現在の稗木場山~窯業指導所

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【原文】[Original text]

現在の稗木場山
 此處の製品も、食器類殊に茶潰茶碗を主として製造され、斯業頗る活気を呈してゐる。然も行通頗る便利にして、三河内驛より一里の道程にあり、近來又道路改築され定期のタキシーは、同驛より内海、中尾方面へ往復しつゝある。好況時代に於いては窯焼十八戸年産額四十萬圓近くを擧げしといはれてゐる。現在戶數百十戸窯焼八戶あり、其重なる者に小柳吉歳、本石權造、中尾倉藏等がある。此地は又優良更生農村として知られ、此處の下波佐見村農業公民學校には四十名の生徒が製陶の實地練習をなしつゝある。

永田山
 之より記事は再び上波佐見に帰り、永田山の古窯跡について述べて見たい。此處は上波佐見村の井石郷にて、中尾山より七八丁を隔てし舊道路の山端である。殘缺には天龍寺青磁の八寸の淺丼にて、其高臺が徑一寸五分許りのものがあり、それが蛇の目積にて、五六個重ねた儘密着せるが反つてゐる。 想ふに此處の青磁物は、軟質胎土を用ひのみでなく、斯くの如く高臺の小さきことも亦不成器の一因であらう。此青磁物には尺口皿や八寸丼などに、浮彫や沈彫の模様があり、或は染附青磁がある。其他薄鼠色の染附磁器には、くらはんか茶碗や、緑二重筆大粗地交猫の小皿などか、蛇の目積にて焼かれてゐる。

中野祐慶
 此處は慶長年間(1596-1615年)藩主大村民部少輔純頼の時、韓人の陶工祐慶の兄弟に依りて閲窯されしといはれてゐる。祐慶は齢化して中野七郎冶工門改稱し、此の中野族が中尾山や、永尾山へも分布せしといはれ、そして川原川内の青磁原料も弥此韓人の發見せしさせらる。

高麗川内
 川原川内は、今の湯牟田郷内海にあり、内海は往年鹿児島の新答院重義が、興業銀行より巨費を借りて金礦を採掘せし、ゴールド・ラッシュの夢の跡にて 其舊事務所の近くに原料地がある。當時韓人の發見せしより、此處を一名高麗川内とも稱せられてゐる。

永田山と三之亟
 皿山始付に「永田山右者中野群兵衛相立申候御代官山口八郎兵衛殿」とある、八郎兵衛の代官時代へ元祿年間(1688-1704年)にて、群兵衛は慶の子孫らしく、之が永田磁器の創業者の如く見らるゝも、此處は既に寛永十二年(1635年)三河内の三之亟が来つて、磁器製作を試みるうち、平戸藩主の命に依って歸山することゝなり事業を此地の小柳吉右工門が継承せしといはれてゐる。故に元祿十年(1697年)より六十餘年以前に於いて既に磁器が製作されしことゝなつてゐる。
 而して別説にては、三之亟は中尾山にて試焼せしの口傅もある。尤も白岳の原料が寛永十一年(1634年)に発見されしさの説に因れば、其翌十二年に三之亟が中尾に来りし理由も首肯されぬこともない。

小柳吉右衛門
 蓋し其高弟となりし吉右衛門が永田山に於いて焼き居りし形跡ありとすれば、勿論此處は中尾山と隣接し、なほ且より舊き開窯地なるを以て、三之亟が白岳の原料を此地に運びて試燒せして推定することか妥當であらう。

永田山の陶器
 兎も角永田山は、村木方面と共に、波佐見陶山中最古の窯跡に相違なく、後年にも其くろ物の破片が発見されてゐる。それは例の灰色釉に鐵描にて草花か描かれ、口には紫色を帯べる塗の徳利があり、或は、建盞の如き美しき釉色を呈せる徳利などがある。又吉右工門作とて紫釉手の煎茶器や、茶出し或はウンスケ(肩張壺形にて肩部に吸子の口があり、佐賀邊にて一名ドグラといふ)等が製作されてゐる。

田別當
 近來發見されしものに、湯牟田鄉の田別當なる、道祖の神(鳥越)と稱するところに古窯の物原がある。此處は折敷郷の堺なる、溪流に沿ひたる東方の山麓にて、前記の諸山に劣らざ古窯跡の如く、今其窯跡を認めざるも、其邊一面に散亂せる破片がある。それには褐色胎土に薄化粧を掛けし、桃色の茶碗や五寸皿があり、或は青灰釉や青茶釉、灰色釉、又は暗色茶釉氷裂出の大茶碗や皿があり。何れも無釉高臺にて、中には全く新月形があり、概して炻器の如く堅緻に焼縮られたのが少なくない。 以上が波佐見焼の山である。

内海
 之より新山に就いて概録せんに、上波佐見村湯牟田郷の内海は、前記の如く往年金礦採掘地として、數百万圓の資本を投し跡さて、人家櫛比し物資の需要に便である。加ふるに一里餘にして有田驛があり、且其市場に近きより、現代の工業經濟の合理化は舊山の窯元をして、漸々此地方に移轉せしむる傾向を生じて来た。そして其工場の如きも頗る活気を呈してゐる。
 内海信山の創業は、今より十六七年前三の股の太田杢太郎此地に開窯せしを始めとし、其後今を去る八九年前中尾山の松尾政また來つて築窯し、次に昭和二年馬場要同じく中尾より来り、何れも盛んに陶煙を繋げてゐる。そして製品の重なるものは酒樽及茶漬茶碗等の食器である。

西の原
 上波佐見村井石郷の西の原は、今より十四五年前中尾山の福重武次郎來つて開窯し、次に昭和七年又同地の中尾善太郎も移轉しつた。
品種は多く食器類なるも頗る優秀なる製品が焼かれてゐる、年産額は二人にて三萬圓位であらう。

金屋東山
 上波佐見村金屋鄉なる東山に、太田政臓が開窯して酒樽及朝鮮向の下手物を製造しつあるが、年産額は一萬圓といはれてゐる。

西山の太田鹿市
 上波佐見村折敷鄉の西山は、明治三十九年より、三の股の太田鹿市が開窯し、今二た登か築窯せられ、新式の諸機械を据付けて此地方模範的の工場が建てられてゐる。製品は重に朝鮮向の下手物なるが、其他食器類の外、近來酒樽をも製作しつゝある。鹿市は朝鮮向製作に就いて濁特の製産力を有し、彼の好況時代には此一工場より年額十九万を産出しが、現今は其四分の一に低下せしとしてゐる。

朝鮮向の種類
 目下の不況は何れの工場とても産額の減少はかれざる中に、又一面韓人生活の向上が、従来の需用器具に變化を來せしことも見遁されぬ原因であらう。元来朝鮮向の日用品として輸出さるゝ重なる種類は、サパル(飯碗)、テイチョープ(大拙とも書く即ち汁碗のこと)及びヨカン(便器)等である。

朝鮮向需要の變化
 而して近來頓みに増加せる本邦人の移住者と、親しく彼等か接觸するに從ひ自然生活風が日本化する傾向を生じ、従來サパルやテイチョーブを使用せし彼等も、漸々本邦人の如き食碗を使用するに至ったのである。蓋しヨカンに至つては、彼地の気候に對する防寒住宅の關係と、そして永代の習慣性として容易く廢す能はざる可しと観られてゐる。
 又朝鮮向の供給地の中、以前は京城、仁川、平爆に於いて選上物が多く販賣され、選下物の仕向け先は、元山、清津、羅山方面と定められしも、近年の不況は何地をも安物の需要盛んとなり、京城でさへ、此選下物が歡迎さるゝ傾向を来したのである。

窯業指導所
 昭和五年上波佐見村井石郷西の原に於いて長崎縣窯業指導所が設立された。之より先き大正九年より長崎商工課に於いて、商工技師横山満をして、窯業技術の指導に任じたりしが陶業地と遠隔せる爲め種々の不便を免れざるを以て、製陶地に指導所を設けて、指導員を出張駐在せしむることゝなつた。


【現代語訳】[Modern Japanese translation]

稗木場山では食器、とくに茶漬用の茶碗を中心に生産が盛んで、交通は三河内駅から一里と至便。道路改良で定期タクシーが内海・中尾方面へ往復する。好況期には窯元十八戸で年産四十万円近く。現在は百十戸のうち窯元八戸で、小柳吉歳・本石権造・中尾倉蔵らが主力。優良更生農村としても知られ、下波佐見村農業公民学校では約四十名が実習している。

永田山(井石郷)の古窯址は中尾山から七〜八丁の旧道沿い。残片には天龍寺青磁系の浅丼(八寸)などがあり、径一寸五分ほどの小さな高台で蛇の目積の重ね焼きの痕が密着変形している。軟質胎の使用に加え高台の小ささも失敗要因だったのだろう。尺皿や八寸丼に浮彫・沈彫、染付青磁、薄鼠の染付で“くらわんか”や粗描の小皿も見える。

慶長期、大村民部少輔純頼の時に韓人陶工・祐慶兄弟が開窯。祐慶はのち中野七郎冶工門と称し、その一族が中尾山・永尾山にも広がり、川原川内(高麗川内)の青磁原料も彼らの発見と伝わる。高麗川内は湯牟田郷内海にあり、かつて新答院重義が興銀資金で金鉱を掘った地で、旧事務所近くに原料場がある。

記録には「永田山は中野群兵衛が起立、代官山口八郎兵衛の時」とあるが、既に寛永十二年(1635)には三河内の三之亟が来て磁器を試み、平戸藩命で帰山後は小柳吉右工門が継承したとされ、元禄十年より六十余年前に磁器が焼かれていた計算になる。別伝では三之亟は中尾で試焼とも。白岳原料の発見(寛永十一年)に続く動きとしても符合する。

高弟の小柳吉右衛門が永田山で焼いた痕跡があり、白岳の石を運び試焼したとみるのが妥当。永田山は村木と並ぶ最古級の窯跡で、後年の黒物片も出土。灰色釉に鉄描の草花、口縁が紫を帯びる徳利、建盞風の美釉の徳利、吉右工門作の紫釉煎茶器・茶出し・“ウンスケ”(肩張壺、佐賀でドグラ)などがある。

近年の発見として、湯牟田郷の田別當(道祖の神・鳥越)に広い物原があり、折敷郷境の沢沿い東麓に厚く遺物が散在。褐胎に化粧掛けの桃色碗・五寸皿、青灰・青茶・灰色・暗茶の氷裂釉の大碗・皿など、いずれも無釉高台で新月形も見られ、堅緻な炻器質に焼き締まっている。以上が波佐見の諸山である。

内海は往時の金鉱景気の名残で家並み密集、物資流通も良く、有田駅まで一里余と市場近接のため、旧山の窯元が次々移転する傾向が強まり工場は活況。創業は十六〜十七年前、三の股の太田杢太郎の開窯に始まり、八〜九年前に中尾の松尾政また、昭和二年に馬場要が続き、主に酒樽や茶漬碗を作る。

西の原(井石郷)は十四〜十五年前に福重武次郎が開窯し、昭和七年に中尾善太郎も移転。食器中心ながら出来は優れ、二人で年三万円ほど。金屋郷の東山では太田政蔵が酒樽と朝鮮向けの下手物を製し、年約一万円。折敷郷の西山では明治三十九年から太田鹿市が近代設備の模範工場を営み、朝鮮向け下手物を主としつつ食器・近年は酒樽も生産。好況時は年十九万円を出したが、現在は四分の一程度。

朝鮮向け日用品はサパル(飯碗)、テイチョープ(汁碗)、ヨカン(便器)が主。日本人移住と交流で生活様式が日本化し、サパル等から日本式食碗への需要転換が進む一方、ヨカンは気候・住居事情と慣習で容易に減らない。供給地では、かつて京城・仁川・平爆が上物、元山・清津・羅山が下物の販路だったが、不況下では各地で廉価品志向が強まり、京城ですら下物が歓迎される傾向にある。

昭和五年、井石郷西の原に長崎県窯業指導所を設置。大正九年から横山満が商工課で指導していたが産地から遠く不便のため、現地常駐の体制に改められた。


【英語訳】[English translation]

Hiekobayama today focuses on tableware—especially bowls for chazuke—and the trade is lively. It lies one ri from Mikawachi Station; improved roads and a regular taxi now link the station with Utsumi and Nakao. In boom years there were 18 kilns with nearly ¥400,000 in annual output; now 110 households with 8 active kilns led by Koyanagi Kichitoshi, Motoishi Gonzo, and Nakao Kurazō. The district is known as a model “rehabilitated” farm village; about 40 students at the Shimohasami Agricultural Civic School do hands-on ceramic training.

At Nagatayama (Iishi-gō), an old kiln site stands 7–8 chō from Nakao-yama. Shards include Tenryū-ji–type shallow celadon bowls (8 sun) with tiny footrings (~1 sun 5 bu) that stuck together from janome-zumi stacking—evidence that a soft body and small feet caused failures. Relief and intaglio designs appear on 1-shaku plates and 8-sun bowls; there is celadon with sometsuke, and gray-toned sometsuke such as kurawanka bowls and roughly brushed small plates.

During Keichō, under Ōmura Minbu-no-shō Sumiyori, Korean potters—the brothers of Yūkei—opened kilns. Yūkei later styled himself Nakano Shichirōyae-kamon; the Nakano group spread to Nakao-yama and Nagao-yama and is credited with finding celadon ore at Kawaragawa-uchi (a.k.a. Koraigawauchi) in Utsumi, Yumuta-gō—the former gold-rush site developed by Shintōin Shigeyoshi with Industrial Bank funding.

A record says “Nagatayama established by Nakano Gunbē under Daikan Yamaguchi Hachirōbē” (Genroku era), yet by Kan’ei 12 (1635) Mikawachi’s Sannojō had already come to attempt porcelain; recalled by the Hirado lord, his work was continued by Koyanagi Kichiuemon—hence porcelain predates Genroku 10 (1697) by 60+ years. Another tradition places Sannojō’s trials at Nakao; given Shiratake ore was found in Kan’ei 11 (1634), a 1635 visit is plausible.

If Kichiuemon—his advanced disciple—worked at Nagatayama next to Nakao, it is reasonable that Sannojō brought Shiratake stone there for tests. Nagatayama, with Muraki, is among Hasami’s oldest kiln sites; later black-ware shards include gray-glazed iron-painted florals, purple-rim tokkuri, Jian-tea-bowl–like lustrous tokkuri, and pieces signed “Kichiuemon”: purple-glazed sencha sets, chadashi, and unsuke jars (shouldered jars with a spout, called dogura in Saga).

Recently, a wide dump of kiln refuse was found at Tanabettō (Dōso-no-kami/Torigoe) in Yumuta-gō, along the eastern foothill at the Orishiki border: pink-washed brown-body bowls and 5-sun plates; blue-gray, blue-brown, gray, and dark-brown crackle glazes on large bowls and plates—all with unglazed feet, some crescent-shaped, many vitrified to stoneware hardness.

Utsumi, once a gold-mining boomtown, stands just over a ri from Arita Station and near its market; rationalized modern economics have drawn old-hill kilns to relocate here, and factories are vigorous. The “new hill” at Utsumi began 16–17 years ago when Ōta Mokutarō of Sannomata opened a kiln; 8–9 years later Matsuo Masa-mata from Nakao built another; in Shōwa 2, Baba Kaname arrived—focusing on sake casks and chazuke bowls.

At Nishinohara (Iishi-gō), Fukushige Takejirō opened a kiln 14–15 years ago; in Shōwa 7, Nakao Zentaro moved in. Mostly tableware, of fine quality—about ¥30,000 yearly for the two. At Higashiyama (Kanaya-gō), Ōta Masuzō makes sake casks and lower-grade wares for Korea (~¥10,000). At Nishiyama (Orishiki-gō), Ōta Kaichi has operated since Meiji 39, with two nobori kilns and modern machinery—a model plant—producing chiefly Korean-market utilitarian ware, plus tableware and recently sake casks; peak output reached ¥190,000, now roughly a quarter.

Exports to Korea center on sapal (rice bowls), teichōpu (soup bowls), and yokan (chamber pots). As Japanese settlers increased and contact deepened, daily life became Japanized: Koreans gradually adopted Japanese-style rice bowls, though yokan persists due to housing/climate and long custom. Formerly, high-grade goods sold in Keijō, Incheon, and Pyong—while lower grades went to Wŏnsan, Ch’ŏngjin, and Rasan. In the slump, cheap goods sell everywhere—Keijō included.

In Shōwa 5, Nagasaki Prefecture founded the Ceramics Guidance Station at Nishinohara, Iishi-gō. Since Taishō 9, engineer Yokoyama Mitsuru had offered guidance from the prefectural office, but distance from the kilns proved inconvenient; the new station places instructors on site.


【中国語訳(現代語訳から簡体字)】[Chinese Simplified from Japanese]

稗木场山以餐具为主,尤以茶泡饭碗旺销。距三河内站一里,路改后有定期出租往返内海与中尾。繁荣期18窑年产近40万日元,今有8窑,主力为小柳吉岁、本石权造、中尾仓藏。作为优良更生农村,下波佐见村农业公民学校约40名学生进行现场实习。

永田山(井石郷)旧窑址在中尾山外七八町。残片多见天龙寺式浅丼,高台小且蛇目堆叠致粘连,软胎与小高台皆致失败。尺盘与八寸丼有浮雕、沈雕与染付青瓷,灰鼠染付的“くらわんか”与粗笔小皿亦见。

慶长期韩人陶工祐庆兄弟开窑,祐庆后称中野七郎冶工门,一族分布至中尾山与永尾山,并发现高丽川内(湯牟田郷内海)的青瓷原料。永田山据载由中野群兵衛起立(代官山口八郎兵衛时),然寛永十二年已由三之亟来试制磁器,小柳吉右工门继承,故磁器早于元禄十年数十年。

小柳吉右卫门或在永田山烧造,推其将白岳石运至此试烧。永田山与村木为最古级窑址,后出黑物碎片:灰釉铁绘、紫口德利、建盏风德利,亦有“吉右工门”款紫釉煎茶器、茶出、肩口壶“ウンスケ(佐贺称ドグラ)”。

湯牟田郷田別當(道祖神·鸟越)近年发现大面积窑垃圾:化妆土桃色碗与五寸皿、青灰/青茶/灰/暗茶裂纹釉大碗与皿,皆无釉高台,见新月形,多呈致密炻器。

内海因靠近有田站与市场,旧山窑元陆续迁入,工场活跃。近十六七年前三の股太田杢太郎开窑,后有松尾政また、昭和二年馬場要相继,主制酒樽与茶泡饭碗。

井石郷西之原由福重武次郎开窑,昭和七年中尾善太郎迁来,二者年产约三万元。金屋郷东山太田政藏制酒樽与朝鲜向下手物,年产约一万元。折敷郷西山太田鹿市自明治三十九年设近代化模范工场,朝鲜向为主,兼作食器与酒樽;盛时十九万元,今约四分之一。

朝鲜向主品为サパル(饭碗)、テイチョープ(汁碗)、ヨカン(便器)。随日本人移住、接触加深,生活日本化,饭碗需求转向日本式;唯ヨカン受气候与住宅及习俗影响仍难减。昔日京城・仁川・平爆销上物,元山・清津・羅山销下物;近来不况,各地趋廉价,京城亦然。

昭和五年于井石郷西之原设长崎县窑业指导所,以取代远距指导,派员常驻产地。


【中国語訳(現代語訳から繁體字)】[Chinese Traditional from Japanese]

稗木場山以餐具為主,尤以茶泡飯碗興盛。距三河內站一里,道路改善後有定期計程車往返內海與中尾。繁榮期18窯年產近40萬日圓,今有8窯,小柳吉歲、本石權造、中尾倉藏為主力。作為優良更生農村,下波佐見村農業公民學校約40名學生進行實習。

永田山(井石郷)舊窯址在中尾山外七八町。殘片見天龍寺式淺丼,高臺小且蛇目堆疊致黏連;軟胎與小高臺皆為失敗因。尺盤與八寸丼有浮雕、沈雕與染付青瓷,灰鼠染付“くらわんか”與粗筆小皿亦見。

慶長期韓人陶工祐慶兄弟開窯,祐慶後稱中野七郎冶工門,一族分布至中尾山與永尾山,並發現高麗川內(湯牟田郷內海)青瓷原料。記載言永田山由中野群兵衛起立(代官山口八郎兵衛時),然寛永十二年三之亟已來試製磁器,小柳吉右工門承續,故磁器早於元祿十年數十年。

小柳吉右衛門或在永田山燒造,推其運白岳石至此試燒。永田山與村木為最古級窯址,後出黑物片:灰釉鐵繪、紫口德利、建盞風德利,亦有「吉右工門」款紫釉煎茶器、茶出、「ウンスケ」(佐賀稱ドグラ)。

湯牟田郷田別當(道祖神・鳥越)近年見大面積窯垃圾:化妝土桃色碗與五寸皿、青灰/青茶/灰/暗茶裂紋釉大碗與皿,皆無釉高臺,有新月形,多呈緻密甎器質。

內海靠近有田站與市場,舊山窯元相繼遷入,工場活躍。十六七年前三之股太田杢太郎開窯,其後松尾政また、昭和二年馬場要繼至,主製酒樽與茶泡飯碗。

井石郷西之原由福重武次郎開窯,昭和七年中尾善太郎遷來,二者年產約三萬圓。金屋郷東山太田政藏製酒樽與朝鮮向下手物,年產約一萬圓。折敷郷西山太田鹿市自明治三十九年設近代化模範工場,主供朝鮮向,兼作食器與酒樽;盛時十九萬圓,今約四分之一。

朝鮮向主品為サパル(飯碗)、テイチョープ(汁碗)、ヨカン(便器)。隨日本人移住與交流增,生活日本化,飯碗轉向日本式;惟ヨカン受氣候、住宅與習俗影響仍難減。昔日京城・仁川・平爆售上物,元山・清津・羅山售下物;近年不況,各地偏好廉價,京城亦然。

昭和五年於井石郷西之原設長崎縣窯業指導所,改由產地常駐指導。


【中国語訳(英語から簡体字)】[Chinese Simplified from English]

稗木场山以餐具(尤茶泡饭碗)为主,距三河内站一里,道路改善与定期出租提升流通。繁荣期18窑近40万元产出;今8窑。永田山旧窑距中尾七八町,残片显示软胎与小高台致蛇目堆叠粘连,见浮/沈雕、染付青瓷与“くらわんか”。

慶长时韩人祐庆兄弟开窑,其族扩至中尾山、永尾山,并发现高丽川内原料。记载称中野群兵卫起立永田山,但1635年三之亟已试制磁器,小柳吉右工门延续,故磁器早于元禄十年数十年。

Utsumi邻近有田站与市场,旧窑迁入,工厂活跃。西之原两窑年产约3万元;东山年约1万元;西山现代化工场峰值19万元,今约四分之一。对韩出口以sapalteichōpuyokan为主;日本化带动改用日式饭碗,yokan受气候与习俗影响仍存。昭和五年设窑业指导所,常驻指导。


【中国語訳(英語から繁體字)】[Chinese Traditional from English]

稗木場山主產餐具(尤茶泡飯碗),距三河內站一里,交通改善。繁榮期18窯近40萬元;今8窯。永田山舊窯距中尾七八町,殘片示軟胎與小高臺致蛇目堆疊黏連,見浮/沈雕、染付青瓷與「くらわんか」。

慶長時韓人祐慶兄弟開窯,其族擴至中尾山、永尾山,並發現高麗川內原料。記載稱中野群兵衛起立永田山,然1635年三之亟已試製磁器,小柳吉右工門承續,是以磁器早於元祿十年數十年。

內海鄰近有田站與市場,舊窯遷入,工場活躍。西之原兩窯年產約3萬元;東山約1萬元;西山現代化工場峰值19萬元,今約四分之一。對韓出口以sapalteichōpuyokan為主;日本化帶動改用日式飯碗,yokan因氣候與習俗仍存。昭和五年設窯業指導所,產地常駐指導。