三彩・緑釉・灰釉 解説(灰釉陶器)
灰釉陶器(かいゆうとうき)〔注:植物灰を溶剤とする高火度の釉を素地に施した陶器〕は、奈良・平安時代に猿投窯(さなげよう)〔注:尾張・三河に広がる古窯群の総称〕を中核として東海地方で生産された施釉(せゆう)〔注:素地に釉薬を掛けて焼成する操作〕陶器である。文献上は『伊呂波字類抄(いろはじるいしょう)』巻九に「白瓷(しらし)」と記され、『小右記(しょうゆうき)』万寿二年(1025)条や『島田文書』建久二年(1191)の長講堂(ちょうこうどう)目録にも「白瓷器(はくじき)」の召し・貢納が記録され、当時この系統を「白瓷」と総称した事情がうかがえる。
『延喜式(えんぎしき)』の「尾張国瓷器(しき)」は緑釉(りょくゆう)〔注:鉛釉に銅を加えて得る緑色釉〕を含む可能性もあるが、生産の実態からは灰釉が主体とみられる。生産の嚆矢は名古屋市東部丘陵の猿投窯で、鳴海(なるみ)32号窯を標式とする古窯群に初期灰釉が確認され、平城宮跡(へいじょうきゅうせき)の天平宝字(てんぴょうほうじ)年号木簡に伴う出土から、八世紀七六〇年代には既に供給が始動していたことが分かる。
初期窯跡の窯道具(ようどうぐ)〔注:焼成時に用いる支え・隔離具〕は器物支持用の粘土棒(ねんどぼう)が主だが、九世紀初頭の段階になると三叉トチン〔注:三つ叉の支釘状窯具で器面を点で支持する〕の使用が現れ、中国陶磁の焼成に用いられた窯具体系と酷似する器材が増え、同時期に窯業技術の直接的伝播があったことを強く示唆する。すなわち灰釉の成熟は、在地の延長ではなく大陸系の窯業ノウハウの受容と再編を通じて達成されたのである。
この技術移転像と響き合うのが『日本後紀』弘仁六年(815)条の「造瓷器生尾張国山田郡人三家人部乙麻呂等三人、伝習業成り……」の記事である。従来この「瓷器(しき)」を緑釉の復興と解した説が有力であったが、平安京では緑釉が継続生産され、のち近江・尾張・美濃に広汎に波及した事実を踏まえるなら、この伝習はむしろ尾張の官的工房における灰釉陶器の高次化達成を指すと考える方が、技術と分布の符合がよい。
以上より、古代後期の二大系—彩釉(さいゆう)〔注:鉛釉による多彩表現〕と灰釉—の位相が見えてくる。七世紀後半には朝鮮半島経由で緑釉の作法が導入され、八世紀初頭には唐三彩(とうさんさい)技法の受容により奈良三彩が儀礼の場で華やぎをみせた。他方、貴族層が希求した日用の高級器は、官貿易の舶載唐物だけでは充足されず、八世紀後半には猿投窯が青磁・白磁の代替として灰釉陶器を供給し、土師器(はじき)・須恵器(すえき)と分業しながら、祭祀の彩釉と生活の灰釉が機能を分有する陶器体系が整えられていったのである。
要約(300〜500字)
灰釉陶器は、猿投窯を中心に東海で展開した高火度施釉の白系器で、文献上は『伊呂波字類抄』や『小右記』・『島田文書』に「白瓷」と記録される。名古屋東部の鳴海32号窯群と平城宮跡出土(天平宝字木簡伴出)により、八世紀七六〇年代の生産開始が確かめられ、当初は粘土棒、九世紀初頭には三叉トチンなど中国系窯具が導入され、技術伝播が実証的に裏付けられる。『日本後紀』弘仁六年の「造瓷器」記事は、緑釉再興ではなく尾張官的工房での灰釉技術の高次化達成とみるのが妥当で、奈良三彩が儀礼器として発展する一方、灰釉は貴族の日常需要に応じて須恵器・土師器と分業し、平安前期以降の国内陶器体系を支えたと整理できる。
【関連用語】
- 灰釉:植物灰を溶剤に用いる高火度釉。硬質で淡色の被膜を作る。
- 灰釉陶器:灰釉を施した高火度施釉陶器。東海の猿投窯系が主産。
- 猿投窯:尾張・三河の丘陵に展開した古窯群。中世以降の陶業基盤を形成。
- 白瓷:中世古記録で灰釉系白色器を指す呼称。文献上の別名。
- 三叉トチン:三つ叉の支釘状窯具。器面を点支持し釉貼り付きを防ぐ。
- 窯道具:焼成時に器物を支え隔離する道具の総称。匣鉢・支釘など。
- 緑釉:鉛釉に銅呈色を加えた緑色釉。日本では七世紀後半に先行。
- 奈良三彩:唐三彩技法の影響下に奈良期に展開した彩釉器の総称。
- 須恵器:還元焼成の硬質無釉陶。古代の実用器の主流。
- 土師器:酸化焼成の赤褐色無釉陶。祭祀・日用の基礎的器種。
- 『日本後紀』:平安初期の六国史の一。弘仁六年条に「造瓷器」記事がある。
- 『延喜式』:延長五年完成の法典。尾張国の瓷器記事を載せる。
- 『小右記』:藤原実資の日記。白瓷器召しの条が灰釉需要を示す。

