耶蘇宗門の繁昌~三の股石

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【原文】[Original text]

耶蘇宗門の繁昌
 此領主純忠と、邑主長崎純景この切支丹信奉は、更に此地方民の信仰に拍車を加ふるに至り、賓性寺を始め許多の大小寺を建立すると同時に、従来の神社佛閣は悉く破壊さるゝに至つたのである。而して嘉前の時代に至り、斯くては將來如何に成行くかを憂ひたる千々岩清左工門紀員(大村純忠の甥)は、單身羅馬に渡航して歸朝するや、是れ終ひには國を奪ふ邪教なりとして排斥し、藩老大村彥右工門純勝と共に、嘉前に献策して、慶長十八年(1613年)領内の切支丹宗徒を悉く追放するに至つたのである。

切支丹の場屋破壊
 而して紀員は、又幕老本多上野介正純謀るところありしが、翌十九年九月俄に幕命下り、嘉前の男民部大輔純頼は、鍋島信濃守勝茂、寺澤志摩守廣高、松浦壹岐守隆信、有馬左工門佐直純等と共に長崎に出張して切支丹宗徒の屋を破壊したのである。然れども宗徒の深き信仰は容易く轉向すべくもなかったのである。

嘉前父子の卒去
 斯くて嘉前の侍臣中にも、密かに遵奉する者ありて、嘉前は元和二年(1616年)八月八日四十八才、嗣子純賴は同五年(1619年)十一月十三日二十八才にて、共に彼らの爲めに毒殺されしといはれてゐる。
 平戸及大村史は、我國の開港史であると共に、一面外敬史である。此両面の概歴を識つて、而して後に他の工藝史等を推究すべきであらう。朝鮮の役嘉前に從ひりし韓人陶工が、上波佐見村三の股や、永田山に開窯せしものを、大村焼の始祖なり唱ふるも、下波佐見村々木郷方面の開窯も、敢て後代とは観る可からざる様である。

村木郷の古窯
 村木郷の古窯趾には、畑の原(不動佐上)古皿屋(不動佐下)山仁田、百貫等の四ヶ處があり、此内古皿屋と百貫は、韓人朴正意の開窯せしといはれてゐる。而して地理的關係上南川原系の一部が、戸杓方面より侵入せしの口碑も、亦否定すべからざる事柄であらう。

畑の原と山仁田
 畑の原には、森某宅前の樫木山に、現在二十二間登にて奥行六尺乃至七尺あり下りは六尺五寸程なる朝鮮式の小窯趾がある。山仁田の古窯趾は、字脇の谷さ稱する雑木林の中に現存してある。此處の殘缺には黒茶釉深形の茶碗にて、無釉高台の内が全く新月形に成ったのがある。

古皿屋
 古皿屋の古窯趾は今福島米作の所有地にて、此處には以前高麗墓のありし由なるも、今は何れへ運ばれしか失はれてゐる。古窯品には例の薄茶釉や、飴釉の底三つ目積小皿があり、又赤粘土に青茶釉を掛けし、廣緑淵の四寸皿がある。或は天目釉の茶碗など、何れも高臺無釉である。又割高臺に成ってゐる玳皮盞などがあり、薄黄釉にて緑反深形の茶碗などもある。
 珍奇なるは灰色胎土の褐色地唐焼にて、茄子形の手口附水指があり、蔕が其蓋に成つてゐる。後代の製品と覺しく染附磁器を焼いてゐるが、中にも薄青磁緣附の中皿にて、桔梗緣や菊緑淵がありそして高臺部全く無釉なものがある。

久永の印徳利
 此古皿屋に於ける元素焼窯の邊より發掘されしものに古雅なくろ物德利がある。それは褐色胎土の上に鐵釉にて、達筆に久永と大書されてゐる。一説には韓人金久永といへる者の製品とあるも、何他にもこれと同種の器を折々發見るゝころより見て、それは郷人の酒屋徳利にて、常時居酒屋を商ひし久保永蔵か、久間永作か、久富永太郎かの什器ならんどの反説があり、未だ何れとも不明である。

朴正意の碑
 百貫も亦、朴正意の開窯せしところと稱せられ、此處の戶石川には終焉の墓碑がある。それは高さ約五尺の石碑にて、二重台石の上に置かれ、碑面には南無阿彌陀佛釋正意靈位とあり、右に元禄二年己巳暦(1689年)と記し、左に閏正月九日と記されてある。韓人としては稍後代に属する者であらう。此墓碑は今此地の澤村某其の後裔として祭祀を繼承しつゝある。

百貫
 百貫の古窯品は、概して古皿屋と相似たものなるも、開窯はそれよりもなほ後代なりといはれてゐる。而して最初の軟質磁器には氷裂を現はせるもの多く、中には腰錆地緣青磁にて、三寸口の火入や、吳洲染附にて李朝畫風の青磁の破片があり、後代の製磁器には、下吳洲にて松畫や草畫の丸茶碗がある。或は芋山水畫の皿があり、又くらわんか茶碗が澤山に焼かれてゐる。
 此處は百貫錆として多く此手のものゝ製造さしは地元に良好なる錆の原料が産出されし爲であつた。皿山始付さいへる古文書に「元祿十年丑(1697年)百貫松山正徳四年(1714年)まで十八年と相成右者友永貞相立申候御代官山口八郎兵衛殿」とあり。去れば磁器の製造は元禄十年(1697年)に於いて、友永貞なる者が開始せしものであらう。

三の股山
 以上が村木郷の古窯なるが、大村燒の本場として當時三皿山と稱せられしは、同上波佐見村なる三の股山、中尾山、永尾山の三山で、後には下波佐見村の稗木場山か加へらるゝに至つたのである。而して此四ヶ處の皿山の内、其總支配役所を設けられし三の股山は、抑幾年頃の韓人に依って、開始されしかは詳ならねど、皿山始付に「慶長十年三の股山始正徳四年迄百年餘に相成候由親左工門申候」といふのがあるを見れば、相當の古窯地であらう。
 而して慶長十年より、正徳四年までは百十年と成り、又正徳四年は、1714年である。蓋し昔の人の口書故、まづ大ざつばに百年餘と謂ひしものであらう。朝鮮役後の韓人が渡来して、此地に開窯せしもの如く、勿論それは高麗風の陶器にて、磁器の製作はなほ後代に創まりしことは申すまでもない。此地の古文書に
當村三の股皿山は、慶長十年中始建之押役浦田市左工門上野藤九郎尾崎利兵衛三人にて交代勤之江戸町人藤九郎といふ者請にて釜を仕立陶器を焼始む其後寛文六年押役一人となり岩永七郎右エ門勤番するなり

三の股磁器始の考證
 此江戸の町人藤九郎さいへるは、大商人萬屋藤九郎にて、之に依れば、彼は慶長時代のくろ物製品より大請引をなせし者の如きも、質は寛文年間よりこの意味にあらざるか果して然らば九郎時代に、磁器の窯を仕立てしものにて、陶器を焼始むとは磁器を焼始むと解す可きであらう。
 又古文書に「寛文三年卯(二百七十三年前)稗木場皿山始正徳四年まで五十二年に相成」といふのがあり、永尾山が寛文六年午(1666年)中尾山が正保元年申(1645年)と成つてゐる、此邊が磁器製作の創業時代と見る可く、蓋し陶器の製作は、其以前に於いて韓人及び其系統者が、波佐見川を溯つて各地へ展開せしことは勿論である。

三の股白磁の完成
 尤も此地方の陶器製作は、他山の如く長期に涉らざるうち、有田に倣うて磁器製作に轉向せしは、軟質ながら地元に於いて磁石を見せに基因すべく、而して最初發見せし白岳の原料は、餘りに軟質に過ぎ、高麗川内の原料は硬軟相混ぜる其質分の不同が、製作上頗る困難なりしが如く、後年砥石川の磁石を發見し得て之に大田越の原料等を加へ、漸く波佐見磁器を形成するに至り、更に天草石の使用に依って爰に完全なる白磁と成ったものである。

三の股石
 今や天草石の加合料として使用さるゝ砥石川の磁器は、三の股の山上にありて、此地の松尾徳一の所有礦なるが、吉田鳴川の磁石よりも酸化鐡分の含有量稍少きを以て歡迎され、此地方は無論藤津方面にも使用さるのみならず、有田皿山へも碍子製作土加味料として、年々拾数萬斤宛搬出されてゐる。

砥石川石分析表
珪酸 44.05
礬土 37.18
酸化鐵 0.34
石灰 0.46
苦土 0.98
加里 3.75
曹達 0.64
灼熱減量 13.21

一説に依れば、此砥石川の原料を、三河内の今村三之亟が發見して、始めて磁器を製し、之が波佐見焼の濫觴なり云ひ、或は又木原山の某が發見して、之を運び取りて製作しと唱ふる者もある。然しながら當時平戸藩の工人が、大村藩内に於いてしかく勝手な振舞が可能なりしや疑がある。曾て三之亟が此地に試焼せしは、寛永十二年(1635年)なるを以て考察せば、彼は白岳か高麗川内の原料を以て、有田焼を模するに薄鼠色の磁器を試み得し位であらう。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

キリシタン信仰の隆盛
 領主の大村純忠と邑主の長崎純景がキリシタンを信奉したことで、この地方の人びとの信仰は一段と加速した。賓性寺をはじめ多くの教会堂が建てられる一方、従来の神社や仏閣はことごとく破壊された。やがて嘉前の時代になると、将来を憂えた千々岩清左工門紀員(大村純忠の甥)が単身でローマへ渡航し、帰国後「やがて国を奪う邪教である」として排斥を唱え、藩老の大村彥右工門純勝とともに嘉前へ進言し、慶長十八年(1613年)に領内のキリシタンを一斉に追放させた。

キリシタンの集会所の破却
 紀員はさらに幕府の老中・本多上野介正純とも謀り、翌慶長十九年(1614年)九月に急遽幕命が下る。嘉前の子・民部大輔純頼は、鍋島信濃守勝茂、寺澤志摩守廣高、松浦壹岐守隆信、有馬左工門佐直純らと長崎に出向き、キリシタンの集会所・教会堂を破壊した。しかし信徒の信仰心は深く、容易に改宗することはなかった。

嘉前父子の死
 嘉前の家臣の中にも密かに信仰を守る者があり、嘉前は元和二年(1616年)八月八日、四十八歳で、嗣子の純賴は元和五年(1619年)十一月十三日、二十八歳で、いずれも彼らに毒殺されたと伝えられる。
 平戸と大村の歴史は、わが国の開港史であると同時に対外関係史でもある。この二面の概略を押さえたうえで、他の工芸史などを究めるべきであろう。朝鮮の役の際に嘉前に従った韓人陶工が、上波佐見村の三の股や永田山で窯を開いたことを大村焼の始祖とする一方、下波佐見村の村木郷方面の開窯も、必ずしも後世のことと決めつけるべきではない。

村木郷の古窯
 村木郷の古窯跡は、畑の原(不動佐上)・古皿屋(不動佐下)・山仁田・百貫の四か所で、このうち古皿屋と百貫は韓人・朴正意が開いたと伝わる。地勢から見ても、南川原系の一部が戸杓方面から入り込んだという口碑も否定できまい。

畑の原と山仁田
 畑の原では、森氏宅前の樫木山に、長さ二十二間、奥行六〜七尺、下り六尺五寸ほどの朝鮮式小窯跡が現存する。山仁田の古窯跡は「字脇の谷」と呼ぶ雑木林の中に残り、遺物には黒茶釉の深鉢(茶碗)があり、無釉の高台内が新月形に削られたものが見られる。

古皿屋
 古皿屋の古窯跡は今は福島米作氏の所有地で、かつては高麗墓があったというが、今は所在不明である。古窯の製品には、淡茶釉や飴釉の「底三つ目積」の小皿、赤土に青茶釉を掛け広い緑縁をもつ四寸皿、天目釉の椀などがあり、いずれも高台は無釉で、割高台の玳皮盞や、淡黄釉で緑が差す深鉢形の茶碗などもある。
 珍しいものとして、灰色胎に褐色地の唐焼風で、茄子形の水指(持ち手付きの口)があり、蔕がそのまま蓋となる作がある。後世のものとみられる染付磁器も焼かれ、薄い青磁縁の中皿に桔梗縁や菊縁の作があり、高台部が全面無釉のものが見受けられる。

「久永」銘の徳利
 古皿屋の元素焼窯の付近からは、古風な黒釉徳利が出土した。褐色胎に鉄釉を掛け、「久永」と達筆で大書してある。一説に韓人・金久永の作というが、同種の器が他所からも出ることから、地元の酒屋の徳利—常に酒肆を営んだ久保永蔵・久間永作・久富永太郎らの什器—とする反論もあり、確証はない。

朴正意の碑
 百貫も朴正意の開窯地とされ、戸石川のほとりに終焉の墓碑がある。高さ約五尺、二重台石の上に据え、碑面に「南無阿彌陀佛 釋正意靈位」と刻し、右に元禄二年己巳暦(1689年)、左に閏正月九日と記す。韓人としてはやや後代の人物であろう。いまも当地の澤村氏が後裔として祭祀を継承している。

百貫の作例
 百貫の古窯品は概ね古皿屋に似るが、開窯はそれより遅いとされる。初期の軟質磁器には氷裂が多く、腰に錆地を配した縁青磁の三寸口の火入や、呉須染付で李朝画風の青磁片がある。後代の磁器には、下呉須で松文・草文の丸茶碗、芋山水画の皿、そして「くらわんか茶碗」が多数焼かれている。
 ここで錆(鉄分を含む化粧土)が多用されたのは、地元で良質の錆原料が産したためである。古文書「皿山始付」には「元禄十年丑(1697年)百貫松山 正徳四年(1714年)まで十八年と相成…右者友永貞相立申候 御代官山口八郎兵衛殿」とあり、磁器の製造は元禄十年(1697年)に友永貞が開始したとみられる。

三の股山
 以上が村木郷の古窯であるが、大村焼の本場として当時「三皿山」と称されたのは、上波佐見村の三の股山・中尾山・永尾山の三山で、のちに下波佐見村の稗木場山が加わった。この四か所のうち総支配役所が置かれた三の股山がいつ誰により始まったかは明確でないが、「皿山始付」に「慶長十年 三の股山始 正徳四年迄 百年餘に相成候 由 親左工門申候」とあり、かなりの古窯地である。
 慶長十年から正徳四年(1714年)までは実際には約百十年で、口伝ゆえ「百年余」と大づかみに述べたのであろう。朝鮮の役後に韓人が渡来してここで窯を開いたらしく、当初は高麗風の陶器で、磁器の製作はやや遅れて始まった。古文書には、「当村三の股皿山は慶長十年中 始建之。押役 浦田市左工門・上野藤九郎・尾崎利兵衛 三人交代勤。江戸町人藤九郎請にて釜を仕立、陶器を焼始む。その後寛文六年 押役一人となり、岩永七郎右エ門勤番」とある。

三の股における磁器創業の考証
 ここに見える江戸町人の藤九郎は大商人・萬屋藤九郎のことで、慶長期の黒物の時代から大口の請負をしていたとも読める。文言の「陶器を焼始む」は、寛文期以降の状況からすれば「磁器を焼き始めた」と解すべきであろう。
 別の古文書には「寛文三年卯(二百七十三年前)稗木場皿山始 正徳四年まで五十二年に相成」とあり、永尾山は寛文六年午(1666年)、中尾山は正保元年申(1645年)とある。このあたりが磁器製作の創業期と見られ、陶器の製作はその以前に、韓人およびその系統の人々が波佐見川を遡って各地に展開していたことは言うまでもない。

三の股白磁の成立
 当地の陶業は、他の山のように長期の陶器段階を経ず、有田に倣って早く磁器へ転じた。軟質ながら地元で陶石(磁石)を得られたためで、最初に見つかった白岳の原料は柔らかすぎ、高麗川内の原料は硬軟が混じり品質にムラがあり製作に難があった。のちに砥石川の陶石を発見し、これに大田越などの原料を加えて波佐見磁器の基礎が固まり、さらに天草石を用いることで、ついに完璧な白磁が実現した。

三の股の陶石
 いま天草石の配合材として用いられる砥石川の陶石は三の股の山上にあり、松尾徳一所有の鉱区である。吉田鳴川の陶石より酸化鉄分がやや少ないため好まれ、この地方や藤津方面のみならず、有田の皿山にも碍子用の土の調整材として毎年十数万斤ずつ搬出されている。

砥石川石の分析値
 珪酸 44.05/礬土 37.18/酸化鉄 0.34/石灰 0.46/苦土 0.98/加里 3.75/曹達 0.64/灼熱減量 13.21。

 一説では、この砥石川の原料を三河内の今村三之亟が発見して初めて磁器を焼き、これが波佐見焼の濫觴だという。あるいは木原山の某が見つけ運び出して作ったとも言う。しかし当時、平戸藩の工人が大村藩内で自由に振る舞えたかは疑わしい。今村三之亟が当地で試焼したのは寛永十二年(1635年)で、白岳か高麗川内の原料で有田焼を模し、薄ねずみ色の磁器を試みた程度であろう。


【英語訳】[English translation]

Rise of the Kirishitan faith
 Because the domain lord Ōmura Sumitada and the local lord Nagasaki Sumikage embraced Christianity, popular conversion in the region accelerated. Many church buildings—beginning with Binsē-ji—were erected, while the existing Shintō shrines and Buddhist temples were largely destroyed. In the age of Yoshizumi (Kazen), Chijiwa Seizaemon Norikazu (nephew of Ōmura Sumitada), anxious about the future, traveled alone to Rome. Upon his return he denounced Christianity as a “pernicious creed that would ultimately seize the country,” and, together with the elder Ōmura Hikoemon Sumikatsu, advised Yoshizumi to act. In Keichō 18 (1613) the domain expelled all Christian believers.

Demolition of Kirishitan meeting houses
 Norikazu also coordinated with the shogunal elder Honda Ueno-no-kami Masazumi. In the ninth month of the following year (Keichō 19, 1614) an urgent shogunal order arrived. Yoshizumi’s son, Minbu-no-taifu Sumiyori, went to Nagasaki with Nabeshima Katsushige, Terazawa Hirotaka, Matsuura Ikki-no-kami Takanobu, and Arima Zaemon-no-jō Naosumi, and demolished the houses and chapels of the Christians. Even so, the believers’ deep faith did not easily bend.

Deaths of Yoshizumi and his son
 Some retainers secretly kept the faith. Yoshizumi died on August 8, Genna 2 (1616), at age forty-eight, and his heir Sumiyori on November 13, Genna 5 (1619), at twenty-eight; both were said to have been poisoned by such men.
 The histories of Hirado and Ōmura are at once a history of Japan’s open ports and a history of foreign relations. With that framework in mind, one can then pursue the history of crafts. Korean potters who followed Yoshizumi during the Korean campaigns opened kilns at Sannomata and Nagata-yama in Kami-Hasami; these are called the progenitors of Ōmura ware. Yet the openings in Shimō-Hasami’s Muraki-gō should not be assumed to be much later.

Ancient kilns of Muraki-gō
 Four kiln sites are known at Muraki-gō: Hatano-hara (Fudosa-kami), Kosaraya (Fudosa-shimo), Yamanita, and Hyakkan. Of these, Kosaraya and Hyakkan are said to have been opened by the Korean Pak Jeongui. Given the terrain, oral tradition that a branch of the Minamikawara line pushed in from the Toshaku side is also plausible.

Hatano-hara and Yamanita
 At Hatano-hara, on Kashikiyama in front of the Mori residence, there remains a small Korean-style climbing kiln about twenty-two ken long, six to seven shaku deep, dropping about six shaku five sun. The Yamanita kiln site survives in a coppice called “Aza-waki no Tani.” Sherds include deep bowls with dark brown glaze whose unglazed foot interiors are neatly carved in a crescent (“new moon”) shape.

Kosaraya
 The Kosaraya site is now owned by Fukushima Beisaku. A Koryŏ-era grave once stood here but has been removed. Kiln products include the familiar pale-brown and amber-glazed small plates with “three-point stilt marks” on the base; four-sun dishes of red clay with blue-brown glaze and broad green rims; and tenmoku-glazed bowls—all with unglazed footrings. There are tortoiseshell-glazed cups (taipi-sen) with split footrings, and deep bowls with pale-yellow glaze and greenish rims.
 Unusual pieces include a “Tang-type/Karatsu-style” work with gray body and brown ground: a nasu-shaped mizusashi with a handle-like mouth, whose calyx forms the lid. Later wares include sometsuke porcelain; notably, medium plates with pale-celadon rims—kikyō-edged and chrysanthemum-rimmed—whose footrings are entirely unglazed.

A tokkuri inscribed “Hisayuki” (Kyunaga)
 Near the original primitive kiln at Kosaraya, a refined black-glazed tokkuri was unearthed, boldly brushed in iron glaze with the characters “久永.” One view attributes it to the Korean artisan Kim Kyūei (Kim Kyūnaga), yet similar vessels appear elsewhere; thus others argue it was a tavern bottle belonging to a local sake dealer—Kubo Nagazō, Kuma Eisaku, or Kutomi Eitarō. The matter remains unsettled.

Monument of Pak Jeongui
 Hyakkan is likewise reputed to be Pak Jeongui’s kiln site, and by the Toishi River stands his grave monument: a stone stele about five shaku tall set on a double plinth, inscribed “南無阿彌陀佛 釋正意靈位,” with “Genroku 2 (1689), cyclical year 己巳” on the right and “Intercalary First Month, Ninth Day” on the left. For a Korean immigrant this points to a slightly later generation. The Sawamura family of the area, as his descendants, still maintains the rites.

Hyakkan wares
 Hyakkan’s old products generally resemble those of Kosaraya, though the opening is said to be later. Early soft-paste porcelains often show crackle; finds include three-sun-mouthed hibachi/hi-ire with celadon rims over “sabi” grounds, and sometsuke shards with Joseon-style painting. Later porcelains include round tea bowls in underglaze blue with pine and grass motifs, dishes with the “imo-sansui” landscape, and many kurawanka bowls.
 The frequent use of “Hyakkan rust” (iron-rich slip) reflects abundant local sources. A document titled “Saruyama Hajitsuke” notes, “In Genroku 10 (1697) Hyakkan Matsuyama… through Shōtoku 4 (1714) totals eighteen years… established by Tomonaga Sadā under Magistrate Yamaguchi Hachirōbee.” Hence porcelain production likely began in 1697 under Tomonaga Sadā.

Sannomata-yama
 The principal production area of Ōmura ware—called the “three plate-mountains”—comprised Sannomata-yama, Nakao-yama, and Nagao-yama in Kami-Hasami; later Hiekoba-yama in Shimo-Hasami was added. Among these four, Sannomata-yama, where the general administration office stood, is an old site. Though its precise founding is unclear, a record reads: “Keichō 10: Sannomata-yama begins; through Shōtoku 4 it amounts to ‘over a hundred years,’ as stated by Oyakoemon.”
 From Keichō 10 to Shōtoku 4 (1714) is roughly 110 years; the phrase “over a hundred years” is a rounded oral expression. Koreans who came after the Imjin War first made Goryeo-style pottery here; porcelain came somewhat later. Another document says: “In Keichō 10 the Sannomata plate-mountain was begun. Supervisors Urata Ichizaemon, Ueno Tōkurō, and Ozaki Rihei served in rotation. A townsman of Edo named Tōkurō took the contract, set up the kilns, and began firing. In Kanbun 6 the supervision was reduced to one, held by Iwanaga Shichirōemon.”

On the beginnings of porcelain at Sannomata
 This “townsman Tōkurō” is the great merchant Manya Tōkurō. If so, he may have handled large contracts from the blackware period; and the phrase “began to fire pottery” in context of the Kanbun era likely means “began to fire porcelain.”
 Another document states: “Kanbun 3 (two hundred seventy-three years ago): Hiekoba plate-mountain begins; through Shōtoku 4 totals fifty-two years.” Nagao-yama dates to Kanbun 6 (1666), and Nakao-yama to Shōhō 1 (1645). These mark the start of porcelain manufacture, whereas pottery production predated this, as Koreans and their successors spread up the Hasami River.

Completion of Sannomata white porcelain
 Unlike other hills, this area shifted quickly from pottery to porcelain in imitation of Arita, because local porcelain stone was available, albeit soft. The first-discovered Shiratake material was too soft, and the Kōrai-gawauchi material varied in hardness and was hard to work. Later the Toishi River stone was found and blended with materials such as Ōtagoshi, forming the basis of Hasami porcelain; with the adoption of Amakusa stone, a fully white porcelain was achieved.

Sannomata stone
 The Toishi-gawa porcelain stone now used as an Amakusa-stone blend lies atop Sannomata and belongs to Matsuo Tokuichi. Because it contains slightly less iron oxide than the Yoshida Narukawa stone, it is preferred. It is used not only locally and in Fujitsu but also shipped yearly—by the several-hundred-thousand-jin—to Arita plate-mountains as a conditioner for insulator bodies.

Analysis of Toishi-gawa stone
 SiO₂ 44.05; Al₂O₃ 37.18; Fe₂O₃ 0.34; CaO 0.46; MgO 0.98; K₂O 3.75; Na₂O 0.64; Loss on ignition 13.21.

 One opinion holds that Imamura Sannojō of Mikawachi found this Toishi-gawa material and first produced porcelain, marking the dawn of Hasami ware; another says someone from Kihara-yama found it and had it carted for production. Yet it is doubtful that Hirado-domain artisans could have acted so freely within Ōmura domain. Imamura’s trial firing here dates to Kan’ei 12 (1635); likely he used Shiratake or Kōrai-gawauchi stone to attempt Arita-like wares, yielding a pale mouse-gray porcelain.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

基督徒信仰的兴盛
 因大村純忠与长崎純景信奉切支丹,当地民众的改宗迅速蔓延。以賓性寺为首的教会纷起,而既有的神社与佛阁多被毁坏。到了嘉前时期,千々岩清左工門紀員(大村純忠之甥)为将来担忧,独自赴罗马,归国后以“终将夺国之邪教”主张排斥,与藩老大村彥右工門純勝共谋,劝谏嘉前,于慶長十八年(1613年)将领内切支丹尽行驱逐。

拆毁切支丹会所
 纪员又与幕府老中本多上野介正純策应,翌年九月(慶長十九年)忽奉幕命。嘉前之子民部大輔純頼与鍋島勝茂、寺澤廣高、松浦壹岐守隆信、有馬左工門佐直純等赴长崎,拆毁信徒的会所与礼拜堂。然而信徒之信心深厚,难以动摇。

嘉前父子之死
 嘉前麾下亦有潜行守信者。嘉前于元和二年(1616年)八月八日卒,年四十八;嗣子純賴于元和五年(1619年)十一月十三日卒,年二十八。相传二人皆为信徒所毒害。
 平户与大村的历史既是我国的开港史,亦是对外关系史。明此两端,方可探究其他工艺史。随嘉前自朝鲜之役而来的韩人陶工,在上波佐见村三之股与永田山开窑,被称为大村烧之始祖;但下波佐见村木郷一带之开窑,也未必为后世之事。

村木郷古窑
 村木郷有四处古窑址:畑之原(不动佐上)、古皿屋(不动佐下)、山仁田、百贯。其中古皿屋与百贯据称由韩人朴正意开窑。就地形而论,南川原系自戸杓方面侵入之说亦不可否定。

畑之原与山仁田
 畑之原森氏宅前之樫木山,现存一座朝鲜式小型登窑:全长约二十二间,奥行六至七尺,下落约六尺五寸。山仁田之古窑址存于称作“字脇之谷”的杂木林中。遗物见黑茶釉深钵,内底高台无釉,呈新月形削痕。

古皿屋
 古皿屋今为福岛米作氏所有,曾有高丽墓,今已不知所终。其器物有淡茶釉、飴釉之底留“三点支烧痕”的小皿;红胎施青茶釉、广绿缘四寸皿;天目釉茶碗等,皆高台无釉。亦见割高台之玳皮盏、淡黄釉带绿回的深碗。
 珍品有灰胎褐地之唐烧风格茄子形水指,口附把,蒂作其盖。又烧有后世之染付磁器,如淡青磁缘之中皿,作桔梗缘、菊缘者,其高台亦全无釉。

“久永”铭德利
 古皿屋元素烧窑旁出土一件古雅黑釉德利,褐色胎上以铁釉大书“久永”。一说为韩人工匠金久永之作;然同类器 elsewhere 亦见,故亦有人谓乃本地酒家所用酒瓶,为久保永藏、久间永作、久富永太郎等之什器,未有定论。

朴正意之碑
 百贯亦称为朴正意开窑地。戸石川畔有其墓碑,高约五尺,置于双层台座,上刻“南無阿彌陀佛 釋正意靈位”,右题“元禄二年己巳(1689)”,左题“闰正月九日”。以韩人而论,属较后之时代。今由当地澤村氏后裔承祀。

百贯器物
 百贯古窑品大抵似古皿屋,但开窑较晚。初期软质磁多见冰裂;有三寸口火入(炉件)、腰部施錆地、缘青磁者;亦见呉須染付、具李朝画风之青磁片。后期有下呉須绘松文、草文之圆茶碗,芋山水画之皿,尚多“くらわんか茶碗”。
 此地多用“百贯錆”(含铁化妆土),因地出良材。古文书“皿山始付”载:“元禄十年丑(1697)百贯松山 至正德四年(1714)十八年……右者友永貞相立申候 御代官山口八郎兵衛殿。”据此,磁器制造当由友永貞于1697年开创。

三之股山
 大村烧本场(所谓“三皿山”)为上波佐见村之三之股山、中尾山、永尾山,后加下波佐见村之稗木场山。四者中,设总支配役所于三之股山。虽创始年不详,然“皿山始付”云:“慶長十年三之股山始,至正德四年百年余,由親左工門所述”,可见其古。
 慶長十年至正德四年(1714)实约一百一十年,口述故称“百年余”。朝鲜役后韩人来此先烧高丽风陶器,磁器稍晚始焉。古文书又云:慶長十年创山,押役浦田市左工門・上野藤九郎・尾崎利兵衛三人轮勤。由江户町人藤九郎承包,立窑而烧。寛文六年改为一人,岩永七郎右卫门值勤。

三之股磁器创始考
 此“江户町人藤九郎”即大商人萬屋藤九郎。若依其意,彼自黑物时代已承大额契约;文中“烧陶器始”于寛文以后应解作“烧磁器始”。
 另据“寛文三年卯……稗木场皿山始,至正德四年五十二年”等记载,永尾山为寛文六年(1666),中尾山为正保元年(1645)。此乃磁器创业期;陶器生产则更早,韩人及其系流沿波佐见川上溯,遍布诸地。

三之股白磁之成型
 本地未历漫长陶器阶段,迅速仿效有田转向磁器。缘于地出陶石,虽偏软。初发的白岳原料过软,高麗川内原料硬软不均、制作艰难。后发现砥石川陶石,并配以大田越等料,遂渐成波佐见磁器;再用天草石,终于成就完美白磁。

三之股陶石
 今作天草石配合材之砥石川陶石出自三之股山上,为松尾德一所辖。其含铁(氧化铁)稍少于吉田鳴川陶石,故受青睐。除本地与藤津之外,亦年年外运十数万斤至有田皿山,作碍子用坯土调配材。

砥石川石分析
 二氧化硅 44.05/氧化铝 37.18/氧化铁 0.34/氧化钙 0.46/氧化镁 0.98/氧化钾 3.75/氧化钠 0.64/灼减 13.21。

 一说三河内今村三之亟发现此料而首制磁器,为波佐见烧渊源;或曰木原山某人所见并运作。然而当时平户藩工人能否在大村藩内恣意行事,殊可疑。今村三之亟于当地试烧在寛永十二年(1635),推测不过以白岳或高麗川内之料仿制有田,得薄鼠色之磁器而已。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

基督徒信仰的興盛
 因大村純忠與長崎純景信奉切支丹,地方民眾改宗迅速蔓延。以賓性寺為首之教會接連興建,而既有神社佛閣多遭毀壞。至嘉前時,千々岩清左工門紀員(大村純忠之甥)憂時而獨赴羅馬,歸國後以「終將奪國之邪教」主張排斥,與藩老大村彥右工門純勝共議,勸嘉前於慶長十八年(1613)盡逐領內切支丹。

拆毀切支丹會所
 紀員又與幕府老中本多上野介正純相謀,翌年九月(慶長十九年)驟奉幕命。嘉之前子民部大輔純賴與鍋島勝茂、寺澤廣高、松浦壹岐守隆信、有馬左工門佐直純等赴長崎,拆毀信徒會所與禮拜堂。然信徒篤信,不易轉移。

嘉前父子之卒
 嘉前麾下亦有潛行奉教者。嘉前卒於元和二年(1616)八月八日,年四十八;嗣子純賴卒於元和五年(1619)十一月十三日,年二十八。相傳二人皆為其所毒。
 平戶與大村之史既為我國開港史,亦為對外關係史。明此兩端,方可探究工藝史。隨嘉前自朝鮮之役而來之韓人工匠,在上波佐見村三之股與永田山開窯,稱大村燒之始;然下波佐見村木郷之開窯亦未必為後世之事。

村木郷古窯
 村木郷有四古窯址:畑之原(不動佐上)、古皿屋(不動佐下)、山仁田、百貫。其中古皿屋、百貫傳為韓人朴正意所開。就地勢而論,南川原系自戶杓侵入之說亦難否定。

畑之原與山仁田
 畑之原森氏宅前樫木山,尚存朝鮮式小登窯,長約二十二間,奧六至七尺,下落六尺五寸。山仁田古窯址在稱「字脇之谷」之雜木林中。出土黑茶釉深鉢,無釉高台內作新月形。

古皿屋
 古皿屋今屬福島米作氏,昔有高麗墓,今不知所終。器物有淡茶釉、飴釉之底留「三點支燒痕」小皿;紅胎青茶釉、廣綠緣四寸皿;天目釉碗等,皆高台無釉;亦有割高台之玳皮盞、淡黃釉帶綠之深碗。
 異品為灰胎褐地唐燒風茄子形水指,口附把,蒂作其蓋。又燒後世染付磁器,如淡青磁緣中皿,作桔梗緣、菊緣者,其高台全無釉。

「久永」銘德利
 古皿屋元素燒窯旁出黑釉德利,褐胎施鐵釉大書「久永」。一說韓人金久永之作;然同類器屢見於他處,亦有謂乃本地酒肆之用瓶,或為久保永藏、久間永作、久富永太郎等之什器,未有定說。

朴正意之碑
 百貫亦稱朴正意開窯地。戸石川畔有墓碑,高約五尺,置雙層台座,上刻「南無阿彌陀佛 釋正意靈位」,右題「元祿二年己巳(1689)」;左題「閏正月九日」。以韓人言,屬稍後之時代。今由當地澤村氏後裔承祀。

百貫器例
 百貫古窯品大抵似古皿屋,而開窯稍晚。初期軟質磁多見冰裂;有三寸口火入、腰施錆地、緣青磁者;亦見呉須染付、具李朝畫風之青磁片。後期有下呉須松文、草文之圓茶碗,芋山水畫之皿,並多「くらわんか茶碗」。
 所用「百貫錆」之多,因地產良質錆料。古文書「皿山始付」記「元祿十年丑(1697)百貫松山 至正德四年(1714)十八年……右者友永貞相立申候 御代官山口八郎兵衛殿」。據此,磁器製造疑自1697年由友永貞肇始。

三之股山
 大村燒本場(所謂「三皿山」)為上波佐見村之三之股山、中尾山、永尾山,後加下波佐見村稗木場山。四者中,於三之股山設總支配役所。雖創始年未詳,「皿山始付」云:「慶長十年 三之股山始,至正德四年 百年餘,親左工門言之」,其為古窯可知。
 慶長十年至正德四年(1714)約百一十年,口述故謂「百年餘」。朝鮮役後韓人來此,先燒高麗風陶器,磁器稍晚。又載:慶長十年創山,押役浦田市左工門・上野藤九郎・尾崎利兵衛三人輪勤;江戶町人藤九郎承包建窯;寛文六年改一人,岩永七郎右衛門當值。

三之股磁器肇端考
 所稱江戶町人藤九郎,即大商萬屋藤九郎。按其意,自黑物時代已承大約;文中「燒陶器始」於寛文以後宜解為「燒磁器始」。
 又載「寛文三年卯……稗木場皿山始,至正德四年五十二年」,永尾山為寛文六年(1666),中尾山為正保元年(1645)。是為磁器創業期;陶器生產則更早,韓人及其系流沿波佐見川上溯而布。

三之股白磁之成
 本地未久處於陶器階段,迅速仿效有田轉為磁器。緣地出陶石,雖質偏軟。初發白岳料過軟;高麗川內料硬軟不齊,制作艱難。後發現砥石川陶石,配以大田越等料,漸成波佐見磁器;再用天草石,終臻完白之磁。

三之股陶石
 今作天草石配料之砥石川陶石出自三之股山上,為松尾德一所屬。其含氧化鐵少於吉田鳴川陶石,故見青睞。除本地、藤津外,亦年運十數萬斤至有田皿山,為礙子用坯土調合材。

砥石川石分析
 SiO₂ 44.05/Al₂O₃ 37.18/Fe₂O₃ 0.34/CaO 0.46/MgO 0.98/K₂O 3.75/Na₂O 0.64/灼減 13.21。

 一說三河內今村三之亟發見此料而首制磁器,為波佐見燒濫觴;或曰木原山某所見而運製。然彼時平戶藩工匠能否於大村藩內任意行事,殊難。今村三之亟於此試燒在寛永十二年(1635),恐不過以白岳或高麗川內之料仿有田,而得淡鼠色之磁器耳。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

切支丹信仰的兴起
 因大村純忠与长崎純景皈依基督教,当地改宗迅速,教堂兴建,而既有的神社与寺院多被毁。至嘉前时,千々岩清左工門紀員(純忠之甥)独赴罗马,归来后称其为“终将夺国的邪教”,与大村彥右工門純勝进言,慶長十八年(1613)域内基督徒被全面驱逐。

拆除会堂
 纪员又与幕府老中本多上野介正純协同。翌年九月(1614),幕命骤下。嘉前之子純頼与鍋島勝茂、寺澤廣高、松浦壹岐守隆信、有馬佐直純等赴长崎,拆毁信徒之屋与礼拜堂;然信仰未易动摇。

嘉前父子之死
 仍有家臣潜守其教。嘉前于元和二年(1616)八月八日卒,年48;嗣子純賴于元和五年(1619)十一月十三日卒,年28;皆传为遭毒。
 平户与大村之史既为开港史,亦为对外关系史。在此脉络下,可探工艺史。随嘉前自朝鲜之役而来的朝鲜陶工,于上波佐见之三之股、永田山开窑,被称大村烧之祖;而下波佐见村木郷之开窑亦未必更晚。

村木郷古窑
 村木郷四窑址:畑之原、古皿屋、山仁田、百贯。其中古皿屋与百贯传由朴正意开。地形所示,南川原系自戸杓渗入之说可信。

畑之原与山仁田
 畑之原存朝鲜式小登窑,约二十二间长;山仁田窑址在“字脇之谷”。遗物有黑褐釉深钵,高台内呈新月形无釉面。

古皿屋
 古皿屋今属福岛米作氏;昔有高丽墓。出土淡茶釉、飴釉小皿,三点支烧痕明显;红胎施青褐釉之四寸皿,广绿缘;天目碗等,皆高台无釉;有玳皮盏与淡黄釉绿口深碗。
 异品为茄子形水指,灰胎褐地,唐津风;蒂作盖。亦见后世染付,中皿淡青磁缘,桔梗缘、菊缘例,高台全无釉。

“久永”铭德利
 出土黑釉德利以铁釉书“久永”。或谓韩人工匠金久永之作;或谓本地酒肆器物(久保永藏、久间永作、久富永太郎)。未有定论。

朴正意碑
 百贯亦为其开窑地。戸石川旁有墓碑,高约五尺,双台座,“南無阿彌陀佛 釋正意靈位”,右记元禄二年己巳(1689),左记闰正月九日。当地澤村氏后裔主祀。

百贯器例
 与古皿屋相似而稍晚。早期软质磁多冰裂;有三寸口火入、缘青磁、腰施錆地;亦见呉須染付、李朝风青磁片。后期有松文、草文茶碗,“芋山水”皿与“くらわんか茶碗”。
 多用“百贯錆”因地出良料。文献指1697年友永貞开创磁器。

三之股山与磁器肇始
 主产区为三之股山、中尾山、永尾山,后加稗木场山。三之股山设总管所。文献称自慶長十年至正德四年“百年余”,系口述。初为高丽风陶,后转磁。另载江户町人萬屋藤九郎承建并起烧;寛文期起可解为“烧磁器”。永尾山(1666)、中尾山(1645)为磁器创业期;陶器更早,随韩人上溯波佐见川而布。

白磁之完成
 当地迅速仿有田转磁,因地出陶石。白岳料太软,高麗川内料不匀;后得砥石川石,配大田越,成波佐见磁器;再用天草石,成就白磁。

陶石与分析
 砥石川石在三之股山上,松尾德一所有,铁少于吉田鳴川石;亦输往有田作碍子土配材,年十数万斤。
 成分:SiO₂ 44.05;Al₂O₃ 37.18;Fe₂O₃ 0.34;CaO 0.46;MgO 0.98;K₂O 3.75;Na₂O 0.64;灼减 13.21。
 一说今村三之亟先发现并制磁,或为木原山某人所运。然彼时平户工匠难自由入大村藩。今村试烧在1635年,或仅以白岳或高麗川内料仿有田,得淡灰磁。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

切支丹信仰的興起
 由於大村純忠與長崎純景改宗基督教,地方改宗迅速,教堂林立,而既存神社與寺院多被毀。至嘉前時,千々岩清左工門紀員(純忠之甥)獨赴羅馬,歸來稱其為「終將奪國之邪教」,與大村彥右工門純勝合議,於慶長十八年(1613)驅逐域內信徒。

拆除會堂
 紀員又與幕府老中本多上野介正純協同。翌年九月(1614)幕命下達。嘉前之子純賴與鍋島勝茂、寺澤廣高、松浦壹岐守隆信、有馬佐直純等至長崎,拆毀信徒之屋與禮拜堂;然其信仰不易動搖。

嘉前父子之逝
 仍有家臣潛守其教。嘉前卒於元和二年(1616)八月八日,年四十八;嗣子純賴卒於元和五年(1619)十一月十三日,年二十八;相傳皆遇毒。
 平戶與大村之史既為開港史,亦為對外關係史。於此脈絡下可研工藝史。隨嘉前自朝鮮之役而來之朝鮮陶工,在上波佐見三之股、永田山開窯,稱大村燒之祖;而下波佐見村木郷之開窯亦未必更晚。

村木郷古窯
 四址:畑之原、古皿屋、山仁田、百貫。其中古皿屋與百貫傳為朴正意所開。地勢示南川原系自戶杓滲入之說可信。

畑之原與山仁田
 畑之原存朝鮮式小登窯,約二十二間長;山仁田窯址在「字脇之谷」。遺物有黑褐釉深鉢,高台內呈新月形無釉。

古皿屋
 今屬福島米作氏;昔有高麗墓。出土淡茶釉、飴釉小皿(三點支痕),紅胎青褐釉四寸皿、天目碗,皆高台無釉;亦有玳皮盞及淡黃釉綠口深碗。
 異品為茄子形水指(把口),灰胎褐地唐津風,蒂為其蓋。後世染付:淡青磁緣中皿,桔梗緣、菊緣,高台全無釉。

「久永」銘德利
 黑釉德利以鐵釉書「久永」。或為韓人工匠金久永,或為本地酒肆器物(久保永藏、久間永作、久富永太郎)。未定。

朴正意碑
 百貫亦為其開窯地。戸石川旁墓碑高約五尺,雙台座,刻「南無阿彌陀佛 釋正意靈位」,右記元祿二年己巳(1689),左記閏正月九日。澤村氏後裔主祀。

百貫器例
 類古皿屋而稍晚。早期軟質磁多冰裂;有三寸口火入、緣青磁、腰錆地;亦見呉須染付、李朝風青磁片。後期有松文、草文圓茶碗,「芋山水」皿與「くらわんか茶碗」。
 多用「百貫錆」因地產良料。文獻示1697年友永貞創磁器。

三之股與磁器肇端
 主區為三之股山、中尾山、永尾山,後加稗木場山。三之股山設總管。記稱自慶長十年至正德四年「百年餘」,為口述。初為高麗風陶,後轉磁。另載萬屋藤九郎承建;寛文後可解為「燒磁器」。永尾山(1666)、中尾山(1645)為磁器創業期;陶器更早,隨韓人上溯波佐見川而布。

白磁完成
 本地迅速仿有田轉磁,因地出陶石。白岳料過軟,高麗川內料不均;後得砥石川石配大田越,成波佐見磁器;再用天草石,成就白磁。

陶石與分析
 砥石川石在三之股山上,松尾德一所有,鐵少於吉田鳴川石;年輸十數萬斤至有田作礙子土配材。
 成分:SiO₂ 44.05;Al₂O₃ 37.18;Fe₂O₃ 0.34;CaO 0.46;MgO 0.98;K₂O 3.75;Na₂O 0.64;灼減 13.21。
 一說今村三之亟先發現並製磁;或為木原山某所運。然彼時平戶工匠難自由入大村藩。今村試燒於1635年,恐僅以白岳或高麗川內料仿有田,得淡灰磁器。