【原文】[Original text]
製陶系の本家争ひ
一体此本家争ひなるものは正確なる文献があり、なほそれを現實と對照して推極せし上にあらざれば、決定すること不可能であるが、考究の材料に乏しき陶山に於いては、ただ口碑と推測の理由に依る外ない。それが長き星霜を經る間に、或は傅へられし方が却って本家と思ひ込み、そして傳へし方が又其支流の如く合点して、全く地位を轉倒せしところなしさせぬ。
波佐見青磁の不窯取れ
而して此地方到る處に見る、此優秀なる青磁の殘缺が、碗類の如き小器の外、多くは歪み物にて、ついぞ完成せして認む可き破片がない。今此現状に因って推考すれば、當時此青磁物が幾%の完成器を得たるかは大いに疑問とせざるを得ぬ。或は武内磁器の如く、唯だ破片としての鑑賞に止まるなきかを思はしめるのである。
蓋し當時硬質に依つて焼成されし、青磁の珍重時代とて、最初は茶碗類の小器のみなる僅少の窯取れにて採算し得しならんも、追々と他山に硬質青磁が製作さるゝに及び、之と並行し難く、途に製造を断念するの止むを得ざるに至りしものであらう。
波佐見青磁の原料
而して此青磁釉薬の原料は内海金山邊りの川原川内より探收せしものにて、その胎土は高麗口か白岳の原料を使用せしめ、軟質にして途に成器を得るに困難であつた。然るに有田泉山の原料が無双の硬質なること知らるゝに及び此地の工人が有田郷の丸尾に轉住して青磁窯を起し、それが後に黒牟田青磁の流行となりしこの説は、蓋し事實であらう。
馬場伊兵衛
天草石の使用となりて、此地方の青磁も亦、全く完成せしことは申すまでもない。維新前此處の馬場伊兵衛は、藩命に依って宮中御用の青磁皿を謹製せしといはれてゐる。彼は明治二十五年十一月十六日五十二才にて卒去したのである。
佐藤徳左エ門
維新當時の三の股は、佐藤徳左工門を筆頭として、三十三人の藩認許の窯焼ありて、盛んに製造せしものであつた。維新後は淡路の仕入客などが早岐に出で来り、其處の問屋にて取引せしが、後年に至つて伊萬里市場に轉じたのである。そして重なる窯焼には松尾勝左工門、馬伊兵衛、松尾彌太郎、太田治三郎等があつた。
インチキ呉洲賣
嘉永年間(1848-1855年)大甕中齋の亂徒たりし、大阪の和泉屋硯海が子にて、萬次郎なる者長崎にせしが、彼は怪しき繪薬を需めて支那の良吳洲と稱し、波佐見各山へ賣附く可く皿山役所の役人と各窯焼を饗應し、前後二回に亘って呉洲三千斤を賣込んだのである。此代金三千両にて、此時の賄費が千五百両に上りしといはれてゐる。
上波佐見意匠傳習所
明治三十五年上波佐見陶磁器意匠傳習所が創立された。勿論それは各山の聯合にて設置されしものにて、その所長たりしに、福重幸太郎、一ノ瀬龍太郎、松尾彌太郎等があつた。同四十三年中尾山に移轉の上、新築されし後の所長は小川寅治 松添太郎等であつた。
大正十二年七月前記の傳習所は、又井石郷に移縛され、同地の小學校に於いて小學教育と連絡を保しめしが、昭和四年村立の傳習所となった。
この傅習所は大正十一年以降多数の卒業生を出し此方窯業の進展助長に貢献するところ少なくなかつた。現任松添所長の外職員二名を置き、本科窯業の意匠圖案の改善を計ると共に、専ら優良徒弟の養成に努め、現在徒弟六十八名を収容してるる。修學年限は本科二ヶ年とし、尋常小學を卒へ者を入所せしむる規定である。
三の股の現在
大正八年頃の好況時代には、窯燒十四五戶年產額二十七八萬圓を繋げし三の股山も、現今斯業全く振はず、現在戶數も八十五戸に減じ、窯焼は松尾三一、竹村島一、田崎定一の三人にて、年額五六萬圓といはれ、往年の盛況に比してに隔世の感がある。たゞ此處の天満宮の大楓のみ昔に幾らすひとり當年のを誇つてゐるかに見るのは、責めてもの慰めである。三の股の名工として擧くべき陶家に左の人々がある。
三の股の名工
松尾嘉左工門
安政二年正月二十日卒す。
花鳥及び山水畫の名人にて、大村藩の御用繪師山崎雲仙の門人である。
太田彌助
轆轤細工人にて、特に徳利作りの名手である。
佐藤徳左工門
大正二年八月十九日卒、九十才 轆轤細工の名工にて特に小間物が得意である。
太田亀太郎
明治三十七年二月十四日卒六十八才 名書徳利の名手である。
中尾山皿山始付
中尾山の古窯には、廣川原、上登(又白岳窯)下登、山下大新窯等がある、皿山始付に次の如く出てゐる。
中尾山(上登のこと)正保元甲申(1645年)始付正徳四年(1714年)迄七十一年に相成候由親左工門覺
附たり皿山水唐臼は福田代助申者寛文八年相始申候但五十年前
但此山相立候儀大村三郎右工門殿御役內御立被成候左工門に仰付に相成
中尾下皿山(下登)寛文五年巳(1665年)始付正徳四年(1714年)まで五十年に相成
中尾新登山(大新窯)貞享元年子(1684年)始付正徳六年(1716年)まで三十三年に相成右者松尾儀右エ門相立候御代官黒板喜左衛門殿
中尾山古文書古文書に次の如き記録がある。
中尾皿山
一竈數百五十軒 内釜司二十六人
上登釜數三十三軒
内 二十五軒 本釜
内 四軒 安光
内 四軒 灰安光
下登釜數二十六軒
内 二十軒 本釜
内 四軒 安光.
内 二軒 灰安光
大新登釜數三十九軒
內 三十二軒 本釜
內 四軒 安光
內 三軒 灰安光
燒物出来高二萬千九百六十六俵
焼物土 二萬七千七百二十荷
薪 二百五萬六千本
燒物運上銀四貫三百三百九十三匁二分(一俵につき二分苑三歩銀にて)
但荷運上 壹分三厘三步銀七分二厘
灰運上銀一ヶ年二十匁
酒運上銀一ヶ年九十六匁
釜運上銀一ヶ年一貫百五十五匁
但本釜一ヶ年に付十五匁
水碓數百五十丁
一右中尾皿山(上登)は正保元年申年始建之也
一同所横目役所(字山下)は文政三年辰年(百十五年前)始て建之當村横目より皿山目附帯にて勤番するなり
一同所下登釜は寛文五巳年大村三郎右工門御爲奉行役内始て建之なり
一同所大新登釜貞享元年松尾儀右工門さいふ者始て建之なり
一中尾皿山より内海通庄屋まで道法一里四丁程過にて内海の宿に出るなり
一同所より近道通井石尻道まで二十六町程
一同所より三の股役所まで十五町四十間程
一同所より高野越右の肩につゝや嶽とて險阻の野岳あり高さ平地より三町程
此嶽の頂上に長崎異変の狼煙場あり山中左右用木山請林畠屋舗東家あり東の方へ鎮守観音堂山下へ横目役所あり
廣川原
慶長年間永田山へ來りし韓人祜なる者が、此處の開山者と稱せられしが、後彼は中尾に轉じて開窯せしといはれてゐる。降つて元和元年(1615年)中尾庄右工門尉此處の廣川原に開窯せしとの口碑があり、今其古窯の頭部丈が段畠の堺日に現はれてゐるが、かゝる小窯にて磁器を焼きしても想はれず、勿論黒物時代の遺窯であらう。彼の白岳の原料が發見されしこさへ、それよりも二十年計り後のことであつたのである。而して陶器の殘缺は、其處に發見せられざるも、多くは染附磁器の中に砧青磁の大茶碗などあるは、後代改窯の製品であるらしい。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
製陶の「本家」論争
どの系統が本家かを決めるには、確かな文献と現地の実態照合が不可欠だが、資料に乏しい陶山では口伝と推測に頼らざるを得ない。その間に伝承が入れ替わり、伝えた側が本家と思い込み、伝えられた側を支流と誤解する—そんな立場の逆転が起きても不思議ではない。
波佐見青磁の歩留まり
各地で見られる波佐見青磁の破片は、小ぶりの碗以外は歪みが多く、完成品と呼べるものがほとんどない。状況からみて当時の完成率は低く、武内磁器のように「割れや欠片の鑑賞」にとどまった可能性もある。初期は小器のわずかな歩留まりで成り立っても、やがて他地域で硬質青磁が量産されると競争が難しくなり、製造断念に至ったのだろう。
原料と移住
青磁釉の原料は内海金山近くの川原川内で採取し、胎土は高麗口や白岳の土を用いたが軟質で成形・焼成が難しかった。やがて有田泉山の硬質原料が群を抜くと知られ、当地の工人が有田郷丸尾へ移って青磁窯を起こし、のちの黒牟田青磁の流行へつながった、という説は妥当と思われる。
馬場伊兵衛
天草石の導入で当地の青磁も完成度を高めた。維新前、馬場伊兵衛は藩命で宮中御用の青磁皿を謹製したと伝わる。明治二十五年十一月十六日、五十二歳で没。
維新前後の三の股
維新期の三の股には、佐藤徳左工門を筆頭に藩公認の窯が三十三あり、盛んに生産した。維新後は淡路の仕入客らが早岐に来て問屋経由で取引し、のちに伊萬里市場へ移った。主な窯元は松尾勝左工門、馬伊兵衛、松尾彌太郎、太田治三郎ら。
「偽呉須」の横行
嘉永期、大阪の和泉屋硯海の子・萬次郎が長崎で怪しい絵具を「支那の良呉須」と称して売り込み、役人や窯元を饗応して二度にわたり計三千斤をさばいた。代金三千両、そのうち賄費が千五百両に上ったという。
上波佐見意匠傳習所
明治三十五年に創立。各山の連合で設置し、所長は福重幸太郎・一ノ瀬龍太郎・松尾彌太郎。明治四十三年に中尾山へ移転新築し、小川寅治・松添太郎が所長。大正十二年七月に井石郷へ再移転し小学校と連携、昭和四年に村立となった。大正十一年以降多くの卒業生を輩出し、現在は松添所長ほか職員二名、徒弟六十八名を収容。本科二年制で、尋常小学校修了者を受け入れる。
三の股の近況と名工
大正八年頃は窯焼十四〜十五戸で年産二十七〜二十八万円に達したが、現在は不振で戸数八十五、窯焼は松尾三一・竹村島一・田崎定一の三名、年額五〜六万円という。天満宮の大楓だけが昔日の面影を保つ。名工としては、花鳥山水に巧みな松尾嘉左工門(山崎雲仙門、安政二年没)、徳利名手の太田彌助、轆轤の名人・佐藤徳左工門(大正二年没、九十歳)、名書徳利の太田亀太郎(明治三十七年没、六十八歳)が挙げられる。
中尾山の創業記録
中尾山には廣川原、上登(白岳窯)、下登、山下大新窯などがあり、記録では上登は正保元年(1645)創業、正徳四年(1714)まで七十一年。下登は寛文五年(1665)創業、正徳四年まで五十年。大新窯は貞享元年(1684)創業、正徳六年(1716)まで三十三年。最盛期には竈数計百五十、年産二万一千九百六十六俵、土二万七千七百二十荷、薪二百五万六千本、水碓百五十丁、諸運上銀の内訳や役所設置・狼煙場・道路距離なども詳記される。
廣川原の伝承
慶長期、永田山へ来た韓人・祜が開山者とされ、のち中尾に移って開窯したという。元和元年(1615)には中尾庄右工門尉が廣川原で開窯したとの口碑がある。段畑の境に小窯跡の頭部が見えるが、規模からして黒物期の遺窯だろう。白岳原料の発見はそれより約二十年後で、現地の陶器残欠は乏しい一方、染付や砧青磁の大茶碗は後代の改窯品と思われる。
【英語訳】[English translation]
Disputes over the “Main Line” of Pottery
In kiln regions with few records, arguments about which lineage is the “main house” rest on oral tradition and conjecture. Over time, transmission can flip: the transmitter is mistaken for the head line, while the recipient is treated as a branch.
Low Yields of Hasami Celadon
Hasami celadon sherds found across the area are mostly warped pieces; aside from small bowls, completed fragments are rare. This implies very low completion rates—perhaps, as with Takeuchi ware, valued largely as fragments. Early profits may have come from a few small bowls, but once other hills produced robust hard celadon, Hasami struggled to compete and ultimately ceased production.
Materials and Migration
Celadon glazes drew on ore from Kawaragawa-uchi near Uchiumi Kinzan, while bodies used soft clays from Koraiguchi or Shiratake, making sound firing difficult. When Arita’s Izumiyama proved unparalleled for hardness, craftsmen moved to Maruo in Arita-go to found celadon kilns—germinating the vogue of Kuromuta celadon.
Baba Ihee
With Amakusa stone adopted, local celadon reached full maturity. Before the Restoration, Baba Ihee reportedly produced celadon plates for the Imperial Court. He died on November 16, 1892, aged 52.
Sannomata around the Restoration
At the Restoration, Sannomata had 33 licensed kilns led by Satō Tokuzāemon. Afterward, buyers from Awaji traded at Haiki wholesalers, later shifting to the Imari market. Key kilns included Matsuo Katsuzaemon, Uma-Ihee (Baba Ihee), Matsuo Yatarō, and Ōta Jizaburō.
The “Fake Gosu” Affair
In the Kaei era, Manjirō—son of Osaka dealer Izumiya Gankai—operated in Nagasaki, selling dubious pigment as “fine Chinese gosu.” By lavishly entertaining officials and kilns, he placed 3,000 jin over two rounds for 3,000 ryō, with alleged entertainment costs of 1,500 ryō.
Kami-Hasami Design Training Institute
Founded in 1902 as a joint initiative of the kiln hills. Directors included Fukushige Kōtarō, Ichinose Ryūtaro, and Matsuo Yatarō; in 1910 it moved to Nakao-yama (new buildings), later led by Ogawa Toraji and Matsuzoe Tarō. In July 1923 it moved to Iishi-gō and linked to the local primary school; in 1929 it became a village institute. Since 1922 it has produced many graduates; today it has Director Matsuzoe, two staff, and 68 apprentices in a two-year program for primary-school graduates.
Sannomata Today and Its Masters
Around 1919, Sannomata had 14–15 kilns and annual output of ¥270–280k. Now the trade has slumped: 85 households, only three active kilns (Matsuo San’ichi, Takemura Shimaichi, Tasaki Teiichi) with ¥50–60k yearly. Only the great maple at Tenmangū recalls former glory. Noted masters: Matsuo Kasazaemon (pupil of Yamazaki Unzen; birds-and-landscape painter; d. Ansei 2), Ōta Yasuke (wheel, renowned for tokkuri), Satō Tokuzāemon (wheel, small wares; d. 1913, age 90), Ōta Kitarō (named-calligraphy tokkuri; d. 1904, age 68).
Founding Records of Nakao-yama
Nakao-yama had Hirokawahara, Kamonobori (Shiratake kiln), Shimonobori, and Yamashita Ōshin kiln. Records note: Kamonobori founded 1645 (to 1714, 71 years); Shimonobori 1665–1714 (50 years); Ōshin 1684–1716 (33 years). Peak stats: ~150 hearths; output 21,966 bales; clay 27,720 loads; firewood 2,056,000 billets; 150 water stampers; detailed duties; a watch-fire site; and route distances.
Hirokawahara Tradition
In Keichō, a Korean named Ko opened the site, later moving to Nakao. Oral lore says in 1615 Nakao Shōzaemon-no-jō opened at Hirokawahara. The small kiln crown still shows at a terraced field boundary—likely a black-ware relic. Shiratake ore was found about twenty years later. Few pottery sherds appear there; large celadon bowls among sometsuke are probably later products of a rebuilt kiln.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
陶业“本家”之争
在资料稀缺的陶山,难以凭文献与現地对照来定本家,只能依赖口传与推测。长期流变中,传者被误认作本家,被传者反作支流,这类位置倒置并不罕见。
波佐见青瓷的低成品率
各处所见青瓷残片多为歪品,小碗之外鲜有完器。由此推测,当时成品率甚低,或如武内磁器只止于“片段之赏”。初期尚能以少量小器维持,但他山硬质青瓷量产后难以并行,不得不止产。
原料与迁徙
釉料取自内海金山近旁的川原川内,胎土用高丽口或白岳之土,质软而难烧。及至有田泉山硬质原料名声确立,工人迁至有田郷丸尾设窑,遂引出黑牟田青瓷之流行。
馬場伊兵衛
采用天草石后,当地青瓷臻于完善。维新前馬場伊兵衛奉藩命为宫中制青瓷盘。明治二十五年十一月十六日卒,享年五十二。
维新前后的三之股
维新时三之股有藩认窑三十三,首为佐藤徳左工門。维新后淡路商贩赴早岐交易,后转至伊萬里市场。主要窑元有松尾勝左工門、馬伊兵衛、松尾彌太郎、太田治三郎。
“假呉須”事件
嘉永年间,大阪和泉屋硯海之子萬次郎在长崎以可疑颜料冒称“华制良呉須”,设宴官吏与窑户,两度售出三千斤,价三千两,传言行费达一千五百两。
上波佐见意匠传习所
明治三十五年创立,为诸山联合之设。所长历任福重幸太郎、一ノ瀬龍太郎、松尾彌太郎;明治四十三年迁中尾山新建,小川寅治、松添太郎继任。大正十二年七月移至井石郷并与小学校联动,昭和四年改为村立。自大正十一年以来多出毕业生,现有所长松添、职员二名、徒弟六十八名,本科两年制,录取寻常小学毕业生。
三之股近况与名工
大正八年前后年产二十七至二十八万元,今业已不振:住户八十五,窑仅松尾三一、竹村島一、田崎定一三家,年额五六万元。唯天满宫大枫尚存旧观。名工有松尾嘉左工門(山崎雲仙门)、太田彌助(徳利名手)、佐藤徳左工門(轆轤名家,九十岁卒)、太田亀太郎(名书徳利)。
中尾山创始记
中尾山有廣川原、上登(白岳窑)、下登、山下大新窑。记载:上登1645年起至1714年;下登1665–1714年;大新窑1684–1716年。盛时竈约一百五十,年产二万一千九百六十六俵,土二万七千七百二十荷,薪二百零五万六千本,水碓一百五十丁,并详有役所、狼烟台与道路距离。
廣川原传承
传慶长期韩人祜开山,后移中尾设窑。元和元年中尾庄右工門尉于廣川原开窑之口碑犹存。段畑边尚见小窑遗迹,推为黑物期遗窑。白岳原料发现约在二十年后;当地陶片少,所见砧青瓷大碗多为后改窑之作。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
陶業「本家」之爭
在史料匱乏之陶山,難以據文獻與現地對照定本家,只能依口傳與推測。久而久之,傳者反被認為本家,被傳者反作支流,此等位置倒置時有所見。
波佐見青瓷之低成品率
所見殘片多為歪品,小碗之外罕見完器。推之,當時成品率甚低,或如武內磁器僅止「片段之賞」。初期尚憑少量小器維持,及他山硬質青瓷量產,難以並行,遂止產。
原料與遷徙
釉料取自內海金山近旁川原川內,胎土用高麗口或白岳之土,質軟而難燒。迨有田泉山硬質原料名著,工人遷至有田郷丸尾立窯,遂啟黑牟田青瓷之風。
馬場伊兵衛
採天草石後,當地青瓷臻於完善。維新前馬場伊兵衛奉藩命為宮中制青瓷皿。明治二十五年十一月十六日卒,享年五十二。
維新前後之三之股
三之股維新時有藩許窯三十三,首為佐藤德左工門。維新後淡路商赴早岐交易,後轉伊萬里市場。主要窯元:松尾勝左工門、馬伊兵衛、松尾彌太郎、太田治三郎。
「偽呉須」事件
嘉永年間,大阪和泉屋硯海之子萬次郎在長崎以可疑顏料冒稱「華製良呉須」,饗應官吏與窯戶,前後兩度售出三千斤,價三千兩,傳賄費達一千五百兩。
上波佐見意匠傳習所
明治三十五年創立,諸山聯合設置。所長福重幸太郎、一ノ瀬龍太郎、松尾彌太郎;明治四十三年遷中尾山新築,小川寅治、松添太郎繼任。大正十二年七月移井石郷與小學聯動,昭和四年改村立。自大正十一年以來多出畢業生;現有所長松添、職員二名、徒弟六十八名,本科兩年制,錄尋常小學畢業。
三之股近況與名工
大正八年前後年產二十七至二十八萬元,今業已不振:戶八十五,窯僅松尾三一、竹村島一、田崎定一三家,年額五至六萬元。唯天滿宮大楓尚存舊觀。名工:松尾嘉左工門(山崎雲仙門)、太田彌助(德利名手)、佐藤德左工門(轆轤名家,九十歲卒)、太田龜太郎(名書德利)。
中尾山創業記
中尾山有廣川原、上登(白岳窯)、下登、山下大新窯。記:上登1645–1714;下登1665–1714;大新窯1684–1716。盛時竈約一百五十,年產二萬一千九百六十六俵,土二萬七千七百二十荷,薪二百零五萬六千本,水碓百五十丁,並詳役所、烽燧與道路距離。
廣川原傳承
傳慶長期韓人祜開山,後轉中尾設窯。元和元年中尾庄右工門尉於廣川原開窯之口碑尚存。段畑界尚見小窯遺跡,推為黑物期遺窯。白岳原料發現約在二十年後;陶片稀少,而砧青瓷大碗多為後改窯之作。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
关于“本家”之争
在记录稀少之地,论谁为本家多凭口述与想象,久之易生“传者为本、受者为支”的倒置。
波佐见青瓷产率低
多见扭曲碎片,完碗稀少,完成率低;如同以碎片见赏。及他山硬质青瓷量产,波佐见难以竞争而停产。
原料与迁移
釉取川原川内,胎用高丽口或白岳软土;后知有田泉山硬质优越,工人迁有田郷丸尾立窑,促成黑牟田青瓷。
馬場伊兵衛
用天草石后青瓷成熟;其曾制宫中青瓷皿(维新前)。卒于1892-11-16,享年52。
三之股与“假呉须”
维新时三之股有33窑;后转至伊萬里市场。嘉永间,萬次郎以伪颜料冒充优质呉须,两次售出3000斤,价3000两,宴费据称1500两。
设计传习所
1902年创立;1910迁中尾山;1923迁井石郷并与小学联动;1929为村立。现两年制,68名学徒。
现状与名匠
1919年前后年产27–28万元;今仅5–6万元,存窑三家。名匠:松尾嘉左工門、太田彌助、佐藤徳左工門、太田亀太郎。
中尾山记
上登1645–1714,下登1665–1714,大新窑1684–1716;峰值竈约150,年产21,966俵,土27,720荷,薪2,056,000本。广川原口碑指1615年开窑,遗迹属黑物期;白岳原料约二十年后始见。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
關於「本家」之爭
記錄稀少之地,多憑口述與揣測,久而久之易致本支倒置。
波佐見青瓷產率低
多見扭曲殘片,完器罕見;及他山硬質青瓷量產,波佐見難敵而止產。
原料與遷移
釉取川原川內,胎用高麗口或白岳之軟土;既知有田泉山硬質優越,工匠遷有田郷丸尾立窯,遂成黑牟田青瓷。
馬場伊兵衛
採天草石後青瓷成熟;曾為宮中制皿(維新前)。卒於1892-11-16,享年52。
三之股與「偽呉須」
維新時三之股有33窯;後轉伊萬里市場。嘉永間,萬次郎以偽顏料冒稱上品呉須,兩度售出3000斤,價3000兩,宴費據稱1500兩。
設計傳習所
1902創立;1910遷中尾山;1923遷井石郷與小學聯動;1929為村立。現兩年制,學徒68名。
現況與名匠
約1919年年產27–28萬元;今僅5–6萬元,存窯三家。名匠:松尾嘉左工門、太田彌助、佐藤德左工門、太田龜太郎。
中尾山記
上登1645–1714,下登1665–1714,大新窯1684–1716;峰值竈約150,年產21,966俵,土27,720荷,薪2,056,000本。廣川原傳1615年開窯,遺跡屬黑物期;白岳原料約二十年後始見。

