【原文】[Original text]
濁し手製造
此外に往年柿右工門邸の前面に、南京焼と稱して美事なる濁し手を焼き居りし由なるも、今其邊は人家や畑地となりて、遺跡は全く湮滅に歸してゐる。察するに當時柿右工門の貿易盛んなりし頃、別に此處に築窯して製造せしと見られぬこともない。そして近年此濁し手焼の發掘に依って、猿川窯や水尾窯及筒江窯などに、優秀なる製作品ありしこさが知らるゝに至つた。
而して彼等は何故に、此方面に驥足を伸ばさざりしかの疑問がある。窃かに推測するに、當時の民度未だ高からず、故に陶家に要する其製作上の勞費に酬ゆる一般用の代償が、甚だ足らざりしものと見るの外なく、換言すれば需要が供給を支配せし結果であらう。
酒井田圓西
愛に杵島郡白石鄉なる、龍王村(元帥武藤信義の生地)の飯盛山に、酒井田圓西といへる者あり、此頃下松浦郡有田鄉なる南川原山に、韓人多く入込みて、面白き燒物を造る由聞傳へ、元和二年(1616年にて李参平が泉山石場發見の歳)彼は一家を率ゐて、此南川原に移住したのである。
元來此南川原地方は、往時より土器や瓦など製する者ありしが、邑主は又こゝに渡來せる幾多の韓人をして、諸所に開窯せしめしものゝ如く、其中黒牟田と小溝及小物成等が最古の韓人窯さいはれてゐる。而して圓西が此地に移りしは、一子喜三右エ門をして、十分に陶業を習得せしめんこの考に外ならなかつた。斯くて喜三右工門は熱心斯業を研鑽すること約十年、頗る工夫と経験を積むに至りしも、尚研究すべき幾多の問題が残されてあつた。
高原五七を聘す
茲に又筑前博多上辻堂町なる、萬松山承天寺(仁治三年聖一国師の開基なる臨済寺)の僧登叔は、先きに圓西が白石にありし頃より、文墨の交ありし間さて、その南川原移住の目的が何であるかを知り、彼は豫て懇意なる陶師高原五郎七を紹介したのである。
以幸便一啓上仕候打絕御無音罷過候處今程愈々御堅榮の由彌重相成奉存候偖先年入湯在候八月七日砌り御蔭緩々見物仕り御世話に相成御全家へも御社中へも可然樣御厚禮乍憚御鶴聲可被下候然れば高原五郎七と申者前懇意に有之候處別紙の成行にて昨年書狀差邃被申候當春より拙寺被參居近頃は肥後表被參只今にては無寄方滯人と相成一体奇用なる男にて樂焼偖又南京白手の陶物等細工被致候處見事なる事にて候故幸ひ貴家(四字不明)御子息陶物方被成候得ば此仁へ御相談被成候義可然と相考申候故肥後より被歸候上相進遣はし可申別紙の儀は昨年拙寺へ被指候大阪一亂文章の寫珍らしき事共にて後世の見物も可相成と存候故書役へ爲寫差上申候又前方よりも申遣候通り御滯留の御積りにて御遊來御出被成候へば久方振風事相樂み可申候故何卒寒冷不相成内御出浮の程偏に待入申候旁々御掛合迄如斯御座候 早々頓首
承天寺愚老
酒井田圓西雅兄
北頃五郎七は唐津領椎の峯にありしが、寛永二年(1625年)一度熊本に旅行し、翌三年(1626年)南川原なる酒井田邸に来たのである。
圓西父子は大いに喜び、五郎七を師として優遇せしは勿論であつた。是より五郎七は種々の卓越せる技を示せしは申すまでもない。然るに此時李参平が、有田山にての磁器製作繁昌し、他山の韓人は羨望の的として此研究に耽りし折、此の天神の森の韓人又之に倣うて磁器製作に成功せしかば、酒井田父子が要望もこゝにありしことは察するに難くない。
五郎七は未だ若年の折、秀吉より楽樂邸の陶師に召され程の者、爾来多年の経験を積み來し老功者は申しながら、之まで全く陶器の製作にのみ没頭せし彼が、今卒然白磁の製作を望まれて頗る當惑せしに相違ない。
承天寺の手紙
彼の承天寺の登叔が五郎七を推選せしてふ手紙の文句中に
一体奇用なる男にて樂焼偖又南京寫白手の陶物等細工被致候處見事なる事にて候故幸ひ貴家口□□□(四字不明)御子息陶物方被成候得ば此仁へ御相談被成候義可然相考候云々
とあり而して五郎七が、南京白磁を焼きし徴證は何處にてもなく、又共製作に資す可き原料は、當時有田の外何れにも発見されてゐない。(向後履歷を作成する者あらんも)故に此手紙の消息は甚だ怪しきものとなるも、察するに斯道に素人なる登叔が、五郎七の技量を信するの余り、斯く思い違ひせしものと見るの外ない。
五良七の白磁成功
然し天性非凡の五郎七は、目前に製作せる、天神の森の技法につき、何かの構想なくして止む可きや、彼は養なひ来れる多年の蘊蓄を傾けて、喜三右工門を指導する傍ら研
究に全力を盡し、あまたゝび失敗を重ねしも、途に白磁の製作に成功したのである。(其頃三河内の三之亟夫婦が來りし時である)
此製磁成功に就いては、五郎七が韓人より習得せしといふ説あるも、當時韓人同士でさへ各特技を秘め合ひし時代に於いて、何とて之を洩らす可きや、又一面陶師として乗り込みし五郎七ほどの者が、彼等に教を乞ふ可く沽券を下げしても思はれず、無論多くのヒントは得たるべきも、まさしく、五郎七の研鑽に成りしものと見るべきであらう。
南川原磁器の原料
此原料を何處より採取せしか酒井田家の記録に因れば、岩谷川内辻の土(今の久富春亭の所有)、岩谷川内谷の土(山ロ代次郎所有にて前のと同質)、舞々谷の土(中保屋谷にて瀬戸口源吉所有)、神六の土(杵島郡西川登村にて後庭木、小田志、弓野等に用ひしもの)、今山の土(佐賀郡川上村横馬場にて後今山焼の原料)等が記されてあり、而して後の二ヶ所の外は有田山中にて、皆泉山石場の系統である。
岩谷川内の石
此中最初何れの土と土さを調節せしかは不明なるも、既に有田にて泉山の原料を以て、製作されつゝある磁器を模せんとの企圖なれば、先づ何人も泉山系統の石が、此近在に産出するなきや物色するのが、當然であらねばならぬ。此岩谷川内の原料なども、當時より其表皮の一部が外面に露出しゐたりしものであらう。要するに南川原の初期の製磁も、亦泉山と同系と見るべく、蓋し最初此等の原料を試したるは、五郎七なりや又は天神の森の韓人なりしや詳でない。
此時喜三右工門齡三十一才、大いに彼がテクニックの稀才を伸ばすの時であつた。是より五郎七と共に、益々磁器の意匠を工夫し、或は支那式の青花を書き、又は青磁や白磁に彫刻を施す等、全く舶来の支那磁器を日本化すべく研究した。然るに五郎七は此處に居ること四ヶ年にして、瓢然法つて藤津郡の内野山に往つたのである。
喜三右衛門の乳白磁
之より喜三右工門は、従来の白磁製作に新工夫を加へて一種の濁し手焼(乳白手ともいふ)を創作した。元來古伊萬里と稱せらるゝ有田磁器の特色は、施釉甚だ厚くして、色相稍青味を含めるも、濁し手(此地方にて洗米の研き汁を濁しさいふ)は之に反し、釉薄くして乳白色を呈せる釉相にて、製法は最上の磁石を選みて一度掛の施釉にて純白に焼き上げしものである。
そして此原料には、前記岩谷川内の石を用ひしさいはれてゐる。而して此石は製作狀態が、天草石に似たる所ありて、頗る純白なるも、選せれば黒味を帯びるあるを以て、普通原料には不適とされてゐるのである。
泉山の原石使用許可
其後此一帯の各山は、有田泉山の原料を取ることを赦されてより、南川原各窯も染附磁器を製するに至り、喜三右工門の技も長足の進歩を成すに至った。然るに當時長崎を経て、支那より盛んに輸入さる萬曆赤の上繪附法は、如何にしても會得することが出来なかったのである。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
濁し手の制作
かつて柿右工門邸の前には「南京焼」と呼ばれる窯があり、見事な濁し手を焼いていたという。いま周辺は家や畑となり、遺跡は完全に失われた。当時、柿右工門が交易で繁盛していた頃、別にこの地に窯を築いて生産していた可能性が高い。近年の出土で、猿川窯・水尾窯・筒江窯などにも優れた濁し手があったことが分かった。
では、なぜこの系統が広く発展しなかったのか。推測するに、当時は一般の購買力が低く、制作に見合う対価が払われにくかった。要するに需要が供給を抑えた結果であろう。
酒井田圓西
杵島郡白石郷・龍王村(元帥武藤信義の出生地)の飯盛山に住んだ酒井田圓西は、下松浦郡有田郷の南川原山に韓人が多く入り、見事な焼物を作ると聞き、元和二年(1616年、李参平が泉山を発見した年)一家で南川原に移住した。南川原では古くから土器や瓦が作られ、領主は来住した韓人に各地で窯を開かせた。黒牟田・小溝・小物成が最古の韓人窯とされる。圓西の移住は、子の喜三右工門に十分に陶技を修めさせるためで、彼は約十年研鑽し、工夫と経験を重ねたが、なお課題は多かった。
高原五郎七を招く
筑前博多・上辻堂町の萬松山承天寺(仁治三年、聖一国師開基)の僧・登叔は、白石時代から圓西と往来があり、南川原移住の意図を知ると、懇意の陶師・高原五郎七を紹介した。書状には、五郎七が「才気横溢し、楽焼や南京の白手写しなど見事」とあり、喜三右工門の指導に適う人物として推した。五郎七は当時唐津領・椎の峯にいたが、寛永二年(1625年)に熊本へ赴いた後、翌三年(1626年)南川原の酒井田邸を訪ねた。圓西父子は大いに喜び、師として厚遇した。
折しも李参平は有田山で磁器を隆盛させ、各地の韓人も研究に没頭していた。天神の森の韓人もこれに倣って磁器化に成功し、酒井田父子の望むところでもあった。五郎七は若年のころ秀吉に召され「楽邸」の陶師となるほどの腕で、多年の経験を積んだ名匠であったが、主に陶器を手がけてきたため、急に白磁を求められて当初は戸惑ったに違いない。
承天寺の手紙と「南京白磁」
登叔の手紙には「南京写・白手の陶物も見事」とあるが、五郎七が南京白磁を実際に焼いた確証はない。当時、白磁の原料は有田以外に見当たらない。登叔が素人ゆえ、五郎七の力量を信じるあまり誤解したのだろう。
五郎七の白磁成功
とはいえ、非凡な五郎七は、目の前にある天神の森の技法を踏まえ、蓄えた知見を注いで喜三右工門を指導しつつ研究を進め、幾度も失敗を重ねた末に白磁の焼成に成功した(当時、三河内の三之亟夫婦が来訪していた頃)。この成功を「韓人から学んだ」とする説もあるが、互いに秘伝を守った時代に容易に漏らすとは考え難く、示唆は得たとしても、核心は五郎七の研鑽によるとみるべきである。
南川原磁器の原料
酒井田家の記録によれば、岩谷川内辻の土(久富春亭所持)、岩谷川内谷の土(山口代次郎所持、前者同質)、舞々谷の土(中保屋谷・瀬戸口源吉所持)、神六の土(杵島郡西川登村で後に庭木・小田志・弓野などに使用)、今山の土(佐賀郡川上村横馬場で後の今山焼の原料)などが挙げられ、後二か所以外は有田山中で泉山系である。
最初にどの配合を試したかは不明だが、有田の泉山原料で磁器が作られていた以上、近在で泉山系の石を探すのは自然で、岩谷川内の石も当時から露頭が覗いていたのだろう。南川原初期の製磁も泉山系とみられ、誰が最初に試したかは、五郎七か天神の森の韓人かは定かでない。
意匠の発展と五郎七の転出
この時、喜三右工門は三十一歳。才能を伸ばす好機で、五郎七とともに意匠を工夫し、支那式の青花、青磁・白磁への彫刻など、舶来様式の日本化を図った。やがて五郎七は四年ほど滞在ののち、ふいに藤津郡内野山へ移った。
喜三右工門の乳白磁(濁し手)
その後、喜三右工門は白磁に新工夫を加え、濁し手(乳白手)を創出した。古伊万里の特色は厚い釉でやや青みを帯びるが、濁し手は薄釉で乳白色を呈する。最上の磁石を選び、一度掛けで純白に焼き上げる方法である。原料には岩谷川内の石を用いたとされる。この石は天草石に似て非常に白いが、選別次第で黒みを帯びるため、一般原料としては不向きとされた。
泉山原石の使用許可
のちに一帯の山々で泉山原料の使用が許可され、南川原の各窯も染付磁器を作るようになり、喜三右工門の技も飛躍した。ただし、長崎経由で中国から盛んに入った「萬暦赤」の上絵付法だけは、どうしても会得できなかった。
【英語訳】[English translation]
Nigoshide (milky-white) production
In front of the Kakiemon residence there once stood a kiln known as “Nankin-yaki,” famed for superb nigoshide. The area is now houses and fields; the traces are gone. It is plausible that, during Kakiemon’s peak trading years, a separate kiln was built there for this line. Recent finds show excellent nigoshide pieces also came from Sarukawa, Mizuo, and Tsutsue kilns.
Why did this lineage not spread further? Likely because general purchasing power was low; ordinary prices did not cover the labor and craft costs. In short, demand constrained supply.
Sakaida Ensei
Sakaida Ensei of Iimoriyama, Ryūō-mura (birthplace of Marshal Mutō Nobuyoshi) in Shiroishi-gō, Kishima-gun, heard that many Korean potters had entered Mt. Minami-Kawara in Arita-gō (Shimomatsuura-gun) and were making notable wares. In Genna 2 (1616, the year Yi Sam-pyeong found Izumiyama), he moved there with his family. The district had long produced earthenware and tiles; the lord settled Korean arrivals and had them open kilns. Kuromuta, Komizo, and Kobonari are considered the oldest Korean kilns. Ensei moved chiefly to have his son Kizaemon master the craft. After roughly ten years of earnest study, Kizaemon had gained much invention and experience, though many problems remained.
Inviting Takahara Goroshichi
The monk Tōshuku of Banshōzan Jōten-ji in Hakata (a Rinzai temple founded by Shōichi Kokushi in Ninji 3) had corresponded with Ensei since his Shiroishi days. Learning Ensei’s purpose, he recommended his acquaintance, the potter Takahara Goroshichi. In his letter he praises Goroshichi as ingenious, adept at raku and “Nankin white” copies, and suitable to advise Kizaemon. Goroshichi, then at Shii-no-Mine in the Karatsu domain, traveled to Kumamoto in Kan’ei 2 (1625) and in 1626 came to the Sakaida residence at Minami-Kawara. Ensei and his son welcomed him as master.
Meanwhile Yi Sam-pyeong’s porcelain was flourishing at Arita; Korean potters elsewhere strove to follow. The Koreans at Tenjin-no-Mori also succeeded in porcelain, just as the Sakaidas hoped. Though renowned—summoned in youth by Hideyoshi to the “Raku residence”—Goroshichi had worked mainly in earthenware and at first must have been puzzled by the sudden demand for pure white porcelain.
The Jōten-ji letter and “Nankin white”
Tōshuku’s letter claims Goroshichi made “Nankin white,” yet no concrete proof of his firing white porcelain survives, nor were suitable raw stones then known outside Arita. The monk, a layman in the art, likely overstated through confidence in Goroshichi.
Goroshichi’s success in white porcelain
Even so, gifted Goroshichi drew on Tenjin-no-Mori techniques before him, poured in his accumulated learning, coached Kizaemon, and—after many failures—achieved white-porcelain firing (around the visit of the Mikawachi couple Sannojō and wife). Some say the success came from Korean instruction, but since artisans kept secrets even among themselves, and given Goroshichi’s standing, it is better read as his own research, albeit with hints gleaned.
Raw materials for Minami-Kawara porcelain
Sakaida family notes list clays/stones: Iwaya-gawachi Tsuji (now owned by Hisatomi Shuntei), Iwaya-gawachi Tani (Yamaguchi Daijirō; same quality), Maimaidani (Nakaboya-dani; Setoguchi Genkichi), Kamiroku (Nishikawatō-mura, later used at Niwaki, Odashi, Yumino), and Imayama (Kawakami-mura Yokobaba; later for Imayama-yaki). Except the last two, all are in the Arita mountains and of the Izumiyama system.
Which mix came first is unclear. Since Arita porcelain used Izumiyama stone, it was natural to search for Izumiyama-type outcrops nearby; Iwaya-gawachi likely showed surface exposures even then. Early Minami-Kawara porcelain should thus be Izumiyama-system; whether Goroshichi or the Tenjin-no-Mori Koreans first tested it is unknown.
Design development and Goroshichi’s move
At 31, Kizaemon was at his prime. With Goroshichi he refined designs—Chinese-style blue-and-white, carving on celadon and white—seeking to naturalize imported Chinese idioms. After some four years, Goroshichi suddenly moved on to Uchino-yama in Fujitsu-gun.
Kizaemon’s milky white porcelain (nigoshide)
Kizaemon then devised nigoshide (also called nyūhakude), a milky, thin-glaze white. Whereas “Old Imari” is characterized by thick glaze with a bluish cast, nigoshide is thinly glazed, milky white—using select, finest stone and a single dip to fire to pure white. The stone was said to be from Iwaya-gawachi. It resembles Amakusa in working behavior and is very white, yet selection can introduce a dark hue, making it unsuitable as a general-purpose body.
Authorization to use Izumiyama raw stone
Later, mountains across the area were permitted to quarry Izumiyama; Minami-Kawara kilns began producing underglaze-blue porcelain, and Kizaemon’s skill advanced rapidly. One thing resisted acquisition: the overglaze “Wanli red” technique, imported via Nagasaki from China, which they never managed to master.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
濁手制作
昔在柿右工门宅前有一座称作“南京烧”的窑,专烧精美的濁手。今已成民居与田畔,遗迹尽失。推测在柿右工门贸易鼎盛时,曾另筑此窑专造濁手。近年发掘表明,猿川窑、水尾窑、筒江窑等亦出过上乘濁手。
其系为何未大展?大概因当时民众购买力薄弱,无法支付制作所需的劳费与技价;换言之,需求抑制了供给。
酒井田圓西
杵岛郡白石乡龙王村(元帅武藤信义出生地)饭盛山的酒井田圓西,闻下松浦郡有田乡南川原山多有韩人工匠入驻,制作佳器,遂于元和二年(1616年,李参平发现泉山石之年)携家迁至南川原。当地自古制土器与瓦,领主亦令来住韩人开窑,其间以黑牟田、小沟、小物成为最早。圓西迁来旨在使子喜三右工门精修陶业。其后十余年潜心研习,虽积累颇多,尚存难题。
延聘高原五郎七
筑前博多上辻堂町万松山承天寺(仁治三年圣一国师开基)僧登叔,与圓西自白石时即有书信往还,知其移住之意,遂荐所熟之陶师高原五郎七。书中称其才思敏捷,善乐烧与“南京白手写”,宜为喜三右工门之师。五郎七彼时在唐津领椎之峯,寛永二年(1625)赴熊本,翌年(1626)至南川原酒井田邸。圓西父子延为上宾。
其时李参平于有田山制瓷大盛,各地韩人工竞相钻研。天神之森之韩人亦告成功,正合酒井田父子所望。五郎七少时曾被秀吉召为“乐邸”陶师,然以陶器为主,骤求纯白瓷,初亦困惑。
承天寺书信与“南京白瓷”
登叔信称五郎七能作“南京白手”,然无确证其曾烧成白瓷,且彼时有田外无合适原料。盖登叔非业内,过信其艺而误述耳。
白瓷之成
然五郎七资质超群,吸收眼前天神之森之法,倾所蓄学识,一面指导喜三右工门,一面反复试验,历经失败,终成白瓷(约在三河内三之亟夫妇来访之际)。有谓得自韩人之传授,然当时互守秘技,易不外泄;纵得启发,关键仍系五郎七之研镕。
南川原瓷料
酒井田家记载原料有:岩谷川内辻之土(久富春亭所持)、岩谷川内谷之土(山口代次郎,同质)、舞舞谷之土(中保屋谷,瀬户口源吉所持)、神六之土(杵岛郡西川登村,后用于庭木、小田志、弓野等)、今山之土(佐贺郡川上村横马场,后为今山烧原料)。除后二处,皆在有田山中,属泉山系。
先行配比未详。既知有田以泉山石制瓷,则就近搜寻同系露头属当然;岩谷川内或当时已见露头。故南川原初期制瓷应属泉山系;至于首先试者为五郎七抑或天神之森韩人,未可定。
意匠与转出
是时喜三右工门三十一岁,才华正盛。与五郎七共推意匠:仿华青花,于青瓷白瓷施雕,力图将舶来风转为和式。四年后五郎七忽往藤津郡内野山。
喜三右工门的乳白瓷(濁手)
其后喜三右工门在白瓷上加新法,创“濁手”(亦称乳白手)。古伊万里多厚釉带青,濁手反以薄釉呈乳白,选极上磁石,一次施釉即烧成纯白。所用原石据称出自岩谷川内。其性似天草石,洁白而精选时或带黑,故不宜作通用胎料。
泉山原石之许可
其后周围诸山获准采泉山料,南川原诸窑改作染付瓷,喜三右工门亦大进。但经长崎输入之“万历赤”上绘法,终未能掌握。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
濁手製作
昔日柿右工門宅前有稱“南京燒”之窯,燒製精妙濁手。今已為民居田畝,遺跡全失。推測在其貿易鼎盛時另築此窯專造濁手。近年發掘證明,猿川窯、水尾窯、筒江窯亦出上乘濁手。
其系未廣布者,蓋因當時民力薄弱,難以酬其工直與技價;換言之,需求抑制供給。
酒井田圓西
杵島郡白石鄉龍王村(元帥武藤信義生地)飯盛山之酒井田圓西,聞下松浦郡有田鄉南川原山韓人工雲集作器,遂於元和二年(1616,李參平發見泉山之歲)攜家移住。其地素有土器瓦工,領主亦使來住韓人開窯,黑牟田、小溝、小物成為最早。圓西之志,在使子喜三右工門精習陶業。十餘年研鑽,積功甚多,猶有課題未解。
延聘高原五郎七
筑前博多上辻堂町萬松山承天寺(仁治三年聖一國師開基)僧登叔,與圓西自白石時即相與書問,知其意而薦所契陶師高原五郎七。書稱其才敏,善樂燒與“南京白手寫”,可為喜三右工門之師。五郎七時在唐津領椎之峯,寛永二年(1625)赴熊本,明年(1626)至南川原酒井田第。圓西父子厚禮延師。
會李參平於有田山制瓷大盛,諸方韓人工並趨。天神之森亦告成功,正中酒井田父子之求。五郎七少時曾召為“樂邸”陶師,主事陶器,乍求素白瓷,初亦困惑。
承天寺書與“南京白瓷”
登叔書稱能作“南京白手”,然無確據,且時無有田外之適料。疑其非內行,過信其藝而致誤。
白瓷之成
然五郎七資稟不凡,取天神之森之法,傾所學以導喜三右工門,反覆試煉,屢敗終成白瓷(約三河內三之亟伉儷來訪時)。或謂受韓人傳授,然彼時秘法互守,未易外洩;得啟示可,然要在其自得。
南川原瓷料
酒井田家記載:岩谷川內辻之土(久富春亭)、岩谷川內谷之土(山口代次郎,同質)、舞舞谷之土(中保屋谷・瀨戶口源吉)、神六之土(杵島郡西川登村,後用於庭木、小田志、弓野)、今山之土(佐賀郡川上村橫馬場,後為今山燒)。除末二處,皆有田山中,屬泉山系。
先試配比未詳。既知有田以泉山石制瓷,則就近求同系露頭為當;岩谷川內或早見露頭。是以南川原初期亦屬泉山系;首試者為五郎七抑天神之森韓人,未可定。
意匠與轉出
時喜三右工門三十一,才華正盛。與五郎七共煉意匠:仿華青花,雕飾青瓷白瓷,冀使舶來之式日本化。四載後,五郎七忽適藤津郡內野山。
喜三右工門之乳白瓷(濁手)
其後於白瓷加新法,創濁手(亦稱乳白手)。古伊萬里厚釉帶青;濁手反以薄釉呈乳白,擇上乘磁石,一掛即燒純白。原石據稱出岩谷川內。其性類天草石,甚白,然精擇或帶黑,不宜通用。
泉山原石之許
後周邊諸山許采泉山料,南川原諸窯遂作染付瓷,喜三右工門亦大進。惟自長崎入華之“萬曆赤”上繪之法,終不可得。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
Nigoshide体系
昔日柿右工门宅前之“南京烧”窑专烧濁手,今迹已灭。推定其为贸易鼎盛期的专窑。发掘亦见猿川、水尾、筒江等窑出色濁手。其未扩展,因民众购买力不足,成本难以回收。
酒井田圓西与迁移
圓西于元和二年(1616)携家至南川原,欲令子喜三右工门成器。当地早有韩人开窑(黑牟田、小沟、小物成最早)。
高原五郎七
承天寺僧登叔荐之为师,称其能工巧匠。1626年五郎七至酒井田邸。时李参平之瓷繁盛,天神之森亦成瓷。五郎七本以陶为长,初对白瓷为难。登叔信中“南京白手”之说无实证,或夸大。
白瓷成功
五郎七借鉴天神之森法,辅导喜三右工门,多番试验终得白瓷;所谓“得自韩人”应仅为启示。
原料系统
记载所用多为泉山系(岩谷川内辻、同谷、舞舞谷等),另有神六、今山。早期南川原制瓷应属泉山系统,首试者未详。
意匠与演进
喜三右工门三十一岁,与五郎七共推青花、白瓷青瓷雕饰,使华样日本化。四年后五郎七迁藤津郡内野山。
喜三右工门之濁手
其后改良白瓷,创乳白色薄釉之濁手;精选石材一挂烧成。岩谷川内石白而似天草,但拣选不当会发黑,不宜通用。
泉山许可与万历赤
获准采泉山后,各窑转作染付,技艺大进;惟“万历赤”上绘法终未掌握。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
Nigoshide體系
昔於柿右工門宅前有“南京燒”窯專燒濁手,今迹已滅。推為貿易盛期之專窯。發掘亦見猿川、水尾、筒江等窯之佳濁手。未能拓展,蓋因購買力不足,成本難回收。
酒井田圓西與遷居
圓西元和二年(1616)攜家至南川原,欲令子喜三右工門成藝。地先有韓人開窯(黑牟田、小溝、小物成為早)。
高原五郎七
承天寺僧登叔薦為師,稱其手藝精絕。1626年至酒井田第。時李參平瓷業繁盛,天神之森亦成瓷。五郎七素長陶器,初對白瓷為難。信中“南京白手”之說無證,多半誇飾。
白瓷成功
五郎七取法天神之森,輔導喜三右工門,屢試終得白瓷;“韓人傳授”當僅啟發。
原料系統
所用多屬泉山系(岩谷川內辻、同谷、舞舞谷等),另有神六、今山。南川原初期制瓷應為泉山系,首試者未詳。
意匠與演進
喜三右工門年三十一,與五郎七合力推進青花與青白瓷雕飾,使華樣日本化。四年後五郎七遷藤津郡內野山。
喜三右工門之濁手
其後改良白瓷,創乳白薄釉之濁手;擇最上石,一掛燒成。岩谷川內石潔白似天草,然選別不當則易發黑,不宜通用。
泉山許采與萬曆赤
許采泉山後,各窯轉作染付,技藝大進;惟“萬曆赤”上繪法終未能掌握。

