長次郎解説(4)
長次郎(ちょうじろう)の陶法は、元祖と伝わる唐人「あめや(阿米也)」〔注:来朝したとされる陶工〕に始まり、南中国から当時「交趾支那」と呼ばれた現在のベトナム北部一帯で焼かれた交趾焼(こうちやき)〔注:低火度の施釉陶の系譜〕の流れを汲むのではないか――この見立ては先学の議論を踏まえて妥当と思われます。あわせて、長次郎工房の主な生業が瓦(かわら)焼き〔注:建築用瓦の製造〕だったのでは、という推定もありますが、専業の瓦師(かわらし)であったかは断定できません。
天正二年(1574)銘の「獅子瓦(ししがわら)」〔注:楽美術館蔵と伝える刻銘瓦〕の存在からみて、初期には装飾瓦の製作を引き受け、聚楽第(じゅらくだい)造営の頃にも特注の瓦を納めた可能性はあります。ただし天正十四・十五年(1586–87)以降、「宗易形(そうえきがた)」〔注:千宗易=千利休の好みに基づく器形〕の茶碗を焼き始めてからも、瓦が主業であったかは不明で、むしろ香炉・香合、食器や灰器まで含む茶陶を中核に工房の生業が立っていたと推測されます。
文禄二年(1593)頃、蒲生氏郷(がもう うじさと, 1556–1595)の家臣で白川城主・町野長門守幸和(まちの ながとのかみ ゆきかず)が記した書状には、「天下一ちやわんやき吉左衛門云々」とあり、当時の長次郎工房の一人――おそらく宗味(そうみ)か常慶(じょうけい)――を指すと見られます。ここから、豊臣秀吉から許された「天下一」の称号は茶碗焼師としての評価だったことが明白です。天正十四年から十九年(1586–91)にかけ、茶会記に名の見えるだけでも四十人もの茶人・町衆が長次郎工房の「今焼(いまやき)茶碗」〔注:当世の新作和物茶碗の通称〕を所持し、天正十六年(1588)には山上宗二(やまのうえ そうじ)が当世随一の茶碗と高評しています。茶会記は需要の一端に過ぎず、実際の普及はさらに広かったでしょう。
このように高需要で高付加価値の茶碗制作が主軸であったなら、経済合理性からも瓦生産を並行させる必然性は乏しいはずです。しかも、あれほど心を籠(こ)めた作行き〔注:造形・仕上げのあり方〕の茶碗制作と、瓦の量産を同時進行で維持するのは現実的ではありません。美濃(みの)の窯でも、上等の皿・鉢など日用高級器を基盤に、茶碗や水指(みずさし)などの茶道具は特別注文で賄っていました。これらを踏まえると、長次郎工房が瓦と茶碗を二本柱で営んだとは考えにくく、茶碗師という特異で専心的な職能ゆえに「天下一」を許された、とみるのが自然です。
本文では便宜上「長次郎工房」という現代語を用いますが、古記録に同語が出るわけではありません。ただし宗入(そうにゅう)〔注:楽家後裔。記録を残した〕の文書によれば(初代長次郎が天正十七年〈1589〉に没する以前からかは未詳)、天正~慶長・元和期に少なくとも五~六人が茶碗作りに従事し、彼らの手になる茶碗が「今焼」と呼ばれ、のち「長次郎焼(ながじろうやき)」として伝世しました。ゆえに、長次郎を語る際は「工房」「長次郎焼」と総称するのが妥当です。
伝来の「長次郎作」には作振りの異同が顕著で、一人の作者の手に収まらないのは、二、三十碗を精査すれば誰しも気づくところです。すでに学界でも共有された理解であり、今日「すべて初代の手」と考える人は稀でしょう。むしろ目の前の一碗が、長次郎工房作としていかなる水準にあるか――そこに関心の重心が置かれるべきです。
さて「本当に長次郎が作った茶碗はきわめて少ないのでは」という疑念は新しいものではありません。享保期(1716–1736)には、大坂の豪商・鴻池(こうのいけ)家の祖、山中道億(やまなか どうおく, 1655–1736)が、親交のあった住友吉左衛門友昌(ともまさ)宛書簡でたびたび言及しています。意訳すれば、「本長次郎(ほんちょうじろう)〔注:初代の真作、または真に優れた作の意〕は七つか八つほどで、世に『長次郎極め』とされる多くは光悦(こうえつ)の作、次いで光瑳(こうさ)だ。宗旦(そうたん)でさえ長次郎と書付している」とあります。
さらに別書簡では「真の長次郎は稀である。数年京で評判の茶碗を見尽くしたが、取り違えが多い」とし、ついには「宗旦翁は目利きでなく、随分取り違えをした」と辛辣です。もっとも、道億は「工房作」という概念に至らず、長次郎でないと見たものを光悦・光瑳作と即断した点は、光悦茶碗の実相を十分に知らなかった証左でもあります。宗旦や周辺が「長次郎」と書付した茶碗を私も多く見ましたが、光悦作と断じ得るものはなく、ほとんどが常慶以前の初期楽――すなわち長次郎工房の作とみるのが穏当でした。他方、「本長次郎は七八碗に限られる」という道億の直感は的を射ており、膨大な実見を経て到達した結論でしょう。今日でも初代真作を厳密に確定することは困難で、利休(りきゅう)由緒を伝える碗の中でも、真に「古格」を湛えた本長次郎と首肯できる名碗は多くありません。
要約(300〜500字)
長次郎の技法は、唐人「あめや」を祖とする交趾焼系の低火度施釉陶に連なる可能性が高い。初期に装飾瓦「獅子瓦」を手がけた形跡はあるが、天正14–15年以降は宗易形の茶碗を中心に香炉・香合・食器・灰器まで含む茶陶生産で工房の生業が成立し、豊臣政権から「天下一」の称号を得たのも茶碗師としてであった。需要は茶会記の記録以上に広く、経済合理性・制作負荷の両面からも瓦生産との並立は考えにくい。工房には複数の作者が在籍し、「今焼」と総称された作が後に「長次郎焼」として伝わる。享保期の山中道億は「本長次郎は七八碗」とし、誤認を宗旦にまで及ぶと批判したが、その厳しい実見の眼は、初代真作の希少性という点で今日の理解と通底している。
【関連用語】
- あめや(阿米也):長次郎焼の元祖と伝わる来朝陶工。交趾焼系技法をもたらしたとされる。
- 交趾焼:南中国〜ベトナム系の低火度施釉陶。緑・黄などの釉色を特徴とする。
- 宗易形:千宗易(=千利休)の美意識に基づく器形・寸法の基準。
- 今焼:天正期に新作和物茶碗を指した呼称。のちの楽焼系を含む。
- 楽焼(長次郎焼):轆轤を用いず手捏ね・低火度小窯で焼く茶陶。家印「楽」を捺す。
- 聚楽第:豊臣秀吉の京都邸宅・政庁。工芸需要の中核となった。
- 天下一:秀吉から与えられた最高位称号。ここでは茶碗師の評価。
- 宗味/常慶:長次郎工房の後継・同時期の作り手。今焼の担い手。
- 宗入:楽家後裔。工房の人員・伝来を記した文書を残す。
- 山中道億:享保期の豪商・蒐集家。長次郎真作の希少性を早く指摘。
- 本阿弥光悦:江戸初期の芸術家。しばしば長次郎と混同されたが別系統。
- 千宗旦:利休の孫。書付や伝承が真贋論に影響を与えた茶人。

