【原文】[Original text]
忠藏の辯論
忠藏は豊後杵築藩の御用釜とてやゝ學識あり、且頗る能辯であつた。彼は皿山代官へ面接を乞ひ内山側の理不盡なるを論難するや條理整然滔々として盡きるところがない。代官叱咤して言ふ、汝余りに長廣舌なり、止めずんば一刀に切捨てんと威嚇した、忠臓少しも悪びれずよしと、直に己が首を差し伸べしさいふ、其時の挿話がある。
利三郎の磁石運び
此時利三郎は、卒然數十頭の牛を雇ひ來り、己れ宰領して泉山石場に到り、採掘し磁石を瞬間に負はしめて、町中を悠々と曳き歸り大膽不敵さには、流石喧嘩速き有田人も、不意を打たれたる余りの早業に調子を失ひ、却つて之を勇ましと賞め通せしといはれてゐる。
船底谷拂下げ
利三郎は、或時製陶用の薪材として、地元山林拂下の許可を出願するに當り、先づ自製の焼物許多を當路の諸役人に贈り置き、而して後に拂下げの願書を呈出した。それに依れば地元の舟底谷一帯とあるを以て、役人達も名の如く狭隘なる一谷ならんと合点して、直に之を許可したのである。
然るに利三郎は、何ぞ計らん南川原谷の凡てを是舟底谷なりと稱して悉く探伐したのである。御山方役人衆も、さては彼に一杯喰はされたりと喫驚せしが、左あらぬ体にて、其總山林地に對する稍重き運上を賦課せしところ、利三郎は心得たりと、先に贈りし焼物へ高き代償を附し、其総額と相殺して残りの少額を納税せしといふエピソードがある。
樋口太右衛門
利三郎は天保十四年(1844年)七月十九日卒去し、其子竹次郎に至つて廢案した。利三郎の舎弟傳三郎の子が太右工門にて、彼は後年太平さ改称し、明治二十七年十二月廿五日八十五才にて卒去し、長子爲吉出藍の器なりしが、父に先立つて卒し、次子三臓に至つて魔窯した。
舘林兵太夫
維新前の窯焼には、下南川原の舘林峰吉(森之助の祖父)が盛んに製造した、彼は天保九年(1839年)四月六日卒してゐる。又同し下南川原の舘林兵太夫といへるが名陶家であつた。彼は成器を窯出しするや、直ちに之を長持に匿して錠を掛け、何人へも決して見せざりしといふ變り者であつた。蓋し其工夫せし意匠の模倣さるゝを恐れたのである。兵太夫は、天保七年(1837年)十二月二十六日卒去してゐる。
舘林辰十
兵太夫の嗣子が、有田の禁裡御用燒なる、辻喜平次の次男を養子とせる辰十にて、これ亦頗る名陶家であつた。其他に舘林菊次郎(喜太郎の父)も上手であつた。彼は嘉永四年(1851年)三月十一日四十三才にて卒してゐる。概して上南川原は大鉢類を得意とし、下南川原は食器の如き、小間物が多く焼かれてゐる。
下南川原の名手
なほ下南川原の名手としては
舘林 森太郎 嘉永三年(1850年)正月二十七日卒二十八才 窯焼にて、花鳥書の名人であつた。
金ヶ江熊五郎 安政元年(1855年)十一月二十三日卒四十九才 窯燒にて、山水稲の名人であつた。
富永 勘九郎 明治七年八月二十八日卒三十九才 畫工にて、花鳥を善くした。
小西 喜太 明治九年八月九日卒四十三才 畫工にて、山水及人物を善くした。
溝上 九郎 明治二十年一月二十日卒 五十四才工にて、人物及花鳥を善くした。
金ヶ江八百吉 明治二十五年七月十七日卒 五十八オ轆轤細工人にて、小間物造りの名手である
小藤 伊與吉 明治三十三年七月十六日卒 七十三才。轆轤細工人にて、小間物の名手であり、柿右エ門の工人なりしが、後窯焼と成った。
藤 伸助
下南川原に於ける近代の窯焼としては藤伸助(明治二十二年九月三十日卒六十三才)があつた。
南川原の現在
洵に南川原陶山は、黒牟田及小溝と共に、有田焼の創業地(陶器に於て)として古き歷史を有し、往年の製陶頗る盛んなりしも、衰退し、大正九年の好況時代に於いてさへ、年産額僅に五萬五千圓に過ぎなかった。戸数又從って減少し、今上南川原二十戸中窯焼は一戸もなく。下南川原四十戸の内、窯焼は柿右工門の外、小西忠吾外一戸となり、昔日の繁栄は夢の如く去つて、たゞ天神社の翁碑に、のつと出る旭の梅ヶ香を蒸らして、聊か當時の面影を偲ばしむるのみである。此外前記の南川良原に、丸山工場と草場工場があり、倒れ橋に三河内より来りし中里菜の釜山窯がある。
以上を以て、南川原山及び其附近を終り、次に同村原明なる、窯の谷の記事に移る可きも、此處は木原窯の發祥關係の爲めに、既に平戸編中に記逃せしを以て省略する。大正三年此地に於いて、釆女甚一(竹林)築窯し、食器、花器、茶器等を製造し、或は柿右工門風の赤を施す等、作品頗る見るべき者ありしが、同六年に至つて慶窯した。
戸杓窯
上南川原の谷間を登れば、有田村なる戸杓の高地である。此處は向平、一本松、善門谷の三ヶ所に古窯趾がある。向平の丘の上に、岩吉畑と稱する拓き地がありて、陶器を焼きし跡あるも、後には有田の原料にて磁器を焼いてゐるのである。そして此陶器及び磁器製作が、一本松と善門谷へ分布され、又一面には、大村領なる村木窯へ侵入せしていはれてゐる。
戸杓の向平
南川原韓人の分系と見らるゝ向平の古窯品には、灰色釉突底の茶碗にて、裏は縁邊の外、高台へかけて全くの無釉物がある。又同釉の皿に、白釉にて文飾せしものや、波刷毛目を施したものがあり、或は栗色釉に、白にて獨樂筋を焼らし、内は篩目に沈彫せし、水盤らしき破片などがある。
磁器には、染附唐山水繪六寸の淺丼、同外縁素描地紋縁反七寸丼、同實蘭畫の茶碗、或は松葉菊の描詰に、外青磁の小皿があり。又は薄青磁の丸茶碗など、多くの種類が焼かれてゐる。
一本松
一本松の古窯磁器には、染附山水繪の九中皿、同廣底筋内菊蔓畫の深中皿、同荊緑の小皿、同廣底筋內素描牡丹畫の小皿、同海松畫散文の丸茶碗、薄青地突底の中皿等にて、模様が凡て粗拙である。其中木賊繋ぎの煎茶々碗などは、後代の特製品らしく、細工も模様も、前記の品とは別途のがある。
善門谷
此處の川向ひなる小松の丘に、善門谷の窯趾がある。磁器の殘缺には、染附四方割大筆猫模様の大皿や、廣底筋内へ楓葉を描きし大皿があり、又廣底筋内に、三方花模様を描きし中皿など、何れも下手物にて、無細工を極め、高台叉頗る小さく、繪模様も一本松同様拙劣なものである。今此の戸杓は戸數四十戶、吉島と外二戸の磁器製作所がある。
偖て南川原焼に就いて考ふるに、時勢の變遷が其地の産業を支配することは、何れの陶山に於いてかれざる現象とするも、世界的名聲を舉げし、柿右工門の發祥地として回顧する時に、吾人は大いに此衰退を惜まざるを得ぬ。而して此名家の子孫と、そして故人を崇拝する多くの者が、ただ故人が残せるクリエートのみに則とり、ひたすら之に相似んことのみに、汲々たる観がある。
【現代語訳】[Modern Japanese translation]
忠蔵は豊後杵築藩の御用窯ゆかりで教養も弁舌も立ち、皿山代官に直談判して内山側の不当さを論破した。代官が「長広舌をやめぬなら斬る」と脅すと、忠蔵は怯まず首を差し出したという逸話が残る。
同時期、樋口利三郎は牛を数十頭雇い泉山で磁石を一気に積ませ、堂々と町へ引き入れた。あまりの早業に有田方は調子を崩し、その大胆さをむしろ称えたという。
利三郎は薪の払下げ申請で自作の器を役人に配り、書面の「舟底谷一帯」を口実に南川原谷全域を伐り出した。山方は驚きつつ重い運上を課したが、利三郎は贈った器に高値を付けて相殺し、残額のみ納めたと伝わる。
利三郎は天保十四年七月十九日没。家は竹次郎の代で廃れ、弟系の太右衛門(のち太平)は明治二十七年没、長子為吉は早世し、次子三蔵で窯を畳んだ。
維新前は下南川原の舘林峰吉が盛業、同地の舘林兵太夫は完成品を長持に隠し模倣を避けた異色の名工。嗣子の舘林辰十も腕が立ち、舘林菊次郎も巧者。上南川原は大鉢、下南川原は食器など小物を得意とした。
下南川原の名手として、舘林森太郎(花鳥書)、金ヶ江熊五郎(山水稲)、富永勘九郎(花鳥)、小西喜太(山水・人物)、溝上九郎(人物・花鳥)、金ヶ江八百吉(轆轤の小物)、小藤伊與吉(轆轤、小物。のち窯焼)が挙げられる。近代では藤伸助も窯を営んだ。
南川原は黒牟田・小溝と並ぶ有田焼創業地として栄えたが大正期には衰退し、上南川原は窯焼ゼロ、下南川原も柿右工門と小西忠吾ほか一戸のみ。天神社の翁碑に梅が香るばかりで往時を偲ぶ。南川良原には丸山・草場工場、倒れ橋には三河内から中里菜の釜山窯がある。
上南川原奥の戸杓には向平・一本松・善門谷の古窯。向平は灰色釉の無釉高台碗や波刷毛目、栗色釉に独楽筋など陶器ののち、有田原料で磁器も焼成。一本松は染付の皿類が粗拙で、木賊繋ぎの煎茶碗のみ後代の特製。善門谷も大皿・中皿は下手物で高台が小さく図様も拙い。戸杓は現在四十戸、吉島ほか二戸が製作所を営む。
南川原焼の衰退は時勢の必然だが、柿右工門発祥の地として惜しまれる。名家の後裔や崇敬者が、創意の継承よりも似姿の反復に偏りがちな点にも省みるべきものがある。
【英語訳】[English translation]
Chūzō, tied to the Bungo Kitsuki domain’s official kiln, was learned and eloquent. He confronted the plate-hill magistrate and, with crisp logic, attacked the “Inner Hills” faction’s unfair stance; when threatened with beheading for his long speech, he calmly thrust out his neck—an oft-told anecdote.
At the same time, Higuchi Risaburō hired dozens of oxen, rushed to Izumiyama, loaded porcelain stone at once, and paraded it through town. The audacity and speed wrong-footed Arita men and even drew their praise.
Seeking fuel-wood rights, Risaburō first gifted his wares to officials, then applied to fell “Funasokodani.” He stretched that name to mean the whole Minamigawara valley and logged it entirely. Officials, realizing they’d been outplayed, imposed a heavy levy; he offset it by billing the gifted wares at high prices and paid only the balance.
Risaburō died on July 19, 1844. The line waned under Takejirō; a collateral, Taiemon (later Taihei), died in 1894; his gifted heir Tamekichi predeceased him, and the second son Sanzō closed the kiln.
Before the Restoration, Tatebayashi Minekichi thrived in Shimo-Minamigawara; Tatebayashi Hyōdayū, a noted potter, locked new pieces in a chest to avoid imitation. His heir Tatsuji (adopted from Tsuji Kihēji’s line) was likewise skilled; Tatebayashi Kikujiro also excelled. Kami-Minamigawara favored large bowls, Shimo-Minamigawara small tablewares.
Masters in Shimo-Minamigawara included Tatebayashi Moritarō (flowers/birds calligraphy), Kanagae Kumagorō (landscape and rice), Tominaga Kankurō (flowers/birds painter), Konishi Kida (landscape/figures), Mizokami Kurō (figures, flowers/birds), Kanagae Yaokichi (lathe-turned smalls), and Kofujii Yokichi (lathe master; later kiln owner). In modern times, Fuji Shinsuke operated a kiln.
Minamigawara, with Kuromuta and Komizo, was an Arita cradle for earthenware, but by the Taishō boom still produced only ¥55,000/year; kiln houses dwindled—none in Kami-, only Kakiemon and two others in Shimo-. The Tenjin shrine’s old monument and the plum fragrance faintly recall the past. Maruyama and Kusaba works remain; across the “Fallen Bridge” stands Nakazato Na’s Busan kiln from Mikawachi.
Up-valley in Toshaku lie ancient kilns at Mukaitaira, Ipponmatsu, and Zenmondani. Mukaitaira shows gray-glazed bowls with unglazed feet, wave-brushed surfaces, and brown-glazed komamiji; later, Arita raw materials yielded porcelain. Ipponmatsu’s blue-and-white plates are crude, with only a later fine tokusa-linked teacup. Zenmondani’s big and medium plates are likewise coarse, with tiny feet and clumsy designs. Today Toshaku has ~40 households; Yoshijima and two others run workshops.
The decline of Minamigawara ware reflects changing times, yet as Kakiemon’s birthplace it is lamentable. Descendants and admirers often chase resemblance to past creations rather than renewing their creative spirit.
【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]
忠藏学识与口才兼备,直面皿山代官,层层剖析内山一方的不公;代官以斩首恐吓,他仍镇定伸颈示威。
樋口利三郎雇牛数十头直取泉山磁石,堂堂牵入城中,其速与胆令有田方失措却称快。申请薪材时,他以自制器献官,借“舟底谷”之名扩解为全南川原谷并尽伐;官府加重赋,他以高价计入先赠器物相抵,仅付余额。
利三郎1844年卒,家道随衰。下南川原有舘林峰吉与兵太夫等名工,前者盛业,后者以防仿制而密藏成品;继子舘林辰十亦善作,上南川原长于大鉢,下南川原多小器。名手尚有舘林森太郎、金ヶ江熊五郎、富永勘九郎、小西喜太、溝上九郎、金ヶ江八百吉、小藤伊與吉等;近代有藤伸助。
南川原与黒牟田、小溝同为有田创始地,然大正期已衰:上南川原无窯、下南川原仅柿右工门等少数。今尚存丸山、草场工场,倒桥侧有自三河内来之中里菜釜山窯。
戸杓的向平、一本松、善門谷留有古窯:向平先陶后瓷;一本松染付粗拙,唯木賊繋煎茶碗较精;善門谷亦下手物多。今日戸杓约四十户、数窯在营。作为柿右工门发祥地,其衰落可惜;后裔与崇敬者更应重创意之传承,勿止于形似。
【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]
忠藏學識兼備、能言善辯,當面斥內山之不公;代官以斬首威嚇,仍從容伸頸示不懼。
樋口利三郎雇牛數十頭直取泉山磁石,從容牽入城中,其速與膽令有田方失措反受稱賞。申請薪材時,以自製器饋官,藉「舟底谷」擴解為全南川原谷而皆伐;官府加稅,則以高價計入所贈器物相抵。
利三郎1844年卒,家道漸衰。下南川原有舘林峰吉、兵太夫等名工;嗣子舘林辰十亦善作。上南川原長於大鉢,下南川原多小器。名手尚有舘林森太郎、金ヶ江熊五郎、富永勘九郎、小西喜太、溝上九郎、金ヶ江八百吉、小藤伊與吉;近代有藤伸助。
南川原與黑牟田、小溝同為有田創始地,然大正期已衰:上南川原無窯、下南川原僅存數戶。猶有丸山、草場工場與倒橋旁中里菜釜山窯。
戶杓之向平、一本松、善門谷存古窯:向平先陶後瓷;一本松染付粗拙,唯木賊繫煎茶碗較精;善門谷亦多下手物。今戶杓約四十戶,尚有數窯。作為柿右工門發祥之地,其頹勢可惜;後裔與崇敬者宜守創意精神,勿徒求形似。
【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]
忠藏以雄辩抗议内山方不公,被威胁“斩首”仍沉着应对。樋口利三郎以数十牛急运泉山瓷石,强势入城,反得赞赏。其以器物行贿先声夺人,借“舟底谷”名义砍伐南川原全谷,再用高价记账抵税。
其后家业衰落。明治维新前后,下南川原多名匠,上南川原善大鉢、下南川原多小器。近代仍有藤伸助办窑。
南川原与黑牟田、小溝同为有田源头,至大正已衰。戸杓的向平、一木松、善门谷留粗拙染付与早期瓷器。今有少数作坊。作为柿右卫门发祥地,其没落令人惋惜;与其复刻旧样,更应传承创造精神。
【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]
忠藏以邏輯辯擊內山之不公,遭「斬首」恫嚇仍鎮定。樋口利三郎以數十牛急運泉山瓷石,堂皇入城反獲稱許;又以器物先行關說,借「舟底谷」名砍伐全谷,以高價沖抵稅負。
其家後衰。維新前後,下南川原名匠輩出;上南川原長於大鉢,下南川原多小器。近代尚有藤伸助之窯。
南川原與黑牟田、小溝同為有田濫觴,至大正而衰。戶杓之向平、一木松、善門谷遺粗拙染付與早期瓷器,今僅少數作坊。作為柿右衛門發祥之地,其沒落可惜;與其徒為仿作,宜承繼創造之魂。

