【原文】[Original text]
肥前陶史の本編は、朝鮮直系の開窯地を主とせしものなるを以て、それに係はりなき製陶地や、又關はり薄き處や、或は其何れも不明の陶山を一括して、別に外編として掲載することゝしたのである。
肥前の製陶は、頗る古くより行はれものゝ如く、今佐賀市の徴古館に陳列されてある佐嘉郡春日村高城寺山の山腹なる、神奈備神社にありし徑一尺許りの甕形の土器や、同郡神野村三溝の田圃より發掘せし廣口瓶など何れも古代の遺物であるらしい。
三河内の土器
又東彼杵郡折尾瀬村なる三河内本村の字今福東西免なる堂の前に於て、明治十五年頃國道改修工事の際あまたの土器を發掘せしが中には神代頃に於ける鍋の代用器と見る可きものがあり。又唐津市外濱田城趾の無紋彌生式土器や或は佐賀市上多布施町なる同器の如き、何れも今より二千年以前のものと鑑定されたのである。
彌生式甕棺
小城郡三里村字山崎にて發掘され石棺さ共に四尺餘の素焼甕二個現ばれしが、之は今より約千五百年以前の遺物といはれ。又基肄郡田代村安永田や飲田、養父郡旭村安良旭山麓及同郡中原村上地姫方地方には多くの彌生式甕棺が發見され中には二千年以前のものがあり。又藤津郡五丁田村上井長屋よりは、土器皿及六寸余の高坏が發掘されたのがある。
神埼郡三田川村字田手なる(吉野ヶ里と稱する峠より、土を掘る度に前記の甕棺の如きが發掘さる。それは高さ二尺八寸口徑又同じき甕が二個宛口合せに成って現出する。又稀には高さ一尺二寸口徑一尺五寸の土器があり。又養父郡東尾の猿眼と稱する粘土採取場よりも、直徑八寸位の胴継ぎ土器や或はものが發掘された。其他藤津郡久間及冬野の土器があり何れも千數百年前のものらしい。
有紋土器
杵島郡朝日村川上なる鬼塚の古墳よりも、石器と共に土器が發掘され。神埼郡詫田よりも彌生式土器が發見された。又同郡脊振と仁比山の間なる寺ヶ里戦場ヶ谷の押型紋様土器や、東松浦郡久里村柏崎の彌生式有紋土器の如きは、頗る研究の好材料であらう。其他神埼郡西郷村尾崎の古墳より現はし水筒に至つては、三韓出兵時代の遺物と稱せらる。
佐嘉の地名
景行天皇の御代、佐嘉にて始めて陶製の人馬像を神前に建立せしことは、前段日本陶史譜に記述せしが、其時大荒田に建策せし土蜘蛛の姉妹は、枸に賢しき女なりとて之が地名となり、此地方を佐嘉と稱するに至りしとの傅説がある。
土師郷
土師鄉としては、小城郡に甕調村(今の三日月村)の名稱があり。神埼郡には津留村、五日村、四日町、八日町、平ヶ里、水馬場村、土井上村、辻村、大目ヶ里、西溝村等の土帥郷地名が記録されてある。
肥前瓦の始
人皇三十六代孝徳天皇の御代に於いて、肥前の国に瓦焼始まれりとの記事がある。當時にあつては瓦を焼く事さへ實に稀有の時代であつた。尤古代の屋根瓦は現代の製品の如く、しかく單調なる物にあらずして希臘傳來の種々なる紋様ある建築美術の一種であつたらしい。
東尾焼
東尾焼と稱するは養父郡(今の三養基郡)白壁(北茂安村)にて、中原驛より七合里程戸數百三十戶の一宿驛である。此東尾焼の由来は頗る舊く其創始の動機が、筑後渡し場なる千栗八幡宮の神事に行はるゝ御粥試しより起りしものである。
御粥試し
それは正月の十五日に炊きし御粥を冷し、之に生せる微を檢じて九州五社管内の豊凶が卜せらるゝので、毎年三月卯の日の祭日には、筑後國羽犬塚の某家代々來つて之を執行することゝ成てゐた。然るに或る年此御粥の黴不結果にて判断不能なりしかば、従来の鐵釜を廢して清浄な土器釜を製し、そして毎年之を取替へる事と成つたのである。
松村掃部
其頃白壁の寶部なる川道郷に、平家落人の子孫といへる松村掃部といふ者ありて此任に當り、地下深く清浄なる埴土を探って土器釜を製作せしより、御粥占の試し良好なるに至りしと稱せらる、それは建治元年(1275年)二月卯の日の行事であつた。(今の神事は三月十五日に改められた)此時の古文書は既にぼろぼろに破損して黒染みるが所々に綴れ残り、それを包める錦なども地糸の繊維のみと成りて古ぼけしを、當地の古賀一郎が保存してゐるのである。
神秘製作
此土器製造より後には雑器を作ることゝなりしが、それが當時は神秘とされしものにて、製作の折は必ず烏帽子紋服にて筵の上に端座し身心を潔めて轆轤に向ったのである。又此陶家の相續は必ず一子相傳と定められ、次子以下は其手傳ひさして協力することゝ成つてゐた。そして松村姓の如きは一家に限られてあつた。(今其子孫久留米に居る)後代に至つて此陶業を営める者増加し、製品は焙烙を主とし其他は雪平鍋、火入火消壺等にて全部無釉物である。
日本走山
嘉永年間(1848-1855年)隣地白石の小川源一樂焼を試みて種々の茶器を作る頃長崎の龜山より走山なる者涉り來った。彼は蘭人との混血児にて自ら日本走山と稱し、諸處の陶山を巡遊して製法を研究するのであつた。斯くて彼は此處に止まること三年なりしが、一種朱泥風の陶器を創始せしものが、現在の東尾焼の作風である。
古賀市次郎
近代の陶家として古賀市次郎(一郎の養父)が名手であつた。今種々の無釉陶器が製作され、其茶褐色の地肌に磨きをかけて施釉物の如き光滑を現はし、中には桐材と見紛ふほどの木目を見せたのがある。此種の火鉢は手焙りの感觸と温度の調節を保ち、磁器の如く灼熟せざるころに長所がある。現在の陶家二十戶許り年産額二萬圓位であらう。
白石焼
白石焼は、今の三養基郡北茂安村白壁の北部山間にて、東尾窯の所在地より十町許りを隔てし五十戸の村落である。此地の製陶は源平時代より起りしさの傳説あるも詳でない。原料は一帯の土地に産する橙色や鳶色の粘土にて、享保以來鄉人が農事の傍ら副業そして僅かの麁器を焼いてゐた。此處は東尾と共に片田江鍋島氏なる山城守直弘(八千六百十六石)が釆邑にて、其系圖左の如し。(白石鍋島系圖参照)
白石七輪
寶曆年間(1751-1764年)杵島郡鳴瀬(橘村)の枡谷金右工門といへる者、隣地上野に於て製陶業に失敗し、果ては妻子を連れて中國筋へ上らんとて途上白壁の近傍なる中原の一旅舍に投宿した。折から人別改めに巡り來し此地の邑主鍋島山城(直章)の山方役深堀丹作の知るところとなり、金右工門は誘はるゝまゝ白石に来りて製陶を創め、此處の粘土を以て七輪や火消壺など燒上げて、久留米地方へ販売すること成った。
或る時久留米藩の家中にて、此七輪を購ひ皈り城中にて使用せしに、従来の物よりも頑丈にて耐久的なりの好評を博し茲に白石七輪の聲價を擧ぐるに至った。桝谷家の略系左の如くである。
慶藏の代に至り、邑主より特に足輕格に取立てられ、そして桝谷を松本姓に改めたのである。
藤崎百十
寛政十二年(1800年)松浦郡大川内山なる、鍋島藩窯の陶工藤崎百十といへる者、子細ありて妻子と共に此地へ遁れ來りしが、百十は天草のゴコクサンと稱する原石を取寄せて半磁器風の白罅焼を創製した。邑主は彼が禁を犯して製陶しつゝあることを憚り鮑まで宗藩に隠蔽すべく努めしも、其製出されし作風は全く大川内燒其儘であつた。斯くて藤崎の後代佐藤某亦邑主の御用窯として製作するに至つた。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
『肥前陶史』の本編は、朝鮮と直接ゆかりのある開窯地を主に扱っているため、それに当てはまらない製陶地、関係が薄い場所、あるいは由来のはっきりしない陶山をひとまとめにして、別立ての外編として掲載した。肥前での陶業はかなり古くから行われていたようで、現在佐賀市の徴古館に展示される、佐嘉郡春日村高城寺山の山腹にある神奈備神社に伝わった径一尺ほどの甕形土器や、同郡神野村三溝の田圃から出土した広口瓶はいずれも古代の遺物と見られる。
また、東彼杵郡折尾瀬村の三河内本村字今福東西免の堂前で、明治十五年ごろの国道改修の際に多くの土器が掘り出され、その中には神代のころの鍋の代用品と見なせるものもあった。さらに、唐津市外の濱田城跡や佐賀市上多布施町から出た無文の弥生式土器はいずれも、現在より二千年以上前のものと鑑定されている。
小城郡三里村字山崎の発掘では、石棺とともに四尺あまりの素焼きの大甕が二口現れ、これは今から約一千五百年前の遺物とされる。ほかにも、基肄郡田代村安永田・飲田、養父郡旭村安良旭山麓、同郡中原村上地姫方一帯では弥生式の甕棺が多数見つかり、中には二千年以上前のものもある。藤津郡五丁田村上井長屋からは土器皿や六寸余の高坏も出土した。神埼郡三田川村字田手(吉野ヶ里と呼ぶ峠)では、土を掘るたびに前記のような甕棺が出る。高さ二尺八寸で口径も同じ大甕を二口、口を合わせて埋めたものが現れるのである。まれに高さ一尺二寸、口径一尺五寸ほどの土器もある。養父郡東尾の「猿眼」と呼ぶ粘土採取場からも、直径八寸ほどの胴継ぎの土器などが出土した。藤津郡久間や冬野の土器もあり、いずれもおよそ千数百年前のものらしい。
杵島郡朝日村川上の鬼塚古墳からは石器とともに土器が見つかり、神埼郡詫田からも弥生式土器が発見された。さらに、同郡の脊振と仁比山の間にある寺ヶ里・戦場ヶ谷の押型文様土器や、東松浦郡久里村柏崎の弥生式有紋土器は、研究上きわめて有用な資料であろう。神埼郡西郷村尾崎の古墳から出た水筒は、三韓出兵の時代の遺物とされている。
地名の由来については、景行天皇の御代、佐嘉で初めて土製の人物・馬の像を神前に建てたことを『日本陶史譜』の前段に記したが、その時、大荒田に築かれた土蜘蛛の姉妹を「枸に賢しき女」と呼び、これが地名となって、この地方を佐嘉と称するようになったという伝承がある。
土師郷としては、小城郡に甕調村(現在の三日月村)の名があり、神埼郡には津留村、五日村、四日町、八日町、平ヶ里、水馬場村、土井上村、辻村、大目ヶ里、西溝村など、土師郷に関わる地名が記録されている。
また、人皇三十六代孝徳天皇の御代に、肥前の国で瓦焼きが始まったという記事がある。当時は瓦を焼くこと自体が実に稀で、しかも古代の屋根瓦は現代の製品のように単調ではなく、ギリシア伝来の多様な文様を備えた建築美術の一種であったらしい。
東尾焼と呼ぶのは、養父郡(今の三養基郡)白壁(北茂安村)で、中原駅から里の七割ほどの距離にあり、戸数百三十戸ほどの宿駅である。東尾焼の起こりはきわめて古く、その契機は、筑後の渡し場にある千栗八幡宮の神事として行われた「御粥試し」にさかのぼる。
「御粥試し」とは、一月十五日に炊いた粥を冷まし、そこに生じた黴の様子を検べて、九州五社の管内における豊凶を占うもので、毎年三月の卯の日の祭礼には、筑後国羽犬塚のある家が代々来て執行した。ところがある年、黴が生じず判定不能となったため、従来の鉄釜を廃し、清浄な土器の釜を新たに作って、以後は毎年取り替えることになった。
そのころ白壁の寶部に属する川道郷に、平家落人の子孫と伝える松村掃部という者がいて、この役に当たった。地下深くから清らかな埴土を掘り出して土器の釜を作ったところ、御粥占いの結果が良好になったという。建治元年(1275)二月の卯の日の行事である(現在の神事は三月十五日に改められている)。当時の古文書はすでにぼろぼろに破れ黒ずんでいるが、ところどころ綴り残り、包んでいた錦も地糸だけが残るほど古びたものを、当地の古賀一郎が保存している。
この土器製造ののちには雑器も作るようになったが、当時はそれが神秘とされ、製作の折には必ず烏帽子と紋付の装束で筵の上に正座し、身心を清めて轆轤に向かった。またこの陶家の相続は必ず一子相伝と定め、次男以下は手伝って協力するしきたりであった。松村姓はその一家に限られ(今も子孫は久留米に住む)、後代になると従事する者が増え、製品は焙烙を主とし、ほかに雪平鍋、火入・火消壺など、すべて無釉の品であった。
嘉永年間(1848〜1855)、隣地の白石で小川源一が樂焼を試みて茶器をいろいろ作っていたころ、長崎の龜山から走山という者がやって来た。彼は蘭人との混血で、自ら「日本走山」と称し、各地の陶山を巡って製法を研究していた。ここに三年ほど滞在し、朱泥風の一種の陶器を創始したが、これが現在の東尾焼の作風となっている。
近代の陶家では、古賀市次郎(〈一郎〉の養父)が名手であった。現在も各種の無釉陶器が作られ、茶褐色の地肌を磨き上げて、施釉品のような光沢を出し、中には桐材と見まがうほどの木目を見せるものもある。この種の火鉢は手焙りの感触と温度調節に優れ、磁器のように高く灼き締めない点に長所がある。現在の陶家は二十戸ほど、年産額は二万円程度であろう。
白石焼は、現在の三養基郡北茂安村白壁の北方の山間で、東尾窯の地から十町ほど隔てた五十戸ほどの集落である。当地の製陶は源平時代に始まったという伝説はあるが詳しくはわからない。原料は一帯で産する橙色や鳶色の粘土で、享保以来、郷人が農事のかたわら副業として、粗器を少量焼いていた。ここは東尾とともに片田江鍋島氏、すなわち山城守直弘(八千六百十六石)の采邑で、系図は左のとおりである(白石鍋島系図参照)。
宝暦年間(1751〜1764)には、杵島郡鳴瀬(橘村)の枡谷金右工門という者が、隣の上野での製陶に失敗し、ついには妻子を連れて中国筋へ上ろうとして、道中、白壁近くの中原の旅舎に投宿した。ちょうど人別改めが巡っており、邑主の鍋島山城(直章)の山方役・深堀丹作の知るところとなって、金右工門は誘われるまま白石に来て製陶を始め、当地の粘土で七輪や火消壺を焼いて久留米方面に販売することになった。あるとき久留米藩士がこの七輪を買い、城中で使ったところ、従前のものより頑丈で耐久性が高いと評判となり、ここに白石七輪の名声が高まった。のち慶蔵の代になると、邑主から特に足軽格に取り立てられ、枡谷姓を松本に改めた。
寛政十二年(1800)、松浦郡大川内山の鍋島藩窯の陶工・藤崎百十という者が、事情あって妻子とともに当地へ逃れてきた。百十は天草の「ゴコクサン」と称する原石を取り寄せ、半磁器風の白罅焼を創作した。邑主は、彼が禁を犯して製陶していることをはばかり、宗藩に隠し通そうと努めたが、出来上がった作風はまったく大川内焼そのものであった。こうして藤崎ののち、佐藤某もまた邑主の御用窯として製作するに至った。
【英語訳】[English translation]
Because the main volume of Hizen Ceramic History focuses on kiln sites directly connected with Korea, we decided to group together pottery-producing places that do not fall into that line, sites with only tenuous connections, and kiln mountains of uncertain origin, and present them separately as this appendix. Pottery making in Hizen appears to be very old: items now exhibited at the Chōkokan Museum in Saga—such as a jar-shaped vessel about one shaku in diameter from Kannabi Shrine on the slope of Takajōji-yama in Kasuga, Saga District, and a wide-mouthed jar unearthed from paddy fields at Mitsumizo in Kōno Village in the same district—are regarded as ancient relics.
At Mikawachi, in front of a hall at the place called Imafuku Tōzai-men in the main village of Mikawachi, Oriose Village, Higashisonogi District, many earthenware pieces were unearthed during national road improvements around 1882; among them were utensils thought to have served as substitutes for cooking pots in the mythic age. Plain (undecorated) Yayoi pottery from the Hamada Castle site outside Karatsu and from Kamitabuse-machi in Saga has been dated to more than two thousand years ago.
In Yamazaki, Misato Village, Ogi District, two large, unglazed jars over four shaku in size appeared together with a stone coffin; these are said to date to roughly fifteen hundred years ago. Many Yayoi-style jar coffins have also been found at Anyōda and Nonda in Tashiro Village, Kii District; at the foot of Ara-Asahi in Asahi Village, Yabu District; and around Kamichi-Himekata in Nakabaru Village of the same district—with some examples more than two thousand years old. From Kamii-Nagaya in Gochōda Village, Fujitsu District, plates and tall cups (over six sun) have been excavated. At Tade (the pass called Yoshinogari) in Mitagawa Village, Kanzaki District, jar coffins of the above type are unearthed whenever the earth is dug: two jars, each about two shaku eight sun high with the same mouth diameter, are placed mouth to mouth. More rarely, vessels about one shaku two sun high and one shaku five sun in mouth diameter appear. From the clay pit called “Saru-me” at Higashio in Yabu District, joined-body vessels about eight sun in diameter have been found. Other finds from Kuma and Fuyuno in Fujitsu District also seem to be from several centuries to over a thousand years ago.
From the Onizuka tumulus at Kawakami in Asahi Village, Kishima District, pottery was unearthed with stone tools; Yayoi pottery has also been found at Takeda in Kanzaki District. Press-molded patterned pottery from Teragori–Senjōgadani between Sefuri and Nihiyama in the same district, and patterned Yayoi pottery from Kashiwazaki in Kuri Village, Higashi-Matsuura District, provide excellent materials for study. A canteen discovered from the Ozaki tumulus in Saigō Village, Kanzaki District, is said to be a relic from the era of Japan’s expeditions against the Three Han on the Korean Peninsula.
As for the name “Saga,” a tradition holds that in the reign of Emperor Keikō, earthen figures of people and horses were first set up before a shrine in Saga; at that time the sisters of a tsuchigumo (earth-dwelling band) who built at Ōarada were called “wise women among the ku (brambles),” and this name became the toponym, leading the area to be called “Saga.”
Regarding Haji (earthenware) communities, in Ogi District there was the name Kamechō Village (today’s Mikazuki Village). In Kanzaki District, toponyms recorded as Haji settlements include Tsuru Village, Itsuka Village, Yokka-machi, Yōka-machi, Hiragari, Mizubaba Village, Doiue Village, Tsuji Village, Ōme-gari, and Nishimizo Village.
There is also a note that in the reign of the thirty-sixth sovereign, Emperor Kōtoku, roof tiles began to be fired in Hizen Province. At that time tile firing was itself rare, and ancient roof tiles, unlike today’s rather monotonous products, seem to have been a kind of architectural art bearing various patterns of Greek origin.
“Higashio ware” refers to a lodging post settlement of about 130 households at Shirakabe (Kitashigean Village) in Yafu District (today Miyaki District), roughly seven-tenths of a ri from Nakabaru Station. Its origins are very old and go back to the “okayu divination” (Okayu-tameshi) performed as a ritual at Chikuri Hachiman Shrine at the ferry site in Chikugo.
In that rite, rice porridge cooked on the 15th day of the first month was cooled, and the mold that formed on it was examined to divine harvests within the jurisdictions of five shrines in Kyushu. On the festival day falling on the “day of the hare” in the third month each year, a family from Hainuzuka in Chikugo came to officiate. One year, however, mold failed to develop and no judgment could be made; thus the iron cauldron used until then was replaced with a clean earthenware kettle, to be renewed each year.
At that time, in Kawamichi-gō of Hōbe in Shirakabe, a man named Matsumura Kamon—said to be a descendant of the Heike refugees—took on the task. He dug deep to obtain clean clay (hanitsuchi) and made earthen kettles, after which the omikuji outcome was said to become favorable. This occurred on a “day of the hare” in the second month of Kenji 1 (1275). (The rite is now held on March 15.) The ancient documents from that time are tattered and darkened, with only portions stitched together, and the brocade wrapper has decayed to its base threads; Koga Ichirō of the area preserves them.
After the manufacture of this ritual earthenware, common wares also came to be made. Production was regarded as sacred: the potter would don an eboshi and crested formal robe, sit properly on a straw mat, purify body and mind, and then face the potter’s wheel. Inheritance within this pottery house was fixed as single-heir transmission; younger sons assisted. The Matsumura surname was limited to that one family (whose descendants now live in Kurume). In later generations, more people engaged in the craft. The products were mainly hōraku (flat earthen griddles), along with Yukihira pots and fire containers such as hiire and fire-extinguishing jars, all unglazed.
During the Kaei era (1848–1855), when Ogawa Gen’ichi in neighboring Shiroishi was experimenting with Raku ware and making tea utensils, a man called Hashiriyama came from Kameyama in Nagasaki. Of mixed Dutch descent, he styled himself “Nihon Hashiriyama” and traveled among kiln mountains to study techniques. He stayed here for three years, creating a red-clay (shudei) style of pottery that became the present manner of Higashio ware.
In modern times, Koga Ichijirō (adoptive father of Ichirō) was a master. Various unglazed wares are now produced, the tea-brown bodies being burnished to a gloss like glazed pieces; some even show wood grain so convincing as to be mistaken for paulownia. Hibachi of this type provide a pleasant hand feel and steady temperature control, with the advantage of not being fired to the high, fully vitrified state of porcelain. Today there are about twenty pottery households, with an annual output of roughly twenty thousand yen.
Shiroishi ware is made in the northern mountains of Shirakabe in present-day Kitashigean Village, Miyaki District, a hamlet of about fifty households some ten chō from the Higashio kiln site. A legend says pottery began here in the Genpei era, though details are unclear. The raw materials are orange and tawny clays that occur locally. Since the Kyōhō era, villagers have fired small amounts of coarseware as a side occupation to farming. Together with Higashio, this was the fief (saiyū) of the Katatae Nabeshima line, under Yamashiro-no-kami Naohiro (8,616 koku); see the genealogical chart (Shiroishi Nabeshima lineage).
In the Hōreki era (1751–1764), Masuya Kin’uemon of Naruse (Tachibana Village), Kishima District, having failed in pottery in neighboring Ueno, set out with his family toward the Chūgoku region and lodged at an inn in Nakabaru near Shirakabe. During a census inspection, the local lord Nabeshima Yamashiro (Naoaki) and the mountain official Fukahori Tansaku learned of him; invited to Shiroishi, Kin’uemon began pottery production, using local clay to fire shichirin braziers and fire-extinguishing jars, which were sold in the Kurume area. On one occasion, a Kurume retainer purchased a shichirin and used it in the castle; it proved sturdier and more durable than previous types, and thus the reputation of “Shiroishi Shichirin” rose. In the time of Keizō, the family was specially raised to ashigaru rank, and the surname Masuya was changed to Matsumoto.
In Kansei 12 (1800), a potter named Fujisaki Hyakuju from Okawachiyama—home of the Nabeshima domain kilns—fled to this area with his family for certain reasons. He procured a raw stone from Amakusa called “Gokokusan” and created a semi-porcelain white-crackle ware (Shirohaka-yaki). The local lord, wary that he was breaking prohibitions, endeavored to conceal it from the parent domain, but the resulting style was entirely that of Okawachi ware. Later, a certain Satō, a successor after Fujisaki, also produced as the lord’s official kiln.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
由于《肥前陶史》本编主要论述与朝鲜有直接系谱关系的开窑地,因此不属此类的制陶地、关联较浅之所,或来历未详的陶山,皆汇为一处,另作外编刊载。肥前的制陶似自古已兴;今佐贺市征古馆所陈之物——如佐嘉郡春日村高城寺山山腹神奈备神社传来的直径一尺左右的壶形土器,以及同郡神野村三沟田间出土的广口瓶——均被视为古代遗物。
东彼杵郡折尾濑村三河内本村字今福东西免的堂前,明治十五年前后在国道改修时掘出大量土器,其中有可视为神代时期锅的代用品者。又,唐津市外滨田城址与佐贺市上多布施町出土的无纹弥生式土器,经鉴定皆为两千年以上之物。
小城郡三里村字山崎的发掘,石棺旁现出四尺余的素烧大瓮二口,推为约一千五百年前之物。基肄郡田代村安永田、饮田,养父郡旭村安良旭山麓及同郡中原村上地姬方等地,弥生式瓮棺多有发现,其中亦有两千年以上者。藤津郡五丁田村上井长屋出土土器皿与六寸余的高坏。神埼郡三田川村字田手(称为“吉野ヶ里”的峠)每掘土辄有前述瓮棺出现:高二尺八寸、口径同寸的大瓮二口相对合口而埋。偶亦见高一尺二寸、口径一尺五寸之器。养父郡东尾“猿眼”粘土采取场亦出土直径约八寸的胴接土器。藤津郡久间与冬野亦有土器,皆似为上千年前之物。
杵岛郡朝日村川上鬼冢古坟出土石器与土器,神埼郡诘田亦见弥生式土器。同郡脊振与仁比山之间寺ヶ里·战场ヶ谷之压模纹饰土器,及东松浦郡久里村柏崎之弥生式有纹土器,皆为研究上极佳资料。神埼郡西乡村尾崎古坟出之水筒,被称为对“三韩”出兵时期之遗物。
地名“佐嘉”的传说称:景行天皇时,始于佐嘉在神前建土制人马像;其时于大荒田构筑者为土蜘蛛之姊妹,被称作“枸中贤女”,遂成地名,此地因而称“佐嘉”。
土师郷方面,小城郡有甕调村(今三日月村)之名;神埼郡则记有津留村、五日村、四日町、八日町、平ヶ里、水马场村、土井上村、辻村、大目ヶ里、西沟村等土师郷地名。
又载:人皇第三十六代孝德天皇时,肥前国始烧屋瓦。彼时烧瓦殊为罕见;且古代屋瓦非如今之单调制品,似为带有希腊传来诸纹样之建筑美术一类。
所谓“东尾烧”,在养父郡(今三养基郡)白壁(北茂安村),距中原驿约七合里,有约一百三十户之宿站。其起源甚古,肇端出于筑后渡口千栗八幡宫神事所行的“御粥占”。
“御粥占”系于正月十五日煮粥冷却,检视其上所生之黴,以卜九州五社管内之丰歉。每年三月卯日祭礼,由筑后国羽犬塚某家世袭前来主持。某年黴不生成,无法断占,遂废铁釜,改制清净土器釜,并定每年更换。
时有白壁宝部川道郷之松村扫部(传为平家遗臣后裔)任其事。自地中深处采清洁埴土制土器釜,遂称御粥占之验象转佳。此为建治元年(1275)二月卯日之事(今改为三月十五日)。当时古文书已破烂黝黑,尚有残页可缀,包裹之锦亦仅存地丝,当地之古贺一郎所藏。
其后并制杂器。时人视其为神秘之作法,制器必冠烏帽子、着紋付,于筵上端坐,洁身以向轆轤。其家之相传必为一子相传,次子以下佐助。松村姓仅限一家(其后裔今居久留米)。后世从业者渐增,制品以焙烙为主,另有雪平锅、火入与火消壶,皆为无釉之器。
嘉永年间(1848—1855),邻地白石小川源一试作樂烧、制茶器之际,长崎龟山来一人名“走山”。其为兰人混血,自号“日本走山”,游历诸陶山以研法。驻此三年,创朱泥风陶器,遂成今之东尾烧作风。
近代陶家以古贺市次郎(〈一郎〉之养父)为名手。今制各类无釉陶器,茶褐色胎肌磨拭,呈若施釉之光泽,亦有木纹宛若桐材者。此类火钵手感与温度调节俱佳,不若瓷器般高度灼熟,反具长处。今约有陶家二十户,年产额约二万元。
白石烧在今三养基郡北茂安村白壁北部山间,距东尾窑约十町之五十户聚落。其制陶传为源平时代已起,详未可知。原料为一带所产橙色、鹞色粘土;自享保以来,乡人农闲兼营,少量烧制粗器。与东尾同为片田江鍋島氏山城守直弘(八千六百十六石)采邑,系谱如左(参白石鍋島系图)。
宝历年间(1751—1764),杵岛郡鸣濑(橘村)枡谷金右工门于邻地上野制陶失败,携妻子拟上中国地方,途宿白壁近旁中原一旅舍。适逢人别改,邑主鍋島山城(直章)之山方役深堀丹作知之,延至白石开窑,以当地粘土烧七轮、火消壶,销于久留米。久留米藩士购一七轮入城使用,坚固耐用胜于旧制,白石七轮之名遂起。至庆藏时,特拔为足轻格,并改枡谷姓为松本。
寛政十二年(1800),松浦郡大川内山鍋島藩窑陶工藤崎百十因故携家逃至此地,取天草称“ゴコクサン”之原石,创作半瓷风的白罅烧。邑主以其犯禁为惮,力图对宗藩隐而不发,然其风格全然大川内烧。其后藤崎之后裔佐藤某亦以邑主御用窑而制。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditionalfrom Japanese]
由於《肥前陶史》本編主要論述與朝鮮有直接系譜關係的開窯地,因此不屬此類的製陶地、關聯較淺之所,或來歷未詳的陶山,皆彙為一處,另作外編刊載。肥前的製陶似自古已興;今佐賀市徵古館所陳之物——如佐嘉郡春日村高城寺山山腹神奈備神社傳來之直徑一尺左右壺形土器,以及同郡神野村三溝田間出土之廣口瓶——均被視為古代遺物。
東彼杵郡折尾瀨村三河內本村字今福東西免之堂前,明治十五年前後國道改修時掘出大量土器,其中有可視為神代時期鍋之代用品者。又,唐津市外濱田城址與佐賀市上多布施町出土之無紋彌生式土器,經鑑定皆為兩千年以上之物。
小城郡三里村字山崎之發掘,石棺旁現出四尺餘素燒大甕二口,推為約一千五百年前之物。基肄郡田代村安永田、飲田,養父郡旭村安良旭山麓及同郡中原村上地姬方等地,彌生式甕棺多有發現,其中亦有兩千年以上者。藤津郡五丁田村上井長屋出土土器皿與六寸餘之高坏。神埼郡三田川村字田手(稱“吉野ヶ里”之峠)每掘土輒有前述甕棺出現:高二尺八寸、口徑同寸之大甕二口相對合口而埋。偶亦見高一尺二寸、口徑一尺五寸之器。養父郡東尾“猿眼”黏土採取場亦出土直徑約八寸之胴接土器。藤津郡久間與冬野亦有土器,皆似為上千年前之物。
杵島郡朝日村川上鬼塚古墳出土石器與土器,神埼郡詫田亦見彌生式土器。同郡脊振與仁比山之間寺ヶ里·戰場ヶ谷之押模紋樣土器,及東松浦郡久里村柏崎之彌生式有紋土器,皆為研究上極佳資料。神埼郡西鄉村尾崎古墳出之水筒,被稱為對“三韓”出兵時代之遺物。
地名“佐嘉”之傳說稱:景行天皇時,始於佐嘉在神前建土製人物、馬像;其時於大荒田構築者為土蜘蛛之姊妹,被稱作“枸中賢女”,遂為地名,此地因而稱“佐嘉”。
土師鄉方面,小城郡有甕調村(今三日月村)之名;神埼郡則記有津留村、五日村、四日町、八日町、平ヶ里、水馬場村、土井上村、辻村、大目ヶ里、西溝村等土師鄉地名。
又載:人皇第三十六代孝德天皇時,肥前國始燒屋瓦。彼時燒瓦殊為罕見;且古代屋瓦非如今之單調製品,似為帶有希臘傳來諸紋樣之建築美術一類。
所謂“東尾燒”,在養父郡(今三養基郡)白壁(北茂安村),距中原驛約七合里,有約一百三十戶之宿站。其起源甚古,肇端出於筑後渡口千栗八幡宮神事所行之“御粥占”。
“御粥占”係於正月十五日煮粥冷卻,檢視其上所生之黴,以卜九州五社管內之豐歉。每年三月卯日祭禮,由筑後國羽犬塚某家世襲前來主持。某年黴不生成,無法判斷,遂廢鐵釜,改制清淨土器釜,並定每年更換。
時有白壁寶部川道鄉之松村掃部(傳為平家遺臣後裔)任其事。自地中深處採清潔埴土製土器釜,遂稱御粥占之驗象轉佳。此為建治元年(1275)二月卯日之事(今改為三月十五日)。當時古文書已破爛黝黑,尚有殘頁可綴,包裹之錦亦僅存地絲,當地之古賀一郎所藏。
其後並製雜器。時人視其為神秘之作法,製器必冠烏帽子、著紋付,於筵上端坐,潔身以向轆轤。其家之相傳必為一子相傳,次子以下佐助。松村姓僅限一家(其後裔今居久留米)。後世從業者漸增,製品以焙烙為主,另有雪平鍋、火入與火消壺,皆為無釉之器。
嘉永年間(1848—1855),鄰地白石小川源一試作樂燒、製茶器之際,長崎龜山來一人名“走山”。其為蘭人混血,自號“日本走山”,遊歷諸陶山以研法。駐此三年,創朱泥風陶器,遂成今之東尾燒作風。
近代陶家以古賀市次郎(〈一郎〉之養父)為名手。今製各類無釉陶器,茶褐色胎肌磨拭,呈若施釉之光澤,亦有木紋宛若桐材者。此類火鉢手感與溫度調節俱佳,不若瓷器般高度灼熟,反具長處。今約有陶家二十戶,年產額約二萬元。
白石燒在今三養基郡北茂安村白壁北部山間,距東尾窯約十町之五十戶聚落。其製陶傳為源平時代已起,詳未可知。原料為一帶所產橙色、鳶色黏土;自享保以來,鄉人農閒兼營,少量燒製粗器。與東尾同為片田江鍋島氏山城守直弘(八千六百十六石)采邑,系譜如左(參白石鍋島系圖)。
寶曆年間(1751—1764),杵島郡鳴瀨(橘村)枡谷金右工門於鄰地上野製陶失敗,攜妻子擬上中國地方,途宿白壁近旁中原一旅舍。適逢人別改,邑主鍋島山城(直章)之山方役深堀丹作知之,延至白石開窯,以當地黏土燒七輪、火消壺,銷於久留米。久留米藩士購一七輪入城使用,堅固耐用勝於舊制,白石七輪之名遂起。至慶藏時,特拔為足輕格,並改枡谷姓為松本。
寬政十二年(1800),松浦郡大川內山鍋島藩窯陶工藤崎百十因故攜家逃至此地,取天草稱“ゴコクサン”之原石,創作半瓷風之白罅燒。邑主以其犯禁為憚,力圖對宗藩隱而不發,然其風格全然大川內燒。其後藤崎之後代佐藤某亦以邑主御用窯而製。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
鉴于《肥前陶史》本卷主要讨论与朝鲜直接相关的开窑地,本外编将不属该系的制陶地、关联较弱的地点以及来历未详的陶山汇编在一起。肥前制陶似乎历史极古:今陈于佐贺市征古馆的器物——如佐嘉郡春日村高城寺山神奈备神社传来的一尺许壶形土器、同郡神野村三沟田出土的广口瓶——均被视为古代遗物。
东彼杵郡折尾濑村三河内本村今福东西免堂前,1882年前后修路出土大批土器,其中有疑似神代时期锅的代用品。唐津市外滨田城址与佐贺市上多布施町的无纹弥生式土器,被断为两千年以上。
小城郡三里村山崎发掘,石棺旁有四尺余素烧大瓮二口,约一千五百年前。基肄郡田代村安永田、饮田,养父郡旭村安良旭山麓及中原村上地姬方等地,多见弥生式瓮棺,部分逾两千年。藤津郡五丁田村上井长屋出土土器皿与高坏。神埼郡三田川村田手(吉野ヶ里岭)每掘土辄见两口高二尺八寸、口径相同的大瓮合口埋置;亦有高一尺二寸、口径一尺五寸者。养父郡东尾“猿眼”粘土场亦出土八寸许胴接器。藤津郡久间、冬野亦有早期土器。
杵岛郡朝日村川上鬼冢古坟出土石器与土器;神埼郡诘田亦见弥生土器。寺ヶ里·战场ヶ谷压模纹饰土器与久里村柏崎有纹弥生器,皆可资研究。西乡村尾崎古坟出之水筒,被称为对“三韩”出兵时代的遗物。
相传景行天皇时,佐嘉首次在神前立土制人马像;大荒田筑造的土蜘蛛姊妹被称“枸中贤女”,遂为地名“佐嘉”之由来。
土师聚落方面,小城郡有甕调村(今三日月村),神埼郡记有津留村、五日村、四日町、八日町、平ヶ里、水马场村、土井上村、辻村、大目ヶ里、西沟村等。
另载孝德天皇时肥前始烧屋瓦。其时烧瓦罕见;古瓦并非今之单调品,而是带希腊式纹样的建筑美术。
“东尾烧”位于养父郡(今三养基郡)白壁(北茂安村),距中原站约七合里,居民约一百三十户,为宿站。其源自筑后渡口千栗八幡宫的“御粥占”。
“御粥占”于正月十五煮粥冷却,察看其上霉纹以卜九州五社之丰歉;每年三月卯日,筑后国羽犬塚某家世袭主持。某年霉未生,判占不成,遂弃铁釜,改用清洁土釜,且每年更换。
其时白壁宝部川道郷松村扫部(传平家后裔)任其事,深掘洁净埴土制土釜,占验转佳。事在建治元年(1275)二月卯日(今改三月十五日)。其时文书残破,由古贺一郎保存。
其后并制杂器,制作者被视为行礼之事:着烏帽子与纹付,端坐筵上,洁身而向轆轤;家业一子相传,次子以下为佐。松村姓限一家(后裔在久留米)。后人增多,制品以焙烙为主,并有雪平锅、火入、火消壶,皆无釉。
嘉永年间(1848—1855),邻地白石小川源一试樂烧制茶器时,长崎龟山“走山”来访,为荷兰混血,自号“日本走山”,游诸窑山习法。停留三年,创朱泥风,成为今之东尾烧风格。
近代陶家古贺市次郎(〈一郎〉养父)为名手。今制各类无釉器,茶褐胎经磨呈釉样光泽,或见若桐木之木纹。此类火钵手感与控温佳,且不若瓷器高温致密化,反具优点。今约二十户,年产约两万元。
白石烧在今三养基郡北茂安村白壁北部山间,距东尾窑约十町,约五十户。相传源平时已兴,然细节未详。原料为当地橙色、鹞色粘土。自享保以来,农闲兼烧少量粗器。与东尾同属片田江鍋島氏山城守直弘(8616石)采邑(系图另见)。
宝历年间,杵岛郡鸣濑(橘村)枡谷金右工门邻地上野制陶失败,携家赴中国地方,宿白壁近中原旅舍。适逢人别改,邑主鍋島山城(直章)与山方役深堀丹作延之至白石,烧制七轮、火消壶,销往久留米。久留米藩士购用于城中,坚固耐用,白石七轮声名大噪。至庆藏时,特升足轻格,改姓松本。
寛政十二年(1800),大川内山鍋島藩窑陶工藤崎百十携家至此,取天草“ゴコクサン”原石,创半瓷风白罅烧。邑主惧其犯禁,力隐宗藩,然其风格即大川内烧。后佐藤某继之为御用窑。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
鑒於《肥前陶史》本卷重點記述與朝鮮直接相關的開窯地,故本外編彙集不屬其系之製陶地、關聯較淺之處與來歷未詳之陶山。肥前製陶似歷史甚古:今陳於佐賀市徵古館之器物——如佐嘉郡春日村高城寺山神奈備神社傳來一尺許壺形土器、同郡神野村三溝田出土之廣口瓶——皆視為古代遺物。
東彼杵郡折尾瀨村三河內本村今福東西免堂前,約在1882年前後修路時出土多量土器,其中疑為神代鍋之代用品。唐津市外濱田城址與佐賀市上多布施町之無紋彌生式土器,被鑑定為兩千年以上。
小城郡三里村山崎之發掘,石棺旁有四尺餘素燒大甕二口,約一千五百年前。基肄郡田代村安永田、飲田,養父郡旭村安良旭山麓及中原村上地姬方等地,多見彌生式甕棺,部分逾兩千年。藤津郡五丁田村上井長屋出土土器皿與高坏。神埼郡三田川村田手(吉野ヶ里嶺)每掘土輒見二口高二尺八寸、口徑相同之大甕合口埋置;亦有高一尺二寸、口徑一尺五寸者。養父郡東尾“猿眼”黏土場亦出土八寸許胴接器。藤津郡久間、冬野亦有早期土器。
杵島郡朝日村川上鬼塚古墳出土石器與土器;神埼郡詫田亦見彌生土器。寺ヶ里·戰場ヶ谷之押模紋飾土器與久里村柏崎之有紋彌生器,皆可資研究。西鄉村尾崎古墳出之水筒,被稱為對“三韓”出兵時代之遺物。
傳稱景行天皇時,佐嘉始於神前立土製人馬像;於大荒田築造之土蜘蛛姊妹被稱“枸中賢女”,遂為地名“佐嘉”之由來。
土師聚落方面,小城郡有甕調村(今三日月村),神埼郡記有津留村、五日村、四日町、八日町、平ヶ里、水馬場村、土井上村、辻村、大目ヶ里、西溝村等。
另載孝德天皇時肥前始燒屋瓦。其時燒瓦罕見;古瓦亦非今之單調製品,而為帶希臘式紋樣之建築美術。
“東尾燒”位於養父郡(今三養基郡)白壁(北茂安村),距中原驛約七合里,約一百三十戶之宿站。其源自筑後渡口千栗八幡宮之“御粥占”。
“御粥占”於正月十五煮粥冷卻,察黴以卜九州五社之豐歉;每年三月卯日,筑後國羽犬塚某家世襲主持。某年黴不生,判占不成,遂棄鐵釜,改用清潔土釜,且每年更換。
其時白壁寶部川道鄉松村掃部(傳平家後裔)任其事,深掘潔淨埴土製土釜,占驗轉佳。事在建治元年(1275)二月卯日(今改三月十五日)。其時文書殘破,由古賀一郎保存。
其後並製雜器;作陶被視為神聖之行持:著烏帽子與紋付,端坐於筵,潔身而向轆轤;家業一子相傳,次子以下佐助。松村姓限一家(後裔在久留米)。後人漸增,制品以焙烙為主,並有雪平鍋、火入、火消壺,皆無釉。
嘉永年間(1848—1855),鄰地白石小川源一試樂燒製茶器時,長崎龜山“走山”來訪,為荷蘭混血,自號“日本走山”,遊諸窯山學法。停留三年,創朱泥風,成今之東尾燒風格。
近代陶家古賀市次郎(〈一郎〉養父)為名手。今制無釉器多種,茶褐胎磨拭呈釉樣光澤,或見似桐木之木紋。此類火鉢手感與控溫佳,且不若瓷器高溫致密化,反具優點。今約二十戶,年產約二萬元。
白石燒在今三養基郡北茂安村白壁北部山間,距東尾窯約十町,約五十戶。相傳源平時已起,然細節未詳。原料為當地橙、鳶色黏土。自享保以來,農閒兼燒粗器少量。與東尾同屬片田江鍋島氏山城守直弘(8616石)采邑(系圖另見)。
寶曆年間,杵島郡鳴瀨(橘村)枡谷金右工門鄰地上野製陶失敗,攜家赴中國地方,宿白壁近中原旅舍。適逢人別改,邑主鍋島山城(直章)與山方役深堀丹作延其至白石,燒製七輪、火消壺,銷往久留米。久留米藩士購用於城中,堅固耐用,白石七輪名噪一時。至慶藏時,特升足輕格,改姓松本。
寬政十二年(1800),大川內山鍋島藩窯陶工藤崎百十攜家至此,取天草“ゴコクサン”原石,創半瓷風白罅燒。邑主懼其犯禁,力隱宗藩,然其風格即大川內燒。後佐藤某繼為御用窯。

