正倉院陶器(しょうそういんとうき)の構成と性格
正倉院(しょうそういん)に伝来するやきものは、通称「正倉院三彩(さんさい)」と呼ばれる彩釉陶器〔注:鉛釉(えんゆう)〔注:酸化鉛を媒熔剤とする低火度釉〕を用いた多彩施釉の陶器〕五十七点と、いわゆる正倉院薬壺(やくこ)・薬碗(やくわん)と称される須恵器(すえき)〔注:還元焼成の硬質無釉陶〕十点、さらに青斑石硯(せいはんせきすずり)と呼ぶ須恵器の「風字硯(ふうじすずり)」一点の計六十八点で構成され、加えて陶片三十六箇と若干の小片が付随しており、いずれも地上に伝わった世界最古級の伝世資料として著名である。
もっとも、永久五年(1117)の『東大寺綱封蔵見在納物勘検注文(とうだいじ こうふうぞう げんざい のうもつ かんけん ちゅうもん)』に記録される彩釉陶器は塔を除く五十六点に限られ、陶片はすでに破損物として別扱いであったらしいことから、当初の点数は現状より多かった可能性が高い。
正倉院宝物の中核は、天平勝宝八年(756)六月二十一日、聖武天皇(しょうむてんのう)崩御後四十九日の御忌に、光明皇太后(こうみょうこうたいごう)が「国家の珍宝」を盧遮那仏(るしゃなぶつ)に献じた寄進品群であり、その後も神護景雲二年(768)までたびたびの補入が『正倉院文書』に記録されているが、三彩・緑釉(りょくゆう)陶器は初期寄進群には含まれない。
天暦四年(950)七月、東大寺(とうだいじ)羂索院(けんさくいん)の倉庫が暴風で損壊し、羂索院双倉の納物は正倉院双倉の南端へ移され綱封を施されたと伝わる。さらに永久四年(1116)には南倉の要物が封倉へ移されたが、南倉自体も綱封のまま維持されたことが『綱封蔵見在納物勘検注文』に記録され、すなわち正倉院三彩は香炉・水瓶・鏡・楽器などとともに、もと羂索院の儀礼調度で、天暦四年に東大寺側から正倉院へ移管された性格をもつ点で、北倉の薬壺・薬碗や中倉の硯とは来歴が明確に異なる。
三彩・緑釉の諸器には銘識が残り、天平勝宝四年(752)四月九日の東大寺大仏開眼会から神護景雲二年(768)四月三日の称徳天皇(しょうとくてんのう)東大寺行幸に及ぶ複数の大儀で用いられたと解される。さらに緑白二彩の盤(ばん)の底裏に「戒堂院聖僧供養盤 天平勝宝七歳(755)七月十五日 東大寺」との墨書銘があり、中宮御斎会に供された実例が具体に知られる点は注目される。
平安期以降、名称の呼び方は変遷し、永久五年の目録では「青子(あおし)筒・青子瓶」を除き「青子鉢・青子大鉢」と総称され、明治四十一年の『正倉院御物目録』では「磁塔・磁鼓・磁瓶・磁鉢(甲乙丙)・磁皿(甲乙丙)」に分類、さらに昭和三十七~三十九年度の調査(『正倉院の陶器』に記録)では「塔・鼓胴・瓶・大皿・大平鉢・平鉢・鉢・碗」へ改められた。なお当代の器称にならい本書では、杯に当たるものを「盤」、椀字は「椀」として用いる。
品目数は塔一点、鼓胴一点、瓶一点、大皿十点、盤四点、盌(わん)五点、鉢二十五点、椀十点で、いずれも三彩・二彩・黄釉(おうゆう)・白釉(はくゆう)・緑釉の五種の鉛釉が施される。素地(そじ)は唐三彩や渤海三彩と異なり、小砂を噛むざんぐりとした胎土で酸化焔焼成により卵殻色を呈し、やや還元気味の作は灰白を帯び、鼓胴のみはきわめて白く細かな胎を用いる。『造仏所作物帳(ぞうぶつしょ さくもつちょう)』には造瓷料土(ぞうし りょうど)を「肩野(かたの/大阪府交野)」から運んだと記録され、交野周辺の陶土試験(加藤土師萌の報告)からも珪砂粒を含む蛙目土系の使用が推定される。
成形は総て轆轤(ろくろ)水挽き〔注:水を用いて回転成形する方法〕で、右回りの回転と右回りの表面調整、布による仕上げが確認され、薄作りの精作で轆轤目はほとんど見えない。施釉は鉛丹(えんたん)を媒熔剤とする低火度釉ながら、釉調から推して摂氏800~850度という比較的高温で焼成され、筆で丹念に塗り分ける日本的手順—まず緑釉、次いで黄釉、最後に白釉で空白を埋める—が採られる。白釉が淡緑を帯びるのは、緑釉用の筆を十分に洗わず続けて用いたためと解釈され、貼付文様を多用する唐三彩と異なり、単純で類型的ながら極めて日本的な施文である。
意匠の基本は「鹿の子斑(かのこふ)」と称する連弧文(れんこもん)を緑釉で段状に重ね、三彩では交点に黄釉を置く方式で、ほかに山道風、線条の流れ釉、麻の葉風などがあり、三彩では緑と黄を半円状に四方連続で塗り分ける。緑釉単色の鉢は外面緑・内面白、椀は内外とも緑、という器種差も一貫して見られる。
正倉院三彩は施釉前に素焼(すやき)〔注:本焼き前の低温予備焼成〕を行っており、その素焼温度が釉薬熔融温度より50~100度ほど高いという特異なプロセスが観察される。二彩大皿や緑釉鉢・黄釉椀に現れる御本(ごほん)〔注:還元で出る桃色斑〕や、二彩供養盤の釉下に顕著な火襷(ひだすき)〔注:素焼時の紐痕の赤条〕が見えることからも、素焼実施が裏付けられる。施釉後は重ね焼きを行い、目痕(めこん)で判別でき、鉢類には三叉トチン、 大皿には王冠形輪ドチン〔注:環状の受台〕を用いる。窯跡は未発見だが、東大寺近傍の官営工房で焼成された可能性が高く、三彩・緑釉はいずれも国産である。
ついで北倉の薬壺・薬椀と中倉の風字硯に触れる。薬壺・薬碗の完存は、消壺(けしつぼ)・戎塩壺(じゅうえんつぼ)・治葛壺(じかつつぼ)各一点、薬壺五点、薬碗二点の計十点で、昭和二年の薬物整理では北倉から須恵器片二十二箇、土師器片一箇が見出され、接合により薬壺蓋四個体、外面に「内」印を押した杯一個体、薬碗口縁片一箇が復元される。
大形の短頸壺である三壺は他の薬壺より作行が優れ、消壺・戎塩壺は典型的な有蓋短頸壺で、胎・焼成・器形から大阪南部の陶邑(すえむら)窯産が確実視される。治葛壺はとくに大形で口縁がラッパ状に外反し、戎塩壺はわずかに外反するが、いずれも陶邑に豊富な同形例があり、同窯産である可能性が高い。他の薬壺五点も口縁の外反・直立、平底無高台など多様だが、蓋の作りから総じて陶邑産と判断され、薬碗・破片群も同様である。ただし「内」印の杯だけは灰白で砂質に富む素地を示し、若干の作行差が認められる。中倉の風字硯は木画文様の六角台座に青斑石をはめた、通例の須恵器製風字硯である。
以上から、正倉院陶器は、北倉・中倉の須恵器群が和泉国(いずみのくに)の陶邑窯などから調貢された外部供給品であるのに対し、南倉の彩釉陶器群は中央の官営工房での製作物という、来歴と機能の差を明瞭に示す体系として理解される。
要約(300〜500字)
正倉院のやきものは、南倉の三彩・緑釉五十七点と、北倉の薬壺・薬碗、 中倉の風字硯を含む須恵器十一点の計六十八点から成り、陶片群を伴う。三彩群はもと羂索院の儀礼調度で、天暦四年(950)に正倉院へ移され、天平勝宝期~神護景雲期の大儀で使用された銘識が残る。素地は交野産と推定される蛙目土系で、右回りの轆轤水挽き・布仕上げ・薄作の精成、800~850度の鉛釉焼成、緑→黄→白の順で筆塗りする日本的施文が特徴で、鹿の子斑連弧文など類型意匠をとる。素焼実施・重ね焼きの窯具痕(三叉トチン・輪ドチン)も確認され、産地は東大寺近傍の官営工房と推定される。一方、薬壺・薬碗・風字硯は陶邑窯など和泉国由来の調貢品で、南倉三彩とは供給と機能の位相が分かれる。
【関連用語】
- 正倉院:東大寺に付属する宝物収蔵施設。南・北・中の三倉構成。
- 三彩/緑釉:鉛釉による多彩・単彩の施釉技法。日本製三彩の代表が正倉院三彩。
- 鉛釉:鉛丹を媒熔剤とする低火度釉。800~850℃前後で焼成。
- 須恵器:還元焼成の硬質無釉陶。薬壺・薬碗・風字硯に用いられる。
- 風字硯:風字形の水溜まりをもつ硯。青斑石を嵌装。
- 羂索院:東大寺の院家。儀礼具が正倉院南倉へ移された。
- 造仏所作物帳:造仏関連の資材記録。交野からの造瓷土搬入を記す。
- 三叉トチン/輪ドチン:三叉支釘・環状受台などの窯具。重ね焼きの支え。
- 火襷/御本:素焼・還元由来の赤条痕/桃色斑。焼成状況の指標。
- 陶邑窯:和泉国南部の須恵器窯群。薬壺・薬碗の主要供給地。
- 東大寺綱封蔵見在納物勘検注文:永久五年の点検記録。三彩の点数・綱封を記す。
- 大仏開眼会:天平勝宝四年の東大寺大儀。三彩器の使用が銘識で判明。

