瀬戸焼(6)【江戸時代以降】

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(一)概説

徳川家康(とくがわ いえやす)が政権を確立し、その子・義直(よしなお)が尾張(おわり)に封ぜられると、瀬戸の陶祖一族を各地に分散させるのは不利と判断され、1610年(慶長15)2月5日、加藤利右衛門景貞(かとう りえもん かげさだ、唐三郎)と仁兵衛景郷(にへえ かげさと、古仁兵衛)が美濃・土岐郡郷ノ木村(現・土岐市曽木町)から召し返され、赤津(あかづ)に居住して御用窯(ごようがま)を担いました。同年5月5日には恵那郡水上村(現・瑞浪市陶町水上)の新右衛門景重が品野(しなの)へ移され、のち1658年(万治元)には景貞の孫・太兵衛景輪も御窯屋に加わり、以後この三家は「御窯屋三家」と称されます。

元和年間(1615〜24)には祖母懐(そぼかい)〔注:赤津周辺で良質とされた鉄分を含む陶土〕の濫掘を禁じ、金子200両を陶工に下賜して優品を奨励しました。寛永年間(1624〜44)には義直が名古屋城外郭の御深井丸(おふけまる)北東、瀬戸山西腹に窯を築き、三家を招いて祖母懐土で器を焼かせました。これが御庭焼(おにわやき)で、世には御深井焼(おふけやき)〔注:尾張徳川家ゆかりの鉛釉=ビードロ釉系統〕と呼ばれます。なお1624年(寛永元)に京都で粟田焼(あわたやき)を始めた三文字屋九右衛門は、瀬戸の陶工であったと伝えられます。

産業政策面では、瀬戸・赤津・品野の窯場・職場を除地(よけち)とし、困窮窯元へは資金や用木(薪材)を給付、陶祖門流以外の参入を制限して世襲化、「永代轆轤一挺」の原則を敷きました。享保初年にはさらに「一家一人」制で家業継承者を長子に限定、販売も瀬戸御蔵会所(みくらかいしょ)が統制します。しかし強い統制は活力を削ぎ、1773年(安永2)の窯家142戸が1804年(享和4)には100戸未満に減少するなど、中期から不振が深まりました。

転機は加藤民吉(かとう たみきち)による磁器(じき)〔注:白素地・高温焼成の硬質陶磁〕技術の導入です。1801年(享和元)、熱田新田(現・名古屋市熱田区)で窯業制限に遭い農に転じていた民吉父子に、奉行・津金文左衛門(つがね ぶんざえもん)らが南京染付(なんきんそめつけ)〔注:呉須〔注:酸化コバルト顔料〕で描く青花〕伝習を斡旋。藩の後援で築窯し、のち加藤唐左衛門らの嘆願により戸主専業制が緩和され、瀬戸でも二男以下が「新製(しんせい)=磁器」を営めるようになります。1804年(享和4)には民吉が肥前(ひぜん)で4年研修し、「丸窯(まるがま)」〔注:磁器焼成に適した改良窯〕を伝えました。以後、陶器を「本業(ほんぎょう)」、染付磁器を「新製」と区分し、藩は一層の保護を付与、1807〜1820年(文化4〜文政3)に本業から新製へ転じた家は90余戸に及び、赤津・品野から美濃各郡へ、さらには会津磁器の源流にまで波及しました。

原料・設備でも、1811年(文化8)三河や半田川での原土探索、石粉水車の設置許可、1813年のイス灰〔注:イスノキ(常緑広葉樹)の灰。釉の融剤〕用苗の下付、翌年には鍋屋上野の千倉白石(ちくらしらいし)不適を受け三河細野産と食塩の交易許可など、藩が広範に支援しました。加藤五助ら名工が青磁(せいじ)を洗練し、市右衛門は天保期に棚板(たなばん)を工夫して窯積み能率を高めるなど、技術革新も重なります。製品は「尾張」の木印を押して出荷し、蔵元商人が専売し益金の一部を上納、蔵所で本業焼・染付焼を分掌管理しました。

呉須は瀬戸産のほか、長崎奉行・長崎商人を経由して中国呉須を蔵元が買い入れ、需要に応じ供給・貸与。1833年(天保4)に瀬戸物商株を制定し自由売買を禁じ、1842年の諸株廃止でも瀬戸株は特例存置、1846年(弘化3)に一層強化。安政期には三井物産の斡旋で対米輸出を試み、海外販路の端緒をひらきます。

産額は江戸期通算こそ不詳ながら、1792年(寛政4)の総額見積は2万両、その9割が域外出荷。1819年(文政2)の瀬戸物益金は冥加金込みで20万両に達し、磁器導入前後の伸長を明確に示します。明治維新後は藩保護を離れたものの市場自由化と博覧会(1872ウィーン、1878パリ)をテコに輸出が拡大。加藤繁十の火吹孔三個化(1868)による焔流改善、服部杏圃の西洋顔料導入(1872)、加藤友太郎・川本富太郎の石膏型(1875)など量産技術が整い、半陶半磁の「新山(しんざん)」、半製(はんせい)=新染付も登場。商業では滝藤万次郎が瀬戸物商社(1871)を興し、東京・横浜展開で外販を拡大。参考陳列館(1883)、町立陶器学校(1895)、森村組の陶土精製などインフラが整い、洋式轆轤も大正期から普及しました。第一次世界大戦で一時不況後、交戦による国際供給減から輸出が急伸します。

戦後、昭和40年代の産額は飛躍し、1971年度の総生産額に占める輸出は約55%、内訳は玩具・置物が64%、洋食器26.8%、タイル5%とされ、瀬戸が世界市場向け実用品の大宗を担った実態が示されます。

(二)製品の進歩

瀬戸は平安の青瓷(せいじ)に鎌倉の黒炻器(こくせっき)〔注:半磁質で黒色系の焼締め〕が加わり、室町には黄瀬戸・志野・織部など鉄・銅系釉が発達、素地は白色・硬質化へ傾斜しました。江戸初頭には帰化人の関与で青花(せいか)=青華(せいか)絵付の応用が見られ、南京染付の基盤が整いますが、胎土はまだ陶質で、新製たる本格磁器には距離がありました。黒釉茶器の流れは水瓶の柿色釉などへ展開し、「本業焼」も徐々に改良されます。

1770年(明和7)には川本治兵衛が経塚山(きょうづかやま)の新窯で中絶していた海鼠壺(なまこつぼ)を復作し、功により除地を拝領。治兵衛は源右衛門の伝法で柿色・黒・黄瀬戸・鵜ノ斑流(うのふながし)などを継承しました。寛政以降、本業系では、武右衛門が渋紙・春慶渋紙・安南・宋胡録・織部・志野・黄瀬戸など、十右衛門が鵜ノ斑・赤楽・赤志野・瑠璃・瀬戸青磁・上野釉の大器、新五右衛門が鉛色・高取・金流し・赤楽、長兵衛が石ハゼ、治吉が腰繡・糸目・繡土・呂朱・杢波、半右衛門が柿・黒・白・貫入の大器、平三郎がヒガキ、喜平治が青磁を製し、洞島(どうじま)磁器では萩茶碗・大白物・紅鉢・砂鉢などが作られました。

染付では、民吉が丸窯で伊万里風の薄作、治兵衛が藤四郎窯で新渡手(しんとで)ふうの名手、勘六は獣頭など細工物、唐左衛門は丸窯で大物、忠治は組重など角物を得手としました。五助は1819年(文政2)から青磁に注力し、組盃や磁質青磁釉を工夫して「玉縁小皿」を創出。下品野(しも しなの)の定蔵は1822年(文政5)に高麗手、二代五助は精麗な青磁を完成、三代五助は1833年(天保4)に美濃の白絵土の塗布で素地と青花釉の相性を高め、勘六は嘉永期に土焼青磁(閑陸青磁)を創案しました。赤津の春(はる)は近世の名工で、嘉永3(1850)から御深井窯に従事し、瀬戸伝法の諸技に通達。四代五助は文久3(1863)に家督後、白磁・青磁上に白盛(しろもり)文様を試み、二代加藤杢左衛門は慶応3(1867)志野釉の鮟鱇形火鉢や青花大物を制作。加藤松太郎は1879(明治12)に陶質素地へ磁土を表塗する「半製」を興し、これが新染付と呼ばれました。後半は青磁・白磁・瑠璃を磨き、やがて銅版染付や錦手(にしきで)も加わります。

実用品では、磁器創業直後は茶碗(ちゃわん)が主力で、番茶向けの深出しが第一号。初期は素地に毛彫りし、上から絵釉で濃(だ)みを施す彫文で、意匠は古渡・中渡風。形は反り茶碗から丸茶碗、熊谷茶碗へと推移し、1871年(明治4)には平奈良茶碗が流行しました。


要約(300〜500字)
江戸初頭、尾張徳川家は瀬戸の陶祖一族を赤津・品野に集め御用窯とし、御深井焼を育成、窯場を除地化・世襲化・販売統制で保護しましたが、統制強化は中期に活力を損ね衰勢に転じました。1801年以降、加藤民吉の南京染付伝習と肥前研修で磁器技術(丸窯)が導入され、本業(陶器)と並ぶ新製(染付磁器)が拡大、藩による原料・設備支援と専売体制で産地は再興。明治以降は博覧会・商社・学校・石膏型などで工業化が進み、第一次世界大戦を契機に輸出が急伸、1971年には輸出が総生産の約55%を占め、玩具・置物が主力となりました。製品面では黄瀬戸・志野・織部の伝統を継承しつつ、青磁・白磁・銅版染付・錦手へ展開し、実用磁器の茶碗から多様な日用品へと裾野を広げました。

【関連用語】

  • 御深井焼(おふけやき):尾張徳川家ゆかりの御庭焼。鉛釉(ビードロ釉)を特色とする。
  • 御庭焼(おにわやき):大名の庭内・御用地で営まれた窯の総称。美術的試作の場。
  • 祖母懐(そぼかい):赤津周辺の鉄分を含む良質陶土。瀬戸初期茶器に多用。
  • 南京染付(なんきんそめつけ):呉須で下絵付けする青花技法。伊万里系との連関が深い。
  • 呉須(ごす):酸化コバルト主体の藍色顔料。染付の発色材。
  • 丸窯(まるがま):磁器量産に適した近世窯。温度・還元管理に優れる。
  • 瀬戸御蔵会所(せと みくらかいしょ):瀬戸産品の集荷・売買を統制した藩の機関。
  • 永代轆轤一挺・一家一人制:世襲と家内分業を固定化した藩の産業統制。
  • イス灰(いすばい):イスノキ灰。釉の融剤として用いられた。
  • 千倉白石(ちくらしらいし):白色系の釉・素地原料。品質選別が行われた。
  • 半製/新染付(はんせい/しんそめつけ):陶胎に磁土を化粧掛けし染付する近代瀬戸の様式。
  • 玉縁小皿(たまぶちこざら):五助系が作った厚みのある縁を持つ青磁小皿。
  • 海鼠壺(なまこつぼ):斑状釉が海鼠に見える意匠の壺。近世に復作された。
  • 銅版染付(どうばんそめつけ):転写版で下絵付けする量産技術。
  • 錦手(にしきで):多色上絵付。金彩を伴う華やかな様式。