乾山解説(2)—白化粧下地と工房生産の展開
乾山(けんざん)の作品で特に注目されるのは、元禄十五年(1702)の年紀をもつ藤原定家(ふじわら の ていか)の和歌を各裏面に記した「色絵十二ヶ月色紙皿(しきしざら)」〔注:色紙形の角皿の意匠〕に始まる一連の角皿群です。これらは白化粧下地〔注:素地に白土を化粧掛けする下地技法〕を用い、すべて低火度の内窯(うちがま)焼成〔注:軟質陶を低温で焼く方法〕で作られ、釉下に色絵〔注:ここでは釉下彩の意〕と銹絵(さびえ)〔注:鉄絵具で褐色線描を施す技法〕で絵や和歌・詩文を表した、乾山独自の製品でした。
この技法を基盤に、宝永七年(1710)頃から正徳(1711〜1716)にかけては、兄の尾形光琳(おがた こうりん)が直接絵付した合作皿が工房で生産されます。これらは今日、乾山焼の中でも最重要とされる一群で、意匠の洗練と詩画賛〔注:絵に詩文・賛を添えること〕の統合が高く評価されています。さらに元文二年(1737)九月に乾山が著した陶法伝書『陶磁製方(とうじ せいほう)』〔注:作陶の規矩や意匠方針を記す書〕には、「最初の絵はみな光琳自筆で、以後は光琳の風流な規模に私見を交え、愚子・猪人(いはち)に伝える」と趣旨が記されています。すなわち、光琳の意匠を基調に、乾山の新意を加えた工房生産が体系化されていたことがうかがえます。
したがって、乾山焼のうち光琳や乾山の手が確実と認められるのは、光琳自筆の落款〔注:署名や印章〕があり、そこへ乾山が詩文を着賛〔注:作品上に賛を添書きすること〕した作品群にほぼ限られます。他方で「銹絵染付金銀彩松波文蓋物」や「銹絵染付金彩芒文蓋物」のように署名はないが光琳筆が推測されるもの、乾山自画賛と見られるもの、光琳・乾山のデザインに基づいて工房で絵付されたもの(乾山自身の筆入れがあるか否か不詳)、さらに渡辺素信(わたなべ そしん)ら他の画家が絵付し、乾山が賛や「乾山」銘を施したと推定されるものなど、多様な階層が存在します。絵付・署名ともに作者が判然としない作例も含め、鳴滝(なるたき)から二条丁子屋町(にじょう ちょうじやまち)期にかけて、これらは乾山焼として幅広く生産されました。
ところが工房生産であったにもかかわらず、後世の伝来の過程で多くが「乾山作(本人作)」と見なされて伝わったことが、鑑識上の大きな問題を生みました。作者の手跡とデザイン供与・工房執行の関係が混同され、作風も一義的に定め難くなったのです。乾山焼の評価には、この生産体制の理解と、署名・賛・様式の重層性を読む視点が不可欠です。
乾山は享保十六年(1731)頃に江戸へ下向しますが、その際、鳴滝期以来の陶技と意匠を養子の猪八(いはち)に譲り、京都・聖護院(しょうごいん)の窯で猪八が養父と同様の銘で乾山焼を生産したと伝わります。この系統の多くが、伝世のうちに「初代乾山作」として流布してしまった点も、真贋・作域判定を難しくしました。
乾山の陶風は仁清(にんせい)陶と明らかに異なります。まず優美な轆轤(ろくろ)びき〔注:回転台での成形技法〕の器はほとんど見られません。型物〔注:型押し成形による器〕や、単純な半筒形の茶碗、手捏ねの感触を残すざんぐりとした器形が圧倒的で、仁清の端正さを踏襲するのではなく、仁清伝来の色絵・銹絵の技術を生かして琳派(りんぱ)〔注:光悦・光琳に連なる意匠潮流〕の意匠を陶面に展開しようとする志向が、当初から明確でした。三十代後半で作陶に入ったのも、在来の京焼とは異なる「一風」を打ち出そうとする自覚と熱情の現れといえます。
この観点から乾山焼をみると、純然たる絵画を陶胎上に表現し、あるいは絵画的装飾性を主張する姿勢が基調となっています。その実現に最適な陶技として白化粧下地が意図的に活用され、押小路焼(おしこうじやき)伝来の内窯陶法と合わせ、実験的に多様な技法が試みられました。乾山自筆の陶法書『陶工必用(とうこう ひつよう)』を読むと、「どの産地の土でも白化粧を施し焼けば、火度や硬軟の差はあれ、乾山流の陶画は成立する」といった趣旨が記され、白化粧法の汎用性を前提に意匠を先行させる思想が窺えます。
一方、優れた轆轤造形は良質な土に依存する面があり、乾山は成形の精妙さには頓着しなかったと見えます。実際、仁清陶に見られる軽妙な轆轤の妙技を示す器は知られません。乾山は絵付を主題とする釉枝(ゆうし)〔注:釉と絵付を包含する表現〕に強い関心を注ぎ、器形は型成形や仕入素地の活用、あるいはざっくり成形に切込みを入れて変化を出す反り鉢〔注:縁を反らせた鉢形〕など、多様な試みで支えました。
とはいえ、器形の平凡さを補って余りある自由闊達なデザインは、数奇者(すきしゃ)に熱く迎えられました。乾山窯の規模は大きくありませんでしたが、なお多くの作例が現存し、のちに倣作が生まれた事実は、当時からの共感の広がりを物語ります。市場での需要がなければ、こうした伝来は成立しなかったでしょう。
乾山は正徳二年(1712)に、十二年ほど煙を上げた鳴滝から洛中の二条丁子屋町へ移ります。理由は確定できませんが、流通や生業上の不自由を解消しようとした可能性が考えられます。従来、この時期は自窯を持たず借り窯で揃物〔注:同形同意匠の量産品〕中心と推測されてきましたが、むしろ鳴滝で確立した独自性を都心で積極的に展開しようとしたと見るほうが、作域の伸展を説明しやすい面もあります。
もっとも、隠逸を好む乾山には企業家的資質は乏しかったのか、丁子屋町期は次第に失意のうちに終局し、享保十六年(1731)には輪王寺宮公寛法親王(りんのうじのみや こうかん ほっしんのう)に随って江戸に下向、入谷(いりや)に居を構えて晩年を過ごしました。江戸でも内窯で軟陶を焼いたと推測されますが、現存作と資料が限られ細部は不明です。
さらに元文二年(1737)、下野国(しもつけのくに、栃木県)佐野(さの)で大川顕道(おおかわ けんどう)、越名(こしな)の須藤杜川(すどう とせん)、松村壺青英亭(まつむら こせい えいてい)らの招聘に応じ、作陶と指導にあたりました。佐野からの帰洛・帰府時期は定かでありませんが、翌元文三年(1738)には最大の庇護者であった公寛法親王の入寂に遭い、勅賜号「崇保院(すうほいん)」の六字を頭字に詠み込んだ和歌六首を献じています。
寛保三年(1743)六月二日には、「放逸無慙八十一年 一口呑却沙界大千/うきことも うれしき折も 過ぬれば た あけくれの夢ばかりなる」という辞世を残して没したと伝えられます。生涯は、絵画的意匠を陶へ翻訳する試みと、工房ネットワークの運用という二本柱で要約され、京焼史に独自の軸線を刻みました。
要約(300–500字)
1702年の「色絵十二ヶ月色紙皿」を嚆矢に、乾山は白化粧下地と内窯焼成を基盤とする絵画的な角皿群を展開し、1710年頃から正徳期には光琳自筆の絵を乗せた合作皿が工房で量産されました。『陶磁製方』の記述は、光琳意匠を基調に乾山の新意を交えた体系的な工房生産の存在を示します。作者の落款・着賛の有無や工房執行の重層性により、後世は「乾山作」と「乾山焼」が混同され、鑑識上の混乱が生じました。乾山は轆轤の妙より意匠を優先し、型物・半筒茶碗・反り鉢など素朴な器形に自由闊達な絵付を施すことで新機軸を確立。1712年に都心へ移転し、1731年に江戸下向、1737年には佐野で指導に当たり、1743年に没しました。
【関連用語】
- 白化粧下地:素地に白土を化粧掛けする下地技法。絵付の発色と画面性を高める。
- 内窯焼成:低火度で焼く軟質陶の方法。実験的装飾に適する。
- 銹絵(さびえ):鉄系顔料で褐色線描を施す絵付け。
- 色絵:本来は上絵の総称。ここでは釉下彩の意で用いられる。
- 色紙皿:色紙形を意匠化した角皿。裏面に和歌などを記す作例が多い。
- 落款・着賛:作者の署名印と、作品上に添える詩文のこと。
- 工房生産:デザイン供与と分業による制作体制。筆者本人作と混同されやすい。
- 轆轤びき:回転台で器形を成形する技法。乾山は意図的に重視しなかった。
- 型物・反り鉢:型押し成形の器と、縁を反らせた鉢形。乾山の好む器形。
- 『陶磁製方』:乾山が1737年に著した陶法伝書。意匠と技法の方針を述べる。
- 『陶工必用』:乾山自筆の陶法書。白化粧や内窯技法の要点が示される。
- 尾形光琳:乾山の兄。琳派の意匠を乾山焼に提供した中核的画家。


