振ひし彼は不幸にも失明せしかば京都へ帰ることゝなり、門人中の二名工其技を継承するに至つた。それは細工に於いて野田吉次郎であり、陶書に於て中村吉兵衛(後吉改む)であつた。

松下堂
 明治十年白石の藩士城島主静(後年神戸桟橋會社社長)は、中國漫遊後に於いて一種の青味を帯べる新着色釉を發見し、
罅焼と焼分けの作品に松下堂の窯印あるものを遺してゐる。

走波の作品
 扨走波の遺作には、白罅手の上に達筆にて牡丹と蘭とを呉須描せし肩張形七寸の徳利があり、同手へ松牡丹を描きし桃形にて高臺部蜷尻七寸の菓子器や、同手梅牡丹の筆洗がある。又同手にて春花作手捻り脇手の急須に紫陽花の花丈を高く浮彫し、それに枝と葉を走波が呉須捕したのがある。又同手にて赤群青入りの割内岩牡丹繪なぶり縁尺一寸の花瓶があるのは、走波後の輸出向製品にて此手は三尺位まで製作されたのである。
 次に走波の白磁には、染附四君子書鉉附の土瓶に已巳肇龝下院如雲山人寫と書いたのがあり(己巳は明治二年走波の筆)又同じ鉉附土瓶に李白を書き片面には隷書にて飲仙の賦を書きし優品がある。或は染附菊畫高形の燗瓶、萩繪脇手附の急須芦雁の茶器及盃等があり。白磁の赤繪物には牡丹( 花正子くまどり)梅畫の高形瓶及菊繪の煎茶碗(花沈金だみ)や、又は秋海棠、萩、百合、柘榴等を畫きし同物がある。

其他の白石焼
 其他松本典冶工門作の陶器にて茶色釉浮出捻り附の茶出があり、褐色焼稀に白と黒の螺線文なる細尻突立の脇手急須と、同手の小花立がある。又慶蔵製の染附狩野風山水な二升徳利の磁器があり、或は曲淵製の薄青罅手半磁器の八升徳利等がある。

白石の輸出時代
 斯くて白石焼は、當時外人の嗜好に適して海外輸出を試みるに至り、明治三十一年には重要物産組合法に依りて製陶組合設立し、對内外的に市場を開拓して製品には悉く検査を行ひ、此小天地より年產額五萬圓を擧くるに至ったのである。

白石の現代製品
 而して今や、白鍼及磁器の製作絶えて陶器のみとなり、以前は藤津郡吉田石の僅分を加へて石器を製せしことありしも、現在に地元の粘土のみにて製するに驛賣茶瓶を主し、其他土鍋、火鉢、甕、丼、植木鉢、インキ瓶蠟皿(五寸位の丸及角形の淺皿にて内部丈茶色釉を施しある木蠟の型皿也)等を襲しつゝある。窯元は藤崎の後裔佐藤孫作等十戶位にて、年産額一万五千圓位といはれてゐる。

尾崎焼
 尾崎焼の所在地は、神埼郡西郷村にて戸数七十戸の村落である。延元元年懐良親王肥後國菊地郡に征西府を置かせらるに方り、從ひ來りし河内國の某此地に住して製陶の業を起し傳へらる。一説に筑後國三潴郡の土器師家永彦三郎の舎弟にて、長右工門なる者尾崎村に移住し、此地の埴土を以て茶器を製し、是を秀吉に献せしことあり。其子孫土屋を姓さして代々製陶すごあるも詳でない。

蛇取橋の韓人墳
 此地神埼驛より半里餘り、姉川集落と接して一川があり、其入口の蛇取橋の近傍に韓人墳がある。或は朝鮮役に鍋島直茂に從ひし姉川中務太輔信安が、彼地の陶工を連來りしにあらずやと思はしむるも、此流域より尾崎方面は川久保の采邑とすれば、神代喜平次家良が帯同せし者かとも考察せらる。

尾崎舊時の製陶
 尾崎の舊製品は無釉にして質軽く、白に間々黒斑ありて恰も鼈甲状の紋をなせも甚脆弱であつた。今より百年以前に於いては雑器を製して相當の産額を挙げしものゝ如く、伊藤榮左工門、高柳太兵衛、篠崎伊助、石橋十一、高柳善六等の名ある窯元があつた。現代にては高柳芳太郎(善六の男)の後職者宮地仁三其他五戸にて、産額の如きも當時の五分の一にて約三千圓位といはれてゐる。

尾崎の現製品
 現在の製品は、火箱、火鉢、焜爐、七輪、火消壺、植木鉢、焙烙等の土器等にて或は人形やトテッポウ(鳩形笛)の如きもある。
又瓦を製する者あるも僅に近傍の需要にする程度である。なほ作風に就いて火鉢等の黒斑は現代にては逆となり、黒地に白班を現はし其中央に黒點をするものが製作され、地質に於いても稍堅固と成つてゐる。そして研ぎ出しと稱して生乾きの折幾度も磨きを重ねし丈け光滑を増して良好の製品とされてゐる。

今山焼
 今山燒といへるは、佐賀郡川上村にて佐賀市より二里許りを隔てゝゐる。此處の横馬場と稱する五十戶村落の山麓に、鬱々と生ひ繁る雑木のトンネル内を、二つの溪流を渡りて山蚊の群るゝ林中を漁れば、染附磁器の歪める破片がそこはかに打棄てられある。
主要原料は、三百年前此山上に発見されしさいはる、今山石にて、當時南川原の初代柿右工門の如きも之を試用せして傳へられてゐる。此處の製陶創始は既に二百四五十年以前の口碑あるも詳でない。

今山の舊製品
 最古の製品らしき丸形三つ足附の小さき香焚を見るに、胎土の軟質が釉際に褐色を帯び、そして腰裏に肥前今山焼の押印がある。
其他窯趾の殘缺には、染附山水繪六寸井 水芦底ゆり縁の中皿、又茶碗、鉢、花立等多く下手物許りである。古製品には良呉須を用ひて釉色の見る可きものあるも、後代の製品は皆コバルト青花の日用品のみ焼かれしものらしい。

今山窯遺蹟の表札
 此處の窯趾には、史蹟の表札が建てられてある。それに依れば、慶長三年 鍋島直茂が多久長門守政順(安順のことであらう)に命じ、韓人李參平をして此嘘にて青磁を焼かしめた云々と記載されてある。蓋し此史説を肯定するには心ある者の大に苦しむところであらう。

今山の維新後製陶
 今山焼も頗る變遷多く、維新前此衰微を復活せしむ可く川上實相院住職の斡旋にて、佐賀本庄町の森伊作をして出資せしめ、窯元十四人の組合にて製造することゝなり、明治十四・五年頃までは、七間の登窯が盛んに陶煙を擧げ居りしも、其後又衰退し、中には田地屋敷など伊作の所有に移りしものありて、今は全く廢窯に歸してゐる。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]
文化の末(1818年)ごろ、邑主鍋島河内(直高)の御蔵方であった曲淵和右工門は、自ら窯を築き、密かに有田の職人を招いて白罅焼を作らせた。これは当地の粘土だけを素地にして焼いたもので、染付の楓散らし模様や、縁にリンボウ回しを描いた菓子椀、染付で突底形の小皿などがある。佐賀の宗藩でも「南京焼」と称して珍重し、桝谷與石工門とその別家の同半兵衛、および和右工門に対して若干の御免地が与えられた。

その後、白壁北尾郷の武田常右工門も御用窯を命じられたが、彼は黒もの(陶器)の製作を研究中に亡くなったため、当時二歳だった遺児の丈吉が十五歳で成人するまで、執行藤太夫が継承して御用窯を務める許可を得た。丈吉が成人する間に維新で廃藩となった(丈吉の長男一郎は東尾の古賀氏を継いだ)。

次いで邑主は、京都の陶工・澤田春山が来た好機に、窯元の中山與八の工場に留めて京風の茶器を焼かせた(春山はもと若狭の人で、はじめ佐賀の伊勢屋町に来て、のち名村坦山とともに筑前國須惠の製磁(黒田藩主の御用焼)に携わり、その後白石に来て走波と合作した作もある)。執行藤太夫も春山を招聘して技術向上に努め、彼への給付を一日につき米一升と定めた。

安政年間(1855〜1860年)、曲淵の後代の者は京都の名工・臼井走波を雇い入れた。走波はもと神官の家に生まれ、通称芳造、号は如雲または芳雪。陶技に加えて草花の画を得意とし、永樂風の彩金術にも長けていた。走波が来たことにより白石焼の作風は一変して京風を帯びた独自のローカルカラーを形づくり、当時の製品は総じて「走波焼」とも呼ばれた。ところが、中興の立役者として妙技を振るった彼は不幸にも失明し、京都へ戻ることとなり、門人の二名工がその技を継いだ。細工は野田吉次郎、陶書は中村吉兵衛(のち吉に改名)である。

明治十年、白石の藩士・城島主静(後年、神戸桟橋會社社長)は中国を漫遊したのち、青みを帯びた新しい着色釉を見いだし、罅焼との焼分けの作品に「松下堂」の窯印を残している。

走波の遺作としては、白罅手に達筆で牡丹と蘭を呉須で描いた肩張り形七寸の徳利、同手に松・牡丹を描いた桃形で高台部が蜷尻の七寸菓子器、同手の梅・牡丹の筆洗がある。さらに、同手で春花作の手捻り脇手急須に紫陽花の花茎を高く浮彫にし、枝葉を走波が呉須で押さえたもの、赤群青入りの割内岩牡丹絵で、なぶり縁・尺一寸の花瓶などもある。これは走波後の輸出向け製品で、この手は三尺ほどまで作られた。走波の白磁では、染付四君子を描き、書き付けに「鉉附の土瓶に已巳肇龝下院如雲山人寫」とあるもの(己巳は明治二年で走波の筆)や、同じ鉉附土瓶に李白を描き、片面に隷書で「飲仙の賦」を書いた優品がある。ほかに、染付菊画の高形燗瓶、萩絵の脇手付き急須、芦雁の茶器や盃など。白磁の赤絵物には、牡丹(花正子くまどり)・梅画の高形瓶、菊絵の煎茶碗(花沈金だみ)、また秋海棠・萩・百合・柘榴などを描いた同種の品がある。

そのほか、松本典冶工門作の陶器で、茶色釉の浮出し捻り付きの茶出、褐色焼でまれに白と黒の螺線文のある細尻突立の脇手急須と、その小花立がある。慶蔵作の染付狩野風山水の二升徳利の磁器や、曲淵作の薄青罅手半磁器の八升徳利なども伝わる。

このように白石焼は当時の外国人の嗜好に合い、海外輸出を試みるに至った。明治三十一年には重要物産組合法にもとづき製陶組合を設立し、内外に市場を開拓して製品はすべて検査を行い、この小天地から年産額五万円を挙げるまでになった。

そして現在では、白鍼および磁器の製作は絶え、陶器のみとなった。以前には藤津郡吉田石をわずかに加えて石器を作ったこともあったが、今は地元の粘土のみで作り、駅売りの茶瓶を主とし、土鍋、火鉢、甕、丼、植木鉢、インキ瓶、蠟皿(五寸ほどの丸・角の浅皿で、内側だけ茶色釉を施した木蠟の型皿)などを作り続けている。窯元は藤崎の後裔・佐藤孫作ら十戸ほどで、年産額は一万五千円程度とされる。

尾崎焼の産地は神埼郡西郷村で、戸数七十戸の村落である。延元元年、懐良親王が肥後國菊地郡に征西府を置かれた際、従って来た河内國のある者がこの地に住み、製陶を始めたと伝える。一説には、筑後國三潴郡の土器師・家永彦三郎の弟である長右工門が尾崎村に移り、この地の埴土で茶器を作って秀吉に献上したことがあるという。子孫は土屋を姓として代々製陶したとも伝わるが、詳らかではない。

この地は神埼驛から半里あまり、姉川集落に接する一川があり、その入口の蛇取橋近くに韓人墳がある。朝鮮役の際に鍋島直茂に従った姉川中務太輔信安が、彼地の陶工を伴って来たのではないかとも思わせるが、この流域から尾崎方面は川久保の采邑であるとすれば、神代喜平次家良が帯同した者かとも考えられる。

尾崎の古い製品は無釉で軽質、白地にところどころ黒斑があり、まるで鼈甲のような文様をなすが、きわめて脆弱であった。百年ほど前には雑器を作って相応の産額を挙げたらしく、伊藤榮左工門、高柳太兵衛、篠崎伊助、石橋十一、高柳善六など名のある窯元がいた。現代では高柳芳太郎(善六の子)の後職者・宮地仁三ほか五戸で、産額は当時の五分の一、約三千円といわれる。

現在の製品は、火箱、火鉢、焜炉、七輪、火消壺、植木鉢、焙烙などの土器で、人形やトテッポウ(鳩形の笛)もある。瓦を作る者もいるが、近在の需要を満たす程度にすぎない。作風については、火鉢などの黒斑は現代では逆転し、黒地に白斑を現し、その中央に黒点を置くものが作られ、土質もやや堅固になっている。さらに「研ぎ出し」と称して生乾きの段階で幾度も磨きを重ねるため、いっそう光沢が増し、良品とされている。

今山焼は佐賀郡川上村で、佐賀市から二里ほど離れている。横馬場と呼ぶ五十戸の村落の山麓で、鬱蒼と茂る雑木のトンネルを抜け、二つの渓流を渡り、山蚊の群れる林中を探れば、染付磁器の歪んだ破片があちこちに打ち捨てられている。主な原料は、三百年前にこの山上で発見された「さいはる」、すなわち今山石で、当時、南川原の初代柿右工門らも試用したと伝わる。ここの製陶の始まりはすでに二百四、五十年前との口碑があるが、詳しくはわからない。

今に残る最古とみられる製品は、丸形で三つ足付きの小さな香炉で、柔らかい胎土が釉際に褐色を帯び、腰裏に「肥前今山焼」の押印がある。そのほか窯跡の残欠には、染付山水絵の六寸中皿(井水・芦の底、ゆり縁)や、茶碗、鉢、花立など、下手物が多い。古作には良い呉須を用い、釉色の見どころもあるが、後代の品はコバルト青花の日用品ばかりを焼いたらしい。

この窯跡には史跡の表札が建ち、そこには「慶長三年、鍋島直茂が多久長門守政順(安順のことだろう)に命じ、韓人李參平にこの処で青磁を焼かせた」旨が記されている。だが、この史説をそのまま肯定するのは、良識ある者には大いに難しいところであろう。

今山焼も変遷が多い。維新前、この衰微を復活させようと川上實相院住職の斡旋で、佐賀本庄町の森伊作が出資し、窯元十四人の組合で製造を行った。明治十四・五年ごろまでは、七間の登窯が盛んに煙を上げていたが、その後ふたたび衰退し、田地や屋敷が伊作の所有に移ったものもあり、今は全く廃窯となっている。


【英語訳】[English translation]
Toward the end of Bunka (1818), Kurebuchi Wayūemon, an official (御蔵方) under the feudal lord Nabeshima Kawachi (Naotaka), built his own kiln, secretly invited craftsmen from Arita, and produced Shirohaki-yaki (white crackle ware). Fired using only the local clay as body material, the output included confectionery bowls with underglaze-blue maple-sprinkle patterns and rims painted with “リンボウ” bands, as well as small underglaze-blue dishes of pointed-bottom form. Even the Saga parent domain prized these as “南京焼,” and granted parcels of免地 to Masuya Yoishikukōmon, his branch-house partner Hanbē, and Wayūemon.

Subsequently, Takeda Tsuneyūemon of Shirakabe Kitao-gō was also commissioned as御用窯. While studying a kind of kuro-mono (earthenware), he passed away; thus Shikkō Tōdayū was authorized to continue the official kiln until the heir, the two-year-old Jokichi, reached age fifteen. During Jokichi’s coming of age, the domains were abolished in the Restoration (his son Ichirō later succeeded the Koga family of Higashio).

Next, the lord took advantage of the arrival of the Kyoto potter Sawada Shunzān, keeping him at the workshop of the kiln owner Nakayama Yohachi to fire Kyoto-style tea ware. (Shunzān, originally from Wakasa, first came to Iseyamachi in Saga; later, together with Namura Tanzan, he engaged in porcelain production at Sue in Chikuzen Province—official ware for the Kuroda house—and afterward came to Shiroishi, collaborating with Sōha on some works.) Shikkō Tōdayū also engaged Shunzān to raise the technique, setting his stipend at one shō of rice per day.

During Ansei (1855–1860), a later Kurebuchi hired the renowned Kyoto master Usui Sōha. Born to a family of Shinto priests, commonly called Hōzō and also known by the art names Joun and Hōsetsu, he excelled not only in pottery but also in painting flowers and plants and in Eiraku-style polychrome-and-gold decoration. With Sōha’s arrival the style of Shiroishi ware changed completely, acquiring a Kyoto-flavored local color, and contemporary pieces were collectively called “Sōha-yaki.” Unfortunately, the very restorer who displayed superb skill lost his sight and returned to Kyoto; two leading pupils inherited his arts: Noda Kichijirō in fine workmanship, and Nakamura Kichibē (later Kichi) in ceramic calligraphy.

In Meiji 10, Jōjima Shusei, a Shiroishi retainer (later president of 神戸桟橋會社), discovered after travels in China a new tinted glaze with a bluish cast, leaving works—fired separately alongside crackle ware—bearing the kiln mark “松下堂.”

As for Sōha’s surviving works: there is a seven-sun, shoulder-broad tokkuri in white crackle with bold gosu painting of peony and orchid; a peach-shaped seven-sun confectionery dish on a snail-tail high foot with pine-and-peony in the same hand; and a brush washer with plum-and-peony. Also, a hand-pinched side-handled kyūsu of the Shunka-saku type in the same body bears a high relief of hydrangea stalks, with branches and leaves reinforced in gosu by Sōha. Another example is a 1 shaku 1 sun flower vase in the same ware with red-and-ultramarine, featuring split-ground rock-and-peony painting and a wavering rim—an export-oriented piece from after Sōha, with this style made up to about 3 shaku. In Sōha’s white porcelain are an underglaze-blue Tsubin with handle depicting the Four Gentlemen and inscribed “已巳肇龝下院如雲山人寫” (己巳 = Meiji 2, Sōha’s hand), and another handled tsubin with Li Bai on one side and, on the other, an隷書 ode “飲仙の賦.” There are also an underglaze-blue chrysanthemum-decorated tall kanbin, a side-handled kyūsu with bush-clover, tea utensils and cups with reed-and-goose motifs. In red-painted white porcelain appear tall bottles with peony (花正子くまどり) and plum designs, sencha cups with chrysanthemum (花沈金だみ), and others with begonia, bush clover, lily, pomegranate, etc.

Other Shiroishi ware includes pieces by Matsumoto Tenjikōmon: a tea server with brown glaze and raised-twist attachment; a brown-fired, occasionally white-and-black spiral-patterned, slender, upturned, side-handled kyūsu and a small flower vase in the same style. There is also a two-shō tokkuri in porcelain with Kano-style landscape in underglaze blue by Keizō, and an eight-shō pale-blue crackle semi-porcelain tokkuri by Kurebuchi.

Thus Shiroishi ware matched foreign tastes of the time and ventured into export. In Meiji 31, under the Important Products Association Law, a pottery association was formed, markets were opened at home and abroad, and all products were inspected, raising output from this small locality to 50,000 yen per year.

At present, production of白鍼 and porcelain has ceased, leaving only earthenware. Formerly, a small amount of Yoshida stone from Fujitsu District was added to make stoneware, but now only local clay is used; station-sold tea kettles are the main item, along with donabe, hibachi, jars, bowls, flowerpots, ink bottles, and wax trays (shallow round or square dishes about five sun across, with only the interior coated in brown glaze, used as molds for wood wax). The kilns number about ten households, including Satō Magosaku, a descendant of Fujisaki, and the annual output is said to be around 15,000 yen.

Ozaki-yaki is produced in Saigō Village, Kanzaki District, a settlement of about seventy households. In Engen 1, when Kanenaga Shinnō established the Seisefu in Kikuchi District, Higo Province, a certain man from 河内國 settled here and began pottery, it is said. Another account has Nagae Hikozaburō’s younger brother, Chōyūemon, from Mizuma District, Chikugo Province, moving to Ozaki Village, making tea utensils from local clay, and presenting them to Hideyoshi. Their descendants, surnamed Tsuchiya, are said to have continued the craft, though details are unclear.

About half a ri from Kanzaki Station, at the river abutting the Anegawa settlement near the entrance called Jatoribashi, there is a Korean mound (韓人墳). One might suppose Anegawa Nakatsukasa no Taifu Nobuyasu, who followed Nabeshima Naoshige in the Chōsen-yaku, brought potters from there; yet since this river basin toward Ozaki belonged to the fief of Kawakubo, it may also have been those accompanied by Kamishiro Kihēji Ieyoshi.

Older Ozaki products were unglazed, light in body, with occasional black speckles on white, giving a tortoiseshell-like pattern, but they were very fragile. About a century ago they produced miscellaneous wares in considerable quantities, and renowned kiln owners included Itō Eizakumon, Takayanagi Tahei, Shinozaki Isuke, Ishibashi Jūichi, and Takayanagi Zenroku. Today, production by Miyaji Jinzo—successor to Takayanagi Yoshitarō (Zenroku’s son)—and five other households amounts to roughly one-fifth of former times, about 3,000 yen.

Current items include earthen fire boxes, hibachi, konro, shichirin, fire-extinguishing jars, flowerpots, and hōraku, as well as figurines and “Totep-pō” (dove-shaped whistles). Some make roof tiles, but only enough for nearby demand. In style, the black speckles once seen on hibachi have inverted: pieces now show white patches on a black ground with a black dot in the center; the clay body has also become somewhat harder. A finish called “togidashi,” repeated polishing in the leather-hard stage, increases gloss and yields good products.

Imayama-yaki is in Kawakami Village, Saga District, about two ri from Saga City. At the foot of the hamlet called Yokobaba (about fifty households), if one passes through a tunnel of dense copse, crosses two streams, and searches the mosquito-ridden woods, warped shards of underglaze-blue porcelain lie discarded here and there. The chief raw material is Imayama-ishi—“saiharu,” discovered on this mountain about three hundred years ago—reportedly tested even by the first Kakiemon of Minamikawara. Oral tradition places the beginnings of pottery here at two hundred forty to fifty years ago, though details are unknown.

A piece thought to be among the oldest is a small round incense burner with three legs: the soft body shows a brown tinge at the glaze line, and the underside bears a stamped mark “肥前今山焼.” Other kiln-site remnants include many modest wares: a six-sun middle plate with underglaze-blue landscape (井水・芦の底・ゆり縁), tea bowls, bowls, and flower vases. Early pieces used good gosu with noteworthy glaze color, but later products seem to have been everyday wares in cobalt blue alone.

A historical plaque stands at the kiln site, stating that in Keichō 3 Nabeshima Naoshige ordered Taku Nagato-no-kami Masayori (probably 安順) to have the Korean Lee Sampyōng fire celadon here. To accept this account as is will be difficult for the thoughtful.

Imayama-yaki underwent many changes. Before the Restoration, to revive the decline, with mediation by the abbot of Kawakami Jisshōin, Mori Isaku of Saga Honjōmachi invested funds, and production proceeded by a cooperative of fourteen kiln owners. Until around Meiji 14–15, a seven-chamber climbing kiln sent up vigorous smoke; later it again declined, some fields and houses passing to Isaku’s ownership, and now it has become a completely abandoned kiln site.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
在文化末年(1818年)前后,邑主鍋島河内(直高)麾下的御藏方曲淵和右工門自建窑炉,秘密招来有田工匠烧造白罅焼。此类器物仅以当地黏土为胎土,作品有染付枫叶散饰与在器缘上绘“リンボウ”回纹的点心椀,亦有染付突底形小盘。佐贺宗藩亦以“南京焼”称之而珍重,特赐桝谷與石工門、其别家同半兵卫及和右工門若干御免地。

此后,白壁北尾乡的武田常右工門亦奉命为御用窑。其在研究一类“くろ物”(陶器)时去世,因而由執行藤太夫获准接续御用窑,直至当时年仅二岁的遗子丈吉满十五岁成人。丈吉成人期间适逢维新废藩(丈吉之子一郎承继东尾之古賀氏)。

继而,邑主趁京都陶工澤田春山来访之机,将其留于窑元中山與八的工场,烧造京风茶器。(春山本为若狭人,初至佐贺伊势屋町,后与名村坦山共事于筑前國須惠之制磁(黒田藩主御用烧),再来白石并与走波合作。)執行藤太夫亦延聘春山以精进陶技,定其日给为米一升。

安政年间(1855—1860),曲淵之后裔延聘京都名匠臼井走波。走波出自神官之家,通称芳造,号如雲、芳雪;除陶艺外,善描草花,且工永樂风彩金术。自走波来山后,白石烧作风一变,形成带京风的地方色,时称“走波焼”。不幸其后失明返京,由二名弟子承其艺:细工为野田吉次郎,陶上书法为中村吉兵卫(后改名“吉”)。

明治十年,白石藩士城島主静(后任神戸桟橋會社社長)周游中国后,发现一种带青味的新着色釉,并在与罅焼分烧的作品上留下“松下堂”的窑印。

走波遗作有:白罅手上以呉須行草绘牡丹、兰之肩张形七寸徳利;同手松牡丹图之桃形、高台蜷尻七寸菓子器;同手梅牡丹笔洗。又有同手春花作手捻脇手急须,紫阳花花茎高浮雕,枝叶由走波以呉須收拾。另有同手赤群青入、割内岩牡丹绘、なぶり縁尺一寸花瓶,属走波后期出口品,此式最多作至三尺。白磁方面,有染付四君子并书“鉉附之土瓶に已巳肇龝下院如雲山人寫”(己巳系明治二年,为走波笔);又有同式鉉附土瓶,一面绘李白,一面以隷书书《飲仙之賦》。其余尚有染付菊画高形燗瓶、萩绘脇手急须、芦雁茶器与盃。白磁赤绘物中,有牡丹(花正子くまどり)、梅画之高形瓶与菊绘煎茶碗(花沈金だみ),亦有绘秋海棠、萩、百合、柘榴者。

其他白石烧:松本典冶工門作之茶色釉浮出捻附“茶出”,褐色烧、偶见黑白螺线文之细尻突立脇手急须及同式小花立;慶蔵作染付狩野风山水二升徳利之磁器;曲淵作薄青罅手半磁八升徳利等。

其时白石烧契合洋人嗜好,遂试行外销。明治三十一年依重要物産組合法设制陶组合,内外拓市,并施全检,年产自此小天地而达五万円。

至今白鍼与磁器制作已绝,仅存陶器。昔曾少量加入藤津郡吉田石制石器,今唯用本地黏土,以驿卖茶瓶为主,并续作土锅、火鉢、甕、丼、植木鉢、インキ瓶、蠟皿(径约五寸之圆、方浅皿,仅内面施茶色釉,为木蠟模皿)等。窑元约十户,以藤崎后裔佐藤孫作等为首,年产约一万五千円。

尾崎焼产地在神埼郡西郷村,村落七十户。延元元年,懐良親王于肥後國菊地郡置征西府,随从之河内國某人居此开陶业;又一说,筑後國三潴郡土器师家永彦三郎之弟长右工門迁尾崎村,以此地埴土制茶器,曾献于秀吉。其后裔姓土屋,世代制陶,然细节未详。

距神埼驛半里许,与姉川聚落相接之河口处、蛇取橋近旁,有韩人墳。或疑朝鮮役时随鍋島直茂之姉川中務太輔信安自彼携陶工而来;然此流域至尾崎为川久保之采邑,亦或为神代喜平次家良所带同者。

尾崎旧制品无釉、质轻,白地间有黑斑,若玳瑁纹,然甚脆弱。百年前尚以杂器产量颇丰,窑主有伊藤榮左工門、高柳太兵衛、篠崎伊助、石橋十一、高柳善六等。今则由高柳芳太郎(善六之子)之后职者宮地仁三等五户承制,产额约为昔时五分之一,约三千円。

现行制品为火箱、火鉢、焜炉、七輪、火消壶、植木鉢、焙烙等土器,亦作人形与トテッポウ(鸽形笛)。亦有人制瓦,惟供近邻所需。作风上,昔之火鉢黑斑今反为黑地白斑且中央点黑之式,胎质亦稍坚;并以“研ぎ出し”名之,于生干期反覆磨拭,增其光泽,成良品。

今山焼在佐賀郡川上村,距佐贺市约二里。横馬場五十户村落之山麓,穿密林隧道,渡二溪,探蚊群林间,则处处散落歪形染付磁片。主原料为三百年前于山上所发现之“さいはる”,即今山石;当时南川原初代柿右工門亦试用之。此处制陶肇自二百四五十年前之口碑,然未详。

最古见有圆形三足小香炉,胎质软,釉口泛褐,腰背钤“肥前今山焼”。窑趾残件多为下手物:染付山水六寸中皿(井水・芦底・ゆり縁)、茶碗、鉢、花立等。古作用良呉須,釉色可观;后世则多仅烧钴蓝青花日用品。

窑址立有史迹牌,载“慶長三年 鍋島直茂命多久長門守政順(盖安順)令韓人李參平于此烧青磁”等语。然要全然肯定此说,恐为有识者所难。

今山焼多经变迁。维新前为复其衰,由川上實相院住持居间,佐賀本庄町森伊作出资,十四窑元组合作业。至明治十四、五年前后,七间登窑尚烟云鼎沸;其后复衰,田地宅院亦有移为伊作所有者,今则尽归废窑。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
在文化末年(1818年)前後,邑主鍋島河內(直高)麾下之御藏方曲淵和右工門自建窯爐,祕密延請有田工匠燒造白罅燒。此類器物僅以當地黏土為胎土,作品有染付楓葉散飾與於器緣繪「リンボウ」回紋之點心椀,亦有染付突底形小盤。佐賀宗藩亦稱為「南京燒」而珍重,特賜桝谷與石工門、其別家同半兵衛及和右工門若干御免地。

其後,白壁北尾鄉之武田常右工門亦奉命為御用窯。彼於研究一類「くろ物」(陶器)時身故,遂由執行藤太夫獲准承繼御用窯,直至當時年僅二歲之遺子丈吉滿十五歲成人。丈吉成人期間值維新廢藩(丈吉之子一郎承繼東尾之古賀氏)。

繼而,邑主乘京都陶工澤田春山來訪之機,留之於窯元中山與八之工場,燒造京風茶器。(春山本若狹人,初至佐賀伊勢屋町,後與名村坦山共事於筑前國須惠之製磁(黑田藩主御用燒),再來白石並與走波合作。)執行藤太夫亦延聘春山以精進陶技,定其日給為米一升。

安政年間(1855—1860),曲淵之後代延聘京都名匠臼井走波。走波出自神官之家,通稱芳造,號如雲、芳雪;除陶藝外,善繪草花,且工永樂風彩金術。自走波來山後,白石燒作風一變,形成帶京風之地方色,時稱「走波燒」。不幸其後失明返京,由二名弟子承其藝:細工為野田吉次郎,陶上書法為中村吉兵衛(後改名「吉」)。

明治十年,白石藩士城島主靜(後任神戶棧橋會社社長)周遊中國後,發現一種帶青味之新著色釉,並於與罅燒分燒之作品上留有「松下堂」窯印。

走波遺作有:白罅手上以呉須行草繪牡丹、蘭之肩張形七寸德利;同手松牡丹圖之桃形、高臺蜷尻七寸菓子器;同手梅牡丹筆洗。又有同手春花作手捻脇手急須,紫陽花花莖高浮雕,枝葉由走波以呉須收拾。另有同手赤群青入、割內岩牡丹繪、なぶり緣尺一寸花瓶,屬走波後期出口品,此式最多作至三尺。白磁方面,有染付四君子並書「鉉附之土瓶に已巳肇龝下院如雲山人寫」(己巳為明治二年,走波筆);又有同式鉉附土瓶,一面繪李白,一面以隸書書《飲仙之賦》。其餘尚有染付菊畫高形燗瓶、萩繪脇手急須、蘆雁茶器與盃。白磁赤繪物中,有牡丹(花正子くまどり)、梅畫之高形瓶與菊繪煎茶碗(花沈金だみ),亦有繪秋海棠、萩、百合、石榴者。

其他白石燒:松本典冶工門作之茶色釉浮出捻附「茶出」,褐色燒、偶見黑白螺線文之細尻突立脇手急須及同式小花立;慶藏作染付狩野風山水二升德利之瓷器;曲淵作薄青罅手半瓷八升德利等。

當時白石燒契合洋人嗜好,遂試行外銷。明治三十一年依重要物產組合法設制陶組合,內外拓市,並施全檢,年產自此小天地而達五萬元。

至今白鍼與瓷器製作已絕,僅存陶器。昔曾少量加入藤津郡吉田石製石器,今唯用本地黏土,以驛賣茶瓶為主,並續作土鍋、火鉢、甕、丼、植木鉢、インキ瓶、蠟皿(徑約五寸之圓、方淺皿,僅內面施茶色釉,為木蠟模皿)等。窯元約十戶,以藤崎後裔佐藤孫作等為首,年產約一萬五千元。

尾崎燒之產地在神埼郡西鄉村,村落七十戶。延元元年,懷良親王於肥後國菊地郡置征西府,隨從之河內國某人居此開陶業;又一說,筑後國三潴郡土器師家永彦三郎之弟長右工門遷尾崎村,以此地埴土製茶器,曾獻於秀吉。其後裔姓土屋,世代製陶,然細節未詳。

距神埼驛半里許,與姊川聚落相接之河口處、蛇取橋近旁,有韓人墳。或疑朝鮮役時隨鍋島直茂之姊川中務大輔信安自彼攜陶工而來;然此流域至尾崎為川久保之采邑,亦或為神代喜平次家良所帶同者。

尾崎舊製品無釉、質輕,白地間有黑斑,若玳瑁紋,然甚脆弱。百年前尚以雜器產量頗豐,窯主有伊藤榮左工門、高柳太兵衛、篠崎伊助、石橋十一、高柳善六等。今則由高柳芳太郎(善六之子)之後職者宮地仁三等五戶承製,產額約為昔時五分之一,約三千元。

現行製品為火箱、火鉢、焜爐、七輪、火消壺、植木鉢、焙烙等陶器,亦作人形與トテッポウ(鴿形笛)。亦有人製瓦,但僅供近鄰需求。作風上,昔之火鉢黑斑今反為黑地白斑且中央點黑之式,胎質亦稍堅;並以「研ぎ出し」名之,於生乾期反覆磨拭,增其光澤,成良品。

今山燒在佐賀郡川上村,距佐賀市約二里。橫馬場五十戶村落之山麓,穿密林隧道,渡二溪,探蚊群林間,則處處散落歪形染付磁片。主原料為三百年前於山上所發現之「さいはる」,即今山石;當時南川原初代柿右工門亦試用之。此處製陶肇自二百四五十年前之口碑,然未詳。

最古見有圓形三足小香爐,胎質軟,釉口泛褐,腰背鈐「肥前今山燒」。窯趾殘件多為下手物:染付山水六寸中皿(井水・蘆底・ゆり緣)、茶碗、鉢、花立等。古作用良呉須,釉色可觀;後世則多僅燒鈷藍青花日用品。

窯址立有史蹟牌,載「慶長三年 鍋島直茂命多久長門守政順(蓋安順)令韓人李參平於此燒青磁」等語。然要全然肯定此說,恐為有識者所難。

今山燒多經變遷。維新前為復其衰,由川上實相院住持居間,佐賀本莊町森伊作出資,十四窯元組合作業。至明治十四、五年前後,七間登窯尚煙雲鼎沸;其後復衰,田地宅院亦有移為伊作所有者,今則盡歸廢窯。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
至文化末年(1818),鍋島河内(直高)麾下御藏方曲淵和右工門建窑,并秘密延请有田匠人烧造白罅焼。其器仅用本地黏土为胎,出品有染付枫散、缘绘“リンボウ”之点心椀,亦有染付突底小盘。佐贺宗藩以“南京焼”珍视,并赐桝谷與石工門、其别家同半兵卫及和右工門御免地。

其后白壁北尾乡武田常右工門亦为御用窑。其研制“くろ物”时身故,由執行藤太夫奉准代持,迄遗子丈吉年满十五。丈吉成年间遇维新废藩(其子一郎袭东尾古賀氏)。

继之,京都陶工澤田春山被留于中山與八作坊,烧京风茶器(春山曾与名村坦山共事筑前國須惠御用烧,后至白石与走波合作)。其日给定为米一升。

安政期,曲淵后裔延聘京都名匠臼井走波。走波出自神官家,号如雲、芳雪;擅花卉与永樂式彩金。其来后白石烧尽改旧观,成“走波焼”。后因失明返京,技传于野田吉次郎(细工)与中村吉兵卫(陶书,后改“吉”)。

明治十年,城島主静自中国得青味新釉,遗“松下堂”印作,与罅焼分烧。

走波遗作有白罅手七寸肩张徳利(牡丹兰呉須),桃形蜷尻高台七寸菓子器(松牡丹),梅牡丹笔洗;又有春花作手捻脇手急须,高浮雕紫阳花,枝叶由走波以呉須补笔;并有赤群青入、割内岩牡丹绘、なぶり缘尺一寸花瓶,为后期外销式,最大至三尺。白磁中有染付四君子并题“已巳肇龝下院如雲山人寫”之鉉附土瓶(己巳=明治二年),又有一面李白、一面隶书《飲仙之賦》者;另有菊画高形燗瓶、萩绘脇手急须、芦雁茶器与盃。白磁赤绘见牡丹(花正子くまどり)、梅画高瓶与菊绘煎茶碗(花沈金だみ),亦绘秋海棠、萩、百合、柘榴。

其他白石器:松本典冶工門作茶色釉浮出捻“茶出”,褐烧细尻突立脇手急须与小花立;慶蔵作染付狩野风山水二升徳利;曲淵作薄青罅手半磁八升徳利。

其时合洋人所好,明治三十一年据重要物産組合法设陶业组合,拓展内外市,并行全检,年产约五万元。

今白鍼与瓷已绝,仅存陶器。昔少加藤津郡吉田石制石器,今唯用本地泥,主制驿卖茶瓶,并有土锅、火鉢、甕、丼、植木鉢、インキ瓶、蠟皿(径五寸浅盘,仅内釉茶色)等。窑元约十户(佐藤孫作等,藤崎之后),年产约一万五千元。

尾崎焼出自神埼郡西郷村(七十户)。传延元元年懐良親王建征西府时,河内國某居此起窑;又说三潴郡家永彦三郎之弟长右工門迁尾崎,制茶器献秀吉;后裔姓土屋,世业制陶。

距神埼驛半里,蛇取橋近有韩人墳;或为朝鮮役随鍋島直茂之姉川中務太輔信安所携;然尾崎属川久保采邑,亦或系神代喜平次家良所带。

旧作无釉轻质,白地黑斑如玳瑁而脆。百年前杂器产量可观,窑主有伊藤榮左工門、高柳太兵衛、篠崎伊助、石橋十一、高柳善六。今由宮地仁三等五户承制(承高柳芳太郎之业),产额约昔之五分之一,约三千元。

现制有火箱、火鉢、焜炉、七輪、火消壶、植木鉢、焙烙及人形、トテッポウ(鸽形笛);亦制瓦,但仅供近需。风格上黑斑转为黑地白斑中央点黑;胎更坚。以“研ぎ出し”于生干时反复磨拭,增光成良品。

今山焼在佐贺郡川上村,距佐贺市二里。横馬場山麓林壑中散见染付残片。主料为今山石(“さいはる”,三百年前所见),南川原初代柿右工門亦曾试用。窑创自二百四五十年前之口碑,然不详。

最古见三足小香炉,胎软釉口褐,背钤“肥前今山焼”。窑趾残多下手物:染付山水六寸盘(井水、芦底、ゆり缘)、茶碗、鉢、花立。旧作用佳呉須,后出多为钴蓝日用品。

史迹牌称:慶長三年 鍋島直茂命多久長門守政順令韓人李參平于此烧青瓷。然欲全然采信,殊难。

维新前为振衰,赖川上實相院住持斡旋,森伊作出资,十四窑元合制。至明治十四、五年,七间登窑犹烟起;后复衰,田宅或归伊作,今成废窑。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
至文化末年(1818),鍋島河內(直高)麾下御藏方曲淵和右工門建窯,祕延有田匠燒白罅燒。其器僅用本地黏土為胎,出有染付楓散、緣繪「リンボウ」之點心椀,亦有染付突底小皿。佐賀宗藩稱為「南京燒」而珍視,賜桝谷與石工門、其別家同半兵衛及和右工門御免地。

後白壁北尾鄉武田常右工門亦任御用窯。其研「くろ物」時身故,由執行藤太夫代承,迄遺子丈吉年滿十五。丈吉成人際適值維新廢藩(其子一郎襲東尾古賀氏)。

繼則京都陶工澤田春山留於中山與八作坊燒京風茶器(先與名村坦山共事筑前國須惠御用燒,後至白石與走波合作),日給米一升。

安政間,曲淵後裔延聘京都名匠臼井走波。走波出神官家,號如雲、芳雪;善花卉畫及永樂式彩金。其來後白石燒盡改舊觀,稱「走波燒」。既而失明還京,藝傳野田吉次郎(細工)、中村吉兵衛(陶書,後改「吉」)。

明治十年,城島主靜自中國得青味新釉,留「松下堂」印作,與罅燒分燒。

走波遺作:白罅手七寸肩張德利(牡丹蘭呉須),桃形蜷尻高臺七寸菓子器(松牡丹),梅牡丹筆洗;又春花作手捻脇手急須,高浮雕紫陽花,枝葉走波以呉須補筆;復有赤群青入、割內岩牡丹繪、なぶり緣尺一寸花瓶,屬後期外銷式,最大至三尺。白磁中有染付四君子并題「已巳肇龝下院如雲山人寫」之鉉附土瓶(己巳=明治二年),又有一面李白、一面隸書《飲仙之賦》;另菊畫高形燗瓶、萩繪脇手急須、蘆雁茶器與盃。白磁赤繪見牡丹(花正子くまどり)、梅畫高瓶與菊繪煎茶碗(花沈金だみ),亦繪秋海棠、萩、百合、石榴。

其他白石器:松本典冶工門作茶色釉浮出捻「茶出」,褐燒細尻突立脇手急須及小花立;慶藏作染付狩野風山水二升德利;曲淵作薄青罅手半磁八升德利。

時適合洋好,明治三十一年據重要物產組合法設陶業組合,拓展內外市並全檢,年產約五萬元。

今白鍼與瓷已絕,惟陶器存。昔少加藤津郡吉田石制石器,今僅用本地泥,主驛賣茶瓶,兼土鍋、火鉢、甕、丼、植木鉢、インキ瓶、蠟皿(徑五寸淺皿,僅內釉茶色)等。窯元十戶許(佐藤孫作等,藤崎之裔),年產約一萬五千元。

尾崎燒產於神埼郡西鄉村(七十戶)。傳延元元年懷良親王建征西府時,河內國某居此起窯;又云三潴郡家永彦三郎之弟長右工門遷尾崎,以土製茶器獻秀吉;其裔姓土屋,世守陶業。

距神埼驛半里,蛇取橋近有韓人墳;或為朝鮮役隨鍋島直茂之姊川中務大輔信安所攜;然尾崎屬川久保采邑,亦或系神代喜平次家良所帶。

舊品無釉輕質,白地黑斑如玳瑁而脆。百年前雜器產盛,窯主有伊藤榮左工門、高柳太兵衛、篠崎伊助、石橋十一、高柳善六。今由宮地仁三等五戶承製(承高柳芳太郎業),產額約昔之五分之一,約三千元。

現製火箱、火鉢、焜爐、七輪、火消壺、植木鉢、焙烙及人形、トテッポウ(鴿形笛);亦製瓦,僅應近需。風格上黑斑轉為黑地白斑中央點黑;胎更堅。以「研ぎ出し」於生乾時反覆磨拭,增光成良品。

今山燒在佐賀郡川上村,距佐賀市二里。橫馬場山麓林間散見染付殘片。主料今山石(「さいはる」,三百年前所見),南川原初代柿右工門亦試用。窯創兩百四五十年前之口碑,未詳。

最古三足小香爐,胎軟釉口褐,背鈐「肥前今山燒」。殘片多下手物:染付山水六寸盤(井水、蘆底、ゆり緣)、茶碗、鉢、花立。舊作用佳呉須;後多為鈷藍日用品。

史牌稱:慶長三年 鍋島直茂命多久長門守政順令韓人李參平於此燒青磁。然全然信之,未易。

維新前為振衰,賴川上實相院住持斡旋,森伊作出資,十四窯元合製。至明治十四、五年,七間登窯尚煙起;後復衰,田宅或歸伊作,今為廢窯。