頓六さん~黒牟田の大鉢

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【原文】[Original text]

頓六さん
 黒牟田の一小丘には、頓六さんと稱して高麗神を祀ってあるが、此韓人は此の製陶者中第一の貢献者なりしと見へ、麓の小字まで頓六といふ地名を以て呼ばれてゐる。而して慶長年間(1596-1615年)巨闘と共に、平戸へ上陸せし韓人陶工にも頓六といへる者あるが、或は同名異人にはあらざるか単に此同名のみを以て此地方を平戸系と見るは早計であらう。 又此處の頓六とは亂れ橋に開窯せし清六の如く、彼等が我邦にての帰化名なりといふ説あるも、従来多くの韓人歸化名には、何右工門何兵衛、何太郎、何藏など用ひられ、頓六などの変痴奇な名前は滅多にない。それは矢張韓音の儘を漢字にて譯せしと見る外はない。

金山の大人
 此の小丘の頂きに登れば、屋根形の冠にて三尺位の石塔が祀られてある。之が即ち頓六さんにて、新らしき方は後年建直ほされしもの如く、なほ舊塔時代の石燈籠か片方残つてゐる。そして塔の表面に金山チヤンクンタイハンと刻んである。聞けば金山は韓土の地名にて、チャンクンタイハンとは大人を祀るといふ韓語の由である。兎も角此塔は當時韓人達が建立せしものらしく、金山の大人頓六が、此地韓人中の棟梁なりしに相違あるまい。

平松と裏山
 平松の古窯品には、例の飴釉や鶯色釉の目積皿や、鈍重な茶碗類にて高台際まで廣く無釉である。裏山の殘缺に至つては、平松と相似たる陶器の外、既に此處よりは染附磁器が焼かれてゐる。それは突底三寸の火入や、下吳洲の描茶碗などてあり、最多きは種々の青磁物である。
 此黒牟田山も有田の製法に傚らひ始め軟質の下等磁器を試みしものにて、今此處の東府屋谷及一地谷の原料地を見れば、如何に多量に採掘されしかを、想像するに余りある。

宮の元
 宮の元の古窯趾は、未だ畑堺に窯壁の残部が残つてゐる。殘缺には灰色釉や飴釉の茶碗及び突底の三つ目積皿などが、何れも高台無釉にて焼かれてゐる。又青茶釉厚緑の小皿や七官手靑地の無釉高台皿があり、或は金茶むら掛に牡丹浮出しの破片や、桃色釉の茶碗などがある。磁器には天龍寺青磁突立の火入や、褐色釉に金茶の光斑点を現はせる破片があり、又染附物には蟹繪の茶碗、菊畫の小皿等がある。其他鐵猫とも見ゆる下呉洲にて、粗き網畫を描きし茶碗なども焼かれてゐる。

山端
 山端の窯趾は、其邊一面の物原にて、或は三ヶ所の登にてはなかりしやと思ふ程である。殘缺には灰色や鶯色釉の小皿を、三つ目や四つ目にて重ね積せしものや茶碗があり、何れも無釉高台にて、中には縮緬皺を現はしたのがある。其外糸切高臺の小形茶碗があり、或は灰色釉にて六七すの丼や、又七八寸の大皿を焼いてゐるが、何れも底目にて重ね積なることは申すまでもない。
 此處にも軟質の磁器が多く焼かれてゐる。それは内底に呉洲にて草繪を描きし外錆の丸茶碗や又太白にて無釉高臺の同物があり。或は底筋の内に鳥や草花を描ける小菊形の小皿などあるが、無釉高臺の頗る小さき細工である。

多々良の元
 多々良の元右の窯趾は局古窯の隣にて、殘缺には飴釉及灰色釉に、天目流しの茶碗があり、何れも糸切底である、又灰色釉に金茶を流せし碗もある。此の隣りの小丘が左窯趾に殘缺は概して右窯と同一で、中に變りしものには褐色釉に、白の波刷毛目を施せし茶碗がある。而して此兩とも、又軟質磁器を焼いてゐるが、それは天龍寺青磁の茶碗が、主なるものである。

多々良の神祠
 次に多々良の元山上の窯といへるは、新窯の上なる山深きところにて、此處は染附磁器のみ焼いてゐる。此邊より遠く小溝の古窯方面まで、すべて多々良の元といへる地名でありそして、前記多々良の元左右窯の上を、小笹藪押分けてうち登れば、屋根冠りの古き石祠があり、之が多々良の神といふのである。

多々良考
 椎の峰には、上多々良、中多々良、下多々良に窯趾があり、多々良の神として高麗神を祀つてゐる。武内窯の内田にも多々良の辻、(一名大谷)といへるに大窯があり、又同村の陶器山に多々良の地名がある。又朝日村の繁昌の二窯や、三河内の長葉山を多々良窯と記されたのがある。要するに多々良とは陶器に關係ある名詞と思はるも、其語原は判明せぬ。或は又本窯を焚く松材のことを多々良木さいふことも考査すべき必要があらう。
 太宰管内志に、筑前粕屋郡多々羅郷八十町「香椎と箱崎間の海濱である」(香椎神領記)
六月十日あまりのほどに香椎の浦にまかりて云踊るには船を遙かなる干潟の崎へまはしてたゝらの濱にかちにて行て
いにしへはこゝに鑄物師の跡とめて今もふみ見るたゝらかたかな(細川藤孝道の記)
欽明天皇の御代に百濟國余章王第三の皇子琳聖太子日本に来朝し筑前多々良濱に住給ふ因て多々良の姓を賜はりぬ七世孫正恒と云ひし人始めて多々良姓を改めて大内と號し周防のに居たりとあるは遠へるに似たり周防の國多々良の事周防の内に委しく云ふべし云々(九州軍記)とあり。
 而して山口系譜に依れば、推古天皇の十九年三月二日百濟國より人質として來朝せし、聖明皇帝第三の皇子琳聖太子は、周防國大内に住居し、二代余福昌に至りて我邦に歸化し奥州の國司となる。三代余敬福同地に於いて始めて我邦の砂金を發掘し、之が南部大佛に使用されて、叡感に入りて多々羅の姓を賜ふ。四代か著名の畫家百済河成にて、二十八代目が大内義興とある。蓋し多々良の意味に就ては明かならざるも、砂金を見出せしよりとあるは、要するに治金の爲蹈鞴を用ひしよりにあらざるか。又車のくさびに用ふる金属性の物を、たゝら(館)さいふ名稱あれど嘗てはまらず、前記の和歌なども矢張鞴に因みて詠めるが如くである。

蹈鞴
 按ずるに有田の金山より波佐見方面へは古來金礦を探掘せし遺跡少からず、殊に慶安(1648-1652年)承應(1652-1655年)頃の磯山事業に依り、他郡より此地方へ移住せし者頗る多き由傳へられてゐる。此探金用の坩堝に使用せし鼓風器にて、足にて踏める一種の大吹革を蹈鞴といへるより基因せるか不明である。
 又諫早土師野尾にて、畑中より無数の鐡糞が露出するのは、此地も磯山ありし由にて、今の小學校の脇なる橋を、多々良橋と稱するのは則ち小字であるらしい。或は粘土板を夕ゝラと云ひ、又御庭焼などの陶窯に更に高火度を要する時は、鑪を使用せしにより、炎燒の神に祈願をこむる意を以て、多々良の神を祭るに至りしか、精しくは、識者の数を乞ふ外はない。

黒牟田の製品
 藩制時代の黒牟田磁器は、外尾山と同じく型打角鉢及小判形皿であり、又模様の如きも九枚繪とのみ制限されるしも、事實は有田皿山にも稀に見る優秀なる作品を出せし時代があつた。又前記の小判形や、六角形、八角形、四角形及長角形隅切等の角鉢或は額鉢には、吳洲染附にて山水や、花鳥、又は素描繪を書き、其透間には青磁を流したのがある。それは黒牟田青磁と稱せられ、當時此地の特色ある製種の一といはれてゐた。或は他山の追従を許さゞるものに鯛形鉢の製作物ありしが、就中大鉢の製作は断然黒牟田山獨特の技術と稱せられた。

黒牟田の大鉢
 此大鉢は最初梶原忠藏が、二尺五寸徑を創製せしに起り、次には三尺口に増大され、途には四尺口まで製作し得るに至つた。又鯛形鉢には二尺五六寸があり、小判形(楕圓形)鉢には二尺七八寸のがある。有田鉢は地型を用ひず全く轆轤造りのみなるを以て、手際頗る宜しきも二尺以上の大鉢は不可能であつた。故に其以上の大鉢は、皆此黒牟田に注文して製作し、それに赤を施し、自家の商標を記入して出したものである。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

頓六さん
 黒牟田の小丘には「頓六さん」と呼ぶ高麗神が祀られている。彼はこの地の製陶に最も貢献した韓人とされ、麓の小字も「頓六」と呼ばれる。慶長期に平戸へ上陸した陶工にも同名がいるが、同名異人の可能性が高く、これだけで平戸系と断ずるのは早計である。乱れ橋の清六のように帰化名とする説もあるが、「頓六」は奇名で、従来の帰化名の型から外れるため、朝鮮語音を漢字に写したと見るのが妥当だろう。

金山の大人
 丘頂には屋根冠を載せた三尺ほどの石塔があり、古塔の石灯籠も一基残る。塔面には「金山チヤンクンタイハン」と刻まれ、金山は朝鮮の地名、チャンクンタイハンは「大人を祀る」の意という。当時、韓人たちが建てた塔で、金山の大人・頓六が在地韓人の棟梁であったことを示す。

平松と裏山
 平松の古品は飴釉・鶯色釉の目積皿や重厚な茶碗で、高台際まで広く無釉。裏山ではこれに加え染付磁器が現れ、突底三寸の火入、下呉州の茶碗、各種の青磁が多い。黒牟田山でも有田の技法に倣い、軟質の下等磁器を試み、東府屋谷や一地谷の原料採掘の多さがうかがえる。

宮の元
 畑境に窯壁が残る。灰釉・飴釉の茶碗、突底三つ目積の皿はいずれも無釉高台。青茶釉厚緑の小皿、七官手の青地無釉高台皿、金茶むら掛に牡丹浮出の破片、桃色釉茶碗などがある。磁器では天龍寺青磁の火入、褐釉に金茶の光斑、染付では蟹絵の茶碗や菊文小皿、下呉州の粗い網画の茶碗など。

山端
 一帯が物原で、三段窯だったかと思われる。灰釉・鶯釉の小皿や茶碗を三つ目・四つ目の重ね積で焼き、無釉高台、縮緬じわも見える。糸切高台の小茶碗、灰釉の六七寸の丼、七八寸の大皿もある。軟質磁器も多く、外錆の丸茶碗に内底呉州の草絵、太白の無釉高台、底筋内に鳥花を描く小菊形小皿など、きわめて小さな無釉高台が特徴。

多々良の元
 元右は局古窯の隣で、飴釉・灰釉に天目流しの茶碗(糸切底)、灰釉に金茶を流す碗など。隣の元左もほぼ同様だが、褐釉に白の波刷毛目の茶碗が見られる。両者とも軟質磁器を焼き、主に天龍寺青磁の茶碗が中心。

多々良の神祠
 元山上の窯は新窯のさらに上の山深く、染付磁器のみを焼く。小溝古窯方面に至る広域が「多々良の元」と呼ばれ、左右窯の上を笹薮を分け登ると、屋根冠の古い石祠があり、これが「多々良の神」である。

多々良考
 椎の峰の上・中・下多々良に窯跡があり、高麗神を祀る。武内窯の内田にも「多々良の辻」(大谷)に大窯、同村の陶器山にも地名がある。朝日村繁昌の二窯や三河内の長葉山も多々良窯と記録。語源は未詳だが陶器と関係する名で、松材(多々良木)や踏鞴に由来する可能性がある。古記録には筑前多々羅浜や琳聖太子の伝承が見え、砂金採取と冶金・踏鞴の関係を示唆する。

蹈鞴
 有田の金山から波佐見にかけ金鉱の跡が多く、慶安・承応期の磯山事業で他郡から移住も多かった。探金用坩堝に風を送る足踏み大吹革を「蹈鞴」と言うことに由来かもしれない。諫早土師野尾で鉄滓が出るのも磯山の名残で、小学校脇の橋を多々良橋と呼ぶ。粘土板をタタラと称し、高火度には炉を用いたため、炎焼の神として多々良神を祀ったとも考えられる。

黒牟田の製品
 藩政期の黒牟田磁器は外尾山同様、型打ち角鉢や小判皿が中心で、模様は九枚絵に制限されたと言うが、実際には有田でも稀な優品が生まれた。小判・六角・八角・四角・長角隅切の角鉢・額鉢には、呉洲染付で山水・花鳥・素描を描き、透間に青磁を流す作もあり、黒牟田青磁と称された。鯛形鉢も名高く、とりわけ大鉢は黒牟田独自の技術とされた。

黒牟田の大鉢
 大鉢は梶原忠蔵が径二尺五寸を創製し、のち三尺、ついには四尺まで達した。鯛形鉢は二尺五六寸、小判鉢は二尺七八寸がある。有田は地型を使わず轆轤成形のみのため二尺超は不可で、それ以上は黒牟田に注文し、赤絵や自家商標を施して出荷した。


【英語訳】[English translation]

Tonroku
On a small hill in Kuromuta stands a “Koma-gami” shrine called Tonroku-san. He is regarded as the foremost Korean contributor to local ceramics; even the hamlet below bears the name Tonroku. A potter of the same name landed at Hirado in the Keichō era, but that is likely a different person; the area should not be branded “Hirado-line” by name alone. Rather than a naturalized Japanese name, “Tonroku” is plausibly Sino-characters rendering a Korean pronunciation.

“Kinzān no Ōbito”
At the summit is a roof-capped stone tower about three shaku tall, with one old stone lantern remaining. The face reads “Kinzan Chyangkun Taihan,” said to mean “enshrining the Great Person of Kinzan,” Kinzan being a Korean toponym. The monument appears to have been erected by Koreans, marking Tonroku—the Great Man of Kinzan—as their leader here.

Hiramatsu and Ura-yama
Hiramatsu sherds include stacked-fired plates in candy or warbler glazes and hefty bowls with broadly unglazed feet. At Ura-yama, besides similar earthenwares, underglaze-blue porcelains appear—three-sun firepots with pushed bases, painted bowls, and many celadons. Kuromuta followed Arita methods, testing soft, low-grade porcelains; heavy quarrying at Toubuyadani and Ichijidani shows the scale.

Miya-no-moto
Kiln-wall remains survive. Gray and candy-glaze bowls and three-point stacked plates are all unglazed-footed. There are small plates in bluish-brown thick green, seven-officials style blue-ground plates with unglazed feet, gold-brown drip shards with peony relief, and pink-glaze bowls. Porcelain includes Tenryū-ji celadon firepots and brown glaze with gold-brown speckles; underglaze pieces show crabs, chrysanthemums, and coarse net patterns.

Yamabata
A wide waster field—perhaps three climbing kilns. Gray/warbler-glaze small plates and bowls fired on three/four-point setters with unglazed feet, some with crepon wrinkles; thread-cut small bowls; gray-glaze bowls of 6–7 sun and dishes of 7–8 sun, all stack-fired. Many soft porcelains: rusted-exterior bowls with grass in gosu, white-bodied bowls with unglazed feet, and tiny-footted chrysanthemum-shaped plates with birds and flowers in the foot channel.

Tatara-no-moto
Motou (right) beside Kyoku old kiln yields candy/gray glazes with tenmoku runs and thread-cut bases; also gray with gold-brown runs. Motosa (left) is similar but includes brown glaze with white wave-brush. Both fired soft porcelains—chiefly Tenryū-ji celadon bowls.

Tatara deity
The upland kiln above Shin-gama, deep in the mountain, fired only underglaze-blue. The broad area toward Komizo is called Tatara-no-moto. Above the right/left kilns, a roofed old stone shrine stands—the Tatara deity.

On “Tatara”
Kiln sites named Kamitātara, Nakatātara, and Shimo­tātara enshrine Koma deities. “Tatara” also appears at Uchi­da (Takeuchi kiln), Tōkisan, Asahi-mura (Hanjō), and Mikanouchi (Nagayaba). The term likely relates to pottery, though etymology is unclear—perhaps pine fuel (tatara-gi) or the foot-bellows (tatara). Classical notes mention Chikuzen’s Tatarahama and Prince Rinshō legends, linking gold washing and metallurgy.

Tatara (foot-bellows)
Gold-works traces run from Arita’s mines toward Hasami; in Keian–Jōō times migrants moved here. The foot-operated leather bellows used for crucibles may underlie the name. At Hasunoo (Isahaya), iron slag surfaces in fields; a nearby bridge is “Tatara-bashi.” Clay slabs are also called tatara; higher firing for on-niwayaki used furnaces, prompting rites to the flame deity Tatara.

Kuromuta wares
Under the domain, Kuromuta made die-pressed angular bowls and oval dishes like Soto’o-yama’s, nominally limited to “nine-scene” patterns, yet produced rare Arita-level masterpieces. Angular/“frame” bowls—oval, hex, octa, square, long-chamfered—carry underglaze landscapes, birds-and-flowers, or sketches, with celadon flowed in the reserves—known as Kuromuta celadon. Sea-bream-shaped bowls were unique; above all, large bowls were a Kuromuta specialty.

Large bowls
Kajiwara Chūzō pioneered a 2-shaku-5-sun diameter, later reaching 3 shaku and even 4 shaku. Sea-bream bowls ran to 2 shaku 5–6 sun; oval bowls to 2 shaku 7–8 sun. Arita, throwing only without molds, could not exceed 2 shaku; larger bowls were commissioned from Kuromuta, then overpainted in red and sold under the client’s mark.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

頓六
 黑牟田小丘供奉称作“頓六さん”的高丽神,被视为当地制陶的最大功臣,麓下小字亦以“頓六”为名。慶長期平户亦有同名陶工,恐为同名异人,不能据此断为平户系。“頓六”多为朝鲜语音译而非归化名。

金山之大人
 丘顶立三尺许石塔,前尚存旧石灯。塔面刻“金山チヤンクンタイハン”,谓“祭金山之大人”。当为韩人所建,象征金山之大人“頓六”为当地韩人之领袖。

平松・裏山
 平松出土多飴釉、鶯釉目积皿与重手茶碗,皆广无釉高台。裏山除同类陶器外已见染付与多样青磁。黒牟田仿效有田试作软质下等磁,东府屋谷与一地谷采料极盛。

宮の元・山端
 宮の元遗留窑墙。灰釉/飴釉茶碗、三点叠烧皿皆无釉足;又见厚绿小皿、七官手青地皿、金茶泼釉牡丹阳刻、粉红釉碗、天龙寺青磁火入、褐釉金茶斑、蟹绘与菊绘等。山端为大片废器原,叠烧小皿与茶碗常见,亦多软质磁器与小足作。

多々良与神祠
 多々良之元右/元左出天目流与金茶流之碗,多线切底;主烧天龙寺青磁。元山上之窑仅烧染付。山路上有屋顶石祠,号“多々良神”。

多々良考
 椎之峰的上・中・下多々良皆祀高丽神。诸地名与记载显示“多々良”或系陶业、松材或踏鞴所由,且与筑前多々罗滨、琳圣太子及砂金冶炼传承相连。

蹈鞴
 有田—波佐见多见金矿遗迹,慶安・承応期移民甚众。足踏大风箱或为名源。土师野尾铁渣外露,“多々良橋”仍在。高火度用炉,遂祀多々良神以祈火。

黒牟田的制品
 藩政期以模压角鉢与小判皿为主,虽称限“九枚绘”,实出有田亦罕见之佳作。角鉢・額鉢多绘山水花鸟并以青磁充填留白,称“黒牟田青磁”。鯛形鉢独到,大鉢尤为黒牟田绝技。

黒牟田的大鉢
 梶原忠藏首创二尺五寸,后至三尺、乃至四尺。有田因不用地型,二尺以上不能,故大鉢皆委黒牟田制,施赤绘署自家商标以销。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

頓六
 黑牟田小丘奉祀「頓六さん」高麗神,被視為當地製陶最大功臣,麓下小字亦名「頓六」。慶長期平戶亦有同名陶工,疑為同名異人,不能據此定為平戶系。「頓六」更像朝鮮語音譯而非歸化名。

金山之大人
 丘頂三尺石塔,尚存舊石燈。塔面刻「金山チヤンクンタイハン」,意為「祀金山之大人」。當為韓人所建,顯示金山之大人「頓六」為在地韓人之棟梁。

平松・裏山
 平松多飴釉、鶯釉目積皿與重手茶碗,廣無釉高臺。裏山除類似陶器,亦見染付與多樣青磁。黑牟田效法有田試作軟質下等瓷,東府屋谷與一地谷採料甚盛。

宮之元・山端
 宮之元遺窯牆。灰/飴釉茶碗與三點疊燒皿皆無釉足;並見厚綠小皿、七官手青地、金茶泼釉牡丹陽刻、粉紅釉碗、天龍寺青磁火入、褐釉金茶斑、蟹繪與菊繪等。山端為大面積廢器原,疊燒小皿與茶碗常見,軟質瓷與小足作亦多。

多々良與神祠
 多々良之元右/元左出天目流與金茶流之碗,多線切底;主燒天龍寺青磁。元山上窯僅燒染付。山徑上有屋冠石祠,稱「多々良神」。

多々良考
 椎之峰上・中・下多々良皆祀高麗神。多處地名與記載顯示「多々良」或係陶業、松材或踏鞴所由,並與筑前多々羅濱、琳聖太子與砂金冶煉傳承相關。

蹈鞴
 有田至波佐見多金礦遺跡,慶安・承應期移民踵至。足踏大風箱或為名源。土師野尾見鐵滓,「多々良橋」猶存。高火度用爐,遂祀多々良神以禱火。

黑牟田製品
 藩政期以模壓角鉢與小判皿為主,雖稱限「九枚繪」,實產連有田亦罕見之佳作。角鉢・額鉢多繪山水花鳥並以青磁充填留白,稱「黑牟田青磁」。鯛形鉢獨步,其中特大鉢尤為黑牟田絕技。

黑牟田大鉢
 梶原忠藏首創二尺五寸,後至三尺、甚至四尺。有田不用地型,難越二尺,故大鉢多委黑牟田製,施赤繪署自家標出貨。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

在黑牟田的小丘上供有“頓六さん”,被视为当地韩人陶工的领袖;山脚小地名亦称“頓六”。丘顶石塔刻“金山チヤンクンタイハン”,意为“祭金山之大人”,应为韩人所建。平松与裏山出土从重手陶器到早期染付及多样青瓷;采石规模可见于东府屋谷和一地谷。宮の元与山端遗址显示叠烧、无釉高足、小足细工与软质瓷的并存。

“多々良”一带(元右/元左/元山上)见天目流、金茶流与天龙寺青瓷,山上石祠称“多々良神”。“多々良”可能关联陶业燃料、或与踏鞴(足踏风箱)及筑前多々罗滨的冶金传承有关。

藩政期黑牟田以模压角鉢和小判皿为主,却亦出Arita罕见的佳作:在角/額鉢上以染付绘山水花鸟,并以青瓷充填留白,称“黑牟田青瓷”。其大鉢工艺独步,直径由二尺五寸拓至三尺乃至四尺;因Arita不使用地型,二尺以上皆委黑牟田制并加自家标识。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

黑牟田小丘奉祀「頓六さん」,為在地韓人陶工之領袖;麓下小地名亦稱「頓六」。丘頂石塔刻「金山チヤンクンタイハン」,意為「祭金山之大人」,當為韓人所建。平松與裏山出土自重手陶器至早期染付與多樣青瓷;採石規模見於東府屋谷與一地谷。宮之元與山端遺址顯示疊燒、無釉高足、小足細工與軟質瓷並存。

「多々良」區域(元右/元左/元山上)見天目流、金茶流與天龍寺青瓷,山上石祠稱「多々良神」。其名或關聯陶業燃料,或與踏鞴(足踏風箱)及筑前多々羅濱的冶金傳承有涉。

藩政期黑牟田以模壓角鉢與小判皿為主,亦出連有田亦罕見之佳作:角/額鉢上以染付繪山水花鳥,留白處注入青瓷,稱「黑牟田青瓷」。大鉢技藝獨步,直徑由二尺五寸拓至三尺乃至四尺;因有田不用地型,二尺以上皆委黑牟田製並加自家標識。