【原文】[Original text]
梶原忠藏
當山の窯焼頭なる梶原忠臓は、宗藩の許可を得て、豊後國杵築(速見郡)の藩主松平家(三萬二千石)の、藩用品を製作せし優秀の陶家であつた。今其子孫に、當時の御用表札が三枚保存されてゐるが、長さ二尺二寸巾が五寸あり、表面には献上壺松平云々と大書され、裏面の下部に、賄奉行の名前を書並べてある。
杵築藩の御用札 上 御用札の表面 下 同札裏面の下部
獻上壺松平河内守用物 賄奉行
渡邊 八郎次
荷宮吉左工門
大山 四五六
獻上壺松平市正用物 賄奉行
渡邊 八郎次
大山 四五六
伊東 三郎助
富來 勝太郎
阿部 五六七
獻上壺松平志摩守用物 賄奉行
元田 甚右工門
木元 尉右工門
三隅 四郎助
按するに此獻上壺といへるは、杵築藩主より幕府へ進献の御用物らしく、或は特産の豊後梅の實を漬けし容器のまゝ、進献せし梅漬壺にてはあらざるか、武鑑には同家よりの時献上品に、十月砂糖漬梅といふのがある。そして其他諸侯へも贈進せしものであらう。又松平市正とあるは藩主親純ならんと思はるゝ。
黒牟田の窯焼
明治初年頃には、黒牟田の窯焼十二三戸があり、梶原八百吉、梶原判平等其重なるものであつた。又此地は有田外山の中心地として、磁業組合の出張所があり、古来より名陶家が少なくなかった。現代の窯焼は梶原謙一、梶原貞一、福島性平外四五戸にて、総戸數百戸斗りである。
丸尾の窯
丸尾の古窯趾は今段々畠に成ってゐる須の谷である。此處の窯頭と見る可き笹藪の中に、小さきサネ石にて、窯の神が建てられてある。此處の古窯品には、有田泉山石を原料として製作せし、染附の小皿があり、又丸紋繪の丸碗などあるが、既に本格的の染附磁器である。
丸尾青磁
就中主なる製品は、彼の天龍寺靑磁物にて、前述の如く三の股の工人に依り、開窯せし稱せらるゝも、發祥、廢窯ともに詳でない。殘缺には縁淵の八寸丼や、七寸の縁皿などがあり又浮出彫の破片がある。中には小氷裂出に、土垢が喰ひ込んで、七官手の如く成てゐるのも少なくない。而して此丸尾窯は、幾許もなく廢絶せしものと覺しく、そして此青磁釉法が、前記の黒牟田へ傳播せしていはれてゐる。而して今此處には一戸の陶家がある。
外尾山の廟祖谷
外尾山の古窯趾には、新窯と古窯なる廟祖谷とがあり、新窯趾は、今青木別邸への登り路成つてゐるところの、所謂外尾登である。此處は明治年間まで催合積せしものにて、更に贅するまでもない。廟祖谷も、既に後期の染附磁器のみにて、中には七寸丼の底に、木兎を畫きし物や、白鷺畫の六寸皿、又は見込に、狩野風の山水畫を描きし七寸の淺井等がある。
外尾青磁
此處には又、丸尾式の天龍寺青磁の丼が頗る多い、中に染附にて、紗綾形模様の墨彈き、接ぎ分けし青磁の優秀なる破片があつた。 此通りは今墓地に成ってゐるが、杉樹の下に高さ四尺余り、巾九寸余りの四角な半自然石が建てられてある。既に石面剥落して、刻字など読むべきものなきも、或は此石が韓人の祀りし廟祖かも知れない。
藩制時代の外尾山の製品は、角鉢や小判形皿の外、土佐向の縁鉢等であつた。それは尺二寸、尺三寸、尺五寸位までのものにて、中には上吳洲を顔料として、素描模様(千條)が巧妙に描かれたのがある。此等の製品種類より考察して、此處は元黒牟田の分窯らしく思はれる。舊窯焼には、大串覺左エ門、藤本覺助、青木嘉平次、青木太吉等十戸斗りがあつた。
青木工場
現在は青木甚一郎(兄弟商會)藤本助外二三戸にて戸数六十四五戸である。就中青木工場は、新式機械其の他一切の設備を完整し、此界隈の模範工場といはれてゐる。此外近年開窯せし窯焼には外尾田原に一戸、外尾村の平に三戸、桑古場に一万がある。
以上にて有田村の陶地を終りたるが、之より曲川村に轉じ、小溝方面より南川原に移りて記述すべく、まづ道順として丸尾へ引退へし、此處より二三町西へ下れば小溝原である。
ビク屋敷 小溝の丘の上に二反許りの山畑があり、其處が昔韓人陶家の住ひし、ビク屋敷さいはれてゐる。(原明窯の谷にもビク屋敷があり甞て作品の相似たるところ、或は此の分系であらう)又此丘の麓には五六疊程の古堂ありて、此ビクさんを祀ってある。堂奥の御本体らしきものを檢すれば、上部の細くなりし立体石にて、それに胸掛が幾重にも襲ねられてある外に、何等徴すべきものがない。
信斯く堂宇まで建設して、祀られ此韓人は、抑も如何なる素性の者なるか不明なるも、此處の製陶者として頗る勢力あり、且特に功勞大いなりし者に相違ない。而して韓人陶家にて比丘(僧侶)といふは當らず、又備君の上に李姓を置て李備君も可笑しなものであり、此調査には如何なる端緒を見出すべきかは大いなる困難であつた。
弓へん
然るに或る時大阪毎日の西部版紙上に往年の南川原に於ける製陶記事があり、其中に韓人弓氏來り云々、とあるを見るに及んで、始めてヒントを得たのである。それは此地方の古陶の銘に弓へんを用ひしものが少なくない。之より此窯銘の弓へんにつき考査せしところ、多くは乾隆陶の乾の字を篆化せしものにて、未だ問題の眞核に觸れ得なかった。
引くの訛り
其後考へ出せしは、ビクとは引くの音の訛りにて、この引の字を誰かゞ分解し、其立て棒を勝手に取除けて、之を弓氏としたのではあるまいかと考察した。尤も韓字の中に引の字はなきも、之に似寄りの文字を捜索するうちに、伊といふ字を見出して之なる哉と雀躍した、然し著者は、韓字を読むこと不可能ゆえ、鹿島の友人を訪れて数を受けたのである。
クークヰー
それに依ると、韓字は組織文字にの字を分解すれば、フはカキクケコの子音であり、一はアイウエオの母音のウであり、そしてーは同母音のイと発音されてある。斯くて此五を組立てしは、韓語の音にてクークヰー音讀するといふのであつた。而して此著書の始めにある日本陶史年譜の「雄略天皇の朝百済のよすゑつくりべ かうていー部の高貴なる者を連來り云々」の記事照して次の如き結論を得た。
高貴氏
即ち此高貴なる姓が、古代より韓國陶家中の一家系にて、其後裔なる高貴氏が、偶々此地へ來つて開窯せる際に、己が姓とての字を書き示せるを、我邦人が讀み違へて引の字となし、ヒクさんさんと呼びなせるを、さては日本にも同字ありてヒクと讀むものと合点し、彼がおうおう返事せしより通り名となり、歿後數百年のうちにピクさんと訛り、そして途には比丘屋敷などゝ稱するに至りしものであらう。
小溝左窯
ビク堂の裏なる堤に沿うて谷間に入り、ビク屋敷より勾配下りの山畑が、左窯の跡である。殘缺には飴釉隅切の角皿へ、四方隅へ二筋の立棒を鐵描せし目積物や、灰色釉の小丼、飴釉の茶碗、鶯釉むら掛の壺など、何れも高臺無釉である。又此處の磁器製作に用ひしは、泉山の原料らしく、染附物の破片が夥しく轉がつてゐる。中に蟹の如き岩の上に、芭蕉人家など頗る幼拙な模様が多い。或は薄青磁に呉洲畫を描きし緑反の小皿などありて、底は三つ目積に焼いてゐる。
小溝右窯
堤の右手の丘なる、稲荷祠の下が右窯にて、此處は左窯と掛持にて焼きしかも知れぬ。製品も殆んど大同小異である。中に天目釉に金茶ちらしの茶碗や、白化粧を掛けし深皿があり飴釉濤縁の小皿などは、原明窯の谷と同じ作風である。磁器も概して左窯と相似たるものにて、皿類には蛇の目積の、四五枚もくつついたのが澤山ある。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
梶原忠蔵
当山の窯焼頭・梶原忠蔵は宗藩の許可を得て、豊後国杵築(速見郡)の松平家(三万二千石)の藩用品を製作した優れた陶工であった。子孫の家には当時の「御用表札」が三枚残り、長さ二尺二寸・幅五寸。表に「献上壺 松平…」と大書し、裏下部に賄奉行の名が列記されている。これらの献上壺は、杵築藩主が幕府へ差し出す御用物、たとえば豊後名産の梅を漬けたまま献上する梅漬壺だったのではないか。『武鑑』にも同家の時献上品として「十月 砂糖漬梅」とある。他藩への贈答にも用いられたのだろう。「松平市正」は藩主・親純を指すと思われる。
黒牟田の窯焼
明治初年ごろ、黒牟田には窯焼が十二三戸あり、梶原八百吉・梶原判平らが中心だった。ここは有田外山の中核として磁業組合の出張所も置かれ、古くから名工が少なくない。現在の窯焼は梶原謙一・梶原貞一・福島性平ほか四、五戸で、総戸数は百戸ほど。
丸尾の窯
丸尾の古窯跡は、いま段々畑となっている須の谷。笹藪の中、サネ石の小さな社に窯神が祀られる。出土品は有田泉山石を使った本格的な染付磁器の小皿や、丸紋の丸碗など。
丸尾青磁
主製品は天龍寺青磁で、三の股の工人が開いたと伝わるが、創窯・廃窯の詳しい経緯は不明。縁付き八寸丼や七寸縁皿、浮彫片があり、小貫入に土垢が入り「七官手」風のものも多い。丸尾窯は程なく廃絶したらしく、この青磁釉法は黒牟田へ伝わったという。現地には現在一戸の陶家がある。
外尾山の廟祖谷
外尾山の古窯跡は、新窯と古窯「廟祖谷」があり、新窯跡は現在、青木別邸への登り道(外尾登)。明治期まで共同焼成が行われた。廟祖谷も後期の染付磁器が中心で、七寸丼の見込みに木菟、白鷺の六寸皿、狩野派風山水の七寸浅井などが見られる。
外尾青磁
ここにも丸尾式の天龍寺青磁の丼が多く、染付で紗綾形に墨弾きし、区切りを入れて青磁を差し分けた優品片がある。通りはいま墓地で、杉の下に四尺余の角ばった半自然石が立つ。刻字は剝落して不明だが、韓人が祀った廟祖碑かもしれない。藩政期の外尾山製品は角鉢・小判皿、土佐向けの縁鉢などで、尺二~尺五のサイズが多く、上呉州を顔料に千条風の素描を巧みに描いたものもある。品目構成から、ここは黒牟田の分窯と考えられる。旧窯焼は大串覺左エ門・藤本覺助・青木嘉平次・青木太吉ら十戸ほど。
青木工場
現在は青木甚一郎(兄弟商会)・藤本助ほか二、三戸で、全体の戸数は六十四、五戸。青木工場は新式機械を備え、当地の模範工場と評される。近年の新窯として外尾田原に一戸、外尾村の平に三戸、桑古場に一戸がある。
以上で有田村の陶地を終え、ここから曲川村へ移り、小溝を経て南川原を記す。道順は丸尾へ引き返し、西へ二、三町下ると小溝原。
ビク屋敷
小溝の丘上に二反ほどの山畑があり、昔の韓人陶家の居宅跡として「ビク屋敷」と呼ぶ(原明窯の谷にも同名があり、作品傾向の類似から分系か)。丘の麓には五、六畳ほどの古堂がありビクさんを祀る。本体らしき石は上部が細い立体石で、胸掛けが幾重にも掛けられているほか、決め手はない。堂を建て祀られるほどの韓人で、素性は不詳ながら当地の製陶で強い影響力と功績をもった人物に違いない。僧侶の「比丘」を当てるのは不適切で、「李備君」などの解もおかしいため、手がかりは乏しかった。
弓へん/「引く」の訛り
のちに『大阪毎日』西部版に南川原の製陶記事が載り、「韓人弓氏来り…」の記述が手がかりとなった。当地古陶の銘に弓偏が少なくないが、多くは乾隆陶の「乾」を篆化したもので核心に届かない。そこで「ビク」は「引く」の訛りで、誰かが「引」の縦画を除いて弓氏と見誤ったのでは、と考えた。韓字に「引」はないが似た字を探すうち「伊」を見出し、有識者に照会した。
クークヰー/高貴氏
説明によれば、韓字は構成音の組合せで、フ=カキクケコの子音、—=ウの母音、一=同母音イ、のように分解・音読でき、「クークヰー」に相当するという。『日本陶史年譜』の「雄略天皇の朝 百済のよすゑつくりべ かうていー部の高貴なる者を連来り…」に照らすと、「高貴」という姓が古代から陶工の一家系にあり、その後裔がこの地に来て開窯した際、自らの姓を書き示したのを日本側が「引」と読み違え、「ヒクさん」と呼ぶようになり、当人も応答したことで通り名化。のちに訛って「ビクさん」となり、「比丘屋敷」と呼ばれるに至った、と推測される。
小溝左窯
ビク堂裏の堤沿いに谷へ入ると、下り勾配の山畑が左窯跡。飴釉の隅切角皿に四隅へ二筋の立棒を鉄描した目積物、灰釉の小丼、飴釉の茶碗、鶯釉むら掛の壺など、いずれも無釉高台。磁器は泉山原料らしく、染付の破片が夥しく、岩上の蟹や芭蕉・人家など幼拙な図が多い。薄青磁に呉州画を描いた反りの小皿もあり、底は三つ目積。
小溝右窯
堤右手の丘、稲荷祠の下が右窯で、左窯と掛け持ちの可能性がある。製品はほぼ同様で、天目に金茶散らしの茶碗、白化粧の深皿、飴釉の涛縁小皿(原明窯の谷と同趣)など。磁器も左窯に似て、皿類は蛇の目積で四、五枚連なったものが多い。
【英語訳】[English translation]
Kajiwara Chūzō
Kajiwara Chūzō, head of firing at this mountain, was a distinguished potter licensed by the Saga domain to produce official wares for the Matsudaira house of Kitsuki in Bungo Province (Hayami District, 32,000 koku). His descendants still preserve three wooden placards for official commissions: each about 2 shaku 2 sun long and 5 sun wide, boldly inscribed on the front “Offering Jar for Matsudaira …,” with the stewards’ names listed across the lower back. These “offering jars” were likely vessels sent by the Kitsuki lord to the shogunate—perhaps jars of pickled Bungo plums presented as-is; the Bukan records list “October—plums in sugar” among their gifts. They were probably also sent to other lords. “Matsudaira Ichinojō” most likely refers to the lord Chikazane (Chikasumi/Chikanori, here as Chikasumi’s court title).
Kilns of Kuromuta
Around the early Meiji years Kuromuta had 12–13 kilns; Kajiwara Yaokichi and Kajiwara Hanpei were leading figures. As the outer Arita hub, it hosted a ceramic guild branch and long fostered master potters. Today firing houses include Kajiwara Ken’ichi, Kajiwara Teiichi, and Fukushima Seihei plus four or five more, with roughly 100 households overall.
Maruo Kiln
The old Maruo kiln site lies in Su-no-Tani, now terraced fields. In a bamboo thicket thought to be the kiln head, a small “sane-ishi” shrine stands to the kiln deity. Finds include genuine underglaze-blue porcelain—small plates and round bowls with circle crests—made from Izumiyama stone of Arita.
Maruo Celadon
Its main products were Tenryū-ji–type celadons, said to have been opened by craftsmen of San-no-Mata, though the founding and closure are unclear. Remains include eight-sun rimmed bowls, seven-sun rimmed plates, and relief fragments; many pieces show fine crackle with trapped earth, resembling “Shichikan-de.” The kiln seems to have ended quickly, and its celadon glaze technique is said to have spread to Kuromuta. One potting household remains today.
Sotoo-zan, Byōso-dani
Sotoo-zan preserves two sites: the “new kiln,” now the ascent to the Aoki villa (Sotoo-nobori), used for cooperative firings into the Meiji era, and Byōso-dani, an older site with late-phase underglaze-blue only—e.g., seven-sun bowls with owls in the center, six-sun plates with egrets, and seven-sun shallow bowls with Kano-school landscape interiors.
Sotoo Celadon
There are also many Tenryū-ji–style celadon bowls of the Maruo manner. A fine shard shows saaya (sayagata) pattern reserved by sumi-hajiki in underglaze blue, paired with partitioned celadon panels. The lane is now a cemetery; beneath cedars stands a squared natural stone (over 4 shaku tall, 9 sun wide). Its face has flaked away, but it may once have been a Korean ancestral monument. In the domain era, Sotoo products included angular and oval dishes and Tosa-bound rim bowls, up to 1 shaku 2–5 sun. Some used refined gosu to sketch “thousand-line” designs. From the product mix, Sotoo appears to have been a branch kiln of Kuromuta. Old firing houses numbered about ten: Ōgushi Kakuzāemon, Fujimoto Kakusuke, Aoki Kahaeji, Aoki Takichi, and others.
Aoki Works
At present Aoki Jin’ichirō (Kyōdai Shōkai) and Fujimoto Suke with two or three more operate; households total 64–65. The Aoki factory, fully equipped with modern machinery, is regarded as a model plant. Newer kilns include one at Sotoo-Tahara, three at Hira in Sotoo-mura, and one at Kuwa-koba.
Route to Komizo and Minamikawara
Concluding Arita-mura’s ceramic localities, we turn to Magarikawa-mura, proceeding from Komizo to Minamikawara. Return to Maruo; from there, go 2–3 chō west to Komizobaru.
The “Biku Residence”
On the hill over Komizo lies about two tan of upland field, called the “Biku Residence,” once home to Korean potters (another “Biku Residence” in Hara-ake’s valley suggests a branch line). At the foot stands a small old hall (five or six tatami), enshrining “Biku-san.” The principal object is a slender standing stone wrapped with layered chest cloths—no decisive inscription. To have a hall built implies a Korean of notable standing—unclear in origin but clearly influential and meritorious in local ceramics. Reading “Biku” as the Buddhist bhikṣu is off; “Li Bikun” is also unlikely. Evidence was scarce.
“Bow Radical,” then “Hiku”
A clue came from an Osaka Mainichi (Western ed.) article on Minamikawara, noting a “Korean of the Yumi (Bow) clan.” Many local marks use the bow radical, but most are seal-script “乾” of Qianlong-era ware, not the key. The author then considered “Biku” as a dialectal form of hiku (to pull), and someone may have “split” the character 引, dropping the vertical stroke and mistaking it as the Yumi surname. Korean script lacks 引; searching similar forms led to the graph 伊, and, on expert advice, to a phonetic analysis.
“Kū-kwi” and the Kōki clan
Korean script, decomposed into consonant-vowel symbols, yields a reading akin to “Kū-kwi.” Cross-checking the “Nihon Tōshi” chronology entry (in Emperor Yūryaku’s reign, “noble” artisans from Baekje were brought over) suggests that an ancient potting lineage named “Kōki” (Kōki-shi, ‘noble’) came to this place and opened a kiln. Locals misread the written surname as 引 (hiku), began calling him “Hiku-san,” he answered, and the name stuck; over centuries it slurred to “Biku-san,” hence “Biku Residence.”
Komizo Left Kiln
Up the valley along the embankment behind the Biku Hall, the sloping fields mark the Left Kiln. Finds include candy-glazed chamfered square plates with iron-drawn double posts at the four corners (stack-fired), gray-glaze small bowls, candy-glaze tea bowls, and warbler-glaze jars with uneven flow—all with unglazed feet. Porcelains, likely from Izumiyama raw stone, are abundant in shards of underglaze blue: naive motifs—crabs on rocks, banana plants and cottages. Small dishes show pale celadon with gosu sketches and greenish rims; bases fired on three spurs.
Komizo Right Kiln
The Right Kiln lies beneath the Inari shrine on the hill to the right of the embankment—perhaps fired alternately with the Left Kiln. Products are largely similar: tenmoku bowls sprinkled with gold-brown, deep plates with white slip, and small candy-glaze wave-rim plates in the Hara-ake manner. Porcelain parallels the Left Kiln; many plates are snake-eye set, fused in stacks of four or five.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
梶原忠藏
当山窑烧负责人梶原忠藏,经宗藩许可,为丰后国杵築(速见郡)松平家(三万二千石)制作藩用器。其后裔今存三块“御用表札”,长二尺二寸、宽五寸,正面大书“献上壶 松平……”,背面下方列出“賄奉行”姓名。所谓献上壶,很可能是杵築藩主进呈幕府之器,如装有丰后名产梅渍的壶;『武鉴』载有“十月 砂糖渍梅”。亦用于馈赠诸侯。“松平市正”当指藩主亲纯。
黑牟田的窑烧
明治初年黑牟田有窑烧十二三户,梶原八百吉、梶原判平等为中坚。此地亦为有田外山的中心,设有磁业组合出张所,名工辈出。今在烧者有梶原谦一、梶原贞一、福岛性平等四五户,总户约百。
丸尾窑与丸尾青瓷
丸尾古窑址在今成梯田的须之谷,竹丛中有以榫石立的小社祀窑神。出土为用泉山石制作的正统染付小皿、圆碗。主产品为天龙寺青瓷,相传由“三之股”的工人开窑,创废不详;有缘付八寸丼、七寸缘皿与浮雕片,细小贯入夹土垢如“七官手”。窑或不久即废,其青瓷釉法传至黑牟田。今尚有一户陶家。
外尾山·廟祖谷与青瓷
外尾山有新窑与古窑“廟祖谷”。新窑址为今青木别邸的上坡道,至明治仍合烧;廟祖谷出晚期染付为主,有见込画木菟之七寸丼、白鹭六寸皿、狩野派风山水七寸浅井。并多见丸尾式天龙寺青瓷丼,且有染付纱綾形墨弹分隔与青瓷相接之佳片。现为墓地,杉下立一方形半自然石,字剥落,或为韩人廟祖碑。藩政期制品有角鉢、小判皿、土佐向缘鉢(尺二~尺五),以上呉州为颜料之“千条”素描尤妙。品类所示,此处似为黑牟田分窑。旧窑烧约十户(大串覺左エ門、藤本覺助、青木嘉平次、青木太吉等)。
青木工场
今由青木甚一郎(兄弟商会)、藤本助等二三户经营,全体六十四五户。青木工场设备完善,被称为模范工厂。新开窑有外尾田原一户、外尾村之平三户、桑古场一户。
小溝·“ビク屋敷”
小溝丘上有约二反山畑,称“ビク屋敷”,为昔韩人陶家居处(原明窑谷亦有同名,或为其分支)。丘麓一古堂祀“ビクさん”,本体为上部细长立石,披多层胸挂,别无铭迹。其人当在当地制陶甚具影响与功劳,然非僧“比丘”,亦非“李备君”之类。
弓偏/“引”的讹读与高贵氏
报载“韩人弓氏来”,当地古陶款识多用弓偏,然多为乾隆“乾”之篆化。遂思“ビク”为“引く”之讹;或有人将“引”拆去竖画,误作弓氏。韩字无“引”,检得近似字“伊”,经识者解释其音构,近“クークヰー”,与文献所述百济“高贵”氏族相应。其后裔来此开窑,所书姓被误读为“引”,遂称“ヒクさん”,后讹作“ビクさん”,因而有“ビク屋敷”。
小溝左窑/右窑
“ビク堂”后沿堤入谷,下坡山畑为左窑址:飴釉隅切角皿(四隅铁描双立棒)之叠烧器、灰釉小丼、飴釉茶碗、鶯釉斑流壶等,皆无釉高台。瓷片多用泉山料,染付残片繁富,图如岩上蟹、芭蕉人家多稚拙;亦有淡青瓷绿口小皿,底三点支烧。右窑在堤右稻荷祠下,或与左窑轮烧;器类近似,有天目金茶散茶碗、白化妆深皿、飴釉涛缘小皿(似原明窑),瓷皿多蛇目支烧,常四五枚粘连。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
梶原忠藏
當山窯燒負責人梶原忠藏,獲宗藩許可,為豐後國杵築(速見郡)松平家(三萬二千石)製作藩用器。其後裔今存三塊「御用表札」,長二尺二寸、寬五寸,正面大書「獻上壺 松平……」,背下列「賄奉行」姓名。此「獻上壺」或為藩主進呈幕府之器,如盛豐後梅漬之壺;《武鑑》載「十月 砂糖漬梅」。亦用以饋贈諸侯。「松平市正」當指藩主親純。
黑牟田之窯燒
明治初年有窯燒十二三戶,梶原八百吉、梶原判平等為中堅。此地亦為有田外山中心,設磁業組合出張所,名工不乏。今在燒者梶原謙一、梶原貞一、福島性平等四五戶,總戶約百。
丸尾窯與青瓷
丸尾古窯址在成為梯田之須之谷。竹叢中以榫石立小社祀窯神。出土用泉山石之正統染付小皿、圓碗。主製品為天龍寺青瓷,相傳由「三之股」工人開窯,創廢不詳;有緣付八寸丼、七寸緣皿、浮雕片,多見細貫入夾土垢似「七官手」。疑不久即廢,其釉法傳至黑牟田。今尚存一戶陶家。
外尾山·廟祖谷與青瓷
外尾山有新窯與古窯「廟祖谷」。新窯址為今青木別邸上坡(外尾登),至明治仍合燒;廟祖谷以後期染付為主,有木菟見込七寸丼、白鷺六寸皿、狩野派山水七寸淺井。亦多丸尾式天龍寺青瓷丼,並見染付紗綾形墨彈分隔與青瓷接合之佳片。現為墓地,杉下立一方形半自然石,字剝落,或為韓人廟祖碑。藩政期製品有角鉢、小判皿、土佐向緣鉢(尺二~尺五),以上呉洲作顏料之「千條」素描尤妙。品類所示,此處疑為黑牟田分窯。舊窯燒約十戶(大串覺左エ門、藤本覺助、青木嘉平次、青木太吉等)。
青木工場
今由青木甚一郎(兄弟商會)、藤本助等二三戶經營,合計六十四五戶。青木工場設備完備,稱為模範工場。近年新窯有外尾田原一戶、外尾村之平三戶、桑古場一戶。
小溝·「ビク屋敷」
小溝丘上約二反之山畑稱「ビク屋敷」,為昔韓人陶家居處(原明窯谷亦同名,或其分支)。丘麓古堂祀「ビクさん」,本體為上部纖細之立石,披多層胸掛,餘無銘跡。其人當對當地製陶影響甚巨、功勞卓著。
弓偏/「引」之訛與高貴氏
報載「韓人弓氏來」,然多見弓偏為乾隆「乾」之篆化。遂思「ビク」為「引く」之訛,或有人拆去「引」之豎畫,誤作弓氏。韓字無「引」,檢得近似「伊」,經識者音析近「クークヰー」,與史載百濟「高貴」氏合。其後裔來此開窯,所書姓被誤讀為「引」,遂稱「ヒクさん」,後訛為「ビクさん」,故名「ビク屋敷」。
小溝左窯/右窯
「ビク堂」後沿堤入谷,下坡山畑為左窯址:飴釉隅切角皿(四隅鐵描雙立棒)之疊燒器、灰釉小丼、飴釉茶碗、鶯釉斑流壺等,皆無釉高臺。瓷片多用泉山料,染付殘片甚富,圖如岩上蟹、芭蕉人家多稚拙;亦有淡青瓷綠口小皿,底三點支燒。右窯在堤右稻荷祠下,或與左窯輪燒;器類近似,有天目金茶散茶碗、白化妝深皿、飴釉濤緣小皿(似原明窯),瓷皿多蛇目支燒,常四五枚相粘。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
梶原忠藏与官用陶
梶原忠藏获藩许可为丰后杵築松平家制官用器。后裔藏三块木质“御用牌”,正面书“献上壶 松平……”,背列执事姓名。献上壶或为装“砂糖渍梅”的贡品壶,也用于馈赠;“松平市正”当指藩主亲纯。
黑牟田与丸尾
明治初年黑牟田有12–13窑;今在烧约四五户、总户近百。丸尾遗址(须之谷)祀窑神,出土用泉山石烧成的正统染付。主为天龙寺青瓷;创废未详,釉法后传至黑牟田。
外尾山与青瓷
外尾山有“外尾登”“廟祖谷”,晚期染付繁多,并见丸尾式天龙寺青瓷。墓地下立一块剥落方石,或为韩人祖碑。域内亦产角鉢、小判皿、土佐向缘鉢,尺二~尺五,并有以精呉州作“千线”素描的佳作,疑为黑牟田分窑。
青木工场
现有青木甚一郎等经营的模范工场;近年新窑在外尾田原、平、桑古场。
“Biku住宅”与高贵氏说
小溝丘顶旧称“ビク屋敷”;古堂祀“ビクさん”。作者据报纸线索与款识“弓偏”,推测“ビク”为“引く”的讹读,进而与百济陶工“高贵”氏族对读:其后裔至此开窑,姓被误读为“引”,遂称“ヒクさん”→“ビクさん”。
小溝左右窑
左窑出飴釉隅切角皿(角部双线铁描)、灰釉小丼、飴釉茶碗、鶯釉壶等(皆无釉足),并有用泉山料的稚拙染付与淡青瓷小皿(三点支烧)。右窑在稻荷祠下,器类近似:天目撒金茶碗、白化妆深皿、飴釉涛缘小皿;瓷皿多“蛇目”支烧四五枚相粘。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
梶原忠藏與官用陶
梶原忠藏獲藩許為豐後杵築松平家製官用器。其後裔藏三塊木牌,正書「獻上壺 松平……」,背列執事名。獻上壺或為盛「砂糖漬梅」之貢壺,亦用於饋贈;「松平市正」當指藩主親純。
黑牟田與丸尾
明治初黑牟田有12–13窯;今在燒約四五戶、總戶近百。丸尾遺址(須之谷)祀窯神,出土泉山石燒成之正統染付。主為天龍寺青瓷;創廢未詳,釉法後傳至黑牟田。
外尾山與青瓷
外尾山有「外尾登」「廟祖谷」,晚期染付繁見,並有丸尾式天龍寺青瓷。墓地下立一方石,或為韓人祖碑。域內亦出角鉢、小判皿、土佐向緣鉢(尺二~尺五),並有以精呉州繪「千線」素描之作,疑為黑牟田分窯。
青木工場
今有青木甚一郎等經營之模範工場;近年新窯於外尾田原、平、桑古場。
「Biku住宅」與高貴氏說
小溝丘頂舊稱「ビク屋敷」;古堂祀「ビクさん」。據報載與款識之「弓偏」,推測「ビク」為「引く」之訛,並與百濟陶工「高貴」氏對讀:其後裔至此開窯,姓被誤讀為「引」,遂稱「ヒクさん」→「ビクさん」。
小溝左右窯
左窯出飴釉隅切角皿(角部雙線鐵描)、灰釉小丼、飴釉茶碗、鶯釉壺(皆無釉足),並見泉山料之稚拙染付與淡青瓷小皿(三點支燒)。右窯在稻荷祠下,器類相近:天目撒金茶碗、白化妝深皿、飴釉濤緣小皿;瓷皿多「蛇目」支燒四五枚相黏。

